山崎聡一郎『こども六法』

 山崎聡一郎『こども六法』を娘と読んでいる。

 夕食が終わり、こたつでぼくがゆったりとしていると、保育園のころに「絵本を読んでほしい」と言ってきたときのようなのと同じニュアンスで、高1の娘が本を持ってやってくるのだ。

 別に「勉強しよう!」とかそんな意図ではない。娘から言い出したのだが、辞書の見出し語でクイズをやるのと同じように、要はヒマつぶしである。

 ぼくが持っているのは第1版だが、すでに法律が改正されたものもあり、第2版が出ている。

 ぼくは法学を大学で学んだはずだが、知識はほとんどゼロ。

 ただ小学生のとき、子ども向けに民法とか刑法を解説した本(確か「さ・え・ら文庫」だったと思うがタイトルや著者はもう忘れた)を読んで、「未必の故意」という考え方を知り、法律ってヘンだなあ、面白いなあと感じた記憶はある。

 それと同じことが、娘(高1)にも起きているのだろうと思う。

 たとえば、「遺棄罪」と「保護責任者遺棄罪」がある。

 「え、なんで違うの?」と娘は聞く。

 親が1歳の子どもを部屋に置き去りにしてしまうというのはイメージしやすい。これは「保護責任者遺棄罪」。他方で、「遺棄罪」は、たとえば86歳の花子さんが近所に住む青年・太郎さんと山に行き、太郎さんが花子さんを置いて帰るようなケースだろう。誰が置き去りにするかということで犯罪が変わってくるのだと説明する。

 へえ、というような顔をして聞いている。

 

 と、知ったような顔をしてぼくは娘に説明しているが、先ほども述べたように、実は法律について何にも知らない。

 本を読んでいたら「遺棄等致死傷罪」が出てきた。

 遺棄等致死傷罪の条文には次のように書いてあった。

刑法第219条 前2条の罪を犯し、よって人を死傷させた者は、傷害の罪と比較して、重い刑により処断する。

 う? 「害の罪と比較して、重い刑により処断する」とはどういう意味か。

 娘も不思議に思ったらしく聞かれた。

 だが答えられない。

 仕方ないので、ウェブを検索してみる(強調は引用者)。

https://www.yokohama-roadlaw.com/glossary/cat/post_485.html

傷害の結果(遺棄致傷罪)の場合、傷害罪と遺棄罪を比較し、罰の上限と下限について、それぞれ重い方を本罪の刑罰とすることになります
傷害罪の刑事罰は15年以下の懲役または50万円以下の罰金であり、遺棄罪の刑事罰は3月以上5年以下の懲役です。
すると、刑の上限は15年以下の懲役となり、刑の下限は3月以上の懲役となります。
したがって、遺棄致傷罪の刑事罰は、3月以上15年以下の懲役です。
死亡の結果(遺棄致死罪)の場合、傷害致死罪と遺棄罪を比較して刑の上限と下限をいずれも重い方を採用します。
傷害致死罪の刑事罰は、3年以上の有期懲役(20年以下)であり、遺棄罪の刑事罰は3月以上5年以下の懲役です。
よって、遺棄致死罪の刑事罰は、傷害致死罪と同様の、3年以上の有期懲役(20年以下)です。

 上限はわかるが、下限を「それぞれ重い方を本罪の刑罰とする」ってどういうこと? とよくわからなくなってしまった。

 そこで、日を改めてもう一度、ウェブの記述や刑法の本などを読んでみた。

 その結果次のような意味ではないかと思った。

 

(遺棄)
第217条 老年、幼年、身体障害又は疾病のために扶助を必要とする者を遺棄した者は、1年以下の懲役に処する。

(保護責任者遺棄等)
218条 老年者、幼年者、身体障害者又は病者を保護する責任のある者がこれらの者を遺棄し、又はその生存に必要な保護をしなかったときは、3月以上5年以下の懲役に処する。

(遺棄等致死傷)
第219条 前2条の罪を犯し、よって人を死傷させた者は、傷害の罪と比較して、重い刑により処断する。

(傷害)
第204条 人の身体を傷害した者は、15年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。

 「遺棄罪」でなく、「保護責任者遺棄等罪」と比較してみる。
 親が小さな子どもを山の中に置き去りにして無事発見されたら「保護責任者遺棄等罪」(218条)だが、その子どもが死んだ・大怪我したら「遺棄等致死傷罪」(219条)になる。

 

------- ここからの文章は末尾で修正 -------

(末尾で修正していますが、まずはそのまま載せています)


 「遺棄等致死傷罪」(219条)の刑罰の量刑の範囲は条文には定められていない。
 そこで、「保護責任者遺棄等罪」(218条)と「傷害罪」(204条)を比較する。
 「遺棄等致死傷罪」(219条)は「3月以上5年以下の懲役」。
 「傷害罪」(204条)は「15年以下の懲役」。
 よって、219条に「傷害の罪と比較して、重い刑により処断する」とあるのだから、「重い刑」である「傷害罪」(204条)は「15年以下の懲役」を適用する。


 だが、それだけではない。
 これは上限についての「比較」しているだけだ。
 もし「15年以下の懲役」だけだとたとえば「懲役2ヶ月」もありうる。


 そこで下限についても「比較」する。
 「保護責任者遺棄等」(218条)は「3月以上」。
 「傷害罪」(204条)は下限がない。
 すなわち「傷害罪」(204条)の方が「重い刑」であると言える。
 よって、下限については「保護責任者遺棄等罪」(218条)の方(「3月以上の懲役」)を採用する。
 つまり、「遺棄等致死傷罪」(219条)の刑罰は「3月以上(より重い下限)15年以下(より重い上限)の懲役」となる。

------- ここまで  -------

 

…っていうことだろうか? 専門家ではないので、当てずっぽうである。

 つれあいから「その解釈が正しいっていう根拠はあんの?」とツッコミをされた。

 専門家の方がこのブログを読んでいたら正否を教えてほしい。

 


 その上で思ったこと。

 なぜ第219条で量刑の範囲を具体的に書き込んでいないのか。これと同じタイプの条文は刑法にいっぱいある。いちいち条文で定めてもいい気がするのだが、そうしていない理由はわからない。改訂が面倒くさいのかもしれない。

 


 また、遺棄して子どもが死んだとしても、傷害致死罪(205条)と比較するのではなく傷害罪(204条)と比較していることにも注意。「故意に傷害して(殺すつもりはなく)結果的に死なせる(傷害致死罪)」よりも「故意に遺棄して結果的に死なせる(遺棄等致死傷罪)」の方が軽い(せいぜい「傷害罪」程度)という考え方なのだろうか。

 


 また、つれあいが事前に予測していたこと———「遺棄等致死傷罪」と「傷害罪」が同時に起きていて、比較しているのでは?———は的外れだったということになる。「遺棄等致死傷罪」は故意に傷害をしていないから「傷害罪」には該当しないからだ。…と思うのだが、これもよくわからない。「いや、おつれあいが正しいですよ」という専門家がいたら、名乗り出るように。

 

補足(2024.3.13)

 名乗り出ていただいた…わけではないだろうが、ブコメ欄で次のような指摘が

snowdrop386 2024/03/05

いやいや、刑法219条が比較対象としているのは傷害罪(204条)ではなく、傷害の罪(204条〜208条の2)ですよ。遺棄致傷なら傷害罪(204条)、遺棄致死なら傷害致死(205条)との比較です(引用された部分にも書いてありますよ)。

 なんと。

 まず、「引用された部分にも書いてありますよ」という指摘を見る。

https://www.yokohama-roadlaw.com/glossary/cat/post_485.html

傷害の結果(遺棄致傷罪)の場合、傷害罪と遺棄罪を比較し、刑罰の上限と下限について、それぞれ重い方を本罪の刑罰とすることになります
傷害罪の刑事罰は15年以下の懲役または50万円以下の罰金であり、遺棄罪の刑事罰は3月以上5年以下の懲役です。
すると、刑の上限は15年以下の懲役となり、刑の下限は3月以上の懲役となります。
したがって、遺棄致傷罪の刑事罰は、3月以上15年以下の懲役です。
死亡の結果(遺棄致死罪)の場合、傷害致死罪と遺棄罪を比較して刑の上限と下限をいずれも重い方を採用します。
傷害致死罪の刑事罰は、3年以上の有期懲役(20年以下)であり、遺棄罪の刑事罰は3月以上5年以下の懲役です。
よって、遺棄致死罪の刑事罰は、傷害致死罪と同様の、3年以上の有期懲役(20年以下)です

 まさにsnowdrop386ご指摘の通りだった。

 遺棄して、その遺棄された人が死んだ場合は、傷害罪ではなく傷害致死罪と比較していた。

 では、刑法第219条にある「傷害の罪と比較して」という一文はどうなるのだろう。

刑法第219条 前2条の罪を犯し、よって人を死傷させた者は、傷害の罪と比較して、重い刑により処断する。

 snowdrop386の指摘は

刑法219条が比較対象としているのは傷害罪(204条)ではなく、傷害の罪(204条〜208条の2)ですよ

ということだった。

 ちょっと古いけど、前田雅英他編『条解 刑法〔第3版〕』(弘文堂)には次のようにある。

致傷については、単純遺棄による場合は15年以下の懲役、保護責任者遺棄による場合は3月以上15年以下の懲役となり、致死については、いずれの場合も3年以上の有機懲役となる。(p.639)

 まさに、snowdrop386の言った通りである。

 

 では219条にある「傷害の罪と比較して」という一文はどうなるのか。

 これも簡単。

 刑法の第27章が「傷害の罪」というタイトルになっている。

 つまり、204条「傷害」、205条「傷害致死」、206条「現場助勢」、207条「同時傷害の特例」、208条「暴行」、209条「凶器準備集合及び結集」、これ全体が「傷害の罪」の条文なのである。

 したがってここでもsnowdrop386の指摘が正しかったということがわかる。

 

 ありがとうございました!

