「図解ジャパン」プロジェクトが始動ーー規定科目と自由科目。

「図解塾」の「図解ジャパン」プロジェクトが始動。

「規定科目」と「自由科目」の2科目で構成。

初回の今回の規定科目は、「粋」と「生け花」の発表。自由科目は「共同親権」と「押し」の発表。

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以下、塾生の学び。

  • 久恒先生、皆様、おつかれさまです。本日、図解塾。先ずは久恒先生ブログの話題で肩慣らし。①Covid19に倒れた著名人、岡江久美子(俳優、タレント、2020年4月23日没、享年63)、立石義雄(実業家、2020年4月21日没、享年80)、志村けん(タレント、2020年3月29日没、享年70)、クルーズ船のケースなど当時日本国内ではまだ「他人事」だったところ、相次ぐ有名人の悲報に当時「身近に迫る恐怖」を実感。著名人の犠牲者はその後死因の公表を控えるようになったとか。身近な環境ではあの頃在宅勤務が始まり、仕事のやり方が大きく変化。社内でのマスク着用、朝会前の会議席アルコール清拭は今も継続中。②神保町「ほんまる」4月27日開店に向け書棚の準備が佳境。店内意匠は佐藤可士和氏監修との事で皆規律順守!久恒先生ご契約の棚には「アクティブシニア革命」の看板、訪れたし。③「木村伊兵衛展」恵比寿東京都写真美術館、伝説のカメラマン、報道・宣伝は勿論、スナップ・舞台芸術迄なんでもござれのマルチな活躍ぶり、貪欲なコレクションに逢いたし、嗚呼連休間近。④「橋本治展」神奈川近代文学館、『とめてくれるなおっかさん背中のいちょうが泣いている男東大どこへ行く』伝説の駒場祭ポスターの作者、こちらもマルチな才能との事、逢いたし。④久恒先生が『アクティブシニア革命』構想を図解。人生100年時代の最前線で生きるヒトは『与生』で生き抜く、『情報産業社会』(梅棹先生)と『知の再武装』(寺島先生)双方からの学びが思考のベースとなる。「学ぶ」「交わる」「表現する」「貢献する」夫々のジャンルで活躍するシニア執筆候補者へ仕掛ける『戦略』とは?取り上げるジャンルの順番・依頼する執筆のボリウム割り振りなど、「繋がり」「リズム」が重要でその為に図解を駆使した立体的な構想が不可欠(箇条書きでは考えが偏ってしまう)。年末頃の編集に向けて今の「段取り」がきっと役立つ大切なプロセス。⑤寺島先生「世界を知る力」1)岸田首相訪米で考えさせられる「日本の立ち位置」:『離島の領有権問題』『対米経済協定』『非核・平和主義の主張』どれも曖昧、明確な主張を米に示せ。沖縄に国連施設を。中国は攻撃できないだろう、2)中国の止まらない人材流出、昔からエスケープを繰り返す中国民族の歴史、3)日本人はプリンシプルをもち対米基地/地位協定問題に毅然としたビジョンを。…写真によると久恒先生図メモはA4で5枚構成、行間に余裕を取り「マル」「矢印」が明瞭で「図メモ」の体が有る。一方当方は同一内容をA4で3ページ。必死のメモ取りで字は小さく行間ツメツメ、「学級新聞」みたいな出来栄え。次回への心得は「字ズラを白く仕上げる」コト。さて、本題。「日本を知る105章」から2題。#1『いき』は当方が担当。外見の洗練というよりも日本固有の、しかも遊郭という虚構世界で発達・成長した概念が記述の背骨、外観は二の次。「遊女」が持つプライドという記述に対しては本文を読むだけでは理解できず、「大吉原展」関連の新聞記事から情報を拾い補完することにより、納得出来る図メモが出来。このような限定された世界の「美意識」の説明が本稿の大半をしめた為、恋愛スタイルの「今昔」やファッションの「東西」といった文化比較の観点で情報不足の感はありましたが「解ったつもり」でいた事柄が理解できたことは多いなる学びとなりました。#2『生け花』では、『茶道』『花器』との関連性が説かれ、『そぎ落として残ったものの美しさ』という観点から、もはや美しく見せるテクニックとま全く違う『生き方』に関わる心の有り様の重要性は先述の『いき』にも通じており『心の有り方』をどちらも追及しているという事を理解する事が出来ました。自由課題の『親権』及び『推し』については丁度話題の社会問題に関連していた為大変参考になりました、どちらの話題も「かつて存在した類似の事象」に対する変化点や背景を勘違いや思い違いする事なく明確に伝えるという観点で図解の重要性を改めて気付く事が出来ました。いよいよ連休を迎え様々な催しに足を運ぶことができる事に大変ワクワク致します。今日の学びを生かして新たな気付きが得られる様活動したいです。有難うございました。次回も宜しくお願い致します。
3人、、「久恒図解塾 M 西く 上方 smartness, stylishness, chic, elegance 日本を知る105章01 い いき 美意識 昔 江戸時代 佐伯順子 さえき じゅんこ 1961- 比较文化学者 同志社大学教授 江戸 24Apr.2024 垣内武 武 虚構世界 遊郭・ 花柳界 潔さ 社会的 地位 一 現実世界 媚態 プライド 乳前が良い 恰好良い 社会的 圧力 承認された 立場 家族の為 稼ぐ 西には 「いき」 「いき」に対応する音 葉が有るのかな? はんなり 相手に執着しない 男性社会 一期一会の関係 借金の形 西 派手な原色色彩 ごちゃごちゃした紋様 生き様にてなりきる 生き様に なりきる 惹かね もつきりした格好良さ 黒みを帯びた冷たい色調 相手と一心同体 の関係 恋愛観 ファッションのみなら 可振類い」方にも 喫響しているかも いなせ」とか・ ファッション ファ」というテキストのイラストのようです
 
