政治家としての大局観・歴史観

 「読売」はウクライナ戦争について識者に意見を聞いているのだが、今日(2024年4月17日付)載っていた横手慎二のインタビューが面白かった。

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 横手の本については以前感想を書いたことがある。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 横手のインタビューは、プーチンと、エリツィンスターリンの思想的・政治的な視野の広さ、射程の大きさを比較するものだ。

 その視野の広さ(狭さ)によって、政治的手法の違いが生まれていることを簡潔に解き明かしている。

 

 このインタビューは言い回しの「面白さ」がある。

 たとえばこうだ。

旧ソ連は植民地帝国だった。…旧ソ連の崩壊は、戦争をしなかったという意味で上手に壊れた。

 本質を短く言い表すという鋭さが生み出す表現の「面白さ」だ。

 その上で。

 プーチンエリツィンスターリンの比較をする。

 エリツィンとの比較はこんな感じ。

99年まで在職したエリツィン・ロシア大統領は、クリミアをロシアに取り戻したかっただろうが、我慢した。ウクライナに「返せ」とは言わなかった。「国境に手をつけないようにしよう。それしかロシアが生きていく道はない」と考える程度に、政治家として成熟していた。

 巨大な植民地帝国が崩壊しても、国境問題は残り、それは紛争の火種となるはずだが、ヨーロッパの一員として生きていこうという視野があったエリツィンは、そこを問題にすることを我慢した。

 エリツィンは1991年12月、つまりソ連が崩壊した時にNATO加盟を要請する発言をしている(NATO側は「申請しているとは認識していない」と反応した)。97年7月のパリ首脳会議では、NATO・ロシア基本文書を調印し「お互いに敵とはみなさない」ことを確認し、NATOとロシアの「常設合同理事会」をも設立している。

 97年の基本文書の合意の後にも、ロシアは確かに東欧諸国のNATO拡大には反対の態度を取ったのだが、ポーランドハンガリーチェコなどに事実上拡大していくのにも抑制的な態度を貫いていた。

 プーチンもこの路線を継いだかに見えた。

 2002年にはプーチンNATO特別首脳会議に招かれ、「NATO・ロシア理事会」が設立されている。*1

 しかし、東欧へのミサイル防衛システム配備や2004年のさらなるNATOの東方拡大を契機に、NATOとの関係は悪化していく。

 プーチンNATOとの対立・敵対に舵を切っていくのである。軍事同盟という思想そのものに立脚するようになってしまう。

 こうした路線転換を、横手はプーチンの政治家としての射程の大きさ(小ささ)から解明する。

 プーチン氏はクリミアを取るような局地的な作戦は得意だ。また、いかにも頭がよさそうにしゃべる。しかし、大局観がないのは明らかだ。

 それがはっきり表れたのが北大西洋条約機構NATO)拡大への対応だ。プーチン氏は、NATOの東方拡大がロシアを脅かしていると主張した。

 プーチン氏は、ロシアが東欧諸国などに与える脅威感をほとんど理解していなかった。本来、それを踏まえてどの辺で妥協ができるかを考えるのが政治家の仕事だったのに、しなかった。

 そして、思想家としてのプーチンスターリンの対比をする。

プーチンは〕大統領になって(20世紀前半の民族主義者)イワン・イリインやドストエフスキーソルジェニーツィンといった、ユーラシア主義的な傾向〔欧州の一員という立場と対比し、ロシアの独自性を強調する立場〕を持つ思想家の本を読んでいるが、付け焼き刃だ。

外交史家、ジェフリー・ロバーツ氏がスターリンの蔵書の書き込みを研究して明らかにしたように、スターリンはものすごい勉強家で大知識人だった。第2次世界大戦当時、スターリンが世界情勢について考えたスケールは、ルーズベルト米大統領チャーチル英首相と比べて全く遜色ないレベルだった。

 横手は、かつて出した新書では、スターリンの「知性」の特徴を次のように規定している。

この指示は、スターリンの蔵書がきわめて実務的性格を持っていたことを示している。また同時に、彼の関心が非常に広かったことを示している。明らかに彼は、国家統治に関わるあらゆる分野に通じたいと考えていた。さらに言えば、高等教育を受けていなかった彼は、まさに独学で、役立つと思われる知識を貪欲に吸収していたのである。(横手『スターリン中公新書p.146)

スターリンはどう見ても権力者になる以前の時期から、人文・社会科学の広範な領域での当時の専門的知識を求めており、高度な書物を読むだけの知的能力を発揮していたからである。ただ、彼の場合にはあくまで実践的姿勢が優勢で、抽象的な論理に終始する理論的著作を読む知的訓練(高等教育)を受けていなかったというのが実情に近かったと思われる。彼が原理的演繹的に考えることを得意としたトロツキーブハーリンに知的劣等感を抱いていたすれば、おそらくこの程度のことであった。(前掲p.147)

 レーニンから続く西欧知識人的な伝統=抽象的概念を操る思考訓練は受けていなかったものの、実務・実際的視点から知識を貪欲に吸収し、それが彼の政治思想のバックボーンとなり、欧米の知的指導者に伍する力(大局観・歴史観)をもつに至ったという分析である。

 

 聞き手の森千春は、このインタビューを受け、エリツィンは局地作戦に長けているという実務的成功が仇となったという分析をしている。

 小さな実務的な成功の体験に縛られたプーチンは、それに執着するようになる。その小さな成功への執着を起点にして、大きな戦略を組み立てようとするのだが、その戦略の射程や視野が狭ければ、歴史観や大局観による修正が効かずに大失敗をしてしまうことになる。

 

 先日、岸田文雄の米議会での演説を(英語の勉強を兼ねて)読み、聞いた。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/na/na1/us/pageit_000001_00506.html

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 導入の柔らかさ・個人的なエピソードから日米間の戦略的な問題に迫っていくという構成はスピーチとしては聞きやすいものだった(「フリントストーン」って「ギャートルズ」のヒントになる先行作品だったんだと改めて知ったよ…)。

 ただ、そこで示された内容に大局観・歴史観はあまり感じなかった。新聞記事レベルのことを装飾しているだけのように思われた。

 そして今晩、共産党志位和夫の外交での講演がある。

 政治主張としての立場ではなく、岸田と比べて大局観・歴史観を感じられるものになるかどうか、楽しみにしている。

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*1:これらは森原公敏「ウクライナ侵略と国際秩序の行方」参考にした。「前衛」2022年5月号所収。

伊藤整「組織と人間」

 「組織のようなものにしばられたくない」と若い人たちがどんどん表明しだしたのは、大学での学生運動が下火になりつつあった1970年代後半以降だろう。1980年代は「政治の季節」が去って、個人主義・消費社会へ…と総括されることがあり、そういう単純な総括自体には違和感はあるけども、組織や社会との対立という形で個人の尊厳を重んじる感覚が社会や新しい世代に本格的に根づき始めたとは言えるだろう。

 

「今日ではほとんど常識」

 伊藤整が「組織と人間——人間の自由について」と題して講演し、組織と人間を対立の構図のうちにとらえて、人間=個人の側からの絶望的とも思える抗議をしたのが本評論である。『小説の認識』の中に収められている。

 1953年の講演だから、問題意識としてはかなり早くに提起されたものだ。

 曾根博義の解説でも

チャタレイ裁判と戦後の資本主義ジャーナリズムのなかでの体験を踏まえ、スターリン批判をもわずかに先取りして、あらゆる組織と政治権力の絶対性と相対性を説いた論文として、当時はきわめて強い衝撃力を持った(p.291)

とする。しかし、続けて

が、その後の社会学政治学の発展、構造主義的方法の普及などにより、今日ではほとんど常識化され、学問的意義を失っている論文だといってもよい。(同)

とまで言われている。「ダメな言説だった」というのではなく、もう今日ではすっかり当たり前の認識ですよね、というのが解説者の言いたいところだ。

 宮本顕治がこれを批判したことも(一部界隈では)知られている。

伊藤整が、「組織と人間」という設定で、組織にある人間の宿命的非人間性という主題をくりかえし書いた。私は、これを信じたことはない。この組織と人間の統一的発展の可能性にこそ、組織を武器にする新しい人間、新しい歴史の前進の保障があると信じている(『宮本顕治文芸評論選集 第四巻』あとがき、新日本出版社、1969年)

