神田和泉屋のおかみさん「横田紀代子」さんを偲ぶ会。

神田和泉屋の今年の年初に亡くなった「おかみさん」を偲ぶ会。117名の参加という盛り上がりだった。横田紀代子さんの遺影と夫の横田達之さんの挨拶。

花筏、四季桜、豊の秋という銘酒と、料理の名人だったおかみさん直伝のおつまみを堪能しながらの2時間でした。
アル中学。JALファーストクラス大吟醸搭載プロジェクト。富田勲先生。野田一夫先生。山地社長、、、。「年年歳歳花相似たり 年年歳歳人同じからず」。

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JAL関係以外には、安蔵光弘(メルシャン)、野瀬英洋(大誠エンジニアリング)、儀田礼嗣(弁護士)らと歓談した。儀田さんは私の幼馴染の久恒三平弁護士のことを良く知っていた。

以下、2016年に書いたブログ。

「横田達之 お酒の話---日本酒言いたい放題」(横田達之・横田紀代子著。神田和泉屋学園同窓会「たより」編集委員会編)

オビにはこう書いてある。「本物のお酒を楽しんでいますか?」
「国際線ファーストクラスに”本物の大吟醸酒”を初めて搭載し、わが国古来の文化「日本酒」の名を世界に轟かせた、神田和泉屋の横田達之。蔵元さえ頼りにする卓越した知識と豊潤な経験がその源泉にある。くわえて、各界から参加した2000名の卒業生を送り出すほどの、お酒の学校の校長も務めた横田の哲学を、一冊に凝縮したのが本書なのだ。」(神田和泉屋学園同窓会)

JAL時代、この大吟醸搭載に関わり、これが縁となって横田さんの主宰する「アル中学」「アル高校」「アル大学」を卒業した。学園での成績は悪かったが、高い学歴はもらった。「アル」は正式にはアルコールの意。

神田和泉屋学園は開校から27年が経ち、2015年3月に閉校した。この学園はいい酒がわかりそれを呑む人を育てることがいい蔵を残すことにつながるという信念で、味の分かる賢い消費者を育てるという志の高い素晴らしい事業だ。
その神田和泉屋店主の横田さんが1988年から毎月書いてきた2011年まで23年間にわたる「神田和泉屋たより」の集大成だ。

日本酒に対する該博な知識、現場に必ず足を運ぶ真摯さ、妥協を許さず正邪を見分ける目、職人や蔵元に対する愛情と尊敬、メディアに流される浮薄な風潮への義憤、日本酒に関わる良き人々との淡い交流、、、、。

この本には日本酒の全てが入っているという感がある。
日本酒に関する、消費者側から見た一つの優れた体系だ。電子書籍にして、言葉や疑問から検索できるようになると、日本酒に関する生き生きとした事典になるのではないか。

横田さんは、2000人の卒業生が慕っており、先日の出版パーティも200人を軽く超える大盛況だった。
ワインは農業だが、日本酒は工業、さらに言えば手工業と横田さんはこの本でも書いているが、人間も手工業製品であるとすれば、横田さんは仕事に没頭し天命を授けられ、長い時間をかけてあらゆる工夫と事上練磨を重ねて、人物の大吟醸になった感もある。

この学園ではおかみさん(横田紀代子)がつくる酒のつまみも大変人気があった。その「おかみさん料理 レシピ」も付いている。

神田和泉屋学園同窓会の編集委員たちの身に着けた知識と熱心さ、そして武蔵野書店の編集者との息が合った編集委員会の雰囲気がよく出ている。とてもいい本に仕上がっている。後世に残る名著になるのではないか。

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田沼武能 人間讃歌 | 東京都写真美術館 | 美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ

「名言との対話」6月1日。田沼武能「人生にはいろいろな選択肢がある。太く短く生きるのも道だが、細く長く生きるのも道」。

田沼 武能(たぬま たけよし、1929年2月18日 - 2022年6月1日)は、日本写真家。享年93。

東京都出身。東京写真工業専門学校卒業後、20歳、サン・ニュース・フォト社に入社。木村伊兵衛の助手としてスタート。「芸術新潮」の嘱託写真家として文化人の肖像写真家として注目を浴びる。36歳、アメリカのタイム・ライフ社と契約し、フォト・ジャーナリズムぼ分野でも活躍する。45歳、初の写真集「武蔵野」。46歳、日本写真協会年度賞。50歳、モービル児童文化賞。51歳、写真集「下町ひと昔」。54歳、写真集「東京の中の江戸」。

55歳から、黒柳徹子ユニセフ親善大使の援助国訪問では1984年の初回以来すべてに同行。120ヵ国を越える世界中の子どもを撮影。56歳、菊池寛賞。61歳、紫綬褒章。64歳、写真集「東京の戦後」。66歳、日本写真家協会会長、東京工芸大学芸術学部教授。67歳、写真集「下町今昔物語」。71歳、日本写真著作権協会会長、全日本写真連盟会長。73歳、勲三等瑞宝章、写真集「輝く瞳 世界の子ども」。74歳、文化功労者。75歳、写真集「六十億の肖像」。77歳、日本写真保存センター設立推進運動副会長、写真集「武蔵野賛歌」。85歳、日本写真家協会功労賞。90歳、文化勲章

2019年4月。田沼武能写真展(世田谷美術館)という卒寿の90歳の企画展をみた。たゆみなく仕事をし続けている人だ。そして、だんだん大きくなっていく人だという印象を持った。

「人間大好き人間」田沼のライフワークは3つあった。文化人の肖像、世界の子ども、戦後東京である。

この写真展は、戦後の1948年から1964年の東京オリンピックまでの東京を撮った企画展で、「子どもは時代の鏡」「下町百景」「忘れえぬ街の貌」の3つの視点で構成されている。 「昔はものはなかったが、人情だけはあった」。

ショップで『時代を刻んだ 貌 田沼武能写真集』も購入。「顔は精神の門にしてその肖像」。昭和の文化を創りあげた諸家240目の傑作写真集。これはまさに偉業だ。 

芸術新潮』『新潮』の仕事を中心に、文化人を撮りまくった。その集大成がこの写真集である。「芸と理を究む」「詩文の世界で」「空間とデザイン」「絵画と彫刻と」の4部構成で、昭和を彩る著名人の肖像は圧巻だ。そしてそれぞれの人物についての取材メモもついている。臨場感ふれる言葉で、撮影時の様子や、本人の言葉などがあり、この写真集の価値を高めている。

例えば「寺山修司」は、「まず居場所がわからない」から始まる。柳田国男は「話好きで、新しく仕入れた話は、他人に聞かせないと気がすまないようなご性格」。金子兜太「なんとなく銀行に遠慮しているようであった」。谷崎潤一郎「5分だけ」。井伏鱒二「先生はお酒が入ると、話が面白くなる」。司馬遼太郎「『関ヶ原』の取材に同行した」。新田次郎「人目をはばかる役所の中で」。三島由紀夫「せめて御木本翁くらいに永いきして」。横山大観「朝に昼に晩に、食事に酒を欠かさない」。、、、、、。素晴らしい写真集だ。

