『幸福塾』:「新・代表的日本人」シリーズ:今回は「切磋する敵、琢磨する友」のライバル編。

「幸福塾」の「新・代表的日本人」シリーズの「切磋する敵、琢磨する友」の1回目。「ライバル」がテーマ。

以下、塾生の学び。

  • 久恒先生、みなさま、本日もありがとうございました。今回はテーマ『新・代表的日本人』の第3回「切磋する敵、琢磨する友」でした。紹介いただいた人物は、大相撲力士の大鵬柏戸プロ野球選手の長嶋茂雄王貞治、小説家の夏目漱石森鴎外川端康成三島由紀夫ノーベル賞を受賞した物理学者の朝永振一郎湯川秀樹文化勲章を受章した小説家の舟橋聖一丹羽文雄、同じく画家の竹内栖鳳横山大観など、国民の多くが知っている大変有名な方ばかりでした。 この中で特に印象に残ったのは、柏鵬時代を築いた力士のお二人のことで、当時の子どもたちが好きなものの代表として「巨人・大鵬・卵焼き」があり、ライバルの柏戸の方には「阪神(大洋)・柏戸・目玉焼き」というのがあったということ。「巨人・・・」は知ってましたが、「阪神・・・」の方は初耳でしたので、対比のユニークさに思わず苦笑いしてしまいました。一方、現時点(令和の時代)でこれらの事例に匹敵するような有名人は誰だろうかと考えたところ、すぐ思い浮かびませんでした。国民の誰もが知っている凄い人と言えば、プロ野球大谷翔平選手や将棋の藤井総太8冠のような、好敵手と2人で切磋琢磨しながら成長した訳ではなく、単体で多大な努力をした結果、突出して大活躍しているというパターンが多いように思いました。多様性が求められ、認められる時代だからこそ、これまでと違った取り組み方が活きてくるのかもしれません。誰とつながるか、どのようにつながるか、時代とともに進化しているようです。次回もライバルの続きだそうですから、どんなつながりがあったのか、興味が湧いてきました。楽しみにしていますので、よろしくお願いいたします。
  • 本日もありがとうございました。よく知られているライバル、意外なライバル、たいへん面白かったです。今日紹介された中では、北大路魯山人川喜田半泥子については名前を聞いたことがある程度でしたが一番興味深かったです。偉人もそうだし、私たちの個人史の中でもライバル関係にあった相手はいましたよね。ライバルの存在により、もっと向上しよう、あいつには負けたくないという気持ちが働くのは確かです。互いにライバルとは思わなくてもマスコミはじめ世間がライバルと見て、それで人気が沸騰することもあります。NHKの朝ドラ「ブギウギ」で笠置シヅ子淡谷のり子芸能雑誌記者がライバルに仕立てて記事を書くという場面がありました。むき出しの敵意をもったライバル関係もありますね。自民党の総裁選など典型的な例です。今日挙げられたライバル関係をはじめ、互いの向上に資するライバル関係に共通するのは「互いへのリスペクト」ではないかと思います。次回も続くということで、楽しみです。
     
