今村将吾『塞王の盾』ーー「最強の盾」と「最強の矛」の戦いを描いた至高の作品。

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今村将吾の直木賞受賞作『塞王の盾』をオーディブルで19時間かけて聴き終わった。

舞台は戦国時代。どんな攻めをもはね返す石垣と、どんな守りをも打ち破る鉄砲との戦い。「最強の楯」を誇る職人集団と「最強の矛」を誇る職人集団の対決という「矛盾」を描いた至高の作品だ。

テーマは「戦争と平和」ということになるだろう。矛や盾は何のためにあるのか、を問い続ける塞王と呼ばれる棟梁の心の動きを描いている。現代の問題に正面から取り組んだ力作だ。

最強の防御壁と最強の攻撃兵器。守りの工夫と攻めの開発の限りない競争。だが、これらは本当に強いのか。

石には声がある。石工職人の頭は「石は人である」ことを知る。生花の師匠は「活けたら花は人になる」とも語っていたことを思いだす。日本の山川草木の自然の中には人がいて神がいる。

少年のころに落城という悲劇によって家族を亡くした経験を持つ、石工の頭となっている主人公の匡介。「絶対に破られない石垣」を造れば、誰も攻撃をしようとは考えなくなり、民を泣かせる戦いは無くせると考えていた。

一方、戦いで父を喪った鉄砲職人の彦九郎は「どんな城も落とす砲」で皆に恐怖を植え付けることによって、誰も戦いを望まなくなり、戦いは無くなると考えていた。

天下を統一した秀吉が衰え死に至る。豊臣と徳川の戦いの気配が近づく。琵琶湖畔にある大津城の「ほたる大名」と呼ばれた京極高次は、匡介に石垣造りを依頼する。豊臣方の石田三成は、彦九郎に強力な鉄砲作りを依頼する。

西陣営の激突の勝敗を左右すると思われた大津城をめぐる攻防は、侍の戦いであると同時に、当代最高の職人集団の生存をかけた対決の場でもあった。

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「幸福塾」の準備に着手。

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旺文社『高二時代』第4巻第9号(1967)より

「名言との対話」5月12日。ジョージ秋山なにがすごいって、人の心を和ます奴ほどすごい奴はおらんだろうなぁ・・・」

ジョージ 秋山( - あきやま、本名:秋山 勇二(あきやま ゆうじ)、1943年昭和18年4月27日 - 2020年〈令和2年〉5月12日)は、日本漫画家。享年77。

東京都日暮里出身。中学卒業後、貸本漫画の取次店で仕事をしながら漫画家を目指す。1969年に「バットマンX」で講談社児童まんが賞を受賞し逆漫画家となる。

1970年代になって「銭ゲバ」、「アシュラ」など露悪的な描写で有害図書に指定されるなど話題になる。

1971年以降は青年漫画誌に活動をひろげる。1973年から『ビッグコミックオリジナル』に「浮浪雲」の連載を始める。幕末の品川宿でゆるやかに生きる主人公を中心に市井の人々の喜怒哀楽を描いた、この時代劇漫画は大ヒット作品になった。連載は2017年まで44年という記録的な長さとなった。2度にわたり、テレビドラマとなった。

1984年からは成人向けの漫画に手を染め、日活ロマンポルノの作品ともなった。また、聖書の漫画化にも取り組むなど、生涯にわたり、様々なジャンルを漫画という武器で渉猟した。

私自身はジョージ秋山の作品には接していない。代表作『浮浪雲』では多くの人々から共感を寄せられた。それは、主人公が語る言葉に魅了されたためだろう。

以下、いくつか拾ってみた。

「富士山に登ろうと心に決めた人だけが富士山に登ったんです
散歩のついでに登った人は一人もいませんよ・・・」という前向きな言葉もあるが、多くは次のように脱力系だ。

  • 立派になろうなんてのは、疲れますから、自分のやりたいことだけ、自分が楽しいことだけ、考えたらいいんですよ。
  • 怠けるだけ怠けたら、やる気になりますよ。人間なんてそんなもんですよ
  • 小事を気にせず 流れる雲の如し

そして、「なにがすごいって、人の心を和ます奴ほどすごい奴はおらんだろうなぁ・・・」という言葉もある。また、「人生で一番大切なことは 機嫌がいいこと」とも言っている。

平凡な日々を上機嫌で暮らすこと、そして周りの人の心を自然に和ますこと、そういう存在が大事だという人生観だ。他の作品も読んではいないので、ジョージ秋山は漫画家という職業は、そういう生き方にいい影響を与える仕事だと考えていたのだろうとしておこう。

 

5月の快晴の土曜日の一日

快晴の土曜日。

  • ブログ執筆:公文俊平情報塾。反戦・平和作家の早乙女勝元
  • テレビ体操:2004年のブログ開始以前の2001年あたりから毎日行っている。体力維持の基礎部分という感じ。
  • ヨガ教室で1時間:2016年頃から毎週土曜日の朝9時から。この時間は身体と精神をリフレッシュする時間。
  • 松田俊秀君から電話あり。近況交換。
  • 唐木田で妻と昼食。往復6500歩。アラビアータとワインとコーヒーを楽しむ。

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  • 昼寝。
  • 散歩3500歩:家族、女性同士で散策する人が多い。平和な風景。
  • 今村将吾『塞王の盾』(オーディブル):自宅や散歩途中で聴いている。もうすぐ読了となる。時代は戦国時代だが、テーマは「戦争と平和」ということだろう。城の石壁職人集団の棟梁と鉄砲を得意とする集団との激突。石は人である。
  • 内村鑑三著・鈴木範久訳『代表的日本人』(岩波文庫):以前読んだだ記憶があるが、改めて本格的にここ数日で読み、本日風呂で読了した。
  • ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」を改めて堪能。
  • テレビ「プロジェクトX」:明石海峡をまたぐ全長4キロの世界一の橋をつくりあげた男たちの物語。上司と部下。師と弟子。
  • 明日の「名言との対話」の準備:中西太阿部牧郎か。