木村伊兵衛からは「おれの真似をしていても、おれ以上にうまくはならない」と言われ、この言葉は座右の銘になった。

「写真家という職業についたおかげで、あらゆる職業の方々と出会い、お話することができた」。

「「貌」はその人の歴史、その人の心、内面までも写し撮ることができると、私は考える。またそれが表現できたとき、はじめて優れた肖像写真と言えるのではないか、その極みに近づきたいと私は日夜努力している」

90歳を越えてなお現役だったが93歳で死去。「人生にはいろいろな選択肢がある。太く短く生きるのも道だが、細く長く生きるのも道」と語った。70年という長い写真家生活であったのだが、どうも「細く」でもなかなった感じもする。「長く」の成果は、師やライバルが獲得できなかった文化勲章を写真界で初めてもらったことにあらわれている。

文化勲章の授章者を眺めてみる。落語家は桂米朝、歌舞伎役者は六代目菊五郎俳人高浜虚子、映画監督は黒澤明、彫刻家は朝倉文夫、ガラス工芸家藤田喬平、、、、それぞれ分野開拓のパイオニアである。その分野が「文化」として認められた証でもある。

「吉岡弥生記念館」(静岡県掛川市)ーー「至誠一貫」

東京女子医大を創立した吉岡彌生の生誕の地:掛川に立つ記念館と実家の医院跡を5月24日に訪問した。

生涯を「志」「翔」「愛」にわけて展示されている。

座右の銘は「至誠一貫」。そのとおりの不屈の生涯だった。

「大正評判女番付」が展示されていた。記念館では、文壇の酒豪の番付や文豪の執筆量料の番付などを見たことがある。今度は女の番付だ。

横綱広岡浅子(銀行家)と峰島きよ(質商)。張出横綱は矢島楫子。吉岡弥生(女医)は安井哲子(教育家)と並んで大関となっている。三浦環(音楽家)と川上貞奴(女優)が関脇。下田歌子(校長)と棚橋洵子(校長)が小結。前頭で名前を知っているのは、九條武子(美人)、野上弥生子(文学者)、松井須磨子(女優)、嘉悦孝子(教育家)、田村俊子(文士)、伊藤野枝鳩山春子(交際家)、中條百合子(小説家)。

実家の医院跡。

購入した『吉岡弥生伝』。

阿弥陀如来」「震災の思い出」「わが指導者原理」「あとがき」を読みながら帰る。古稀のお祝いの記念に刊行した本。執筆者は福沢諭吉伊藤博文大隈重信渋沢栄一に並ぶ女傑だとしている。婦人界の指導権を、門閥なき婦人、生活する婦人の手に取り戻したと評価している。

「わが指導者原理」

  • 校長、院長として500人を統率するには骨が折れる。万事自分の責任においててきぱき事を運ぶ。できるだけ会合に顔を出し空気を感じる。各所からあがってくる毎日の報告を寝床に入る前に1時間かけて読む。所内の雑誌に日記風の近況随筆を書く。地方公演では卒業生が集まり大騒ぎ、こええは教育者のみが味わえる喜びだ。
  • ドイツが外遊に際して引退を宣言。同時に余生を女医の要請と社会教育、婦人教育に捧げる決心を声明。

「伝」の中で関東大震災の時のことが出てくる。「私はめそめそ泣くには嫌いな性質」「今までの二倍働かねばならないと決心いたしました」「生まれつき物ごとを楽観する人間」とある。先日書いた「林芙美子」のそうだが、「楽観的、楽天的」と自覚している。道なき道を切り拓く逞しさは共通している。

記念館の図録から。

「婦人が職業を持ち、社会で活動できれば、広い知識を得るのでありますから、男子にとって真の好伴侶になることは当然でありましょう」

吉岡弥生は「至誠一貫」を座右の銘とした。似た人に北里柴三郎がいる。こちらは「終始一貫」だった。どちらも「一貫の人」である。

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橘川・田原とミーティング。それをうけて、6月14日午後の京都の「ミニ蜃気楼」の話のテーマは「人生計画(ライフプラン)の実際」とした。

  •  あなたは、「人生計画」(ライフプラン)を持って生きていますか?  講師は47歳までの「青年期」のビジネスマン時代を経て、「壮年期」は教育者、そして「実年期」の現在は「」として、充実した人生を送っています。 ビジネスマン時代は、「公人」としての本業と「個人」としてのライフワークを両立させるという微妙なかじ取りが必要な「二刀流人生」を送ってきました。 30歳で「一生の計画」、40歳で「30年計画」を立て、毎年の年初に立てた「計画」を実践し、年末に〇×△で総括し、次の正月に計画を立てる。このサイクルを40年以上にわたり続けてきました。マル秘であった30歳から47歳までの驚愕のライフプランとそのノウハウを公開します。 ライフプランは立てた方がいいことは分かっているが、どう作ったらいいかわからない。そんなあなたにライフプランを持つことの大事さと、血と涙の匂いのする具体的なやり方の実践例を提供します。 あなたの人生は一変する可能性があります。お見逃しなく!。

力丸君と「アクティブ・シニア革命」の編集の件で相談。近藤さんと記事の修正作業。

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作家の杉本苑子さんが死去 91歳 「孤愁の岸」「滝沢馬琴」など歴史小説 - 産経ニュース

「名言との対話」5月31日。杉本苑子「歴史の中で声もなく、うずもれた人たちの声が無数にある。その声が耳にそこに鳴ってくる」

杉本 苑子(すぎもと そのこ、1925年6月26日 - 2017年5月31日)は、日本の小説家、歴史小説家。

 文化学院卒。1952年に「燐の譜」で『サンデー毎日』の懸賞小説に入選した時の選考委員であった吉川英治に師事し、門下生として10年修行した後に、1963年「孤愁の岸」で直木賞。古代から近代までを題材としたおおくの歴史小説を発表。1978年「滝沢馬琴」で吉川英治文学賞、1986年「穢土荘厳」で女流文学賞。1995年文化功労者。2002年文化勲章。作品はほかに「玉川兄弟」「埋(うず)み火」などがある。「マダム貞奴」「冥府回廊」は85年のNHK大河ドラマ春の波濤」の原作となった。

杉本苑子が住んだ熱海は東京とは気温が3度違い過ごしやすい、海と山に囲まれて自然が素晴らしい、東京との距離が近い、という条件が揃っており、昔から文人、政治家、軍人などが住んできた場所である。澤田政廣記念美術館、中山晋平記念館、佐々木信綱「凌寒荘」、そして2005年に訪ねた杉本苑子旧宅「彩苑」がある。別荘として建て、その後ここに15年間住み、後に熱海市内の新居に住んだ。いずれ杉本苑子はこの旧宅を記念館とするつもりだった。現在、熱海市が借り受けて熱海にゆかりのある,文化人の人々の紹介と作品展示をしている。

文藝春秋特別版2006年8月臨時増刊号に「代表的日本人100人を選ぶ」という特別企画がある。1908年の内村鑑三「代表的日本人」に範をとったものだが、そこでは「わが国民の長所を外の世界に知らせる」ために、西郷隆盛上杉鷹山二宮尊徳中江藤樹日蓮の5人をあげていた。百年後の今回は、選者は杉本苑子藤原正彦半藤一利松本健一の4人。日本人が理想とする人間像、美しき生き方を示すことが目的である。9つのジャンルの中で選ばれた100人が紹介されている。こういう人たちの足跡を訪ねてみたいと思ったことがある。

