NHKテレビテキスト『内村鑑三 代表的日本人』を読んで。

内村鑑三『代表的日本人』は西郷隆盛上杉鷹山二宮尊徳中江藤樹日蓮を取り上げた英語の書である。NHKテレビテキスト『100分で名著 内村鑑三 代表的日本人』を読んだ。

原型は1894年の『日本及び日本人』で、その人物論のみの改版として1908年に出版されたのが『代表的日本人』である。他者の伝記のかたちをした内村鑑三の精神的自叙伝でもある。1894年の講演録『後世への最大遺物』の下巻的位置づけだ。

アメリカの哲学者・エマソン『代表的人間像』ではプラトン、スエーデンボルグ、モンテーニュシェイクスピア、ナポレオン、ゲーテの6人を取り上げている。それに倣ったものだ。

内村鑑三の思想。

  • 人間の生涯とはこの世だけのものではなく、死んだ後も持続する。人間は永遠なる存在である。
  • 人間が何かをするのではなく、人間は無私になって天の道具になるのがもっとも美しい。
  • 使命は一人の個人で完成されることはなく、必ず受け継がれる。「私」の使命ではなく、「私たち」の使命である。
  • 人間における「樹木的成長」。種は光と水と時の力が加わって。いずれ木になる。果実を食べた者がその木が何であるかを知る。
  • 人生とは業績ではなくて、その過程すなわち生きる事への態度におてのみ測られる。
  • 「生涯」はいつも個に始まり、個には終わらない営み。未知の他者とともに創造的な営みに従事する。

私たちには、自分の生涯を書くことができます。さらに私たちは自分の「代表的日本人」を書くことができます。書かれた言葉は読まれることによって完成に近づき、さらに書かれることによって変貌していきます。

「余の愛する者は生涯の目的を達せし者なり。彼の宇宙は小なりき。されどもその小宇宙は、彼を霊化し、彼を最大宇宙に導くの階段となれり」(「キリスト信徒のなぐさめ」)。ここでいう「彼」は内村は妻のことを言っているのだが、それは「真面目なる生涯」を送った人々のことである。

さて、私が「幸福塾」で始めた「新・代表的日本人」シリーズと、「図解塾」で始めた「図解ジャパン」プロジェクトを合わせて、「日本・日本人」が究極のテーマとなったのだが、それは日蓮中江藤樹上杉鷹山二宮尊徳西郷隆盛を100年前に内取り上げた内村鑑三の後を継いでいることになることを発見した。この代表的日本人たちは、孔孟の教えを代表とする中国の影響を多分に受けている。つまり東洋思想を体現した人物たちなのだ。

そして内村と同じように、近現代を対象とする「新・代表的日本人」シリーズとその基礎資料となっている「名言との対話」は、私の自伝的、精神的要素も含んでいる。内村鑑三は私の先達である。

この学びは、内村が参考にしたエマソンの『代表的人間像』につながっている。日本人の研究が西洋のプラトン、スエーデンボルグ、モンテーニュシェイクスピア、ナポレオン、ゲーテという西洋の歴史に登場する偉大な人間像につながっているのだ。

「使命は一人の個人で完成されることはなく、必ず受け継がれる。「私」の使命ではなく、「私たち」の使命である」という内村鑑三の言葉の通りだ。

東洋と西洋の人類全体の人物と思想、人間の生き方の研究の流れの中に今の私の日々があることを認識するいい機会になった。

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朝:寺島さんから電話:近況の交換。近々、会うことになった。

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「名言との対話」4月23日。岡江久美子「人と関わるだけで、自分が生きてる証が残っていく」

岡江 久美子(おかえ くみこ、1956年昭和31年〉8月23日 - 2020年令和2年〉4月23日)は、日本女優タレント司会者

東京都出身。1975年、18歳TBSドラマ『お美津』でデビュー。1978年から5年間、『連想ゲーム』の赤組」レギュラー解答者。白組のレギュラー解答者の大和田獏と結婚。

1991年から1999年の『天までとどけ』では母親役を演じた。

1996年から2014年までの17年半、朝の『はなまるマーケット』の総合司会を薬丸裕英と二人でつとめ、全国に知られる。放送ウーマン賞を受賞。

2020年4月3日、新型コロナの疑いを受ける。6日、容態が急変。集中治療室に入り人工呼吸器を装着。8日、PCR検査で陽性。23日に死去。6日から17日間、家族は接触はできなかった。全国的に顔を知られた女優の新型コロナによる63歳の死のニュースは、衝撃を与えた。

その一月前の2020年3月29日に新型コロナでコメディアンの志村けんが亡くなった。1950年生まれの志村の場合は3月15日から体調に異変があり、陽性と判断されてエクモを装着するも29日に亡くなった。新型コロナによる70歳の志村けんの死去は国内外に衝撃を与えた。

志村と岡江の二人の死は、新型コロナの恐怖を身近にした。その後、2020年には経済界も含めて数人の著名人が亡くなったが、それ以降は死因は明らかにされていないようで、調べてもわからなかった。報道上の配慮があったのだろう。

私の母の場合は、ワクチンを打って数日後に体調が急変し、その10日後の2021年6月21日に94歳で亡くなった。死因は別のものだったが、私は今でもワクチンの影響だったのではないかと疑っている。

健康オタクであった岡江久美子は、明るい性格と人懐っこい笑顔が印象的な女性だったが、新型コロナによるごく初期の感染による死亡であったため、その名前が国民の記憶に象徴的に深く刻まれることになった。

 

 

 

 

竹内宏『「元気」の経済学』を再読ーー40年前の日本の姿と現在の日本の予測。その結果は?

竹内宏『「元気」の経済学』(PHP)を再読。

1986年10月6日刊行の本だから、もう38年前だ。バブル期(1986年12月ー1991年2月)へ向かう直前である。副題は「低成長時代の新たな活力とは」だ。

著者は日本長期信用の常務取締役調査部長で、『路地裏の経済学』などの著書で有名な経済学者で、ビジネスマンに人気があった。2016年に亡くなっている。

竹内宏の日本についての問題意識と将来の見通しと解決案を眺めてみる。

  • 日本経済:1986年時点:4%という低成長。GNPは300兆円(世界GDPの16%ー1988年)1所帯当たりの平均資産額は3000万円で内訳は、土地1500万円。家900万円。金融資産600万円。国債残高は140兆円でGNPの半分、一人当たり130万円。「日本は財政破綻国になってしまう」(名目GDP591兆円。国債残高がGDPの2.64倍。GDPは世界の4%)
  • 高齢化社会:1986年時点:平均寿命は男74.5歳、女80.1歳。出生率は1.8人。65歳以上と労働力人口の比は1:7.5。2020年には1:1.5になる。「想像を絶するような高齢化社会が到来。不安で不気味な社会が近づいてくる」。(人生100年時代の掛け声)
  • 年金は月18万円。標準月給の70%。60歳以上の貯蓄は1000万。「30年後には年金は完全に破産、支給年齢は遅くなり、支給額も減るだろう」。(65歳からの支給。マクロスライド方式で支給額は徐々に減っていく)
  • 低成長で変化のない時代には、「地域のコミュニティで生きがいを見つけようとする」。高齢者の好きなのは旅行。アジア旅行が適している。

