キャベツは至る所に

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日記4/7

U-NEXTが電子書籍販売のみならず、話読み単位のマンガ配信も始めてだいぶ経つ。

Twitterなどでものべつ書いてきたことだが、2018年ごろから去年に至るまで「家を取り壊すからゆくゆくは引っ越すけど、急ぐ必要はない」という前提で暮らしており、無軌道に行なっていた古本マンガ一気買いにもストップがかかり、マンガを読む量がそれ以前と比べて激減していた。しかも2020年からはコロナ禍に入り、立ち読みにも制限がかかった。それこそ学生時代から主にブックオフでやってきた、拾い読みをして気になるようなら買う・100円棚で見つけたものをバクチ半分で買ってみるなんてことのハードルも上がった。ちょっと前のエントリで書いたような「コロナ禍に入り、やってきたことの連続性が途切れた」みたいなことは、こういうレベルでも起きている。金を使わないと分からないことはたくさんある。

今日の時点で、U-NEXTで無料配信されているマンガは「毎日無料」「毎日無料+」という2種類に分かれ、それぞれ違うポイントを消費して読む。ポイントというか、ソシャゲのスタミナに近いと言うべきだろうか。「毎日無料」は各作品ごとに1日1回消費でき、正午過ぎにチャージされる。「毎日無料+」は毎日6時・18時に6ポイントずつチャージされ、「毎日無料+」対象作品に対し、任意に消費できる。6ポイントのうち、2ポイントずつ使って3作品を2話ずつ読むことも、1作品を6話読むことも可能。「毎日無料+」対象作品にも「毎日無料」のポイントは更にチャージされるので、「毎日無料+」作品はマメにポイントを使い切れば、1日に13話読めることになる。

マンガアプリユーザーには常識だろうが、基本的にこういうポイントは累積されないので、どうしてもポイントを消費し切ってしまいたいと思う欲が出てくる。しかしぼくがスマホゲームにそれほど手を出してこなかったのは、デイリータスクとかを意識するあまり、生活の中でゲームを遊ぶのではなく、ゲームの形に合わせて生活を変形させるようになるのが嫌だったからだ。今までスマホで遊んだゲームは片手で数えられる。ゲームがやりたくてというかV6のファンとして『ラブセン』を遊んだほかは、『ねこあつめ』『ひとりぼっち惑星』『オルタエゴ』だけだ。偏りのあるラインナップ。

U-NEXTをそうやって利用し出したのと、タブレットを買ったことが加わって、年末ごろからマガポケとかゼブラックでもマンガを読み始めたのだが、「他にやらなきゃいけないこともあるし、今日のポイントは腐らせよう」と振る舞えるようになったのはけっこう最近のことである。一旦ではあるが、ようやく望ましいバランスを見つけられたなと思う。

何にせよ、気になっていた作品をまとまった量読めるチャンスがあるのは嬉しい。昔、暇を見つけてはブックオフまで自転車を漕いで行っては「名前は知っているけど読んだことない本を、とりあえず読んでみよう」としていたころの感覚を思い出す。

 

かなり以前からジャンプ作品もロクに読んでいなかったので、ようやく『Dr.STONE』をある程度読んだりした。といっても『アイシールド21』をリアルタイムで読んでいたので、感触はかなり懐かしい。数年前にハイキュー・ヒロアカのアニメを一気見した時にも思ったことだが、ジャンプ作品はターゲット層の問題もあって、成長とか勝利といった、何かを獲得する要素を主軸として採用しやすい。それこそ『Dr.STONE』は「新しいことができるようになっていく」ことがそのまま話の推進力になってゆく造りで、その明快さから、読んでいてポジティブになりやすい。それもあってグイグイ読んだ。だからこそ「薬効でハイになっている」という感想も浮かんでしまいやすく、ハイな状態自体に醒めてしまう危険があるのも、そういう快楽の怖いところなのだが。

 