 

『ねじ式 紅い花 漫画アクション版 つげ義春カラー作品集』

 奥付には「2024年2月24日」発行とある。

本書は、1969年に刊行された「漫画アクション」誌に加え、「ゲンセンカン主人」(アクションコミックス)「ガロ増刊号・つげ義春特集2」からじかに版をおこしたものです。当時の色版のずれやにじみなどを忠実に再現しています。

 9つの作品が載っている。

 双葉社のサイトでは、

なかでも伝説の「ねじ式」は元版の二色ページを倍増(16ページ)し扉絵も改訂した別バージョンとしてマニアにのみ知られた作品。「つげ全集」でも読むことができない異校版。ファン垂涎の愛蔵版です。

と書いている。

 ぼくには蔵書家としての執着は何もないので、本書の版としての独自の価値がどこにあるかは、ぼくにとっては全くどうでもいいことである。文庫でも全集でもなく、単に絵本のように手に馴染んで、いつでも本棚から取り出して気軽に読めるかどうか、そこが本書の「本」すなわち紙の書物としてぼくにとって大事なことだ。

 

 だから、ふつうに作品として思ったことを記しておく。

 「もっきり屋の少女」のことだ。

 この作品は、主人公(男)が山奥に釣りに行ったときに、少女(チヨジ)と出会い、その少女が1人で「ホステス」をしている小さな居酒屋に案内される話だ。

 主人公は次第に酔い始めるが、少女が主人公の手を持って自分の乳房に触らせる。主人公は驚きながらやや不機嫌になって「おいおい きみはこんな真似を誰に教えられたのかね」と問いただす。少女はこの居酒屋に売られてきたのだという。

 主人公が悪酔いして別室で眠ってしまい、目が覚めると居酒屋で、2人の男が少女の乳首を触る「ゲーム」をしている。性感に耐えて5分声をあげなかったら、ほうびに少女の欲しい靴を買ってやるというのだ。だが、少女は耐えきれない。

 その様子を主人公は盗み見ているだけだ。

 やがて主人公は「頑張れチヨジ」と囃し立てる声が続く居酒屋を去る。

 主人公は一人で歩きつつ、その囃し立てを真似しながら「頑張れチヨジ」「頑張れチヨジ」と言って去っていく。

 精神科医甲南大学名誉教授)の横山博が「『ゲンセンカン主人』と『もっきり屋の少女』——つげ義春の引き裂かれた女性イメージ」という評論(2006年)を書いている。

https://core.ac.uk/download/pdf/148080615.pdf

 

 横山は主人公と作者を重ねながら、少女を「開放的」に弄ぶ「野卑」な男たち、そして売られてきたという少女自身の境涯について、「およそ義春の近づける世界ではない」としている。

 主人公や作者がそう思っているわけではないが、性的な搾取をされている少女を目の当たりにし、気の毒さや憐憫を感じながらも、別にその世界に介入してがっぷり四つに取り組みしない。できるはずもない。

 そして、最後に「頑張れチヨジ」と言って立ち去るのは、むしろ男たち側の価値観や行動を何ら断罪せず、むしろその価値観に一体になりながら、無力極まる「エール」を送っていることになり、なんとも言えない侘しい気持ちになる。少女に、主人公は何もしてやれないのである。

 この「旅人」というポジションは、例えばメディアやネットで様々な現実を見聞きしながら、しかし大した取り組みもせずに通過していっている今の人間のように思えてくる。もちろんぼくもその一人である。

 つげの世界観としては、ぼくほど左派的な感覚はないだろうから、その傍観者性はいっそう徹底している。ほとんど罪悪などは抱かず、しかし虚しくそこを立ち去る悲哀をどこかに感じながら立ち去っているのである。

考えてみりゃあ もともと考えることなんかなかったのだからね

とは立ち去る主人公の言葉である。

 

 立ち入れない現実を垣間見てしまった時に、自分が旅人のように当事者性がまるでない場合がある。そこには無力であったり、傍観者であったりする侘しさが漂っている。そこでは「自分は無力だ」と嘆くことすらない。嘆くなら、フィールドに降りてきて何かをすべきだからだ。パレスチナの現実に対して何かをするということはあっても、では例えばコロンビアで起きている子どもの人身売買のために何かするかと言えば別に何もしていない。そこに多少の感傷だけが流れる。流れること自体がまた虚しいのである。

 

鈴木透『食の実験場アメリカ』

 リモート読書会で読んだ。

 

 

 サブタイトルが「ファーストフード帝国のゆくえ」なので、ははあ、アメリカ=ファストフード帝国批判なんだろうなと思って読んだが、さにあらず

 アメリカでの食文化が様々なエスニックな要素が混ざり合ってできた豊かな歴史を持ち(クレオール料理)、同時に、それがやがて近代の効率性によって画一化への変容しながらも、それへの批判者としてヒッピー文化が登場。ヒッピーの運動そのものは挫折したが、食から政治や社会を変える可能性について展望するにまで至る。

 

面白い小ネタがいっぱい

 ぼくが面白いと思った主な点は2点。

 一つは、アメリカの食・歴史についての小ネタが満載という点。これを学ぶだけでも、本書は十分楽しめるのではないか。

 例えばバーベキュー。今ぼくが日本で見ている姿は単なる「焼肉」なのだが、「バーベキュー」とは一体もともとどのようなものだったのかを本書で知れる。

白人の支配階級は、牛や豚などの良質な部位を奴隷たちに調理させるようになるのに対し、奴隷たちは家畜用の牛や豚はめったにありつけず、残った部位か、他の食材で調理するようになっていた。(p.26-27)

南部の貧しい白人や黒人奴隷たちにとって重要な蛋白源の一つとなったのは、野生の豚であった。これを捕まえて焼いたのである。その時用いられたのが、ヨーロッパとは違う焼き方だった。それがバーベキューである。(p.27)

語源は西インド諸島のタイノ族という先住民の言葉で、焼くための設備をさす言葉「バルバコア」にあるらしい。(同)

西洋の肉の焼き方が至近距離の直火で短時間に焼くのが一般的だったのに対して、バーベキューは低温の炭火を離れた場所に置き、その煙でいぶすようにしながら長時間焼くものであり、肉がその分やわらかくなる。だが、大掛かりな野外設備を必要とする長時間の重労働だったため、当初アメリカでこれを担っていた中心は黒人奴隷だった。黒人奴隷たちは、西インド諸島で先住インディアンたちと接触した際にこの技術を身に着け、南部へと持ち込んだと考えられる。(p.28)

 

 あるいは「コカ・コーラ」や「ドクター・ペッパー」のような炭酸の清涼飲料水。もともとは医療的な「薬」として売り出されていた。

アメリカの場合、ピューリタン的な倫理が世俗化されるにつれ、アルコールへの依存度を低めようとする禁酒運動が一九世紀以降盛んになってくる。それゆえ、アルコール抜きの飲みやすい、飲料水型の食品が求められるようになる。その結果開発されたのが、炭酸飲料だったのである。(p.98)

当初、炭酸飲料は、専ら病気の人が安全に水分を補給する手段とみられていた。ところが、これは普通の人が飲んでもいいのではないかという考えが広まり、炭酸水に様々なフレーバーを付ける試みが行われるようになる。(p.98-99)

 こうして「ドクター・ペッパー」「コカ・コーラ」の誕生へとつながっていく。「薬くささ」はその名残なのだ。

 

食を通じて社会を変える?

