耀変の小宇宙(閑人亭日録)

 北一明の耀変茶盌を鑑賞していると、黒を基調とした色調に、不意に煌めく光彩が浮かぶ。その銀河星雲を連想させる耀変現象は、掌(てのひら)に開く小宇宙と呼びたくなる。漆黒の深みから一瞬にして銀河星雲のような光景が出現する。この驚きを文章で表現したいと何年も試みているが、未だに納得できるものはない。他の人の文章も、これは凄いと感銘する表現には、僭越だが出合えていない。窯変~曜変~耀変と劇的に進化した焼成技法をうまく言い表す文章表現はないものか。
 二十代、東京の西洋美術館、近代美術館、国立博物館ブリヂストン美術館出光美術館等へ足繁く通った。主に西洋美術を見て回った。陶芸作品にはさほど興味を覚えなかった。旧弊たる伝統芸といった認識しかなかった。どこが面白いのか。それが北一明を知って陶芸にも関心を抱き始めた。彼の言っていることは山師か香具師か、そんな類ではないか、と訝しく思った。が、彼の陶芸作品は、他の陶芸家のものとは毛色が全く違っていた。静嘉堂文庫美術館大阪市立東洋陶磁美術館等へ足を運んで国宝、重要文化財の茶碗や花瓶を鑑賞した。私の特に心惹かれた三作品。
 青磁茶碗 銘『馬蝗絆(ばこうはん)』東京国立博物館
  https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=TG2354
 『油滴天目茶碗』静嘉堂文庫美術館
 https://www.seikado.or.jp/collection_index/collection05/#category-title
 『飛青磁 花生』大阪市立東洋陶磁美術館
 https://jmapps.ne.jp/mocoor/det.html?data_id=24
 瞠目する日本の陶芸作品は、MOA美術館なども訪問したが、収蔵品では見当たらなかった。中国陶磁器は、朝鮮、西洋そして日本の陶磁器とは格が違う、と痛感。
 北一明は青磁作品は手掛けなかったようだ。白磁作品には茶盌、酒盃がある。それには淡い呉須で漢字(人生夢幻、心)が流麗に書かれている。じつに美しい。

熱闘 審美書院(閑人亭日録)

 ヤフー・オークションに審美書院の美術本が二点出品された。初値は一千円。昨夜の九時と十時が終了予定。
 『日本名画百選』全2冊揃は93件入札、二時間延びて23時12分終了、70,000円。
 https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/s1133456542
 『支那名画集』全2冊揃は129件入札、日を越して終了、137,111円。
 https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/e1133459687
 入札を追わずにとっとと寝てよかったわあ。それにしても騰がり過ぎ。熱い闘いだったようだ。私ならさっさと降りる。いつだったか、審美書院『浮世絵派画集』全五冊も高騰。そんなに騰がってどうするの? 審美書院の出版物に興味はあるが、『浮世絵派画集』『支那名画集』は興味がなく、もっていない。すべての本を蒐集するというのは、物欲に取り憑かれた行為だと思う。研究者ならば必要不可欠かもしれないが。私のような市井の愛好者は、完集には縁がない。それにしても、審美書院は熱い。
 七万円・・・一般画家が貸画廊でつける一枚の絵の希望小売価格に較べて何と割安なのだろう。美術画集という本の形態があまりに安く見られている。本に挿入された緻密極まりない古典作品の複製多色摺木版画が何点もある画集が、七万円とは。彼我の価値観の隔たりを痛感。

驚心 響心(閑人亭日録)