 

絶望的なまでの組織論

 伊藤整は何を語ったのか、まず「組織と人間」を読んでみようではないか。岩波文庫でわずか10ページ余ほどの小さな評論である。

 伊藤は、「コンミュニスト」たちが自由のために闘いながら、権力を握ると、いや権力を握る以前からその組織においてどういう実態だったかを次のように述べる。

その組織が国家権力を握らないうちでも、その革命的エネルギイが国際的に組織され、その運動の効果が国際的な力の動きに集中するように一々指令されるようになるに従って、そのエネルギイは組織としての独自の生命を個人の生命以上のものとして持ちはじめる。昨日までそういう組織の重いポストに居たものが、今日は裏切りものとして徹底的に論難され、スパイと罵られ、辱められて姿を没する、という例を私たちは近年幾つも見て来た(p.276)

 それはそいつが問題だったからだろう? 情勢の困難さに負けてダメになっちゃったんだyo! という言い分を、伊藤は退ける。

それは組織の生命の進展、組織の発展の必然が、ある人間を切り離されなければならなくなった事である。現代の人間は自由な生命と判断と意見とを持つ権利を失い、組織に従属する傾向を強く持っている。そして組織のみが、必要な人間を取り入れ、不要な人間を排除しながら、真の生命としてこの世に生きているように見える。(同)

 個人ではなく組織こそが本当に存在している生命体のように見える、と伊藤はいう。それは太古の昔から、人間は社会的存在であり、組織を作って自然と向かい合って来たのだから、そのように作られているのだと説く。

人間として社会を持って以来、我々はちょうど蟻のように、組織の奴隷として絶えず働くことに心の平安を味わっていたのである。(p.277)

 「俺たちは自由だ!」などと叫べるのは、ある組織体が崩壊して、次の組織体ができるまでのほんの束の間の解放感にすぎない、とする。

 それは資本主義企業はいうにおよばず、批判的精神が必要なジャーナリズムだって同じだし、革命政党だって同じだろ? と伊藤は辛辣に言う。

それは革命党員が、党の組織の生命に食われる人間の生命について、批判を向けることができないと同様である。(p.279)

 組織から不当に除名され、処分される個々の人間。そのような排除といじめを行う組織体の在りように批判を向けることなどできないだろうと伊藤は言いたいのである。これを伊藤が書いている時期は日本共産党でいえば「党史上、最大の誤り」*1となった、組織の多数派が少数派を除名・排除し、徹底して痛めつける「50年問題」の真っ最中であった。その現実を目の当たりにしながら、伊藤はこれを書いている。

どんなに多く、私たちは、「僕個人としてはそう思わないが」というこの種の組織の奴隷と化してしまった人々の発言を聞くことだろう。そしてまた、私たちは、どんなにしばしば、知人のコンミュニストたちの顔に、「僕個人としては言いたいことはあるが、しかし党というものに従わねばならないから」といった苦しい表情を見ることであろう。(同前)

 なんの疑問も感ぜず処分の「正当性」を便々と論じたり、あたかも「法悦」のごとくの表情をして少数派をいじめるのではなく、「苦しい表情」をみせて絞り出すような弁疏を紡ぐところに、1950年代の当該革命政党の水準と苦悶をみることができる。

 伊藤は、これを共産党固有の問題とせずに、組織一般の持つ問題へと普遍化する。

私の印象でいえば、その根本は、人間にとっての自由や真実が存在せずに、ただ組織という見えない怪物が、人間を奴隷としてその中に組み入れ、その組織に役立つものを不当に拡大し、それに役立たないものをはき出し、ふみつぶしながら、ますます強力に発育して行っているということである。(p.280)

 独立していたときには「自由」だった個人は、なんらかの事情で組織に組み込まれる。その途端に、自由だったはずの個人が組織の傀儡のようになっていく様子を伊藤は次のように描写する。

 これは、政党のような厳格な組織体に限らない。例えば文壇・論壇・ジャーナリズムでデビューしてスターになった文士や作家が、その世界での自分の役割を忖度してポジショントークをするようになってしまうという意味でも伊藤は語っている。ある世界での地位を得ることは自己確立ではなく、その世界=組織の歯車になってしまうことで、自己を喪失するのだと。

このような社会の中で、顕著な存在になり、その存在に商業的政治的価値が生まれると、その人間は、何等かの組織の上層部に、即ち大きな歯車としてはめ込まれる。その時、その人間は以前にオブスキュアな存在であった時の自由らしいものを急速に失って行く。彼の言葉はアイマイになり、彼の態度や表情は決定なしのものになり、その次には自分の言葉を失ってその組織の生命の命ずるとおりの言葉を機械的に繰り返すアヤツリ人形になる。(p.280-281)

彼は党の代言人として、絶えず政治公式への合致を顧慮することによって、人間的真実よりも、組織の発展のための発言を強いられる。この場合もまた自己確立は自己喪失である。(p.281)

 組織人としてこの評論を見れば、伊藤のこの評論は、これでもかというほどに組織への絶望を煽っている。人間は社会的動物として組織を使うが、組織からはどうやっても自由ではいられないのだ、と。イライラするだろう。

 

宮本顕治が原則的解決方向を示した意義

 その時に宮本顕治は、「組織と人間」というものの矛盾の原則的な解決方向を示す。すなわち、反組織でもなく、対立的な個人主義の称揚でもなく、組織と個人が統一して発展できるという方向である。50年問題で徹底して排除された少数派の一人であったという、「獄中非転向」と並ぶ、これ以上ないほどの重みから、「組織と人間の統一的発展の可能性」を示すのである。なんといっても彼は、(その後の不十分さや問題点はあるにせよ)その組織の間違いを最終的には正して、組織を大きく発展させる道を開いた一人になったのだから、原則を示しただけとはいえ、びっくりするほどの説得力がある。

 伊藤整が述べた組織と人間は、組織をめぐる一つの抗弁し難い現実である。

 だからこそ、組織というものに絶望することになりやすい。

 絶望し、組織への徹底した対立というテーゼに立てこもってしまいがちなところへ、両者は統一できるという原則的な方向を(自身の体験という説得力をもって)示した意義は大きいだろう。

 

具体的な解決のための技術・制度・努力なしには伊藤に勝てない

 しかしである。

 そのような原則を一般的に示したからと言って、伊藤がかけた呪いから、近代人であるぼくらが簡単に救われるわけではない。奥深い山中で迷った人が、「南に行けば出られるようだ。出た人がいる」という原則的方向を知ることは一つの希望ではあるが、問題は、狼が出たり見えない深い谷や崖があったりする危険極まる奥深い山中でどのようにしたら生き延びて、無事に出られるかという、具体的な技術と知識の話がなければならないということなのだ。

 つまり、実際に組織の飲み込まれず、組織を生かしながら個の尊厳を確立すること即ち「組織と人間の統一的発展」は、並大抵なことではない。ぼさっとしていれば、あっという間に組織に食い殺されてしまう。

 ハラスメントを受けたり、処分され懲罰され追放されたり、心身を病んだり、そうでなくても黙って従う、もしくは自己喪失をして組織のいいなりになっているだけなのにそれを自己確立だと信じ込んだり…。

 宮本顕治が言った一般原則をイマドキただ繰り返したり、「組織に目的の正しさだけがあれば大丈夫だよ♫」などという毛沢東スターリンでも言いそうなドグマを能天気に喋り散らかしたりするだけの「組織論」はなんの役にも立たない。有害ですらある。

 問題は具体的な技術である。

 例えば、先日取り上げた「心理的安全性」はその一つの技術的達成だろう。

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 どうすれば、組織として自由にリスクなくモノがいえて、しかも高い達成ができるのか、という試行錯誤の跡である。(石井の方法をぼくが正解と思っているわけではなく、一つの努力だという意味だ。)

 