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西鉄時代の中西太氏 ― スポニチ Sponichi Annex 野球

「名言との対話」5月11日。中西太「何苦礎(ナニクソ)」

中西 太(なかにし ふとし、1933年4月11日- 2023年5月11日)は、プロ野球選手内野手)・コーチ監督解説者評論家。享年90。

香川県高松市出身。高松第一高等学校時代から豪打で「怪童」とよばれた。1951年の夏の甲子園大会では準決勝に進出した。翌1952年に西鉄ライオンズに入団して新人王に選ばれた。1953年はホームラン36本、86打点で二冠王となり、打率3割1分4厘に加え、36盗塁もマークし、史上3人目の「3割30本30盗塁」を達成した。

1954年は本塁打王、1957年は打点王のみに終わったが、1955年と1958年は首位打者本塁打王、1956年は本塁打王打点王となった。入団7年目で計4回も二冠王となった。水原巨人を3年連続破った三原監督率いる西鉄黄金時代の豪打瞬足の4番打者である。

1959年以降は右手首の故障により代打出場が多くなり、1962年からは監督兼任、1969年で現役を退いた。

中西はホームラン王を5回とった打者である。その飛距離は圧倒的で平和台球場の場外ホームランは日本プロ野球史上最長飛距離(一説では162メートル)であるといわれている。また打球の速さが他の打者とは違った。そして瞬足であった。このあたりは大谷翔平を彷彿とさせる。ユーチューブの画像で、大谷については、身体の進化、努力、人間性をあげ、毎日テレビで応援していると語っている。

三原マジック」といわれた義父の三原脩から受けついだ野球と人生にかんするメモを満載した「三原ノート」は、日本ハム栗山英樹監督に引き継がれた。その流れがWBCの優勝につながっているのだろう。

現役引退後は監督として日本ハムファイターズ阪神タイガースなどの監督や代行を務めた。またいくつかの球団のコーチとして、若松勉岡田彰布掛布雅之宮本慎也など多くの逸材を育てた名コーチでもあった。中西はグラウンドでの豪打に似ず、意外なことに繊細な性格だったという見方が多いことを初めて知った。

中西の活躍した時代は私が小学校にあがる前である。私は長島のいる巨人ファンだったが。周りには西鉄ファンが多かった。その中心にいたのが中西だった。

中西太座右の銘はナニクソをもじった「何苦礎」である。何ごとも苦しい時が自分の礎をつくるという意味だ。この言葉は後輩にも影響を与え、岩村明憲田口壮らが引き継いでいる。豪打、俊足の天才打者・中西太はナニク魂の持ち主だったのだ。

 

 

「公文情報塾」で「参謀論」をミニ講義。

「公文情報塾」は辻政信『潜行三千里』と前田啓介『日本の参謀』の読書会。

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企業で「参謀」を志していたいた私は、「海軍」「陸軍」「参謀」「大東亜戦争」など分野の本を多く読んできている。

JAL客室本部時代は、この組織は海軍出身者がデザインしたのだろうと考え、海軍の人事制度なども参考にしていた。本社時代は、参謀本部所属の参謀として作戦を担当していた感覚だった。

最初の新設大学でも、次の改革に力を注いだ大学でも、参謀的立場で仕事をし、最後は司令官的立場にあった。

こういうバックグラウンドから指名を受けて、私は「参謀」をテーマに30分のミニ講義を行った。その後、参加者の読後感が発表された。

  • 「明治」の参謀の代表として日本海海戦を勝利に導いた天才・秋山真之の戦略構築の真髄。
  • 「昭和」の参謀を語る上での時代認識として、近代・現代を40年というくくりで解説。富国強兵、軍国主義、経済戦争。失われた30年という4つのステージ。
  • 陸軍と海軍の人材養成プログラム。幼年学校、陸軍士官学校海軍兵学校)、陸軍大学(海軍大学)。それぞれの学校卒業者の成績順位による進路。
  • 二・二六事件は陸士出身の準エリートの「皇道派」と、陸大出身のエr-ト「統制派」の戦いであもあったという側面。
  • 「歴史探偵」を自認した半藤一利『昭和史』(オーディブル68巻)での「昭和史の教訓」は「根拠なき自己過信と底知れぬ無責任」。
  • 石原莞爾『世界最終戦争』:西洋覇道のアメリカと東洋王道の日本の最終決戦。新兵器の開発競争。東亜連盟の建設と昭和維新の断行。
  • 辻政信:「作戦の神様」と独断専行の「悪魔」という両極端の評価。戦後の議員活動。『潜行三千里』にある「我等は何故負けたか」の解説。その通りなら戦争をやるべきではなかったし、勝てるはずもなかった。NHKスペシャル「ノモンハン 責任なき戦争」。辻はほぼ全滅の作戦を指導。
  • 瀬島龍三恩賜の軍刀。シベリア11年。伊藤忠商事トップ。中曽根政権のブレーン。瀬島の「敗因」論。