打開策の提言:ロボット。老老介護。3世代同居。親子関係を変える(教育費を出さない。住宅は子どもに月賦販売)。外国人労働者の受け入れ。出生率を高める工夫。

「以上が実施できなければ、所得の50%が税金になり、勤労意欲の減退と反乱が発生する。日本社会のモラルや特質が根本的に変わらざるを得ないかも知れない」。

元気のある国について。

  • アメリカ:左右に激しく揺れてもバラスを失しない。世界の叡智が結集するダイナミックな国。多民族国家は活力がある。(新しい技術でトップの地位を保持。2024年IMF予測:日本の7倍の経済力)
  • イギリス:ジョンブル精神は健在。しぶとい国。(GDPは米中独日印に次ぐ6位)
  • ソ連:最も工業化に成功した国。中進国となったが限界。ことによるとソ連は取り残されるかもしれない。(数年後のソ連の破綻の予言が的中。ロシアはGDP世界11位)
  • 中国:目をみはるような成長。チベットに達するには100年か200年かかるかもしれない。(世界第2位の経済大国になった。日本の4.5倍の経済規模)
  • 韓国:納期の短さと正確さが強み。日本の昭和30年代に似ている。(GDPは世界14位。一人当たりGDPは日本を越えた)

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「アクティブ・シニア」の企画。5月の「名言との対話」の人選。図解塾の準備

夜:デメケン。「アクティブ・シニア革命」打合せ。言葉の力塾の打ち合わせ。

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船戸与一 写真 に対する画像結果

船戸 与一(ふなど よいち、1944年2月8日 - 2015年4月22日)は、日本小説家。享年7
早稲田大学法学部卒業。在学中は探検部に所属。第三期生だった。アラスカのエスキモーを訪問し、本名で共著『アラスカ・エスキモー』を刊行している。 小説家の西木正明は探検部の先輩である。
出版社勤務などを経てフリーに転身し、1979年に『非合法員』で小説家デビュー。主に冒険小説の分野で高い評価を獲得している。主な受賞歴に吉川英治文学新人賞(『山猫の夏』)、日本推理作家協会賞(『伝説なき地』)、山本周五郎賞(『砂のクロニクル』)、直木三十五賞(『虹の谷の五月』)、日本冒険小説協会大賞など多数。
著書には「砂のクロニクル」「海燕ホテル・ブルー」「虹の谷の五月」「祖国よ友よ」「非合法員」「夜のオデッセイア」「群狼の島」「山猫の夏」「銃撃の宴」「神話の果て」「カルナヴァル戦記」「猛き箱舟」「伝説なき地」「メビウスの時の刻」「緑の底の底」「かくも短き眠り」「黄色い蜃気楼」「午後の行商人」「龍神龍神一三番地」「緋色の時代」「三都物語」「河畔に標なく」「降臨の群れ」「藪枯らし純次」などがある。
私が読んだ『虹の谷の五月』は、1998年から2000年までの、フィリピン人と日本人の混血の主人公が13歳から15歳までのフィリピン・セブ島を舞台にした物語だ。船戸は冷戦構造の崩壊によって物語が書きにくくなったと言い、新たな冒険小説を書こうとした。主人公を幼い少年に設定して書き終えて、小説への新たな闘志が健在であることを確認し、次のステージに向かっていく。その転機の作品に2000年の直木賞が与えられた。
船戸与一の若い人へのアドバイスがいい。

・主体的に生きてもいいけれど、何も考えずに世間が命じるままに生きてもいい。向いている仕事なんて、実はない。そんなもの、自分ではわからないんです。私だって今でも向いてないと思ってるんだから。それよりも目の前のことに誠実になることです。そこから始めたらいいんです。

・もし若いときに旅をしなかったら、くたばる前にどんな思い出話をするのか。もっと人生を楽しむことを考えたほうがいい。

早稲田大学探検部の初期メンバーの船戸与一の「旅をせよ」という発言には、探検部で鍛えらえた私は共感を覚える。冒頭の言葉では「若いとき」と言っているが、これは生涯にわたって言えることだろう。旅、特に一人旅は世界を広げる。そこで体験した驚きが人生に深みを与えてくれるのだ。旅をして、人に会い、本を読む。その繰り返しを楽しもう。 

さらに船戸は「本気のものは人を惹きつける。これは小説に限らずだと思う」という。この人の書くものはどのジャンルにも続さない、ドストエフスキーと同じ枠で語るべき作家だという評価をする人もいる。熱量が多い、本気の人なのだ。

 