2006年に宮城県松島の藤田恭平美術館を訪問したとき、81歳で文化勲章を受章したときの写真があった。国際経済学者の小宮隆太郎、映画の進藤兼人、航空宇宙工学の近藤次郎、質量分析学の田中耕一らと並んで小説の杉本苑子がいた。各地の記念館で文化勲章受賞時の記念写真を見ることが多いが、同時代の各界の逸材を横並びに見ることができて、いつも興味深く見ている。

2016年に杉本苑子「万葉の妻たち娘たち」というタイトルの講演を収録したオーディブルの講演を聴いた。文藝春秋社の文化講演会での講演録で1時間弱の中身の濃い講演だ。天皇・貴族・庶民・奴隷まで、あらゆる層の人々が本音を吐露する万葉集の歌は現代人の胸を打つ。杉本はその中で万葉時代の女性について語っている。女性の地位の高さを語ったところが印象に残っている。

 「憂いはひとときうれしきも思い醒ませば夢候よ」は、室町時代後期の歌謡集「閑吟集」の中の一節で、杉本苑子が好んだ。人生の辛さも、嬉しいことも、ほんの一時のことだ。そういう思いが醒めてみれば、夢のようだ。歴史に題材をとって、そこに生きた人々の人生の盛衰と喜怒哀楽を描いた杉本苑子の人生観がこれに極まったのであろう。

NHKアーカイブスの映像をみた。昭和18年の学徒出陣の壮行会の場にいたという。「この巨大な消耗、巨大な損失、巨大な犠牲を払いながら、何を得たのか。家を焼かれ、肉親を原爆の一瞬で地獄に落とされ殺される。そういった大きな犠牲を払った事、これを足掛かりに再出発する」それが歴史小説を書く根底にある。「歴史の中で声もなく、うずもれた人たちの声が無数にある。その声が耳にそこに鳴ってくる」と結んでいた。

戦後をつくってきた日本人はそれぞれ同じような気持ちで、祖国の復興と生活の再建に向かったのだろう。

 

知研セミナー「人生100年時代のファイナンシャル・プラニング」。

6月の知研セミナーは、深谷康雄さんの「人生100年時代のファイナンシャル・プラニング」。

  • 社会環境:ライフプラン(人生設計)とファイナンシャルプラニングの関係。人生100年時代になってシニアライフは多様化複雑化。不安の中身は老後の生活、病気と漠然とした不安。資産寿命。個人資産2023兆円の6割は高齢者。保守的習慣。年金財源は枯渇しない(200兆円の積立金の取り崩し)。
  • FPの役割:金融機関と「士業」の知識の全体を俯瞰。一気通貫的コーディネーター的業務。現状の見える化。改善のアイデア(収入増と支出減と年金繰り下げと資産運用)。不安の解消。メディアと金融機関の恫喝的情報を鵜呑みにしない。人生の幸福度を高くするという視点。使う時間は限られている。

残った私の課題:インフレになったら? 医療費の現実? 子どもに遺すか? 遺族年金の現実? 健康寿命は正しいか? FPの料金体系?

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6月の「名言との対話」の人選。

6月の講演の準備を開始。

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【フォト特集】写真で振り返る小林亜星さん 作曲家・俳優として活躍 - 産経ニュース

「名言との対話」5月30日。小林亜聖「新しい世界をつくろうと、人が聞いたことにない歌を作ってきた」

小林 亜星(こばやし あせい、1932年〈昭和7年〉8月11日 - 2021年〈令和3年〉5月30日 は、日本の作曲家、作詞家、俳優、タレント。享年88。

CMソング、アニメソング、テレビ番組のテーマ曲、歌謡曲、校歌など、所6000曲以上を作曲した。その他、俳優やタレントしても活躍した。

東京都渋谷区出身。父は官僚、母は共産主義者という家庭に生まれる。ケ扇宿医学に入学したが、経済学部に転学部。卒業後に作曲家の服部正に師事。

まずコマーシャルソングの作曲から始めった。出世作レナウンの「ワンサカ娘」、「日生のおばちゃん」、日立の「この木なんの木」、「日清食品チキンラーメン・誕生編」、丸美屋丸美屋のろたま」、サントリーレッド」、興和ウナコーワ」。ロート製薬パンシロンの歌」、タケダ「ベンザエース」などよく知っているCMソングが多い。

アニメソングも多い。「ひみつのアッコちゃん」「プrグルファー猿」「魔法使いさりー」などのオープニングも亜聖の作品である。

謡曲では、「北の宿から」(レコード大賞)、「赤い風船」(加藤登紀子)、「ピンポンパン体操」などがある。

俳優としてはテレビの「寺内貫太郎一家」での主演が有名だ。「サザエさん」の磯野波平役。映画でも「まあだだよ」の亀山和尚。そしてバラエティでは「象印クイズ ヒントでヒント」の男性キャプテン。著著は5冊ほど。

以上、一人の人物の仕事とは思えないほどの圧倒的な量と高い質であることに驚いてしまった。そしてあの肥満の体躯で88歳まで活躍したのである。

作曲で飯を食えるとは思っていなかったのだが、やっているうちに何とかなったこともあり、「人間、自分の好きなことをやったほうがいいと思う。ダメでも好きなことをやったほうが、成功率が高いね」とも語っている。

「作曲は遊びみたいなもの」「歌は音楽だと思ったらダメ」と語っているように、自分を芸術家とは思っていなかった。

「新しい世界をつくろうと、人が聞いたことにない歌を作ってきた」。小林亜聖は常に創造を心がけていたのだ。その秘訣は「毎日、なんか作っていますよ。でも、それは発表するわけじゃないから。クセだから、なにか作っていないといられあない」であった。

画家は毎日デッサンをする。小説家は時間があれば机に座る。同様に作曲家は毎日、手を動かしている。その日々の訓練が土台となって人が目にしたことのない優れた作品を生むということだろう。

日記にも同じことが言えて、文章を書くことが苦にならなくなる。書くことへの壁が低くなる。それでたくさんの文章をつづることになる。これはデッサンであるととらえよう。その日々の訓練が代表作、大作までたどり着く道だろう。

 

 

 

 

 

「俺お前 ビリケツ争い したっけな」ーー「川柳まつど」465号が届く。

「川柳まつど」465号が届く。一つが「天・地・人」に「地」に選ばれた。以下、12句のうち、6句が採られた。

宿題「トップ」

「俺お前 ビリケツ争い したっけな」(「地」)

「部下のせい 出処進退 死語になり」

宿題「同等」

「同等と 思った時は 敵が上」

宿題「続く」

「続けてる イヤ本当は やめられぬ」

「続けてる ヤツはホントは 偉い人」

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6月の宿題は「選択」「清清」「センス」「接する」。

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銀座ハリウッドの福富太郎 : 【昭和商人史】ローソンの前身はキャバレーを全力で営む歴史的FC企業であった - NAVER まとめ