軍隊は日本の官僚組織の原型であり、今後もずっと研究すべき対象である。太平洋戦争は米中の連携に敗れた。日本は米中とのバランスをとることが必要。

最後に中国革命は日本人の支援者なくしては成し得なかったという観点から、秘話を少し解説した。井戸を掘った人2人(周恩来)。

  • 中国と台湾と日本の人物記念館、企画展、そして読書歴。
  • 松本重治『上海時代』:「日米関係の核心的問題は中国問題である。日米関係は日中関係である」。
  • 岡崎嘉平太:100度の訪中。「あと30年たったら、世界における今の中国というののは、えらいものになる。おそらく、ソ連は追い越し、アメリカにも追いつくだろう。、、そういうときが来たときに、もし、日本民族と中国民族との間に、不信感があったとしたら、息苦しいのは日本じゃなかろうかと思います。」「基地については、外国の軍隊が今後二十年、三十年、五十年にわたって日本に駐留し、日本が実際の自己防衛を行わないという状態がつづけば、日本民族はおそらく骨抜きになるだろうと私は心配する。そこで、日本民族が生きるバックボーンをもつために、基地は漸次、できるだけ早く撤去しなければならない」「日米安保条約だけに固執せず、より広い視野からアジアの安全を考える必要があると思う。また、日本の安全は日本人自らが守るのだという気概をつくりあげてゆくことが必要なのではないだろうか」

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新宿で橘川さん、二仁上さんと昼食。打ち合わせ:「アクティブ・シニア革命」(特集2本。連載と単発。アドバイザー会議。図解の募集、、)。図書館問題チーム。、、、、

「龍乃都飲食街」

新宿東口横丁オフィシャルサイト https://ryunomiyako.com/

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日本全国の名物料理がすべて味わえるという趣向。

フロアマップ

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早乙女勝元|人物|NHKアーカイブス

「名言との対話」5月10日。早乙女勝元「知っているなら伝えよう。知らないなら学ぼう」

早乙女 勝元(さおとめ かつもと、1932年3月26日 - 2022年5月10日)は、日本の小説家児童文学作家。享年90。

1945年3月10日の東京大空襲を12歳で体験し、九死に一生得る。それが生涯にわたる反戦・平和活動の原点となった。

1952年に18歳で書いた『下町の故郷』が直木賞候補となる。1956年『ハモニカ工場』で作家に。1970年、「東京空襲を記憶する会」を結成。2002年に「東京大空襲・繊細資料センター」を設立。17年間にわたり館長職にあった。

100冊を優に超える単著、50冊ほどの共著がある。東京下町で働く姿を描いた作品が多い。そういった平和な生活を守るための「ライフワークとして「反戦・平和」を生涯にわたり追求した人である。

ベトナム戦争に関する著作もあり。「東京大空襲」については、子ども、母と子、家族、青春など様々の観点から書いている。また、文章だけでなく、図説、漫画、絵本、映画、ドラマ、舞台などの表現にも協力している。

こういった貴重な活動は評価されて、日本ジャーナリスト会議奨励賞(1971年)、菊池寛賞(1975年)、日本アカデミー特別賞(1992年9などを受賞している。

早乙女勝元は「東京大空襲・繊細資料センター」を江東区に設立し、その記憶を永くのこすための活動を行っていることは特筆すべきだろう。

「未来へと語り継ぐ戦争の惨禍と平和への願い」をこめて、「空襲体験の継承講話」と「展示ガイドツアー」も実施している。

ホームページをみると4月27日には「二瓶治代さんの空襲体験の語り継ぎ」あり、5月25日には西尾静子さんの語り継ぎがある。展示ガイドツアーは5月には2度予定されている。この資料館には訪問したい。

NHK映像ファイル「あの人に会いたい」をみた。「過去の歴史の意事実を今きちんと知る、学ぶことが戦争への道のブレーキになる。平和は歩いて来てくれないんだ」と語り、「知っているなら伝えよう。知らないなら学ぼう」と言っている。記録と記憶を「追体験」で残していこうするライフワークを最晩年まで続けた偉い人である。

 

明日の「読書会」の準備ーー「昭和の参謀」と「日中関係秘話」

明日の読書会の資料作成。明日さらに準備。

『潜行三千里』など過去に読んできた読書録を整理する機会になった。また『昭和の参謀』は個別の人物を改めて考える機会になった。

太平洋戦争を敗戦に導いた「昭和の参謀」と、戦後に忘れられた「日中関係秘話」を改めて整理することができた。

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「アクティブ・シニア革命」の図解のブラッシュアップ。

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壽崎肇氏死去 スーパー「寿屋」創業者|【西日本新聞me】

「名言との対話」5月9日。壽崎肇「入社してくる学生は南九州出身者が多い、この人たちの両親が寿屋を育てて下さった。その恩返しがしたい」

壽崎肇(すざきはじめ 1926年3月16日ー2022年5月9日)は、実業家。享年96。

大分県佐伯市出身。1947年、佐伯に化粧品店を開業。1957年、株式会社寿屋を設立し社長に就任。1961年、総合スーパー1号店の「寿屋ストア」を開業し、食料品や日用品の販売に進出。1973年、福岡証券取引所に上場。

「商業界」の倉本長治から商売の基礎を学び、ペガサスクラブの同い年の渥美俊一から成長のやり方を学び、九州で一番おおきなチェーンストアに成長した。1975年に406億円だったが、1983年には売上高は2457億円に達した。1985年、上場後初の赤字。1990年に会長。92年から95年は最高顧問。

寿屋は業績の悪化のため、2001年に民事再生法の適用を申請。2002年、全店舗が営業停止に追い込まれた。私の故郷の中津市の中心街には寿屋のビルがあり、時々買い物をしていたが、いつの頃か営業をしなくなり、今ではそのビルも取り壊されて他の企業が営業をしている。

1980年から1990年にかけて、「恩返し」として熊本、大分、宮崎、鹿児島にそれぞれ公益財団法人壽崎育英財団を設立し、いずれも壽崎肇が理事長となった。4県あわせて、毎年140名の奨学生を採用し、返還義務のない奨学金を現在も支給している。奨学生は毎月の近況報告の提出の義務があり、そのレポートは誰でも読むことができる。現在の理事長は、(株)ヨネザワ創業者の米澤房朝。