 
  • 本日もありがとうございました。「日本を知る105章」の図解を作っていて、日本文化について知っているようで実は何一つ知らなかったことを思い知らされました。「いき」については、花柳界の男女のかけひきがもとになっていたのかと知るとともに、現代のファッションやしぐさにもつながっていることが分かりました。驚いたのは、「いき」は江戸(東京)だけで、上方(京都・大阪)ではまったくそういった文化がみられないということでした。これが現代まで続いているのだから、交通や通信の発達で距離感が無くなったと思われた東西の違いを改めて感じさせられました。「生け花」については、自分が図解したものを発表したのですが、朝顔が垣根いっぱいに咲いているのを全部刈り取って一輪だけ残すという感覚は、きわめて理解しにくいものですが、これこそ日本的なものだと改めて思いました。「親権」と「推し」についてもとても分かりやすい図で、よかったです。これからも楽しみです。
  • 4月の図解塾に参加させていただきました。久恒先生、皆様ありがとうございました。今回学んだ内容は、「ジャパンプロジェクト」として日本文化の紹介で、知っていると思っていた日本の文化も人の説明するとなると知らないことが多く、日本文化について詳しく知ることができ良かったです。今回紹介された内容は、「いき」と「生け花」についての紹介と、「親権」と「推し」に関して図解により紹介されました。
    「いき」については、比較文化学者の佐伯順子さんが書かれた記事が紹介されました。その中では、遊郭花柳界における美意識や上方と江戸、そして江戸時代と現代の違い、さらに男性と女性の視点の違いについて紹介されました。特に、遊郭花柳界における男性視点と女性視点の対比が興味深く、江戸時代の虚構と現実の関係がよく理解できました。「生け花」についてのお話では、日本の美意識について考えさせられました。地元の偉人である木下利玄の牡丹の花の俳句も紹介され、非常に興味深いものでした。 「親権」に関する話題も、複雑な内容でしたが、図解によって分かりやすく解説されていました。改正された「単独親権」と「共同親権」について、理解を深めることができました。最後に、「推し」についても興味深い議論がありました。このテーマは、もともと「オタク」文化から始まったということや、「推し」にまつわる様々な問題について知識を深めることができました。図解によって、複雑な内容も直感的に理解しやすくなり、他人にも説明しやすくなることを学びました。次回の図解塾も楽しみにしています。
  • 本日の図解塾「ジャパンプロジェクト」ありがとうございました。「日本を知る105章」から①「いき」と②「生け花」を図解で読み解きました。「いき」とは何ですかと聞かれると漠然とした言葉でしか答えられないところですが、図解で分かりやすくイメージしながら、新たな発見もありました。特に「いき」という言葉が生まれたのは、時代背景や土地柄などが影響していることや、それを「美意識」として形作ってしまうところに「日本的なもの」を感じました。また、「生け花」も、花そのものを愛でるというよりも、器や生ける場なども含めた全体を「生け花」と考え、精神性まで感じ取ってしまうという感覚にも「日本的なもの」を感じました。後半の自由課題の図解では「『親権』の法律改正」と「推し活」。どちらも現在の「動いてる日本」を知る上で興味深い内容でした。規定課題の「日本を知る105章」の図解と、自由課題の図解との組み合わせは、伝統的な日本と現在の日本を切り取るイメージでとても面白いと思いました。次回も楽しみにしています。
  • 今夜もありがとうございました。改めて図解はパワフルだと思いました。自分で作ろうと思うとなかなかうまくいかず。いろいろなコツを教えていただけてありがたかったです。図解力がアップしたら、文章ももっと書きやすくなりそうです。授業でも取り入れたいと思います。今夜のテーマ「いき」が関東が舞台だとしたら、関西はどうだったのかな?と思うなかで、江戸時代、関西は人形浄瑠璃では「曽根崎心中」など遊女と客の心中ものがはやったという話を思い出しました。「情」の表し方がいきとはずいぶん違うなと思いました。こんなことも考えさせてくれたのは、自由に考えらえるのは図式だからなのだろうと思いました。
  • 本日の図解塾「ジャパンプロジェクト」ありがとうございました。「日本を知る105章」から①「いき」と②「生け花」を図解で読み解きました。「いき」とは何ですかと聞かれると漠然とした言葉でしか答えられないところですが、図解で分かりやすくイメージしながら、新たな発見もありました。特に「いき」という言葉が生まれたのは、時代背景や土地柄などが影響していることや、それを「美意識」として形作ってしまうところに「日本的なもの」を感じました。また、「生け花」も、花そのものを愛でるというよりも、器や生ける場なども含めた全体を「生け花」と考え、精神性まで感じ取ってしまうという感覚にも「日本的なもの」を感じました。後半の自由課題の図解では「『親権』の法律改正」と「推し活」。どちらも現在の「動いてる日本」を知る上で興味深い内容でした。規定課題の「日本を知る105章」の図解と、自由課題の図解との組み合わせは、伝統的な日本と現在の日本を切り取るイメージでとても面白いと思いました。次回も楽しみにしています。
  • 本日もありがとうございました。今回も皆さんの近況から始まり、お決まりの久恒先生の怒涛の1週間のお話。アクティブシニア革命の全体像の図解。ありがとうございました。なかなか現実的になってきたのではないかと思います。「ほんまる」の棚がどうなるか、楽しみです。日本文化の図は、面白かったです。かっこいいのイメージをもっていた「いき」に、そんな土台の意味があったなんてびっくりでした。また、「生け花」は花で心の中を生かす、生け花。という感じでしょうか。今回は心の奥底のものを表現している日本の文化を感じました。日本には、「道」がつくものが多い。これは心の鍛錬を意味しているものが多いように感じます。また「親権」と「推し」も良くわかりました。選んでこられた題材が素晴らしいです。次回も楽しみです。日本のいろいろなことや文化に、じっくり向き合うことができて、復習もかねて、楽しんで取り組みたいと思います。
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シェア書店「ほんまる」の棚のデザインを確定。その後、本の登録を数冊済ませた。

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「名言との対話」4月24日、岡本行夫「国でも企業でも、フロンティア型人間が増えなければ進歩がありません。いかにプロアクト型人間を増やすか、というのはとっても重要なことです」

岡本 行夫(おかもと ゆきお、1945年昭和20年〉11月23日 - 2020年令和2年〉4月24日)は、日本外交評論家。享年74。

神奈川県鎌倉市藤沢市出身。湘南高校から一橋大学経済学部を卒業し外務省に入省。北米局安全保障課長、北米第一課長などを経て1991年に退官し、「岡本アソシエイツ」を経営し、硬派の外交評論家としてメディア出演などで活動しながら、外交の現場に立った。橋本内閣の総理補佐官(沖縄問題担当)、小渕内閣科学技術庁参与、小泉内閣内閣官房参与、総理補佐官(イラク復興担当)、総理外交顧問、福田内閣外交政策勉強会メンバーをつとめた。

岡本が外務省を退官したとき、JAL広報課長だった私は、外交の最前線の要職にありながらどうして辞任したのか不思議だった。今回わかったのは、デスクワークが主の管理職になって現場から離れることを嫌ったためだとわかり驚いた。また、社内でも岡本を支援する動きも知っている。

岡本行夫 現場主義を貫いた外交官』(五百旗頭真ら編)では、「官僚の仕事は課長時代が一番面白い」といい、切り込み隊でなく安全プレーをしていくのは、「自分の生き様に向いているのか。自分は燃えないのではないか」と対談で語っている。官僚に限らず、組織での仕事も一番面白いのは、課長クラスの時だ。私の場合を思い返すと、九大探検部のキャプテン時代、JALの広報課長、経営企画担当次長時代、多摩大学の学部長時代がもっとも燃えた時代だった。現場の最前線の指揮官の醍醐味を忘れることはできない。この点は岡本の生き様に大いに共感する。