山本直樹が綴っていたことだったか、それとも山本が引用していたのだったか、「佳境で回想シーンが連発されるのは、構成力のない証拠」という言葉が記憶に残っている。そのものズバリの言葉だと思う。「あのシーン覚えていますか? あれはこのシーンのための伏線だったんですよ」みたいなタイプの回想もそうだし、「今から主人公に倒されるこの悪役にも、こんな来し方があったんです。哀れでしょう?」みたいなタイプの回想もそうだ。前者であれば、ことさらに復習のタイミングを設けなくても記憶に残るよう描くのが作り手の課題であるし、後者であれば、そういうのは後出しジャンケンじゃなくてもっと周到にやってくれ、と思ってしまう。

久しぶりに、話題作・人気作をざっと読んでみたら、そういう作劇の作品がとても多かった。上で引いた「回想シーンの連発は……」という言葉が頭にある身としては、何で皆こんな構成にしてしまうんだろう、と当初は思った。しかし最近になって、こういう叙情の仕方が求められてるのかもしれない、要求があるからこういうものが作られているのかもしれない、とも思い始めている。敗北するキャラのバックボーンが、まさに敗北する直前に描かれれば、お話が明快にはなる。もちろん明快さは単調さを生むけれど、分かりやすさだけが引き起こせる理解のスピード、そのスピードがもたらすカタルシスというものもある。マンガにおいては、そのスピードがあって初めて出来る画作り――構図のデザインの妙・視線誘導の快楽――とかいった要素もある。

 

それとは別に、少年誌青年誌を問わず、マンガを色々バーッと読んでいて「例えばジャンプ読まなくなって15年ぐらいは経つけど、昔こういうコマ割りってあんまりなかったよな」と思ったポイントがある。その話の最終ページのコマ割りだ。

最終ページは次回へのヒキを作るべきページだから、大ゴマで終わることが比較的多い。次回に活躍するキャラが見得を切るとか、スポットが当たっていたキャラの感情が最後に爆発するとか、誰かのピンチに誰かが駆け付けたとか、画面を大きく使って描いた方が(原則的に)良いシーンが入りやすい。

掲載誌も連載時期も異なる作品を色々読んでみて、今って平気で小ゴマで終わるな、と思う。その後もまだまだそのシーンが続いていくのに、スッと終わったりする。まるでページをめくれば話が続くかのような、起承転結の承・転の真っ最中みたいな感じで一話が終わる。ヒキのためのページ、ヒキのためのコマというのがない。もちろん毎話そんなページ作りをするのはプロでも大変だろうし、その作家が毎回毎回そうやって一話を完結させているわけではないのだが、やはり気にはなる。

配信で話読みするのが一般的になっていき、モノによっては本誌掲載上の一話を分割して配信するケースもある(つまり掲載上の一話を読むのに何ポイントも費やす必要がある)から、その辺のコマ割りに凝らなくなった作家が多い……みたいな意識の変遷はあるんだろうか?

なお『Dr.STONE』だが、ここまでで書いた回想シーン連発・最終ページのコマ問題のようなことを感じずに読んだ。「あれはこの時のための伏線だった」という復習的な回想の挿し込み方はさりげない(それこそ小ゴマでサッとやってくる)し、見開きで終わるとか「次回でこれがクラフトできるようになるぞ!」みたいに終わるのがほとんどだ。稲垣理一郎がどれだけネーム(コマ割り)に関わっているか知らないけれども、やはりアイシールドの感触を思い出して懐かしい。

 

今、配信上での一話の分割について書いたが、マガポケで『なるたる』を読み返した時、今でも語り草になるような暴力表現が凄惨な回に限ってめちゃくちゃ分割されてて、その露骨さに笑ってしまった。

 