    • 本日もありがとうございました。まず、「ほんまる」の棚を確保されたお話。神保町へ立ち寄ってみたいと思います。すてきな棚にできればよいなと思います。佐藤可士和さんデザインのほんまるは、見るのも楽しみです。講義の方は、切磋琢磨してきたライバルに注目した方たちのお話を聞きました。たくさんのライバルたちをご紹介いただいて、これまで幾度もお話を伺っているような気がしますが、ライバルとして二人並べてお話を聞くと、また違った側面で、性格も浮かび上がってきて面白かったです。だいたい天才肌と秀才肌、の組み合わせが多いように思います。天才だけど陰で努力されている方ばかりで、ライバルがいてこそだと思います。他を認め自分も努力し高めることが大切だと改めて思いました。白洲次郎白洲正子、二人はライバルだったのかどうかは分かりませんが、武相荘を訪れたとき、楽しく暮らしていたように見えました。図解塾の日本文化の白洲正子のコラム、実際に見ると、様子がとても分かりやすいと思います。武相荘、また訪れてみようと思います。次回もライバルのお話。よろしくお願いいたします。
    • 久恒先生、皆様、おつかれさまです。本日、幸福塾。先ずは恒例の久恒先生ブログ紹介から。①神田神保町シェア書店「ほんまる」、直木賞作家今村省吾氏の手により4月27日にオープン予定、久恒・橘川両先生は店舗の1階、深呼吸学部の田原さんは地階に、夫々棚を確保済との事。「今、本屋が潰れている」というニュースの中、書店のメッカとして有名なその街で「革命の予感」、ワクワク致します。(この後はすべて「名言との対話」から)②「大林信彦」(おおばやし のぶひこ 1938-2020 広島県尾道市出身 映画監督)、元々医者志望、途中から映画制作の道へ、自主映画⇒TVCM⇒ホラー⇒尾道3部作、独特なキャリヤ、「映像の魔術師」と呼ばれた。かの有名CMで氏が手掛けた作品多数とか。これはいつか深掘りしたい。『第2の黒沢にはならない、第1の大林になる』…オリジナリティを重んずる孤高のプライド、憧れます。③「三國廉太郎」(みくに れんたろう 1923-2013 群馬県太田市出身 俳優)  戦後、木下啓介作品へ出演した際の役名がそのまま芸名になった。『演じる事が生き甲斐、名優と言われたらおしまい』、嗚呼…スーさん。第2釣りバカ日誌の構想:西田敏行演ずる「浜ちゃん」は今や鈴木建設の社長で相変わらずの釣り三昧、ある日呑み屋で出会った「サトー」(演:佐藤浩市)は鈴木建設のエンジニア、アフリカ某国の石油プラント事業が内戦でとん挫し失意のまま帰国。抜け殻の様な彼を励ます浜ちゃん、ある時釣りに誘いいつしか常連に(もちろん身分は秘密)。ある日元気を取り戻したサトーが浜ちゃんに尋ねる。「あんた、どうしてそんなに親切にしてくれるの?」、浜ちゃんが答える「昔世話になった人が居てさー、似てるんだよ、あんたに…」、アッ、これはあくまで当方のフィクションです、悪しからず。④「田村正和」(たむら まさかず 1943-2021 京都市出身 俳優)ご存じバンツマの3男『俳優は白いキャンバスであるべき』…幅広い役柄を演じたマルチな俳優、一方で私生活は秘密を通す完璧主義、頭が下がります。⑤「モンキーパンチ」(本名かとう かずひこ 1937-2019 北海道厚岸郡出身漫画家)お馴染みルパン3世は代表作、2003年より東京工科大学大学院に学びその後大学で教鞭をとった、2足目のわらじ。『乾いた手拭いを絞る…これが勝負』…当方も社業で散々仕込まれました。「無い袖振るのがエンジニアだ!」って。氏の漫画で描かれた「ワルサーP38」や「メルセデスSSK」といったメカニズムのリアルさがとても印象的で、「技術好き」なお人柄がしのばれました。⑥「小池滋」(こいけ しげる 1931-2023 東京都出身 英文学者) 「余はいかにして鉄道愛好家になりしか」…内村鑑三著作のタイトルをパクるカッコ良さ、1997年刊の自伝のタイトル。本業に並び英国鉄道史研究でも名高い、JR東日本の「鉄道博物館」開業の10年も前の著作で鉄道車両保全を訴えた先見の明、サスガです。⑦「白川義員」(しらかわ よしかず 1957-2022 愛媛県出身 写真家) 『私の仕事はどれも歴史上類を見ない撮影』、中国、アメリカ、ヒマラヤ、南極…恐るべき行動力、撮影の苦労5%、現場に立つまでの苦労95%、ココでも出た!『段取りが全てを決する』。…さて、ようやく本題。前回まで2回にわたる『仰ぎ見る師匠』レクチュアに続き、今回からのテーマは『ライバル』。1) 『栃錦若乃花』 ☞トチワカ。栃錦春日野親方、理事長、両国国技館を作った、若乃花は次代の理事長、土俵の鬼、若貴のおじ。「力士は紳士たれ、礼節をわきまえろ」…現在相撲界の基礎。2)『柏戸大鵬』☞ハクホウ。ともに圧倒的な強さ、「巨人・大鵬・卵焼き」ちびっこのMy Favorite things。一方「阪神柏戸・目玉焼き」なるワードも有ったとか、ナンバー2繋がり。通好み、負けず嫌い体質…オレ、スキカモ…。3)『三原と水原』プロ野球、三原は早稲田、水原は慶応、互いに絶対負けないと誓う永遠のライバル、武蔵と小次郎。4) 『王、長嶋』プロ野球、ON時代のヒーロー、記録の王、記憶の長嶋。5) 桂と西園寺、桂園時代…明治大正の総理。6) 漱石と鴎外、本業は陸軍医、作家活動は夜、スミワケばっちり。7) 白洲次郎と正子、次郎、ケンブリッジ大学吉田茂のブレーン、GHQと対峙、マッカーサを叱った男、ネイティブスピーカーを手玉に取る英語力(英国仕込み)プリンシプル、一方正子は能・古美術研究、「巡礼とは自己発見の旅…」夫婦が互いの主義主張を認め合う、「大人の余裕」が垣間見え…憧れマス。8) 湯川秀樹朝永振一郎(ともながしんいちろう)、京大物理学科、湯川は天才、テーマをさっさと決めた。一方朝永はドイツへ活路を求め…、後年共にノーベル賞を受賞する。9)川端康成三島由紀夫、三島はノーベル賞を逃し家人にだけ悔しさを吐露したとか、後年両者共に自殺。三島も賞を取っていたなら二人とも生きる永らえる事が出来たか?。…今回もなかなかのボリウム、言葉のシャワーをたっぷりと浴びながら思ったことは、「切磋琢磨するライバル同士の互いを思う心」。互いを意識するから負けられないから、必死に技を磨く。相手が解ってくれているから心置きなく自分の課題に打ち込める。夫々タイプはあれど「掛けがえない相手の存在」というものが自らの成長に欠かせない。という存在意義を確認する事が出来た事が学びとなりました。さて、去る4月13日に東京南青山で催された「イコール創刊パーティ」は普段お目に掛かれないすごい人々との「リアル」な会合で非常に興奮したひとときを過ごす事が出来、大変有意義でした。当方は持参した東京新聞切り抜きの話題で、某社新聞現役記者様との談笑する機会が得られました。その際の図をご披露します。先日の大相撲春場所で新入幕優勝を果たした「尊富士関」の記事だったのですが、よく読むとそのわきに描かれた九重親方のコラムに俄然目が止まりました。「110年ぶりの快挙」を謳うその文頭では当時の出来事から始まる、子気味良い、コンパクトにまとまった文章から、「ただモノではない」気配を感じ調査。ご存じ「千代の富士」の愛弟子「千代大海」がその人で、生立ち~師匠との出会い~スピード出世~その後の親方・部屋継承と2世代にわたる「金のわらじ」のリレーのみならず、新聞コラム担当という『2足目』まで継承されていたという絆の強さを、「人生鳥観図」で表す事が出来ました。親方の華麗なプロフィールと強い絆を2ページに渡り図解致しましたのでup致します。併せてご覧いただけますと幸いです。有難うございました、次回も宜しくお願い致します。
  • 4月の幸福塾「代表的日本人」に参加させていただきました。久恒先生、皆様、ありがとうございました。今回の話題はライバルについてでしたが、とても参考になりました。特に、野球の巨人の長島茂雄さんと王貞治さんの話が印象的でした。お互いに切磋琢磨したからこそ歴史に残る素晴らしい記録を残した選手になったのだと思います。ライバルの話でよく耳にするのが、上杉謙信武田信玄に塩を送った話です。ライバルであっても、相手を思いやることが大切だと思います。いずれにしても、ライバルは成長のきっかけになると思います。これまであまり考えたことがなかったテーマでしたが、今回の話を通じて多くのことを学びました。 今後もこの学びを活かし、自分の成長に努めていきたいと思います。改めてありがとうございました。次回の代表的日本人にも期待しています。
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都築 功
 
 
 
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松本龍
 
 
 
