4話 ハイウェイの澱 -8-


悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。(ルカ 8:33)

                         ◆

「なんでこう、しつこいんですか、ねっ!」
「知らないわよ、狗だから猟犬よろしく執念深く狙っ、た獲物は逃がさないんじゃない、のっ!」
 わたしと優羅の言葉の区切りがおかしいのは、公園内の道なき道を走っているからだ。段差を乗り越えるたびに、車が上下に揺れ、言葉が乱れる。
 オフロードを走るようには出来ていないはずなのに、新車ということもあるのだろうか、スポーツカーはかなりの走破性能を見せている。
「で、どっちに向かえばいいんですかっ!」
「とりあえず公園から出ましょう、囲まれたらアウトだし」
 バキバキ、と枯れ葉を少し残した木々を押し分けるように掻き分け、優羅は出口に向かって進路をとる。
 タイヤが砂利の混じる地面を噛み、ゴリゴリと音を立てる。
 ブゥン、とエンジンが一度大きく唸り、一直線にここに来るときに使った入り口を目指す。
 探せば他の出口もあるのだろうが、そんな余裕はなさそうだし、そこから車が出られるとも限らないからだ。
「きたきたきたっ」
 バックミラーに映るのは、日が沈んで暗くなりつつある景色に紛れるようにして、こちらに迫る数匹の狗達。
「先輩、右左どっちが好きですかっ」
「強いて言えば右」
 優羅は左右の確認もせずに、公園入口から飛び出すと、わたしの答えに従うように急角度で右折する。
 一拍開けて、公園から数匹の狗が飛び出してくる。
 狗達はわたしたちを見失ったのかほんの一瞬だけ、戸惑うように左右に首を巡らせる。
 が、すぐにこちらを発見したようで、再び追撃を開始した。
 その様子をわたしは注意深く観察して思考する。
 探索能力が落ちてる? ……確かになんとなく動きにも精彩がない気もするけど、さっきの結界の影響かな。
 それなら無理な注文だと思ってたけど、逃げられなくもないかもしれない。
「優羅、なるべく曲がれるところは曲がって逃げてみて」
「でも、この辺の地理とか全然わかりませんし、もし行き止まりに突き当たったら、目も当てられないですよ!?」
 わたしは、カーナビのスイッチを入れ、まだ死んでいることを確かめると、慌てず騒がず助手席のボックスを探ってロードマップを取り出した。
「……先輩そんな悠長な」
「GO」
 わたしは努めて明るく言った。

                         ◆

 結局の所、この『曲がれる所は曲がってしまおう作戦』はそれなりに有効だった。
 ヒヤリとする場面(パッと見たところ行き止まりの路地とか)はあったものの思った以上に順調に逃げられている。
 ここで言う順調というのは、一度も車に接触されていない、という意味である。
 つまり、綺麗に狗達を撒けたというわけではなく、しっかりと現在も追尾されている。
 リースさんがいない今、防御力は皆無に等しい。要するに、一匹でも取り付かれたら終わりというわけだ。何ともありがたくない話だと思う。
 ちらりと時計を確認。まだ6分しか経っていない。
「優羅、次、左――」
「あ、はい――え?」
 次の曲がり角が見えたので、わたしは方向を指示する。
 優羅は、素直に頷いたあと、疑問の声を上げ、曲がらずにそのまま直進した。
「ちょ、なんで真っ直ぐ――」
「先輩、鈴華さんが、分散したって」
 分散って?、と聞くまでもなく、左折するはずだった道から2匹の狗が飛び出してきた。
 あのまま曲がっていたら鉢合わせしていた所だ。
 まずい。こちらに反撃する手段がないことを悟ったのか、追い込みにかかってきた。
 逃げる獲物は、追い込んでから仕留めるということなのだろう。
 鈴華の感知がある分まだこちらにアドバンテージはあるが、このまま囲まれるとジリ貧だ。
 ああくそ、どうにも頭が上手く働いていない。どうにも能力を封印したままだといつもより思考力が落ちている気がする。
 ――戻すかな。数自体は減っているはずだし、戻しても問題ないだろう。
 戻すのは実は簡単だ。深呼吸を一回するだけで、すぐに世界に音が戻ってくる。
 それと同時に頭がクリアに、というかいつもの通りになる。
「よし。じゃ、まあ気合いれていきますか」
『こちらを囲むように分散しています、一つ一つはそうたいした数ではないですが――』
 鈴華の声もしっかり聞こえる。
 ほんの少しの間耳にしなかっただけなのに懐かしく感じるのは我ながらセンチに過ぎると思うけど。
『――このままでは、追い込まれます。こうなれば取るべき手段は一つです。今度、接近された時に、私を窓から放り投げて下さい』
「――そんな」
 鈴華が真剣な口調で言い、優羅は息を呑む。
『餌が欲しいのならくれてやればいいんです。それで逃げ切れるでしょう』
「死んでもお断り」
 わたしは鈴華が更に言葉を続ける前に、一言の下に斬って捨てた。
『――空音、聞いていたのですか……というより』
 鈴華がしまった、と言った
「聞いていたのですかじゃないわよ、この自己犠牲マニア付喪神。あんまりふざけたこと言ってると油性マジックで額に三日月を描くわよ」
 もちろん、鏡に額があるわけはない。ただの比喩表現である。
『空音、私は真剣に――』
「わたしも大真面目で言ってるんだけど」
 鈴華はバッグを抱え直すわたしを見て、言い争っても無駄だというのを悟ったのか、大きく溜息を吐いた。
 鈴華を犠牲にして生き延びるという選択肢はわたしの中に存在しない。決して。
 ――まあそれはいいとして、である。
 この状況をどうにかする策が思い浮かんでこない。
 このままだと三人とも鈴華の言う通り、遅かれ早かれ餌になってしまうだろう。
 望みはないこともない、とは思うのだけれど、果たしてそれまで持つかというのが問題だった。
 突然、バン、とすぐ上から実に嫌な音がした。
 思わず優羅と顔を見合わせる。
 上に跳び乗られた。
 足音から察するに一匹だけのようだが、その足音は屋根を歩いて助手席のすぐ上で止まる。
 そしてドアのない助手席の窓部分から覗かせた禍々しい青い目と、わたしの目がばっちり合った。
 時間にして、一秒か二秒といったところだろう。
 当然の行動として、次の瞬間狗はあんぐりと大口を開けてこちらに襲い掛かろうとする。
 その刹那、狗は前方から迫って来たコンクリートのブロック塀の角の部分に胴体を激しく打ち付けられ、体をクの字に折り曲げながら車から転落、地面に転がっていった。
 い、今のはかなり危なかった。流石に肝が冷えたぞ。
 見事なハンドル捌きを見せた優羅にお礼を言おうと隣を見ると、優羅自身も今の動きにびっくりしているみたいだった。
 ……どうやら今のは本当に危なかったらしい。
 時間はどれくらい経ったかな、時計を確認しようとし前を向いたら、フロントガラスのど真ん中に、涎をたらさんばかりの狗が一匹へばりついていた。
 そして、狗はフロントガラスに向けて体当たりを始めた。
 三撃目でピキ、と薄く放射状に皹が入った。さすがに顔を引きつるのが自分でもわかった。
「こんのっ!」
 優羅は右に左に車体を揺らし、目の前にへばりついた狗を車から振り落とそうと試みる。
 しかし、なかなかしぶとく狗は、ボンネットに爪を立て、フロントガラスに体当たりを繰り返す。
 皹が大きくなる。
 車は左矢印と、『300m先浄水場』、と描かれた看板の脇を駆け抜け、琵琶湖の湖岸に近づいていく。
 道路脇からもう琵琶湖の湖面が見えるほどに近くまでやってきた。
 湖岸近くの自然公園のような木々が残っているそばの道路を狗をフロントガラスに貼り付けたまま車は疾走する。
『前からニ匹、左の道から一匹来ます!』
 鈴華の叫ぶような警告。
 まずい、完全に進路を塞がれた。どっちに行っても狗にぶちあたる。
 優羅は顔をしかめると、腹をくくったように深呼吸をひとつ。
「先輩、頭下げてくださいね」
「頭ってちょっとまさか」
 わたしが静止する間もなく、優羅は琵琶湖の方向にハンドルを切ると、そのまま湖面に向かって段差を駆け下りた。
 ガクンガクンガクン、と車体がひっくり返らないのがおかしい段差を一気に駆け下りる。
 車が上下に揺れる衝撃で、へばりついていた狗は空中に放り上げられ、ようやく車体からこぼれ落ちる。
 しかし、度重なる体当たりのせいで、フロントガラスは微細なひびで真っ白に染まり、前がよく見えない。
 それでもなんとか段差を抜けられた、と思った時、後ろでパン! という甲高い音がして、車体が大きく振れる。
 そしてそのまま、悲鳴を上げる間もなく、目の前に突如現われた木に激突した。
 