「名言との対話」5月29日。福富太郎「最初から日本一になってやろうと思っていたから」

福富 太郎(ふくとみ たろう、1931年昭和6年10月6日 - 2018年(平成30年)5月29日)は、実業家、絵画蒐集家。享年86。

東京出身。15歳でキャバレーのボーイとなり水商売の世界に入る。26歳で独立。1960年東京新橋にキャバレー「新橋ハリウッド」を開店。以後、好不況にかかわらず業績をあげ続け、ハリウッドチェーンを拡大。1965年から1978年までハリウッドは料亭・キャバレー部門の納税額日本一を続け、東京キャバレー協会会長をつとめた。最盛期は直営店29、全国に44店舗となている。このため、「キャバレー太郎」「キャバレー王」とよばれた。

タレントとしてもメディアで活躍している。1970年からのテレビ朝日「ズバリ!身上相談」「アフタヌーンショー」の回答者として人気が出る。福富太郎の意表をついた具体的なアドバイスとふくよかな顔は私の印象に残っている。

浮世絵の収集でも知られる。「戦後最高のコレクター」との評価もある。福富によればコレクターとして「最初から日本一になってやろう」と、食うものの食わず、絵ばかり買っていた。給料は5000円のときに5万円の絵を買っていた。若い頃から収集した美人画戦争画を中心としたコレクションは「福富コレクション」と呼ばれるまでになっている。

福富太郎の目は独特だった。商業美術的世界で活躍していた渡辺省亭、グラフィックデザインの世界の小村 雪岱の作品を収集している。2021年に「渡辺省亭ーー欧米を魅了した花鳥風月画」展を上野の東京芸大美術館でみたが、これほどの画家が忘れられていることに驚いた。文展などには出展せずに注文に応じて描いていたことが原因だった。画壇に属さなかったが、海外では横山大観竹内栖鳳以上になじみがある日本画家だった。福富に縁の深い鏑木清方も「いやぁ、省亭はいいからね」と語りかけたそうだ。

同じく2021年に日比谷図書文化館で、「複製芸術家 小村 雪岱 装幀と挿絵に見る二つの精華」展をみた。資生堂意匠部で仕事をしたこともあり、書籍の装幀や挿絵、そして舞台装置と三つの分野で才能をいかんなく発揮した人である。雪岱も日本画の画壇の主流ではなかった。キャバレーの仕事をしていたことで、女を見る目が違っていたのだろうか。

著作に「昭和キャバレー秘史」がある。「誰にも書けなかったもう一つの昭和大衆史。「朝日人物事典」にキャバレー業界の人間としてただ一人「福富太郎」と名前が載り、この商売を天職と決めている著者にしか書けないキャバレー正史」との解説がある。福富本人は「秘史」と遠慮したが、実は「正史」としての評価である。あやしげな日陰の業界、これを天職、ライフワークとした福富太郎は、その歴史を愛情を持って残そうとしたことに感心した。

福富太郎は15歳で飛び込んだキャバレーという本職にも、絵画蒐集のコレクターとしても、「最初から日本一になってやろう」という志を持っていたのである。そして、ボーイから出発した福富太郎は「キャバレー王」、「戦後最高のコレクター」となったのだ。

 

「PLAUD NOTE」を試すーー録音・文字起こし・要約を一台でこなすAIボイスレコーダー

ChatGPTと連携した、録音と文字起こしと要約のすべてをこなすAIボイスレコーダー「PLAUD NOTE」を試してみました。

 

カルチャーラジオアーカイブNHK「声でつづる昭和人物史」(保阪正康)の林芙美子編の30分番組2本の計1時間を対象。

聞き逃し配信を録音。要約の編集(ダブリの削除、林芙美子という言葉を何度も使っているのを修正、、、)。文字起こしの編集(質問部分を削除、漢字の同音異義語の修正、てにをは、ダブリの削除、まとまりを確認、不必要な部分を削除、、、)。

後は、必要に応じて、話し言葉などの部分、あいまいな部分などを修正。段落ごとに小見出しをつけるなどをすると、完璧になりそうだ。

林芙美子は明るい笑い声が響く楽天的な人だった。以下、話の中で特に印象に残った言葉をピックアップ。

  • 人間は落剝の味をなめて、泣くだけ泣かないといい人間になれない。
  • 根っからの小説書きであり、毎日レッスンしている。
  • 蚕が糸を吐くように書きたい。
  • 60歳か70歳くらいになったら本当のものが書けるような気がする。今はデッサンの時代。長生きしてボロボロになるまで生きていたい。70歳くらいからロマンチックな大作を書いてみたい。
  • 若い時代は、心の糧になるものを読んだり、絵を見たり、音楽を聴いたり、いろいろなものを吸収することが大事だ。
  • 現在は晩年だと思っている。いつ死ぬかわからないから、無駄な球は投げたくない。
  • 花の命は短くて、苦しきことのみ多かれど、風も吹くなり、雲も光るなり。

Fumiko Hayashi (author) - Alchetron, the free social encyclopedia

このインタビューの4日後に、林芙美子は47歳で心筋麻痺で死んでしまう。生前、最後のインタビューだった。「青年期」のデッサンの時代を終えて、「壮年期」の後半に本当の作品を書き、「実年期」の前半で大作を書こうという希望は打ち砕かれた。林芙美子はレッスンとデッサンの時代の習作が、後世に残る作品となったのだ。この人にあと20年の寿命があったらと考えてしまった。