寺島実郎の「世界を知る力」ーー 日本の進むべき道「日本再生の構想ー日米関係の再設計」。

寺島実郎の「世界を知る力」の4月。

日本の進むべき道。日本再生の構想ー日米関係の再設計。

  • 岸田首相訪米:「日米同盟の最大強化」「産業協力の深化」。アロガント(傲岸な目線)とスレイビッシュ(卑屈な同調)。「日本が共にあり」「地域パートナーからグローバルパートナーへ」。自発的隷従。「日米軍の技術統制の向上」。片務性から双務性へ、世界紛争へ」
  • 何を主張すべきだったか:日米関係を創造的に進化させるべきだ。1「尖閣諸島の領有権の明確化」。米国は施政権は日本にあるとするが、領有権はあいまいにしている。2「日米の包括的経済協定(EPA)」。日米には自由貿易協定は存在しない。3「非核平和主義」。核危機にイスラエルへの苦言が必要。米国のダブルスタンダードに苦言。従順な同盟国という評価。
  • 20世紀システムの中の日米関係:20世紀はアメリカの席。柱は「国際主義」(国連・IMF・世銀)と「フォーディズム」(大量生産大量消費)。日本の20世紀は米国との並走。120年間のうち90年間は英米日英同盟・日米同盟)とのアングロサクソン同盟。前半(1902年‐1923年)の約20年日英同盟日露戦争に勝利。後半(1951年から)の70年超は日米同盟で高度成長。これを日本は成功体験と理解している。間の約30年間で太平洋戦争に敗北。これは米中連携に敗れたのだ。米国への過剰依存と過剰同調は危険。米国と中国へもバランス感覚を大事にすべきだ。
  • 21世紀システムの中で日本が進むべき道:世界秩序は米中2極でもなく、民主主義対権威主義の対立でもない。分断されたくない、自己主張したい、つまり全員参加型秩序へ向かっている。プレイヤーは国だけでなく、ビッグテックやNGOなども参加。冷戦時代の固まった頭ではなく、柔らかい頭で多次元外交を推進しなくてはならない。
  • 日本のプリンシプルは非核平主義と国際協調:日米関係を創造的にひらいていこう。1:独立後100年目の2045年までに在日米軍基地を段階的に縮小すること、地位協定の改定。専守防衛シビリアンコントロール。2:沖縄に国連アジア大洋本部などの国際機関を誘致。アジアの地域安全保障のしくみの構想の提唱。2000年に日本を除くアジアの経済力は日本の半分だった。現在は日本の7倍。2030年には10倍になる。
  • 大中華圏への考察(台湾出張報告):大中華圏の中身が変容しつつある:10年前のネットワーク型世界観。中国本土とそれを支える8000万人の在外華華人。ところが中国経済の失速(5%戦後という目標。IMFは4.6%)。習近平第3期政権の強権化路線は台湾、シンガポールが警戒し、資本と技術が入らなくなってきた。「走線」、大脱走、グレートエスケイプの動きが急だ。100万人以上が香港や中国から海外に逃げている。貧困層も南米からメキシコを通ってアメリカへ。1年で2.4万人(10年で1.5万人だった)。亡命申請は7割がOKだったが今後はどうなるか。短期ビザでもタイ(840万人+100万人)、シンガポール、マレーシア、台湾(+8万人)へ脱出。中国は異民族支配による移動などで中国からアジアへ脱出してきた。モンゴル族の元、満州族の清、そして共産中国の成立、そして今回の習近平政権への拒絶。
  • 大中華圏の中核としての台湾:第3の航空会社「スターラックス航空」の台頭。LCCではない、オールビジネスクラス・ファーストクラス並の機内サービスなど。中華航空エバ航空に次ぐ。エアバス22機を所有、日本には10路線。トランジット(乗り換え)の拠点が香港(2020年6月からの本土支配)から台北へ移動。
  • 台湾の歴史:1624年にオランダ東インド会社の支配(1661年まで)。1661年から鄭成功による明への復興を目指す時期。1683年から212年に及ぶ清朝の支配。1895年から50年間の日本の支配。
  • 台湾:96%は漢民族。75%は本省人(日本の支配以前からの本省人60%・客家⑮%)。21%は外省人(1949年以降に本土から)。4%が原住民。「台湾人」意識は6割に達している。
  • 「台湾有事」:台湾に米軍基地はない。有事には沖縄巻き込まれる。米軍の戦争に巻き込まれるという不必要なリスクをとるべきではない。明確な距離感をとるという自己主張をすべきだ。
  • 寺島実郎『21世紀未来圏 日倍関係の構想』(岩波書店)が5月18日に刊行予定。

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【評伝】オムロン立石義雄氏「企業は社会の公器」 - 産経ニュース

「名言との対話」4月21日。立石義雄「会社は創業家のものではない」

立石 義雄(たていし よしお、1939年昭和14年)11月1日 - 2傲岸)・すれいびっ集(卑屈な020年令和2年)4月21日)は、日本実業家 

大阪市出身。立石電機創業者の立石一真の3男。同志社大学を卒業し、立石電機に入社。1987年に47歳で社長。1990年、社名を「オムロン」に変更。2003年に創業家以外の人物に社長を譲り会長。2007年、京都商工会議所会頭に就任し、2020年までその職にあった。

海外展開で社業を飛躍的させた。また駅の自動改札機、銀行のATMなどを開発普及させ、オムロンの「中興の祖」と称された。

創業者の立石一真は「大企業病」という名言を生んだ名経営者である。この人が生んでその後ずっと生きている名言がある。中小企業を立ち上げた立石は50歳を過ぎてから倒産寸前の企業の売り上げを1000倍にし、世界的大企業へと飛躍させた。

盤石にみえる大企業も案外もろい。その病を大企業と名付け、それを克服していった慧眼に敬服する。私も企業にいた時に立ち向かった相手はこの病だった。一つの言葉が多くの大企業の失敗の原因を鮮やかに示し、多くの経営者や管理者に影響を与えた。義雄は「大企業病」にかかることなくさらにオムロンを高みに導いたのだ。

「ものごと“できません”というな。どうすればできるかを工夫してみること」と言う立石一真は3割のリスクは飲み込んで決断を下していく。そして「最もよく人を幸せにする人が最もよく幸せになる」と言い、障害者事業など社会貢献事業も展開していった。人のために頑張ることが自分のためになるという人生哲学である。

息子の立石義雄は、新型コロナに感染して死亡した著名人の一人だ。以下、2020年3月から2021年4月まで新型コロナで亡くなった人を挙げてみる。それ以降は、情報はなかったが、新型コロナは多くの人の命を奪った。

志村けん(享年70)はザ・ドリフターズのタレント。岡江久美子(享年63)は女優。岡本行夫(享年74)は外交評論家。高田賢三(享年81)はファッションデザイナー。羽田雄一郎(享年53)は衆議院議員小野清子(享年85)は東京五輪体操のメダリスト。

立石義雄が亡くなったのは、志村けん岡江久美子の間の2020年4月だった。3月に京都商工会議所会頭を退任した直後だったから、おおそらく、関西、京都では話題になっただろう。

立石義雄は、「人の幸せをわが喜びとする」を信条とした、快活な笑い声で誰からも愛された。社名の変更を断行し、創業家以外の人物に社長を譲っている。そして京都を代表する企業へと発展させた功績があり、「中興の祖」と呼ばれている。その偉業によって、京都商工会議所の会頭に推され、13年という長期にわたって京都のために活動した。そして退任した直後に、あの新型コロナで亡くなっている。見事な生涯であった。

 

 

 

神保町「ほんまる」。恵比寿「木村伊兵衛」展(東京写真美術館)

ヨガ教室で1時間。

神保町:「ほんまる」を訪問。今村省吾さんの秘書の女性から説明を受ける。自分の棚の位置を確認。橘川さんの「深呼吸書店」の棚をみる。田原さんが確保した地下も見学。

 


恵比寿:東京都写真美術館木村伊兵衛 写真に生きる」展。

木村 伊兵衛1901年12月12日 - 1974年5月31日)は、20世紀に活動した日本写真家戦前戦後を通じて活動した日本を代表する著名な写真家の一人。報道宣伝写真やストリートスナップポートレート、舞台写真などさまざまなジャンルにおいて数多くの傑作を残している。同時代を生きた写真家、土門拳とはリアリズム写真の双璧。図録を購入。

 

神保町「CRAFTBEER MARKET」。

神保町「ミロンガ」:カフェオレを一杯。


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「名言との対話」4月20日丹羽文雄「人間はあやまちを犯さずには生きられない、可哀そうな存在だ」