民間人として自由に課題解決に愛国者として奔走する姿は、日本側だけでなく、アメリカ側からも「日米同盟の擁護者」「日米関係の巨人」と評価されている。

死後の2021年に刊行された『日本にとって最大の危機とは?』と題した講演録を読んでみた。以下、岡本行夫の言葉を拾った。

  • 国際社会で大事なことは、常に、反射的に、相手の立場に身を置くこと。
  • 案の段階から関与した人が、自分で担いで走らなければいけない
  • 日本人の国際化のために学ばなければならないと思うのは、課題設定能力です。白地のキャンパスに自生んで最初から絵を描くような構想力、設定力が世界へ打って出ていくために必要な能力だと思います。
  • 課題設定能力は、質問を積み重ねて自分が物事を相対化し、その事象を深掘りして初めてできるものです。
  • プロアクト型の人間は自分も環境の一部だとして考える、つまり自分が動けば環境も動く、上司の命令を待たず自分で自分の仕事を探しに行く。常にフロンティアを求め動く。、、、国でも企業でも、フロンティア型人間が増えなければ進歩がありません。いかにプロアクト型人間を増やすか、というのはとっても重要なことです。

相手の動きに反応するリアクションするリアクト型ではなく、常にフロンティアに立つプロアクト型人間が、岡本行夫の生き方だった。

岡本は2020年4月24日に新型コロナで亡くなった。享年は74であった。岡本は自叙伝を執筆中だった。「父母たちの戦争」「日本人とアメリカ人」「敗者と勝者の同盟」「日本の失敗とアメリカの傲慢」「イラク戦争」「難しき隣人たち」「漸進国家・日本が辿る道」という構成であった。亡くなった時点では未完だが、出版の予定となっているとのことである。

受け身の状況対応をするリアクト型の人間ばかりではなく、能動的に状況を創造せんとするプロアクト型の人間を養成することが重要だという岡本行夫の指摘には大いに賛成だ。与えられた仕事に従事するのではなく、自らフロンティアに立ち、組織や集団の本質的な課題を設定し、その課題解決のために走り回る。既成概念を打ち破る。それが本当の仕事というものなのだ。

 

 

 

 

 

 

NHKテレビテキスト『内村鑑三 代表的日本人』を読んで。

内村鑑三『代表的日本人』は西郷隆盛上杉鷹山二宮尊徳中江藤樹日蓮を取り上げた英語の書である。NHKテレビテキスト『100分で名著 内村鑑三 代表的日本人』を読んだ。

原型は1894年の『日本及び日本人』で、その人物論のみの改版として1908年に出版されたのが『代表的日本人』である。他者の伝記のかたちをした内村鑑三の精神的自叙伝でもある。1894年の講演録『後世への最大遺物』の下巻的位置づけだ。

アメリカの哲学者・エマソン『代表的人間像』ではプラトン、スエーデンボルグ、モンテーニュシェイクスピア、ナポレオン、ゲーテの6人を取り上げている。それに倣ったものだ。

内村鑑三の思想。

  • 人間の生涯とはこの世だけのものではなく、死んだ後も持続する。人間は永遠なる存在である。
  • 人間が何かをするのではなく、人間は無私になって天の道具になるのがもっとも美しい。
  • 使命は一人の個人で完成されることはなく、必ず受け継がれる。「私」の使命ではなく、「私たち」の使命である。
  • 人間における「樹木的成長」。種は光と水と時の力が加わって。いずれ木になる。果実を食べた者がその木が何であるかを知る。
  • 人生とは業績ではなくて、その過程すなわち生きる事への態度におてのみ測られる。
  • 「生涯」はいつも個に始まり、個には終わらない営み。未知の他者とともに創造的な営みに従事する。

私たちには、自分の生涯を書くことができます。さらに私たちは自分の「代表的日本人」を書くことができます。書かれた言葉は読まれることによって完成に近づき、さらに書かれることによって変貌していきます。

「余の愛する者は生涯の目的を達せし者なり。彼の宇宙は小なりき。されどもその小宇宙は、彼を霊化し、彼を最大宇宙に導くの階段となれり」(「キリスト信徒のなぐさめ」)。ここでいう「彼」は内村は妻のことを言っているのだが、それは「真面目なる生涯」を送った人々のことである。

さて、私が「幸福塾」で始めた「新・代表的日本人」シリーズと、「図解塾」で始めた「図解ジャパン」プロジェクトを合わせて、「日本・日本人」が究極のテーマとなったのだが、それは日蓮中江藤樹上杉鷹山二宮尊徳西郷隆盛を100年前に内取り上げた内村鑑三の後を継いでいることになることを発見した。この代表的日本人たちは、孔孟の教えを代表とする中国の影響を多分に受けている。つまり東洋思想を体現した人物たちなのだ。

そして内村と同じように、近現代を対象とする「新・代表的日本人」シリーズとその基礎資料となっている「名言との対話」は、私の自伝的、精神的要素も含んでいる。内村鑑三は私の先達である。

この学びは、内村が参考にしたエマソンの『代表的人間像』につながっている。日本人の研究が西洋のプラトン、スエーデンボルグ、モンテーニュシェイクスピア、ナポレオン、ゲーテという西洋の歴史に登場する偉大な人間像につながっているのだ。

「使命は一人の個人で完成されることはなく、必ず受け継がれる。「私」の使命ではなく、「私たち」の使命である」という内村鑑三の言葉の通りだ。

東洋と西洋の人類全体の人物と思想、人間の生き方の研究の流れの中に今の私の日々があることを認識するいい機会になった。

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朝:寺島さんから電話:近況の交換。近々、会うことになった。

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「名言との対話」4月23日。岡江久美子「人と関わるだけで、自分が生きてる証が残っていく」

岡江 久美子(おかえ くみこ、1956年昭和31年〉8月23日 - 2020年令和2年〉4月23日)は、日本女優タレント司会者

東京都出身。1975年、18歳TBSドラマ『お美津』でデビュー。1978年から5年間、『連想ゲーム』の赤組」レギュラー解答者。白組のレギュラー解答者の大和田獏と結婚。

1991年から1999年の『天までとどけ』では母親役を演じた。

1996年から2014年までの17年半、朝の『はなまるマーケット』の総合司会を薬丸裕英と二人でつとめ、全国に知られる。放送ウーマン賞を受賞。

2020年4月3日、新型コロナの疑いを受ける。6日、容態が急変。集中治療室に入り人工呼吸器を装着。8日、PCR検査で陽性。23日に死去。6日から17日間、家族は接触はできなかった。全国的に顔を知られた女優の新型コロナによる63歳の死のニュースは、衝撃を与えた。

その一月前の2020年3月29日に新型コロナでコメディアンの志村けんが亡くなった。1950年生まれの志村の場合は3月15日から体調に異変があり、陽性と判断されてエクモを装着するも29日に亡くなった。新型コロナによる70歳の志村けんの死去は国内外に衝撃を与えた。

志村と岡江の二人の死は、新型コロナの恐怖を身近にした。その後、2020年には経済界も含めて数人の著名人が亡くなったが、それ以降は死因は明らかにされていないようで、調べてもわからなかった。報道上の配慮があったのだろう。

私の母の場合は、ワクチンを打って数日後に体調が急変し、その10日後の2021年6月21日に94歳で亡くなった。死因は別のものだったが、私は今でもワクチンの影響だったのではないかと疑っている。

健康オタクであった岡江久美子は、明るい性格と人懐っこい笑顔が印象的な女性だったが、新型コロナによるごく初期の感染による死亡であったため、その名前が国民の記憶に象徴的に深く刻まれることになった。

 

 

 

 

竹内宏『「元気」の経済学』を再読ーー40年前の日本の姿と現在の日本の予測。その結果は?