                         ◆

 ガラスの割れる派手な音と同時に体が前に投げ出され――丸くて柔らかいものに受け止められた。パラパラ、と上からガラスの細かい破片が降ってくる。
 一瞬、息が止まるような強い衝撃を受けたけど、幸いにも体に痛みは感じなかった。
 上手い具合にエアバッグが衝撃を吸収してくれたようだ。
 細かいガラス片に気をつけながら、エアバックに挟まれたままシートベルをなんとか外す。
 助手席からなんとか這い出して、優羅の様子を伺う。
 優羅はエアバッグに挟まれたまま、ぐったりとしていた。
 爪先から頭頂部まで寒気が駆け抜ける。心臓を鷲掴みにされたように鼓動が凍る。
 ――わたしは、またなのか。わたしはまた、
『空音、気を失っているだけです。しっかりしてください!』
 鈴華の言葉で一気に目が醒めた。
 そうだ、やるべきことをやらないと。まだ何も終わっていない。
 生き延びるために、最善手を模索しろ。
 まず運転席のドアを開け、優羅の様子を伺う。ぐったりとはしているけど、呼吸は正常。シートベルトを四苦八苦して外し、車外へ引きずり出す。優羅の小さい体は想像していたより軽かった。額をガラス片で切ったのかそこから出血している意外は目立った外傷はない。
 あまり時間はない。急げ急げ急げ。
 鈴華の入ったバッグを肩にかけ、意識のない優羅を引きずるようにして歩き始める。
 わたしは女性の十七歳の平均よりは身長は高いとはいえ、優羅を抱えていてはあまりスピードは出ない。それでも優羅が小柄で助かった。
『空音、私は置いていってください! 早く!』
 鈴華の悲鳴のような声を完全に無視する。
 それよりやっておかなければならないことがある。移動手段がなくなったことはちょうどいいと言えばちょうど良かった。
 車から離れるように琵琶湖に足を進めながら、わたしは意識を研ぎ澄まして、今まで使ったことのある、他者とのコミュニケーションルートを片っ端から開いていく。
 実を言えば、会話する相手がいない状態でこれをやるのはかなりの負担なんだけど、この際仕方が無い。
 この辺は自然が多いみたいだし、木々や動物達がが声を運んでくれるといいんだけど。
 準備完了。大きく深呼吸すると、最大限の出力で叫んだ。
 次の瞬間、あたりの木々から一斉に鳥達が羽ばたいて空へ飛んで行った。
『――っ、空音、あなた』
 鈴華の驚いたような声。
 鈴華は突然耳元で怒鳴られたようなような気分だろう。悪いことしちゃったな、と思う。
 これでわたしに打てる手は全部打った。あとは逃げるだけかな。
『――なるほど、いい手です。しかし、今の声はもちろんレギオンにも聞こえています……すぐにここに来るでしょう。今からでも遅くはありません。私を――いえ、私と優羅様を置いてあなただけ逃げて下さい。それであなたはまず間違いなく助かります』
 わたしは返事をしない。
『気づいていないとは言わせませんよ。今回の件に限って言えば、いつもの通り星の巡りが悪いあなたではなく、狙われているのは霊力のある、私と優羅様です。あなたなど初めから眼中にない確率が極めて高い。空音、このままでは三人とも狗共の餌です。あなただけでも生き延びるべきです』
鈴華。それはね、裏切りって言うの」
 わたしは静かにそれだけ言った。ちなみに裏切りというのは優羅や鈴華に対する裏切りではなく、自分自身に対する裏切りという意味だ。
 坂下空音はそれを容認するとこはできない。
「わかりきっていることでも説得してみるのは、鈴華の悪い癖だと思う」
『そうですね、あなたの頑固さはお手上げです。白旗を振りましょう』
「悪いけど最後まで付き合ってもらうから」
『そんなのは当たり前です』
 以心伝心。
 ま、物心ついた時からわたしの傍に鈴華はいたのだから、当たり前のような気はするけど。
 琵琶湖の岸まであと十数歩というところでわたしは足を止め、琵琶湖に背を向ける。
『空音、言うまでも無いと思いますが――』
「うん、囲まれてるって言うんでしょ」
 夕日の最後のオレンジの欠片が地平線に沈み、夜が訪れようとする湖畔。
 宵闇から滲み出るようにして現われたのは十数匹の禍々しい黒犬。
 いよいよ追い詰めた獲物を吟味するように、じりじりとわたしたちを囲うようにを行ったり来たりしている。
「ま、そう都合よくは間に合わないか」
 円をじりじりと狭めてくる狗たちを見て、わたしは達観したようにそう呟く。
『……困りました。適切なお別れの言葉が浮かびません』
「別にわたしは気にしないけど、優羅には悪いことしたと心底思ってる」
 支えている優羅の体温を感じながら、こういう呑気な会話が実にわたしたちらしいな、と思う。
 ふと、わたしが死んだら和真はどう思うだろうか。泣く……のはあんまり想像できない。普通に焼香とかをあげてそうだ、と思って苦笑する。
 さて、緊張もほぐれたことだし、まあみっともなく足掻くかな、と思う。
 まあ出来ることなら、目に指くらいは突っ込んでやろう。
 わたしがそうして覚悟を決めた時、遠くの空から無数の羽ばたきが聞こえた。
 どうやら相変わらずわたしは、ギリギリの所で運が良いみたいだ。
 星が瞬き始めた夜空に、無数の――無数の蝙蝠が。
 蝙蝠たちはそのままこちらにむけて急降下。
 狗達の間をぐるぐると牽制するように動き回り――わたしたちの目の前で、ぐるぐると渦を巻く。
 そして全ての蝙蝠が集まって人型を形作る。
 蝙蝠たちは溶け合うように消滅し―――そして後には、古めかしいマントに身を包んだ、綺麗なブロンドの男性が現われる。
「やあ、お待たせしたね、お嬢さん方。後は任せてくれたまえ」
 リースさんの父にして、吸血鬼、エルク=シューヒライデンさんは力強い声でそう宣言した。

                        ◆


 全身から力が抜けたように思わずその場にへたり込みそうになる。
 知らず知らずのうちに緊張していたらしい。
 視線をエルクさんと狗達に移す。
「さて、ずいぶんと私の友人達をいたぶってくれたようだな。―――犬畜生の分際で」
 ゾクリ、とひとりでに体が震えた。わたしが今までに聞いたことのないような昏い声だった。
 エルクさんは随分と古い型のスーツと、マントに身を固め、狗達を視線で威圧する。
 狗達もエルクさんを敵と認識したのか、グルルルル、と唸り声を上げている。
「ほう、私に歯向かうのかね? ……面白い。捻り潰してあげよう」
 エルクさんは腕を一振りすると、どこからともなく、これまた古そうなステッキを取り出した。
 狗たちが一斉にエルクさんに襲い掛かり、襲い掛かった全てエルクさんに触れることも出来ずに弾き飛ばされた。
「じつにつまらん、この程度か」
 ヒュン、とエルクさんはステッキを一振り。
 どうやら襲い掛かってくる狗達を全部、ステッキ一本で叩きのめしたようだが、正直なところ、わたしにはエルクさんの手の動きが全く見えなかった。
 次元が違いすぎる。
「まあしかし、しぶとそうではあるな」
 エルクさんの言の通り、弾き飛ばされた狗たちは再び身を起こし、エルクさんに向かって威嚇の声を上げている。
 と、狗達の体が泡立ち、黒い体からさらにもう一頭の狗が飛び出るように出現する。
 それは全ての狗達に連鎖的に起こり、あっという間に狗達は倍の数に達した。
「ほう、面白い。レギオンの名の通り数で押すか」
 エルクさんは余裕ありげにそう言うと、不敵に笑う。
「では、こちらも数で対抗することにしよう」
 パチン、と指を鳴らす。
 すると背後で激しい水柱が上がった。後ろに上がった水柱は四つ。
 そして四つの水柱が消えた後には、四人のエルクさんの姿があった。
 四人のエルクさんの分身は湖面を滑るように移動し、各々狗達に襲い掛かった。
 狗達も牙や爪で対抗しようとするが、元が水だ。牙も爪も効果がない。
 それどころか、エルクさんの分身に触れた狗は、毒にでも触れたかのように地面にバタバタとのた打ち回る。
「ふむ、本当にしぶといな。いいだろう、聖書の通りしてカタをつけよう。お嬢さんがたをあまり放っておくわけにもかんしな」
 エルクさんはサッ、と手を振るとエルクさんの分身はのた打ち回る狗達を摘み上げ、一箇所に団子のように纏めてしまう。
『ここまでとは……』
 鈴華が畏怖すら滲ませた声音で呟く。
 わたしも目をぱちくりしてその様子を眺めるしかなかった。
 そしてエルクさんはその塊を軽々と超常の力で持ち上げると、湖に向かって思いっきり投げ込んだ。
 一直線に投げ込まれた黒い塊は斜めに水面に突き刺さり、巨大な水柱を上げる。
 エルクさんが仕上げとばかりに指を鳴らすと、水中で何かが爆発したかのように、再び巨大な水柱が上り、湖に静寂が戻った。
「やあ、空音にミス鈴華、怪我はないかね」
 エルクさんはつまらなそうにそれを一瞥したあと、わたしに向かって人懐っこい笑顔で話し掛けてくる。
「えーっとまあ、おかげさまで。でも、この娘が頭を打ったみたいで」
 あまりの雰囲気の変わりように、一瞬呆然となったが、とりあえず優羅が心配だったのでそう言った。
「なに!? それはいかん、すぐに病院へ連れて行こう」
 エルクさんは大袈裟なほどに表情を変えて、あたふたし始めた。
 その様子はとてもさっきまとは違っていて、わたしは少し可笑しくなってしまった。
 エルクさんの肩越しに見える月は、思わず目を奪われるほどに綺麗な三日月だった。