寿崎肇は85歳の誕生日パーティで、寿屋のOBたちにお礼のことばを述べている。そして「私は、炊事洗濯掃除一人でやっております。妻の供養10年になり息子その嫁の供養を各10年しますから92歳までは生かして頂きたいと思っております」と語っている。

実際にはそれから10年以上の寿命があり、96歳で天寿を全うしている。壽崎肇が一生をかけ、15000人の従業員数を誇った事業は亡くなってしまったが、本業の余力で設立した社会貢献の財団だけは生き残ったことになる。「恩返しをしたい」という気持ちが、結果的に名を残すことになった。栄枯盛衰は世の習いであるが、人も国も絶頂期に何を遺すかを考えるべきだという教訓としておこう。

 

 

 

 

 

図解「JAPAN」プロジェクトーー「刺青」「インスタントラーメン」「囲碁」・「加熱寿司」

「図解塾」は図解「JAPAN」プロジェクトが進行中。

規定科目:「刺青」「インスタントラーメン」「囲碁

自由科目:「加熱寿司」     f:id:k-hisatune:20240509051142j:image

以下、塾生の学び。

  • 久恒先生、みなさま、本日もありがとうございました。今回は、図解「JAPAN」プロジェクトの「日本文化編」3回目。規定科目の『日本を知る105章』から「3_刺青」と「4_インスタントラーメン」と「5_囲碁」、自由科目として「加熱寿司」の4つの図解の発表がありました。規定科目では、先生から、書籍の本文を読んで図解していく中で、疑問に思ったり情報不足だと思ったら、他で調べてその内容を追加してもいいと説明がありました。例えば地理的要素を加えると内容が広がり、歴史的要素を加えると深みのある図解になるからです。そして、発表後の意見交換での内容も加味して図を更新すれば、その図は著者から離れて図解塾独自の作品になるとのことでした。私は今回、「4_インスタントラーメン」のテーマを担当し、発表後、先生や参加者から、見出しを「〇〇戦争」で統一したり、書き込む単語を修正(韻を踏む、変化をつける等)したりすることで、より見やすくわかりやすくなるというアドバイスをいただきましたので、更新したいと思います。 次に、自由科目ではコラムを書くために作成した図解の発表がありました。文章にしたい内容をまず図解にし、それから文章を作成したとのこと。文章の紹介はありませんでしたが、図解がわかりやすかったので、コラムの出だしとまとめの部分のメモが追記されたとき、コラムの全体像を既に掴んだような気になりました。4つの図解を通して改めて実感したことは、内容の「関係性(つながり)」をしっかり掴んでいないと図解にできないし、図を俯瞰して見ることで、逆に作成した図解から文章の矛盾やあやふやさなどを見つけ、どうあるべきかを考えることが可能なんだということ。次回以降も「日本文化編」の課題が続きますので、早い目に図解を作成し、時間をおいてから俯瞰し、矛盾点や解釈の誤りを見つけて修正するなど、誰にとってもわかりやすい図解の作成に向けチャレンジしたいと思います。引き続きよろしくお願いいたします。
  • 久恒先生、皆様、おつかれさまです。本日図解塾は、連休明けのみやげ話で始まりました。①旧い街並み探訪し文人ゆかりの場を幾つも発見、②シェア書店で在庫リスト作成の実験、背表紙の画像認識がカギ、③芸術祭に参加し古布アートにチャレンジ、④ボランティアのシンポで活動報告に感銘…『表現する必要に迫られ沢山動くようになる説』だとか、塾生各位の意識レベルは着実に進化!。久恒先生からは、パワポ化された「アクティブシニア革命」構想図メモを紹介頂きました。紙面に紡ぎ出された「アイディア」は文字フォントや□〇の囲い込み効果により明瞭に「意味づけ」が強調され、『一目でわかる情報』へと深化。「学ぶ」「交わる」「表現する」といった単純な動詞で見出しされた、夫々のグルーピングは、さしずめ博覧会のパビリオンの様相でそれだけでもワクワク致しました。一方明瞭になった事により更なるリファイン個所が見出され、「情報の進化と深化」を目の当たりにする事が出来ました。さて本題。前回より始まった『図解 [Japan]  プロジェクト』はいよいよペースアップ。本日は全4件の図メモ解説と質疑を行いました。【日本を知る105章#3_刺青】:「ペインティング」との対比では、ピアスの様な「痛くない体への削孔」の事例も有り、広がりの余地。また、「虚用」に替えて「虚栄」と改めるとベターといった「原文に対する課題」が明確化され、図解化の威力を体感する事が出来ました。本だから、活字だからと、文章に騙されてはいけない。【#4_インスタントラーメン】:時系列を中央に据えたレイアウトで対象物が進化する過程の話題である事が一目で判るその図に沿い記された「出来事」の注釈は、「発明」→「開発」→「生産」という様な『一般化されていくプロセス』が感じられる様、敢えて原文に対し異なる文字を使う事により一層分かり易くなるという効果を体感出来ました。また「インスタント=偽物でやっつけ」といった第一印象を払拭して「夫々の時代の『戦場』で頑張る人々に、いつでも摂れる暖かい食事で元気になってもらう」という作り手の心意気を感じる事が出来ました。【#5_囲碁】:対象物の説明に限らず専門的な用語や数字の裏付け(リアリティ)や地理・歴史夫々の目線に立った背景説明により、原文よりも尚一層の「広がり・深まり」が感じる事が出来ました。「ダメ押し」「一目置く」「大局観」など、何気に使う言葉が囲碁発祥のものとは大変以外でキャッチーでした。【自由課題_加熱寿司】:「おいしさ」「安心」という言葉で代表される『魅力品質』を支える7つの「こだわり」夫々がシンプルなことばで表現されており分かり易かった。敢えて言えば、もっと言葉をそぎ落とし、ホントの「単語」を大フォントサイズでドーン置いたら、もっとストレートに分かったかも、また「素材」「調理」「大原則」等、グループ分けする事により一層の分かり易さのポテンシャルを感じる事が出来ました。まさに文章箇条書きでは伝わらない図メモ化すべき好例として大変良かったと思いました。1.地理的視点(広がり)と歴史的視点(深まり)夫々で図を構成する事は俯瞰で意図を明瞭に伝達し得る必須の心得である事を再確認できた事。2.必要個所はたとえ原文と異なろうとも「裏付け・補足」や「修正」を付加して図解化すると寧ろ原文の意図に沿ってより明瞭に情報が伝わる事。以上が本日の学びとなりました。有難うございました。