 昨日、響震という造語が北一明の作品から浮かんだが、語呂合わせのように、響心という造語が浮かんだ。心に深く響く絵・・・それは味戸ケイコさんの絵。優れた美術作品は鑑賞者の心に響く。味戸ケイコさんの画集『かなしいひかり』講談社1975年刊に出合って半世紀ほど。最初の衝撃は今もって生々しく思い出される。「こんな凄い心惹かれる絵があるんだ!」。未知の絵画との遭遇。人生を方向づけた一冊の画集。驚き、心が様々に反響し合う。驚心そして響心。画集との出合いから十年、1985年の夏、銀座から少し離れたギャラリーさんようでの初個展で味戸さんに初めてお目にかかった。気に入った絵を二点購入。それから東京での個展には多分全部行った。作風は少しずつ変わっていった。初期の絵により惹かれるな、と思った。けれども新作を購入したこともあった。今顧ると、初期とその後とは作風はたしかに変化しているが、それは画家にとっては当たり前のこと。その画風が人気だから、と初期の画風に固執していれば、マンネリ化は免れない。そしてファンからは飽きられる。味戸さんは決して器用な画家ではない。愚かにも今にして気づくのだが、作風の変化は、味戸さんの人生の変転の反映として現れている、ように感じられる。時代が変わるように味戸さんも変わっていく。それが当たり前、何ら不思議ではない。作風は少し変化しても、味戸ケイコの絵の本質的魅力は変わらない。時を措いて鑑賞すると、衝撃を受けた初期の絵と後年の絵の緩やかな拡がりと静かな深まりに気づく。最近の絵に絵画の風格をさりげなく感じる。初期の鋭く瑞々しい魅力。人生を歩んできた後年の緩やかな芳醇。味戸さん自身は気づかないだろうが、そこに他の画家では描き出せない独自の品位、芳しさが感じられる。密やかに響心を呼び起こす、何とも得難い作風だ。

響震 震撼(閑人亭日録)

 昨日、公開するのを忘れていた。
 言葉遊びを考えた。共鳴 共振 強振 響振 驚振。音楽を聴くとき、心身が共鳴、共振して感動へ誘われることがある。その体験を拡張して強振 響振 驚振と段階をつけてみた。強振は興奮を呼び起こす演奏。響振は心に深く響く演奏。そして驚振は驚愕する、今まで聴いたことない演奏。トリに控えるのは強震。地震の用語である強震は、聴き手の心底から深々と揺さぶる(強震)独創的な演奏。地面が突然揺れるように、地殻変動を来す演奏。音楽という音の表現は、音の強弱がはっきりしている。音のない美術表現では、鑑賞者への心理的効果を色彩と造形によってまずは、表現が無音状態で成立するのが第一の前提となっている。無音と言っても、その作品から妙なる音楽が聞こえてくるような作品も、あるにはある。絵画をはじめとする美術作品には、美しい旋律、ハーモニー、リズム、ビートがびしびしと響いてくる作品は、実はかなりある。音楽演奏と美術作品とは、鑑賞者の心では一つにつながっている、いや、一心同体ではないか、と思う。共通感覚か。昔読んだ中村雄二郎『共通感覚論』岩波書店を思い出す。が、それとは違う気がする。再読していないので未確認。
 北一明の耀変茶盌を手にして鑑賞する。音楽が聞こえてくる気がする。気がするだけだが。それは光の当たり具合によって釉薬の色彩が多耀に激変するからだろう。そして彼の言う「乳頭」(釉垂れ)が印象をより深くする。変幻自在の音楽を連想させるとも言える。それはけれども音楽と違って無音の変奏。絵画とも違って手の直接的な筆触でもない。プロパンガス窯の炎による焼成を科学的に実験、検証し、遠隔操作によって火焔を制御し、そうして創造された驚嘆すべき芸術作品。焼成の苦心を微塵も感じさせない、瞬時に次々と変耀する茶盌の光彩。その息を呑む変幻、玄妙たる遊色は、響震という造語を私に生ませる。そしてそれは焼成表現における美の創造が惹き起こす地殻変動の震撼を、いつか陶芸界に及ぼすだろうと一人思う。あるいは北極星のような位置。
 「北一明展」を何年か先に開催したくなった。「世界を魅了した陶芸術・耀変 北一明展」といった題かな。相応しい会場が見つからないが。

甘味処「銀月」(閑人亭日録)

