アイディアと意見

日記を書くのも久しぶりになってしまった。

表題は、自宅にある本の一つである、
Ideas and Opnion, Albert Einstein, Based on Mein Weltbild, edited by Carl Seeling, and other sources, New translation and revisions by Sonja Bargmann, Wings Books Crown Publishers inc. 1954, Random Hose inc., NY, USA ISBN 0517003937

からのタイトルということです。

彼の論文及びスピーチは、原子力エネルギー、相対性理論、人権への信条、政府や経済まで、多岐にわたります。この時代の風景を想像すれば、ヨーロッパではナチズムの洗礼に洗われ、「優生学」という危険な学問と「政治」が結びついたことで、多くの罪無き人たちが、監獄に送り込まれたという悲しい時代だったのだと思います。こんな中で、政治と時代に翻弄されたアインシュタインの主張は、彼の心から生じる叫びでもあったと思うのです。

そもそも、「全体主義」が出現する最大の原因は、「多様性」を失うことにあります。ある特定の「組織」やある特定の「団体」、さらにはある特定の「個人」が真理を保有しているという、「間違った主張」もしくは「心理的操作」に基づきます。これは、ルネッサンス期において、否定されていることでもありますし、私達の住む日本でも戦後一貫して否定されてきていることでもあります。

インターネット革命が、「情報」や「知識」流通さらには蓄積の「革命」であり「ルネッサンス」であるというのは、こんな理由に基づくのです。ただし、その上を流れる情報やデータに関しては、どれだけ「信憑性の高いものであるのか?」さらには、どれだけ「事実に基づくのか?」を判別することは困難になりつつあります。

多くのホームページは、様々な目的で情報が発信されています。それぞれのホームページには、それぞれの作者の思いであったり、システムとしての利便性を提供したり等の目的があるのだと考えることは妥当です。また、システム管理への注意喚起を目的に発信されている情報もあります。このあたりは、目的に応じて情報を集める必要がありますし、実際そのような検索エンジンも出現しています。今後は、情報の信頼性の関係評価であるとか、コンテキストに基づくクラスタリング等も必要になるでしょう。そのコンテキストには、無論「XML」で記述されたタグが半自動で付与されたり、「MetaLanguage」で記述された「SemanticWeb」のような仕組みになっていくでしょう。このことによって、情報発信者のコピーライトが守られると同時にパブリックドメインとなる仕組みができるのかもしれません。つまり情報のトレーサビリティを保証できる仕組みになる可能性もあるのです。

悲しいことは、インターネットというバーチャルな世界では、悪意のあるコードを流通させたり、貴重なデータを盗んだり、改ざんしたり等の危険も存在します。このことは、それまで性善説で運用されていた、公的研究機関のシステムへの脅威となりました。つまり、せっかく集めた貴重なデータを公開して、多くの研究者(アマチュアの方、さらには理学に興味のある人たち)の方々と伴に研究を進めることが可能でしたが、そのような悪意のある行為によって、残念ながらシステムとしては閉じられてた仕組みとなってしまったのです。

この原因を探れば、犯人には「遊び心」もあったのかもしれませんし、「自己顕示欲」やその他の理由から行われた可能性があります。ここで区別しなければならないのは、本来の「ハッカー」と呼ばれる人たちは、「コンピュータ」の「エキスパート」であること。

具体的には、インターフェースカードを自分で作ってしまったり、プリミティブなコードをハンドアセンブルしたりして最適化を行ったり、さらにはコンピュータアーキテクチャーにまで精通していたり、ネットワークプロトコルにも精通している人たちであるということです。

それに対して、クラッカーと呼ばれる人は、コンピュータシステムへ認証も無く侵入したり、ログインのアカウントを勝手に盗み出してコンピュータシステムへ侵入する等の行為を行う人たちを指します。問題は、そのような行為によって、システムトラブルが起こるということに問題があるのです。

実際には、セキュリティシステムを強化したり、暗号化アルゴリズムを改良したり、セキュリティホールを見つけたり、セキュリティポリシーを作成するに当たり、そのシステム管理者の許可を得て行うことも実際にはあります。

