Web上の日記

k-michi2009-03-04

ブログや日記って、皆さん後から読み直したりするのでしょうか!?。ちょっとした覚書や深く思うこと、レビュー的な長文やコメントのやり取りなど、いろんな位置づけがあると思います。ネット上のサーバーへ記録されたものなので、いつでも引き出して振り返ることが可能だし、ブログは日付管理なので「1年前はこうだった」とか確認できますし。

私は個人サイトを通じて、結構見返します。というのも、日付管理ではなくページタイトルがあるので(まぁほとんど映画の感想ですがw)。検索などからアクセスされたページが毎日メニューバーへ上がるようにしているので、先月書いたものと、8年も前に書いたものが同じように並んでいます。Wikiはそういった整理がとても得意です。

8年も前になると何を考えていたのかすっかり忘れていたりもして、読み返して驚くことがあります。「あー変わってない」と思うこともあります。この感覚は「Web上の日記」というシステムが登場するまでは、考えられないことでした。そもそも日記なんて習慣なかったし、こんなにタイピングすることもなかった。ブログを長年続けている方はそのあたりへ意識的なのでしょうか?。

テキストベースでなくとも、画像や動画も含め情報の整理や再利用について、もっと楽しめるツールや方法があれば知りたいです。個人的には公開・非公開のセキュリティーがさらに簡単で信頼性を増せば、いろんな情報を詰め込みたいです。そうやって一元化することで再利用可能となる幅が広がり、そこへビジネスチャンスなんかもあると思うのですけどねー(どうでしょうか)。

都市へ仕掛ける建築 ディーナー&ディーナーの試み

k-michi2009-03-02

都市へ仕掛ける建築 ディーナー&ディーナーの試み

The House and the City: Architecture by Diener & Diener
2009年1月17日[土]─ 3月22日[日]
東京オペラシティアートギャラリー(3F ギャラリー1・2)

ハンドブックが渡された。どのように建つかという、周辺との調和をスタディしたスケールの小さい模型ばかりが並ぶ。全て木製であるために、ボリューム感しか分からない中で来場者はプロジェクトを理解するよう、強いられているようだ。建物のデザインを見せるというよりは、窓から見える風景を感じ取れとばかりに、2m角程度の大きな写真が壁面へ並ぶ。

次の部屋には、配置計画やディテールが印象的でCGなどのビジュアル面が少ないポートフォリオが並ぶ。カーテンでゆるく仕切った映像ブースには、ヘッドホンが3台しかない画面と、スライドショーがある。インタビュー映像では、自らの建築を匿名的と言っていた。最後にはサンプルを並べた実務的な一角。とてもストイックな建築展だった。

じっくりと見れば分かるだろうし、入りこまないと物足りない展示だ。それはまるで彼らのデザイン姿勢そのもののようだ。スイス建築にはシンプルなボックス型というイメージが強く、あまり派手なスペクタクル(フランク・ゲーリーみたく)は存在しない場所であって、ヨーロッパの中でも保守的な印象が強い。彼らの作る建築もその方向にあると思う。

例えば時計など、次々と新型を造り需要を喚起する日本製、長年の使用でも飽きのこないデザインであるスイス製、そんな比較が思い浮かぶ。大量生産を追及し、薄利多売を得意とする企業が目立つ日本からみれば、1点モノを時間掛けてつくり続ける需要が残るスイスのような国は停滞しているようにも見える。しかし国民一人当たりのGDPは日本を上回る。どちらが豊かさを享受しているかといえば明白ではないか。

建築においても、一見すると東京に乱立する超高層や商業施設は、派手な意匠で流行を追い求める多様さに満ちている。しかし施工精度こそ良いが、安価な工業製品で囲まれ刹那的に存在する建物も多い。土地に対して建物があるべく与件の比重として、利回りをよくする底コストの意思が大きいのだ。何百年もの歴史をもつ建物と並列し違和感なくデザインを努める文化をベースにしながら、石油製品ばかりで作る建築は少ないだろう。

一方でスイス時計にSwatchがあるように、建築においてもヘルツォーグ・アンド・ド・ムロンがいて、世界の建築潮流をリードする先端を走る。保守的な文化だけでなく、大胆に個性を追い求める風土がある。これがヨーロッパの面白い所ではないか。しかしこれらを支える文化的土壌、都市計画や政治の差異を感じる度にユートピア的な眼差しとなってしまう。

結局のところスイスについて、そしてヨーロッパについて自分は何も分かっていないのだと思う。同盟国のイギリスを除けば、アメリカ型経済の敗北にたいしてユーロはまだ持ちこたえている。日本もかつてはヨーロッパを手本に街づくりを学んだ。伝統に縛られた頑固な面ばかりでなく、状況に応じたラディカルな発想を実践している思考やシステム。そんな面だけでは分からない彼らについて、建築の作り方だけでなく、もっと広く知りたい。