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要約。

  •  林芙美子の生涯と作品    生涯と代表作について紹介。彼女の生い立ち、放浪記の出版とその成功、そして彼女の文学的な才能について議論。
  • 放浪記    放浪記が自伝的小説であり、出版後すぐにベストセラーとなったことについて説明。彼女の若い頃の生活や作家としての道のりについても触れる。
  • 教育と文学への目覚め    広島県尾道での教育を受け、文学に目覚めた経緯について説明。彼女の短歌や詩が地元の新聞に掲載されるようになったことも紹介。
  • 林文子の上京と関東大震災    が作家を目指して上京し、関東大震災を経験したことについて議論。彼女が様々な仕事をしながら作家としての道を模索したことも説明。
  • 放浪記の冒頭の一説    放浪記の冒頭の一説「私は宿命的に放浪者である。私はふるさとを持たない。」について、その意味と林文子の人生観について議論。
  • 昭和5年の時代背景と放浪記の成功    昭和5年の不況の時代背景と、放浪記がベストセラーとなった理由について説明。ヒロインの姿が多くの読者を引きつけたことを議論。
  • パリ滞在    昭和6年にパリに滞在し、芸術や文化に触れた経験について説明。彼女のたくましさとエネルギーについても触れる。
  • 庶民的な視点    庶民的な視点を持ち、庶民の生活や目線を大事にしていたことについて議論。彼女の作品における庶民精神についても触れる。
  • ニヒリズム    自分のニヒリズムについて語り、庶民的な楽しさを吸収することが重要だと述べたことについて議論。彼女の楽観的なニヒリズムについても触れる。
  • 創作意欲    創作意欲を持ち続け、毎日書きたいという気持ちを持っていることについて説明。彼女の作品に対する愛情と情熱についても触れる
  • 若い人たちへのアドバイス 作家としてのキャリア    出世作『放浪記』やパリでの一人旅について話し合われました。彼女は自分の執筆活動をデッサンに例え、まだ勉強中であると謙虚に語っていました。
  • 夫の関係    夫、手塚隆一(リョクビン)が彼女の執筆活動を支えたことについて話されました。リョクビンは看板を描いて家計を助け、文子の原稿を編集者と調整するなど、多くのサポートを行いました。
  • パリでの生活    が昭和6年にパリへ旅立ち、そこでの生活費を稼ぐために随筆を書いたことについて話されました。夫のリョクビンが日本で彼女の原稿を編集者と調整し、雑誌に掲載する手配を行いました。
  • 若い頃の希望と現実    10代の頃にどんな希望を持っていたかについて話されました。彼女は絵描きになりたかったが、食べることに追われて希望を持つ余裕がなかったと語りました。
  • 作家になった動機    作家になった動機について話されました。女学校時代に図書室で多くの本を読み、自然と詩や文学に興味を持つようになったことがきっかけでした。
  • 女性作家としてのハンデキャップ    女性作家としてのハンデキャップについて話されました。家庭を持ちながらも仕事を続け、辛い時期を乗り越えてきたと語りました。
  • 若い人たちへのアドバイス    若い人たちにどんな生き方をすべきかについてアドバイスしました。彼女は本を読み、音楽を聴き、広く深く物事を見て自分の道を見つけることが大切だと語りました。
  • アプレゲールの精神    アプレゲールの精神について話しました。戦後の新しいモラルを作り出すために、冒険心を持ち、大きく自分を広げることが重要だと語りました。
  • 本を読むことの重要性    保坂正康が本を読むことの重要性について話しました。読書の有無は短時間の会話で見抜けると語り、若い時に多くの本を読むことが大切だと強調しました。
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  • 以下、林芙美子の発言。
  • 貧乏したんじゃなくて貧乏から生まれてるんですからね。貧乏話にもならない。それからまあ、終戦後みんなが貧乏になって、たけのこを剥くような生活だったってね。当たり前でね、私一応ね、日本人がね、大濯ぎに、濯られることは私はいいんじゃないかと思うんですよ。当たり前だしね、人間は一応落剝の味をなめてね、泣くだけ泣かなきゃね、いい人間になれませんよ。私はそう思ってますね。だから泣いたことのない人間ってのはね、いやらしいし怖いしね、つまらない人間だなと思いますね。
  • あのね、私「太閤さん」って小説書いたんですけどね、なぜかっていうとね、それは浮浪児を書いたんです。浮浪児ってのはね、私から言えばね、太閤秀吉が柳の橋で菰をかぶっていた。ね、浮浪児ってのはあれと同じですよ。蜂須賀小六に助けられた。あれと同じですよ。ああいうふうにして、そして一つの人生を乗り越えて、自分の記憶の中にそういう辛酸を舐めた時代を通ってくる人は、ああいうふうな花も開いたという感じね。だから私は浮浪児の小説を書いた時に、非常に太閤的なそういうものを感じて、決して悲観しないし、全部の人が立ち上がれるとは思いませんよ。けどね、そう絶望したものじゃないという気持ちを私は持っている。立ち上がれるということね。いつまでも子もかぶって50、60になって落ちぶれる。これはもう仕方がないでしょうけどね。全部が全部そうじゃないという、私は非常に希望を持っているんです。特に生まれて、そしていいとこで育って、女中なんかにかしずかれて、そして学校に行って成長する。私はこれはバカでもできることだと思う。それからまたね、いかに大学を出て俊才でもね、人生うまみを知らない人はね、これも私から言えばね、クズみたいに思うんですよ。やっぱり自分の好きなものを研究するなりね、それから生活のエンジョイというものを考えたりね。いろいろ自分が成長するにつれて、自分というものを個性強くね、立ち上がる人私は。やっぱり自分の好きなものを考えたりね、それから生活のエンジョイが好きなんですね。
  • ものを考えたりね、それから生活のエンジョイという私はね、偉い人よりもね、そういう犠牲になる人ね。一人の英雄が出るについてね、その英雄の周りにね、かしずくね、あの、犠牲者ね。その人たちに同情を持つんですよ。だから一人の英雄は欲しくないんですよ。犠牲になるね、そういう人たちに私はね、愛を持つんですよ。
  • 私は、やっぱり根っからの小説を書きですからね、レッスンしているようなものです。毎日毎日毎日ね、書きたいんですよ。私はどんな小説を書いても、これがどういう風に読まれるだろうかということよりもね、自分の勉強のつもりもありますけども、いいものだって言われることがあるとすれば、それは長く、私この仕事に入って25年経ちますけどね、それの収穫だと思っていますけど、またひょっとしてね、書けない時が来るかもしれないと思うんですね。けれど、私は今は非常に糸を、蚕が糸を吐くようにね、書きたいんですよ。だから、世間の毀誉褒貶は案外気には止めない。やっつけられれば、憤慨もしますけどね。25年この仕事をしていますとね、1日ぐらいで忘れちゃいますよ。毎日次を書こうと思って。私もそれは、年間の非常な楽天主義でもありますね。これまた世間の評判でですね、意気揚々の類で申し訳ないんですがね、
  • 私はね、相も変わらずと言いますけどね、私は60か70ぐらいになったほうが本当のものを書けるような気がしますよ。今はやっぱりさっき申し上げたデッサン時代ですからね、それは色んな色合いのものができるでしょうけどね、私はもう長生きしてね、ボロボロになるまで生きていたいんですがね、70ぐらいからロマンチックな小説、大作書いてみたいなという気持ちを持ってますね。
  • 10代の頃、私は働いておりましたし、小説家になろうなんて思いもいらないし、本当は絵描きになりたいと。何とかして絵描きになって、女学校の先生でもして、そして親を面倒を見たいという気持ちを持っていましたけど、食べることに追われたものですから、皆さんがお尋ねになるような希望なんてものは正直に言って持っていなかったんです。
  • 作家になった動機というのは、女学校時代に、やっぱり私は働いておりましてね、今で言えばアルバイトみたいなんですけれども、私が育ったところは尾道の景色のいいところなんですよね。この女学校に入っておりましてね、そして親が入れてくれないと言うんですけれども、勝手に試験を受けに行ったら、6番ぐらいで入っちゃったんです。得意になって入ってたんですけど、私は地方での土着のものじゃないものですから、非常に排斥されていた。自然に図書室に入ったりするようになって、その頃新説弓張月の馬琴のものだとか、それから鈴木三重吉さんのものだとかね、北原白州は大変な流行でした。それから倉田百三さんとかね、外国のものではモーパッサンだとか、それから詩ではハイネとか。その子頃は大変詩が流行していて、流行って若い人に読まれて、私も自然好きになった。先生がまた非常に詩の好きな方でして、よんでくださって。自然発生的に、そういうものは好きになっていったと思っています。
  • 女だからハンディキャップがあるかというと、もうこれからはないと思うんですよ。私たちの時代はあったかもしれませんけどね、私は今、家庭を持っておりましてね、子供もおりますしね、25年結婚してるんですよ。やっぱり私は家庭を持ってて、非常に自分が仕事をしていく上には辛くもありましたけどね、体が非常に貧乏に鍛えられているものですからね、その点はびくともしないんです。これで台所もしますしね、配給も取りに行きましたしね、リュックも背負ってね、疎開もしたり、非常にそれでファイトを感じるんです。それで、小さな時に貧乏している時にね、非常に辛いことがあるとね、もっと殴ってくれっていう気持ちだったんですよ、神様にね。家庭を持ってね、自分が仕事をしているとね、いや、もっともっとね、自分が努力しなくちゃいけない。非常に辛くてね、何回とか泣くときはあるんですけどね。非常に辛くてね、それを耐えていく。家庭の面では私は克服しているつもりですし、それから社会的にも、私この作家生活して25年近くなりますけれども、みんな何とも言わなくなりましたし、非常に今は幸せだと思っております。いい作品さえ描けたらという希望ばかりです。
  • 私自身だってこれからどういう生き方をしたらいいんだろうって考えるんですけどね。むしろ私たちの若い時の方が、なんて言いますか、アプリゲールだったように思うんですよ。非常にね、今の若い人はむしろあっちでこづかれこっちでこずかれして気の毒だなと思いますがね。人にあまったれちゃいけないって気持ちね。若い人はね、自分の若さにあまったれるところがあるんですよ。自分のことを気にしか考えないところもある。これは年をとってもそうですけど、今のあなたたちの若い時に、うんと本を読んだり、本を読むということは、いろんな悪大なものを探して読みなさいではなくて、自分の心の糧になるものを読んだり、絵を見たり、音楽を聴いたり、うんと呼吸の水を吸うように吸収した若さ時代を作っておくということが大事じゃないかと思います。
  • 私は東京にいて、でもどうにもしようがないから故郷へ帰ろうと、尾道へ帰ろうと思いました。大阪までの切符台しかないので、大阪まで帰って、そこで宿屋へ泊まることができないものですから、今の梅田駅ですけれどもね、パッと寝ましたけれどもね。あくる日、毛布屋さん、口入れ屋さんに頼んで仕事をしました。そこで働いて、お金をもらって、故郷へ帰りました。ある意味で楽しかったんですよ。今のようにすぐやけになったり投げやりになったりという時代じゃなかった。しつけの厳しさというものは、やっぱり私今から思うと大事だと思うんですよ。社会が全部それを持っていたということね。それからお金、金銭に対して非常に大切だということを頭にありました。だから着物をね、左前に着るのは私得意だったんですよ。右がね、傷んでくるでしょ。そうするとね、右を隠して左前に。そうするとね、右を隠して左前に。それから自分が絵の具を好きでしたから持っててね、模様の焼けたところをね、ちょっと模様を描いてね、そしてそれを着て歩いたものですよ。だから至る所に青山ありでね、自分が苦しいと思ったらそりゃ苦しい。けど私今日ね、誰にも借金をしなかったし、借金して刺身を食おうとは思わないです。もう借金しなくても2日ぐらい私は飢えて本を読んでいたらいいんですからね。自分に本屋とか絵が好きだとか、要は音楽が好きなんですよ。こういう見ることだとか聞くことだとかそういうことを非常に好きだったものですから、楽しみは十分持っていたし、やけにならなかった。そして人にあまったれなかったですね。人にあまったれても人は相手にしないです。貧乏人というものは相手にしない。だから今でも私はよく言うんです。良くなれば人は助けてくるけれどもね、人の心は宛にならないと。自分は自分で、自分を教育して、自分を処理していかなければならない。その信念さえ持っていれば、世の中怖いものはないと思いますよ。
  • 小説家というものは、一朝一夕ではなれないんですよ。これは菊池寛さんがおっしゃったように、何万人だかの一番ピリにつく気持ちがあったら 弟子にしようとおっしゃったそうですけれどもね、まず努力ですね。本当に特殊な努力がなくちゃならないし、やっぱり多く本を読みね、それから字を知り、よかったら一つくらいの語学をね、勉強する。もちろんすぐに小説を書くわけじゃない。だから若い人に小説を書きなさいとは私は勧めないけれども、書きたかったら自分の気持ちを、日記の程度にして書くということは良いことではないかと思いますしね。
  • 私は小説を書くときに、今度は何を書こうかとか、今度はこういうものを書こうかっていうものが一つもないんです。これは他の作家にはあることだろうと思うんですけれどもね。私は自分が非常に苦しい時代過ぎてきているものですから、読者の顔がふっと浮かぶときがある。それはね、やすい皿に取っている人が2階で毛布をかぶってね、ごろっと読んでいるときに、私のものでも読んでくれて、これは面白いな、楽しいなって言ってくれればそれでいいんじゃないかなっていう気持ちでね、大野心作なんてものは、私はあんまりつかない。だから詩を書いたものですからね、そういう気持ちが抜け抜けになって、私は書いていないのかもしれないけど、短編小説は非常に好きですし、どういう意図で書こうという気持ちは私はなくて、ぶっつけに、机に向かって、共感を呼ぶものを書きたいという気持ちで、じーっと机とにらめっこして書いているような次第なんです。
  • 私はやっぱり庶民的な作家で終わりたいと思っています。私の人生観というものは、あなたたちのような希望に燃えている年齢じゃないんですよ。自分は現在は晩年だと思っていますからね。もう一つも、ある意味で無駄のない玉を放りたいという気持ちを持ってね。それでも長距離が始まっているんですよ。既に決着点へ私は着こうとしているんですよ。いつ死ぬかもわからないし。
    だから、無駄玉は放りたくない。その点では野心を持っているわけなんです。共感を,、そして庶民の人が読んでくれるようなものを書きたいと思っています。
  • 風も吹くなり雲も光るなり。生きている幸せは波間のカモメのごとく。 逍遥と漂い生きている幸福はあなたも知っている。あなたが知っている 。これをよく知っている。花の命は短くて、苦しきことのみ多かれど、風も吹くなり、雲も光るなり。