 また、ハラスメントを根絶するための今日的な努力。

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 それだけではない。

 例えば、一つの職場や一つの組織基礎単位だけでなく、構成員が意見を出して、それが組織体全体の中へと民主主義的に広がるプロセスが、新しい時代にふさわしく開拓されねばならない問題など、組織と人間をめぐる問題、もっといえば、個人が組織に食われてしまったり、「組織の奴隷」にならないような問題は、課題として山のようにある。

 PTAで会長や役員としてではなく、ヒラ会員として変えることができるかどうかという問題は似た問題だと言える。

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 伊藤の評論は、実は組織への絶望とは言い切れない。

 なぜなら、評論の最後を次のように締めくくっているからである。

私は人間が自由であるという大まかな前提を疑うことから出発したい。そして真に生命をもっているのは、人間ではなく組織であり、我々はその奴隷ではないかという怖れを意識することから自由そのものを考えることを始めたい。〔…中略…〕我々がいかに自由でないかを知ること知らせること自体が、あるいは我々を真の自由に一歩でも半歩でも近づけるかも知れない。(p.284)

 伊藤は絶望を押し付けて終わりではなく、そこから考え始めるようにしたいと言っているのだ。

 現実はかなりシビアだという認識を持てということなのだ。

 組織の生命力の過剰なまでの強さをまず認識しろ、その上で、そこから逃れるなり、それを制御するなり、慎重に、そして精密に考えろと言っているのである。

 原発をどうするにせよ、それをサモワールのようなお気楽なものだと考えるんじゃない、人間には扱い難いほどの危険で未完成の技術なのだというわきまえがあって、どうするかとという付き合い方が生まれるのでないか、というのに似ている。

 「心理的安全性」や「ハラスメント根絶」「民主主義的組織討論」などのような具体的な技術・手続きが綿密に用意されて初めて、「組織と人間」の「統一的発展」にようやく一歩近づけるのである。

 

 具体的な技術・制度・努力を積み重ねることなしに伊藤の問題提起を乗り越えることはできない

 「自己改革」だの「成長」だのをなんの具体化もなくお題目のように唱えているだけなら、その組織は組織体が人間を食い殺す化け物のままであるか、さもなくば見捨てられた当該組織体が遠からず滅びるしかないのである。

 「南へ行けば出られそうだ」と最初にリーダーが言った一般的な原則的方向を、その後もずーっと繰り返しているだけで、狼を避け、危険な崖や谷を見つけて超えていく技術や努力を身につけて、具体的なルートを確保しなければ、その部隊は絶対的に遭難する。

*1:共産党中央委員会『日本共産党の百年』、新日本出版社、2023年、p.114。

志村貴子『おとなになっても』1-10巻

 志村貴子『おとなになっても』が完結した。

 休職に追い込まれて家にいる間よく読んでいた。

 たまたま飲みに入ったお店で知り合った平山朱里と大久保綾乃は一夜で恋に落ちてしまうが、綾乃には夫がいた。しかし、綾乃と朱里は惹かれ合い、結局離婚をして二人で同棲を始めることになる。

 いや別に不倫をして離婚がしたいわけでもない。同性に好きな人がいるわけでもない。

 何がそんなに面白くて読んでいたのだろうか。

 惹かれたシーンに付箋を貼ってみる。

 

綾乃の大胆かつ勇敢な行動

 一つは、おとなしく見えるけども、いざというときは大胆で勇敢な行動に出る綾乃だ。人生の決断というときに、どこに潜んでいたのかと思うような意思の力を発揮する。『放浪息子』の似鳥修一のようだ。

 離婚をする、という決断をすることは相当エネルギーが要ることに違いない。夫である渉のことが死ぬほどキラいというわけでもないのであれば、自分の本当の感情には早々に封印して、社会生活としての結婚・実家付き合いを惰性であっても維持した方がはるかにラクではないか。

 確かに綾乃は、自分の気持ちをいったん姑の提案を受け入れて、夫の実家で一緒に暮らす。

 しかし、綾乃は「ここから離れたい」という気持ちが自分の本当の気持ちだと強く認める。朱里が好きだから離れたい、というわけではない。なぜなら、その前に「好きだけどもう会わない」と綾乃は朱里に言われている。

 そこで綾乃は涙を流す。

 綾乃が小学校の先生であり、先生の涙を見つけてしまった生徒を不思議な気持ちにさせる。

先生って泣くんだ

先生なのに泣くんだ

と。

 この涙にぼくは付箋を貼ってしまった。

 大人でも涙を流すことはあまりない。しかも、教職にある者が子どもの前で流すことは相当に珍しいことだろう。公的な顔をしているからだ。その公的な顔が外れた、だけでなく、心情の露頭がそこに現れたからである。滅多にないことであり、大変なものを見てしまったというような、しかしなんだかそれはとても美しいもののように見えた。

志村貴子『おとなになっても』4 講談社、p.29

 「好きだけどもう会わない」と朱里に言われたこと。まずそれを綾乃は見つめたのだ。

 そこで綾乃の心情にどのようなことが起きたのか。

 整理ができてはいないだろうが、悲しいことが起きた。自分の人生が何か自分の望んだことではない土台の上で動いている、と綾乃は思ったに違いない。

 その涙と後、夫とのやりとりがあり、自分の心情にいよいよ気づく。

たぶん ここから 離れたいと思っていること

私はどうして

あのとき なかったことに してしまったのだろう

 人生のいろんな局面で、行動せずに抑え込んでしまった決断を悔いる。

自分の気持ちに向き合うべきだった

 そして離婚という重大事を決意し、行動に邁進する。

 姑から、夫から、それほど大きな抵抗ではないが、それでも面倒なしがらみがあって、綾乃はそれを一つひとつ振りほどいていく。

 特に。保護者の前で、生徒の前で、自分の不倫の話をしてしまうというのがすごい。事の是非はおいといて、そんなエネルギーを発揮できるというのが。

 綾乃の行動がぼくの胸を打つのは、自分の気持ちに向き合って、人生の重大事のための行動を決断したからだ。それはなんともエネルギーが要ることだが、そこに向かっていった綾乃を称賛したい気持ちがぼくにあるからだろう。

 

落ち込む綾乃と気を取り直す綾乃

 子どもたちの前で不倫を謝罪をすることになった綾乃は落ち込むのだが、しかしそんな落ち込むことがあった後でも、それほど落ち込んでない。

はあ——

だめな先生だ…

だけど

私には

日曜日がある

 日曜日に、朱里とデートして一緒に住む部屋を探すのである。

 このシーンは、ぼくに勇気をくれた。

 落ち込むことがある。客観的に見ればたいそう落ち込むべきことのはずだが、綾乃は「だめな先生だ…」と受け止めつつも、必要以上に深刻に受け止めていないようにも思える。そして、自分にとってそのことと全然関係のない心弾む楽しみにあっさり切り替える。

 あっ、それでいいんだ、とぼくには思えた。

 人生でそんなひどい、嫌な場面に出会ったことはないよ、と思える瞬間があっても、そんなふうに切り替えていいのだ。

志村貴子における教師

 綾乃は、生徒の相談に乗っている。

 その姿を見て、同僚から

大久保せんせーってさぁ

いい先生よね

としみじみ言われる。

 謙遜ではなく、綾乃はそんなことは全くない、と表面でも、心の中でも強く否定する。自分がいかに不埒で、不倫をして、離婚寸前の人間であるかと思うのだ。

 だけど。

 それって、教師の仕事とは関係なくない?