最近、小説のネタ出しの一環で、あまり音楽の話をしたことのない友人グループに音楽遍歴を聞かせてもらった。そのグループでは自分が最年長で、年下の相手にそういう話を聞きたかった。守備範囲がある程度バラバラに見える友人たちの共通の趣味要素としてボカロがあるのにも驚いたし、「高校生と接する機会があるが、今の子たちは既に流行音楽の中核的要素としてボカロを聴いてる」「昔で言うミスチルバンプ・ラッドみたいな位置にボカロを置いてる子がいる」という話も鮮烈だった。初音ミクの流行は自分の学生時代にも興っていたけれど、当時は他に、ライブを観に行ったりCDを買い漁ったりするジャンルがあったこともあり、全然触れずにいた。2007年ごろからニコニコ動画は観ていたし、ニコ動でも音楽や音楽に関係する映像を探すことはあったのだが。そのころ初めてボアダムスV∞REDOMS名義)を観たりしたので、YouTubeには上がってないBOREDOMSハナタラシの映像がないか検索するなどしていた記憶がある。特定の投稿者の選曲を好きになって、〇〇まとめみたいな動画を片っ端から再生して、歌詞を検索したりコメントを頼りにしてバンド名や音源を割り出したり。

そのまま現在に至り、ボカロには明るくないままだ。あのアニメの主題歌を歌ってるあのミュージシャンがボカロPとしても有名だった、というのを知って「へえ」と思うことは最近でもザラにある。ただ友人たちから聞いた「好きなPの提供曲を聴いて、歌っている人にも興味が湧く」とか、「即売会で買った音源を回してもらって、ニコ動未公開曲を知る」とか、「売れた後のライブで旧名義の曲演奏されてアガる」とかいった話は、自分が音楽の知識を広げている間にも同種の経験をしてきたような話だった。細野晴臣ワークスと知ればとりあえず聴いてみるとか、有名なジャズのアルバムを聴いてみて印象に残ったプレイヤーの名前はなるべく覚えておき、その人のバンドも聴いてみるとか、「キーボードの使われ方がどうも好きだな」と思ってクレジットを見たらやっぱり皆川真人だったとか、弾き語りを観に行ったらその人のバンド名義の曲を聴けて「ギター一本だとこういう歌に聴こえるんだ」と思ったりとか。ところ変わっても、同じような手続きで、みんな音楽を聴いているのだ。

 

「最近の人は、そういう感じでボカロを聴いていて……」という話を、今度は全く別の、自分より年上の友人たちに披露したところ、当然まったく違う話になって面白かった。要約すると「空間で鳴らすっていう前提がない音楽だから、自分たちにはなかなか馴染みづらい」みたいな話だ。自分より遥かに音楽に詳しい人たちの集まりだったから、とても楽しく聞き役に回っていたのだが、自分の音楽体験も色々思い出す良い席だった。

ギターノイズの轟音がライブハウスに充満している瞬間、何度も陶然とさせられてきた。生音が入っているバンドを観ると、プレイヤーの音量の調節の手技だけで戦慄するようなことがあるが、そういう調整を三管でやっていたりするのを観ると、ハーモニーの美しさはたゆまぬ研鑽と現場感覚によって作られるのだと背筋が寒くなったりする。複数のジャンルが混沌とした、他にはない楽器編成のバンドだとその感動もひとしおだ。yojikとwandaのyojikさんが最近バイオリンをよく使うが、ガットギターや二胡の音とバイオリンが合わさるとこういう聴き味になるのかと感動したりした。

ここからは、その時の話の紹介というよりか、ぼくが膨らませた雑感である。なお電子音楽についての細かな言及は、都合よく避けさせてもらう。

DTMがここまで発達する以前、音楽は基本的に、人間が空間において鳴らす前提のものだった。空間の中で鳴り響いているものを体で感じる、つまり会場と音とが調和している瞬間の快楽というのは、体験した人なら克明にイメージできるだろう。また、プレイヤーとリスナーが関係し合う瞬間――素晴らしい表現と、それに今まさに感動する人たち――ライブがその体感の場として設けられている、ということもそうだ。