丹羽 文雄(にわ ふみお、1904年明治37年〉11月22日 - 2005年平成17年〉4月20日)は、日本小説家  昭和を代表する作家の一人。

三重県出身。浄土真宗高田派の寺に生まれる。早稲田大学卒。1932年に「鮎」でみとめられ,風俗小説を多作する。女性の愛憎描写にすぐれた。のち仏教への傾斜し1969年に「親鸞」(仏教伝道文化賞)、1982年に「蓮如」(野間文芸賞)を発表する。作品はほかに「厭がらせの年齢」、「蛇と鳩」(野間文芸賞)、「顔」(毎日芸術賞)、「一路」(読売文学賞)などがある。日本文芸家協会理事長。日本芸術院会員。1977年に年文化功労者文化勲章

母は4歳の時に旅役者の後を追って出奔。養子であった父は義母と男女関係にあった。また、銀座のホステスをして養ってもらっていた妻の50人近い関係を持った男性のリストを発見している。

こういう境遇を知ると、「人間はあやまちを犯さずには生きられない、可哀そうな存在だ」。「親鸞にとっては、悪人というのは人間ということの別のいい方だ。世間ふうの人間らしい欲望をもち、人間らしい欲望をすてきれないひとのことをいっているのだ」という言葉に納得する。それは夜の世界を描いた「クラブもの」、そして「親鸞」、「蓮如」に結実していく。

日中戦争時代は。日本文学報告会の前身の「ペン部隊」、大東亜戦争では海軍の報道班員となった。戦後は同人誌『文学者』を主宰し、また日本文芸協会理事長を永くつとめ、文壇の大御所となった。吉村昭津村節子夫妻の師匠は丹羽文雄であり、河野多恵子は「文学者の同人である。近藤啓太郎という一人の作家の誕生には師である丹羽の存在が大きかった。すさまじいエネルギーと思い切りのいい強烈な言動の平林たい子は、「私は生きる」という言葉を好んで使ったが、記念碑にはたい子にふさわしい言葉として丹羽文雄を選んだこのこの言葉が刻んである。丹羽文雄は多くの文学者を育て、ついには文壇の大御所となった。

丹羽文雄はゴルフの名手だった。本人は「文学に淫したと同じくらいゴルフにも淫した」というほどのめり込んでいる。作家は坐っている時間が長いから、気分転換と体力維持このゴルフに狂ったことで長寿に恵まれたのだろう。

1985年には81歳でエージシュートを達成している。読売GCを40・41ノ81で回った。これは文壇では初の快挙だった。丹羽は世話好きでもあったようで、文壇にゴルフを広めている。柴田練三郎、源氏鶏太が教えを乞うたところから端を発し、そのころの第一線の作家達が勢ぞろいして、丹羽家を訪れゴルフスクールの様相を呈したり、コンペを催したりして一大文壇交流の場として世間に広まった。「丹羽学校」と呼ばれた。

三好徹『文壇ゴルフ覚え書き』によれば、小説家が主役の文壇でゴルフをやる人がゴルフを始める年齢は割と高い。それは文壇に確たる地位を確立す年齢が高いことに起因している。最初から小説を書いて食っている人は少なく、何らかの職業を持ちながら二足のわらじを履いている人が多く、筆一本で立てるようになたっときは年齢が高くなっているのだ。丹羽文雄は50歳から始めている。
ちなみに文壇ゴルフの入会資格は、技術拙劣、品性高潔。石原慎太郎がそれを聞いて、石原慎太郎は「それじゃ、僕は資格がないな」」といって入らなかったそうだ。どちらの資格にひっかかったか、二通りの説がある。おそらく、「品性」の方だろう。

2006年9月に、文芸春秋10月臨時号を眺めていたら、白洲次郎のページに興味深いデータを見つけた。1960年8月に軽井沢で行われた吉川英治夫妻誕生祝いゴルフ会のときの、11人の著名人のスコア表が貼ってあった。吉川英治はハンディ24、池島新平26、柴田錬三郎21、角川源義21、大岡昇平15、広岡知男15、、、、。シングルは丹羽文雄などは3人いて、丹羽文雄6、そして白洲次郎と並んで石川達三はハンディ3のローシングルプレイヤーだった。

同年生まれの船橋聖一とは、自他ともに認めるライバルであり、野間文芸賞文化功労者などで競っている。71歳で亡くなった船橋だが、丹羽はそれから30年近く生きて100歳のセンテナリアンとなった。その代価だろうか、晩年に認知症を発病している。

丹羽文雄には「一文のセンテンスは最長でも40字までを限度とせよ」などの小説を書くための技術に関する言葉もあるが、「人間はあやまちを犯さずには生きられない、可哀そうな存在だ」を採ることにしよう。丹羽文雄の家族たちの生きざまを見つめた人間観だろう。その人間観が、すべてを許す親鸞に向かわせたのだ。それは実家の浄土真宗の寺へ戻るまわり道だったのだ。

 

 

 

神奈川近代文学館「帰って来た橋本治」展。横浜山手の「ブリキのおもちゃ博物館」再訪。

神奈川近代文学館で開催中の「帰って来た橋本治」展。

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橋本治は1948年生まれ、2019年に亡くなっている。この文学館には「橋本文庫」がある。

橋本治の著書は今までに3冊読んでいる。小林秀雄の恵み』(新潮社)では小林秀雄の代表作『本居宣長』を材料に、小林秀雄の正体を丁寧に薄皮を剥ぐように見せていく。神様・小林秀雄の間違いを指摘するという、恐れ多い仕事となった出色の小林秀雄論だ。その手腕はなみたいていの腕ではなかった。

橋本治内田樹』筑摩書房)。同世代の二人の特異な書き手の考えていることや手の内がわかるのだが、橋本治の逆説的な、本質的な、独学的な言葉群に魅力があって、最後まで楽しくうなずきながら読み終えることができた。内田樹は相の手と相手の言葉を敷衍するちょっとした解説がうまいので、橋本治の話がうまく回転してく。

『窯変源氏物語』は橋本治本人が「代表作に近い」という全14巻の大作。

企画展で、展示を詳しく見て、図録を買ったので、改めて私と同時代を生きた2歳上の橋本治の足跡を追うことにしたい。

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横浜山手の「ブリキのおもちゃ博物館」(KITAHARA COlLECTION)を再訪。北原照久コレクションで、1890年代から1960年代製造のおもちゃ3000点が展示されている。

クリスマスの館。こちらは初めて

昼食は、何度も訪れているレストラン「ROCHE」。

 

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「名言との対話」4月19日。椎名武雄日本アイ・ビー・エムの玄関に星条旗を掲げちゃだめなんだよ」

椎名 武雄(しいな たけお、1929年5月11日 - 2023年4月19日)は、経営者。享年93。

日本アイ・ビー・エム株式会社社長、会長。経済同友会終身幹事。社会経済生産性本部副会長。社団法人企業研究会会長。財団法人慶応工学会理事長。慶應義塾評議員・理事。慶應義塾理工学部同窓会募金委員会名誉会長。 2000年11月 勲一等瑞宝章受章。