 作者・志村貴子にとって、こうした教師像がしばしば登場する。

 『娘の家出』に登場する教師・久住先生も、アイドルの熱烈なファンで、そのことを引きこもりになっている自分の生徒に電話で、話すのは禁じ手だと思いながらついつい話してしまい、そこからその生徒との交流が始まり、ついには内緒でコンサートに行くまでになってしまう。

 法的・技術的にどういう整理をされているのか知らないけど、教育という営為において、教師と生徒、お互いが真情を交わすような瞬間が確かにあって、そのときに友だちのような同志のような感覚が生まれるとすれば、そういうプロセスを抜きにして、生徒の心なんて動かせなくない? と思うのは素人考えだろうか。

 綾乃が自分も悩みながら、そして子どもたちのトラブルを自分に引きつけながらコトに当たっている姿に、同僚がしみじみと感じいるのは、なるほどいい先生だと思わせる説得力がある。

 

美しい和解

 綾乃の担任の生徒3人。

 ゆか・まな・イッカの3人の小学生。

 トラブルを抱えて、3人の仲はこじれてしまう。

 それを謝るシーンが8巻にある。

 まなが、学校に出てこなくなったイッカの家を訪れ、誤解を解き合う。

 そして、イッカは自分がいたらなかったことを告白する。

 そのときイッカはそう告白しながら「ほんとにごめんなさい…」と静かに涙を流し、まなも涙を流す。

 ぼくは、このページの涙を流す二人がとても美しいと思って何度も見てしまう。

志村『おとなになっても』8、講談社、p.86

 もちろんイッカに謝られたまなはドヤ顔などしていない。同じように涙を流している。自分も傷ついたが、イッカも傷ついていたことが痛いほどにわかるからだ。

 トラブルがあり、お互いに傷ついて、仲違いしている世の中のすべての人たちがこんなふうに誤解を解きあえたらどんなにいいだろうと思ってしまう。

 

 イッカがまなが誰が好きかを教えてもらった後に、電話をする表情がまたかわいいし、イッカが発揮する友情もまた美しい。この二人の関係に美しさを見る。

 

ベストなバランスだったクラスがなくなること

 引きこもりになった恵利がそのきっかけを話すシーンがある。

私たちのグループだけじゃなくて

なんというかこう…

どのグループも

このクラスのバランスは最高だと思ってる感じでした

そんなことなかったかもしれないけど

でも私はそう思っていて

クラス替えですべてが変わった

もうちがうクラス

ここではじめて緊張の糸が切れたっぽい

急に頑張れなくなっちゃって

起き上がれない

学校に行きたくない

 そんなことがあるだろうか、とは思うのだが、高1の娘はそっくりのことを言っている。今のクラスのバランスが最高だというのだ。今は春休みだが、このクラスはもうなくなってしまうと悲しみ、新学期のクラスに不安を抱いている。

 そんな精一杯の気持ちで学校に行ってるんだ、と親としてちょっとびっくりする。そうだとすれば、やはり恵利と同じように、クラス次第では緊張の糸が切れて学校に行けなくなるってことも全然不思議じゃないだろうなと感じる。

 いじめがあったとか、人間関係がきついとか、勉強についていけないとか、何か悩みがあるとか、そんな具体的な理由がなくても、学校には行けなくなるのである。

学校に行けば

友達がいるのに

だけどもうあのクラスじゃない

 そして、恵利は中学の時に、学校に来なくなってしまった男の同級生のことをふと思い出す。別にそれでどうということもないのだが。

 そして学校を辞めてしまう。

 親友たちは残念がって会おう会おうと言ってくれるが、恵利はしんどくなる。

でも

変わっていくみんなと

なにも変わらない自分

という現実がしんどくなって

実際 私の時間は止まったままなので…

 何かをする気力や体力が湧いてこないまま、置いていかれ、時間が止まったままになるって、つらいなあと思う。

 今それを自分の子どもに想像するけども、別に自分の娘だけじゃないだろう。自分自身もそういうことがあるかもしれないと考える。

 

保護者から告白される綾乃

 新任校での保護者面談で、綾乃は保護者(母親)から、面談中に告白される。

 ここに付箋が貼ってある。

 なんでここに付箋? と自分でも思うけど、なかなか言葉にしにくい。

 まず、告白する母親の言葉遣いがリアルな気がしたのだ。彼女はガンを告知されたと述べる。自分の人生の来し方行く末を思ったとき、いつぞやの綾乃と同じように、自分の気持ちに向き合ってしまったのだろう。そこで告白するという行為が賢明かどうはさておくとしても、そうせざるを得なかった切迫がこのセリフにはあった。

 迫力があるというのではなく、うつむきながら、むしろ訥々と言葉を紡いでいく。

「あの うち 離婚してるじゃないですか あ してるんですよ シンママっていうか今は実家で親頼りながらなんとかやってんですけど」

「はい」

「あたし 女の人好きなんですよ それで 先生のこと好きなんですよね たぶん」

「あ ありがとうございます…」

 対する綾乃もそれを無下に断るでもなく、喜ぶでもなく、固まるのでもなく、しかし明らかに戸惑いながらもゆるやかに受け止めていく。その綾乃の受け止めの柔らかさが、なんともまたリアルなのである。

志村前掲9、p.21

 保護者面談で告白される同性間の恋愛感情って…こんなあり得ないくらい不適切な場で表出される感情ほど生々しくリアルなものがあるだろうか? って思っちゃったんだよね。たぶん。恋愛シーンとしても好き。だから何回も見返してしまう。

 

 

 

 

 

 

「不適切にもほどがある!」を観ての感想

 ドラマ「不適切にもほどがある!」を娘が観ていて、家族で観るともなしに観ていた(最近このパターン多し。「光る君へ」もそうだ)。

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 昭和末期の体育教師・小川が令和にタイムスリップしてくるという設定のドラマで、初回を観た時、ぼくはバスでタバコを吸ってしまう小川にちょっと笑ってしまった。

 しかし、前半はとかく「令和のポリコレの息苦しさ」という味付けで語られ、ドラマへの批判も少なくなかった。バックラッシュでは、という人もいた。

 だが、最終回。令和の歴史的進歩に心身を浸らせ続けてきた小川が昭和に戻ってきたとき、小川が身体感覚として昭和の生き方に強い違和感を覚え、その昭和の抑圧性に反発し、厳しく批判する様は、観ていて爽快だった。

 一種の快楽でさえあった。快哉を叫んだ、と言ってよい。

 つまり、ぼくは小川よろしく、令和までの価値観に心身を浸らせ切っており、小川と同じような気持ちで、昭和的なものに対して叫びたくなったのである。(ドラマのわりと初めの頃に吉田羊演じる社会学者の向坂が昭和に来て昭和を批判したときは全くそれを感じなかった。外側から批判している感覚が強かったのだ。もともと昭和にいた阿部サダヲ演じる小川だったから説得力があったのだ。*1

 心身が自然な気持ちとして、昭和的な抑圧を拒否していたことを、ドラマを観ながら改めて確認したと言える。それこそが基本なのだ。

 この歴史的な到達を基本とした上で、令和の現在をみたとき、必要なことは自己の正義や正しさによって、対立者を撲滅したり、消去したりすることではなく、あくまで相手と対話をし(場合によっては対話をせずに)、自分と立場の違う相手と共存をしようということ、すなわち「寛容であれ」ということをメッセージにしたのだろうと感じた。

 

 共存とか、寛容とか、というのは、手をつないでニコニコという意味ではない。

 おそらく相手は不快な存在のままだ。不快であり、気持ちがトゲトゲしくなったままであるが、できれば対話して少しはわかりつつ、あるいは対話すらできずに逃避しつつ、同時代を生きるしかないのである。

 最終回で「寛容になりましょう〜♫」と踊り狂うのはそういうことだと思った。

 それは最近スペースで議論したことにも重なるな、と思った次第。

 

 

 

*1:まあ、ジェンダーが入っているかもしれんけど。

石井遼介『心理的安全性のつくりかた』

 リモート読書会の次のテキスト。ぼくはファシリテーターである。

 ハラスメントは、それをやってしまったら人権侵害になってしまう。じゃあハラスメントがなければいいのかというと(もちろんそれはそれで大事だが)、仮に「ハラスメントがない」とされる職場であったとしても、自由にモノが言えない・言いにくい職場というのがある。そのような職場はどうしたら作れるだろうか…という問題意識がぼくにはあった。

 

「生産的でよい仕事をすることに力を注げる」という要素

 もともと「心理的安全性」概念を提唱したエイミー・C・エドモンドソンは本書によれば

チームの心理的安全性とは、チームの中で対人関係におけるリスクをとっても大丈夫だ、というチームメンバーに共有される信念のこと(本書p.22)