 
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「名言との対話」4月17日。小池一夫「僕は80歳ですが、これからが自分が全盛期だと思っています」
小池 一夫(こいけ かずお、本名及び僧号: 俵谷 星舟〈たわらや せいしゅう〉、旧名: 譲〈たわらや ゆずる〉、作詞家としての別名: 東 文彦〈あずま ふみひこ〉1936年5月8日 - 2019年4月17日)は、日本漫画原作者小説家脚本家作詞家作家。享年82。
秋田県大仙市出身。中央大学法学部卒。時代小説家・山手樹一郎にまなび小説家を目指すが断念。その後、司法試験を受験するが3度失敗。さいとうたかをプロダクションをへて独立し、わずか数年で劇画界に一大勢力を築く。
1970年、「漫画アクション」連載の「子連れ狼」が大ヒットし、映画化、テレビ化された。アメリカにおける漫画ブームの先駆けとなった。1977年に小池一夫劇画村塾を設立するなど、新人の育成にも熱心だった。2000年に大阪芸大教授教授となり、ゼミで多くの漫画家を育てた。
世に出るまでゴルフ場、雀荘などに勤務したこと、また居合道、茶道にも詳しく、その雑学的知識が漫画に生きている。
小池一夫のキャラクター創造論ーー読者が「飽きない」キャラクターを生み出す方法』を読んでみた。
まずキャラクターから考える。名前、年齢、生い立ち、職業、家族、交友、好物、苦手、性格、夢、能力などを徹底的に考え抜く。主人公のオーラ、弱点を定める。そして敵役・ライバルのカリスマ性、欠点をなどを決める。キャラクターは一人では起たないのだ。主人公の夢が物語の行く先を決める。
ストーリーは事件など悪いことから始める。主人公は、「謎」を追う。脇役、引き回し役に物語の背景などを語らせる。
「主」(キャラクター)「謎」「技」(アイデア)「感」(感動・感情)が大事であり、「しゅめいぎかん」として覚えるといい。
この本の中で、「僕は80歳ですが、これからが自分が全盛期だと思っています」と強気の宣言をしている。
ところが小池一夫はそれから2年後に82歳で亡くなる。実年期まで疾走し熟年期の途中で倒れたのだ。今からが「全盛期」だとする心意気、気概がいい。
 
 
 
 
 
 

MLBの全選手がジャッキー・ロビンソン(黒人初のメジャーリーガー)の永久欠番「42」をつけた日。

ドジャーズの試合をみていたら、プレーしている全員が「42」の背番号をつけていた。4月15日は黒人のジャッキー・ロビンソンが初めてメジャーデビューを果たした日で、ガラスの天井をうち破ったその偉大な貢献を記念して1997年に永久欠番となった42の背番号をつけている。永久欠番は1939年のルーゲーリッグの4番から始まる。

有色人種の大谷もいずれ野球殿堂入りし、永久欠番になるだろうが、それはロビンソンが道をつけてくれたのだ。

日本でも導入されている。巨人では1番の王、3番の長島、4番の黒沢俊夫、14番の河上、34番の金田が永久欠番だ。こういった制度は、サッカー界やホッケー界などにもある。人物で歴史に思いを馳せる、こういった制度は素晴らしい。

さて、ジャッキー・ロビンソンとは誰か。

ジャック・ルーズベルト・ロビンソンJack Roosevelt "Jackie" Robinson1919年1月31日 - 1972年10月24日)は、アメリカ合衆国プロ野球選手内野手)。1890年頃以降、有色人種排除の方針が確立されていたMLBで、アフリカ系アメリカ人選手としてデビューし活躍。

ニグロリーグマイナーリーグを経て、1947年メジャーリーグデビューし通算10年プレー。ナショナルリーグMVP 1回。1949年新人王。。1947年首位打者 1回:1949年盗塁王 2回:1947年、1949年。MLBオールスターゲーム選出 6回、1949年 - 1954年。。

1962年には1939年のルー・ゲーリッグ以来となる有資格初年度で野球殿堂入り。1997年にはロビンソンの背番号42が全球団共通の永久欠番となった。

 2013年4月12日、彼を題材とした伝記映画『42 〜世界を変えた男〜』が公開され、4月第2週(4月12~18日)の全米映画興行収入ランキングで初登場首位を飾り、野球映画史上最高のオープニング記録を打ち立てた

 「「不可能」の反対は、「可能」ではない。「挑戦」だ!!」

「もし、他人に何かのインパクトを与えるような、生き方が出来なかったとしたら、人生などそれほど重要なものではないと思う」

ジャッキー・ロビンソンは「一流になれ、そうすればものが言える」と言った。有色人種のメジャーリーグ参加の道を開いた。その道のりは苦難をきわめた。しかし敵を実績と人柄で黙らせて尊敬を勝ち取って一流の人物になっていく。「ものがいえる」、ということは人が意見を聞いてくれるということである。人に影響を与える。それが高い価値のある人生なのだ。

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幸福塾の準備に没頭:意外なライバル関係を発見!

夕刻は、温泉「森の彩り」

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「名言との対話」4月15日。柳生博「日本人のいちばんの魂の置き場所は野良仕事だと思う」

柳生 博(やぎゅう ひろし、1937年昭和12年〉1月7日 - 2022年令和4年〉4月16日)は、日本俳優司会者タレント声優団体役員

茨城県出身。東京商船大学に入学するが、禁止になり断念し中退。俳優を目指す。映画『あれが港の灯だ』でデビューし、30代後半の連続テレビ小説『いちばん星』の野口雨情役で広く名を知られる。クイズ番組『100万円クイズハンター』の司会を担当した。『平成教育委員会』の解答者や『生きもの地球紀行』のナレーションも長く担当するなどマルチに活躍。NHK大河ドラマ竜馬がゆく』『八代将軍吉宗』に出演している。味わいの深い演技は定評があった。

自然愛好家であり、1976年に八ヶ岳山麓北斗市に一家をあげて住み、作庭家としても活動した。自宅周辺に1万本以上の植林を続け、息子の柳生真吾(2015年に47歳で死去)とギャラリー・レストラン「八ヶ岳倶楽部」を開設した。日本野鳥の会」の第5代会長、名誉会長に就任している。