アメリカのバックネル大留学後、日本IBMに入社。45歳で日本IBMの社長に就任したのは1975年で、1992年まで17年間の長きにわたり同社を率いた。1989〜1993年は米IBMの副社長も兼務している。1992年に会長に就任して以降は経団連経済同友会の要職に就き、IT戦略会議メンバーなども務めることで、日本における外資系企業の地位を向上させたことから「ミスター外資」との異名も取る。

椎名武雄外資と生きる IBMとの半世紀』(日経ビジネス人文庫)を読んだ。

10年がかりで朝日新聞日本経済新聞のコンピュータシステムを開発したエピソードが印象に残る。米IBMの開発担当者はアポロ計画を担当した精鋭部隊だったが、「アポロ計画のシステムより難しかった」と漏らしたほどの難事業だった。日本語の新聞記事には「書き出しは1字下げる」などこまかな約束事が3000もあった。その約束事を盛り込むとソフトのサイズが膨れ上がり、コンピュータの処理能力が追いつかない。ようやく1971年からコンピュター紙面がだんだんできあがっていき今の姿になった。

新聞のコンピュータ化のプロセスで親しくなった日経の円城寺次郎は「椎名君、日経は新聞も出している会社にしたいんだよ」と言った。日経はデジタル化に果敢に挑戦しつづけている。

ゴルフクラブには正会員、平日会員、ビジターという3種類がある。ビジターはプレー料金は高いし、キャディーさんの態度もどことなく違う。せめて平日会員になろうじゃないか。これは1975年に社長に就任したころの発言だ。売上高2千億円、社員数1万人の日本IBMは63歳で48歳の北城恪太郎に社長を譲ったときには、1兆円企業になっていた。「日本IBM中興の祖」と呼ばれている。

日本とのつながりを築くために考えだしたのが、1970年から始めた「天城会議」だ。毎年財界、学界などの有力者が集まって議論する場である。天城会議を育ててく人として、ソニー盛田昭夫と野田一夫を挙げている。

1994年に政府の高度情報通信社会推進本部の有識者会議の委員になっている。情報化の推進には縦割り行政ではダメで内閣が全体を統括して欲しい。高度情報化社会の推進にはそれを阻害する制度等を廃止・変更して欲しいと主張している。2020年から始まったコロナ下であらわになった政府のデジタル化の恐るべきお粗末さを目にすると、椎名武雄のアドバイスを実行しなかったことは明らかであり残念だ。この点は「デジタル庁」をつくったことで簡単に解決するような課題ではないと思う。工業時代から情報産業時代への転換に向けて政府全体、国家全体が総力をあげて立ち向かうべきテーマなのだ。

「お客様に鍛えられて人材というのは強く育っていく」「”Glorious discontent.” 誰にでも不平や不満はある。だけど、それをそのまま終わらせてはいけない。不平や不満があるならば、それをなくすよう物事を改善しなければならない」「これからは日本人が世界でトップになる。さもなければ、日本は本当に沈んじゃうよ」「何もせずに社長室に座っていると、悪い話は入ってこない。そうなると、経営判断を間違ったり、遅くなったりする。経営者は現場を歩き、積極的に生の情報を集めなければならない」。

椎名武雄と私の縁を思い出してみる。

・1991年前後だったか、JAL時代に日本IBMの椎名社長に社内報のインタビュ−をしたことがある。

・2004年、宮城大学初代学長の野田一夫先生とカナダ大使館地下のシティ・クラブ・オブ・トーキョーで夕食を摂った。先生はあいかわらずステーキで、ギリシャへの船旅にいく話をしていた。このとき、野田先生の親友の日本IBMの椎名武雄最高顧問が現れて私もご挨拶した。二人は「タケオ」「カズオ」と呼び合う仲だった。
・2008年。 「草柳文恵さんを偲ぶ会」で私の隣の寺島実郎さんが帰った後の席は、遅れてきたIBMの椎名武雄さんが座って、陽気楽しい会話が続いた。挨拶では「文恵さんはもの静か、もの憂げな美女だった」と印象を語った。
日本アイ・ビー・エムの玄関に星条旗を掲げちゃだめなんだよ」は、1993年1月に北城恪太郎氏に社長を引き継ぐことを発表した直後のインタビューで発せられた言葉である。椎名は「常にアメリカ本社と戦ってきた」と語り、本社に対しては日本の商習慣を理解させる苦労をする。また「外資は悪だ」という日本の抜きがたい見方を払しょくするにも苦労する。その両面を端的にあらわす言葉が「星条旗」をめぐる冒頭の言葉である。

 

 

塩谷賛『幸田露伴 下の二』から

本厚木に所用があって、妻と出かけた。帰りに駅で古本店が並ぶ企画をまだやっていた。塩屋賛『幸田露伴 下の二』(中公文庫)を購入。この4巻の書は、読売文学賞を受賞している。

読んでみると手元にある坪内祐三『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲がり』の露伴についての底本のようだ。「詳細きわまる塩谷賛『幸田露伴

』との紹介があった。坪内逍遥露伴を抜群の記憶力と博識を回想して「ルネサンス的天才」と称していた。

最後で、かつ最も優れた弟子であった塩谷賛の『幸田露伴』の中で露伴のことを何と紹介しているか。「国宝的存在」。「碩学、人傑」。「座談の名人」。「文豪」。「ミノスのラビリントス」(鴎外の「百門のテーベス」)。、、、、

露伴は『澁沢栄一』という伝記を書いている。「事業から事業への必然的な関係もなく、全体を通じて一貫したものがない」と語っていたそうだ。露伴は頼まれて「時代の寵児」としての側面だけを書いたとのことである。パラグラフごとに一行をあけ、段分けがない。このためスピード感があった。

塩谷賛の書は、「太公望」から始まる。その冒頭に昭和10年に「改造」新年号の「偉人論」を載ったとある、自分のためばかり走り回る人を小人、その働きが社会のためになる善良な人を大人とする。偉人は善、不善を問わないとする。「えらい人になれ」というより、「人になれ」というのが良いとしている。露伴は偉人について、大人・仁人・哲人・聖人等11の称すと比較しているというから、いずれ読んでみたい。

幸田露伴は明治・大正・昭和の三代に亘る巨匠である。『五重塔』などの小説も素晴らしいが、『努力論』には触れるたびに感銘を受ける。厚みのある人生論で、努力論いうより日本を代表する幸福論だ。運命。人力。自己革新。努力。修学。資質。四季。疾病。気。こういうキーワードで事細かく生き方を論じた名著であり、首肯するところが多い。