ただ、今書いている「空間」の話というのはもっと実際的な話だ。劇場や舞踏会で演奏する管弦楽団、ライブハウスやバーで演奏するバンドやシンガー。例は何でもよいが、このハコにはこういう音楽が求められているという要請があり、この音響ならこういう表現が出来てこういう表現が出来ないといった限界がある。更には、その時々の流行や風俗、今の日本でいう風営法のような規律や制限といった前提の上で、こういう音楽をやるにはこの楽器の奏者が必要で、誰かのコネでこういう人物なら引っ張ってこれて……みたいなしがらみなどを越えて演奏集団が結成される。ヴェニューでの演奏というのは、その蓄積の上で一瞬だけ展開されるものだ。その上で、いつも通り演奏すると会場側の機材や音響の問題でニュアンスが全然違ってしまうなんて事態にも見舞われ、最前列の客にはうるさ過ぎ、最後列の客には何を歌ってるか聞き取れない演奏が実現してしまったりする。そしてその時に集まった客がそれを評価し、公演が持つ権威によっては後世までその評価が語り継がれたりする。

音楽はそうやって存在してきた。そうやってプレイされ、録音され再生されてきた。DTMを「そういう前提から解放された音楽」と言う態度も、「そういう前提を失ってしまった音楽」と言う態度も、どちらもあると思う。それは創作における精神の組み上げ方の問題で、どちらが優れている、どちらが誠実だというものではない。ぼくが気になるのは、空間を前提としない音楽に慣れ親しんだ人が「人間の肉体を使ってこんな音楽ができるんだ」「この会場では音がこういう風に聴こえるんだ」とかいう驚異に出くわした時にどういう感動をするのか、またはそういう音楽にだけ親しむことは、そういう驚異に気付ける感覚も痩せさせてしまうのか、ということだ。

小規模なフェスとか、フードメインの野外イベントに音楽ステージを設けるような試みも増えているし、条件が揃えば「その空間に流れるべき音楽」が流れることは、きっとこれからもある。面白い音楽を作っている人は、いつの世も探せばごまんといて、イベンターたちも「まだ届いていないだけで、この音楽に触れたら感動する人がたくさんいる」と信じて企画を打っている。発生のチャンスはたくさんある、とは思うのだが。

 

最近、大塚英志の『サブカルチャー文学論』を読みつつ、昔「動ポモ」を読んだのに読んできてなかった東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』を読んだりしているので、こういう「空間」の話を考えていった時、その問題と大塚がよく言及する「公共性」とを、自分がどう結び付けるだろうかと思ったりしている。

 

日記3/18

明日『gift』を観に行くので、やっと『ドライブ・マイ・カー』を観た。カメラが誰のまなざしであるかとか、映画を観る自分たちのまなざしがむしろカメラによって撹乱させられているとか、そういうことを感じながら映画を観るのは本当に楽しいが、『ドライブ・マイ・カー』の面白さは、役者の目線の意味するものや信頼性について疑わせてくれるところにあり、巧みだった。原作は読まずに観たが、文芸映画としての良さというか、きっと《行間》まで映像にするための腐心がなされているのだろうと信じられる出来映えだった。村上春樹作品における、キャラクターが《展開》に従う時の感覚がありありと蘇った。例えば旅先で交通機関がストップして予定外の宿泊を余儀なくされるとか、公共システムと直面せざるを得ずにマイルールが侵害されるとか、そういうシーンの感覚。『寝ても覚めても』は逆に原作を読んでから観たいと思っている。

 

昨日ROTH BART BARONを観に行った。ライブ中、バンドメンバーが一旦退場し、三船雅也が一人、弾き語りでミッシェル・ガン・エレファントの『世界の終わり』を歌った。原曲のようなスピード感やビート感ではないアレンジ、自分がROTH BART BARONを聴き始めた10年前ぐらいの彼らのイメージに近い歌い方だった。