  • 本日の図解塾ありがとうございました。規定科目の『日本を知る105章』の図解では、「刺青」「インスタントラーメン」「囲碁」の3つを扱い、自由題では「加熱寿司」の図解の発表を伺いました。担当した「刺青」では、日本の刺青が「聖なる1回性」と「美」に結びついているところに「日本」を感じましたが、図解を共有する中で、時代や国の違いなどによる「刺青」の捉え方も様々であることなどの話が出て、より深い理解に繋がりました。「インスタントラーメン」では、「戦争」というキーワードを軸に、過去から、現代の「受験戦争」に至るまで見事に繋がっている様子が見えて、面白いと思いました。また、『囲碁』では囲碁の目的や用語、生誕、面白さ、日本での歴史、世界への広がりなども図解で表現されていて、一目瞭然、パノラマ的に理解することができました。そして、今日の一番の学びは、文章を図解していく際に、自分で調べた内容や関連する事柄なども追記していくと、より理解が深まり、オリジナルな図解ができる、という点です。次回からぜひ実践していきたいと思います。 また、最後に、「身体性を伴って初めて知となる」という話があり、図を繰り返し描いていくことは「身体性あり」と伺いましたが、大変興味深く、印象に残りました。ありがとうございました。
  • 今日もありがとうございました。多くの学びやリマインドがありました。本題に入る前にも数多くのことが学べました。(1)近況報告の中であちこち活発に行かれた方がコラムの題材がたくさんできたということから「表現するために動く」。(2)「これまでがこれからを決める これからがこれまでを決める」という新しい名言、全く共感します。特に後半の部分。現在や未来からの視点で自分の過去を振り返り、改めて価値付ける作業、重要なことを再認識しました。(3)「締切ギリギリの仕事ではろくなものができない。早めに書いて寝かせておく。」自戒として。今日は「刺青」「インスタントラーメン」「囲碁」それに自由課題の「加熱寿司」でした。単に原文を図解にするだけにとどめず、その背景ー歴史、地理などーも調べることにより一層の理解が増すことがよく分かりました。また、例えばインスタント食品は「戦争(実際の戦争だけでなく受験戦争やビジネスの戦争も)」という状況の中で普及していったという新たなストーリーを見いだすことによりさらに深みが増し面白くなることも学べました。次回以降も楽しみにしております。
  • 久恒先生、みなさま、ありがとうございました。冒頭の、皆さんの活発なゴールデンウィークの近況をお聞きし、それを「伝える」こと、「表現するために動く」という言葉が印象的でした。アウトプットしていきます。また、「これまでが、これからを決める。 これからが、これまでを決める」という連休中に考えついたと言われる言葉から、つねに「これからが大事」ということを、身体にしみこませながら考えていきたいと思いました。本題の、「『図解』Japanプロジェクト」は、「刺青」「インスタントラーメン」「囲碁」についてのコラムの図解でした。いずれも中国が発祥の地だったとはびっくりです。「刺青」のすごみを改めて感じ、「インスタントラーメン」は戦争とともに発展してきた歴史を知り、「囲碁」は麻雀と比較して、プロ棋士は人生を賭けて試合に挑んでいる。また近年はオリンピック競技を目指していることを再確認できました。 担当した「囲碁」は、歴史と地理的な広がりについても補足の図解を載せてみましたが、質問されるとわからない箇所もあり、そこを深堀していくことで、どんどん理解が進んでいく様子が予想できました。さて2週間後もどんな文化を深堀できるのか、楽しみです。
  • 5月の図解塾に参加させていただきました。久恒先生、皆様ありがとうございました。今回は、「日本を知る105章」の中から、①「刺青」松田修さん、②「インスタントラーメン」種村孝弘さん、③「囲碁近藤啓太郎さん、④「加熱寿司」についての文章を図解で説明されました。①「刺青」については、所属する集団を示す「虚用」については、なんとなく理解していたが、好きな人の名前を彫ることは愛の検証と確認の意味で「実用」に分類されたり、ボデイペインテイングも身体装飾の一つとして「刺青」と身体装飾としては、同じ分類になることは知りませんでした。②「インスタントラーメン」は、もともと中国人が、朝鮮戦争で兵士が携帯するために発明したとは知りませんでした。日清食品の創業者安藤百福さんが、チキンラーメンを発明されたのが、はじめと思っていました。③「囲碁」については、中国で何百年もかかって作られたゲームで、今日では、多額の賞金がかけられ、プロは、生活と名誉がかかる命がけの勝負ということが伝わってきました。五輪競技として採用も目指している事がわかり、将来ますます発展していくと思いました。④「加熱寿司」については、寿司は、生ものという印象がありましたが、常識を覆す発想が、とても興味深かったです。「おいしさ」と「安心」を目的に、7つのこだわりを大切にしていることがよくわかりました。「すべての人に寿司のおいしさを届けたい」思いが伝わってきました。今回も参加された方のさまざまな視点が共有され、とても楽しかったです。 次回も楽しみしています。ありがとうございました。
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「名言との対話」5月8日。捧賢一「開業の初心忘るなと春一番雪のなか白梅の咲く」