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「ミスター麻雀」小島武夫さん死去 82歳 伝説の役満「九蓮宝燈」語りぐさ - zakzak

「名言との対話」5月28日。小島武夫「博打にロマンなどない。しかし、美学がある」

小島 武夫(こじま たけお、1936年2月11日 - 2018年5月28日)は、競技麻雀プロ雀士日本プロ麻雀連盟初代会長。享年82。

「ミスター麻雀」と言われた小島武夫にとっての「仰ぎ見る師匠」は、雀聖、大神と呼ばれた阿佐田哲也である。

若い頃は「常に高い手を狙い、手が安いときは相手の動きを見ながら極力勝負を避けるというシンプルな戦略」で鳴らした。振り返ってみれば、私は毎回和了しようとしていた。こういう考え方でも知っていれば、大学4年生で覚えた私のマージャンスタイルも変わったかもしれない。

「博打はどれだけ我慢ができるかの勝負である。ツキがないときは繊細に、ツキ始めたら大胆に。じっと我慢して風向きが変わるのを待ち、風向きが変わればおっかぶせていく。感情的になったら負け。怒るのも、浮かれすぎるのもダメ。どちらも思考力が鈍るので一番怖い。どんな戦いでも、冷静でいなければならない」。

「ギリギリのところで勝負するからこそ、感覚が研ぎ澄まされ、勝ちをグッと引き寄せることができるのだ」「 麻雀は、ディフェンスあってこそのオフェンスである」

マージャンは「選択」と「決断」の連続である。配牌は環境。ツモと打牌は、経験と実績。テンパイ・リーチは好機と挑戦。和了と振り込みは成功と失敗。得点や順位は成功の度合い。こうやってみると、麻雀は人生そのものだと改めて思った。