ぼくはチバユウスケの熱心なリスナーではなく、フェスを除くと、自分でチケットを取って彼のバンドのライブを観に行ったのは一度だけで、ファンと名乗るのはおこがましいと自覚しているのだが、それでも彼の死はショックだった。ミッシェルの解散とROSSOの活動開始は、意識してギターロックを聴こうとし始めた時期とほとんど重なる。受けてきた影響は、何だかんだ大きい(主に音源を買うジャンルを、初めて意識して変えた時期とも言える。具体的に言うとヒップホップ・R&Bあたりからのシフトだった)。

何がこたえたって、訃報が広まった後の、色々なバンドマンやアーティストたちの反応だった。SNSに、彼らがチバと一緒に写った写真がたくさんアップされるのを見た。そういう時のチバは大体破顔していた。ステージでの鬼気迫る表情と同じぐらい、笑顔の印象が強いバンドマンだった、と思った。ああいう人はやはりなかなかいない。いまだに整理の付いていない心の部分がある。まさかROTHのライブを観に行って、ミッシェルの曲がカバーされるのを聴くときが来るとは思わなくて、きっと人が歌うチバユウスケの歌をこれからも聴いて、そのたび気持ちの整理が進んだり、むしろ散らかったりするのだろう。

アベフトシの訃報を聴いた時のこともよく覚えている。金田伊功の訃報を、同じ日に聴いたことも。子供のころラッキーマンのOPに感じていた面白さを、「ブライガー」とかのロボットアニメの映像からも感じるのは、楽しい体験だった。スパロボも遊んでいたから、いつかはブライガーに触れて、この光線のアニメーションの描き方はラッキーマンのOPのそれじゃん、と気付いていただろうと思う。しかしミッシェルを聴かなかったら、いつウィルコ・ジョンソンに辿り着き、そこからミック・グリーンまで聴いただろうとは思う。自分のロックの聴き方を顧みてみるに、きっと遅かっただろう。遅いどころかパイレーツは人から教わっていなければ聴いていなかった恐れすらある。

 

スーパーロボット大戦OG ムーンデュエラーズ』(以下「OGMD」)を、PS4で遊び始めた。PS3は当時持っていたのだから、発売された2016年にPS3で遊ぶことも不可能ではなかったが、前作にあたる『第二次スーパーロボット大戦OG』を遊んだのも発売からけっこう経った後だったので、OGMDに手を出すのが遅れた。中古市場価格やネットショップのセール価格とかを見て、良いタイミングで買おうと思っていたが、OGというシリーズ自体の完結自体が危ぶまれている噂がまことしやかに流れてきて、さらに購入に二の足を踏む羽目になっていた。

OGというのはオリジナルジェネレーションズの略で、ガンダムとかゲッターとかマジンガーとか、ダンバインとかレイズナーとかブレンパワードとか、ジャイアントロボとかライジンオーとかダンクーガとかが全く登場しない、スパロボ側が作ってそれらの作品と同様にユニットとして登場させたキャラクター/ロボットだけで展開されるシリーズである。

ユニットアイコンを使ったステージマップ上でのデモシーンが充実しているとか、機体の乗り換えやキャラの組ませ方に凝ることで「自分が戦術を組んでいる」と実感できるとか、自分がスパロボに求めているのはそういう操作感で、OGMD発売後にPS4などで出たVXT三部作や30よりも、第二次OG~OGMDの方がそういう点での満足度は高い。あとよく言われることだが、OGシリーズの方が、作品の肝のひとつである戦闘アニメも凝ったものが作られやすい。原作のアニメがあるわけではないから、演出上の制限がないためだ。アクションシークエンスとか構図を再現する必要とか、決め台詞を前提としてカットを割るとか、そういう種々の制約がOGにはない。むしろ「90年代のゲームハードではこう表現するしかなかった」という攻撃や兵装を、飛躍の踏み切りのようにして、見目のよい演出が作られたりする。スパロボ30は概ね楽しく遊ばせてもらったし、シリーズを遊んできたから感じ取れた味わいもたくさんあったが、Zシリーズのような何周遊んでも「そんなバリエーションまであるとは知らなかった」と思わされる戦闘演出とか、第二次OG水準の何度かに一回はスキップせず観てしまうアニメーションとかが、アニバーサリー作品だからこそ欲しかった。