柳生博加藤登紀子 自然を生きる 自分を生きる』(河出書房新社。2019年刊行)を読んでみた。八ヶ岳の柳生と鴨川の加藤の対話を本にしたものだ。

柳生家は江戸時代の柳生新陰流の末裔である。その柳生家には「男子は13歳になったら一人旅をさせる」という家訓がある。博は中学2年で八ヶ岳へ旅をする。それ以来、人生の節目ごとに訪れている。

もともと吃音であったのだが、山村聡という名優が、「どもりくらいの方が役者として大成するんだよ」「おまえ、40歳くらいになったらいい役者になるんじゃないか」と励ましてくれた。

柳生は八ヶ岳へ移住してくる若い人たちに希望を託している。また高梨沙羅大谷翔平の生き方や言葉に感銘を受けている。

以下、柳生博の言葉。

「老人が貧乏くさくなったらダメだよ」。「お金を出すことと、挨拶は短くすること、そこにジョークを投入できればなおよし」。「オール・オア・ナッシングではなく、いま可能な範囲での改善策を講じることの大切さ」。

NHK「あの人に会いたい」では野良仕事の魅力を「森を切り植えて、切って植えて、花を咲かせて、鳥を呼んで、これを幸せと言わずして、「何を!」という感じです」と語っている。

野を良くするのが野良仕事なのだろうか。こういう幸福感は日本人の幸福感なのだろう。

柳生博は「木を植える」ということを続けた。そして若い人を育てた。同じことである。木は人であったのだ。

 

 

 

 

 

神保町にオープンするシェア書店「ほんまる」に申し込み。

シェア書店「ほんまる」(直木賞作家今村翔吾さん経営)に申し込みました。「本の聖地」神保町から始める出版革命に賛同し、出展。

 

営業日無休(11時30分~19時)で、スタッフは常時配置。出版取次にも対応。棚主は新刊を仕入れての販売も可能。販売手数料は5%。棚数は1階と地下1階で364を用意されている。

今村翔吾:1984年生。2022年、『塞王の盾』で」直木賞を受賞。

以下、2024年4月3日の私のブログから。

今村翔吾『戦国武将を推理する』(NK出版新書)を読了。1984年生まれの若い直木賞作家のエッセイ本。歴史小説に立ち向かう姿勢、考え方を追った。人物研究は自分だけのプロファイルをつくることでいいというメッセージである。人物像は真実であるかどうかは、もともと不明であり、それを推理する権利があるということだ。この作家が人物を選ぶ場合には、現代のテーマと絡めて選択している。つまり、歴史小説は、現代を描く小説なのだ。

今村翔吾『戦国武将を推理する』ーーー歴史小説のテーマは「現代」。 - 久恒啓一のブログ「今日も生涯の一日なり」 (hatenablog.com)

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水曜日の幸福塾「新・代表的日本人」の準備:テーマは「ライバル」。意外なライバル関係。

久恒啓一の幸福塾『新・代表的日本人』第3回『切磋する敵・琢磨する友』 | Facebook

午後は立川:オステオパシーで体調を整える。

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「アジア太平洋文化賞」 山本 正 氏 受賞のことば :: アジア太平洋フォーラム・淡路会議

「名言との対話」4月15日。山本正「人間の安全保障」

山本 正(やまもと ただし、1936年3月11日 - 2012年4月15日)は、日本を代表する国際主義者。日本とアメリカを始めとするその他の国との民間交流の強化を先駆的に提唱した。享年76。

東京出身。香港、ボンベイを経て帰国し、上智大学に入学、その後米国セント・ノーバート大学、マーケット大学経営学院を取得。1962年には大統領選時に接したケネディに影響を受ける。

帰国後に信越化学工業小坂徳三郎社長秘書時代に、1967年から、日米の有識者による政策対話「下田会議」を開催し、1990年代まで続けている。日米の有力者同士のつながりをつくった。

独立した山本は1970年には日本国際交流センターを設立し、理事長に就任。1973年には日米欧委員会の創設メンバーともなった。日米賢人会議、日米諮問会議、日韓21世紀委員会などの事務局長を引き受けている。小渕内閣鳩山内閣でも総理との懇談会に委員もつとめている。

山本の活動は広い。アメリカ、ヨーロッパ、アジア、アフリカなど全世界と日本との交流に力を注いでいる。その功績で、オーストラリア、ドイツ、イギリス、日本の政府から表彰を受けている。2011年委は旭日中綬章を受章。

山本正の戦後の50年以上にわたる献身的な努力には頭が下がる思いがする。日本とアメリカからどのように感謝されたか、以下の人物評をみればわかる。

  • トム・フォーリー(米国下院議長)「我々の二国間関係の強化にこれほど効果的な人物は他にいない」
  • ウオール・ストリート・ジャーナル「日米同盟の熱烈な擁護者」
  • ジェラルド・カーティスコロンビア大学教授)「彼(山本正)は、民主主義国同士の交流は民間が主導するべきだという信念を捨てなかった」
  • 松山幸雄(朝日新聞論説主幹)「山本は国際交流のために他の誰よりも多くのことを行った。名実ともに何もないところから始めたのに、彼は(彼が接した)全ての人から好かれていた」

日本は発信の少ない受信型文明であり、沈黙の経済大国でああった。国際関係においては、外部からの情報を一方的に受け取る直流型であった。山本はそれを「交流」に変えようとしたのだろう。

山本正は冷戦終結後には「人間の安全保障」の概念を提唱し、日本外交の柱の一つとなった。緒方貞子が共同議長をつとめた国連の「人間の安全保障委員会」は、「人間の生にとってかけがえのない中枢部分を守り、すべての人の自由と可能性を実現すること」と定義している。その考え方が、日本外務省、JICAの方針となったのである。

人間の安全保障とは、国家の安全保障に対する概念である。外務省の開発援助ODAのホームページには「人間の安全保障とは,人間一人ひとりに着目し、生存・生活・尊厳に対する広範かつ深刻な脅威から人々を守り、それぞれの持つ豊かな可能性を実現するために,保護と能力強化を通じて持続可能な個人の自立と社会づくりを促す考え方です。」と記されている。安全保障の中には、環境、人権、難民、貧困などの脅威にさらされる取り組みの行って、人間の身体の安全と心の安心を手に入れようという考え方である。