カネは豪快に稼ぐが、カネは残らない。そして「カネが貯まってしまうと、人間ろくなことがない」と言い、「カネを稼ぐのは大事なことだが、それ以上にカネを遣うことのほうが重要なのであるとのたまう。小島の博打人生は「借金に惚れ、借金を抱き、借金と付き合う」日々だった。麻雀という極道の道を歩いたこの人は、一度腰をおろせば、もう立ち上がることはできない、ということを知っていたのだ。進むしかないのである。

麻雀に関わる勲章は以下。最高位(第3・4期。無双位(第1期)。マイルドセブン杯(第1期)。最強位(第2期)。麻雀グランプリMAX(第1期)。モンド麻雀プロリーグ名人戦(第5回)。天空麻雀(第9回)。麻雀Battle of generation(第2期)。

  「博打にロマンなどない。しかし、美学がある」という言葉のとおり、小島は「魅せる麻雀」が信条だった。麻雀に美学を求めるスターだった。その美学とは、「プロであるなら、ファンに感動を与えなければならない」であり、つまらない手を和了らない、そして入念にいい手を作り上げ、印象に残るような和了を見せて、ライバルを軍門に降らせる。そういう考えだったから、敵は恐れた。しかし、そして、だから、ファンが多かったのである。

 

 

 

 

正念場を迎えた万葉学者・上野誠のライフワーク宣言ーー「夢を経営する」

5月26日の日本経済新聞の文化欄に万葉学者・上野誠(64歳)さんの「夢を経営する」という論考が載っていた。ラジオで何度か肉声を聴いたことがある。

45年の歳月を使って積みあげた研究の総まとめである『万葉集』の註釈書というライフワークを完成させるという宣言だ。60代のうちに仕上げるのではないか。歴史上の大学者の列に加わろうという一大事業だ。正念場を迎えた、その壮たる意気やよし。

【フォトギャラリー】【聞きたい。】上野誠さん 『万葉学者、墓をしまい母を送る』 生き生き介護や送りこそ大事 - 産経ニュース

  • 正念場:『万葉集』の4516首の全訳、註釈を始めた。この大事業を個人で成し遂げた人は江戸時代の契沖以降30人ほど。この列に加わろうと60歳で志した。現在、半分まできた。基本方針「従来説でダメなものはダメだとはっきり書く。自分の持っている力をすべて出し切る。わからないところは理由を添えてわからないと書く。考古学、歴史学民俗学の知見をいれて斬新な注釈書を書き残して死にたい。専門家を「なるほど!」と唸らせ、一般読者が「おもしろい!」と叫ぶ注釈書を書き上げたい。そのためには困ったら躊躇いもなく助けを求める。(方針と心構えと実践の知恵)
  • これも経営である:私は一人社員、一人社長の経営者だ。研究だけでなく、講演料、出演料もしっかり貰う。本を出すために顔を売る。この匙加減がじつに難しい。(資料収集や、交際にかかる金の算段も重要だ。研究者は実は経営者なのだ。同感だ)
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美空ひばりと石本美由起(作詞家)の写真 | 昭和ガイド
「名言との対話」5月27日。石本美由起「テーマが古くても捉え方切り口が新しければ新しい歌になる」
石本美由起(いしもと みゆき、男性、1924年2月3日ー2009年5月27日)は、日本の作詞家。
広島県大竹市出身。9ヶ月の未熟児で生まれる。小児喘息を患い、家に閉じこもりがちになり、本を読むようになった。藤村、白秋、杢太郎、八十の詩集。啄木、牧水の短歌。漱石、芥川、一葉、独歩の文学。吉川英治長谷川伸などの時代小説。そして俳句などを読み漁った。結果的に病弱であったことが、言葉を武器とする作詞家としての強みになっている。

軍隊に入るが、病気がぶりかえし、入院中に慰問に訪れた東海林太郎の歌を聴いて、歌の力の強さを知り、作詞家を志す。1948年、24歳で『長崎のザボン売り』『憧れのハワイ航路』でデビュー。その後、「ひばりのマドロスさん」、「港町13番地」、「浅草姉妹」、「悲しい酒」、「矢切の渡し」、「長良川艶歌」など、ヒット曲を連発した。

『出会い わが師わが道』(広島テレビ放送)によれば、石本美由紀は、まさに「出会い」を大切にした人であることがわかる。「すべてが縁であり、一つの出会いです」「作品作りは、いつも、人との出会いから始まるものなのです」「お互いに意欲を感じ、刺激を求め、燃焼する。そういう人との出会い」「出会いに始まり、出会いに終わる」。切磋琢磨する友とライバルの存在が作詞家石本美由紀をつくった。

レコード大賞をとった曲には、「長良川艶歌」、「矢切の渡し」、「女の旅路」がある。美空ひばりには、「ひばりのマドロスさん」、「港町十三番地」、「哀愁波止場」、「悲しい酒」、「人生一路」など約200作を提供している。

日本音楽著作権協会(JASRAC)理事長、日本音楽作家協会理事長、日本作詩家協会会長、日本音楽作家団体協議会副会長などを歴任し、私的録音録画補償金制度など音楽著作権制度の整備・発展に尽力している。作詞界の大御所的存在だった。面倒見の良さでも知られ、広く後進の指導にもあたった。門下生には星野哲郎がいる。

「私たちの仕事は、総合芸術であり、パートナーが必要であり、チームワークの善し悪しによって、その成果はずいぶん左右されるのです」というように、「悲しい酒」「港町十三番地」「哀愁酒場」などを提供した美空ひばりなど天才的な歌手との出会いがある。そして「長崎のザボン売り」「憧れのハワイ航路」でデビューのきっかけをつくってくれた江口夜詩、そのライバル・古賀政男船村徹市川昭介など有能な作曲家との出会いによって、石本美由起の作詞家人生が彩られていく。

影響を受けた人物は、北原白秋ゲーテ、など。そして影響を与えた人物は、星野哲郎を始めとする作詞家群がいる。

NHK「あの人に会いたい」では、「作家一人一人の持っている目と心と表現力だと思う」と語っていた。

「私たちの創作は、無から有を生むものだと思います。自分の行動する範囲に落ちている、人生の喜怒哀楽をテーマとして探し選ぶことが大切です」と作詞の要諦を語っている。

何を見て、何を感じ、そして何を表現するか。自分が生きている時代をみつめ、巷の人々の声に耳を傾け、日本の心を感じ、それを詩に託す。石本美由紀が作詞した作品は85年の生涯で3500曲以上にのぼる。石本美由紀の作詞した歌には耳に残っているものも多い。歌にはやはり、強い力があり、そして長い命がある。

「心の詩人」石本美由起は、「テーマが古くても捉え方切り口が新しければ新しい歌になる」という。人物論でも、新しい解釈、新しい切り口で迫っていくことができれば、新しい人物論になるということだ。芸術的生産と同様に、知的生産においても同じことがいえる。

 

 

 