 もう一つは、本書が結論として食を通じて政治や社会を変える可能性について考察していることだ。

 筆者は、トランプ旋風などに見られるような反知性主義アメリカ第一主義を心配している。しかし、それを「食」が変えるかもしれないというのだ。

異種混交的なアメリカの食の成り立ちを再認識することは、他の集団からの恩恵をこの国が受けてきたこともあらためて浮き彫りにする。食べ物に刻まれた、忘れられた記憶を回収することは、アメリカと国境の外との世界との意外なつながりを明らかにしてくれる。それは唯一の超大国が苦手としている自己相対化のための契機を提供し、アメリカ型多文化主義アメリカが第一主義の併存するねじれ現象に一石を投じる可能性を秘めている。(p.233)

 うん、こう聞くと「なんて馬鹿げたことを」と思うかもしれない。

 いや、ぼくも「馬鹿げてる」と思った。

 だから、筆者も「荒唐無稽」かもしれないが…という言い訳を何度も書いているのである。

 確かに、アメリカの食の成り立ちの多様性を知るようになれば自分たちを相対化するきっかけになるのでは? という問いは、ある種の層には当てはまっても、とても社会運動として広く社会・政治を変えるようになるとは思えない。

 

 しかし、もう少し読み進めていくと筆者は子どもの食育を例にとり、文化・健康・環境・農業など様々な方向から政治を変えていく可能性はないだろうかと問題提起をしていく。つまり「食育」は確かに部分的な運動と変革に過ぎないが、それが全分野で起きれば社会的に小さくないインパクトを与えられるのではないか、と考えるのだ。

 さらに

食というテーマが比較的反知性主義の抵抗感が少ないと予想されることも考えれば、このシナリオの実現可能性にアメリカはかけてみるべきではないだろうか。(p.241)

いやむしろ、アメリカを先取りするような発想が他の国にあってもよいのではないだろうか。実際、アメリカのCSA〔一種の産直運動。コミュニティ・サポーティッド・アグリカルチャー〕の重要なヒントは日本の生活クラブだといわれる。食文化研究から得られる知見を社会が真剣に受け止め、食の変革の持つ射程を再認識できるなら、その社会的合意を実行に移す力は、日本にもあるはずだ。(p.242)

 これは例えば「おいしいものを食べる・作る」という運動や「農産物を育てる」という運動をすることは、トランプ支持層のような人たちも敷居が低いということを言っているのだと思った。

 実際ぼくの近所にも参政党の運動を熱心にしている人が街頭に立っているけど、ビラを読んだり、訴えを聞いていると食の話がメインだ。

 

 知り合いの学者が、2050年に日本で食糧危機が起きる可能性について学者仲間と共同で研究を深めている。その人は、耕地の確保、国内食糧増産、農業生産者への税金投入について、社会そのものを変えてしまうような国民合意=政治変革が必要ではないかと考えている。

 その場合、例えば

  • みんなで郷土料理を作ってみる
  • 安くて健康な食材を食べてみる
  • みんなでカボチャを育ててみる

というような企画や運動を考えることができる。

 食糧支援に多くの人が協力したり、「子ども食堂」にたくさんの住民が参加したりしているのは、「政治」に熱い層とは別の、「一般の人」が参加している事実を示している。

 食糧自給を引き上げる合意を作ることは政治の一大変革が必要になる。その流れが、実は様々な政治変革の結節点になる可能性が確かにあるのだ。

 また、これがヒッピー運動がたどった末路のように、「地球に優しい高価な食材を入手できる人たちだけの運動」になってしまえばダメだが、非正規労働のような低賃金労働者がどうすれば食糧を手に入れられるか、という運動と結びつけば、それらを対立させずに一体の運動として取り組むことも可能になる。

 左翼は従来型の運動に縛られず、こうした切り口や入口で運動を始めるべきではないのか…そんなことも考えさせられる一冊だった。

 

 次回の読書会テキストは石井遼介『心理的安全性のつくりかた』である。

 

 

ローズマリー・サリヴァン『スターリンの娘 「クレムリンの皇女」スヴェトラーナの生涯』

 スターリンの娘、スヴェトラーナ・スターリナあるいはスヴェトラーナ・アリルーエワの生涯を知ったとき、その激しさと寂しさに、複雑な思いがこみ上げてくる。

 前半生は、ソ連体制下で母親をはじめ、親しい人々が自殺や迫害など次々と横死する。後半生は、ソ連の抑圧体制から逃れて亡命し、アメリカに移住するが、結婚・離婚を繰り返し、著作によって手に入れた財産を失ってしまう。

 後半生は必ずしも抑圧政治のもとでの不幸ではない。しかし、ソ連崩壊まではソ連当局やKGBの魔の手が絶えず彼女の行く手に現れ、そのことに怯える。

 やがて、彼女は西側に幻滅し、ソ連に戻ってしまう。アメリカで生まれた娘・オルガとともに。しかし、そこでもまた彼女の望んだ幸福は得られない。彼女は再びソ連を出国し、アメリカの老人ホームで生涯を終える(2011年没)。

 根本的には前半の幸福の剥奪のされ方に強く規定された後半生の幸福の探し方があまりにも不器用で、読んでいてつらい。だから複雑な思いがこみ上げるのだ。

 もちろん、ソ連から脱出した後半生は、必ずしも「不幸」だと断じることはできない。しかし、家族や娘を持つぼくのような身からすれば、彼女の後半生の方がより身近に感じる。幼い娘(オルガ)と一緒に写っている写真(下p.170)などを見ると、何だか自分の娘の小さい時によく似ているような気がして人ごとのように思えない。アリルーエワが激昂して、本来依拠すべきはずの友人たちを失ってしまう様子などは見ていられないほどだ。

 それでも、彼女の人生の最終における、娘・オルガの次のような記述を読むと少しは心が慰められる。

 しかし、オルガによれば、スヴェトラーナの人生の最後の二年間は思いがけないほど平穏な二年間だった。「ある時、突然のように、母は物事を冷静に受け入れるようになっていた。以前ならば打ちのめされたに違いない事が起きても、母はその窮状を笑い飛ばして乗り越えることができるようになった」。母親にいったい何が起きたのだろうかとオルガは思った。娘としての自分の存在が何か役に立ったのだろうか? 「楽しかった昔の日々が戻ってきたような気がした。嬉しいことだった」。(下p.387-388)

 

自分の生き方を通じて到達した、徹底かつ慧眼の反スターリン主義

 スヴェトラーナ・アリルーエワの政治的ポジションは、反スターリン主義者ということになるだろう。基本的には前半生のソ連体制に何の疑問も抱かなかった時代を脱し、最終的にはソ連体制の厳しい批判者となる。

 単に反スターリンというだけではない。「スターリンは狂気の独裁者だ(狂っていた)」「ベリヤや側近に操られていた」という見方についても、彼女はきっぱりと退けている。

 私の父親は自分が何をしているかを理解していた。彼は狂気でもなかったし、誰かに操られて道を誤ったわけでもなかった。冷徹な計算にもとづいて権力を掌握し、その権力を維持するために奮闘していたのだ。彼が何よりも恐れたのは権力を失うことだった……すべてを狂気によって説明するのは最も単純で簡単な方法である。しかし、それは正確ではないし、何の説明にもならない。

 父はいささかも理想を信じていなかった。彼が信じていたのは生々しい政治闘争の現実だけだった。父にとってはロマンチックな意味での人民など存在しなかった。彼は強い人間を必要としていたが、自分と同等な人間は邪魔だった。役立たずの弱い人間も必要としていなかった。

 良心の痛みなど、父は少しも感じたことがなかったと私は思っている。(下p.80)

 著者・サリヴァン

スヴェトラーナはスターリンの実像を描き出そうとした。結局のところ、彼女ほど身近にスターリンを知る者はいなかったからだ。(同前)

スヴェトラーナが追及したのはスターリンの個人的犯罪にとどまらなかった。スターリンだけに責任があったのではない。独裁者による支配には共犯者の協力が必要だった。(同前)

と述べている。

 こうした視点に導かれ、アリルーエワの反スターリン体制への批判の射程はソ連崩壊後のロシアにまで及び、プーチンの本質を見抜いて次のように批判している。次の文章は、エリツィンの辞任後、プーチン政権が誕生する直前の1999年に、アリルーエワが友人の火山学者トーマス・ミラーに宛てて書いたものだ。

 私の意見では、ロシアは急速に過去に回帰しつつあります。恐るべきことに、KGBのスパイだった男が今や大統領代行なのです! 次の大統領選挙で国民がプーチンに投票しないことを願うのみです。…

 昔の共産党政権時代を経験し、冷戦の歴史を知る者にとっては、これは明白なことです。民主主義諸国の指導者たちはプーチンをボイコットすべきです。西側諸国は祝杯を上げてプーチン政権を歓迎しようとしています。ああ、トーマス、気をつけなさい。ロシアが民主主義を目指した時代はもうとっくに過去のものとなってしまったのです。(下p.379-380)

 ミラーはアリルーエワからの警告を聞いて「権力の動向に関するスヴェトラーナの的確な洞察力」を感じた(下p.379)。

 アリルーエワは「スターリンの娘」であることから逃れられなかったけども、スターリンの娘であるという呪いを生きることによって、スターリン体制はベリヤやエジョフらの「悪の側近」によるものでもなく、スターリンの「狂気」によるものでもなく、まさにスターリンを頂点とした体制によって引き起こされたことを正確に洞察し、そのような体制が現代ロシアにも続いていることを見抜いた。

 つまり政治的ポジションとして、スヴェトラーナ・アリルーエワ、すなわち「スターリナ」は自分の生き方を通じて到達した、徹底かつ慧眼の反スターリン主義者であったということができる。

 

 

 そのほか、本書を読んで感じたことを、思いつくままに書いてみたい。

 

自分の頭で物事を考えない人々は現代の先進国にもいる

 スヴェトラーナの伯母マリア・スワニーゼは、1937年前後の「大粛清」時代に、古参ボルシェヴィキたちの見世物裁判について次のような感想を書いている。

 一九三七年三月十七日

 私の魂は怒りと憎しみで燃え上がっている。単なる死刑ではとうてい飽き足らない。あんな邪悪な行為をする連中は、たっぷり拷問したうえで、生きたまま火炙りにすべきだ。党に寄生していながら祖国を裏切っていた連中だ。しかも、あんなに大勢いたとは! 寄って集って私たちの社会を破壊し、革命の勝利を台無しにし、私の夫や息子を殺そうとしていたのだ……。