                         ◆

 肉の焼ける美味しそうな臭いが鼻をくすぐる。
「で、事後処理とかその辺はどうなってるの」
 事件から一日後の夕方。
 わたしは神戸のステーキハウスで和真と向かい合ってステーキを食べていた。
 昨日は念のため病院で一晩過ごして、今日神戸に移動してきたのだ。
 他のテーブルには優羅やリースさん親子の姿がある。
 結局、優羅の怪我はあれから担ぎ込まれた病院での精密検査したところ、特に異常はなかった。額の怪我も絆創膏一つで済んで、痕も残らないそうだ。なによりである。
「あー、まあ今回は向こうの完璧な落ち度だからな。噂ではお前の実家からかなりの突き上げもあったらしいぞ」
 和真は肉を綺麗に切り分けながらそう、声を潜めて言う。
「いや、そういう責任云々じゃなくってさ。死者何人くらいとか、被害とかそういうの」
 ああ、と和真は得心したように呟くと、言葉を続ける。
「死者は6人だ。驚くほど少ない。重軽傷者はまあ優に十倍近くは出てるが。当たり前だが、報道は交通事故というだけだ。実際まあそうなんだしな」
 個人的には多いよ、と言いたくなったが、事件の規模からすると奇跡的な数値なのだろう。
 まあ優羅の能力で事故った車からは死者がでるはずはないので、そのくらいかなとは思っていたのだが。
 ちなみになぜ和真と向かい合わせてご飯を食べてるかというと、優羅とリースさんが、『……あとは若い二人に』などという血迷った目論見でこうなっている。
 ステーキを切り分けようとナイフとフォークを操るが、どうにも指が一本使えないとなかなか食べにくい。
 わたしのほうは五体満足――と思っていたのだが、右足の腿を打ち身、左手中指が気が付いたらざっくり切れていた。
 多分ガラスで切ったのだろう。まあさほど深く切ったわけでもないのでそんなに気にしてはいない。打ち身に至っては多少青アザが出来た程度である。
「だいたい、なんだってあんな危険なものをトラックなんかで普通に運んでたわけ?」
 つけあわせの野菜を和真の皿から奪いながら、わたしは素朴な疑問を述べる。
「まあこれも確証のある話ではないんだが、普通に運んではいなかったらしい。護衛はしっかりついていたらしいぞ」
「……その護衛さんはどうしたの」
「行方不明だ」
「あら、お気の毒……それって単純に護衛が足りなかったんじゃないの?」
 野菜の変わりに肉を和真の皿にトレードしながら、わたしは素直に感想を述べる。
「別に気の毒じゃないぞ。行方不明で死体は出ていない」
 ん? その言い回しは……
「……もしかして、内紛とかなわけ?」
「言ったろ、向こうの完璧な落ち度だって」
 なるほど。
「ところで、坂下、ステーキ食べに来てなんでさっぱり肉を食べてないんだ。神戸牛だぞ?」
「あのね、こんな脂っこいのそんなに食べれないって、優羅じゃあるまいし。はい、これもあげる」
 さらに切りわけた肉を和真の皿に移す。
 そもそも、優羅と同じ量を食べられると思ったわたしが浅はかでした。
 それに肉の味がついた野菜は結構おいしいと個人的に思う。
「しっかし、我ながらまともな旅行はできないのかと思うわよもう……」
 半ば本気で溜息をつく。わたしが旅行自体が本質的には好きなほうだというのがまた始末に悪い。
「結果だけを考えれば、慰謝料を分捕って優雅な神戸旅行が出来ると思うしかないだろうな、この場合」
 和真はそう軽口を叩く。
 確かに、対魔機関からはちょっとびっくりするくらいのお金を貰ったけど。
「平穏を買うほうが高そう……ちょっと和真、何もあげた肉をわたしの皿に戻すことはないでしょう」
「だめだ、もうちょっとは食べろ。ま、何にせよ、無事で何よりだ」
 最後の台詞は本当に心配してくれていたのが分かったので、
「……どういたしまして」
と小声で返事をした。

4話 ハイウェイの澱 -7-


ところで、その辺りの山で豚の大群が餌をあさっていた。汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。(マルコ:5:11〜12)


                         ◆

 皆さんは『偶然』について考えたことがあるだろうか。
 『偶然』は日常のどこにでも転がっている。たとえば、信号が連続して青信号だったり、並んでいた列が他の列より素早くはけたり、振ったサイコロが連続していい目だったり、買ったアイスが当たりだったり、落とした財布が無傷で返ってきたり。
 え、例がいい例ばっかりだって? ――いいのだ、こういう日常のちょっとした幸運が『偶然』によって引き起こされているということを理解していただければ。
 そう、大げさな言い方をすれば世界は無数の偶然の連鎖によって成り立っている。
 そして、彼女――三ノ宮優羅の能力は、偶然を支配すると言ってもいい、極めて強力な能力である。
 Top of fetal 1min.―――運命の頂点にただ一人。
 ただの1分間だけではあるが――世界は彼女の前に跪く。

                       ◆

 全てがゆっくり流れる灰色の時間の中で、能力を発動させた優羅だけは色鮮やかな水彩画のように、くっきりと浮かび上がるように動く。
 分離帯を乗り越えてこちらに迫って来るトラックの巨体に対して、優羅がとった行動は、ブレーキを思いっきり踏むというものだった。
 高速で走行している車に急制動をかけるとどうなるか。
 結果は決まっている。車体はバランスを失って横滑りするのだ。
 肺から空気が押し出されるような勢いでガクン、とスピードを落とした車体は、高速でスピンを開始する。
 グン、とすべてをなぎ払うような横方向のベクトル。凄まじい速度で、窓の外の景色が回転し、高速道路に黒いタイヤの爪痕を刻む。
 車体にへばりついていた黒い狗達が、次々と振り落とされていく。
 優羅はというと、車体が高速で回転していることなどまるで感じていない様子で、
 ハンドルをどこでどう切れば、壁にぶつからずに済むかをあらかじめ知っているかのような淀みのない動き。両手が稲妻のように閃く。
 そして、目の前に壁が迫っているにも関わらず、何のためらいもなく再びアクセルを踏んだ。
 スピードを落としていた車体が壁に向かって突っ込む――直前で斜めに滑った。
 そのまま高速道路を氷の上のように車体は斜めのまま滑る。
 そして、滑っている車の鼻先を、反対車線からの突っ込んできたトラックの車体が掠めていった。
 回避成功。
 トラックはそのまま後ろの車に衝突、すさまじい音を響かせる。
 トラックは乗り上げるように後続の車のボンネットを踏み潰し、そのままひっくり返るようにして壁に激突。火花を上げて高速道路に屍を晒した。
 その車体から一瞬炎が吹き出し、、黒い煙がブスブスと上がる。
 優羅は横滑りしている車体を立て直すべく、クラッチを流れるような動作で切り替え、車を水平に戻すと、後ろで起きている事象がなんでもなかったかのように、そのまま加速に移った。
「……十五。リースさん大丈夫ですか?」
 優羅の能力――1分間だけ、偶然という名の世界の理を望みどおりにする――平たく言えば、『果てしなく運が良くなる』力を使った彼女は、冷静に車上のリースさんに尋ねた。
「信じられない、生きてるし落ちてないわ……」
 一拍置いて、窓から力なく顔をだしたリースさんは呆然とそう呟いた。
「よかった、リースさんは正直、ちょっと不安だったんですよね……」
 この能力の真に強力なところは、幸運の定義が『優羅本人が幸運に感じること』というのに尽きる。
 つまり、彼女が望むように世界は変容するのだ。
 もちろん、何でも思うままになる、というわけにはいかないようだけど。
 優羅の心配は、会ったばかりのリースさんが、その幸運の範囲に含まれているのかどうかという心配だろう。
「車は減りましたけど、ワンちゃんは増えましたね……三十」
 優羅はバックミラーを眺めながらそう何気なく呟く。
 確かに優羅の言う通り、先ほどのトラックが進路を遮る形になったため、わたしたちを追いかけてくる車はもう殆ど残っていない。
 しかし、黒い狗たちだけはネズミ算式に数を増やしていた。
「ぞろぞろ、ぞろぞろと……」
 リースさんが忌々しげに呟く。
「リースさん、この車どうせ修理に出すんですよね」
 優羅が突然そう質問を発する。
「え、ええ。まあ……そうなるでしょうね」
「じゃあ、すみませんが……」
 意表を突かれたように答えるリースさんに、優羅はそう断ると、左足を伸ばして、助手席側のドアを三回、ガンガンガンと強く蹴った。
 すると、驚くべきことにドアが外れた。
 助手席のドアそのものが車から分離したのだ。
「……え?」
 リースさんが理解不能、という感じで声を上げる。
 そう、いくら先ほどぶつけられた部分とはいえ、車のドアは足で蹴ったぐらいでは外れる訳が無い。――普通なら。
 外れたドアはそのまま縦に回転しながら、一度も横倒しになることなく高速道路を進む。一体目の狗に激突。
 そのまま斜めに転がり、ニ体目の狗を切り裂くように巻き込むと、残っていた車に激突、タイヤの間に潜り込むようにドアが刺さる。
 ドアを巻き込む形になった一台目の車がスピン。後続の車にぶち当たる。さらにその車はそのまた後ろに――そうして連鎖反応を起こすようにして、残っていた車が次々と沈黙していく。
 そうして、動かなくなった車の山で、高速道路は完全に全車線が塞がれてしまった。
 わたしとリースさんはその様子をぽかん、とした顔で眺めていた。
「……六十。これで私は完全に役立たずです」
 そう申し訳なさそうに言う優羅に、私とリースさんは二人して、そんなことないない、と首を振った。