 最も読むべきは「幸福三説」である。

惜福。分福。植福、これを三福という。惜福とは、福を使い尽くし取り尽くしてしまわぬをいう。個人では家康の工夫。団体では水産業、山林、軍事。分福とは、自己と同様の幸福を分かち与えることをいう。人の上となり衆を率いる人が分福の工夫をしなければ、大なる福を招くことはできない。分福は秀吉が優れていた。清盛。ナポレオン。尊氏。福は惜しまざるべからず、福は分かたざるべからず。植福とは、人世の慶福を増進長育する行為である。自己の福を植え、同時に社会の福を植えることだ。「福を惜しむ人はけだし福を保つを得ん、能く福を分かつ人はけだし福を致すを得ん、福を植うる人に至っては即ち福を造るのである。植福なる哉、植福なる哉」 

露伴の娘の幸田文の文章は、新しい情報を伝える「エッセイ」ではなく、日常の見聞から人間の本質を描く「随筆」というにふさわしい。読むと父・露伴のことがどうしても目がとまる。「父にうそをつくと観破されて恥しい目にあう」「黙ってひとりでそこいら中に気をつけて見ろ」「なぜもっと父の話を沢山聴いておかなかったか悔やまれた」「父の書斎、、、そこは家人といへども猥りに入ることのできない、きびしい空気がつつんでゐた」「お父さんは偉い人だと感服して聴いた」「「お前は赤貧洗うがごときうちに嫁にやるつもりだ」、、「、、薪割い・米とぎ、何でもおれが教えてやる」。「ある冬、伊豆に遊んでいた父から手紙をくれた。「湯のけむり、梅の花、橙の黄、御来遊如何」という誘い、、」。露伴と文との関係と交流が過不足なく冷静の描かれている。「終焉」の終わりは、「「じゃあおれはもう死んじゃうよ」と何の表情もない。穏かな目であった。私にも特別な感動も涙も無かった。別れだと知った。「はい」と一言。別れすらが終わったのであった」である。

露伴については、折に触れて、学んでいきたい。

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「名言との対話(平成命日編)」4月18日。来栖継「重訳が必ずしも直接訳に劣らない」

栗栖 継(くりす けい、男性、1910年7月18日 - 2009年4月18日)は、翻訳家、チェコ文学者、共産主義者エスペランティスト日本エスペラント学会顧問、世界エスペラント協会名誉会員、日中友好文通の会会長。享年98。

父が自殺したため母子家庭で育つ。中学時代にエスペラント語を知り、雑誌「戦旗」に掲載された「プロレタリアエスペラント語」という論文を読み、エスペラントにより革命運動に参加できると考え、エスペラントを学習する。

戦前は治安維持法により特別高等警察によって数回逮捕・投獄された。出獄した栗栖は小林多喜二蟹工船』のエスペラント語訳に取り組み、作家の貴司山治の助けで、大量にあった伏せ字を全部復元した翻訳を完成させた。その時点では出版できなかったが、スロバキアのジャーナリストが、栗栖のエスペラント語訳からスロバキア語に翻訳し、1951年に発行された。戦前・戦後を通じて日本のプロレタリア文学などのエスペラント翻訳などを多数行った。1949年、エスペラント運動に関する功績により「小坂賞」(日本エスペラント運動に対する小坂狷二の功績を記念した賞)を受賞した

少年期からチェコ文学に興味があり、「本物のチェコ文学者」となろうと、40歳を過ぎてから、独学でチェコ語を学習する。1995年7月、ルイジ・ミナヤ賞(世界エスペラント協会主催文芸コンクール、エッセイ部門第1位)受賞。2007年には、横浜みなとみらい21で開催された第92回世界エスペラント大会では、開会式でエスペラントであいさつを行った。

世界語・エスペラント語は、宮澤賢治も使っていた。また2011年に開催された「ウメサオタダオ展」でもエスペランチスト梅棹忠夫エスペラント語のサインの入った本が展示されていた。訪問したいくつかの人物記念館でもエスペランチストは数人いた。世界語への関心が高い時代があったのだ。

小林多喜二の代表作『蟹工船』のスロバキア語訳の陰には、来栖継という日本人によるエスペラント訳があったことが後にわかった。「スロバキア語とよく似たチェコ語訳の『蟹工船』は、伏せ字だらけの本が底本です。重訳が必ずしも直接訳に劣らない一つの例証です」と91歳の来栖継は語っている。原作を超えるという評価のある翻訳では、森鴎外の『即興詩人』が有名だが、日本語からエスペラント語への翻訳、そのエスペラント語訳からスロバキア語への再翻訳という「重訳」が成ったわけだ。原本の良さがだんだん薄れるだろうと思うのだが、語学の才能に加えて、志の高い翻訳者を得れば、直接翻訳を上回る出来になることもある。

小林多喜二から来栖継、そしてスロバキアのジャーナリストというように松明が引き継がれたのである。来栖継の第一次翻訳が優れていて、スロバキアのジャーナリストの転訳もさらにすばらしかった。軌跡の物語がここにある。

『幸福塾』:「新・代表的日本人」シリーズ:今回は「切磋する敵、琢磨する友」のライバル編。

「幸福塾」の「新・代表的日本人」シリーズの「切磋する敵、琢磨する友」の1回目。「ライバル」がテーマ。

以下、塾生の学び。

  • 久恒先生、みなさま、本日もありがとうございました。今回はテーマ『新・代表的日本人』の第3回「切磋する敵、琢磨する友」でした。紹介いただいた人物は、大相撲力士の大鵬柏戸プロ野球選手の長嶋茂雄王貞治、小説家の夏目漱石森鴎外川端康成三島由紀夫ノーベル賞を受賞した物理学者の朝永振一郎湯川秀樹文化勲章を受章した小説家の舟橋聖一丹羽文雄、同じく画家の竹内栖鳳横山大観など、国民の多くが知っている大変有名な方ばかりでした。 この中で特に印象に残ったのは、柏鵬時代を築いた力士のお二人のことで、当時の子どもたちが好きなものの代表として「巨人・大鵬・卵焼き」があり、ライバルの柏戸の方には「阪神(大洋)・柏戸・目玉焼き」というのがあったということ。「巨人・・・」は知ってましたが、「阪神・・・」の方は初耳でしたので、対比のユニークさに思わず苦笑いしてしまいました。一方、現時点(令和の時代)でこれらの事例に匹敵するような有名人は誰だろうかと考えたところ、すぐ思い浮かびませんでした。国民の誰もが知っている凄い人と言えば、プロ野球大谷翔平選手や将棋の藤井総太8冠のような、好敵手と2人で切磋琢磨しながら成長した訳ではなく、単体で多大な努力をした結果、突出して大活躍しているというパターンが多いように思いました。多様性が求められ、認められる時代だからこそ、これまでと違った取り組み方が活きてくるのかもしれません。誰とつながるか、どのようにつながるか、時代とともに進化しているようです。次回もライバルの続きだそうですから、どんなつながりがあったのか、興味が湧いてきました。楽しみにしていますので、よろしくお願いいたします。
  • 本日もありがとうございました。よく知られているライバル、意外なライバル、たいへん面白かったです。今日紹介された中では、北大路魯山人川喜田半泥子については名前を聞いたことがある程度でしたが一番興味深かったです。偉人もそうだし、私たちの個人史の中でもライバル関係にあった相手はいましたよね。ライバルの存在により、もっと向上しよう、あいつには負けたくないという気持ちが働くのは確かです。互いにライバルとは思わなくてもマスコミはじめ世間がライバルと見て、それで人気が沸騰することもあります。NHKの朝ドラ「ブギウギ」で笠置シヅ子淡谷のり子芸能雑誌記者がライバルに仕立てて記事を書くという場面がありました。むき出しの敵意をもったライバル関係もありますね。自民党の総裁選など典型的な例です。今日挙げられたライバル関係をはじめ、互いの向上に資するライバル関係に共通するのは「互いへのリスペクト」ではないかと思います。次回も続くということで、楽しみです。
     
