あと8ヶ月

2013.9.1(日)
会社の新年度、初日。限りなく暑い中出社、雑用を片付ける。
来年の5月には定年退職することになったので、
年内で4ヶ月、年明けからもほぼ4ヶ月が残された仕事の時間だろう。
定年は、還暦どころじゃない。
もっと本質的な変化を生活(人生)にもたらす。
はやく自由になりたい。
40年以上かけて手に入れた、働かなくても生活できる日々。
でもあせるとろくなことがない。
まだまだ10年も先のこと、くらいの気持ちでふつうに仕事をしていると、
8ヶ月などあっという間に過ぎ去るだろう。
たくさんのやり残しや不義理も、すみません、時間切れですの一言で済む。
そのあとまで抱え込む必要なんてない。社員じゃなくなるんだから。
いなくなるのといっしょ。消える。消失者。
さて、それまでの時間。
ノルマをめいっぱいこなしてゆく。
月刊誌の仕事に加え、ムックや書籍、新書や文庫。
あまり義理に引きずられることなく、気持ちに正直に、
乗っていけるものを。
幸い、相棒が増えてきた。会社のハードルも一時より高くない。
普通に売れていけば、そうそう「あいつに本作らすな」ということにはならないだろう。
ほんとうに本が売れなくなった。自分も文庫や新書以外はアマゾンの中古、
またはブックオフ専門。2000円の本なんて買わないもんなあ。
飯も1回500円前後。酒も新宿にはいかなくなり、押上の赤提灯や
地元のカラオケスナック。
そういう場所での2000円は安く感じる。新宿で馴染みの店にたまにいって1万数千円、
いくら楽しくても値段にはがっかりする。
案外、金のかからない生活にすぐ移行できるような気がする。
まあ、いままでにこさえた借金やローンをうまく返してしまえればの話だが。
その後のことは、その後になってから考えようか。

電車

ためいきひとつふうっとつくと、
電車はもう二駅すすんでいる。
あれ?いつのまに、と思うまもなく目的地に到着。
高校の頃、友人が作った詩を思いだす。
電車は走る、猛スピードで。
でもそれがなんだ、
ぼくときみとの距離はちっとも縮まらない…。
正確なフレーズは忘れたがそんな恋歌だった。
繊細な心を持った、凄みのある美少年だった。
あいつはいまどうしているだろう。
電車に乗ってるとときどき思いだす。

右から左

生涯で二度とないだろうと思われる忙しさ。
ふつう、ギブアップするところだ。
人に話すと「正気の沙汰じゃない」といわれる。
自分でも信じられないようなことを何ヶ月も続けている。
今度はだめか、と何度も思ったけれど、切り抜けた。
でも今度という今度は…だめかもしれない。
そのときはどうなる? わからない。
使い捨て、ポイ捨てにされるのかも。
役立たず、とかいわれて。
このところ毎日始発で帰り、風呂に入ってひと眠りして、
昼前に出社。
これじゃ体にいいわきゃないが、
いつかすうっとトンネルを抜けるときがくる。
それは、なにものにも代えがたい気分。
まあ、あと数日。突っ走る。
働きたくても働けない日が、いやでも来るのだから。
それにしても、忙しくしてると、スキルがあんまり身につかない。
すべてがせわしなく右から左って感じ。
現場仕事をしてるくせに、スキルが身につかないとは、
なんということだ、まったく。永遠のトウシロウ。
ついにトウシロウのまま定年か。

砕氷船

きのう年をとるイメージを「砕氷船」などと書いてしまって…、
あらためて考えてみたら、この「団塊の世代」などといわれる
ベビーブーマー世代は、その数がやたら多いものだから、
年齢を重ねるごとに様々な社会現象を起こしてきたのだが、
いまやこの世代の加齢そのものが
過去に例のない事態を拓いていってるような気がする。
このカタマリが一歳年をとる、
また一歳、また一歳。やはり、砕氷船が進んでいく感じだ。
こいつらはいったいどこらへんでへたばるのか。
目前の氷にのしかかるパワーが失せ、
まわりをびっしり、凍りついた海に囲まれて
立ち往生するのは何年後あたりだろう。
15年か、20年か。
それまでは、「老兵は死なず、消え去りもせず」。
まだまだ、迷惑な、邪魔な存在として居続けることになりそうだ。

アラカン

うかうかしていたら、いや忙しさにかまけていたら、
還暦まであと100日くらいになってしもうた。
どうしよう、っていまさらどうすることもできないのだが。
まあ、悲しき60歳って歌を坂本九ちゃんが歌ってたのを思いだし、
思うことは、あのころの60歳といまの60歳は全然違うってこと。
いまの60歳、というか、自分がいざその年齢にさしかかってみると、
ということだが。
なんというか、砕氷船でばきばき氷を割りながらきちゃったから、
後ろからずっと同じ水が続いているって感じなのだ。
60歳になるということは、昔は氷の上に乗るってこと
に近かったのではないだろうか。
つまりは、それまで生きてきた場所との決別。追い出され。
別の土俵に乗ること。隠居という名の一種の「姥捨て」。
社会的リストラ。段階的にではあれ。
それにしても、昔の60歳といまの60歳は、客観的にみても、
元気度がちがう。精神的にも、肉体的にも。
制度として、年金支給年齢も定年年齢も後退しているのは、
全体に老化年齢が後退していることと並行しているわけだし。
社会に出る年齢が25歳〜35歳あたりまでずれ込んでいるのだから、
引退の年齢も65歳から75歳くらいまでずれてもいいような気がする。
だから、60歳、還暦などといって騒ぐほどのことではない。
実際、会社員として定年を迎えるわけではないし。
仕事は当分変わらない。数年間は、おそらく。
ただ、いちおう60歳というのは区切りがいいので、
そこに向けてなんとなく「カウントダウン」式に、思うことを書き連ねてみてはどうか、
ということなのだ。忙しさの合間を縫って。

きのうまでの男

かつてできたことができなくなる。
そういうことが増えてきた。
きのうまではできたのに。
では、きのうまでの〜〜か。
たとえば「きのうまでの作家」「きのうまでの歌人」。
目は常に前を向いている。
新しいことに対しては、過去の経験がほとんど役に立たない、
いや、多少しか役に立たない。

「百」にひそむ魔

佐伯さんに会ってきた。「文庫書き下ろし時代小説100冊達成」のお祝い本インタビュー。
百という数字には魔物が宿る、か。「百物語」もそうだし、漱石の「夢十夜」の
最初の夢の「もう百年たったんだな」もそうだった。
単なる通過点、と思っていたそうだが、99冊目から100冊目を書いてる途中で、
愛犬ヴィータと散歩に出てるとき、ふらっときたそうだ。めまいというか、
意識が薄れる状態。犬を連れて帰らなきゃ、という意志が残っていたので、
なんとか家にたどりついたという。ほんとにあぶないところだったのだ。
そうだよなあ。57歳から書き始めて8年で百冊。
最初の2,3年は年間数点だったから、毎年12冊から15冊も書くようになったのは、
この5年くらいなのだ。短期間でそれだけの作品を生み出してしまうパワーは、
ちょっと前例がないのではないか。こんなにも量産型の作家だったとは。
ただ、元気に見えても疲労やストレスは、
どこかに積もり積もっていたのかもしれない。
いずれにしても、ややペースを落とそうと決めたらしい。それでもツキイチペース。
同時進行する10のシリーズの完結に向けて、書いてゆくしかない、とのことだった。
最新刊の「阿片」(講談社交代寄合伊那衆シリーズ)も一気に読み終えた。すかっとした。
パワー、まったく落ちていない。