                        ◆  

 夕日が目に眩しい。
 茜色の太陽は地平線間際でその身を大きくしている。
 ……などと現実逃避している場合ではないのだけど、後ろを見るととげんなりするので自然の美しさを堪能でもしていないとやっていられない。
 狗の数は増え続けて、数十匹。高速道路に黒い河を作るほどになっている。
 ガチガチと牙を打ち鳴らす音がここまで聞こえてきそうだ。
 まあでも、もうすぐ出口だ。高速道路での長い追いかけっこももうすぐ終わる。
「先輩、ちょっと景気付けに曲かけてもいいですか? ちょっと肌寒いですし」
 優羅は楽しそうにそう言って、わたしの返事を待たずにMDをセットする。
 まあドアが一箇所ないからね。暖房を入れていても少し寒いのは仕方ないと思う。
 何を掛けるんだろう、と耳を澄ませていると、ボリュームを上げたスピーカーから軽快なイントロが……ってこれDeep Purpleの『Highway star』……いや、そのぴったり、ぴったりだけど。
「優羅、もうすぐ高速から降りるんじゃ……」
 わたしの自分でもどうでもいいと思うツッコミを無視して、優羅は口笛を吹いてノリノリだった。
「もしかして、優羅てハンドル握ると人格が変わるタイプの人?」
 あまりにも楽しげなので思わずそう聞いてしまった。
「やだなあ先輩、そんな漫画みたいなことあるわけないじゃないですか」
 弾けるような笑顔が逆に怖い。サビにあわせて歌ってるし。
「んじゃ、行きますよー」
 優羅は実に楽しげにそう言うと、大胆なハンドル捌きで滑り込むように出口に進路をとる。
 勢いにのった車体が分岐に向かってスピードを落とさずに突進する。
 音楽に合わせるようにしてクラッチを切り替え、軽々とカーブを曲がる。
 スピードを出しすぎているためか、車体が高速の壁ギリギリを過ぎ去る。 
 実に心臓に悪い。カーブで若干スピードが落ちたため、狗の群れは距離を詰めてきている。まだ執拗にわたしたちを狙ってくれているようだ。一斉に出口に殺到している。
「ようやく降りれるわね。まあようやく向こうの態勢も整ってきたみたいだし、もうひと踏ん張りかしら」
「態勢?」
 リースさんは上を指差す。
 見ると、茜色の空に一台のヘリが舞っていた。
「機関のヘリよ。ま、現状把握ってところでしょうけど」
「あ、ところで料金所ですけど――」
 優羅が呑気に聞く。あきらかに悠長に料金を払っている場合ではないと思うんだけど。
「突っ切るしかないでしょう。ETC(有料道路自動料金支払いシステム)は導入してないし」
 リースさんも当然そう答える。どうでもいいですけど、ETCでもこれだけのスピードでは反応しないと思いますが。
「でも、車詰まってたら空いているETCを突っ切るしかないですねえ」
「それは大丈夫。多分もう交通規制が掛かってるから空いているはずよ」
 リースさんの言うとおり、見えてきた料金所に車の影は見えない。
「わ、ほんとだ、んじゃ遠慮なく」
 優羅は楽しげにアクセルを踏みこむ。
 そしてあっという間に料金所を通り過ぎた。ちなみに料金所の中には避難したのか、人影は見当たらなかった。
「ところで、ここからどう行けばいいんですか? 私、全然道なんてわかんないですけど」
 後ろを見ると料金所の屋根近くまで溢れ返った狗たちが、黒い濁流となって高速道路から溢れ出してくる。
 もはや数えるのが馬鹿らしいくらいの数になっている。
「乾燥わかめみたいな増え方……」
「先輩のたとえはなんというか独創的ですよね……あれ、交通規制みたいですけど」
 思わず呟くと、優羅が呆れたように返事をしてきた。
 いいじゃないか、そう思ったんだから。とつぜんどばっと増えるあたり似ていると思う。
 それはともかく、たしかに、料金所を降りた直後から車の姿が見当たらない。
「流石、手回しが早いわね。ご苦労なことだわ」
 進行方向に見える三方が封鎖された交差点で、蛍光色の棒ををぐるぐると振って右へ曲がるように誘導をする人影が見える。手回し、というのはこの事らしい。
「優羅、あの誘導に従って」
「そ、それはいいですけど、あの人大丈夫なんですか!?」
「大丈夫よ、機関の職員はそんなにやわじゃないわ。あ、そうそうスピード落とさなくていいわよ。私がなんとかするから、そのままの速度で曲がって」
 リースさんはさらりと、とんでもないことを言う。
「いくらなんでも、ちょっとはスピード落とさないと曲がりきれませんよ!?」
「いいから、いいから」
「……優羅、やってみて」
 なんとなくリースさんのやろうとすることが分かってしまったわたしは、そう促がす。
 優羅は、知りませんからね、なんとか努力はしますけど、と呟くと、本当にあまりスピードを落とさずに交差点に突っ込む。
 クラッチを稲妻の如き速さで切り替え、ハリウッド映画もかくや、といった角度でカーブを曲がろうとする。
 が、当然このスピードでは曲がりきれるはずもない。
 交差点からはみ出し――その時、ふわり、と車体の半分が浮いた。
 中のわたしの体も当然、斜めに傾く。
 左半分が浮いて斜めに傾いた車体は、ウィリーの要領で道ギリギリをそのまま片側二輪でカーブを大きく曲がる。
 そして、直線にはいったところで、ゆっくりと四輪全てを地面につけた。
 つまり、そのままならコーナーに激突するところを、リースさんが車を持ち上げて、バランスを取ったのだ。
 はっきり言ってもう無茶苦茶である。
 念動力って応用範囲の広い力なんだなあ……とわたしがしみじみ感心していると(もう常識の範囲を遥かに越えているので感心するしかない)、
「この先も誘導に従ってください! 陣を敷いて一気に仕留めます!」
という叫び声が通り過ぎた交差点から聞こえてきた。
「了解!」
 リースさんは叫び返してそれに答えている。
 誘導の人は、警察官の服装をしていた若い人だったが、察するに対魔機関の人なのだろう。
 後ろから迫り来る狗達をあの人どうするんだろ、と思って後ろを観察していると、なんと彼は走ってその場から逃げているようだった。
 ……すごいのかすごくないのかさっぱりわからないぞ対魔機関。

                       ◆

 気味が悪いくらいにガラガラの道を、赤いスポーツカーが疾走する。信号は全て青。トワイライトゾーンに紛れ込んだように現実感が希薄だ。夕暮れの赤光が斜めに路面を染め上げて、禍々しくも美しい。
 そんな幻想的な光景とは対象的に、後ろからはもはや百ではきかない数にまで増えた狗の群れ。
 もはや黒い暴力と言うべきそれは、目に見える全てを塗りつぶすようにしてこちらに流れてくる。数が増えたためかスピード自体は少し落ちたようで、余裕をもっての逃げることが出来ている。
 時折、ぼこり、と狗の体が瘤のように膨れ上がり、そこからまた黒い狗が顕れる。
 どうやら、もう栄養源がなくとも自己増殖が可能らしい。数が増えるほどにデタラメになっていっている。
「まさしくレギオン、ってわけか……」
 思わず言葉にして呟いていた。
 しかし、ここまで増えてしまったあの狗の群れをどうするんだろう?
 たしか聖書だと――
「ここって琵琶湖の近くなんですね」
 などとわたしが考え込んでいると、優羅の能天気な声で思考から引き戻された。
 確かに道路標識には矢印の下に琵琶湖方面などと書いてあるのが見て取れる。
 そして誘導されているのは、どうやらそちらの方向のようだった。
 湖と聞いてレギオンの顛末を思い出した。偶然か必然か、なかなかおあつらえ向けだ。
「でも豚じゃなくて狗みたいけど、それはいいのかな」
「……空音、あなた結構細かいわね」
 リースさんはそう言うが、結構大事なところではないのだろうか。
 狗達との距離はのんびり会話できるくらいに安定しているものの、引き離せているといった感じはしない。追いつかれれば車ごと呑みこまれてしまうのは確実だ。
「あそこまでになっちゃうと、もう私の手には負えないわね」
 リースさんは所在なさげに窓から頭を逆さに出すと、少し疲れた口調でそう嘆息した。
「それはそうと、優羅って私より運転上手いんじゃない? びっくりしちゃった」
「うーん、どうなんですかねえ、確かに筋はいいと言われましたけど」
 などと呑気に会話をする二人。
 明らにこの人たちは度胸というか神経の配線がおかしいのではなかろうか。
 重ねて言うが、これでも逃走劇の真っ最中である。
 わたしも、もう少し厚着をしてくるんだったなあ、などと考えているので人の事は全く言えないのかも知れないけど。
「さて、そろそろゴールが見えたみたいよ。……ごめんね、とんだ旅行になっちゃって」
 リースさんは逆さのまま申し訳なさそうに言う。
 どうやら、数百メートル先に見える大きな公園が最終目的地点らしい。
 入り口近くにここに来るまでに何度も見た、赤い棒を振り回す人影が見える。
「いえ、おかまいなく。まあ、こんなことになるような気はそこはかとなくしていましたので」
「ほんとに先輩はトラブル誘引体質なんですねえ……あはは、鈴華さんも『もうどうしようもありません』だそうですよ」
 悟りきったようなわたしの発言にそう笑って答える優羅。
「それじゃ、ラストスパートといきますねっ」
 優羅はそう元気よく叫ぶと、公園の入り口で中に入るように誘導する人の前で、ドリフト気味に車体を曲げ、公園内部に勢いよく突入した。
 自然を多く残した公園の中を赤いスポーツカーは矢のように駆け抜ける。
 当たり前だが、もともと公園内部は車が走るようには出来ていないので、歩道や段差をのりこえ、ベンチなどの障害物を避けつつ、リースさんの指示の元、公園内の奥にある広場を目指す。
 広場の周りは木々に囲まれていて、季節柄、青々とはしていない芝生に覆われていた。
 その芝生の上には、黒い塗料で直径が数十メートルの魔法陣が描かれていた。
 魔法陣、といっても洋風のものではなく、漢字や達筆すぎて読めない字で埋め尽くされた和風の円陣だ。
 広場に入ったところで、止まれ、という合図を出す黒いスーツ姿の男性が一人。
 優羅はその前ギリギリに軽々と横付けするように車を止める。
 とてもじゃないけど無免許とは思えない。
「柳川さん。途中で少し拡散していたみたいだけど、そっちのほうは大丈夫なの?」
 リースさんが車の屋根からひらり、と飛び降りると顔見知りなのか柳川と呼ばれた男に質問を浴びせる。
「ああ、問題ない。すでにこちらで追尾及び対処は完了している……と、来たようだな」
 そう、低い声で答えた柳川さんは、がっちりと横幅の広い肉体を無理矢理スーツに押し込んだ三十代後半の男性で、こう言っては何だが、凶悪な面構えもあいまって、完全にその筋の人に見える。
 柳川さんはわたしたちに車から降りるように身振りで促した。
 それに従ってわたしと優羅は素直に車から降りる。もちろんわたしは鈴華が入ったバックを肩から下げたままだ。
 ぎゅ、と服が引っ張られる感触。
 見れば、優羅がわたしの服の裾を掴んでいた。
「……どうしたの?」
 わたしが小声で尋ねると、優羅は青ざめた顔で、
「せ、先輩は本当に何にも感じないんですね……囲まれてます」
 囲まれてるって?、と聞き返するより、周りの動きが速かった。
 広場の周りの木々から、滲み出るように狗達がいっせいに広場全体を包み込むように現われる。あはは、確かに、追い詰めた獲物を逃がすまいといった意志の感じられる包囲網だ。
「……柳川だ。発動しろ」
 柳川さんが手に持ったごつい通信機で、どこかにそう命じるのを合図にしたように、狗達が牙を剥き出して一斉に襲い掛かって来る。
 次の瞬間、魔法陣が背後で赤く発光した。
 ……そして、それだけだった。特に何かが起こる様子は無い。
 狗たちは光を発した魔法陣を警戒するように、一瞬だけ足を止めたが何も起こらないことを悟ると、再び一斉にこちらに向けて迫って来る。
 え? もしかしてこれってまずいんじゃ――と思ってリースさんや柳川さんを見たが、二人の様子はまったく落ち着いたものだった。
 と、いうことは。
 再び狗達に視線を戻す。もう狗達は目の前に迫っている。
 そして、そのまま狗達は、わたしたちに向けて走り寄り――そのまま通り抜けた。
 わたしたちを綺麗に避けて、全ての黒い狗たちは魔法陣の中心にむけて突進していく。
「お見事。相変わらず見事な陣ね」
 リースさんがポン、と柳川さんの肩を叩いてそう言った。
 陣の中心に集まった――いや強制的に集められた狗たちは重なり合うようにしてひしめき合っている。
 次々と中心部に集まっていく狗達は、狗と狗とが交じり合い、どんどんと黒いただの塊になっていく。時折その塊から狗の頭や尻尾が生えては消えてを繰り返している。あまり心地良いとはいえない光景だ。
「え、鈴華さんまずいって何がまずい――」
 それを眺めていると、優羅が突然声を上げる。
 すごい、嫌な予感がするんですけど。
「ちょっと、なんか一部動いてるみたいだけど」
 リースさんがひきつった声で陣内部を指差す。
 たしかに、中心部の黒い塊から分離した三分の一くらいの塊がずるずる、と這う様にしてゆっくりこちらに向かって来ている。
「……状況を報告しろ。やはり術者が三人しか確保できなかったのが原因。予想より強力なようだ」
『……こちら大塚、維持のため動けませんどうぞ』
『こちら山辺、全力でやってます!』
『同じく箕浦、許容限界です』
「ちょっと、なんで三人しかいないのよ!? 少なすぎるじゃない!」
「時間がなかったんだ、仕方ないだろう。これでも掻き集めたんだぞ? ……応援の現着まであと三十分はかかる。あとは封鎖チームで各個処理するしかあるまい」
 文句をつけるリースさんに淡々と柳川さんは説明する。
「さて、お嬢さんたち。あれはまだ君たちにご執心らしい。それでだね、ここは我々が食い止めるので、その間に君たちはここから逃げるのをお勧めする。なあに、十五分もすれば事態は収拾するので、その間頑張って逃げてくれると嬉しい。大宮、護衛よろしく頼むぞ」
「言われなくでもやるに決まってるでしょ」
 柳川さんはわたしたちに振り返ると、口調は丁寧だが実に無茶苦茶なことを言った。
「それじゃ、さっさとこの場から――」
 リースさんがそう言った時、黒い塊が何の前触れも無く跳んだ。
 跳躍の目標はもちろんわたし達だ。
「――散」
 こちらに襲い掛かってくる黒い塊を阻んだのは、柳川さんが投げた一枚の符だった。
 バヂッという音を立てて、符が弾けると黒い塊を数メートルほど吹き飛ばした。
「早く行け」
「行きましょう。運転は今度は私が――」
 ボコ。何かが泡立つような音がした。視線を移す。
 弾き飛ばされた黒い塊の表面がボコボコと泡だっていた。
 そして、不吉な泡立ちをする黒い塊の表面から、数十匹の狗が一気に溢れ出す!
「この、往生際が悪いっ!」
 リースさんはわたしたちを庇うように狗達に立ち塞がる。
 その全身に狗達がたかるように殺到し、リースさんが地面に引きずり倒される。
「リースさん!」
「いいから、行きなさい。車に乗って、早く!」
 全身に喰らいつかれながらも、念動力で反撃し、狗たちを蹴散らすリースさん。
 だが、いかんせん数が多い。柳川さんのほうにも狗達は向かい、こちらをサポートする余裕はなさそうだ。
「優羅、行くよ」
 わたしは優羅の手を取ると、車のほうに押し出すようにして歩かせる。
「でも、リースさんが――」
「私のことならご心配なく――させるか!」
 わたしたちに襲い掛かろうとした、一匹の狗を空中で吹っ飛ばしつつ、リースさんは明るく答える。
 わたしたちを助けたことにより、さらにリースさんは黒い狗達に覆い尽くされていく。
 優羅は一瞬だけ逡巡した様子を見せたが、ドアのない助手席から運転席に滑り込む。
 続いてわたしも助手席にバッグを抱えて乗り込む。
 優羅は刺したままにしてあったキーを捻り、エンジンをかけ、素早くクラッチを切り替え、アクセルを踏む。
 タイヤが勢いよく回転して、車はその場から急発進した。