私がJICA(国際協力機構)の専門家派遣研修の講師を2010年代に数年つとめた時、「人間の安全保障」という概念がJICA(緒方貞子理事長)の方針の中に銘記されていたことを思いだした。これは緒方貞子が世界に向けて提唱し、山本正が尽力して日本の方針となったのである。こういう人が国際交流が日本の生きる道であり、それに生涯を捧げようという大志をもって、戦後世界を疾走したのだ。一人の人の力はやはり小さくない。そういった先達の努力の上に今日の日本があうと改めて感じ入った。

 

 

駅前のダンスイベントをひやかし、古本市をブラブラした日曜日。

快晴の日曜日。駅前を楽しみました。

子どもたちのダンスイベントを見物。両親や祖父母たちのカメラ撮影の熱心な姿がなかなかいい。

古本市をのぞく。あまりに安いので、つい買ってしまう。地元以外に、吉祥寺、船橋あたりの古本屋などが出ている。

竹内宏『「元気」の経済学』(PHP)。塩谷賛『幸田露伴 下の二』(中公文庫)。樹木希林『一切なりゆき』(文春文庫)。『巻頭随筆Ⅱ』(文春文庫)。紀田順一郎『四季芳書ー読書人の日常』(実業之日本社)。戸板康二『役者の伝説』。山口洋子『百人の男』。締めて1500円也!

朝の神社への往復と午後の駅への往復で8200歩。過去7日平均7400歩。過去26週間7600歩。2つの駅から、歩いてそれぞれ16-17分の距離。駅からある程度、遠いところが住むのが健康にいい。昨年は年平均で7400歩あたりだったから同じペース。何とか1年を通じて8000歩にまで、もっていこうとは思っているが、、。

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三國連太郎

「名言との対話」4月14日。三国連太郎「でも、名優と呼ばれたらおしまい」

三國 連太郎(1923年(大正12年)1月20日 - 2013年(平成25年)4月14日)は、俳優、映画監督。

飢餓海峡」「神々の深き欲望」など幅広いジャンルの作品に多数出演した。1988年から22年間にわたって続いた映画「釣りバカ日誌」シリーズでは鈴木社長ことスーさん役をコミカルに演じて人気を博した。

自身の著作『白い道ーー法然親鸞とその時代』が話題になり、1987年には自ら監督を務めた「親鸞・白い道」でカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞した。この本が出たとき、私の関与していた勉強会で講演の依頼をしたが、なかなかつかまらず、返事はなく断念したことを思い出す。

戦争で中国から引きあげた時に、木下恵介監督と偶然に出会い、全くの素人ながら『善魔』という作品にでることになる。若い記者「三国連太郎」役でのデビューだった。それを芸名とした。この出会いがなければ、俳優にはなっていなかったと述懐している。「人は一人では生きられない。だからこそ、人とのかかわりに人生は大きく左右されます」という言葉は本音だろう。

「役者業は、趣味と実益を一緒にしてしまった素敵な世界」であり、「役者に年齢は関係ないし、演じることが僕の生きがい」だった。人々の生活の糧になるような映画に出ることを希望しており、死ぬまで正々堂々と歩くことができれば、自分自身の中で敗北することはないという考えだった。

私生活では4度結婚している。また結婚には至らなかったが、女優・太地喜和子との熱愛、同居も話題になった。3人目の妻との間に生まれた息子の佐藤浩市は小学3年生のときに、三国は映画をつくるため家族を捨てて家を出る。テレビのインタビューで俳優となった佐藤浩市が父のことを聞かれて「ひどいよ、そりゃ」、「世間一般の親子ということでの会話はできないんです。僕と彼との間に介在したのは役者という言葉だけなんです。ですから、父親として、どうのこうのということはいま言えません」と語っていたのを見たことがある。

佐藤は19歳のときに同じ道を進むことを決意した。「そのことを告げたのは早稲田駅のホーム。三國はそうかと一言いって、電車に乗って行った」。後に『人間の約束』で息子・佐藤とワンシーンのみの初共演を果たした後、『美味しんぼ』で本格的に親子の役を演じる。『笑っていいとも』に出演した際に「佐藤浩市くんの演技がよかったです」とコメントしている。

BSで繰り返し放映されている『寅さん』シリーズの後が、『釣りバカ日誌』だったので、西田敏行三国連太郎の演技はよく見ている。釣りマニアの社長役を楽しんでいる。

三国連太郎は、役作りに徹した鬼気迫る演技を行う俳優だった。老人役の役作りのため上下の歯を10本抜いたことで、顔を腫らしたエピソードもある。役にハマりこんでしまい、他人が近づきがたい状態になることもしばしばだった。

以下、三国連太郎の俳優哲学。

  • イメージに限定されてしまうのは、役者の堕落。
  • 芸を極めたなんて、とんでもない。まだまだこれから少しづつ階段を上っていかなくては。
  • 役者というのは、挑戦する以外にない。
  • 明日の芝居を考えていると、今日の生活が役と同じになってしまうんです。
  • 「自分の才能にプライドを持つ」ということ。志を高く、誇りを持って突き進むことで、人生を実り豊かにしてくれる出会いを引き寄せて欲しいです。
  • 名匠たちの良心に応えようとして今までやってきました。
  • でも、名優と呼ばれたらおしまい。

不器用を自覚していた三国連太郎は、演じている役柄で人格が変わってしまう。芝居のことを考えていると、生活と役柄が同じになるという。不器用だからこそ、役作りに徹底するから、名優というより「怪優」とも呼ばれるにふさわしい存在になった。

 

産経新聞 ENAK 「釣りバカ日誌」20作品目 俳優、三國連太郎に聞く

 

 

新雑誌「イコール」創刊パーティを開催。すてきなコミュニティのゆるやかなネットワークが増殖中!。

新雑誌「イコール」創刊パーティが外苑前のシェアラウンジ神宮前内FlatBaseで盛大に行われました。

第一部。

  • 『イコール』編集長の橘川さんの創刊の趣旨説明と来賓の紹介を兼ねたアジテーション
  • 私の『イコール』(知研責任編集)の「アクティブ・シニア革命」のアジテーション。「新しい世界の胚芽となるすてきな集団、すてきな関係のネットワーク、さまざまな場所で、さまざまな仕方で、いたるところで発芽させ、増殖し、ゆるやかに連合する」「一人の人間が、一年間をかけて一人だけ、ほんとうに深く共感する友人を得る、、、、100年で100億人。速い革命、、破壊する革命ではなく、創造する革命」

第二部は、ラウンジでの懇親の時間。緩やかな交流会。ラウンジのあちこちで新しい関係が生まれている。すてきなコミュニティの生成の瞬間。私も多くの新しい友人を得ました。

最後に、集合写真を撮って終了。毎回感じることだが、全国から集まったイベントスタッフのチームワークのよさに感心。ありがとうございます!