捧 賢一(ささげ けんいち、1933年6月24日 - 2018年5月8日)は、日本の実業家株式会社コメリ創業者。

新潟県三条市に生まれる。農林高校卒業後、実家の米穀店に就職。1952年、米利商店を創業。1976年、アメリカでホームセンターを視察後、ホームセンターに業態を転換する。1979年 - 株式会社コメリ代表取締役社長に就任。

新潟県三条市は日本一の金物の産地で農業の盛んな地域.であり、開業時より、金物や工具、園芸、植物、農業資材などを主力に扱っている。人様の物真似でなく、お客さんの声を聞き新しい業態となった「ハード&グリーン」はお客さんの2から3割が農家で、農村地帯では7から8割だ。食は生命と深くかかわっており、農業は決してなくならないとし。長靴、短管パイプ、セメント、灯油、、、などを販売し支持を得ている。「小売業はあくまで、お客さんの支持により生かされている存在で、結局は、世の中に必要とされているかどうかだ」とし、コメリは独自の戦略を貫いた。首都圏では馴染みがないが、コメリは妻の実家の群馬県館林の農村地区でも見かけたことがある。

 競争は世の常なれどきびしかり学びし老舗の廃墟むなしき

 入社式コメリの夢を語らえば新入社員の瞳かがやく

労働分配率総資本経常利益率を大事にし、社長在任中は増収増益を続けた。ホームセンターの市場規模は4兆円、それに農業関係の資材をくわえると9兆円の規模になる。「近さ、安さ、品揃え」を見据え、「船団方式」による出店戦略だ。低価格と圧倒的な品揃えの「パワー」を中心市街地に、近さと買いやすさ等の利便性を追求する「ハード&グリーン」を小商圏で埋め尽くし、インテリア用品の専門店「アテーナ」、資材・建 材・工具・金物の専門店「PRO」も展開する。2019年3月期には、営業収益3468億6300万円、経常利益182億3700万円まで、業容が発展している。

2003年に会長になり、地域での文化活動に注力した。地元の八幡宮再建の先頭に立つ一方で、雪梁舎美術館を創設する。ショッピングセンターを計画した際、その土地が地元の大庄屋が祖先を祀ってきた場所であることが分かる。また越後七不思議の一つ焼鮒(やきふな)の伝説が残っていた。ふるさとの財産ともいうべき大切な地に、地元の美術振興を願って美術館設立の構想を推進した。そして若手芸術家の育成を支援するなど、地域における経済、文化の基盤づくりを支えてきた。

捧賢一は「お世話になった市民の皆様やお客様にご恩返しをしていく」と繰り返し話していたので、没後に家族は、子どもたちのスポーツ環境の整備とし、時代を担う子どもたちの健全な育成に寄与したいということで2億円を寄付している。 市長は、遺志にこたえて「三条市コメリ捧賢一記念少年スポーツ育成基金」を創設している。

「初心忘るべからず」は、事業発展の大事な考え方だ。一方で、若いときには、商売に気乗りしなかった二十代にはうたごえ運動などに参加するなど、仕事よりも社会運動に精を出していた。そういった気質は、晩年の地域における優れた文化活動につながっている。ここにも初心を忘れない捧賢一の姿がある。

『捧賢一 歌集』を読了。

 毎年詠んだ短歌を年代順に並べた立派な歌集。実業人らしいのは毎年の歌の冒頭に、コメリという会社の売上高と店数を記してあることだ。それは昭和63年(1988年)の「売上高181億円・店数57店舗)から、平成18年(2006年)の「売上高2474憶円・店数763店舗)まで続く。事業の発展と並走して歌を詠んできたという構成だ。

金子兜太と黒田杏子が巻頭をかざっている。金子兜太は「こういう人間を本物というのだろう」「しろうと恐るべし」、黒田は「捧さんは微笑佛です」と語り、それが歌集のタイトルとなっている。捧本人は「私の歌はどれも日記のような、素人の平凡な日記です」という。歌を自分のための日記であると考えればいいといいうことがわかった。

1988年「慎ましく広き背なりし学びおる人はダイエー中内社長」「日本にチェーンストアつくらんと渥美先生火のごとく燃ゆ」

1990年「旅立ちの息子は友に囲まれて母はひとりで泪ぐみおり」

1992年「ロスの旅古きホテルの片隅に飢えたるごとく『日経』を読む」

1993年「還暦を迎えし朝わが妻はあじさい床に生けてくれたり」「母の声に呼ばれしものか夢覚めて宿の障子は白みゆきたり」

1995年「ひとすじにビッグビジネス取り組めり松田先生と上場プラン」

 1996年「亡き父に大連米利を報告す鐘楼堂の桜うつくし」

1997年「わが友を降格させし夜はさびし松原禅師の心経を読む」「亡き父は米寿の祝いなすころか東証一部上場お褒めくだされ」

1998年「アカシアの並木を抜けて朝日さす大連コメリの開店の旗」「己が舞」舞いてみれやと小椋佳われも生き抜く不況のりこえ」

2000年「1000億企業達成なせし夜は一人静かに感傷もよし」「情報化コメリドットコム開設す人の心をいかに伝えん」

2001年「桜咲く皇居の前のホテルにて資本提携調印なせり」

2003年「新株の発行なしてこの乱世生き抜くための地盤つくらん」「大引けの波乱の株価決まりたり一人ホテルに決断をなす」「大阪の百億企業を譲り受く住吉大社に日輪おろがむ」「激震の惨状のなか己が身をかえりみず朋友客を守りぬ」「おめでとう古希を祝いてくれし妻古き家にて年かさねたり」「七十歳のわが誕生日うららかに鳥さえずりてあかるき日なり」