 こうして、本日最後の逃走劇が始まった。

4話 ハイウェイの澱 -6-


そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。(ルカ:8:31)


      ◆

 さすがに唖然とするわたしを尻目に、優羅とリースさんはなにやら打ち合わせをしている。
「じゃあ、私がアクセルを念動力で押さえてるからその間に代わって。はい、ハンドル。じゃあいっせーの」
 合図と同時に優羅とリースさんは席を交代する。
 運転席にすばやく滑り込んだ優羅は、シート横のレバーを引いて、座席の調節をする。
「実は、見たときからちょっと運転してみたかったんですよねー」
 優羅はこんな状況下なのに鼻歌でも歌い出しそうなくらい上機嫌だ。
「じゃ、わたしはちょっと出てくるから。安全運転よろしくね」
 リースさんはガー、と開閉ボタンを押して助手席の窓を開くと、片目でウインクを一つ。
 そして窓から車外へ身を躍らせた。
 ……ってええ!?
 慌てて窓の外を見る。一瞬、飛び降りたのかと思ったけど、リースさんは器用に窓枠に足を掛けると、そのまま車の上に飛び乗った。
 ……いやそれでも無茶でしょう。
「リ、リースさん、無茶です、一体何キロ出てると思ってるんですか!」
 わたしは思わず車外のリースさんに向かって叫ぶ。
 人間が立っていられる速度とは到底思えない。
「大丈夫、支えてるから落ちっこないわよー」
 リースさんの返事はしごく明るい。
 支える……? 支えるって一体何で? ……ってまさか。
 わたしはそれを理解した時、少し戦慄を覚えた。
 つまり、サイコキネシスで自分の足を車に固定させてるんだ。
 たしかにリースさんは念動力(サイコキネシス)が得意だとは言ってたけど、ここまでとは……
 リースさんが車の上に上がると同時に一頭の犬が追いすがる車のフロントガラスからするり、と抜け出してわたしたちのほうに跳躍してきた。
 弾丸のような速度で中を飛び、牙を剥き出しにしてリースさんに踊りかかる。
 ――が、その犬は何かに掴まれたように、無理矢理空中で静止させられると、そのままベクトルを横方向に曲げられた。
 こちらに踊りかかった勢いの倍以上の速度で壁に叩きつけられた影(犬の輪郭が見えないくらいの速さだった)は、コンクリートにめり込んで、後方に過ぎ去っていった。
「……これ新車だったんだから。まだローンが残ってるのに歯型なんかつけてくれちゃって……言っておくけど、私、かなり根に持つタイプだから」
「……優羅、安全運転でいったほうがいいわよ」
 リースさんの呪詛のような声を聞きつけたわたしは、静かにアドバイスを運転席へ送った。
「それは向こうに言って下さい……車間距離が無茶苦茶で運転しにくくてしょうがないです」
 そう口では文句をつけるものの、優羅は実に楽しそうにハンドルを捌いている。
「……素朴な疑問なんだけど、運転ってどこで覚えたの? あきらかに年齢は足りてないと思うんだけど。もしかして、無免許で運転してたり?」
「やだなあ先輩、日本では私道を走る分には別に法律違反じゃありませんよ。いえその、公道も走らなかったと言えば嘘にはなりますけど……」
 こうして話してる間にも、優羅はアクセルを吹かしたり弛めたりして、わたしたちの車は水を得た魚のように、高速道路の海を危なげなく泳いでいる。
「優羅、右!」
 トラックがこちらに車体を勢いよく寄せてくるのが見えたので、わたしは思わず叫ぶ。
 優羅はちらりと右を見、じりじりと車体を左に寄せると、窓から外に向かって、こう叫んだ。
「リースさん、ちょっとだけ右の車、お願いしますー!」
「……了解、でもあんまり長くは持たないわよー!」
 コミュニケーションを明確にするためか、お互いに叫びあう二人。
 銀のコンテナが迫る。
 接触する、と思った瞬間、トラックはピタリ、と停止した。
「くっ、やっぱり重いわね……」
 驚くべきことに、リースさんが念動力でトラックの接近を阻んでいるらしい。
 ……もう無茶苦茶だ。
 リースさんがトラックの接近を阻んでいる間に、優羅は左に車体をずらし、いつのまにか後ろから迫っていたもう一台の車を振り切ると、一気に加速する。
「ううん、埒があきませんね。カーブもなんにもないですから、峠の豆腐屋さんばりのドライビングテクニックで振りきるというわけにもいかないですし」
 抜けた先も、また囲まれていた。
 が、優羅はつまらなそうにそんなことを言う。
「あら、優羅もあのマンガ読んでるの?」
 わたしがその発言に突っ込む前に、意外なところから反応があった。
 見ると、運転席の窓ガラスから逆さに顔をだしたリースさんが、視線は油断なく後ろにやったまま、そう聞いてきた。
「……リースさんも読んでるとは思いませんでした」
「うん、友也の部屋に並んでたから読んじゃった」
 そう返事をするとリースさんは頭を引っ込め、接近していた一匹の犬をサイコキネシスで無造作に弾き飛ばす。
「でも本当に埒があかないです。見える範囲ほとんど乗っ取られちゃってるんじゃ……ああ、また来ました」
 見ると今度はさきほどとは別のトラックが先ほどの焼き直しのように再び接近してくる。前は別の車両でふさがっていて、左の車線しか開いていない。
 優羅は先ほどとは違い、接近するトラックを一顧だにせず、真剣な表情で少しずつスピードを弛め、左に少しづつ車体をずらす。
 わたしは、そこでようやくすでに左のトラックだけでなく、右後ろからも接近している車に気づいた。
 すでに、挟まれていたのだ。
『先ほどから増殖しつづけています……気味が悪いくらいの速度です』
 鈴華が冷や汗のにじんだ声でそう告げる。
「リースさん、右の車押せます? でないと前が辛そうなんですけど」
「それしかなさそうね、いいわ、なんとかやってみましょう。行くわよ、1、2、」
 3、のかけ声と共に優羅はハンドルを右に切った。……え、右?
 同時にキュルキュルとザザ、という擦れるような音が続けて聞こえ、トラックの巨大な車体が右にずらされていく。
 ……すご。もう感心するしかない。
 優羅は車一つ分の隙間が開いたと見るや、躊躇なくそこに向かって突入した。
 ガリ、と途中で擦れるような音がしたももの、見事にその隙間を通り抜けた。
「あちゃあ、ちょっと擦っちゃいましたね」
「いいわよ、どうせ修理に出さないといけないし」
 優羅の呟きに、リースさんは再び、顔だけを屋根から出してそう答える。
そしてわたしは何故、右に切ったのかようやく理解した。
 左の車線には追い越した車に隠れるようにして、すでに車が待機していたからだ。
 要するに、もし左に逃げていたら、前も塞がれていたことになる。
「よし、これでとりあえず前には乗っ取られてる車はいないみたいですね。じゃ、このまま出口まで行きます!」
 そう、明るく優羅はいうと、思いっきりアクセルを踏んだ。
 思わずシートに貼り付けられるくらいの圧力が掛かった。
「ちょっと優羅いくらなんでも飛ばしすぎ―ー」
「大丈夫ですよ、コースだともっと飛ばしたことありますからー!」
 なにやら恐ろしいことをのたまう優羅に後押しされるように、車は一気に加速した。