Natsuki Nobu。You Ogasawara 『イコール』副編集長、AR三兄弟三男。ゴンザレス 上智大学神学部4年。まきりか 作曲家・脚本家・海辺の出版社代表。松永統行 国際社会経済研究所主任研究員。伊勢 司 NTT出版 出版本部長。伊藤正人 深呼吸学部塾生。越智二朗 クラウドクロッシング株式会社。遠藤 諭 元東京おとなクラブ編集長。垣内武 久恒図解塾幸福塾塾生。吉池琢磨 『イコール』スタッフ。橘川幸夫 『イコール』編集長。久恒啓一 NPO法人知的生産の技術研究会理事長。宮下英一。近藤千恵子 第二次深呼吸学部。高橋信行今井陽子 深呼吸学部塾生。佐々木浩産経新聞 夕刊フジ。左田野歩。最中義裕 真崎守研究家。山本コヲジ フローフロー。森 誠一郎 出版社再雇用勤務中 編集コンテンツ系。森上博司。森嶋良子。深谷康雄 知的生産の技術研究会 幹事。深谷桃子 深呼吸学部塾生。仁上幸治 図書館サービス計画研究所 代表。西山カオリ 第二次深呼吸学部。青海エイミー 作家。石花ちとく 石花師。石橋毅史 文筆家。川島和子 信頼資本財団理事長。浅沼正治 深呼吸学部塾生。浅野耕一郎 東京国際工科専門職大学講師。多田洋一 文芸創作誌「ウィッチンケア」発行人。大久保 青志 レーベン企画。大村紫乃 よりみち愛好家。大野誠ライフシフト・ジャパン 代表取締役CEO。地蔵真作 リブライズ。中島映介 合同会社Nakajimaya 代表。津田一樹。田原真人 デジタルファシリテーション研究所。田中よしこ。渡辺幸弘(ギリークラブ代表)。渡邉 啓 日本パブリックリレーションズ協会 常務理事。渡邉ちか 第二次深呼吸学部1期生。都築功 知的生産の技術研究会。道下裕史。南谷真 第二次深呼吸学部。楠 泰三 第二次深呼吸学部。入江武彦 シンエイ動画株式会社 常務取締役.。梅田雄基 受験マネジメントサロンBiden・塾長。柏木 誠。淵上周平 シンコ。平井太郎。平野友康 株式会社メタコード。片岡利允 軽井沢風越学園など。片岡玲実奈。堀鉄彦 公益社団法人著作権情報センターコピライト編集長。力丸萠樹(知研)。鈴木 敏行 アキバテクノクラブ・事務局長。國井正人 株式會社クーニーズ代表取締役小泉吉宏 マンガ家。芹沢類 作詞家。
配布したチラシ
説明がありません

第一部の会場の様子。


名刺交換した方々。

終了後は、都築さん、垣内さんと居酒屋で懇親。

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朝はヨガ教室で1時間。

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「名言との対話」4月13日。小池滋「余はいかにして鉄道愛好者となりしか」

小池 滋(こいけ しげる1931年7月15日 - 2023年4月13日)は、日本の英文学者。享年91。

東京都出身。東大文学部、大学院を経て、1959年から東京都立大学に奉職。1980年教授。1989年に退官し、東京女子大教授。2000年に退任。

19世紀ビクトリア朝文学を専攻。ディケンズの研究、コナン・どいるの「シャーロック・ホームズ全集」の翻訳、風刺新聞「パンチ」の翻訳も行った。イギリスの大衆文化に造詣が深い学者である。著作に「ロンドン」「ディケンズ」などがある。

小池滋という名前は英文学者としてよく知っていたが、一方で鉄道史の研究家としても多くの著作を発表している。文学作品の背景にある鉄道に関心が広がったのである。1979年刊行の『英国鉄道物語』は毎日出版文化賞を受賞するほど高い評価を得ている。

1977年から1年数か月、私はロンドンに駐在したが、事前に小池滋の著作などを読んでいる。私は滞在中に「英国経済とシェークスピア」を研究対象にした。小池滋ヴィクトリア朝時代に興味を持た。後に、親しくなったホームズ研究の河村幹夫先生(三菱商事の駐在員として英国に住んだ)と同じだった。国の勃興期には国力の総力を挙げて、インフラをつくり、文化も花開く。だから産業革命時代のヴィクトリア女王時代が面白いと小池滋も河村先生も考えたのだ。したがって、私が選んだシェークスピアより、ホームズの方が実りが多かったのだ。この点は今も残念に思っている。

幼いころから鉄道が好きだった小池滋は、本業である英国研究を深める中で、鉄道研究にものめり込んでいく。英国の鉄道保存運動、そして日本でも鉄道車両の保存運動にも参加している。

「鉄道」という対象は、多くの人を魅了してきた。鉄道マニア、鉄っちゃんの数は今も飛行機マニアに比べて圧倒的に多い。この名言との対話でも、鉄道を研究対象にした人を取り上げている。

阿房列車』の内田百閒。『南蛮阿房第2列車』の阿川弘之。『時刻表2万キロ』を書いた時刻表極道の宮脇俊三「鉄道院周遊俊妙居士」との戒名をもらった『気まぐれ列車』の種村直樹、、、。鉄道は旅行と結びついているため、こういう人たちの本には、愉快なエピソードが満載となっている。

2007年には小池滋は『余はいかにして鉄道愛好者となりしか』が刊行されている。ディケンズ研究の第一人者にして無類の鉄道マニアの自伝的作品である。豊富で多彩なエピソードや蘊蓄が語れられている。この本はまだ読んでいない。私もいつか『余はいかにして〇〇になりしか』という本を上梓したいものだ。その場合、〇〇は何になるだろうか、と空想する。

 

 

 

 

 

 