2004年「商いて五十余年を過ぎきしにまたくり返し原点に立つ」

2005年「流通の革命叫びし中内さん逝きて戦後は六十年となる」

ダイエー創業者の中内功をうたった歌が、最初の「中内社長」から、最後の「中内さん」まで2首ある。呼び方からこの人の生涯がみえてくる感がある。歌は日記であり、歌は自分史である。

『エマソン選集6 代表的人間像』

エマソン選集6 代表的人間像』(日本教文社

「人間である限り可能性として誰でもがすべて偉人なのだと説く本巻は、人間に宿る魂の現れ方をそれぞれに代表する6人の偉人により論じている」

この6人とは、「哲学に生きる人ープラトン」「神秘に生きる人ースエーデンボルグ」「懐疑に生きる人ーモンテーニュ」「詩歌に生きる人ーシェイクスピア」「世俗に生きる人ーナポレオン」「文学に生きる人ーゲーテ」である。

以下、西本雅之「訳者あとがき」から。

  • 古代から19世紀にいたる人類の歴史の中から、それぞれの分野を代表する6人の偉人を論じる
  • エマソン「人それぞれには、彼なりの天職がある。才能は、神に与えらえた使命である」「決して他人を連想させないような人こそ偉大なのだ」
  • エマソンの「偉人」は、、、、人類になんらかの利益を与える全体の中の個人である。
  • 「われわれは、偉人の召使いになりさがるが、それは精神的な自殺である」「英雄たちは、相対的に偉大なのである」

エマソン選集7 たましいの記録』。「兄弟の中で最も凡庸とみられたエマソンが、劣等感や病弱などの不幸を克服して、絶対的な自己信頼を強調する立場までいたった刻々の歩みを辿る」

内村鑑三『代表的日本人』は、アメリカ人のエマソンの『代表的人間像』の触発されて書いたものだ。この本ではヨーロッパの偉人が紹介されている。内村はこの本をモデルとして、日本に応用したのだ。『代表的日本人』では、日蓮中江藤樹二宮尊徳上杉鷹山西郷隆盛の5人を取り上げている。

エマソンは、自身が凡庸であるとみられていたこともあり、誰もが偉人になる可能性があるとの考えであった。

私の「名言との対話」は、エマソン内村鑑三の系譜を引き継ぐ事業であるとしておこう。

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図解塾の準備

『塞王の盾』:オーディブルで4章、5章。

NHK「昭和人物史」の「永井荷風」を聴く。

読書会のテーマの「参謀」のまとめに着手、

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「名言との対話」5月7日。田中健五「新鮮な頭蓋骨を探して来なさい」

田中 健五(たなか けんご、1928年6月4日 - 2022年5月7日 )は、日本のジャーナリスト、編集者、実業家。享年93。

海軍兵学校、旧制東京高校、東大文学部卒。1953年に文芸春秋社入社。

新入社員時代は、池島信平編集局長から指導を受ける。『文学界』では、石原慎太郎江藤淳らと親交を結ぶ。『大世界史』の通史では、林健太郎ら学者と出会う。オピニオン誌『諸君!』初代編集長となり、本田靖春、柳田邦男、岩川隆らのライターを育てた。三島由紀夫には1970年8月に、政治的な思想についての原稿を頼んだ。三島は語り、それが「革命哲学としての陽明学」となった。その数か月後に三島の自衛隊乱入があり、それを田中は予想していた。田中は、三島の父の平岡梓に「倅・三島由紀夫」を書かせている。それは私も読んだ記憶がある。

「対談、座談会のまとめは、速記録に頼ってはいけない。対談の場の雰囲気を思い出しながら、原稿を新たに書くつもりでまとめていく。発言者は、こういうことを言いたかったのだろうかと疑問に思ったら、遠慮せずに加筆する。たとえそれが逸脱したことであってもいい。著者校正の際に発言者が訂正してくれるから心配はない」

文藝春秋』編集長となり、立花隆児玉隆也を起用し、外国人記者クラブで、文芸春秋の記事にコメントしたのをきっかけに火がつき、田中角栄首相を退陣へ追い込んだ。「自民党というのは、ぬえのような存在で、洗い直すことはできなかったけど、立花君はクールにやったらどうだろう、と」と、回想している。「特集・田中角栄研究は、正義感からではなく好奇心から発した企画である。新聞その他のマスコミが教えてくれないから本誌が企画するのである」

1977年『週刊文春』編集長。『タイム』『ニューズウイーク』のようなクレディビリティ(信頼性)のある週刊誌に変えると宣言し、週刊誌ブームの中で梶山季之らの助けを借り、上之郷利昭、上前淳一郎、田原総一朗ら若手ライターを起用し、『週刊文春』に革命を起こした。

「編集者は、よくよく考えなければならない。これと見込んだ編集者に、物書きは誰にも言えないこと、お金のことや異性関係を相談することだってある。それをいちいち外に漏らしていたら、信頼されない。黙して、みんな墓場まで持っていく」

1988年、第7代文藝春秋社長に就任。花田紀凱を低迷していた「マルコポーロ」の編集長に起用したが、ホロコーストは捏造とした記事で世界中から批判を浴びた「マルコポーロ事件」で花田を解任し、自らも社長を退任し、会長に退いた。

「昭和史」研究の第一人者の半藤一利は同期入社である。半藤は専務取締役まで昇進したが、最後は退社し「歴史探偵」として活躍した。タカ派スキャンダル路線の田中と半藤のライバルは体質的にあわなかった。半藤は2021年、田中は2022年に亡くなっている。