つまり、許可無くシステムを破壊する人たちをクラッカーと呼ぶのです。たまには、運悪く書いたコードが外のシステムに影響を与える場合もあるでしょう。これは仮説ですが、インターネットワームという仕組みは、ロボット検索エンジンでは使われている仕組みでもあります。また、インターネットワームを上手にコントロールできるのであれば、「データグリッド」や「計算グリッド」、さらには「自動化ソフトウエアアップデート」の仕組みを作ることも可能になります。しかし、ワームをコントロールすることは非常に難しいことは確かでしょう。

ゆえに、近年のシステムでは、そのような目的で使われるコードでは認証系を持つ仕組みであるとか、人が判断できる仕組みというものがあると考えることは妥当なのです。つまり、ワームを上手にコントロールできる仕組みを作るのも人間の技術だということです。

願わくは、インターネットという世界において共存と繁栄のできる時代になりますことを・・。

今日読んだ本

計測と技術, 森正弘 森田矢次郎 中野道夫, 放送大学教育振興会 1997, ISBN 4-595-54272-0

センサ応用の技術を身につけるためには、非常に役に立つ本です。基本的な制御に必要な計測方法や理論について分かりやすく書かれています。画像処理分野や音声処理におけるフィルターについても記載されているのです。この辺りの基本を押さえておくと、様々な応用が利くような気がするのです。特に、近年は組み込み技術と呼ばれる分野がフォーカスされてきました。ゆえに、大事な基本技術でしょう。ハードウエア設計上においても、ソフトウエア設計上においても言えることです�

その他

梅雨に入ったようです。多分、平年並みでしょう(なんとなく、ちょっと早いような気がします)。今年の太平洋の東端における海水面温度は、まだ確認していませんが、ラ・ニャーニャ現象が起こっているのかもしれません。ラ・ニャーニャ現象は、南極からの寒流が大きいときに生じることは分かっています。南極からの寒流が大きくなるというのは、南極の氷が熔けたか、逆に南極の氷が増えたかのどちらかでしょう。そんな観点から見ると、やっぱり地球温暖化は進行しているのかも知れません。地球温暖化によって、将来的には深層海流の流れが落ちる、それによって地球の熱循環がおかしくなる。ゆえに、地球気候が不安定化する。つまり、「京都議定書」の達成は急務でしょう。それだけではなく、温室効果ガスを減らす努力を続ける必要があります。

省エネルギー技術」と「石油・石炭」に依存しない「発電」や排出量の削減は重要であると考えられるのです。エネルギーの利用効率を上げることと、エネルギー削減を同時に達成することが必要でしょう。つまり、エネルギーの利用効率を上げるための技術は出揃っているわけです。ゆえに、改良を加えることは十分に可能なわけです。それらを実用化の観点から見直すことも大事でしょう。今すぐに効果が出るわけではありませんが、将来的に必要になる気がします。

無論、削減のための努力も必要です。
同時に達成することによって、新しい環境技術が生まれてくるような気がするのです。つまり、いつものことですが「組み合わせる」ことで「新しい技術」や「価値」を「創造する」必要があると思うのです。「シンプルな技術」と「シンプル技術」を組み合わせる。それも、「論理演算」の「AND」だけではなく、「OR」も含めた目でみる。そうすることで、「Expand」できるのだと思います。

ファッションについて。

次のファッションが、アールデコに変わったのは、不透明な時代を象徴しているような気がします。アールヌーボーが、デコレーションを中心としたファッションであるのに対して、実用性を強調しはじめたのは、快適である。環境に優しいという実用性に対するものであると考えるのです。

数式を使わずに説明する。

以前、ブルーバックス量子力学にも書いてありましたし、Stephen W. HawkingやSteven Weinberg、さらには一般向けの啓蒙書を書く科学者の人たちの苦労が少しは分かった気がします。一般向けの啓蒙書で数式を使わないのは、「売れ行きが落ちるからである」とは、Dr. Stephen W. Hawkingが啓蒙書を書いている時に出版社の方から言われたそうです。多分、これは仮説ですが、数式が入ることによって、一般の読者の方々(特に想定される層として、一般のビジネスマン層や主婦層をターゲットにしているからでしょう)がアレルギーを持っているからであるという思い込みからもあると考えることは妥当でしょう。

この辺りの傾向が、理科系や技術系嫌いを生んでいるのかもしれません。確かに、社会に出ると、社会のルールであるとか、四則演算で事足りる局面の方が圧倒的に多いです。ゆえに、自分自身の生活に役立たない数学が敬遠される理由なのかも知れません。