スパロボの作品単体の「物語」には、複数の作品が一つのパッケージの中で同居するべく「まとまりが付いている」ことが求められる。そしてロボットアニメにおけるオーソドックスな「物語」は、戦争を終結させるとか害獣を滅ぼすとか何でもよいが、つまるところ「世界を守る」様で表現される。世界というサイズのものを守るために、身体より大きなサイズのものとしてロボットが創られているケースすらある。ロボットに加えて動機や能力まで持たされて、ロボアニメの主人公は世界を守る役割を負い、多くの場合、世界を守りおおせる。そうして原作世界を救った主人公とロボが、たくさんスパロボ世界にやってくる。「たくさん」がミソだ。世界を守るためのものを持たされて主人公になったキャラクターを、ただ集めるだけでは、主人公が主人公であり続けるのは難しい。そこで彼らがたくさんいる整合性が求められる。そこのまとめ方の手腕には注目が集まる。

スパロボは広い括りで言えば、バンプレストの「コンパチヒーローシリーズ」内の派生シリーズなわけだが、コンパチヒーローシリーズは、早くからその構造をメタ的に叙述している。92年発売の『ヒーロー戦記』の時点で、複数の版権作品が登場するゲームの作りそのものを、キャラクター自身が「実験室のフラスコ」と評する一幕があるのだ。現在、OGシリーズはスパロボの歴史のみならず、『ヒーロー戦記』や、『ヒーロー戦記』の同時代作である「ザ・グレイトバトル」シリーズまで包摂して展開されている。OGは90年代から継ぎ足し続けられたタレで焼かれたウナギだ、みたいに礼賛したいわけではないのだが、当時の要素を核に取り込んだシリーズには、ちゃんと大団円を迎えてほしい。当時子どもだった者として、というか、そういう「物語」に慣熟した者として、行く末を見届けたい。

 

さやわか『僕たちのゲーム史』を読んだ。10年以上前に出た新書で、終わりに書かれている将来の展望について今読むと、ゲームシーンの大きな部分においては、穏当でつまらない展開が広がりつつあると言えるけれど、これもまた本書に書かれているように、それにしても素晴らしいタイトルだってたくさん生まれていることも間違いない。80年代のPCゲームの歴史に明るい書き手が、その時代から今に至るまで続くコンシューマーゲームのビッグタイトルも、2000年代におけるフリーゲームやインディーゲームの隆盛も視野に入れて書いた本を読むのは今とても楽しい。ゲームはその開発の歴史の中で、商業化し、良いシステムが真似られ、あるゲームでの感覚や操作技術を別のゲームに転用しやすくなってきた。まったく個人的な感じ方の話だが、90年代の初めからずっとコンシューマーでゲームを遊ぶ感覚の標準を作ってきたが、2000年代の終わりごろに出会ったフリーゲームは、その標準を用いても計測できない性質のものだった……みたいな実感を持っている。その要因というのは、具体的に言えばグラフィックの粗さとか、UIの雑さや取っ付き辛さとか、テキストの乱暴さとかいった、商業ゲームに同質のものが含まれていたらノイズや不快感でしかない要素だったかもしれないが、なぜかそれでもバランスを保てているものには、やはり何か特別な魅力を感じる。

 

そりゃあ、そうすればバランスは取れるでしょう、というものではなく、なぜこれで自立できるんだというバランスのものは、印象に残る。そういうものはありふれていないがたくさんある。あらすじもロクに覚えていないが、画やセリフの一節だけはっきり覚えている映画。演奏も微妙だしMCも散漫だったけど、なぜか音源を買いたいと思ったバンドやシンガー。ひと節も諳んじられないし、筋も明快に説明できないけれど、それを読んだ実感だけは鮮明に残っている短編小説。逆に、技巧的に見どころはないし陶酔的すぎるのだけれど、キャラクター像の歪曲や、作者の自己投影が一切ないまま書き切られた二次創作小説。