    • 本日もありがとうございました。まず、「ほんまる」の棚を確保されたお話。神保町へ立ち寄ってみたいと思います。すてきな棚にできればよいなと思います。佐藤可士和さんデザインのほんまるは、見るのも楽しみです。講義の方は、切磋琢磨してきたライバルに注目した方たちのお話を聞きました。たくさんのライバルたちをご紹介いただいて、これまで幾度もお話を伺っているような気がしますが、ライバルとして二人並べてお話を聞くと、また違った側面で、性格も浮かび上がってきて面白かったです。だいたい天才肌と秀才肌、の組み合わせが多いように思います。天才だけど陰で努力されている方ばかりで、ライバルがいてこそだと思います。他を認め自分も努力し高めることが大切だと改めて思いました。白洲次郎白洲正子、二人はライバルだったのかどうかは分かりませんが、武相荘を訪れたとき、楽しく暮らしていたように見えました。図解塾の日本文化の白洲正子のコラム、実際に見ると、様子がとても分かりやすいと思います。武相荘、また訪れてみようと思います。次回もライバルのお話。よろしくお願いいたします。
    • 久恒先生、皆様、おつかれさまです。本日、幸福塾。先ずは恒例の久恒先生ブログ紹介から。①神田神保町シェア書店「ほんまる」、直木賞作家今村省吾氏の手により4月27日にオープン予定、久恒・橘川両先生は店舗の1階、深呼吸学部の田原さんは地階に、夫々棚を確保済との事。「今、本屋が潰れている」というニュースの中、書店のメッカとして有名なその街で「革命の予感」、ワクワク致します。(この後はすべて「名言との対話」から)②「大林信彦」(おおばやし のぶひこ 1938-2020 広島県尾道市出身 映画監督)、元々医者志望、途中から映画制作の道へ、自主映画⇒TVCM⇒ホラー⇒尾道3部作、独特なキャリヤ、「映像の魔術師」と呼ばれた。かの有名CMで氏が手掛けた作品多数とか。これはいつか深掘りしたい。『第2の黒沢にはならない、第1の大林になる』…オリジナリティを重んずる孤高のプライド、憧れます。③「三國廉太郎」(みくに れんたろう 1923-2013 群馬県太田市出身 俳優)  戦後、木下啓介作品へ出演した際の役名がそのまま芸名になった。『演じる事が生き甲斐、名優と言われたらおしまい』、嗚呼…スーさん。第2釣りバカ日誌の構想:西田敏行演ずる「浜ちゃん」は今や鈴木建設の社長で相変わらずの釣り三昧、ある日呑み屋で出会った「サトー」(演:佐藤浩市)は鈴木建設のエンジニア、アフリカ某国の石油プラント事業が内戦でとん挫し失意のまま帰国。抜け殻の様な彼を励ます浜ちゃん、ある時釣りに誘いいつしか常連に(もちろん身分は秘密)。ある日元気を取り戻したサトーが浜ちゃんに尋ねる。「あんた、どうしてそんなに親切にしてくれるの?」、浜ちゃんが答える「昔世話になった人が居てさー、似てるんだよ、あんたに…」、アッ、これはあくまで当方のフィクションです、悪しからず。④「田村正和」(たむら まさかず 1943-2021 京都市出身 俳優)ご存じバンツマの3男『俳優は白いキャンバスであるべき』…幅広い役柄を演じたマルチな俳優、一方で私生活は秘密を通す完璧主義、頭が下がります。⑤「モンキーパンチ」(本名かとう かずひこ 1937-2019 北海道厚岸郡出身漫画家)お馴染みルパン3世は代表作、2003年より東京工科大学大学院に学びその後大学で教鞭をとった、2足目のわらじ。『乾いた手拭いを絞る…これが勝負』…当方も社業で散々仕込まれました。「無い袖振るのがエンジニアだ!」って。氏の漫画で描かれた「ワルサーP38」や「メルセデスSSK」といったメカニズムのリアルさがとても印象的で、「技術好き」なお人柄がしのばれました。⑥「小池滋」(こいけ しげる 1931-2023 東京都出身 英文学者) 「余はいかにして鉄道愛好家になりしか」…内村鑑三著作のタイトルをパクるカッコ良さ、1997年刊の自伝のタイトル。本業に並び英国鉄道史研究でも名高い、JR東日本の「鉄道博物館」開業の10年も前の著作で鉄道車両保全を訴えた先見の明、サスガです。⑦「白川義員」(しらかわ よしかず 1957-2022 愛媛県出身 写真家) 『私の仕事はどれも歴史上類を見ない撮影』、中国、アメリカ、ヒマラヤ、南極…恐るべき行動力、撮影の苦労5%、現場に立つまでの苦労95%、ココでも出た!『段取りが全てを決する』。…さて、ようやく本題。前回まで2回にわたる『仰ぎ見る師匠』レクチュアに続き、今回からのテーマは『ライバル』。1) 『栃錦若乃花』 ☞トチワカ。栃錦春日野親方、理事長、両国国技館を作った、若乃花は次代の理事長、土俵の鬼、若貴のおじ。「力士は紳士たれ、礼節をわきまえろ」…現在相撲界の基礎。2)『柏戸大鵬』☞ハクホウ。ともに圧倒的な強さ、「巨人・大鵬・卵焼き」ちびっこのMy Favorite things。一方「阪神柏戸・目玉焼き」なるワードも有ったとか、ナンバー2繋がり。通好み、負けず嫌い体質…オレ、スキカモ…。3)『三原と水原』プロ野球、三原は早稲田、水原は慶応、互いに絶対負けないと誓う永遠のライバル、武蔵と小次郎。4) 『王、長嶋』プロ野球、ON時代のヒーロー、記録の王、記憶の長嶋。5) 桂と西園寺、桂園時代…明治大正の総理。6) 漱石と鴎外、本業は陸軍医、作家活動は夜、スミワケばっちり。7) 白洲次郎と正子、次郎、ケンブリッジ大学吉田茂のブレーン、GHQと対峙、マッカーサを叱った男、ネイティブスピーカーを手玉に取る英語力(英国仕込み)プリンシプル、一方正子は能・古美術研究、「巡礼とは自己発見の旅…」夫婦が互いの主義主張を認め合う、「大人の余裕」が垣間見え…憧れマス。8) 湯川秀樹朝永振一郎(ともながしんいちろう)、京大物理学科、湯川は天才、テーマをさっさと決めた。一方朝永はドイツへ活路を求め…、後年共にノーベル賞を受賞する。9)川端康成三島由紀夫、三島はノーベル賞を逃し家人にだけ悔しさを吐露したとか、後年両者共に自殺。三島も賞を取っていたなら二人とも生きる永らえる事が出来たか?。…今回もなかなかのボリウム、言葉のシャワーをたっぷりと浴びながら思ったことは、「切磋琢磨するライバル同士の互いを思う心」。互いを意識するから負けられないから、必死に技を磨く。相手が解ってくれているから心置きなく自分の課題に打ち込める。夫々タイプはあれど「掛けがえない相手の存在」というものが自らの成長に欠かせない。という存在意義を確認する事が出来た事が学びとなりました。さて、去る4月13日に東京南青山で催された「イコール創刊パーティ」は普段お目に掛かれないすごい人々との「リアル」な会合で非常に興奮したひとときを過ごす事が出来、大変有意義でした。当方は持参した東京新聞切り抜きの話題で、某社新聞現役記者様との談笑する機会が得られました。その際の図をご披露します。先日の大相撲春場所で新入幕優勝を果たした「尊富士関」の記事だったのですが、よく読むとそのわきに描かれた九重親方のコラムに俄然目が止まりました。「110年ぶりの快挙」を謳うその文頭では当時の出来事から始まる、子気味良い、コンパクトにまとまった文章から、「ただモノではない」気配を感じ調査。ご存じ「千代の富士」の愛弟子「千代大海」がその人で、生立ち~師匠との出会い~スピード出世~その後の親方・部屋継承と2世代にわたる「金のわらじ」のリレーのみならず、新聞コラム担当という『2足目』まで継承されていたという絆の強さを、「人生鳥観図」で表す事が出来ました。親方の華麗なプロフィールと強い絆を2ページに渡り図解致しましたのでup致します。併せてご覧いただけますと幸いです。有難うございました、次回も宜しくお願い致します。
  • 4月の幸福塾「代表的日本人」に参加させていただきました。久恒先生、皆様、ありがとうございました。今回の話題はライバルについてでしたが、とても参考になりました。特に、野球の巨人の長島茂雄さんと王貞治さんの話が印象的でした。お互いに切磋琢磨したからこそ歴史に残る素晴らしい記録を残した選手になったのだと思います。ライバルの話でよく耳にするのが、上杉謙信武田信玄に塩を送った話です。ライバルであっても、相手を思いやることが大切だと思います。いずれにしても、ライバルは成長のきっかけになると思います。これまであまり考えたことがなかったテーマでしたが、今回の話を通じて多くのことを学びました。 今後もこの学びを活かし、自分の成長に努めていきたいと思います。改めてありがとうございました。次回の代表的日本人にも期待しています。
  • 並び立ち、切磋琢磨できるライバルの存在について興味深く学ばせてもらいました。 ライバルという存在は、お互いが認めるものもあるでしょうし、周りが煽り本人達は否応なくライバルとされる場合もあるのかもしれません。これまでもスポーツ選手のライバル関係については見聞きしてきましたが、芸術、文学、研究などの分野でもライバル関係があることを知りました。特に朝永辰一郎という人物については名前程度しか知らなかったのですが、湯川がノーベル賞を取ったとき、朝永はドイツにて一報を聞いたというエピソードは人間らしいというか、面白いと思いました。大阪大学の湯川記念室のサイトにも、「ライバル・朝永辰一郎」という見出しがあり、湯川がノーベル賞を取った時には、師匠の仁科芳雄に「湯川をとっておけばよかった」と聞こえる様に言われたとのエピソードが掲載されており、叱咤激励も含めて周りからも意識させられる存在だったのでしょう。成功するまでは辛い事だけれども、それをバネにして成功に導ける人物だったからこそ、ライバルと評されるのではと感じました。大器晩成なんて言葉も、先に成功したライバルに対して、後から成功した者に使うのかもしれないと考えました。
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都築 功
 