 今度の裁判では、次から次に、大物幹部の名前が現れた。長い間、私たちが英雄と思っていた幹部たちだ。彼らは国家の大事業を指導し、国民の信頼を集め、何度も褒賞を受けてきた。その彼らが、実は、人民の敵であり、裏切り者であり、贈収賄罪の犯人だったのだ……いったい、どうしてこんなことが見過ごされてきたのか?(上p.112)

 ここには、スターリン体制そのものを疑うメンタリティは微塵もないというソ連民衆の一つの類型がある。罪名をでっち上げられた人たちが「除名」なり「追放」なりされて、やがて銃殺・流刑にされ、その人たちがいかに天下の大悪人であったかを口を極めて罵っている。

 スターリンスターリン官僚たちが、どれほどひどい抑圧と陰謀をそれらの人々に押し付けてきたのか。そのことを体制の外から、時には中から告発があっても、マリア・スワニーゼのようなソ連民衆には届かなかった。あるいはそのような告発を自分の頭で考えて、スターリンや官僚たちを疑うということを全くしなかったのだ。

 ぼくはつい最近もそのような光景を見た。「ソ連のような識字率の低い発展途上国だったからそういうメンタリティが残っているんだ」とはとても思えなかった。先進国であっても、自分たちのコミュニティの支配層の抑圧には気づかないし、声もあげられないということがある。マリア・スワニーゼのような人は先進国にも無数にいる。

 そして、当のマリア・スワニーゼはどうなったか。

 マリア・スワニーゼは本気で怒っていた。この段階では、彼女は自分の怒りの正当性に何の疑問も感じていなかった。その状態は彼女が逮捕されるまで続いた。

 同じ年の十二月二十一日、マリア・スワニーゼは夫のアレクサンドル・スワニーゼとともに、NKVDによって逮捕される。スターリンの親族から出た最初の逮捕者だった。(上p.112-113)

 

アリルーエワの個人主義的な強さに魅力を感じる

 本書の冒頭にアリルーエワが亡命を決断し実行するシーンが描かれる。また、パートナーの散骨をするためにインドすなわちソ連国外に出られるというまたとないチャンスをアリルーエワが手にして、どうやって亡命を果たすかは本書の中で描かれる。

 そこから、アリルーエワが強い意志を持った個人主義者であることを感じる。思いつきのような決断はあるが、そういう思い切りも含めて、人生のポイントとなるところで果断をする彼女の強さのようなものに魅力を感じる。

 スヴェトラーナの次の説明は自分の個人主義的な決断と、それを予想しもしないクレムリンの頭の悪さの鮮やかな対比になっている。

 人間が個人として独自に何かを決断できるということが彼ら〔クレムリン〕には信じられないのだ。私が自分自身の決断でロシアを去ったことも、私の亡命が国際的陰謀ではなく、何らかの組織による活動でもなく、誰の助けも借りずに私が単独で決断した行動であることが彼らには信じられないのだ。彼らは人間のどんな行動も何らかの組織によって支配されるもの、つまり集団的なものだと思っている。彼らは人々が同じように思考し、同じ意見を持ち、政治的同じ方向を向くことを目指して五〇年間にわたって営々と努力してきたが、その努力が失敗に終わって、独自にものを考える人間が現れたことに驚き、怒っているのだ。(上p.399-400)

 これもぼくは他で似たようなものを見た。何でもかんでもなにかの大きな力が陰で動き、それに操られ、支配され、膝を屈した人間が「反共宣伝に憂き身をやつしている」(本書上p.396)のだという説明。そして、スヴェトラーナ・アリルーエワに対した時のように、特定の個人に攻撃を集中するのだ。

 だが、そこに屈せず、自分の生き方を貫き通した「スターリナ」すなわちスヴェトラーナ・アリルーエワに強い魅力をぼくは覚える。

 

アリルーエワの描写

 スヴェトラーナ・アリルーエワの姿を描写した記述は様々ある。特に、周囲とのトラブルが多く、激昂して絶交してしまうことを繰り返してきた彼女は「その頃のスヴェトラーナの心理状態を双極性障害あるいは躁鬱症と名づける人もいるだろう」(p.226)と言われている(著者サリヴァンはそうした評価には留保を付けている)。

 そのうち、後半生の、老境に入る前の彼女を描いたものとしては、娘の同級生の母親ロザモンド・リチャードソンの描写は端的だ。

彼女は本当に面白い人だった。

スヴェトラーナには愛すべき一面があった。はっきりと定義することは難しいが、心の一番奥に普通とは次元の違う深さを秘めた人だった。類いまれな温かさで他人に感応できる人間だった。スヴェトラーナには深い精神性が備わっていた。広い意味での信仰といってもいいだろう。しかし、彼女はその深さを表現する方法を身につけていなかった。インドの神秘思想でさえ彼女には十分でなかった。その欲求不満が彼女を突き動かしていたのかもしれない。答えは見つからなかったが、彼女は妥協することを知らなかった。(下p.242-243)

次の角を曲がれば欲しかったものが見つかるのではないかと期待するのが人間の常だろう。スヴェトラーナは深い傷を追っていたが、非常に聡明な女性だと私は感じていた。その知性は並外れており、精神は偉大だった。しかも、楽観主義者で、信じられないほどエネルギッシュだった。ただし、そのエネルギーは間違った方向に向けられることがあった。また、怒りの発作を起こすこともあった。それはスヴェトラーナの人格の一部だったと私は思う。それも、これも、彼女の一面だった。(下p.243)

彼女はもちろんすべてをコントロールしたかった。その気持ちはある程度理解できる。ありとあらゆる評価が押しつけられていたから、彼女は自分についての情報の中身そのものを管理したいと思ったのだ。しかし、彼女のやり方は極端だった。彼女の主観では当然の対応だったかも知れないが、それは人々を仰天させることがあった。彼女は全員を薙ぎ倒して進んいった。(下p.243-244)

 本当に身近にいたら、付き合うかどうかはわからない。しかし愛すべき、そして知的に深い、だが、不器用で手に負えない側面があることを、この評はよく伝えている。

 

 今、自分の人生において、個人主義的な要素の重要性が大きく前に押し出されている。自分の人生の中でそれは大きく前に出たり、引っ込んだり、対立物と調和したり、また小さくなったりしてきた。高校生の頃は、自分の中の個人主義がマックスとなり、それが組織というものと格闘しながら付き合いを始めた時代が幕開け、それはずいぶんと長く続いた。

 いま自分の頭で考えずに大きなものに埋没してしまう惨めな生き方とは決別し、個人の生き方を主軸にしながら、それを時代や組織と調和させる新しい生き方が必要なのだと強く考える。アリルーエワの生き方は、その調和を全く成し遂げられなかった生き方であるが、檻を破ろうした個人主義のまぶしいばかりのほとばしり、そこに漂う悲哀こそが、むしろ今のぼくの心を打つ。

 

 

「スターリナ」

 スヴェトラーナ・アリルーエワの旧姓は「スターリナ」である。

 したがって、母親の姓に戻した「スヴェトラーナ・アリルーエワ」の前は「スヴェトラーナ・スターリナ」であった。

 しかし、[在インド米国二等書記官ロバート・]レイルには疑わしい点がまだ残っていた。なぜ彼女の姓は父親のヨシフの姓であるスターリナスターリンの女性形〕またはジュガシヴィリ〔スターリンの本名〕ではないのか? 女性は答えた。すべてのソ連市民に認められている改姓の権利を行使して、一九五七年に父親の姓スターリナから母親ナジェージダの旧姓アリルーエワに改姓したのだ。(上p.18)

一九五七年九月、スヴェトラーナはスターリナの姓を母方のアリルーエワに変更しようと決心する。スターリナスターリンの女性形〕という言葉の金属的な響き〔スターリは鋼鉄を意味する〕が心を傷つけ、苦しめるというのが彼女の言い分だった。(上p.282)

 だから、本書にも「スヴェトラーナ・スターリナ」の頃の記録は頻繁に登場する。

良い子のスヴェトラーナはスターリンの自慢の娘だった。スヴェトラーナがいかに純粋培養された優等生だったかは、彼女が三年生の時に校長のニーナ・グローザの業績を称えて書いた作文からも、はっきりと読み取ることができる。「校長先生の指導の下で、私たちの学校はソ連邦で最も優秀な学校の資格を獲得したのです。スヴェトラーナ・スターリナ」。彼女はすでに「共産主義を目指す小さな闘士」だった。(上p.102)

第二五模範学校についてのオリガ〔・リーフキナ/スヴェトラーナの同級生〕の思い出は楽しいものではなかった。さすがに教師たちが貧乏を理由に生徒を差別することはなかったが、子供たちは事あるごとにオリガに劣等感を思い知らせるような扱いをした。後に過去を振り返って、彼女は証言している。「最も得意になっていいはずなのに、自分の地位にこだわることなく、本当の意味で『人間性』を堅持している人物が一人だけいた。それがスヴェトラーナ・スターリナだった」。(上p.145-146)

 スターリンの娘であることを強調し、理解をさせるため、あるいは単なる誤解から、スヴェトラーナを改姓後にも「スヴェトラーナ・スターリナ」と記述することがある。

三月六日、〔国務長官ディーン・ラスクソ連駐在のルウェリン・トンプソン大使に秘密電報を打ち、スターリンの娘スヴェトラーナ・スターリナが米国への亡命を希望して保護を求めて来た旨の情報を伝達した。(上p.354)