高梨豊 光のフィールドノート

k-michi2009-03-01

東京国立近代美術館 企画展ギャラリー(1F)
1月20日(火)〜3月8日(日)
http://www.momat.go.jp

1960年代末に中平卓馬森山大道らとともに写真同人誌『PROVOKE』を舞台として時代の先端を疾走。写真における表現の根拠を先鋭に問う高梨豊の個展としては過去最大規模のもの。ちょうどギャラリートークの時間に来館した。方法論を駆使している写真家なので、説明を聞けた方がよいと思った。学芸員さんは静かなトーンながらも熱心に語りとても楽しめた。

デビュー作の『somethin’ else 1950s-1960』から、『地名論 1994-2000』までを主に案内してくれた。被写体に向かうスピードを横の軸、活動年代を縦の軸として、各シリーズを配置したダイヤグラムが配られた。

トラックの荒々しい車体の背後で写っている広告文字。そこにはモノとしての物質感と同時にメッセージを伝えてしまう言葉が並列している。被写体へ向かう写真家の意思とは離れた所で写ってしまう現実。既成にとらわれない視点が斬新さを出すデビュー作。やがて加速する時代の空気を追うように被写体へ向かう速度は増し、『都市へ 1960s-1974』においては斜めの構図やブレ、走る車内からとらえた写真など、スピード感が強調されている。この辺り、ロードムービーのようにカッコ良い写真ばかりで、森山大道とも近い。

写真は時代性を切り取る装置であり、定点からドッシリと構えているだけでは当時の空気は写らない。ハンターとして被写体を捉える機敏さの中へ、作家性を獲得すると共に加速して行ったようだ。そうやって見ると大変分かりやすく変化している。そして70年安保、浅間山荘事件など、時代の終焉と転換を象徴する大きな出来事と共にその手法はがらっと変わった。

『町 1975-1977』は大判カメラとカラーフィルムを用いた都市へのアプローチで、旧い町並みの残る下町を撮影したシリーズ。当時感度の低いカラーフィルムで長時間シャッターをひらき、モノへ対峙していく。走りながらシャッターを押し、作家性を前面へ出した時期と比べ、モノが主役となり個は抑えられ、考察を深めていく内面を感じさせる。『新宿 / 都市のテキスト 1982-1983』によって文脈を追う視点は深みを増す。

都市を追い続け時代を体現させて来た写真家。彼が探る文脈の先には、都心へ残る土着信仰の姿が写る。やがて日本全国へ広がっていく行脚的な考察は、『初國[はつくに] 1983-1992』へ結実。このシリーズは写真家にとって大きな転換であり、その10年に渡る歩行の軌跡を伝えようと、30mに渡り歩かせるよう展示した。そう学芸員は熱く語る。

クライマックスは『地名論 1994-2000』で、彼の深い読みは頂点に達する。バブル景気の時代を通過して「界隈」のまとまりが失われた東京で、旧い地名を頼りに「垂直の歩行」を試みたシリーズ。2枚セット、ピーカン天気、人を入れる。そんなルールで撮影された。「麻布」における超高層とお墓の対比から、都市における断層、つまり連続した時代の流れを断ち切る姿を見る。「青梅」における境内のない神社からは、携帯電話やネットの普及によって、場所から切り離された肉体が浮遊していく様を見る。この辺りだんだん彼は加速していった。

1時間を10分オーバーして彼のツアーは終了。しかしその後、熱心な若い青年の質問によって語りは止まらないのだった(続く・・)。いや、大変楽しかったですよ。それにしても、映画のようにストーリーへ惑わされず、写された一瞬の中へ存在するモノ自体へ想像力を働かせる写真は違った意味で面白い。そして誰でも気軽に撮れる装置を使いながら、未だに現地へ出向き直に被写体と接する肉体が必要な写真の不自由さが面白い。

文化庁メディア芸術祭

受賞作品展
日時:平成21年2月4日(水)〜2月15日(日)
会場:国立新美術館(港区・六本木) 入場無料

国立新美術館へ会場が移ってから混雑が激しく見づらいので、もういくの止めようかと思いつつ今年も。午前中に会場へ入ったのにもう十分混雑していて、体験するインタラクティブメディアアートにとってこれは致命的。

せめて映像作品はと思いつつ席がいっぱい。立ち見もたくさんな状況で2、3作品しか見られなかった。アート部門の『Oups!』やエンターテイメント部門の『TENORI-ON』は行列状態。家に帰ってネットでMOVIE見たほうがむしろ理解したくらいで・・。