「有限と無限」ーー小椋佳の人生と、私の「名言との対話」

埼玉県川口市・シクラメン - 草花(11月撮影) - 無料写真素材 - あみラボ

ラジオ深夜便小椋佳(1944年まれ)の数年前のインタビューを流していた。

彼は49歳まで第一勧銀の銀行マンとして仕事をし、一方で日記をつけるように歌をつくっていたが、それがたまたまヒットしていく。その間、組織と個人の葛藤はあったものの、「銀行は寛大に無視してくれた」、と語っていた。この人は自然体の人だ。

そういえば、1997年に開学した宮城大学に翌年夫妻で訪問してもらったことを思いだした。野田一夫学長に会いに来たのだ。夫妻を私が学内をご案内した。翌日、小椋佳と野田先生はゴルフに出かけ、野田先生はホールインワンを達成した。人生2度目である。1度目は50歳の時に、城山三郎とまわった時だという。先生の腕前は私とチョボチョボだったから、ついている人は違うなあと感心したことがある。

さて、このラジオで、小椋佳は、銀行での仕事は「有限」の中から最適と思われる解決策を選択することであり、作詞作曲は「無限」の言葉や音の可能性の中からの選択だった、と発言していた。

自分の場合はどうだろうか。「有限と無限」をキーワードに考えてみよう。私は47歳までは「公人」としては企業のビジネスマンだった。仕事は同じく有限の選択肢の中で選択して問題の解決にあたっていた。その間、「個人」という側面では知研という場で、仲間と知的生産に関する修行もしていた。この辺りは、小椋佳と同じである。

47歳で転身し大学教員になって、公人としては「教育」と「運営」という仕事がメインとなった。「研究」については半分は出版社という他から要請、半分は自分の希望で、著作を量産することになった。これは、「半他半自」とでもいう時代だった。

そして数年前に公人という制約を脱した今は、時間を自由に使って、知的生産にいそしんでいる。最近は「連作と大作」をテーマにしているのだが、それとの関連で毎朝ブログに書くことが習慣となっている。それはもう7000日を越えており、途中で始めた「名言との対話」も3000日を越している。ブログは日誌であり、そして日記である。

「名言との対話」はその日に亡くなった人や生まれた人を選んでいる。今では弔辞、蓋棺録、墓碑銘といった色彩が強い人物論になっている。

命日と誕生日という視点で選んでいるから、どんな人があらわれるかわからない。職業、男女など、こちらの好みは許されない。難しい面もあるが、「今日はどんな人に会えるだろうか」との楽しみもある。

対象の人物は、日本の近代から現代の人であり、江戸後期の文化文政時代以降なので、「無限」であるといってもいい。一方で、その日にあらわれる人物は、例えば「明治命日編」など年によって時代区分を決めていることもあり、一日一人であり、「有限」といういうより、むしろ強制的に「限定」されることになる。「一日一殺」であるから、集中してなんとか続いている。

この活動をある人は「修行僧みたいだ」と言った。この修行を続けることで200年を越える膨大な時間と日本全国という広大な空間の中を旅をしている感じがある。いわば「日本近現代史の旅」である。早朝に一人の人物と向きあう時間では、人物論、人間学、日本人論を学んでいるとの幸福感に浸ることもある。

無限の時空の中から、歴史の中に生きる特定の人物から、自分のことを書け、書けるかと挑まれている感覚もある。その課題をにらみながら情報を集め、脳力を振り絞ってなんとか書いてるのである。

歴史と地理の交点という有限の一点を見つめて崖っぷちを歩きながら、遥か彼方に無限の世界が広がってることを感じるようになった。テーマが深まっていくこの過程で、歩むべき道が見えてくる。ライフワークとはこのようにしてあらわれるものかもしれないと感じている。

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「川柳まつど」4月へ12句を投稿。

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「名言との対話」4月12日。ペギー葉山「すべてが、つながっているんですよ。、、、私の人生って、『歌の扉』があって、それを開けると、また次の『歌の扉』があって、という、そういう運命的な歌の神様に導かれたような気がするの」

ペギー葉山(ペギーはやま、本名:森 シゲ子(もり しげこ)旧姓:小鷹狩(こたかり)、1933年12月9日 - 2017年4月12日)は、日本女性歌手タレント

ペギー葉山のヒット曲には「南国土佐を後にして」「ドレミの歌」「学生時代」「ラ・ノビア」「ふるさと」「花は咲く」などがある。本名・小鷹狩繁子の家は音楽に囲まれた一家だった。都会的で上品で知性のある甘いフィーリングで歌うペギー葉山命名は、マーガレットの愛称である「ペギー」に、御用邸がありいい感じのサウンドの「葉山」をくっつけたものである。

門田隆将『奇跡の歌 戦争と望郷とペギー葉山』(KADOKAWA)を読んだ。

 「南国土佐を後にして」は、中国戦線で戦った作者不詳の兵士の作で、土佐出身者で構成された鯨部隊の兵隊たちが中国の曠野で歌い継いだ「南国節」を、戦後、この詠み人知らずの戦場の望郷の歌を武政英が発掘・編詩し、補作編曲し、ジャズ歌手だったペギー葉山が高知テレビ開局記念番組でが歌い、大ヒットした歌である。

「南国節」は「中支にきてから幾年ぞ」「月の露営で焚火を囲み」「俺も自慢の声張り上げて」「国の親父は室戸の沖で」「俺も負けずに手柄をたてて」という男の歌だった。その歌詞を「都へきてから幾年ぞ」「思い出します故郷の友が」「月の浜辺で焚火を囲み」「わたしも自慢の声張り上げて」「国の父さん室戸の沖で」「わたしも負けずにに励んだあとで」と女歌に変えたのだ。

ペギー葉山ジャズ歌手であり、歌うことを渋ったが、ジャズのフィーリングで、アルトのペギー節で歌って欲しいというNHKの妻城良夫プロデューサーの申し出に乗ってしまったのだ。その結果、この歌は戦後最大のヒット曲と言われるまで日本人の心に響いた。この歌を歌うペギー葉山の姿はテレビでよく見たし、その歌声もよく聞いたのだが、このような歴史やエピソードがあることは知らなかった。