それはモスクワの米国大使がUPI通信の特派員ヘンリー・シャピロから得た情報に関するメモだった。

〈モスクワ発

 一九六七年三月十三日

 役に立つ可能性のある情報を入手したので、国務省に伝達されたい。三月十二日の晩に行われたポーカー・ゲームの席で、シャピロ記者はスヴェトラーナ・スターリナの子供たちに接触し、取材記事を書いたことを漏らした。

 シャピロ記者によれば、モスクワではスヴェトラーナ・スターリナは色情狂であるという噂が流されている。一方、彼女の息子と娘は母親はいずれは帰国すると確信しており、今は夫を亡くして気が動転しているのだろうと考えている。シャピロの意見では、スヴェトラーナ・スターリナは一般市民の生活水準をはるかに上回る快適な暮らしを保証されていた。取材に応じた息子と娘は二人とも感じの良い人物で、母親を愛している様子だった。〉(上p.370)

 そして、現在もスヴェトラーナ・アリルーエワをスヴェトラーナ・スターリナと称することはある。つまりスターリンの娘であることを強調するためだ。

bunshun.jp

 独裁者の子供が他国に亡命した例というと、かつてソ連の元首相スターリンの娘スベトラーナ・スターリナ(当時41歳)がアメリカに亡命し、世界を驚かせたことがあった。ちょうどいまから50年前のきょう、1967年4月21日、スベトラーナは厳重な警戒のなかニューヨークのケネディ国際空港に降り立っている。

 

 

ASEANは「反共の砦」だったか? 民青新聞を読んで

 共産党を「相談相手」にしている民青(日本民主青年同盟)が出している新聞(機関紙)に「民青新聞」がある。その2024年2月12日号を興味深く読んだ。

 というのは、「ASEAN東南アジア諸国連合)は『反共の砦』として出発したのではなかった」という歴史観が明確にそこ(民青新聞同号)に見出されるからである。

 同紙は「東アジアを戦争の心配のない地域へ ASEANの努力に学ぶ」という「論文」めいた特集を「上」「下」に分けて掲載している。しかも同じ号に「上」も「下」も掲載する破天荒なやり方をしている。

 あとで述べるけども、彼らが「相談相手」にしている共産党の「しんぶん赤旗」でもASEANについてのこんな詳細な記事(特集・論文)は見たことがない。そして、ASEANについて何の知識もない、ぼくのようなシロートにもわかりやすい記事であった(もちろん限界はある)。「しんぶん赤旗」読者であっても、民青新聞読者であっても、本当はこういう解説記事が望まれていたのだ。そこに挑戦したことは快挙であると思う。

 

「反共の砦として出発」という見方

 ぼくは前に倉沢愛子インドネシア大虐殺』の感想を書き、同書の次の記述に注目した。

https://kamiyakenkyujo.hatenablog.com/entry/2024/01/20/132318

インドネシア共産党PKI)などの大虐殺をした後〕スカルノからスハルトへの政権交代PKIの消滅によって、インドネシアはそれまでの容共国家から、親欧米的な反共国家へと変身した。東南アジアの勢力バランスは自由主義陣営に有利なものとなり、その結果、反共5カ国からなる東南アジア諸国連合ASEAN)が成立した。(倉沢kindle10/2548)

マレーシアとの関係が緊急に修復されると、それによって、東南アジアの主要国が政治的な結束を図ることが可能になり、翌年にはインドネシア、マレーシア、シンガポール、タイ、フィリピンの反共五カ国からなる東南アジア諸国連合ASEAN)が成立した。これは、当時共産化の道を歩んでいたベトナムラオスカンボジアインドシナ三国に対峙する重要な反共の砦となり、アジア冷戦構造における力関係に大きな変化をもたらした。(同書Kindle1843)

 インドネシアでのスカルノの没落を契機に、インドネシアとマレーシアの修復が進み、これらが「反共」のブロック=ASEANを組んだ、という見方である。

 また、『サクッとわかるビジネス教養 東南アジア』の感想も書いたが、

https://kamiyakenkyujo.hatenablog.com/entry/2024/01/07/140030

 そこでもASEANの結成の経緯は、

ASEANの発足は1967年、「バンコク宣言」を発出したことに遡ります。当時の加盟国は、インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイの5カ国。東西冷戦時代、共産主義国家であったベトナムカンボジアラオスに対する「反共の砦」としてスタートしています。(p.76)

として説明され、 やはり「分断・対抗」の象徴としてASEANを捉えている。

 そして、こうした見方がおおむねスタンダードなものではないかと思う。

 

「反共の砦」という見方への批判

 ところが、ネットを多少あさってみるだけでも、ASEANの出発点についてはそうした「反共の砦」ではないという見方を示している小論文をいくつも見かける。

 たとえば山影進(東大教授)「ASEANの変容 東南アジア友好協力条約の役割変化からみる」(国際問題No.576/2008.11)では次のように記している。

ASEANは、その原加盟国(インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ)がいずれも反共政治体制をとっていたため、反共同盟とみなされることが多かった。しかし東南アジアの反共5ヵ国がASEANという地域組織に参加したのは、同床異夢的な思惑を超えて、基本的には善隣友好の確認と相互信頼の醸成を求めたからであった。

https://www2.jiia.or.jp/kokusaimondai_archive/2000/2008-11_001.pdf?noprint

 あるいは、防衛研究所『東アジア戦略概観 2001』には次のようにある。

すべての加盟国が非共産圏に属していたことから、成立当初のASEANは東南アジアにおける反共組織とも見られたが、ASEAN社会主義体制をとる他の東南アジア諸国の加盟にも窓を開いていた。ASEANの成立時に発表されたバンコク宣言では、同宣言の目的や原則に同意する「東南アジア地域のすべての国家の加盟に門戸を開く」と明記されており、その目標は99年のカンボジアの加盟によって実現した。

https://www.nids.mod.go.jp/publication/east-asian/pdf/east-asian_j2001_03.pdf

 

 あるいは黒柳米司(大東文化大)「アジア冷戦とASEANの対応 ZOPFANをてがかりに」(アジア研究Vol.56、No.2、2006.4)には次のようにある。

さらにASEANは、反共で知られる諸国によって構成されてはいた(必要条件としての反共主義)が、反共であることが機構の存在理由だった(十分条件としての反共主義)わけではない。確かに、ASEANが成立し得たのは、1965年の「9・30事件」によるスカルノ政権の崩壊と反共スハルト新体制の登場というインドネシア内外政策の右旋回が不可欠だったということは疑問の余地がない。…しかし、ASEANの主要目標は反共産主義ではなく、マレーシア紛争に集約される域内諸国間の緊張と紛争の再燃を回避することにあった。実際、反共諸国の集合体という固定イメージを払拭することは、その後のASEANの発展過程にとって軽からぬ課題でさえあったのである。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/asianstudies/52/2/52_26/_pdf

 林奈津子(ミシガン大学大学院)「ASEAN諸国による地域安全保障の模索」(1999)もあげておこう。

設立の時期が冷戦最中であっただけでなく、米国にとって東南アジア地域の戦略性が高かったこともあり、域外国は大方ASEANを反共軍事同盟と見る傾向が強かった。しかし、ASEAN諸国にとって反共は一つの共通項ではあってもASEAN結成の直接的な目的ではなく、それゆえに各国政府はASEANの軍事的性格を意識的に否定した。より具体的には、新たに設立する地域機構ASEANを従来の大国主導型の反共軍事同盟から明確に区別する必要があったといえる。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/asianstudies/45/1/45_1/_pdf

 

 ここで共通しているのは、確かに反共5ヵ国が出発点であったが、反共は主目的ではなく、紛争や緊張を回避するための地域協力の機構として出発しようとした、という認識である。

 簡単に言えば、域外の大国(米ソなど)によって緊張・分断が持ち込まれ、紛争・戦争の巣窟のようになってしまっている現状から、域内の主体性を取り戻し、紛争や緊張を避けるような仕組みづくりをどう作っていくかと言うことが、最初から問題意識としてあったということである。

 ベトナムカンボジアラオスなどのいわゆる「社会主義国」がそこに最初は加盟していないのは、むしろASEANを「反共軍事同盟」とみなしていたからではなかろうか。

 

民青新聞記事のぼくなりの3つの注目点

 さて、そして「民青新聞」のこの号の特集である。

 「民青新聞」はよく共産党の政策担当者や協力してくれる学者などに論文っぽい記事を書かせている、あるいはインタビューを載せることが多いのだが、この号については、無署名である。つまり、「民青新聞」編集部が書いている、もしくは民青の幹部が書いていると言うことになる。

 「前半」の記事は日本共産党ASEAN訪問および同党の「外交ビジョン」の要約のようなものだが、「後半」はASEANの歴史を紐解いている。これはなかなか勉強になる、と思った。どのように勉強になるかといえば、「ASEANの出発点は反共ではなく地域協力を問題意識としていた」ということを資料などで後づけているからである(物足りない点もある)。

 いくつか注目した事実を書いておく。

 第一に、ASEAN発足前後の1946-1979年は「世界の戦死者の80%は東アジア地域に集中」(同号)し「その後半の時期の死者は、ベトナムカンボジアでの戦争が大きな要因」だったというスウェーデンのウプサラ大学の研究を紹介していることだ。

 ここで「東アジア地域」と言うのは、東南アジアを含めた地域のことだろうと思うのだが、何も記述がないのでわからない。

 記事は東南アジアの政治指導者の言葉を紹介して、ASEANを作ろうとした1967年ごろは、戦争・紛争の地域であり「分断と敵対」が特徴であったことを紹介する。

 日本は今中国・北朝鮮などと緊張関係にある。「ロシアや中国が攻め込んでくるかもしれないぞ」「北朝鮮のミサイルが来るかもしれないよ」と宣伝され、連携国であるはずの韓国との間でも歴史・政治的摩擦を抱えている。

 が、そんなレベルではないのだ。当時の東南アジアは。

 そこからASEANのような地域協力の枠組みが発展していくなど、誰が想像できただろうか?

