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日記を書くという習慣は、自分の中にはなかった。19才の頃、大学ノートの分厚いやつに、その頃はやってた歌の歌詞を書いているうちに、日付のあるメモを残すようになった。だんだんそれがエスカレートしてきて、ちょっとしたエッセイから、しまいには短編小説になった。書き始めると時間を忘れ、眠るのを忘れ、食べるのを忘れた。そのくらい自分の中に没頭できた。今、その時間を捻出するのに苦労してる。会社では電話と打ち合わせに追いまくられ、自宅に帰るとパソコンを家族に占領され、山積みの本をどけながらノートを開いているうちに、眠りこけ、あわてて着替えて眠りに着く。そして朝が来る。時間は作るものだよ。そうやって後輩に説いていた自分が、もうその体力と気力がなくなり始めているのを感じている。まずい、このままではまずいことになる。書き残しておきたいことが山積みのまま、医者の最後の声を聞くことになる。ご臨終ですという最後の審判を。
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こんな夢を見た。いりくんだ海岸線の砂浜で、凧揚げをしている。凧はカモメの形をしていてよく揚がる。近所のカモメたちが近づいてきてはあたりを旋回している。凧の糸をクイと引いて、カモメたちを驚かせて楽しんでいる。心当たりのある昔々の風景。あの頃の私はまだ遠い未来を予測できずに迷っていた。毎日のできごとに流されながら生きていた。原因のわからない不安が先立って、びくびくしながら生活していた。そんな夢を見ると、あの頃海岸で出会った人々に再会してみたくなる。私は成長したのだろうか。もう、別人の様に変わってしまって誰もわからないのかもしれない。あの、海岸へ。あの海岸へいかなくちゃ。
それからさきのことは
日めくりカレンダーをめくるように、毎日が過ぎていく。はらりはらりと過ぎ去っていく。このままでいいのだろうか。まるで青春の真っ只中にいるような疑問符がわいてくる。いくつかの曲がり角を過ぎてもう、後戻りなど出来ない所まで来てしまっている。一度高い塔に上って眺めてみる時間も必要かも・・・・。
稲刈り
子どもの頃、母方の田舎に預けられると、怖いじいさまが農作業を手伝えと言う。春は泥の中に足を突っ込んで田植え。ヒルにめいっぱい血を吸われザリガニにはさまれる。秋は稲刈り、それも鎌を砥石で研ぐ所から始まる。井戸で水をくみ上げ、何十年も使い続けて真ん中がへこんだ砥石に刃を当てる。稲刈りは意外に楽しい。切り取った束をさらに束ねて干す。それから脱穀。庭じゅうに筵を広げて籾殻にまみれての作業。終わった頃には、ばあさまが握ったにぎりめしが待ってる。思い起こせば幸せな日々だった。裏庭の鳥小屋にタマゴを拾いに行き、あつあつのタマゴご飯が朝飯だった。海へ散歩に出れば、シラスが干してあって味見をさせてもらったし、川に行けば釣ったばかりのアユを土産に貰った。あれはひょっとしたら桃源郷だったのかもしれない。自分で耕し自分で収穫し、満腹になったら横になり、日が暮れたら眠る。虫や鳥や獣達とはだしで遊び、美しい花や木の実に見とれた。許されるならば、あの頃のあの時代に戻りたい。
ドッペルゲンガー
もう一人の自分の存在。昔何かの本で読んだ記憶がある。この世の中にはもう一人の自分が存在していて、稀に出くわすことがあるらしい。これだけ日本中を廻っていれば、そろそろ出くわしても良さそうなものだが・・・。何がしたいかというと、もう一人の自分と入れ替わって生活してみたい。たぶん意識と言うのはどこかで繋がっていて、初めての町でも暮らしていけるはず。ただし、誰かと一緒に暮らしていた場合・・・その相手に気づかれるのではないだろうか。それもまた面白いかもしれない。そんな空想を膨らませながらの出張はなかなか楽しいものである。