 

日記3/9

去年『オッド・ピーシズ』という短編小説集を作った。急に文学フリマに出ることが決まったので、それに合わせて新刊を作ろうと思ったのだった。「新しく本を作りたい」「気に入っている既存作品をまとめたい」という気持ちの他に、「短編をたくさん作ることで、自分の小説を作る能力を点検し直したい」という思いがあった。

一番初め、小説という創作を始めた時は、数千字前後の掌編ばかり書いていた。思い付きで始めて、ここでよいと思ったところで終えてよいのが気に入っていた。その結果、骨組みとか整合性といったものが伴わなくても、短編というスケールの中でなら成立させられる話というものがある。そういう中での綱渡りをまたやることで、洗い直せる自分の癖とか、確認できる自分の能力がある気がした。

『オッド・ピーシズ』を作ったことによる、その部分での収穫というのは、期待通り得られたのが半分、他にも方法があったかもしれないという悔い半分という具合で、そういうことをやるならまたブログで日記でも書くようにした方がいいのかもしれない、と思った。そんでもってこのエントリを書いてます。

 

去年は『オッド・ピーシズ』の制作に追われて全然小説を読めず、その後には積んでいたゲーム群に手を伸ばしたりしたものだから、今年に入るまで拾い読みするようなペースでしか活字を読んでいなかった。さすがにこれではイカンと、先日、以前一回読むのをやめていたウエルベック服従』とカズオ・イシグロ遠い山なみの光』を読んだ。

服従』はマッチョを描く筆致そのものもそうだし、どこまで露悪的にやってるのか批判的にやってるのかを確かに掴めない自分の知的な弱さにまずげんなりしてしまって、以前は投げた。正直読み通した今も、他の作品を読まないことには自分にはその辺りは掴めないのだろうと思っているが、ラース・フォン・トリアーの『ハウス・ジャック・ビルト』を観たことが助けになって読みおおせられた気がする。マチズモの(表象の上での)凄まじさは『服従』のそれとはまた違うけど、男性集権的な構造に対してまっすぐには光を当てない態度が似ていた。

遠い山なみの光』では記憶の語り、つまり語り手が「実際にはこうではなかったかもしれないけれど」と語る小説で、その語り口の表現に魅せられた。作中で起こっている事件の中で、この重大なものはディテールを凝らして書かず、あえて回想するだけに留めるのか、と思うような部分はあるのだが、しかし逆にそこを細密に書いてしまえば全体の色調もこれとは全然違うものになる、この漠としたものの中を手さぐりに歩いていくことがこの小説を読むことだったんだ、という心持ちに行き着くと、読んでよかったと思えたのだった。

 

去年の今頃からパートナーとの同居を始めた。ぼくたちは同年代だが、お互いどメジャーなものから一定の距離を引いて生きてきたところがあって、特定の作品をフックに話そうとすると、共通の知識がないことが多い。最近、YouTubeのショートとかでエキセントリックな部分が切り抜かれているのを観たのをきっかけに、家でアニメ版の『美味しんぼ』を観た。ぼくは中学からのマンガ立ち読み経験からある程度の知識や記憶があったが、向こうは全然知識がなかったためもあり、ちょっと人格破綻者が多すぎやしないかということで続けて観ていく感じではなくなり、シフトというべきか飛躍というべきか分からないが、なぜか最近は『クッキングパパ』を観ている。去年の一時期は、ぼくの好みで『ミスター味っ子』を観ていた。別にグルメものを観ようと示し合わせたことは一度もないのだが、どうしてこう偏りが生まれたのか。