だという。しかし、本書の著者である石井はこれを次のように定義し直す。

一言で言うと「メンバー同士が健全に意見を戦わせ、生産的でよい仕事をすることに力を注げるチーム・職場」のことです。(同p.22-23、強調は引用者)

 ここでエドモンドソンとの違いは「生産的でよい仕事をすることに力を注げる」という要素が入り込んでいることに注意する必要がある。

 ネット上で共産党内でのハラスメント問題が話題になったとき、「心理的安全性」について話題にする人がいた。それに対して、「ハラスメントと心理的安全性は違う」という意見、さらには「心理的安全性は資本の側が用意した概念ではないのか(だから左翼が迂闊に使うべきではない)」という意見があった。この二つはある意味でどちらも正しいと思う。

 「ハラスメントと心理的安全性は違う」は冒頭にぼくが述べたような意味で。

 「心理的安全性は資本の側が用意した概念ではないのか(だから左翼が迂闊に使うべきではない)」については、本書が日本能率協会マネジメントセンター出版であることからも推察されるし、本書の著者・石井が「生産的でよい仕事をすることに力を注げる」を出口にしていることからも、ある意味でうなずける。

 ただ、仮に左翼が政権を握ったり、社会を運営する中心に座ったりした場合でも、「職場が自由で民主的な雰囲気で、なおかつ生産性の高い(あるいは目的を遂行する)仕事をどうしたら実現できるか」というテーマは考えねばならないはずである。というか、政権とか社会とか言う前に、まず自分たちの組織がそのような組織でなければならないはずだ。

 本書にも出てくるが*1、「モノも言えず、恐怖や統制のノルマで縛られたキツい組織」であることはもってのほか。しかし、かといって「自由で民主的だが、いっこうに仕事ははかどらない。みんな無責任でやることをやらない」というわけにもいかない。「自由で民主的ならほっといてもやってくれるさ!」というのは、ある意味でそうかもしれないが、そう単純でもないところが、現実の難しいところではないだろうか。

 多くの進歩的組織はそういうことで悩んでいるはずだ。

 モノを言うことも建前は自由だが、実際には同調圧力でしばられていてモノが言えない。あるいは、異論を言えば、あれこれの理由をつけて村八分にされる。あるいは、恐怖や統制はないが、「●月までに●%アップ!」という目標達成など内心は誰も信じておらずなんとなく惰性でみんなやっている。だけどそれを根本から見直すことはできない…などという会社や団体もあるだろう。たぶん。どこかに。

 

「結束したチーム」は実のところ、異論を唱えることが難しい

 本書の隠れたテーマは「自由で民主的な雰囲気と、高い生産性・目的遂行力は両立するのか? 両立するならどうやってそれを実現できるのか?」ということだ。

 最初は「自由で民主的な雰囲気」づくりをやっても、何らかの仕事上の達成をしようと思うからこそ、ホンネのところでは「でもいざとなったら、みんなでキツいノルマをやるしかないかんね」となってしまって、「ツラいけど文句を言わずにやる」「文句いうやつは目的遂行の妨害者」的な空気へと逆戻りしてしまうのだ。「お遊びの時間はおしまい」というわけである。

 スポーツチームなどでも「選手をシゴいたり管理したりするのが結局は高い能力のチームに仕上げる近道」という信念はなかなか拭えず、「選手一人ひとりの意見を聞いて、モチベを上げて、みんなで甲子園行く」というような方向を非現実的なヌルい道としか思えず、「まあ草野球で楽しめばいいっていうチームはそういうことやったら?」としか思っていないわけである。

 スポーツマンガにはそういう対立がだんだんと描かれるようになってきた。

 『おおきく振りかぶって』は近年のその嚆矢だと思うけど、最近では西餅『僕はまだ野球を知らない』、特にその第二部にあたる『僕はまだ野球を知らない・second』は父子のチームが激突して、この対立のクライマックスとなっている。

 

 本書では次のようにこの問題意識をまとめている。

 「心理的安全性」という言葉は、字面や表面だけを捉えると誤解を生みがちです。心理的安全なチームというのは、外交的であることでも、アットホームな職場のことでも、単に結束したチームのことでも、すぐに妥協する「ヌルい」職場のことでもありません。

 例えば、「結束したチーム」はスポーツの文脈で良く語られ、目標に向かって一致団結する姿がチームの理想として認識されています。

 しかし裏を返せば、「結束したチーム」は実のところ、異論を唱えることが難しいチームともいえます。心理的に安全なチームはむしろ、チームメンバー大勢の意見が一致しているように見えるときでさえ、「それは違うと思います」と容易に反対意見が言えるチームのことなのです。(本書p.33、強調は著者)

 著者の石井は、最初にこの両立についての概念整理を行う。

 つまり、どうすれば心理的安全性と、仕事をバリバリやることが両立するか。もっと言えば単に両者が対立するのではなく、心理的安全性こそが仕事をバリバリやる条件になるのか、という整理である。

 石井はこの点について、「高い基準(ハイ・スタンダード)の仕事」という考えを提唱する。これは目標を高くしろと誤解されそうだが、と石井はいう。そうではなく、「妥協点が高い」という意味なのだという。

 「来期、100兆円売り上げるぞ!」という高すぎる目標設定をするが、期が始まってしばらくすると、「とりあえず、昨対5%増を目標に……」などと、すぐに妥協するリーダーは妥協点が低く、その高い目標にメンバーが共感することもありません。

 一方「今期、ここまで行こう」ときちんと目標を決めて努力し、あと半年では達成が難しいことが分かっても、粘り強く行動を増やしたり、新しいことを試したり、どんどんとノウハウをメンバーに共有したりするリーダーもいます。(p.35-36、強調は引用者)

 これが「妥協点が高い」のだという。妥協を簡単にしないことか? と思うが、そうではない。しかし、ここではそれ以上書かれていない。

 全体を読んでぼくが後から思ったことだが、この場合で言えば、最初の目標設定に理由・根拠があること、それを実現できる資源があること、その資源の動員が可能であること、などがメンバーによく共有され、納得されているということなのだろうと思った。根拠が徹底的に検証され、メンバーはそれを納得して共有し、いつでも自由に反対の異論が出せて、目標が変えられるようになっていることだ。論拠の正しさがあってみんなが納得すれば、目標は変えられてしまうという緊張感がある。逆に言えば、そうでないうちは、掲げた目標をなんとしもやり切ろうとすることになる。しかし、根拠と納得と自由な討論の雰囲気があるので、士気は高い。

 「●%増やすしかなかろう」といって、ろくすっぽ実現性も検証されないまま押し付けられるような目標だと、すぐに「●%増」という当初の目標は現実的には下ろされて、現場では「まず前回比を超えよう」という妥協したものにすり替わってしまう。うん。どこかで聞いた話だ。

 

「カルチャー」の改革と、「スキル・行動」の付与にフォーカス

 しかし、こう概念整理できたからといって、じゃあ具体的にどうすればいい? となる。

 石井は、そこで概念的にコトを分けて示そうとする。

 まず、一般的にモノが自由に言えるということではなく、高い生産性を実現する条件としての「心理的安全性」の要素として4つを提示する。

  • 話しやすさ
  • 助け合い
  • 挑戦
  • 新奇歓迎

 まあ、これは字面だけ見ても、何となくわかるだろう。詳しくは本書を読んでほしい。

 そして変化させるレベルを混同しないように3段階に腑分けする。

  1. 構造・環境
  2. 関係性・カルチャー
  3. 行動・スキル

である。1.は会社の業種とか、会社・業界がおかれている環境とかである。これはまず取り組みの対象にしていない。2.は会社や職場の組織的文化、気風のことだ。いわば土壌のようなもので、時間はかかるがこれを変えないと話は進まない。3.は職場で一人一人がどうすべきかというレベルの話だ。すぐにでもやれることである。

 つまり本書は2.と3.にフォーカスしている。

 