田中は毎朝、地下鉄の売店やまちの書店など3カ所を必ず回って自分がつくった雑誌の売れ行きをみる習慣をもっており、読者の反応を常に自分で確かめていた。

「物事を知るには、他人の経験と頭を借りることだ。人ひとりの頭脳などたかが知れている。10人の優秀な人を知ったなら、君ひとりで10個分の頭蓋骨を持ったことになるじゃないか。昼飯代などいくらでも出すから、とにかく、新鮮な頭蓋骨を探して来なさい」。これは田中の指導を受けた編集者・斎藤禎が言われた言葉だ。

名編集者として大をなした田中健五という人物は、どの仕事についても人脈形成を怠らなかったし、その都度、新たな挑戦をしている。その原動力は、正義感ではなかった。好奇心だ。「学歴のない田中角栄がなぜ首相になれたのか」。それは好奇心あふれる読者の目線である。メディアの退潮がいわれる現在も、独り勝ちの「文春砲」に今も田中健五の好奇心あふれる目線は生きているようだ。

 

川柳:選句と投稿句ーー「好き者が 道楽を過ぎ 極道へ」

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(公園を散歩中に出会った「山つつじ」)

 

3月の「松戸川柳会」への投稿をうっかりして忘れていた。

そのため4月号の「川柳まつど」には私の投稿句は載っていない。

そこで、畏れ多いことだが選者になったつもりで、紙面に載っている句の中から3句づつ選んでみた。そして、自分の句を並べてみる。

宿題「丸い」 久恒吐鳳選

 一呼吸おいて言葉を丸くする

 苦も楽も知ってざんげの丸い石

 ちゃぶ台が丸く収める家族の輪

 久恒吐鳳

  三角が 四角になって 丸になり
  それぞれの 始発終着 山手線
  まん丸の 孫の笑顔が たまらんな

宿題「めきめき」  久恒吐鳳選

 めきめきと自我が芽生える反抗期

 他人とは違う絵柄が群を抜く

 泣き虫がいつの間にやら部の主将

 久恒吐鳳 
  メキメキと 骨音高く 部下伸びる
  ニョキニョキか メキメキなのか わからんぞ
  メキメキの 戦後が終わり ダーラダラ

宿題「マニア」 久恒吐鳳選

 オタクからマニアに変わる引籠り

 韓ドラに嵌った妻が帰らない

 うんちくを言わずにおれぬワイン通

 久恒吐鳳

  好き者が 道楽を過ぎ 極道へ
  どっちかな マニアとオタク 俺の趣味
  マニアック 褒め言葉とは 受け取れぬ

宿題「曲げる」 久恒吐鳳選  
 良心ををポストとカネがとろけさす

 異端児と言われて嬉しいへそ曲がり 

 性格の曲がりに添え木当てておく

 久恒吐鳳
  信念を 右や左に 曲げたヤツ
  痩せ我慢 誇りは曲げず 最後まで
  生き方を 少し曲げると 行きやすい

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朝:都築さんとズームミーティング

昼:蕎麦の「古潭」で夫婦で打ち上げ。

夜:都築、力丸、松本のズームミーティング

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「名言との対話」5月6日。松下圭一「歴史の変化のなかに現実の構造変化をみ、また現実の構造変化を推し進めて歴史の変化をつくりだす」

 松下 圭一(まつした けいいち、1929年8月19日 - 2015年5月6日)は、日本政治学者。享年85。

福井市出身。第四高等学校を経て東大法学部卒。丸山眞男に師事。法政大学巨樹。日本政策学会理事長、日本公共政策学会会長などを歴任。

マルクス主義全盛の時代潮流において大衆社会論を引っさげて論壇に登場し、地方自治のイデオローグとして活躍した。「新しい時代は新しい言葉を必要とする」との考えから、松下の造語は「自治体改革」「政策法務」「情報公開」「市民参加」「シビル・ミニマム」「官僚内閣制」、、など多くかつキレがいい。そしてその多くは今では普通に使われている。

シビル・ミニマム(生活権)は私の大学生時代に話題になって、一時「都市問題研究会」(都市研)をつくろうとしたことを思い出した。もしつくって活動していたら、その後の私の歩みも変わっていたかもしれない。

日本政治学会会長、日本公共政策学会初代会長をつとめたこの学究による現代批判は聞くに値する。

・市民保護に不可欠の原発についての地域防災計画などの策定にも充分に対応できていない。基幹道路が一本しかない原発すらある。自治体は無責任、国は見識なし。

・2世、3世がふえて幼稚化しがちな政治家、官僚、経営者、同調する学者、記者といった「政官業学+マスコミ」には、市民良識で対抗させたい。

・未来に向けての予測・企画という、マクロの問題解決能力の欠如もいちじるしい。

絶筆となった85歳の自身の手になる『私の仕事』が、簡潔で明快に生涯の軌跡を記している。小学生時代の町内会費集め、旧制高校時代の市民文庫通い、大学での学生新聞編編集長、丸山眞男ゼミでの活動などから始まる生涯の歩みは亡くなるまで同じ道であった。

松下圭一の方法は「歴史の変化のなかに現実の構造変化をみ、また現実の構造変化を推し進めて歴史の変化をつくりだす」であり、市民起点の自治体改革から始まる市民型構造改革」が立ち位置である。

そのためには、価値合意を求めるための「構想力」の訓練が必要であるとする。思想-構想-現場-改革-思想という思考循環は、「現場」を熟知した理論形成であり、深い説得力と広い影響力があり、自治体職員など実務家にもファンが多かった。

その松下は、最晩年には日本沈没を予感し、市民社会構築への課題を提起して逝った。現今の社会を眺めると、その課題は的確であると改めて感じ、身が引き締まる思いがする。