                       ◆

 明かにレッドゾーンを指し示す針をわたしは戦々恐々といった面持ちでちらり、と後ろから覗きながら、わたしは鈴華に話しかける。
「で、後ろはどんな感じなの? 結構距離が開いたように思うんだけど」
『それほど距離は見た目より開いていません、ぎりぎりまだ視界内です。……数のほうはもう数えたくなくなってきました……また接近してきます』
 すぐさま後ろを見たわたしは思わず呟いてしまった。
「なるほど、そう来たか……」
 黒い犬は――いや、黒い狗たちは、高速道路を走るのではなく、高速道路を走る車の上を、跳躍してこちらとの距離を詰めて来ていた。
 まわりの車の屋根に、ずらり、と狗たちが並ぶ。
「ああもう、うっとうしいわね!」
 リースさんは砂糖菓子にたかる蟻のように遮二無二喰らいついてくる狗たちを片っ端から撃墜している。
 そのうちの何体かは車のボディやフロントガラスに飛び乗ってくるのもいたが、数秒ともたずにリースさんに弾き飛ばされている。
鈴華、そういえば聞くのを忘れてたんだけど、乗っ取られた人とか無事なわけ?」
 かなり余裕のなくなってきた車外を見ながらわたしは聞くのを忘れていたことを鈴華に質問する。
 最終的な手段の検討をしておかないといけないからだ。
『乗り移られているだけですので、抜ければ精神的に衰弱した状態になるだけだと思いますが……この状況下では危険ですね』
「とりあえず、生きてはいるわけね」
『はい、それは』
 となると、あまり無茶苦茶もできないのか。
 それでもどうしようもなくなったらやらざるを得ない――というよりやってもらうしかないんだろうけど。
「ああもう、ぞろそろとっ!」
 リースさんの叫び声に、窓からちょっとだけ顔を出して覗いてみる。
 一向に数が減らない犬たちに業を煮やしたのか、リースさんはそう叫ぶと、前の トラックの扉のチェーンを無理矢理念動力で引きちぎると、ロックを回して引き開け、無理矢理扉をこじ開けた。
 って指示をするまでもなくやる事が派手だなあ、リースさん。
 わたしたちの安全を優先するために、直接、追いかけてくる車自体を攻撃する等のより攻撃的な手段をとってもらおうかとも思ったのだけど(自分でも残酷だなあとは思うけど、正直な所、他人の命より自分たちの命だ)、リースさんはどうやら最初からそのつもりのようだ。ありがたいことではあるけれど。
 片方の扉が開いたトラックは、ドアをパタパタと開閉させながら、高速道路を激走している。
 中の荷物は、何かの機械類の部品のようだ。いかにも重そうな金属板や棒や何やらが積み込まれている。
「ビンゴ! 申し訳ないけど、使わせてもらいましょう」
 リースさんはそう叫ぶと、一抱えくらいはありそうな金属塊を箱をこじ開けて取り出すと、それを数個宙に浮かせて、狗めがけて思いっきり投げつけた。命中した狗の頭がべこり、とへこみ、そのまま部品といっしょに後方に流れていく。
「いけるわね」
 リースさんはヒュンヒュン、とまわりに同じ金属塊を舞わせながら、そう呟いた。
 ……やる事が派手な人である。
 わたしはとばっちりをくらってもあれなので、観察していた窓から首を引っ込め、閉める。
 さて、とりあえず今のところは、なんとかなってはいるみたいだけど――
「優羅、出口まであとどれくらいか――」
 そこで、気づいた。
「ええっとですねもうすぐだと思いますけど」
「優羅、あなたその汗――」
 優羅のうなじにびっしりと、冬にもかかわらず、玉のような汗が浮き出ていた。
 念のために言っておくと、車内はむしろ寒いくらいだ。
 注意して聞くと、声にもいつもの覇気がない。
「大丈夫ですよ、ちょっと気分が良くないだけですから――」
 ……実に迂闊だった。中てられている。よく考えてみれば外にこれだけ悪霊がうじゃうじゃしているのだから当然と言えば当然だ。
鈴華、結界は張ってるのよね」
『はい、ですが簡易的なものですので流石にこれだけ相手が強力だと効果はあまり』
「……わたしを中心に守護してるでしょう。優羅を中心とした守護に変えて」
『しかし、それでは先ほどのような――』
「先輩、わたしは平気ですから」
 そんな弱弱しい声で言われても困る。明かに優羅は平常の状態ではない。
「大丈夫よ。わたしは完全に能力をOFFにするから」
『しかしそれでは、私の声さえ聞こえなくなってしまいますし、空音の体にも負担が』
「いいから、やって。どの道、運転できないわたしは一番の役立たずなんだし」
『しかし――』
鈴華。命令するわよ」
 ぐずる鈴華に、わたしはやりたくない脅し方ををした。
『……わかりました。しかし、空音のほうが先です』
 渋々、といった感じで鈴華が折れた。
 よろしい、とわたしは努めて明るく答え、目をつぶる。
 そして深呼吸を一つ。イメージは蓋。外に向かって伸びる『線』全てに蓋をかぶせる。
 ゆっくりすべてに蓋をし終わると、わたしと世界とが断絶される。
 もやもやとした薄い膜が頭にかかったような感じになる。
 それを確認すると、鈴華に向かって話し掛ける。
「いいわよ、完了」
 対する鈴華の応えはもうわたしには聞こえない。
 いまのわたしは完全に能力に蓋をした状態だ。
 この状態も一日くらい続けると、ひどい頭痛がしてくるんだけど。
「先輩わたしは大丈夫――ってあれ」
 優羅の声の調子が途中から明かに戻る。
「……本当に治りました。ってうわ、鈴華さんの声も聞こえる」
「ま、仲良くやって?」
 優羅の慌てた様子に苦笑しながら、わたしは鈴華の入ったバックをトントン、と叩いた。
 それにしても、まったく狗の数が減らない。脱落してもいつのまにか復活しているようだ。目に入る範囲で十数匹はいる。
「先輩、もうすぐ出口です!」
 元気を取り戻した優羅が快哉を上げる。
 とりあえず高速から降りれられれば、交通量は少しは減って今のどうしようもない状況から脱せるかもしれない。
 どのみち指示された地点に行くには降りなければならないので、その選択肢しかないのだけれど。
 ――その時。
「――え、鈴華さん前? 前って別に……っ!! リースさん、対向車線です!」
 わたしが視線をそちらに移すと、対向車線から分離帯を乗り越えた二十トントラックが、こちらに向かって全速力で突っ込んでくるのが見えた。
 リースさんは呼応するように一斉に飛び掛ってきた狗たちの相手で手一杯で、完全にそちらに注意を向けられていた。
 よしんば対応できていたとしても、対向車線から突っ込んでくるトラックを止められたかどうかはわからない。
 時間が粘性を帯びたようにゆっくりと流れる。
 トラックが、こちらに――


「――私はただ一時、運命の頂きに立つ!」

 優羅のその一声が、迫り来る破滅を切り裂いた。

4話 ハイウェイの澱 -5-


そこで、イエスが、「名は何と言うのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。(マルコ:5:9)