確かに、多くの人たちにとって抽象的な数学というものは毛嫌いされる傾向にあるのかも知れません。なぜならば、学校で教わる数学というものが、ドリル形式の計算問題であったり、「実用的ではない」であるという理由からであると考えることは妥当でしょう。

しかし、数学的なものの見方というのは大切なような気がするのです。結局は、数学教育をしている人たちの受け売りになってしまうかも知れませんが、抽象化することによって、「楽に仕事を進めることができる考え方」であることの方が大切なような気がするのです。つまり、一段高いところから見下ろすと、一気に鳥瞰図的に見えてくるものがあるということなのです。

また、ビジュアルな芸術であるとか、音楽においては数理的なものの見方が以外にも新しいものの見方を生みます。人に心地よい音楽は1/fの揺らぎがあるとか、ビジュアルな芸術においても、かすかな「ぼかし(1/f)」というものが、深遠な雰囲気をかもし出すという事も考えてしまうのです。

告白2

昨晩は早めに寝たのですが、トラウマがよみがえってしまいました。人を傷つけると、自分も傷つくということが良く分かります。もうあれから、3年以上が経過しています。「なぜ?あのような行為に及んでしまったのか?なぜ?あのようなことをしてしまったのか?」、自分自身の潜在意識と対話を繰り返しているのですが、その答えは見つかりません。多分、当時の自分自身の中にある矛盾が噴出したのであろうと言うことは容易に推測できるのです。どこかで、背伸びをしていた自分が居て、どこかで他人と比べてしまう自分が居た。当時の境遇は、そんなに悪い状態ではなかったのです。潜在意識の問題に取り組んで、分かり始めたことは、潜在意識には善悪の判断ができないということ。さらには、「ネガティブな潜在意識」と「ポジティブな潜在意識」とがあるということ。つまり、罪の意識というものは、ネガティブな潜在意識の中にあるということなのです。

このような潜在意識の問題を生じるのは、自分自身に対する極端なまでの自己信頼(もしくは、自己愛性人格障害と呼ばれるもの)と極端なまでの自己憎悪から生じるものであると考えることは妥当でしょう。つまり、アダルトチルドレンと呼ばれるものであると考えることは妥当です。「なぜ、生じていたのか」について再び検討を行えば、母親に幼少の頃から現実にはありえない願望を刷り込まれていたからであると考えることは妥当でしょう。さらには、小学校時代から30代前半まで、やっぱり逆のことを言われる機会が多かったことも確かなのです。

本来の親のあるべき姿とは、子供の願望をかなえるためにサポートをすることであると考えることは妥当です。私自身、小さい頃にはADHDの疑いもあり、そのような相談を親が行ったということも記憶しています。そのようなネガティブな記憶が、どこかで昇華されていないことにも原因があるような気がするのです。

そして何より、自分自身へ嘘をついていたから、さらには相手の方に嘘をついてしまったからだと思うのです。自分自身への嘘とは、親から刷り込まれた願望と自分自身が期待している願望との間にあるギャップであるという事実からでしょう。

告白(今やっていることに対する疑問と自分自身の告白)

自分自身、人に論文を書かせたことはないんだけど。自分自身で書いてみると、結構大変なんですね。普通は、この後に組織内査読があって、教授の方や技監の方に読んでいただいて、その上でコメントをいただく。そのコメントに従って修正を行う。データ等に関してはありのままが一番だと思うけど、論理の進め方や結論の導き方に関しては研究室の方のコメントに従う。さらに、翻訳等が必要ならば、エージェントの方やネイティブの方にお願いして、文法上の誤りなどを訂正していただく。その上で、論文を投稿したり、発表を行う。これが、普通の流れなんだけどな・・。ちなみに、若手研究者のお経(これから論文を書く若者のために)にも書いてあったような気がする。ちなみに、この本は見つけたときに、東北大学の酒井先生にメールを打って買わせていただいて、部下のM君にプレゼントした覚えがある。なぜならば、当時の彼は図書館情報大学(現:筑波大学)へ受託研究で行って貰っていたから、せめて良い論文を書く上での参考にしてもらえればと考えたのでした。もちろん、I教授やF助手が居るわけだから、そちらに見ていただくことも大切。でも、「ドラフト段階では、やっぱり大変だろうな・・」と思った上司心だったのです。アホな上司は、今もぷーたろーです。