リーダーが行うべき課題としての心理的柔軟性

 その上で、2.を変えるためにはリーダーによる「心理的柔軟性」が必要になるとして、その展開を第2章で行なっている(第2章 リーダーシップとしての心理的柔軟性)。

 会社や職場の組織文化を変えるということが、実は「心理的安全性」を築く上では大きな土台になる。だから、本書のサブタイトルも「『心理的柔軟性』が困難を乗り越えるチームに変える」になっているのだ。まさに第2章が一つのキモだ。

 そして、この課題は主に職場の個々のメンバーではなく、リーダーがとるべきものとして提起されている。厳密に言えば本書は「リーダー」ではなく「リーダーシップ」=他者に影響を与える能力の発揮を求めているので、例えばヒラでもリーダーシップは発揮できるし、部長でもお飾りなだけならリーダーシップは発揮できない。いずれにせよ、「まず心理的安全性の保証となる文化を職場につくろう」と思っている人が、主体的にその変革に挑むという課題を示し、具体的にどうすればいいかを提示している。

 ただね。

 この章は読みやすくないところも多い。

 概念化=学問化しようとする意思が強すぎるのだろうが、抽象的で「言っていることはわかるけど、何のためにそんな話をしているのか?」と首を傾げてしまような記述もある。あるけども、そこはまあとりあえず飛ばして大ざっぱに「ここはリーダーシップをとって、職場に心理的安全性の文化を根付かせようとする努力方向について書いているんだな」と理解して進むのがいいだろう。

 結局のところ、カルチャーを変えようとすると抵抗が出てくる。しかし、そこにあんまり囚われすぎずに(「変わらないものを受け入れる」p.101)、奨励すべき、いい雰囲気の行動に注目してそれを励ましていくのがいいんじゃね?(「大切なことへ向かい変えられるものに取り組む」p.121) ということなのだろう。

 その上で、「正しさやタテマエ、これまでの自分の体裁に囚われるな。必要なことはこれだということをプラグマティックに見分けろ」というアドバイスをする(「マインドフルに見分ける」p.128)。

 これがリーダーがやるべき課題だというのだ。このような心のありようを石井は「心理的柔軟性」と呼んでいる。

 

メンバーに身につけてもらうべき行動

 次に、個々のメンバーが「心理的安全性」を作る上での課題を示す。

 段階で言えば3.の「行動・スキル」にあたる部分で、リーダーではなく職場のメンバーがどうすべきかという話になっている。

 一人一人が心理的安全性を保障するような行動をしないと職場に心理的安全性はもたらされないのだが、それをいきなり個々のメンバーに与えるのではなく、まず2章でリーダーシップによって土壌を耕す、もっと言えばリーダーがイニシアチブをとって土台をつくることなしにはできないと思っている。

 そういう意味では、この3章よりも前述の2章の方がキモなのだが、その結果、個々のメンバーがどう変わるべきなのかはこの第3章「行動分析でつくる心理的安全性」に書かれている。

 実は、この章も、前章と同じで、学問化させようとするあまり「いったい何の話をしているの?」と思ってしまう箇所がいくつかある。

 でもあまり難しく考えずに、そこは読み飛ばそう。

 要は、話しやすさ・助け合い・挑戦・新奇歓迎という心理的安全性の4つの因子を阻害するような「きっかけ・みかえり」を減らし、4因子の行動が増えていくような「きっかけ・みかえり」をどんどんやっていこう、ということなのだ。

 おそらく本書を手に取ったとき、読者が一番知りたかったことの具体的な話は、この章のp.198からの具体的な「行動分析」に書かれている。

 例えば

 新人が不十分と思える報告を持ってきた。

 さあ、あなたはどうする?

  • 「君の報告はわからん。ちゃんと分かりやすく報告してくれ」
  • 「報告ありがとう」

 この場合、後者を選ぶべきだと石井は言う。

 「スキルが低くてよい」「結果が出なくてよい」ということではない、として石井が整理を行う。

重要なのは「望ましい行動を増やす」ことと、「まだ高くないスキル・品質を切り分ける」ということです。(p.201)

 

 挑戦を引き出す際には、範囲を限定して制限を課すことでアイデアを出しやすくする…などの提起もされる。

 ここは具体的に本書を読んで実感してほしいところである。

 

形式でないルールをどう作るか

 第4章「言葉で高める心理的安全性」は、リーダーにもメンバーにも共通することとして、職場につくった「ルール」——ここでいうルールは、会社で言えば事業計画や方針、左翼組織でいうところの政綱・綱領あるいは決定のようなものだが、それを

いかにして「形式的なルール」にせず、実感を持って行動に移せるチームに変えるのか(p.231)

をテーマにする。

 章の前半は、形式から実感へと職場のメンバーの気持ちはどう進化していくのかが概念的に示される。

  1. 言われた通り行動
  2. 確かにそうやな行動
  3. そんな気がしてきた行動

 まあこれも本書を実際に読んでみてほしい。

 後半は、そのように進化させるためには、機能別チーム(「営業部」「開発部」など)での実践の仕方と、プロジェクトチーム(各部から寄せ集めてプロジェクトを達成する場合)での実践の仕方が違うとして、それぞれの場合について書いている。

 

実はみんなが読みたいのは第5章では?

 本論はこれで終わりである。

 最後に「第5章 心理的安全性導入アイデア集」。

 いやーさっき3章で「実はみなさん知りたいのはこういう具体的なティップスでしょ?」という趣旨のことを言ったのだが、この第5章はモロにそれである。これまでのような議論が苦手な人は、この章だけをまずは読んでみてもいいかもしれない。

 例えば

研修として、職場のチームで料理をすることで、固定化した役職・階層が解きほぐされ、チームを新しい観点で捉え直せる(p.292)

というような例が載っている。

 

 このようにみてくると、改めて本書が、「生産的でよい仕事をすることに力を注げる」にフォーカスしていることがわかると思う。単に「勝手にモノを言い、言いっぱなしの職場」をつくろうとしているのではないのだ。

 もちろん、これで成功するかどうかはなんともわからない。

 だから、内容がすごくいいかどうかは判断はつかないのである。

 

社会進歩としての心理的安全性の構築

 しかし、ぼくは思ったのだが、資本の側は資本の側として、自由で民主的であることを条件としてどうやって生産性を高めるのか、ということに努力してんだなということだった。こういう資本の側からなされている努力も(いやむしろそのような努力こそが)、職場を自由で民主的にしていく、社会進歩の構成要素になるのではないだろうか。

 タテマエでいくら「私たちの職場は自由にモノが言えます」「異論はいくらでも言えます」「それでみんなで目標に向かって頑張っています」なんて言ってたって、そういう虚飾はもうたくさんなのだ。

 沈滞したムードと同調圧力が漂う中で、「まあ…これ以外に他に道もないし…とりあえず言われたことをやっておくフリでもするか」といって、黙々と従い、危険な挑戦や新奇な異分子が出れば上司の顔色を伺いながら上つ方とご一緒にそういうバカを排除するムーヴをやる。そういう組織はやがて滅びる。

 滅びないために、資本側も必死である。だから、こういう努力が生まれてくるのだろう。

 とはいえ、本書の限界として言える一つのことは、会社なり、事業所なり、組織なりの大きな進路を問う技術は、本書には入っていないことだ。そもそも大きな方向が間違っている、ということを問うことは意味がないとして、3つの段階分けの時にシャットアウトしてしまっている。

 太平洋戦争で言えば、戦争勝利のための作戦遂行にはあれこれアイデアを出せるけども、戦争目的そのものが大間違いでは? という根本的な議論を提出するにはどうしたらいいかはここでは書かれていない。

 大前提を疑わせないという思考は、別に左翼組織の中にも根深くある。

 そのようなところにまでさかのぼるにはどうしたらいいかは、本書からはみ出してまた考えてゆかねばらないことだろう。

 

「激しい言葉」での「率直な討論」は成り立つのか

 「自分たちは率直な討論をしている」という組織がある。自分たちは自由な討論をしている、率直になんでも言っている、だから、今さら「心理的安全性」など学ぶ必要はないとか、激しい言葉に聞こえるかもしれないけど、率直にモノを言ってるだけだ、とかそういう。