竹内宏『「元気」の経済学』(PHP)を再読。

1986年10月6日刊行の本だから、もう38年前だ。バブル期(1986年12月ー1991年2月)へ向かう直前である。副題は「低成長時代の新たな活力とは」だ。

著者は日本長期信用の常務取締役調査部長で、『路地裏の経済学』などの著書で有名な経済学者で、ビジネスマンに人気があった。2016年に亡くなっている。

竹内宏の日本についての問題意識と将来の見通しと解決案を眺めてみる。

  • 日本経済:1986年時点:4%という低成長。GNPは300兆円(世界GDPの16%ー1988年)1所帯当たりの平均資産額は3000万円で内訳は、土地1500万円。家900万円。金融資産600万円。国債残高は140兆円でGNPの半分、一人当たり130万円。「日本は財政破綻国になってしまう」(名目GDP591兆円。国債残高がGDPの2.64倍。GDPは世界の4%)
  • 高齢化社会:1986年時点:平均寿命は男74.5歳、女80.1歳。出生率は1.8人。65歳以上と労働力人口の比は1:7.5。2020年には1:1.5になる。「想像を絶するような高齢化社会が到来。不安で不気味な社会が近づいてくる」。(人生100年時代の掛け声)
  • 年金は月18万円。標準月給の70%。60歳以上の貯蓄は1000万。「30年後には年金は完全に破産、支給年齢は遅くなり、支給額も減るだろう」。(65歳からの支給。マクロスライド方式で支給額は徐々に減っていく)
  • 低成長で変化のない時代には、「地域のコミュニティで生きがいを見つけようとする」。高齢者の好きなのは旅行。アジア旅行が適している。

打開策の提言:ロボット。老老介護。3世代同居。親子関係を変える(教育費を出さない。住宅は子どもに月賦販売)。外国人労働者の受け入れ。出生率を高める工夫。

「以上が実施できなければ、所得の50%が税金になり、勤労意欲の減退と反乱が発生する。日本社会のモラルや特質が根本的に変わらざるを得ないかも知れない」。

元気のある国について。

  • アメリカ:左右に激しく揺れてもバラスを失しない。世界の叡智が結集するダイナミックな国。多民族国家は活力がある。(新しい技術でトップの地位を保持。2024年IMF予測:日本の7倍の経済力)
  • イギリス:ジョンブル精神は健在。しぶとい国。(GDPは米中独日印に次ぐ6位)
  • ソ連:最も工業化に成功した国。中進国となったが限界。ことによるとソ連は取り残されるかもしれない。(数年後のソ連の破綻の予言が的中。ロシアはGDP世界11位)
  • 中国:目をみはるような成長。チベットに達するには100年か200年かかるかもしれない。(世界第2位の経済大国になった。日本の4.5倍の経済規模)
  • 韓国:納期の短さと正確さが強み。日本の昭和30年代に似ている。(GDPは世界14位。一人当たりGDPは日本を越えた)

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「アクティブ・シニア」の企画。5月の「名言との対話」の人選。図解塾の準備

夜:デメケン。「アクティブ・シニア革命」打合せ。言葉の力塾の打ち合わせ。

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船戸与一 写真 に対する画像結果

船戸 与一(ふなど よいち、1944年2月8日 - 2015年4月22日)は、日本小説家。享年7
早稲田大学法学部卒業。在学中は探検部に所属。第三期生だった。アラスカのエスキモーを訪問し、本名で共著『アラスカ・エスキモー』を刊行している。 小説家の西木正明は探検部の先輩である。
出版社勤務などを経てフリーに転身し、1979年に『非合法員』で小説家デビュー。主に冒険小説の分野で高い評価を獲得している。主な受賞歴に吉川英治文学新人賞(『山猫の夏』)、日本推理作家協会賞(『伝説なき地』)、山本周五郎賞(『砂のクロニクル』)、直木三十五賞(『虹の谷の五月』)、日本冒険小説協会大賞など多数。
著書には「砂のクロニクル」「海燕ホテル・ブルー」「虹の谷の五月」「祖国よ友よ」「非合法員」「夜のオデッセイア」「群狼の島」「山猫の夏」「銃撃の宴」「神話の果て」「カルナヴァル戦記」「猛き箱舟」「伝説なき地」「メビウスの時の刻」「緑の底の底」「かくも短き眠り」「黄色い蜃気楼」「午後の行商人」「龍神龍神一三番地」「緋色の時代」「三都物語」「河畔に標なく」「降臨の群れ」「藪枯らし純次」などがある。
私が読んだ『虹の谷の五月』は、1998年から2000年までの、フィリピン人と日本人の混血の主人公が13歳から15歳までのフィリピン・セブ島を舞台にした物語だ。船戸は冷戦構造の崩壊によって物語が書きにくくなったと言い、新たな冒険小説を書こうとした。主人公を幼い少年に設定して書き終えて、小説への新たな闘志が健在であることを確認し、次のステージに向かっていく。その転機の作品に2000年の直木賞が与えられた。
船戸与一の若い人へのアドバイスがいい。

・主体的に生きてもいいけれど、何も考えずに世間が命じるままに生きてもいい。向いている仕事なんて、実はない。そんなもの、自分ではわからないんです。私だって今でも向いてないと思ってるんだから。それよりも目の前のことに誠実になることです。そこから始めたらいいんです。

・もし若いときに旅をしなかったら、くたばる前にどんな思い出話をするのか。もっと人生を楽しむことを考えたほうがいい。

早稲田大学探検部の初期メンバーの船戸与一の「旅をせよ」という発言には、探検部で鍛えらえた私は共感を覚える。冒頭の言葉では「若いとき」と言っているが、これは生涯にわたって言えることだろう。旅、特に一人旅は世界を広げる。そこで体験した驚きが人生に深みを与えてくれるのだ。旅をして、人に会い、本を読む。その繰り返しを楽しもう。 