雑誌『イコール』創刊号発刊記念の未来フェスに参加。

雑誌「イコール」創刊号発刊記念の未来フェスに参加。

18名が参加、12名が発言、記事の中から一つ選んで3分で紹介するという流れ。初回なので、我々の仲間が中心だったが、この輪もしだいに広がっていくことだろう。

「好き」と「凄い」で選択。小学生、高校生の活動に感心。ちゃらんぽらん遺伝子。マンダラ。一人ミュージアム。現場と論客。ラジオネームと文章。ダ・ビンチの気持ち。生きてる人の弔辞を書く。、、。

私は「墓碑銘」というコーナーの「坂本龍一」を選んだ。以下、発言メモ。

橘川編集長:Chatgptの登場とシェア書店の流行。人間にシステムが合わせる時代になる。人間はどうするか。技術はリニアだが、人間は反省し修正する。表現する場を提供していく。

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「名言との対話」5月26日。津本陽「年齢をかぞえる前に、わが意欲を思え」

津本 陽(つもと よう、1929年昭和4年)3月23日 - 2018年平成30年)5月26日)は、日本小説家。享年89。

東北大学法学部卒。東北大では東北電力の明間輝行社長と同期。企業の購買部に12年半ほど勤務。病身の父の会社の混乱を整理するために退職し3年間を費やす。35歳、作家になろうと志す。38歳、「丘の上」が1961年上期の直木賞候補。49歳、故郷和歌山の捕鯨漁民を描いた『深重の海』で直木賞。を受賞。

最初は自分の過去を描いた小説。次は他人小説。そして剣豪小説、最後は歴史小説とテーマが変わっていく。進化であり、深化だろう。

2000年以降、2016年までの著作数を数えてみたら56冊あった。71歳から87歳まで、1年に3-4冊のペースで作品を発表し続けている。生涯で168冊だ。直木賞を受賞した49歳から86歳までの37年間に全精力を傾けた結果である。年4-5冊のペースだった。晩成の人である。

津本陽 こう生きて、こう死にたい』を2023年に読んだ。この本は、日本史の英雄に学ぶ箴言集である。津本陽は主に、戦国の武将と武士を取り上げている。信長「下天夢か」(1989年)。秀吉「夢のまた夢」(1993-1994年)。家康「乾坤の夢」(1997年)。そして宮本武蔵塚原卜伝千葉周作柳生兵庫助など剣術の達人の作品も多い。剣道3段、抜刀術5段の腕前であり、戦いの場面の描写にすぐれていた。日本刀のスピードは80分の1秒である。以下、参考になる部分。

  • 立って半畳、寝て一畳、天下とっても二合半(俚諺:言い伝えられた言葉)
  • 「古の武士道」の精神い立ち返る時だ。技芸を磨き上げる。死を恐れない気魂を練る。古い武士道とは100年続いた戦国時代を生き抜いた武将や武士の道。戦国三部作の主人公の信長、秀吉、家康は傑出。
  • 新たな思想や理念を見出せない。自信喪失。民族のポテンシャルが落ちている。魂が抜けたような状態。アメリカのリモコン。
  • 人間の器量:摂取の勇があるかないかで決まる。
  • ここだ。いまだ。潮時。リズム。機をつかむ。渡を越す。運気。
  • 100人の田舎の名人と、1万人の江戸の名人の違い。人に会い他人の優れたところを取り入れて自説を組み立てること。
  • 先のことが分からぬときは、おのれの運に掉さして、思い切って前へ進むことだ

津本は剣道抜刀道五段の心得を生かした迫真の剣豪小説から、しだいに歴史小説に重点を移していく。信長をテーマとした日経新聞の連載小説『下天は夢か』の単行本は、1989年も60歳のときに発刊され200万部を超える大ベストセラーになった。私も連載時は毎日楽しみに読んでいた。小説を書く上で重要なのは「自分自身の体験である」という言葉は、剣豪小説を読むと納得する。

津本陽は以下の人物とその時代を描いた。塚原卜伝柳生兵庫助千葉周作などの剣豪。秀吉、家康、信玄、謙信、政宗、利家などの戦国大名。海舟、西郷、龍馬などの幕末の英雄。始皇帝則天武后など中国の傑物。

事実とは往々にして「事実らしからぬ」ほどのドラマ性を持っているから、できるだけ事実をそのまま描き出すことだとし、膨大な資料を読み込み、小説に生かした。

2003年、74歳で書いた 『老いは生のさなかにあり』というエッセイを読んだ。鈍物を自認する家康(75歳)は経験を知恵にできる洞察力があり、大器晩成の生涯を送った。親鸞は63歳から膨大な著述を始め、75歳で『教行信証』を著すなど90歳まで続けた。毛利元就(75歳)は襲ってくる事象に対して的確に対処していくリアリストだった。北条早雲(88歳)は常に前途に希望を抱き、60歳直前という晩年に大運をつかむ。勝海舟(75歳)というマキャベリストは、時代の先を読み幕藩体制を一新し、旧幕勢力を糾合し、慶喜を補佐した生涯を送った。

彼らの晩年に花が咲いた人物の特徴は、しぶとい、晩年に最高の知恵が身につく、障害を乗り越え新境地をひらく勇気がある、冷静に自分を見る目を持つ、などだという。そして「生きているあいだ、どのように行動するかを考えている人は、おおむね死を怖れない」。宇宙のなにももかの意思によって与えられた「定命」(じょうみょう)を生き切るだけだ、と津本陽は語っている。

NHK「あの人に会いたい」をみた。人間の本音がでる激動期の人間像に迫る。ひとつのものごとに打ち込んでいく人間の心の軌跡を探っていく。節目節目で脱皮する、そこが面白い。京間の8畳で座ったままで斬られた坂本龍馬の暗殺については、抜刀術を会得した剣士の目で、一人の暗殺者の仕業だと断定している。そして「男には心に刀を持つ そういう気構えが必要」と語っている。

・完全に絶望するということは、もうそれ以上は落ちない「底」に着いたということ。つまり、本当の絶望は、壁を乗り越えるための復活の始まりでもある。

・「事実らしく見えるもの」を書くのではなく、できるだけ「事実」そのままを描き出すことだ。

「みんな死を忘れて楽しんでいます」(キダ・タローとの対談)

林真理子は津本が亡くなった時、「直木賞選考の場で頼りにしたのが津本先生。歴史・時代小説が候補になると、先生がどう考えているかをみんなが気にした」と語っている。

「年齢を重ねるとともに行動の知恵をふかめてゆき、なお高度な段階に至り、大きな収穫を得るために心を砕くのが、すぐれた人物にそなわった器量である」。老境に至ってなお、盛運のいきおいを増してゆく、老いてはじめて知恵のかがやきを発した人物が、歴史のうえに数多く名をなしているのである。それが「老境力」である。年齢をかぞえる前に、意欲をわが思え。わが志を思え。

津本陽 こう生きて、こう死にたい』の「あとがき」で、「短い人生を、何事かに全精力をうちこみ去ってゆきたい」(2000年11月)と書いていたとおり、89歳でその生涯を終えている。小説で描いた主人公たちのエキスを吸いながら、それらを総合しながら、人生の高みに登って行った人である。深い共感と尊敬の念を覚える。

 老いは生のさなかにあり (幻冬舎文庫)