 

 第二に、ASEANの出発点の理念が地域協力であったということを、記事は、紙幅の制約はあるものの、宣言文などからできるだけていねいに読み取ろうとしているのである。

 たとえば1967年の設立宣言。

 あるいは1971年の「東南アジア平和・自由・中立地帯宣言」。

 これらに、非同盟運動バンドン会議(1955年)の影響が盛り込まれているというのである。

 「読み取ろうとしている」というのは、たとえば、先ほどの「東南アジア平和・自由・中立地帯宣言」において「平和・自由・中立」という概念の関係をバンドン会議の原則から次のように記事は説明している。

 ここにも、バンドン会議の成果が反映されています。バンドン会議は、植民地主義は速やかに終わらせるべき害悪であり、他国による民族の支配は基本的人権の否定、国連憲章違反であると断じ、すべての民族の自由と独立への支持を高らかにうたいました。そして、「自由と平和は相互に依存している」とし、国際平和を実現するには諸民族の自由と独立が欠かせず、自由と平和は切り離せない、としています。

 平和・自由・中立地帯宣言が、まず「平和・自由」をあげたのも、そうした経過や歴史を踏まえてのことでした。

 そして「中立」について、この宣言の作成過程で、次のように定義されました。「戦時に公平な立場を保つという従来のコンセプトより広く、この地帯は思想、政治、経済、武装あるいはいかなる形の紛争、とくに域外の大国同士のこれらの紛争に直接、間接に巻き込まれず、域外勢力はこの地帯の地域問題、諸国の地域問題、諸国の国内問題に干渉してはならない」(72年ASEAN非公式外相会議)

 「中立」と聞いて、われわれは、戦争のときにどちらにもつかないということをイメージする。記事ではそれを「消極的中立」だと紹介し、ASEANは一歩そこから踏み出していると述べる。その地域の自主独立こそが中立なのだというわけである。

それは、紛争の一方の側を選ばなければならなくなるような事態に至らないように、主体的、積極的に関与・努力し、自ら地域に平和的な環境をつくりだしていく「積極的中立」の姿勢につながり、現代の「ASEANの中心性」へと進化していくものです。

 戦争になってしまって、さあどっちにつくか、どっちにもつかないよ、というような話ではなく、そもそもそのずっと手前から、「地域の外の大国」の自分たちの地域への干渉・関与の仕方を、積極的にコントロールするんだぜ、というわけである。ノータッチ! というわけでもなく、関係を積極的に持つけど、そんときはこういうルールで関わってくれよ、そして俺たちのこういうルールに従ってくれよ、と細かく確認していくし、粘り強く話し合って「いやいや違う、そうじゃなくて…!」という異論も言わせてもらうし、直してもらうよ、というようなイメージになる。

 それがASEANの今の姿だし、たとえば中国の南シナ海での横暴ぶりについても一つ一つただして、枠にハメていこうとしている。それを「全然中国なんか聞いてくれんやんwww」と嗤うことはたやすいが、即効性はなくても少しずつコントロールをかけていっているということはできる。

 

 第三は、そのようなASEANの取り組みの具体化としてTAC(東南アジア友好協力条約)とそれに基づく取り組みがあることが、記事でわかりやすく示されている。

 以上のような経緯を知って初めて、TACというものがどういうものか理解できるようになる。

 よくぼくが現場にいる共産党員などにASEANのどこがいいかを尋ね、その際にTACとはどういうものか聞くのだが、「紛争の平和解決し、話し合いで決める」とだけ説明される。しかし、それだけなのだ。そんなことだけ聞いても「国連憲章でさえそう定めているその原則をわざわざまた定めて何の意味があるの?」としか思えなかった。

 その点で記事はTACの役割についてちゃんと説明してくれている。

 まず、TACは前述の「平和・自由・中立地帯宣言」の具体化の作業である。

 TAC前文には国連憲章だけでなく、前述の2つの宣言、そしてバンドン原則との適合をうたっている。紛争の平和解決はその通りだが、

  • 相互尊重
  • 外部から強制・転覆されない権利
  • 内政不干渉

などがその前に定められていることが、まさに大国に干渉され振り回されて戦火が絶えない紛争地帯にさせられた歴史を踏まえている。

 そして

87年にはTACを域外に開放。ASEANと協力を望む域外国が、まず取り交わす約束の文書とされました。東南アジア諸国はすべての国々との友好を発展させることを望んでいますが、この地域で平和原則を守らない国とは親しく付き合わないという原則的な立場をとっています。

という発展をとげる。ここがポイントだろう。域外の大国・小国とは大いにつきあうけど、まずわれわれが示すこのルールを守ってよね? 守れないなら相応のつきあいはできないんだけど? と一札入れてもらうわけである。これはまさに東南アジアが舐めてきた歴史的な辛酸が反映されている。

 しかも、TACは「基礎」である。

 その基礎の上に、域外の国々との意思疎通や関与を細かく調整する具体的な枠組みを無数にASEANは用意してきた。

 それがARF(ASEAN地域フォーラム)、EAS(東アジア首脳会議)、そしてAOIP(ASEANインド太平洋構想)である。

 ただ、それぞれの枠組みが具体的にどのように関係国を調整してるかは、この記事だけではよくわからない。そこを解明するような新しい記事や解説がぜひ読みたいものである。

 

 東南アジアの紛争・緊張の歴史を踏まえ、ASEANという地域協力の努力を見てみれば、ロシアとNATOの対立から、「軍事同盟・軍事ブロックに入らないとヤバい」「大軍拡をして備えないと!』というような安全保障上の主張が短絡的に過ぎることがわかる。もちろん、軍事の選択についてはこうした地域協力の枠組みとは別に考えてもいいことだとは思うが、ベースとなるべき地域協力の取り組みが日本ではほとんど議論されたり、評価されたりしていないことは恐ろしいことだと思う。

 そのような日本の貧しい安全保障・外交のあり方へのオルタナティブとしてASEANを振り返ることは重要だし、共産党の外交ビジョンや今回の民青新聞の記事は貴重なものだと言えるだろう。

 

 ぼくもASEANの出発点について認識を変えたし、いろいろ勉強になった。いい記事である。

 

補足

 当の日本共産党については、このブログの前の記事のコメントで2001年3月の「前衛」論文「東アジアに強まる平和の流れ ASEANの歩みとARF」(北原俊文/赤旗外信部記者)でASEANの評価を大きく変えたという旨の情報があり、同誌を入手した。*1

 この北原論文では、ASEAN結成当初の性格をどのように規定していたのかを見てみよう。

 しかし、創立当初のASEANは、SEATOのような反共軍事同盟ではなかったにしても、たぶんに反共色の濃い、インドシナと対立する国家群であった。ベトナムからは「ASEANなるものはアメリカ帝国主義が東南アジアにおける自分たちの侵略政策に奉仕する手先たちを結集することを目的にしたもの」(ベトナム労働党〔現共産党〕機関紙ニャンザン、七一年一二月一日付)とみられていた。

 それでも、機構としてのASEANは、インドシナを共通の仮想敵とする欧米主導の反共軍事同盟の道にすすむことはなかった。むしろ、東南アジアのすべての国に加盟の門戸を開いていた。

 この通りで、だいたい前述の、「単純に反共の砦とは言えない」というネット上の諸論文と同じようなトーンである。

 

 しかし、北原論文は次のような指摘もしている。

 しかし、ASEANが創立当初から「平和と進歩の流れの強力な国際的源泉」の役割を果たしていたわけではない。東南アジアがASEANインドシナの二つの国家群に分裂していては、ASEAN創立のバンコク宣言にうたわれた目的自体も実現不可能であった。とくに、ASEAN加盟国のタイとフィリピンが米国のベトナム侵略戦争に直接巻き込まれおり、「ドミノ理論」の影響も受け、国内にも反政府武装活動を抱え、米国も「反共の防波堤」としてASEANを重視してテコ入れしている状況では、ASEANが独自の役割を果たせる余地は少なかった

 ASEANが転機を迎えたのは、やはりベトナム侵略戦争終結後である。

 つまり、理念としては全てを包摂する地域協力の方向性はASEAN創立当初からあったものの、実際にそれが稼働し始めたのはベトナム戦争後である、というような認識だろうか。それ以前は、ASEANとしてではないが、ASEANに原加盟していた非インドシナ5カ国は、実際にはアメリカなどとの反共軍事同盟的な活動をしていた…ということであろう。

 