さらに船戸は「本気のものは人を惹きつける。これは小説に限らずだと思う」という。この人の書くものはどのジャンルにも続さない、ドストエフスキーと同じ枠で語るべき作家だという評価をする人もいる。熱量が多い、本気の人なのだ。

 

寺島実郎の「世界を知る力」ーー 日本の進むべき道「日本再生の構想ー日米関係の再設計」。

寺島実郎の「世界を知る力」の4月。

日本の進むべき道。日本再生の構想ー日米関係の再設計。

  • 岸田首相訪米:「日米同盟の最大強化」「産業協力の深化」。アロガント(傲岸な目線)とスレイビッシュ(卑屈な同調)。「日本が共にあり」「地域パートナーからグローバルパートナーへ」。自発的隷従。「日米軍の技術統制の向上」。片務性から双務性へ、世界紛争へ」
  • 何を主張すべきだったか:日米関係を創造的に進化させるべきだ。1「尖閣諸島の領有権の明確化」。米国は施政権は日本にあるとするが、領有権はあいまいにしている。2「日米の包括的経済協定(EPA)」。日米には自由貿易協定は存在しない。3「非核平和主義」。核危機にイスラエルへの苦言が必要。米国のダブルスタンダードに苦言。従順な同盟国という評価。
  • 20世紀システムの中の日米関係:20世紀はアメリカの席。柱は「国際主義」(国連・IMF・世銀)と「フォーディズム」(大量生産大量消費)。日本の20世紀は米国との並走。120年間のうち90年間は英米日英同盟・日米同盟)とのアングロサクソン同盟。前半(1902年‐1923年)の約20年日英同盟日露戦争に勝利。後半(1951年から)の70年超は日米同盟で高度成長。これを日本は成功体験と理解している。間の約30年間で太平洋戦争に敗北。これは米中連携に敗れたのだ。米国への過剰依存と過剰同調は危険。米国と中国へもバランス感覚を大事にすべきだ。
  • 21世紀システムの中で日本が進むべき道:世界秩序は米中2極でもなく、民主主義対権威主義の対立でもない。分断されたくない、自己主張したい、つまり全員参加型秩序へ向かっている。プレイヤーは国だけでなく、ビッグテックやNGOなども参加。冷戦時代の固まった頭ではなく、柔らかい頭で多次元外交を推進しなくてはならない。
  • 日本のプリンシプルは非核平主義と国際協調:日米関係を創造的にひらいていこう。1:独立後100年目の2045年までに在日米軍基地を段階的に縮小すること、地位協定の改定。専守防衛シビリアンコントロール。2:沖縄に国連アジア大洋本部などの国際機関を誘致。アジアの地域安全保障のしくみの構想の提唱。2000年に日本を除くアジアの経済力は日本の半分だった。現在は日本の7倍。2030年には10倍になる。
  • 大中華圏への考察(台湾出張報告):大中華圏の中身が変容しつつある:10年前のネットワーク型世界観。中国本土とそれを支える8000万人の在外華華人。ところが中国経済の失速(5%戦後という目標。IMFは4.6%)。習近平第3期政権の強権化路線は台湾、シンガポールが警戒し、資本と技術が入らなくなってきた。「走線」、大脱走、グレートエスケイプの動きが急だ。100万人以上が香港や中国から海外に逃げている。貧困層も南米からメキシコを通ってアメリカへ。1年で2.4万人(10年で1.5万人だった)。亡命申請は7割がOKだったが今後はどうなるか。短期ビザでもタイ(840万人+100万人)、シンガポール、マレーシア、台湾(+8万人)へ脱出。中国は異民族支配による移動などで中国からアジアへ脱出してきた。モンゴル族の元、満州族の清、そして共産中国の成立、そして今回の習近平政権への拒絶。
  • 大中華圏の中核としての台湾:第3の航空会社「スターラックス航空」の台頭。LCCではない、オールビジネスクラス・ファーストクラス並の機内サービスなど。中華航空エバ航空に次ぐ。エアバス22機を所有、日本には10路線。トランジット(乗り換え)の拠点が香港(2020年6月からの本土支配)から台北へ移動。
  • 台湾の歴史:1624年にオランダ東インド会社の支配(1661年まで)。1661年から鄭成功による明への復興を目指す時期。1683年から212年に及ぶ清朝の支配。1895年から50年間の日本の支配。
  • 台湾:96%は漢民族。75%は本省人(日本の支配以前からの本省人60%・客家⑮%)。21%は外省人(1949年以降に本土から)。4%が原住民。「台湾人」意識は6割に達している。
  • 「台湾有事」:台湾に米軍基地はない。有事には沖縄巻き込まれる。米軍の戦争に巻き込まれるという不必要なリスクをとるべきではない。明確な距離感をとるという自己主張をすべきだ。
  • 寺島実郎『21世紀未来圏 日倍関係の構想』(岩波書店)が5月18日に刊行予定。

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【評伝】オムロン立石義雄氏「企業は社会の公器」 - 産経ニュース

「名言との対話」4月21日。立石義雄「会社は創業家のものではない」

立石 義雄(たていし よしお、1939年昭和14年)11月1日 - 2傲岸)・すれいびっ集(卑屈な020年令和2年)4月21日)は、日本実業家 

大阪市出身。立石電機創業者の立石一真の3男。同志社大学を卒業し、立石電機に入社。1987年に47歳で社長。1990年、社名を「オムロン」に変更。2003年に創業家以外の人物に社長を譲り会長。2007年、京都商工会議所会頭に就任し、2020年までその職にあった。

海外展開で社業を飛躍的させた。また駅の自動改札機、銀行のATMなどを開発普及させ、オムロンの「中興の祖」と称された。

創業者の立石一真は「大企業病」という名言を生んだ名経営者である。この人が生んでその後ずっと生きている名言がある。中小企業を立ち上げた立石は50歳を過ぎてから倒産寸前の企業の売り上げを1000倍にし、世界的大企業へと飛躍させた。

盤石にみえる大企業も案外もろい。その病を大企業と名付け、それを克服していった慧眼に敬服する。私も企業にいた時に立ち向かった相手はこの病だった。一つの言葉が多くの大企業の失敗の原因を鮮やかに示し、多くの経営者や管理者に影響を与えた。義雄は「大企業病」にかかることなくさらにオムロンを高みに導いたのだ。

「ものごと“できません”というな。どうすればできるかを工夫してみること」と言う立石一真は3割のリスクは飲み込んで決断を下していく。そして「最もよく人を幸せにする人が最もよく幸せになる」と言い、障害者事業など社会貢献事業も展開していった。人のために頑張ることが自分のためになるという人生哲学である。

息子の立石義雄は、新型コロナに感染して死亡した著名人の一人だ。以下、2020年3月から2021年4月まで新型コロナで亡くなった人を挙げてみる。それ以降は、情報はなかったが、新型コロナは多くの人の命を奪った。