 
 
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松本龍
 
 
 
 
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「名言との対話」4月17日。小池一夫「僕は80歳ですが、これからが自分が全盛期だと思っています」
小池 一夫(こいけ かずお、本名及び僧号: 俵谷 星舟〈たわらや せいしゅう〉、旧名: 譲〈たわらや ゆずる〉、作詞家としての別名: 東 文彦〈あずま ふみひこ〉1936年5月8日 - 2019年4月17日)は、日本漫画原作者小説家脚本家作詞家作家。享年82。
秋田県大仙市出身。中央大学法学部卒。時代小説家・山手樹一郎にまなび小説家を目指すが断念。その後、司法試験を受験するが3度失敗。さいとうたかをプロダクションをへて独立し、わずか数年で劇画界に一大勢力を築く。
1970年、「漫画アクション」連載の「子連れ狼」が大ヒットし、映画化、テレビ化された。アメリカにおける漫画ブームの先駆けとなった。1977年に小池一夫劇画村塾を設立するなど、新人の育成にも熱心だった。2000年に大阪芸大教授教授となり、ゼミで多くの漫画家を育てた。
世に出るまでゴルフ場、雀荘などに勤務したこと、また居合道、茶道にも詳しく、その雑学的知識が漫画に生きている。
小池一夫のキャラクター創造論ーー読者が「飽きない」キャラクターを生み出す方法』を読んでみた。
まずキャラクターから考える。名前、年齢、生い立ち、職業、家族、交友、好物、苦手、性格、夢、能力などを徹底的に考え抜く。主人公のオーラ、弱点を定める。そして敵役・ライバルのカリスマ性、欠点をなどを決める。キャラクターは一人では起たないのだ。主人公の夢が物語の行く先を決める。
ストーリーは事件など悪いことから始める。主人公は、「謎」を追う。脇役、引き回し役に物語の背景などを語らせる。
「主」(キャラクター)「謎」「技」(アイデア)「感」(感動・感情)が大事であり、「しゅめいぎかん」として覚えるといい。
この本の中で、「僕は80歳ですが、これからが自分が全盛期だと思っています」と強気の宣言をしている。
ところが小池一夫はそれから2年後に82歳で亡くなる。実年期まで疾走し熟年期の途中で倒れたのだ。今からが「全盛期」だとする心意気、気概がいい。