 昨日話題にした甘味処「銀月」についてドイツ文学者の種村季弘(すえひろ)氏がエッセイ集『晴浴雨浴日記』河出書房新社1989年3月28日初版発行に書いている。

《 竹倉の富士山
  某月某日
  三島の修善寺広小路駅前に、三島名物のうなぎ屋「桜家」がある。その真前に、これも三島名物の団子屋「銀月」がある。その銀月のほうに朝七時の開店そうそう、きまってお団子とお赤飯を買いにくるおばあさんがいる。
  おばあさんはお団子とお赤飯が大好きなのだ、といってしまえばそれまでである。しかし毎朝のように、それも開店そうそうシャッターのあくのを待ってまで、お団子とお赤飯というのは、これは尋常なことではない。これにはなにか深いわけがあるのにちがいない。
  銀月の若主人、越沼正さんはかねてそう考えていた。そこへある日、おばあさんが問わず語りにお団子とお赤飯の使い道を打ち明けてくれたのであった。
  「お団子はおやつですよ。これが大好きでな。お赤飯かな。これはお弁当。竹倉温泉でお昼にいただくのですよ」
  なんでもおばあさんは、銀月前からバスにのって「竹倉温泉」に行き、そこで温泉につかり、お団子を食べ、お昼になるとお赤飯の弁当を食べてまた温泉につかり、そして暗くなった頃にまたバスで三島に帰る。そういう日常をくり返しているのであるらしい。そのスタート点が広小路銀月なのであった。 》 77-78頁

死後の評価に委ねる(閑人亭日録)

 昨日の身体の何ともぎこちない動きを見て、会長を離任する意向に納得されたのだろう。午後のうたたねの後、身体が楽になった昨晩、夕食を美味しくいただいた後、思わぬ疲れがどっと出た。十時間余り寝た。緊張感が緩むとはこんなことか、と我ながら驚いた。思えば三十年、よくやってきた、と自らを労う。こういう気持ちは・・・自分しかわからないだろう。それでいい。人を動かすということは、人にいかに気軽に動いてもらえるかを常に考えること。顧みれば商売(甘味店)を営んでいた四半世紀、従業員のやりたくない作業(排水の掃除など)は、毎週自分が行った。源兵衛川のゴミ拾いも同じ。ゴミ袋の用意とゴミの処理は私の仕事。参加者は川に入ってゴミを拾うだけ。以下、店の回顧点描。
 1973年10月1日、父の急死で甘味処「銀月」(団子とラーメン他)を急遽引く継ぐ羽目になって経営を考えた。やりたくない店を繁盛させて閉めるにはどうしたらいいか。
 出入りの食材業者には「良いものをくれ」と言うだけ。食材の代金は現金で即金払い。
 従業員の給料は、全国平均額より五割ほど多く渡す。会計帳簿には全国平均金額を記入。
 商品の製造過程は従業員の誰もが見ることができる。
 汚れ作業は私がする。
 そんなことをして売り上げはずっと右肩上がり。1997年1月15日閉店。1997年6月1日、K美術館、地味に開館。これからは一日一日が勝負ではなく、数十年先を見通しての勝負。味戸ケイコ、北一明ら私の高く評価する美術作品が、お宝になるかただのゴミかは、歳月=私の死んだ後にわかるだろう。死後の評価に委ねる、と小声で宣言した。
 http://web.thn.jp/kbi/

肩の荷が下りる(閑人亭日録)

 午前十時、小雨の中、源兵衛川最下流部へ歩いていく。グラウンドワーク三島の専務理事、中郷(なかざと)用水組合の理事長らと合流。川を遡りながら、今年の作業(土砂の浚渫、雑草の駆除など)の手順を一つ一つ取り決める。終了後、専務理事に源兵衛川を愛する会の会長を離任の意向を伝える。世代交代の時期。彼は理解を示す。ずっと立ちっぱなし。くたくたになって昼前帰宅。肩の荷が下りた。