志村けん(享年70)はザ・ドリフターズのタレント。岡江久美子(享年63)は女優。岡本行夫(享年74)は外交評論家。高田賢三(享年81)はファッションデザイナー。羽田雄一郎(享年53)は衆議院議員小野清子(享年85)は東京五輪体操のメダリスト。

立石義雄が亡くなったのは、志村けん岡江久美子の間の2020年4月だった。3月に京都商工会議所会頭を退任した直後だったから、おおそらく、関西、京都では話題になっただろう。

立石義雄は、「人の幸せをわが喜びとする」を信条とした、快活な笑い声で誰からも愛された。社名の変更を断行し、創業家以外の人物に社長を譲っている。そして京都を代表する企業へと発展させた功績があり、「中興の祖」と呼ばれている。その偉業によって、京都商工会議所の会頭に推され、13年という長期にわたって京都のために活動した。そして退任した直後に、あの新型コロナで亡くなっている。見事な生涯であった。

 

 

 

神保町「ほんまる」。恵比寿「木村伊兵衛」展(東京写真美術館)

ヨガ教室で1時間。

神保町:「ほんまる」を訪問。今村省吾さんの秘書の女性から説明を受ける。自分の棚の位置を確認。橘川さんの「深呼吸書店」の棚をみる。田原さんが確保した地下も見学。

 


恵比寿:東京都写真美術館木村伊兵衛 写真に生きる」展。

木村 伊兵衛1901年12月12日 - 1974年5月31日)は、20世紀に活動した日本写真家戦前戦後を通じて活動した日本を代表する著名な写真家の一人。報道宣伝写真やストリートスナップポートレート、舞台写真などさまざまなジャンルにおいて数多くの傑作を残している。同時代を生きた写真家、土門拳とはリアリズム写真の双璧。図録を購入。

 

神保町「CRAFTBEER MARKET」。

神保町「ミロンガ」:カフェオレを一杯。


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「名言との対話」4月20日丹羽文雄「人間はあやまちを犯さずには生きられない、可哀そうな存在だ」

丹羽 文雄(にわ ふみお、1904年明治37年〉11月22日 - 2005年平成17年〉4月20日)は、日本小説家  昭和を代表する作家の一人。

三重県出身。浄土真宗高田派の寺に生まれる。早稲田大学卒。1932年に「鮎」でみとめられ,風俗小説を多作する。女性の愛憎描写にすぐれた。のち仏教への傾斜し1969年に「親鸞」(仏教伝道文化賞)、1982年に「蓮如」(野間文芸賞)を発表する。作品はほかに「厭がらせの年齢」、「蛇と鳩」(野間文芸賞)、「顔」(毎日芸術賞)、「一路」(読売文学賞)などがある。日本文芸家協会理事長。日本芸術院会員。1977年に年文化功労者文化勲章

母は4歳の時に旅役者の後を追って出奔。養子であった父は義母と男女関係にあった。また、銀座のホステスをして養ってもらっていた妻の50人近い関係を持った男性のリストを発見している。

こういう境遇を知ると、「人間はあやまちを犯さずには生きられない、可哀そうな存在だ」。「親鸞にとっては、悪人というのは人間ということの別のいい方だ。世間ふうの人間らしい欲望をもち、人間らしい欲望をすてきれないひとのことをいっているのだ」という言葉に納得する。それは夜の世界を描いた「クラブもの」、そして「親鸞」、「蓮如」に結実していく。

日中戦争時代は。日本文学報告会の前身の「ペン部隊」、大東亜戦争では海軍の報道班員となった。戦後は同人誌『文学者』を主宰し、また日本文芸協会理事長を永くつとめ、文壇の大御所となった。吉村昭津村節子夫妻の師匠は丹羽文雄であり、河野多恵子は「文学者の同人である。近藤啓太郎という一人の作家の誕生には師である丹羽の存在が大きかった。すさまじいエネルギーと思い切りのいい強烈な言動の平林たい子は、「私は生きる」という言葉を好んで使ったが、記念碑にはたい子にふさわしい言葉として丹羽文雄を選んだこのこの言葉が刻んである。丹羽文雄は多くの文学者を育て、ついには文壇の大御所となった。

丹羽文雄はゴルフの名手だった。本人は「文学に淫したと同じくらいゴルフにも淫した」というほどのめり込んでいる。作家は坐っている時間が長いから、気分転換と体力維持このゴルフに狂ったことで長寿に恵まれたのだろう。

1985年には81歳でエージシュートを達成している。読売GCを40・41ノ81で回った。これは文壇では初の快挙だった。丹羽は世話好きでもあったようで、文壇にゴルフを広めている。柴田練三郎、源氏鶏太が教えを乞うたところから端を発し、そのころの第一線の作家達が勢ぞろいして、丹羽家を訪れゴルフスクールの様相を呈したり、コンペを催したりして一大文壇交流の場として世間に広まった。「丹羽学校」と呼ばれた。

三好徹『文壇ゴルフ覚え書き』によれば、小説家が主役の文壇でゴルフをやる人がゴルフを始める年齢は割と高い。それは文壇に確たる地位を確立す年齢が高いことに起因している。最初から小説を書いて食っている人は少なく、何らかの職業を持ちながら二足のわらじを履いている人が多く、筆一本で立てるようになたっときは年齢が高くなっているのだ。丹羽文雄は50歳から始めている。
ちなみに文壇ゴルフの入会資格は、技術拙劣、品性高潔。石原慎太郎がそれを聞いて、石原慎太郎は「それじゃ、僕は資格がないな」」といって入らなかったそうだ。どちらの資格にひっかかったか、二通りの説がある。おそらく、「品性」の方だろう。

2006年9月に、文芸春秋10月臨時号を眺めていたら、白洲次郎のページに興味深いデータを見つけた。1960年8月に軽井沢で行われた吉川英治夫妻誕生祝いゴルフ会のときの、11人の著名人のスコア表が貼ってあった。吉川英治はハンディ24、池島新平26、柴田錬三郎21、角川源義21、大岡昇平15、広岡知男15、、、、。シングルは丹羽文雄などは3人いて、丹羽文雄6、そして白洲次郎と並んで石川達三はハンディ3のローシングルプレイヤーだった。

同年生まれの船橋聖一とは、自他ともに認めるライバルであり、野間文芸賞文化功労者などで競っている。71歳で亡くなった船橋だが、丹羽はそれから30年近く生きて100歳のセンテナリアンとなった。その代価だろうか、晩年に認知症を発病している。

丹羽文雄には「一文のセンテンスは最長でも40字までを限度とせよ」などの小説を書くための技術に関する言葉もあるが、「人間はあやまちを犯さずには生きられない、可哀そうな存在だ」を採ることにしよう。丹羽文雄の家族たちの生きざまを見つめた人間観だろう。その人間観が、すべてを許す親鸞に向かわせたのだ。それは実家の浄土真宗の寺へ戻るまわり道だったのだ。

 

 

 