それでも収穫はグルーヴィジョンズの作った、農林水産省「食料の未来を確かなものにするために」の映像。去年紹介されていたようだけど、大画面で見てとても楽しめた。会場では無料DVDも配布していたのでもらった。農林水産省のサイトではカレンダーもダウンロードできる。へーこんなシャレたムービー作らせたりするんだー。

途上国の人口増加や経済発展による穀物需要の増大、地球温暖化など気象変動による生産の不安定化、バイオエタノール生産の増大による食料需要との競合。それらの状況をリズムにのった顔のないキャラがジェスチャーする。

滑稽さは自身を笑うブラックユーモア的でもある。食糧自給率の低さを取り上げて、もっと国産に目を向けようといったプロパガンダ的な内容をシャレたCGで面白く浸透させようとする姿勢には恐れ入るけど、1年以上前に作られたものだと知って、結局その程度の広告かとも思う。

あと、ドコモと角川ザテレビジョンの共同、ケータイドラマ「きまぐれロボット」(星新一・原作)、浅野忠信香里奈、音楽はコーネリアス。これも中々面白かった。シュールな感じが。


たみおのしあわせ

たみおのしあわせ [DVD]

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交通事故で早くに母を亡くした息子と父。何年もずっと一緒に住んでいる。家事分担などして生活は成り立っているが、会話はあまりかみ合っていない。父の方こそ色気があって、モテモテ。何人かと再婚の手前までいっているけれどなんとなく踏み切れない。息子のせいでもある。

そんなぎくしゃくした親子へ関わっていく女性が奇妙に描かれている。父の交際相手・大竹しのぶと息子の婚約者・麻生久美子大竹しのぶは男のようなざっくりした性格で、デリケートな息子へ気を使い中々紹介出来ない父。麻生久美子は貫禄があり奔放な感じで、息子には大きすぎる器というか、むしろ父を相手にしている様子。

4人の交錯した関係を示唆したような女性達へ、伯父である小林薫が加わってますます複雑な方向へむかう。広がっていく人間関係の中で、父と息子だけが濃密さをあらわしていく。このあたりに昨年演劇も体験した岩松了の緻密な演出を感じた。セリフが多く、とても観念的な部分と不可解なまでに情念的な人間像をあぶり出す。

話は終盤に向かって急転直下していく。息子は父の再婚相手が裏切って伯父と付き合っているのことへ激情し、父は麻生久美子が「妙な贈り物」をくれたことが脳裏から離れない。結婚式へ向かいながら、頭の中は激しい感情で掻き乱されていく。ついに「誓いの言葉」の途中で会場を脱出・・。

このラストシーンを見て、ゴダールっぽいかな。ミケランジェロ・アントニオーニの『砂丘』かな、確かあれは映像美あふれる時間の最後、ドドーン!と爆発して終わりだったな。なんてアート系映画と言われる作品を思い浮かべた。それくらい前衛的でもあって、不可解な突き放し方だ。けれど直前までの優雅な時間が心地よく、父と息子の濃密さも悪くないなという映画。

百万円と苦虫女

百万円と苦虫女 [DVD]

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同居予定のルームメイトが勝手に彼氏を住まわせる手配。しかも引っ越し当日に二人は別れ男だけが同居。そいつに拾った猫を捨てられ、反動で男の荷物を全て処分したら刑事告訴。前科者の烙印を押され、自宅にも居づらくなり、百万円を貯めて家を出る。その後も百万円を区切りに転々とするロードムービー蒼井優のおっとりした演技とうまく共鳴させながら、とてもテンポよく運ぶ。『俺たちに明日はないッス』が気になっている監督だけど、さらに興味沸く。

海から山へと、なんとも優雅なロードムービー。こんな生き方出来る人が多ければ派遣切りなんて悲壮になるばかりじゃないのかも。強さを感じる放浪に見えたが一方で、行く場所ごとにかかわる人たち全てに対して打ち解けず逃げるように移動する。中学受験を控えた弟がいて、話題転換に合わせて彼への手紙が読まれる。繰り返されるのは弟のいじめられるシーン。ここでも強い姉、弱い弟像だ。

やがて逆転したこの関係を了解し、驚愕する主人公と共にクライマックスへと向かう。特別悪い人の出てこないドラマなのに、やるせなさ、切なさを覚えるのは、主人公の旅がコミュニケーションのあり方をリアルにあぶり出しているからか。ロードムービーは環境の変化を描き、そこへ主人公の成長を被らせる。関わる人たちは環境であって心は風景と同じようにそれらへリアクションを取り続け変化していく。