その後、当時35歳の三島由紀夫から、ロサンゼルスに行くならニューヨークのブロードウェイでミュージカルを見ることを勧められた26歳のペギーは「サウンド・オブ・ミュージック」の「ドレミの歌」に感動する。ホテルでに日本語への翻訳を試みる。その結果、ドは「ドーナッツのド」、レは「レモンのレ」。ミは「みんなのミ」、ファは「ファイトンのファ」、ソは「青い空」、ラは「ラッパのラ、シは「しあわせよ」の歌詞ができあがった。この「ドレミの歌」は小学1年生の音楽の教科書に採用され、誰でも知っている歌になっていった。

ペギーの夫は10歳ほど年上の俳優の根上淳である。二枚目スター、悪役、渋いわき役をこなす名優だ。

「歌を?なんでやめなきゃいけないんだい」という言葉は、プロポーズの時に仕事を辞めたくないというペギーに対しての根上の返事だった。続いて 「村の文化祭のスターならともかく、立派なプロの歌手のあなたがやめる必要なんかないだろう。それにこれからの女性は社会とのつながりが必要だよ。どんどん女は仕事すべきだよ」と言ったそうだ。それが決め手になった。

根上42歳、ペギー32歳での結婚である。本名は森不二雄と森繁子。同姓だ。そしてどちらも東京中野生まれ。年下の江利チエミは「おめでとうペギー! あなたの旦那様、私の初恋の人なのよ。私の大切な人を幸福にしてくれなきゃ承知しないわよ。アハハハ、、、」と二人の結婚を祝福した。二人はおしどり夫婦として有名だった。それを証明する夫婦の共著『代々木上原めおと坂』では、根上淳は妻を「信頼できる同志、戦友、上官殿」と語っている。

歌は慰みである。歌は励ましである。歌は教育である。この歌を歌うことを仕事にして多くの人の心に灯火をつけたペギー葉山は、「とても幸せな人生だったんだな」と述懐しているのだ。私たちの人生行路にはいくつもの大小の扉がある。その扉を思い切って開けると違う世界が目の前に広がる。その連続が人生ということになる。後から振り返ってペギー葉山が言うように「すべてが、つながっている」と思えるようなら、幸せな人生だったということだろうか。

 

 

 

知研セミナー:原尻淳一「学びの再設計」ーーー「創造的聞き取り法」を試してみました。

知研セミナーのゲストは「知図」教育を展開している原尻淳一さん。テーマは「学びの再設計」。17名の参加。

 

講演を聴きながら自分の考えの補強に使うという「創造的聞き取り」を試してみる。自分の考え、カッコ内は原尻さんの講義内容による自説の補強。

  • 理解・企画・伝達のサイクル(理解「歩・あるく」「集・あつめる」。企画「想・あらわれる」「交・あわせる」。伝達「説・あらわれる」「伝・あらわす」
  • 認識・創造・表現のサイクル(仮説の星座と表現の星座)
  • 考える力の欠如(自前の母胎づくり、近代教育で失ったもの)
  • 地図(ノイズ「地」・シグナル・コンステレーション星座「図」。
  • 図解文章法(なりきり文章法の有効性。寺田寅彦森鷗外)。
  • 現場主義による実践知の獲得(フィールドワーク重視のイノベーションの方法)
  • 手帳と記録(発見の手帳。野帳。細部の構造はスケッチ「知図」。
  • 演繹法より帰納法(借り物でなく、フィールドワークの積み重ねによる事実の発見=帰納法
  • 知的実務家の時代(フィールドワークから理論化へ。文化人類学
  • 文献研究(知図:江戸時代の博物学者・本草学者:太田南畝・菅江真澄・国友一貴斎・松浦武四郎・鈴木牧之。南方・牧野・宮本・今西・梅棹・川喜田・ダ・ヴィンチのメモは3万枚)
  • 生成AI(ジェネレーター)

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知研幹部会:セミナーの前に開催:役所手続き報告。セミナーの予定。イコール知研版。13日のパーティ。サーバー・ドメインの費用、、、

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ルパンらキャラクターに囲まれ、モンキー・パンチさんを偲ぶ会 : スポーツ報知

「名言との対話」4月11日。モンキー・パンチ「水分がなくなった手ぬぐいを絞って一滴が出るか出ないか。これが勝負」

モンキー・パンチ本名加藤 一彦(かとう かずひこ)1937年昭和12年〉5月26日 - 2019年平成31年〉4月11日)は、日本漫画家。享年81。

北海道出身。手塚漫画の影響を受ける。雑誌『漫画ストーリー』でデビュー。編集長の命名モンキー・パンチが定着してしまう。1967年から『漫画アクション』で「ルパン三世」の連載を開始し、大ヒットとなる。大人のための作品を書き続け世界的な人気キャラクターを生んだ「青年漫画」の開拓者である。「ルパン三世」「一宿一飯」などアニメ化された作品も多い。

2003年、66歳から先に進むために勉強しようと東京工科大学大学院の修士課程で学ぶ。その後、大手前大学教授、東京工科大学客員教授として教鞭をとっている。

またアップルの初期からのユーザーであり、漫画のデジタル表現の最先端を走った。20033年にはデジタル漫画協会を設立し会長に就任している。

NHK「あの人に会いたい」では、漫画製作について「水分がなくなった手ぬぐいを絞って一滴が出るか出ないか。これが勝負」と語っているたのが印象的だった。

手塚治虫記念館で知った漫画製作の締め切りの苦労、石ノ森章太郎記念館で、休みは1月1日だけ息子が語っていたほどのすごい勉強量と仕事量、文部省主催の美術雑誌の座談会で直接聞いた矢口高雄の話など、この「名言との対話」で漫画家を何人も紹介してきたが、漫画かという職業は並大抵の苦労ではないことがわかった。漫画家には鉄の体が必要のようで、手塚が60歳で亡くなたように短命の人も多い。彼らは脳からアイデアを絞り出している創造家なのだ。

すでに大御所となっていたモンキーパンチが66歳から大学院で勉強しなおして再出発したことを知って感心した。いわば定年後に大学院で学び直して、80歳までの「実年期」でギアをあげさらに充実させ、そして人を育てることに尽力した人生であった。その実績に対して、アニメ功労賞、北海道新聞文化賞などを与えらえている。