神奈川近代文学館「帰って来た橋本治」展。横浜山手の「ブリキのおもちゃ博物館」再訪。

神奈川近代文学館で開催中の「帰って来た橋本治」展。

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橋本治は1948年生まれ、2019年に亡くなっている。この文学館には「橋本文庫」がある。

橋本治の著書は今までに3冊読んでいる。小林秀雄の恵み』(新潮社)では小林秀雄の代表作『本居宣長』を材料に、小林秀雄の正体を丁寧に薄皮を剥ぐように見せていく。神様・小林秀雄の間違いを指摘するという、恐れ多い仕事となった出色の小林秀雄論だ。その手腕はなみたいていの腕ではなかった。

橋本治内田樹』筑摩書房)。同世代の二人の特異な書き手の考えていることや手の内がわかるのだが、橋本治の逆説的な、本質的な、独学的な言葉群に魅力があって、最後まで楽しくうなずきながら読み終えることができた。内田樹は相の手と相手の言葉を敷衍するちょっとした解説がうまいので、橋本治の話がうまく回転してく。

『窯変源氏物語』は橋本治本人が「代表作に近い」という全14巻の大作。

企画展で、展示を詳しく見て、図録を買ったので、改めて私と同時代を生きた2歳上の橋本治の足跡を追うことにしたい。

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横浜山手の「ブリキのおもちゃ博物館」(KITAHARA COlLECTION)を再訪。北原照久コレクションで、1890年代から1960年代製造のおもちゃ3000点が展示されている。

クリスマスの館。こちらは初めて

昼食は、何度も訪れているレストラン「ROCHE」。

 

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「名言との対話」4月19日。椎名武雄日本アイ・ビー・エムの玄関に星条旗を掲げちゃだめなんだよ」

椎名 武雄(しいな たけお、1929年5月11日 - 2023年4月19日)は、経営者。享年93。

日本アイ・ビー・エム株式会社社長、会長。経済同友会終身幹事。社会経済生産性本部副会長。社団法人企業研究会会長。財団法人慶応工学会理事長。慶應義塾評議員・理事。慶應義塾理工学部同窓会募金委員会名誉会長。 2000年11月 勲一等瑞宝章受章。

アメリカのバックネル大留学後、日本IBMに入社。45歳で日本IBMの社長に就任したのは1975年で、1992年まで17年間の長きにわたり同社を率いた。1989〜1993年は米IBMの副社長も兼務している。1992年に会長に就任して以降は経団連経済同友会の要職に就き、IT戦略会議メンバーなども務めることで、日本における外資系企業の地位を向上させたことから「ミスター外資」との異名も取る。

椎名武雄外資と生きる IBMとの半世紀』(日経ビジネス人文庫)を読んだ。

10年がかりで朝日新聞日本経済新聞のコンピュータシステムを開発したエピソードが印象に残る。米IBMの開発担当者はアポロ計画を担当した精鋭部隊だったが、「アポロ計画のシステムより難しかった」と漏らしたほどの難事業だった。日本語の新聞記事には「書き出しは1字下げる」などこまかな約束事が3000もあった。その約束事を盛り込むとソフトのサイズが膨れ上がり、コンピュータの処理能力が追いつかない。ようやく1971年からコンピュター紙面がだんだんできあがっていき今の姿になった。

新聞のコンピュータ化のプロセスで親しくなった日経の円城寺次郎は「椎名君、日経は新聞も出している会社にしたいんだよ」と言った。日経はデジタル化に果敢に挑戦しつづけている。

ゴルフクラブには正会員、平日会員、ビジターという3種類がある。ビジターはプレー料金は高いし、キャディーさんの態度もどことなく違う。せめて平日会員になろうじゃないか。これは1975年に社長に就任したころの発言だ。売上高2千億円、社員数1万人の日本IBMは63歳で48歳の北城恪太郎に社長を譲ったときには、1兆円企業になっていた。「日本IBM中興の祖」と呼ばれている。

日本とのつながりを築くために考えだしたのが、1970年から始めた「天城会議」だ。毎年財界、学界などの有力者が集まって議論する場である。天城会議を育ててく人として、ソニー盛田昭夫と野田一夫を挙げている。

1994年に政府の高度情報通信社会推進本部の有識者会議の委員になっている。情報化の推進には縦割り行政ではダメで内閣が全体を統括して欲しい。高度情報化社会の推進にはそれを阻害する制度等を廃止・変更して欲しいと主張している。2020年から始まったコロナ下であらわになった政府のデジタル化の恐るべきお粗末さを目にすると、椎名武雄のアドバイスを実行しなかったことは明らかであり残念だ。この点は「デジタル庁」をつくったことで簡単に解決するような課題ではないと思う。工業時代から情報産業時代への転換に向けて政府全体、国家全体が総力をあげて立ち向かうべきテーマなのだ。

「お客様に鍛えられて人材というのは強く育っていく」「”Glorious discontent.” 誰にでも不平や不満はある。だけど、それをそのまま終わらせてはいけない。不平や不満があるならば、それをなくすよう物事を改善しなければならない」「これからは日本人が世界でトップになる。さもなければ、日本は本当に沈んじゃうよ」「何もせずに社長室に座っていると、悪い話は入ってこない。そうなると、経営判断を間違ったり、遅くなったりする。経営者は現場を歩き、積極的に生の情報を集めなければならない」。

椎名武雄と私の縁を思い出してみる。

・1991年前後だったか、JAL時代に日本IBMの椎名社長に社内報のインタビュ−をしたことがある。

・2004年、宮城大学初代学長の野田一夫先生とカナダ大使館地下のシティ・クラブ・オブ・トーキョーで夕食を摂った。先生はあいかわらずステーキで、ギリシャへの船旅にいく話をしていた。このとき、野田先生の親友の日本IBMの椎名武雄最高顧問が現れて私もご挨拶した。二人は「タケオ」「カズオ」と呼び合う仲だった。
・2008年。 「草柳文恵さんを偲ぶ会」で私の隣の寺島実郎さんが帰った後の席は、遅れてきたIBMの椎名武雄さんが座って、陽気楽しい会話が続いた。挨拶では「文恵さんはもの静か、もの憂げな美女だった」と印象を語った。
日本アイ・ビー・エムの玄関に星条旗を掲げちゃだめなんだよ」は、1993年1月に北城恪太郎氏に社長を引き継ぐことを発表した直後のインタビューで発せられた言葉である。椎名は「常にアメリカ本社と戦ってきた」と語り、本社に対しては日本の商習慣を理解させる苦労をする。また「外資は悪だ」という日本の抜きがたい見方を払しょくするにも苦労する。その両面を端的にあらわす言葉が「星条旗」をめぐる冒頭の言葉である。

 

 

塩谷賛『幸田露伴 下の二』から

本厚木に所用があって、妻と出かけた。帰りに駅で古本店が並ぶ企画をまだやっていた。塩屋賛『幸田露伴 下の二』(中公文庫)を購入。この4巻の書は、読売文学賞を受賞している。