                        ◆

 犬、と言ってももちろん、通常の犬では有り得なかった。
 まあ、高速道路を走る車に追走できる、という時点で普通の犬なわけはないじゃん、という意見はある。
 その高速走行の部分を差し引いても、非常に違和感のある犬だった。
 表面は黒一色。光さえ塗りつぶすような深い深い黒。毛のようなものは一切見当たらない。しかし、表面は波打つように脈動していて、ひどく不気味だった。
 そして、頭部が異様に大きい。首から上が当社比1.5倍もかくや、とばかりの大きさなのだ。
 加えて、頭全体の大きさだけではなく、一つ一つのパーツも大きかった。
 ギラギラと蒼に輝く瞳。異様に大きな口蓋。そして鋭く伸びた牙。
 四肢は目で追えないほどの速度で高速道路の路面を蹴っている。
「……噛まれたら物凄く痛そう」
 というのが、その犬を見たわたしの率直な感想だった。
「……いつも思うんですけど、先輩は心底余裕ありますよね」
 優羅はそんなことを言うが、わたしはこれでもボケた発言をして場の雰囲気と自分を和ませようとしているだけで、余裕があるわけじゃない……と思う。
 要は馴れだという話はなくもない。
 これはもう、わたしという人間そのものの特徴というか、性質なのでもう直しようがないだろう。
 で、その元気な犬さんだが、現在は車のすぐうしろに―――ガヂ。
 と、思ったら距離を詰めたそいつは、後部のボディにその大口で勢いよく喰らいついた。
 そのままガヂガチガヂと後ろのトランク部分に牙を突き立てて、齧りはじめている。
 金属製のボディに見事に牙が食い込んで――ってそんなのんびり観察してる場合じゃない!
「空音、ちょっと体を左に」
 どうしたもんか、と思っていると前からリースさんの声。
 声に従って反射的に体を少しずらす。
 次の瞬間、すぐ横を『何か』が通り過ぎるのを感じた。
 わたしの真横を通り抜けた『何か』は、そのまま黒犬の顔を思い切り殴り飛ばした。
 鼻っ面を思いっきり超常の力で殴られた黒犬は、そのまま路面に叩きつけられ、2、3回跳ねたあと、動かなくなる――かと思いきや、まるでダメージがないかのようにすぐさま態勢を立て直したのが、後方に見て取れた。
「やっぱり、ガラス越しだと気を使うわね」
 リースさんは――紅く目を輝かせ、念動力で黒犬を殴り飛ばしたハーフ・ヴァンパイアは、つまらなそうにそう言った。
『しかし、空音にも見えているということは、他の方々にも見えているということになりますね』
 鈴華の声はいつもの調子とは随分違ってひどく真剣だった。
 気合入ってるのかな、と密かに思う。
「一応警察には話は通ってるとは思うし最悪の場合は高速道路一時区間閉鎖なりなんなりするでしょうけどね。くそ、やっぱり繋がらなくなってるわね……」
 リースさんは再び対魔機関に繋ごうと電話を片手でいじくっていたが、どうやら圏外らしく断念して携帯を置いた。
 わたしも和真に繋がらないかと再びやってみたが見事に『圏外』の表示だった。
 アンテナが偶然立ってないだけ、とも考えられるが、昨今の日本、たいていの開けた場所は通信圏内だ。
 つまり、これは外部要因による電波妨害ということになる。
 そう、オカルト現象お気まりの、機械類がおかしくなるというやつである。
 事態がますます非現実じみてきたな、と嘆息した時、『ピリリリリ、ピリリリリ』という電子音が車内に鳴り響いた。
 その音を聞いて、あ、そういえば、と思い当たったわたしは、不審げな二人の視線を尻目に鈴華の入ったバックを探り、プラスチック製のケースを取り出す。
 蓋を開けて、中から着信を告げる衛星携帯を取り出すと、おもむろに通話ボタンを押した。衛星携帯は文字通り衛星を経由して通話する携帯電話のことである。
 そしてもちろん通常の携帯電話よりは繋がりやすい。
 この電話にかかってくる相手は今のところ二人しかいない。そしてこのタイミングで掛かるのはもちろん――
「もしもし」
『繋がったな。話の続きだが、霊圧値が一定になると犬の形をとって霊が実体化し、物理的呪いとして作用しはじめると手元の資料にはある』 
 和真はこちらが出たとわかるとすぐさま説明を始めた。
 少しは気遣いとか、こちらの安否の確認とかしたらどうだとも思ったが、こいつがこういう奴なのは分かりきったことではある。なので、わたしは別段文句を言わなかった。事務的なのはそんなに嫌いではないし。
「あ、ちょっと遅い。もう実体化されました」
『……いいか、そうなると加速度的に事態は進む。そこからは増殖の一途を辿るようだぞ』
 わたしの返事に、少し沈黙した後、和真はさらりとおそろしいこと言った。
「ぞうしょく、って増えるの増殖だよね」
『レギオン、という名前がついてるところから察してくれ。物理的に作用できるようになるとエネルギーを取り込みやすくなるとか書いてあるぞ、これには』
 レギオン。聖書でイエス・キリストに追い払われた悪霊の名前だ。レギオンの由来は――多勢、大勢。
「で、和真君、倒し方はどうなってるのかな? そこまで説明してくださるんならもちろんその資料とやらに書いてあるんだよね? 今欲しいのはそれだけなんだけど」
 わたしはわざと明るい調子で訊ねる。
『そんなものが書いてあるなら、俺が真っ先に伝えてるとは思わんか」
「すごく思う」
 わたしは率直に答えた。そんなことじゃないかなーと思ってはいたし。
『……ともかくだ、この電話もいつまで使えるかわからん。とはいっても現時点で他に役立てそうなことはない。鈴華さんあたりが専門だろうから、そっちでなんとかしてくれ。応援だけはしておく』
「……そりゃどうも。ところで毎回思うんだけど、その資料とかどうやって入手してるわけ?」
 とりあえず伝達事項は終了したと見たので、雑談に入ることにする。
『そんなもの教えられるか、と言いたい所だが、これは正規のルートのようなもんだ。東京支部からの経由だからな』
「節操のない情報ルートの提示ありがとう。ところで、神戸にいつごろ着くの?」
『乗る予定だった新幹線を乗り過ごしたからな。多分――ザ―』
「んや?」
 突然のノイズに慌てて電話から耳を離す。どうやらこれにも影響が出たらしい。
 窓の外を見ると、高速で疾走している犬にどうやら注目が集まっているようだ。
 追い越していく車の窓に驚愕や好奇の視線が見て取れる。
「というわけで、鈴華。なにか思いついたことがあったら言って」
『……先ほどから探っていますが、どうにも本体の位置が分かりません。だいたい私は攻撃は不得手です。せめてあらかじめ結界をはっておきませんと』
 夕方とはいえ交通量はそう少ない、というほどでもない。どうにも嫌な予感が頭をよぎる。
 レギオンの能力が増殖と言うのなら――
「くそ、しつこく喰らいついてくるわね。結構出してるのに」
 リースさんが未だ追走してくる黒犬を見ながら毒づく。
 確かに、さきほどから景色がぎゅんぎゅんと後方に流れていっている。
「まあいいわ、もうすぐ降り口――」
 と、リースさんが口にしたところで、優羅が突然叫んだ。
「リースさん、左、左のトラック!」
 即座に視線を左前方に移すと左前方のトラックが車線を踏み越えてこちらに接近してきていた。
 誤ってこちらに踏み込んできたとは到底思えない、思い切った挙動でこちらに突っ込んでくる!
「くそっ!」
 リースさんは慌ててハンドルを切る。が、ギリギリで避け損ね、車体の一部が接触する。
 衝撃が車内を襲った。わたしは咄嗟に鈴華を抱いて丸くなる。
 左前ドアに当てられ、スピンしそうだった車体を器用なハンドル捌きで建て直し、リースさんは再びアクセルを踏む。こちらと接触したトラックは、そのまま斜めに分離帯に突っ込んで停止したようだ。
「優羅、大丈夫?」
 助手席に座っていた優羅に声をかける。
「大丈夫ですけど、なんかドアから物凄い音がしました……」
 幸い、怪我は無い様だ。
『空音、お望みどおり増えましたよ』
 え、と思って後ろを見ると、乗っ取られた乗用車(いちばん始めのやつだ)がトラックの横を通り過ぎると、トラックから黒い犬がもう1頭、滲み出るように出現した。
「はは、ああやって増えるんだ」
 流石に全くシャレにならなくなってきたような気がする。
「それだけじゃないわ。鈴華、あなた気づかなかったの?」
 リースさんが戦慄すら滲ませた表情でそう言う。
『それなりの知能はあるようですね。気配を隠していました』
「……何の話?」
 おそるおそる聞くと、
『囲まれました』
「さっきのトラックみたいなのが回りにずらり、よ」
 言われて周りを見ると、あきらかに車間距離がおかしい車が前に1台。後ろに1台、左にも1台。
 そして、タイミングを計ったように、一斉にこちらに向けて距離を詰めて来た。
「シートベルトはしてるわね」
 リースさんは確認するようにポツリと呟くと、ハンドルを思いっきり切った。
 それらの車に体当たりをされる前に、勢いよく車線変更してリースさんは第一波を凌いだ。車内のわたしたちは急な挙動に身が冷えたけど。
「……なりふりかまっていられないようね」
 リースさんは険しい目つきでそう呟くと、わたしに向かってこんなことを言った。
「空音、運転を変わって」
 ……はい?
「そんな、無茶苦茶言わないでくださいよ! できるわけないじゃないですか!」
「高速道路なんて技術はこれっぽっちもいらないわよ?」
「今の状況は無茶苦茶いると思いますけど……それにATならともかくこの車マニュアルでしょう! そんなの無理に決まってます」
「うーん、そんなに難しくないんだけどな。困ったわね、そうするとどうしたものか……」
 難しいに決まってる、とわたしは思う。だいたい運転変わってこの人はどうする気なんだろう。
 その時、優羅がツンツンとリースさんの肩を叩いた。
 リースさんが顔を傾けて、なあに? と聞くと、優羅はおそるおそる、と言った調子でこんなことを言った。
「あの、私、マニュアル車なら運転できますけど」

……はい?