この3本はキャスティングがかなり被る。ぼくは子供の頃から声優の声の聞き分けがよく出来て、今も「こっちだとあのキャラをやってた人が、こっちだとあのキャラをやってるね」とか、「今のモブは、あのキャラの声優が兼ね役してたね」とかよく口にするのだが、大体の場合、そうだった? と返される。向こうも向こうで耳は良いはずなのだが、やはり聞き分けのうまさというのはテイスティングとかと同じで、訓練の賜物というか、こことここの違いで判別ができるというポイントを熟知して瞬時に比較できるようにするという、いわばチェックシートと回路が強化されたような状態を指すのだろう。

 

そのパートナーが一緒に行こうと誘ってくれて、熱心に聴いているミュージシャンではなくて恐縮だったのだが、来日公演を立て続けに観に行った。ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーとWilco

OPNは数年前に聴いた時よりもはるかにアッパーなステージで、VJが素晴らしかったこともあり、できれば思うさま踊りたかったが、ソールド公演ということもありフロアはかなりぎゅう詰めで、それは叶わなかった。コロナ禍に入ってからライブに行く頻度をかなり減らし、それに伴って音楽自体を以前よりも聴かなくなり、感想をつぶやくことも減り、としていたのが2020年~2023年の話だったが、そうしているうちに、10代から続いていた「金と時間と労力をかけて音楽を聴く」という行為の連続性が途絶えてしまったような心地がしている。OPNも、O.A.のジム・オルーク石橋英子のセッションも、楽しみはしたのだがその一方で、自分の問題で少なくないものを受け取り損ねてしまったようなうしろめたさがあった。

同じものをWilcoのステージにも感じてしまったら嫌だな、いやマジで、と思っていたが、それは杞憂だった。バンドのライブだったからなのか、Wilcoの楽曲が持つ包容力というか大らかさみたいなもののためなのか、とにかく演奏が滅法良かったせいか分からないが、そんなことはどうでもよくてとにかく楽しかった。ステージで素晴らしいプレイが繰り広げられていて、会場にそれを楽しむ空気が充溢している、そういう空間にいられるというのは最高の快楽の一つだと、久しぶりに心底思えた。

 

コロナ禍によって連続していたものが途切れた、という感覚はいまだにかなり引きずっている(というか、そもそも「コロナ禍」という事象が全て収束したとも全く実感できていない)のだが、小説を書くという自分の第一義としていたことまで、それによってここまで長く動揺するとは思っていなかった。

はっきり一言にまとめられるものではないから、不正確だったり抽象的だったりする言い方になるが、「部分的にでもいいから世界を肯定するため」とか、「人間存在や社会に対して絶望している人に、その絶望を軽んじたり嗤ったりする危険は冒さぬまま、それでもこんなことも希望にはなるんじゃないか……みたいなものを見てもらうため」に、文章を書いていた。その行為者である自分が、否定とか絶望とかに浸されてしまったのがここ4年弱のことで、今の自分の心身を用いて、かつて志していたようなものが書けるだろうかというモードから抜け出せない。幼稚な言い方になるが、救いたいと思うほどに今この世界が好きか? というような話だ。創作は必ずしもそういう姿勢でやらなければならないものではない。しかしその姿勢をあきらめることを、創作を始めた頃の自分は許さないだろうという確信があるし、今のぼくより当時のぼくの方が正しいのだろうとも思う。今のモードから真に抜け出して陽転するためのものが、インプットとアウトプットどちらに求められうるのかさえ、よく分かっていない。

そういう気分や思考を手放さないまま2022年に『空想』という小説を完成させられたことはよかった。出来映えは別として、まるで10代の時のように世の中を憎みながら、意図して若さにしがみつくようにではなくある程度は年齢なりの言葉で書けたのもよかったと思えている。ただ同じ精神・同じ方法論で書き続けて実りがあるとは思えない。『空想』はそういう小説ではなかった。人と接したり新たに何かを始めたり、外部に目を向けるべきだろうか。