 仮に「率直な討論」なるもので「激しい言葉」がハラスメントに該当しないとしよう。

 その場合に、「率直な討論」が成り立つのは、それは様々な立場の人がいることを前提とした「一般社会」であろう。完全に一般の社会であれば、多様な意見は不快なままでも共存しあい、討論は(名誉毀損などにならない程度に)どれだけボルテージが上がろうが自由であり、社会の中で競争し切磋琢磨し淘汰し合えばいいからである。*2

 ところが「仕事の遂行」という共同目的で結ばれた「チーム」においては、「率直な討論」は単純に機能しない。同じチームとして共同の仕事を進める以上、「激しい言葉」でのやり取りは、感情的な困難が残るからである。*3

 しかも、討論のメンバーの間に、

  • 極端な力の非対称性(一方が指導者で、他方がヒラとか)
  • 一方の発言が非常に強く制約されている(発言時間、発言機会、発言届く範囲など)

のような場合には、なおさら「率直な討論」は成立しないだろう。そこに心理的安全性はなく、場合によっては「激しい言葉」そのものが「率直な討論」ではなく、一方が他方を抑圧するハラスメントになりかねない。

 だからこそそういう場合には、本書で披瀝されたような、心理的安全性を確保する技術が必要になる。それがなければ、実際には力や権限を持った者が幅をきかせ、萎縮や同調圧力が働く、心理的安全性ゼロの職場となってしまうだろう。*4

 

本書ですぐに役立つこと

 いろいろあるんだけど、本書の中ではまず「相手の発言や取り組みに感謝をする」ということはすぐにできるんじゃないか。この種の「きっかけ・みかえり」がなんども出てくる。

 「報告してくれてありがとう」「その取り組みはなかなかいいね」ということを、理由をつけて返すのである。

 新人とか、慣れていない人とかが、不十分な発言・方向・仕事を持ってくる。だけど、早く持ってきたとか、チャレンジしているとか、仕事の遂行を前進させる——ここでいう4因子(話しやすさ、助け合い、挑戦、新奇歓迎)を励ますものであれば、とにかく理由を含めて励ますことはできるのではないかと思っている。

 不十分なところや批判点をあげつらって、本書でいう「嫌子」を増やしてしまうのではなく。

 本書の実践は、いきなり全部を始めなくてもいいんじゃないかと思う。

 それはできるだけぼくもやってみようと思っていることなのだ。

*1:p.36。「キツい職場」「ヌルい職場」「サムい職場」。)

*2:あるいは、学会のように、チームとしての共同作業をそのあとに前提としない場でも機能するであろう。

*3:なお、ハラスメントについての訴えは別である。被害者が「激しい言葉」を使うのはある意味で当然だ。

*4:革命前のロシアのボルシェヴィキは、革命事業の遂行という共同性を前提としつつ、激しい言葉で議論しながらも、会議に応じてグループ(フラクション)を作り、会議が終われば後腐れなく分かれるという、稀有な存在だった。インテリゲンチャ性がそれを可能にしていた。

ハラスメントは組織の外で認定してもらうべきだ

 ハラスメント問題の処理——認定や救済は、組織や団体の中で閉じ込めて、外に漏らしてはいけないだろうか?

 ハラスメントは日本では現在違法——犯罪扱いされていない。

 しかし、ハラスメントの中でも例えば刑法に触れる性暴力に該当する場合は、さすがに組織内にとどめよ、と主張する向きはあるまい。レイプされても組織の外に出してはいけない、ということになったら、これはもういくら結社の自由でそういうルール(内部問題が外部に持ち出さない)を設けていますからといっても、そういうルール自体が「公序良俗」に反することは明らかだ。

 では、現行法に触れない程度のハラスメントはどうだろうか。

 例えばハラスメントについての国際条約を日本も批准して一刻も早くハラスメントを違法=犯罪として扱うべきだ、と主張している団体があるとすれば、そういう団体においては、当然ハラスメントは全て犯罪として扱うべきであろう。そのような組織においては、ハラスメントを受けても組織の中で問題をとどめておくべきだ、絶対に外に漏らしてはいけない、などとするはずはない。もしそんな主張をしたとしたら、その組織は深刻な自己矛盾に陥るだろう。

 ただ、そのような理屈を除いても、つまり、ハラスメントを犯罪・違法とするかしないかにかかわりなく、ハラスメントは、会社や団体から独立した機関によって、認定や救済が行われるべきである。つまり組織の外に持ち出すべきである

 

 日本共産党の次の提案は実に参考になる。

ハラスメントなくせ/倉林氏 禁止規定を要求

 倉林氏は、セクハラ被害の行政救済制度の活用状況(2017年)について、相談件数6808件に対し、調停はわずか34件、解決金の中央値は29・5万円だと指摘。「圧倒的な相談者が諦めているのが実態だ。現行制度は『被害者と事業者の譲り合い』が前提で、被害者にとって受け入れがたい。被害の認定、加害者からの謝罪、権利の回復ができる独立した救済機関を設置すべきだ」と主張しました。 倉林氏は、セクハラ被害の行政救済制度の活用状況(2017年)について、相談件数6808件に対し、調停はわずか34件、解決金の中央値は29・5万円だと指摘。「圧倒的な相談者が諦めているのが実態だ。現行制度は『被害者と事業者の譲り合い』が前提で、被害者にとって受け入れがたい。被害の認定、加害者からの謝罪、権利の回復ができる独立した救済機関を設置すべきだ」と主張しました。

 会社や団体で認定できないどころか、政府から独立していないために、認定や救済が全く進まないという実態が告発されている。

 組織内で解決ができるなどと到底期待できないことがわかる。

 日本共産党の提案は、ハラスメント認定などを行う独立機関を設置するよう要求しており、当然組織の外に持ち出すことを積極的に奨励している。そうしなければ問題が解決しないことをよく知っているのだ。

 ぼくの身近で、ある左翼の人が「ハラスメント解決は自己改革でこそ解決できる」とうそぶき、専門家を含めた独立した第三者機関の提案に対して「企業などはすぐそういう丸投げをやるんですよね」と悪罵を投げつけていたのを思い出す。そういう「左翼」人士には、ぜひこの日本共産党の提案をよく読んでほしいものである。

 

職場におけるハラスメントをなくすための実効ある法整備を求める申し入れ/日本共産党国会議員団 対策チーム

ハラスメントを受けた被害者がアクセスしやすく、行われた行為がハラスメントかどうかを迅速に調査・認定し、事後の適切な救済命令(行為の中止、被害者と加害者の接しない措置、被害者の雇用継続や原職復帰、加害者の謝罪と賠償など)を行う、政府から独立した行政委員会を設置することが必要である。

 

主張/ハラスメント防止/実効性ある法律にするべきだ

政府案は被害者救済と権利回復のための救済機関の設置にも一切触れておらず、顧客や取引先など第三者からのハラスメントも対象にしていません。…日本共産党提出の修正案は、(1)ハラスメント全般(第三者からの行為も含む)を禁止する規定(2)被害にあった労働者の申し立てを受け迅速に調査・救済する独立した第三者機関の設置―を求める内容です。

 

ハラスメント禁止“不十分”/高橋議員 法改定案に反対討論/衆院本会議可決

 日本共産党高橋千鶴子議員は反対討論で、改定案にはハラスメント行為を規定し法的に禁止する規制がないため、「『ハラスメントがあった』と認めてもらうこと自体が困難だ」と指摘。改定案で被害者が事業主に相談したことによる不利益取り扱いを禁止したことは当然だが、現状を大きく変えるものではないとして、「独立した救済機関が必要だ」と強調しました。 

ハラスメント禁止へ修正案 共産党提出/衆院厚労委 高橋議員、可決の政府案批判

多くの被害者が声を上げることができず、勇気を振り絞って相談しても事業主から適切な対応が取られず、加害者から謝罪さえ受けられず、心身に不調をきたし、休職・退職に追い込まれたりしています。ハラスメントを防止するためには、禁止規定を明確化し、独立した救済機関を創設することがどうしても必要です。

 