4話 ハイウェイの澱 -1-


彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。(マルコ5:5)


                        ◆

『いや、こちらとしてもこのような事態になるとは思わなかった』
 変わった電話の相手――三山と名乗った人物は、すまなそうに言った。
 先ほどの接触から遠慮がなくなったのか、こちらに完全に狙いを定めたのかは分からないが、追うもの、追われるもの、共に速度を加速度的に増して現在もレースは続いている。
 車の性能差もあってか、こちらに追いつくことはできないでいるようだけど。
「で、どうすればいいのかしら? 私はああいった実体のない類の相手は苦手だし、何より一般人を二名乗せてるわ。なるべく早急な対応を望みたいのだけど」
 わたしたちが真の意味で一般人と言えるかどうかはともかく、リースさんは苛立った様子で電話に向かって皮肉っぽく言う。
『資料によると、"ゲサラ・レギオン"の性質は、霊的エネルギーを喰らって自己の増殖、拡大を図るのが第一目的であり、全てだ。名前の通りに時間がたてばたつほどに増えて、被害が拡大する恐れがある。現在は物理的な影響力は無いにしても、このままでは実体化し、手のつけられなくなる恐れもある。幸い、君達に標的は絞られてるようなので――そのまま高速を降りて、こちらの指定する位置までおびき出してもらいたい』
 三山と名乗った電話の相手はそう説明した後、滋賀県郊外をの住所を述べた。
「ちょっと……レギオンってあのレギオン? じょ、冗談じゃないわよ、それに人の話聞いてた? 一般人がいるって言ってるでしょう。私一人ならともかく、そんな危険な真似ができるもんですか」
 リースさんはカーナビにすぐさまその場所を入力しつつ、次々と車を追い抜きながら、文句をつける。
 わたしもレギオンとはまた大物が出てきたな、密かに思っていた。
『なに、流石に聖書に登場するレギオンそのものではないのだがね。似ているのでその名前が冠されているだけだよ。……ふむ、一般人、一般人ね。リース=シューヒライデン=大宮君。君はハーフ・ヴァンパイア。従って霊圧はさほど高くは無い。
まあ高くないといっても生粋のヴァンパイアに比べての話だがね。しかし、君の話だと"ゲサラ・レギオン"は執拗に君に――正確には君の車に固執している。まあこちらとしては有り難いが――さて、乗っているのは本当に一般人なのかね』
 チッ、とリースさんは舌打ちをする。
 そしてちらり、とわたしの方に視線を向ける。あ、もしかして気を使ってくれたのかな。
『リース様、気を使って頂いて有難う御座います。しかし、事態が事態です。私のことはおかまいなく。私の登録番号は甲―ツ―4です。まだ有効ならばの話ですが』
 鈴華の声は電話越しには伝わらないので、リースさんは意外そうな表情をした後、変わりに鈴華が言った番号を相手に伝える。
 鈴華と和真の話によると、対魔機関は日本に生息する妖魔の管理機関も兼ねているらしく、たいてい人に混ざって暮らしていたり、各地に留まっている妖魅たちも昭和の終わり――高度成長期に現在の対魔機関の機構が完成する時にあたって、名簿化されたという話をちらりと聞いた。
 それを聞いた時のわたしの感想は、ああ、実に日本らしい管理体制だなというものだったが。
 むろん、登録を逃れたり、未登録のモノは存在するので、この体制も完全というわけではないらしい。
 多分、鈴華が未登録の付喪神だと思って、いろいろ後でややこしくなるのを防ぐために存在を向こうに伝えなかったのだろう。
『まさか、御嶽家の守護鏡……いや、現在の所有者は坂下空音となっているようですが』
 電話の向こうから驚きの声が上がる。
「あれ、わたし名義になってるんだ」
 わたしもそれは意外だったので思わず呟いた。
 御嶽家とはわたしの母方の生家である。
『多分、大婆様が気を回してくれたのでしょう。あの方もあなたには甘いですからね』
「うん、わたしってそんなに可愛いげのあるひ孫とは思わないんだけど。なんでだろ」
『……そういう所が気に入ってらっしゃるのだと思いますが』
 そういって鈴華は苦笑したようだ。
「ちょ、空音。御嶽ってあの御嶽家? あなたあの家の関係者だったの? こっちの世界じゃ大物じゃない!」
 リースさんが驚きの声を上げる。
 優羅も小声で先輩、有名人なんですね、などと瞳を輝かせている。
 うーん、やっぱり御嶽家の名前って大きいのか……個人的にはあんまり好きじゃないんだけど。
「え、でもわたし何にも権利とかないですし、末席も末席ですよ。名字も違いますし。鈴華も正式には、所有というよりは、多分一時預かりという形になってると思いますけど」
 わたしは慌てて否定する。末席なのは母親がお決まりの如く勘当されてるという実にありがちな理由だ。
 わたしは四歳の時に両親と死別しているので、最近まではあまり親交もなかった。
『私は、空音以外を主にする気など毛頭ありませんが。危なっかしくてしょうがありません』
 鈴華はそう言うが、逆に鈴華に気に入られてしまったから、ややこしいことになっているとも言えなくもない。
『なるほど、それなら狙われる理由としては十分だ。お二方とも、正式に対魔機関からの依頼とさせて頂きたい。そのまま"ゲサラ・レギオン"を所定の位置まで連れてきて頂きたい。報酬は規定+報償として如何だろうか』
『了解致しました。ふふ、機関からの依頼など昭和の終わり以来ですね』
 鈴華は懐かしむように、そう優雅に笑うと、依頼を受諾した。
「……鈴華はいいと言っているけど、わたしは条件があるわ。関係者としても、一般人が乗っているには変わりがないわ。それにもう一人は純粋な一般人よ。念のために父を寄越して」
『……それは出来ない。君のお父上は特・甲種だ。生半可な事態で出撃は許可できない』
「どうせもう少々派手にやってもなんとなかる位の手配は済んでるんでしょう? それとも後からこの事態を知って、父の逆鱗に触れても私は知らないわよ」
『……上の許可が必要だ。私の一存では判断しかねる』
 リースさんはこの分からず屋、という表情をして携帯電話を睨みつける。
 わたしは特・甲種ってなんだろ、と思ったが、察するにランクみたいなもんだろうと思って質問は控えた。
『ともかく、交通量の多い、都市部への侵入は避けてもらいたい。現在、対処人員を向かわせているが、そちらの速さが速さだ。ヘリも手配しているが、上手く合流できるとも限らん。現在はまださほどの被害は出ていないようだが、このまま経過するとこの通話にも障害が出る恐れが――』
「だからパパを出せって言ってるでしょう! パパなら近くに来れば私の位置が分かるわ。だいたいそっちが招いた事態でしょう。出来る限りの対処をするのが誠意というものじゃないの?」
 リースさんは相手によく聞かせるためか、ハンズフリーにしておいた携帯をわざわざ片手に持ち変えて、大声で怒鳴りつけた。
『空音、一応簡易結界は車全体に張り終えましたが……やらないよりマシ、と言った程度です。それに先ほどから後ろの霊圧が徐々にですが上がりつつあります。このままでは物理的影響力も出てくる可能性が。そうなると正直なところ、私では手に余ります』
 ありがと、とわたしは鈴華に返して、後ろを伺う。やはり不気味なほどに大人しい。車間距離も一定を保ったままのようだ。
「先輩、なんか大変なことになってますね……私たちなんか蚊帳の外みたいですけど」
 優羅がわたしに小声で話し掛けてきた。わたしも蚊帳の外、というのには同意するけど、毎度のことながらこの娘も肝が据わっている。
 喧喧諤々と言い合いをしているリースさんをちらりと見ながら、わたしは携帯電話を取り出す。
 後ろの車を観察しつつ、アドレスを呼び出して掛ける。
 ツーコールで相手が出た。
「あ、もしもし和真?」
『なんだ、何か用か』
 電話の向こうからはジリリリリという電車の発車ベルらしき音が聞こえる。
「何、駅?」
『ああ、今から新幹線に乗るところだ。大した用がないなら切るぞ』
「いや、和真、前に対魔機関にコネがあるとか言ってなかったっけ。よければエルクさんの出撃っていうのかな、許可を取って欲しいんだけど」
『……ちょっと待て坂下。何があったか一から説明しろ』
 あ、やっぱり説明しないと駄目ですか。

                        ◆

『……おかげで新幹線に乗り損ねたぞ』
 嫌味を言われた。今回はわたしのせいじゃないと思うんだけどなあ。
『いいか、さっき軽く調べた程度だが、十分に気をつけろ。お前は特にまずい。鈴華さんに護ってもらえよ。声をねじ込まれるぞ』
「あ、うん、気をつける」
 ……もうねじ込まれた後なんだけどね。
『それから、話は一応通しておいたので、追って許可が下りるだろう』
「お、早いね」
『何、電話一本だ。ああ、料金は今回は向こうからふんだくれそうなので別にいいぞ』
「それはどうも……」
 わたしが少し呆れていると、さらに和真は畳み掛けるように
『いいか、今回の奴はとにかく増える前に――』
 ――ブツ。切れた。
 高速だから電波の入りが悪いのは仕方ないかな、と思って掛けなおそうとした時、車外で物凄い音がした。
 グシャ、とかいう音の後にパリンとガラスが割れるような音が重なる。
 見ると、一台のワゴン車がハンドルを切り損ねたのか、高速の壁に派手に激突したようだ。一度激突した後、跳ね変えったようで見事に車体がひっくり返っている。
「まずい」
『まずいですね』
 リースさんと鈴華が深刻そうな面持ちでそう述べる。
「えっと、何がまずいんですか?」
 優羅が小首を傾げながら聞く。
「間の悪いことに、餌になるくらいに霊感の強い人がいたのよ」
『今ので霊圧が増しました……本格的に来ます』
 その時、再びリースさんの携帯が鳴る。リースさんの携帯も切れていたらしい。
「はい、……電波が悪いわね。よく聞こえない……電波障害? ……ぬ? 何ですって……? イヌ……狗?」
 そこで通話が途切れたらしく、リースさんは顔をしかめながら電話を置く。
「あのう……犬ってあれのことなんじゃないでしょうか」
 優羅がおそるおそると言った感じで車の斜め後ろを指差す。
 そこには高速で走る車に追いすがるように、頭だけが異様に大きい、一頭の黒い狗が居た。