*1:北原論文にも出てくるが、すでに前年(2000年)に行われた第22回日本共産党大会の決議ASEANについては、「東アジア地域」で1990年代に起きた「平和の激動」として「東南アジア諸国連合ASEAN)の動き」が規定され、「ベトナム戦争時代の対立を克服し、東南アジア十カ国すべてが参加する地域協力機構として発展している」と記述。東南アジアを「平和と進歩の流れの強力な国際的源泉を形成」と評価している。ちなみに、同決議では「ASEANは、すでに七〇年代から平和・自由・中立の志向を強めていた」とされている。

『ニッポン政界語読本 単語編』『会話編』『公務員の議会答弁言いかえフレーズ』

 政治家や役人が使う言葉の異常さ・奇妙さは、日々SNSで指摘され、ネタにされている。中には「ご飯論法」のように、公式の答弁としての基礎を破壊してしまうような重大性を抱えている言葉の使い方さえある。

 

 本書はイアン・アーシーという、一見すると「ずいぶん怪しい名前」(p.3)だが、「正真正銘のへんな外人」(同前)として実在するカナダのフリー翻訳家が書いた、日本の政界にはびこる特殊な単語・会話を取り上げて、それを理解し、うまく使いこなすための本である。練習問題までちゃんとついているワークブックなのだ。

 

 

 

 ぼくが読んで「なるほど」と思ったのは、『単語編』の冒頭にある「原則として」と「総合的に」である。

 まず「原則として」。東京オリンピックパラリンピック中のアスリートの検査頻度についてただされた、丸川珠代の次の発言をいじる本書のくだり。

 

文例(レベルチェック用)

ありがとうございます。このご指摘の論文は、もう既に皆さん、取材でお読みいただいていると思いますけれども、私どもがきちんと読ませていただきましたところ、明確な事実誤認や誤解に基づく指摘が見受けられます。まず、明確な誤認についてですが、論文ではアスリートへの検査頻度が明確ではないとしていますが、プレイブックには、アスリートに対しては、原則として毎日検査を実施するということが明示してあります。(二〇二一年五月二十八日)

解答の求め方

 このなかに典型的なぼかし言葉が潜んでいますが、みなさんはわかりましたか? いっしょに問題を読み解いていきましょう。

 選手の検査頻度がはっきりしないという論文の指摘を、丸川大臣は「明確な事実誤認」と片づけていますね。その根拠は、プレイブックに「原則として毎日検査を実施する」と「明示」してあること。当時のプレイブックを確認したら、たしかにそう記されています。

 でも、ちょっと待ってください。「原則として毎日検査を実施する」とは、どういう意味でしょうか。意味の近いものを選んでください。

(1)毎日かならず検査をやる。

(2)いちおう毎日検査をやるようにするけど、毎日やらない場合もあるかも。

 答えは(2)ですね。これで検査頻度は「明示」してあると言える?

 まあ、丸川大臣だったら言えるらしい。そこが「原則として」の妙味なのです。具体的な数字や基準を示しながら、それに拘束されるのを避けるための、例外の余地をいくらでも残すことができます。一方、聞いている側は「原則」という重々しい響きに惑わされ、そのトリックになかなか気がつきません。とくに口のうまい政治家に言われた場合は。

 というわけで、レベルチェック問題の正解は「原則として」ですね。お役人や政治家が好んで使う典型的なぼかし言葉なのです。(『単語編』p.12-13、強調は特に断りがない限り引用者。以下同じ)

 

 朱書きの部分は「原則として」という言葉について解像度をあげて観察し、どのような効用を持っているか、そしてなぜ騙されてしまうかが、簡潔に書かれている。

 これに加えて、丸川の場合、この該当ルールの持ち出し方が、思わせぶりで、自信満々なところ「明確な事実誤認や誤解に基づく指摘」「まず、明確な誤認についてですが」もそうした「ぼかし」を効果的にしている一因なのではと思わざるを得ない。

 あまりにもはっきりと書いてあるよね、見落としちゃったかな? みたいな。

 これをもし自信なさげに言ってしまったら、全く成り立たないだろう。

「あー、あの、プレイブックの方にはですね、一応『毎日検査を実施する』って書かれてるんですよね。まあ、あの、『原則として』ということではありますが。はい。だから、検査は毎日きちんとやることがですね、その、基本になってはいるんですよね。ええ」

 

 著者はちゃんとオチも書いている。

 みなさん、正解できましたか? 正解できなかった方もだいじょうぶ、ご安心ください。本書での学習を終えたら、この手のまやかしを見抜く能力はしっかり身につきます。

 原則として保証します。(同前p.13)

 「参考」のコーナーではギャグにまぶして次のようなことも書いていて、まさに「参考」になる。

 プレイブックの英語版では「原則として」の部分はin principleとなっていました。例の医学雑誌の論文の著者たちはこのin principleをどのように解釈したのでしょうか。標準的な英英辞典でこのフレーズを調べてみましょう。定義はじつにおもしろい。

「理論上ありうるものの、現実にはそうなるともかぎらないとことを示すのに使われる」

 著者たちは「原則として毎日検査が実施されます」の「原則として」をこのようにとらえたにちがいありません。だからこそ、検査頻度が明確ではないと主張したんでしょう。この英語の定義はそのまま「原則として」にも当てはまりそうですね。(同前p.13)

 著者は、この「原則として」がさらに日本の政治文化の中では例外との逆転を果たしてしまうことを、やはりユーモアの中で暴露していく。具体的には老朽原発の運転の「原則40年」という期限が、一つも守られていない状況となり、さらに岸田内閣になって完全に原則と例外が入れ替わってしまったことを国会答弁から明らかにしている。

 抜け穴という例外を拡大してついには原則との逆転をさせてしまうという転倒を、著者は見事に描いている。その最終的な形として「軍隊は持たない」とした日本国憲法第9条をあげ、「原則としてこれを保持しない」「原則としてこれを認めない」という「原則としての平和国家」を描き出す。

 考えてみれば、このように、小さな建前の抜け穴だったものが、いつの間にか現実の大きな原則に入れ替わってしまっているという政治の現実は無数にあるのではないかと思いをいたす。

 

 たとえば、次のような条文はどうだろうか。

博物館法 第26条 

公立博物館は、入館料その他博物館資料の利用に対する対価を徴収してはならない。ただし、博物館の維持運営のためにやむを得ない事情のある場合は、必要な対価を徴収することができる。

 すでに「博物館の維持運営のためにやむを得ない事情のある場合」に限らず、入館料を徴収するのが当たり前になっている。

 あるいは、次のような条文。

財政法 第4条 

国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない。但し、公共事業費、出資金及び貸付金の財源については、国会の議決を経た金額の範囲内で、公債を発行し又は借入金をなすことができる。

 もはや説明の必要もないだろう。

 

 次に「総合的」。

 本書では、安保法制、日本学術会議の選任などをめぐって「総合的に判断」「総合的・俯瞰的に判断」という言葉が、まったく具体性がなく、馬鹿らしいほど堂々巡りをしている様を国会での質疑応答から暴き出している。

 この言葉は、福岡市議会でもみた。

 市の名義後援が取り消された企画は文化芸術基本法に定める「文化活動」にあたるもので、名義後援取消などの形での行政の介入を禁じているではないかと共産党(山口湧人市議=当時)が追及している。

◯山口(湧)委員 本市は、2015年に平和のための戦争展の名義後援を突如取り消し、翌年から3年間名義後援をしない措置を取った。この平和のための戦争展は、文化芸術基本法における文化活動に当たると思うが、所見を尋ねる。

△総務企画局長 名義後援の審査に当たっては、催事の趣旨や全体としての内容が総務企画局総務課が所管する業務の行政目的に合致していることを前提として、その内容に特定の主義主張に立脚するものや特定の宗教を支持するもの等が含まれていないか、営利目的でないかなどを審査し、本市の名義後援の使用が妥当かどうかを総合的な観点から判断しているものであり、同法における文化芸術活動であるか否かを判断しているものではない。

◯山口(湧)委員 文化活動に当たるかどうかは明確に判断していないということか、明確な答弁を求める。

△総務企画局長 同法においては、文化芸術活動とは文化芸術に関する活動と規定されていることから、平和のための戦争展は同法における文化芸術活動に含まれるのではないかと考えているが、市の名義後援の審査に当たっては、特定の主義主張に立脚するものや特定の宗教を支持するもの等が含まれていないかなどを審査し、本市の名義後援の使用が妥当かどうかを総合的な観点から判断しているものであり、同法における文化芸術活動であるか否かを判断しているものではない。

◯山口(湧)委員 同法では、市が名義後援を行って支援するときも事業の内容には介入してはならない。今の答弁は同法の趣旨と明確に矛盾していると思うが、所見を尋ねる。

△総務企画局長 名義後援の審査に当たっては、催事の趣旨や全体としての内容が総務企画局総務課の所管する業務の行政目的に合致していることを前提として、その内容に特定の主義主張に立脚するものや特定の宗教を支持するもの等が含まれていないか、営利目的でないかなどを審査し、本市の名義後援の使用が妥当かどうかを総合的な観点から判断しているものであり、展示物の内容が同法における文化芸術活動であるか否かを判断するものではない。(2020年9月23日)

 文化(芸術)活動なら介入できないだろ? 文化(芸術)活動ではないのか? という質問への回答を執拗に避けて「総合的に判断」を繰り返している。

 

おいおいマジで書いている本もあるんだけど

 そうなのだ。

 実は、この「政界語読本」は当然理事者・当局者、つまり行政側の答弁として使えるのだが、あくまでの本書イアン・アーシーはそれを皮肉るためのギャグとして書いている。

 ところが、それを真顔で本にしてしまっているのがこちらである。

 森下寿『公務員の議会答弁言いかえフレーズ』(学陽書房)。

 こちらはいたって大まじめ。

 「すぐに使える鉄板表現70!」とあるように、地方議会の答弁として本気でこれを使って欲しいという誠実な気持ちで書かれている。著者・森下寿(もりしたひさし)は筆名。プロフィールを見ると「基礎地自治体の管理職」ということだ。つまり覆面で現役の管理職公務員が書いているのである。イアン・アーシーの「怪しさ」とは真逆である。

 まあ、表紙に書かれている「言いかえ」だけでもみてやってくだされ。

 おおっ、「総合的に判断」が出ている!