読んでみると手元にある坪内祐三『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲がり』の露伴についての底本のようだ。「詳細きわまる塩谷賛『幸田露伴

』との紹介があった。坪内逍遥露伴を抜群の記憶力と博識を回想して「ルネサンス的天才」と称していた。

最後で、かつ最も優れた弟子であった塩谷賛の『幸田露伴』の中で露伴のことを何と紹介しているか。「国宝的存在」。「碩学、人傑」。「座談の名人」。「文豪」。「ミノスのラビリントス」(鴎外の「百門のテーベス」)。、、、、

露伴は『澁沢栄一』という伝記を書いている。「事業から事業への必然的な関係もなく、全体を通じて一貫したものがない」と語っていたそうだ。露伴は頼まれて「時代の寵児」としての側面だけを書いたとのことである。パラグラフごとに一行をあけ、段分けがない。このためスピード感があった。

塩谷賛の書は、「太公望」から始まる。その冒頭に昭和10年に「改造」新年号の「偉人論」を載ったとある、自分のためばかり走り回る人を小人、その働きが社会のためになる善良な人を大人とする。偉人は善、不善を問わないとする。「えらい人になれ」というより、「人になれ」というのが良いとしている。露伴は偉人について、大人・仁人・哲人・聖人等11の称すと比較しているというから、いずれ読んでみたい。

幸田露伴は明治・大正・昭和の三代に亘る巨匠である。『五重塔』などの小説も素晴らしいが、『努力論』には触れるたびに感銘を受ける。厚みのある人生論で、努力論いうより日本を代表する幸福論だ。運命。人力。自己革新。努力。修学。資質。四季。疾病。気。こういうキーワードで事細かく生き方を論じた名著であり、首肯するところが多い。

 最も読むべきは「幸福三説」である。

惜福。分福。植福、これを三福という。惜福とは、福を使い尽くし取り尽くしてしまわぬをいう。個人では家康の工夫。団体では水産業、山林、軍事。分福とは、自己と同様の幸福を分かち与えることをいう。人の上となり衆を率いる人が分福の工夫をしなければ、大なる福を招くことはできない。分福は秀吉が優れていた。清盛。ナポレオン。尊氏。福は惜しまざるべからず、福は分かたざるべからず。植福とは、人世の慶福を増進長育する行為である。自己の福を植え、同時に社会の福を植えることだ。「福を惜しむ人はけだし福を保つを得ん、能く福を分かつ人はけだし福を致すを得ん、福を植うる人に至っては即ち福を造るのである。植福なる哉、植福なる哉」 

露伴の娘の幸田文の文章は、新しい情報を伝える「エッセイ」ではなく、日常の見聞から人間の本質を描く「随筆」というにふさわしい。読むと父・露伴のことがどうしても目がとまる。「父にうそをつくと観破されて恥しい目にあう」「黙ってひとりでそこいら中に気をつけて見ろ」「なぜもっと父の話を沢山聴いておかなかったか悔やまれた」「父の書斎、、、そこは家人といへども猥りに入ることのできない、きびしい空気がつつんでゐた」「お父さんは偉い人だと感服して聴いた」「「お前は赤貧洗うがごときうちに嫁にやるつもりだ」、、「、、薪割い・米とぎ、何でもおれが教えてやる」。「ある冬、伊豆に遊んでいた父から手紙をくれた。「湯のけむり、梅の花、橙の黄、御来遊如何」という誘い、、」。露伴と文との関係と交流が過不足なく冷静の描かれている。「終焉」の終わりは、「「じゃあおれはもう死んじゃうよ」と何の表情もない。穏かな目であった。私にも特別な感動も涙も無かった。別れだと知った。「はい」と一言。別れすらが終わったのであった」である。

露伴については、折に触れて、学んでいきたい。

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「名言との対話(平成命日編)」4月18日。来栖継「重訳が必ずしも直接訳に劣らない」

栗栖 継(くりす けい、男性、1910年7月18日 - 2009年4月18日)は、翻訳家、チェコ文学者、共産主義者エスペランティスト日本エスペラント学会顧問、世界エスペラント協会名誉会員、日中友好文通の会会長。享年98。

父が自殺したため母子家庭で育つ。中学時代にエスペラント語を知り、雑誌「戦旗」に掲載された「プロレタリアエスペラント語」という論文を読み、エスペラントにより革命運動に参加できると考え、エスペラントを学習する。

戦前は治安維持法により特別高等警察によって数回逮捕・投獄された。出獄した栗栖は小林多喜二蟹工船』のエスペラント語訳に取り組み、作家の貴司山治の助けで、大量にあった伏せ字を全部復元した翻訳を完成させた。その時点では出版できなかったが、スロバキアのジャーナリストが、栗栖のエスペラント語訳からスロバキア語に翻訳し、1951年に発行された。戦前・戦後を通じて日本のプロレタリア文学などのエスペラント翻訳などを多数行った。1949年、エスペラント運動に関する功績により「小坂賞」(日本エスペラント運動に対する小坂狷二の功績を記念した賞)を受賞した

少年期からチェコ文学に興味があり、「本物のチェコ文学者」となろうと、40歳を過ぎてから、独学でチェコ語を学習する。1995年7月、ルイジ・ミナヤ賞(世界エスペラント協会主催文芸コンクール、エッセイ部門第1位)受賞。2007年には、横浜みなとみらい21で開催された第92回世界エスペラント大会では、開会式でエスペラントであいさつを行った。

世界語・エスペラント語は、宮澤賢治も使っていた。また2011年に開催された「ウメサオタダオ展」でもエスペランチスト梅棹忠夫エスペラント語のサインの入った本が展示されていた。訪問したいくつかの人物記念館でもエスペランチストは数人いた。世界語への関心が高い時代があったのだ。

小林多喜二の代表作『蟹工船』のスロバキア語訳の陰には、来栖継という日本人によるエスペラント訳があったことが後にわかった。「スロバキア語とよく似たチェコ語訳の『蟹工船』は、伏せ字だらけの本が底本です。重訳が必ずしも直接訳に劣らない一つの例証です」と91歳の来栖継は語っている。原作を超えるという評価のある翻訳では、森鴎外の『即興詩人』が有名だが、日本語からエスペラント語への翻訳、そのエスペラント語訳からスロバキア語への再翻訳という「重訳」が成ったわけだ。原本の良さがだんだん薄れるだろうと思うのだが、語学の才能に加えて、志の高い翻訳者を得れば、直接翻訳を上回る出来になることもある。

小林多喜二から来栖継、そしてスロバキアのジャーナリストというように松明が引き継がれたのである。来栖継の第一次翻訳が優れていて、スロバキアのジャーナリストの転訳もさらにすばらしかった。軌跡の物語がここにある。