ハラスメント防止に実効性なし/女性活躍推進法等改定案 倉林議員が反対/参院委で可決

「被害者救済のための実効ある機関や企業への制裁措置がなく、多くの被害者が謝罪さえなく、心身に不調をきたし、退職・休職に追い込まれている」と述べ、独立した救済機関の設置を求めました。

 

共産党・吉良よし子参院議員の質疑

これ、就活生だけじゃなくて、あらゆるハラスメント被害者がそうだと思うんですけれども、安心して相談できる、そういう明確な機関、政府や企業から独立した救済機関、どうしたって必要だと思いますが、大臣、こうした独立した救済機関、すぐにでもつくるべきじゃないですか、いかがでしょう。(参院厚生労働委2019年5月16日)

 

 ハラスメント問題は、組織内に閉じ込めるべきではない。

 ハラスメントは本質的に違法であり、犯罪である。

 その可能性がある以上、組織の外に訴えて、独立した専門家に認定してもらうことがまずは必要だ。

 ましてや加害者が「ハラスメントではない」などと認定するなど論外中の論外である。ハラスメント対処のイロハさえ踏まえてないことになるだろう。

 ぼくはそういう対応をやった組織を身近に見たし、その組織にいる人でこれまで立派な人だなあと思っていた人たちが次々そんなずさんな対応によく考えもせず賛成し、賛辞を繰り広げていった知的退廃の有り様を見て、それらの人たちに心の底から失望したものである。

 

 

補足(2024.3.21 10:58)

 ブコメで「裁判でいいのでは?」という意見が散見されたので、共産党の質疑ではその辺りどう考えているのかを補足して書いておく。

共産党・本村伸子衆院議員の質疑

○本村 次に、現状の裁判の限界についてもお伺いをしたいというふうに思います。
 大臣にお伺いしたいんですけれども、セクシュアルハラスメントの被害を受けた方が裁判に訴えることはなかなかハードルがある、難しいというふうに言われている、当然そうなわけですけれども、大臣は、その理由は何だというふうに認識をされておりますでしょうか。

○根本国務大臣 セクハラ被害者が裁判を起こすことについては、幾つか心理的なハードルがあると考えております。原告としてみずからの名前が明らかになってしまう、会社にいづらくなり、やめざるを得なくなることもある、被害者に落ち度があった等の中傷を受ける、セクハラを受けたという明確な証拠を示すことが難しい、あるいは費用や時間がかかるなどの理由によって特に心理的なハードルがあると考えられると思っております。

○本村 裁判にかなりのハードルがある、被害を受けた方々にとって本当に高いハードルなんだということはお認めいただいたというふうに思います。だからこそ、私たちは、独立した行政の救済機関が必要だというふうに考えているんです。(衆議院 厚生労働委員会2019年4月17日)

 

ハラスメント被害者を「厄介者」扱いする組織

 

しんぶん赤旗1月22日付


 しんぶん赤旗1月22日付に「自衛隊セクハラ 深刻さ告発」「現役隊員の国賠訴訟」という記事が載った。

航空自衛隊那覇基地でベテラン隊員から受けたセクハラに対して組織が不利益防止措置などをとらなかったとして、昨年2月に国を相手に損害賠償請求を起こした(しんぶん赤旗1月22日付)

という事件である。ハラスメント加害者であるベテラン隊員はA、訴えたCさんは現役自衛官だ。すでに、AがCさんに対して起こした反訴の地裁判決では、Aの訴えを棄却し、AのCさんに対して行った「セクハラの事実をおおむね認めました」(同前)。

 

 この裁判を起こしたCさんは裁判の意義をこう語っている。

被害を告発した人に不利益を与え、被害を隠蔽する自衛隊の深刻な実態を社会に知らせたい(同前)

 (1)被害を告発した人を徹底的にバッシングする(2)被害を隠蔽する、という抑圧的な組織体質に注目した。

 自衛隊だけではあるまい。

 様々な組織——たとえ進歩的組織であってもそういうことが起こりうるだろうと思ったからである。

 記事では組織が告発者Cさんに加えた不利益、被害隠蔽が書かれている。

被害を組織に訴えましたが、セクハラ相談員からは「我慢するしかない」、上司からは「加害者にも家庭がある」などと対処されませんでした。(同)

 被害を訴えても、例えば弁護士のような専門家が判断しておらず、組織の一員である「相談員」が被害を隠蔽していることがわかる。

 ただ、この組織(自衛隊)では一応第三者であるはずの相談員が相談にのる仕組みがある(その結果は上記の通りひどいものだが)。ひどい組織になると加害者自身が「それはハラスメントではない」などと判断を下すところもあるという。それが進歩的な看板を掲げている場合すらある。

14年、自衛隊那覇基地内の隊員を対象に、加害者Aを匿名にする一方、Cさんの実名をさらした上で、セクハラにあたらない案件を騒ぎたてている印象をあたえる不適切な内容のセクハラ研修を実施。同基地内で陰口や嫌がらせなどによって厄介者扱いを受けたことで追い詰められ、不眠が続き体調が悪化していきました。(同前)

 “ハラスメントではないのにハラスメントだと騒いでいる”という徹底を組織内で行ない、組織内で被害者を「厄介者」扱いする——こういう組織体質は他でも実によく見られる。ぼくも身近に知っている。

 Cさんが民事訴訟を起こした際に、「自衛隊の法務班がAを全面的に支援」(同前)。

セクハラ被害を受けた現場で働き、被害者と加害者を隔離する措置を任じられていた隊員らが、陳述書の中でAを「心の広さや器の大きさに感心」などと称賛しました。一方でCさんに対しては、元交際相手との関係や、処方薬などをさらした上で、「情緒不安定」「激しい性格」などと人格を否定し、セクハラはなかったと事実をねじ曲げ、問題の隠蔽を図りました。(同前)

 組織として子飼いの手先に被害者に殴りかからせ、被害者を叩く。

 この光景もどこかで見た光景である。

 少し違う話だが、ぼくは被害者に対して加害者を非難するな、「言葉がどきつすぎる」「もっとリスペクトすべきだ」と繰り返しトーン・ポリシングする加害加担者たちの言説を間近で見たことがある。

 被害を受けた者が必死で抗議の言葉を紡ぎだそうとする中で言葉が激しくなるのは当然である。他方で、加害者はすでに行為を終えているのだから、あとは加害者は落ち着き払ってそれを否定すればいいだけだ。加害者は落ち着き、被害者は激昂する——この構図ができるのはむしろ自然である。



Aに対して自衛隊は戒告という軽い処分を下しただけで、その後Aは定年で退職。(同前)

 軽い処分で終わらせたことに驚くが、それでも、一切不問に付し、それどころか「ハラスメントではない」と加害幹部が開き直り、むしろそれを称賛さえさせる組織もあるのだから、抑圧組織というものは、どこまでも闇が深いのだと思わざるを得ない。

被害者のCさんが声を上げてから現在に至るまで、昇任を遅らせ、ボーナスを減額するなど、不利益を被らせています。(同前)

 ぼくの知っている組織でも、被害者を役員からおろし、組織内選挙権を勝手に剥奪し、徹底した不利益を与えている例を知っている。

 Cさんは支援集会でこう発言している。

私はSNSで発信したり、メディアに対して自由に答えることが許されていない(同前)

 そういう組織あるよね、としみじみ噛みしめる。

この集会についても何を発言するか、どのメディアが来るか、参加者は何名程度かなどを組織に事前に報告しなければならない(同前)

自衛隊をやめないのかと聞かれることもある。でも、現役だからこそ自衛隊組織の問題に社会は焦点を当てざるを得ないと思う(同前)

私は、このどす黒い事案を今後も一生引きずって生きていかなきゃいけないんです。でももし、この時間がそれぞれの視点によって社会が良くなるように活用されるのであれば、私自身軽くなって生きていけます。これからもみなさんの視点でこのことをSNSなどを通して社会に発信して支援の輪を広げてほしいです(同前)

 Cさんの事案と、ぼくが見知った事案は、違う組織の話だ。

 だが、違うものの中に、同じ光を見出すのが連帯である。

 ぼくはCさんに連帯する。