 担当課としてはやる気があったのに、財政当局にカットされてしまったのだが、その無念をそのまま口にするわけにはいかないのである。

 「ここがポイント!」には

予算案はあくまで行政が一体となり提案するもの。本音は言外に匂わす程度に。(p.16)

と「やさしく」解説している。本文はさらに詳しい。

 こうしたとき、答えに窮して思わず口にしてしまいそうになるのが、「財政課に予算を切られました」というフレーズです。「自分は担当課長として、議会側の要望も踏まえて財政当局に予算要求したのだが、結果的に査定で切られてしまった。やることはやったけれど、財政家が予算化してくれなかったのだ」——。そんな重いから、ついこのような答弁〔財政課に切られました〕をしてしまうのです。

 しかし、これは役所全体から見れば×の答弁です。なぜなら、予算案はあくまで行政が一体となり、議会に提案するものだからです。

 このため、「総合的に判断して見送りました」または「全庁的な判断として見送りました」が適切な言い方です。これだけで、「担当としては予算要求したのですが、予算案に盛り込まれなかったのです」ということを議会側は察してくれます。(p.17、強調は原文)

 いや、全然察してくれない議員もいると思うけど(笑)

 

 ちなみに、「実施する可能性のあることを提案されたとき」(p.20)

×「実施するかどうかわかりません」

◯「今後、検討します」

 

「当面は実施予定のないことを提案されたとき」(p.22)

×「今後、実施するかどうかわかりません」

◯「今後、研究してまいります」

 

「実施するつもりが全くないことを提案されたとき」(p.24)

×「実施するつもりはありません」

◯「それも考え方の一つと認識しております」

 

「すぐに実施できないことを提案されたとき」(p.26)

×「時期尚早です」

◯「現段階では課題があると認識しております」

 

 まさに役人用語だけど、この本は、なぜそのように翻訳すべきなのかがあわせて書かれていて、役人側からの事情がよくわかるようになっている。

 補聴器の補助制度を福岡市で求めると「他都市の動向を注視してまいります」と答弁されるので、実際には注視などしておらず、「本市での実現は無理だ」と言われていることになる。

これ〔「他都市の動向を注視してまいります」答弁〕によって、時間を置くことを表明できます。一時的に脚光を浴びた事業だとしても、それは短期的な評価であって、長期的に見て本当に妥当なのかが判断できないからです。実際に実現するにしても、本当に本市にとって効果的なのか、さまざまな視点から検証することが必要です。

 このため、「先進事例は、すぐに実現の可否を表明しない」ほうが無難なのです。(p.29、強調は原文)

 

 答弁だけではない。

 議員との付き合い方も書いてある。

 

「本会議質問の内容を作成してほしいと依頼されたとき」

「本会議質問の内容をなかなか教えてもらえないとき」

「委員会で特定の質問を依頼するとき」

「すぐに資料がほしいと言われたとき」

「過大な資料要求があったとき」

「議員が自分の話ばかりするとき」

「他の管理職に対する苦情を聞かされたとき」

 

 

 この種の本は「誰が読むんだ」と思いがちだが、意外に類書は多い。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 以前高校の同窓会で、県の議会答弁を書く側に身を置くようになった同級生と話したことがあるが、答弁の温度・匙加減の話でめちゃくちゃ盛り上がった。そういうことなのである。

 

 

 

おづまりこ『ゆるりより道ひとり旅』

 40代女性のコミックエッセイである。表題の通りだ。

 本作では、京阪神の各所に出かけて食べ歩きをしている。

 この作者については、つれあいの方がよく知っていた。彼女がネットでよく見かけるからである。『わたしの1ヶ月1000円ごほうび』なども知っていた。つれあいは「食べ物がうまそうに描けているよね〜」という評価を持っていた。つまり、つれあいは、非常に素直にこの作品を、テーマどおりに読み、受け取り、楽しんでいるのであった。

 その差だと思うけど、ぼくは食自体にはそれほど執着がない。グルメではない、という意味で。だから、つれあいのように、「あっ、これ食べてみた〜い」というような感想ではなく、全く別のところに反応してしまった。

 

 例えば、作者は、まず京都で「パンづくし」のひとり旅をする。

 「パンづくし」…?

 「京都はパン消費量No.1」なのだそうで、そこで作者は京都(市)の「パン屋で思いっきり買いまくる」という旅を計画するのだ。

 ぼくもパンを食べるのは嫌いではない。だが、例えばぼくはつれあいとほぼ毎週のように日曜日に散歩をして、そのたびにつれあいはお気に入りのパン屋に行き、しこたまパンを買って帰るが、そこまでの執着はない。パンならなんでもいいのかといえば、近所のいくつかのパン屋はダメで、2キロほど離れたショッピングモールにあるパン屋で必ず買う。そういうこだわりがあるのだ。

 この作者はそれに輪をかけた感じで、京都で行きたいパン屋をリストアップして、買いまくるという旅に出る。

 「そんなに食べられるわけないだろう」というのが初手の感想。

 ところが、作者は期待値を上げるために旅行の1週間前から朝は好きなパン食にせず、グラノーラに替えて「パン断ち」をするほどなのだ。

 買いすぎてはならないと作者が自戒をするために、容量の決まった保冷バッグを持って「これがいっぱいになったらその日の買い物終了」というマイルールを定め、京都でパンを買う旅に出る。

 買ったパンは、どれもぼくからみて濃厚なのものばかり。

 それをどんどん買っていく。

 最終的に2日間の旅行で13個のパンをゲットするのだ。

 「え、それ全部一気に食べんの?」と思ったら、冷凍して小出しにして食べるのだそうである。冷凍してまで…!? というのが率直な驚き。

 しかし「小出し」にはならず、どんどん食べてしまい、1ヶ月後、体重が2キロ増えてしまったという。

 この第1章を読んで、すでにその旅行のありようが、想像を絶するものだった。「そう? これくらい当たり前では?」と作者ならずとも思う人もいるのかもしれないが、ぼくには考えられないパンとの距離感だった。

 

 むしろ京都の旅行という点では、本書第6章の「京都で懐かしおもいで旅」の方に親近感が湧いた。

 作者は京都で学生生活、しかも出町柳近辺で生活していたらしく、それを懐かしみながら(食べ)歩くという旅だったのだが、ぼくもよく知っている場所などが頻繁に出てきたのである。

 特に「出町ふたば」の「豆餅」。並んで買ったとあるが、あ〜あそこの豆餅うまいよね〜と思いながら読む。そして、下鴨神社、鴨川、一乗寺、自転車…懐かしい。

 ぼくも若い頃によく行った店が今どうなっているのか見てみたいし、そこで食べたものをもう一度食べてみたいという気持ちになった。本書で紹介されていた店に行きたい、という感想ではなく。

 「友楽菜館」とか「おらんじゅ」とか「セカンドハウス」とか「進々堂」とか「まどい」とか…。今あるかどうか知らないけど。

 

 第3章の最後にある「旅する前の情報収集」というコラム的なところで、「行きたい店リスト」を作るときに、ネットで探すとなかなか好みの店が見つからず、雑誌で目星をつけるという方式をとっていることに注目した。

 確かに「ネットで探す」というのは、本当にいい店なのかどうなのかわからないのである。作者は2年分くらいの雑誌のバックナンバーを揃えるという徹底ぶりなのだが、なるほどそのようにセレクトがかかったものの方が逆に効率がいいのだろうと思った。そのせいで作者は、かなりの数の古雑誌を抱えてしまうことになるのだが…。

 

 第5章では神戸に出かけている。

 ここで「バーに入る」というクエストをやっているのだが、ひとり旅のエッセイなんか描いているから、そういうところはひょいひょい入れるのだろうと思っていると、さにあらず。

 「ひとり飲み」にめちゃめちゃ緊張している。

 ぼくも、一人で飲み屋やバーに入ることはまずない。

 よく飲みにいく友人がいるのだが、その人は、ぼくと二人で飲んだ後、別れて一人で飲み屋にいく。あとで話を聞くと飲み屋やバーで一緒にいた人たちやマスターなどと話をして仲良くなっている。

 一体どうやってそんなことができるのだろうといつも不思議に思っていた。

 この章では、そのような「ぼく状態」であった作者が、酒の力を借りて、どうやって「ぼくの友人状態」のような社交性を発揮するのかが描かれている。そういうふうにすればいいのか…。

 

 まるでぼくとは嗜好が違うから、本書を果たして楽しめるだろうかと思ったものだが、なかなか楽しく読めた。