『日常生活における自己呈示』 アーヴィング・ゴフマン 7/7

第6章 印象管理の技法

用意周到なパフォーマーは、自分が演じたいと思うショーと、演じたいと思って演じているわけではないショーのそれぞれについて、もっとも手がかからないような種類のオーディエンスを選択しようとする。……夫と妻は、自分たちがもてなす客に協同して敬意を示し、それを通じて夫婦の連帯を表出することを求められるという事実がある以上、それぞれが異なる感情を抱いている知人は客から除外する必要がある。(343)
相互行為の外側にある情報源が、周到なパフォーマーが考慮しなければならない一つの偶発的条件であるとすれば、もう一つの偶発的条件は相互行為の内側の情報源である。そのため、周到なパフォーマーは、パフォーマンスに使う小道具やその構成要素となる作業の特性に合うように自身の呈示を調整しなければならない。……詐欺をはたらく商人は、客が信用詐欺かもしれないと認識しているような状況下でかれらを欺かなければならないのだから、自分が実際にそうである者(つまり詐欺師)かもしれないという即時の印象を、注意深く機先を制して打ち消す必要がある。そして、それと同じような状況下に置かれた法を尊重する商人も、自分が実際にそうではない者(つまり詐欺師)かもしれないという即時の印象を、先手を打って打ち消しておく必要があるのだ。(350)
印象管理の防御的な技術(忠誠心、自己規律、周到さを用いた技術)のほとんどが、パフォーマーが自分のショーを守ろうとするのを助けるために、オーディエンスや部外者が保護的なやり方で気くばり(タクト)をする傾向と対になっている事実がある。分析的にいうなら、個々の保護的実践はそれに対応する防御的実践と併せて検討したほうが良いと思われるが、パフォーマーがオーディエンスや部外者の気くばりに依拠する程度は過小評価される傾向にある。(358)

第7章 結論

人は心のなかでこういう。「私は、あなたのこうしたさまざまな印象を、あなたとあなたの活動とを調べて照合する手だてとして使っているんだよ。だから、私を迷わせるようなことをすべきじゃない」。奇妙なことに、人は他の人たちの表出的行動の多くが無意識のものだと思っており、その人たちに関して収集した情報にもとづいて彼らを利用しようと思うことさえあるのに、それでもそのような見解を持つ傾向がある。人を観察する際に使われる印象の源は、そのどちらもが社交的な交際および職務のパフォーマンスに関わるポライトネスと行儀作法の数多くの基準によってもたらされるものだから、私たちは、日々の生活がどれほど種々の道徳的な識別線の網の目に搦めとられているかをあらためて認識することができる。(389)

『日常生活における自己呈示』 アーヴィング・ゴフマン 6/7

第5章 役柄から外れたコミュニケーション

(その場にいない者を)内緒で貶めるというのは、内緒で称賛するよりずっとよくある行いだと思われる。なぜならそうした貶めはたぶん、その場にいない者を犠牲にしてメンバー相互間の敬意と好意を示すことを通じて、そしておそらく顔を合わせてのやりとりの中でオーディエンスに与える妥協的だったり調停的だったりする取り扱いがメンバーにもたらすだろう自尊感情の低下を埋め合わせることを通じて、チームの連帯の維持に役立つからである。(269)
(人が面と向かっては比較的よく扱われ、裏では悪く扱われる事実に関して)私たちはその理由の説明を人間の本性に求めてはいけない。すでに指摘したとおり、オーディエンスを舞台裏で貶めるという行いは、チームの士気を維持するのに役立つ。またオーディエンスが目の前にいるときの彼らへの思いやりのある取り扱いは、そのオーディエンスのために、あるいは正確にいえばただそのオーディエンスのためだけに必要なのではない。そうすることによって、平穏で秩序だった相互行為が継続するという保証が得られるだろうから必要なのである。オーディエンスのあるメンバーに対するパフォーマーの「実際の」感情は(それが好意的なものであれ悪感情であれ)、パフォーマーがオーディエンスのそのメンバーを、当人が同席するところでどのように取り扱うか、また、その人がいないところでどのように取り扱うという問いとはほとんど関係がないように思われる。(275)
「陳腐なまでに感傷的な」曲を演奏しなければならなくなったジャズミュージシャンたちが、ときに必要以上に感傷をこめて演奏することがある。このちょっとした誇張は、演奏者たちが聴衆への軽蔑と、より高次の演奏への自分たちの忠誠心を伝えあう手段として機能する。パフォーマンスに携わっている二人のチーム仲間の一方がもう一方をからかおうとするときに、こうした事例といくらか似通った形式の共謀が発生する。……パフォーマーは、オーディエンスをあざけったりチーム仲間をからかったりすることを通じて、自分が当面している公式のやりとりに束縛されていないだけでなく、そのやりとりを十全に自分の統制下に置いており、それをおもちゃにすることさえできるということを示せるのである。(296)

『日常生活における自己呈示』 アーヴィング・ゴフマン 5/7

第4章 見かけと食い違った役割

(ある特定のパフォーマンスの中では「パフォーマー」「オーディエンス」「部外者」の三種類の役割があることをふまえ)パフォーマンスが行われているときには、機能と手に入る情報と領域とのアクセスの間に相関関係があると予想できるから、たとえば、ある人がどの領域にアクセスしたかを知れば、その人がどの役割を演じたか、パフォーマンスについてどんな種類の情報を持っていたかを知ることができるだろう。
しかしながら、実際の事実を見るなら、機能、保有する情報、アクセス可能な領域の完全な一致はめったに起こらない。そこにさらにパフォーマンスに際して独自の利点を持つ立場がいくつかつけ加わり、それが機能と情報と場所のあいだの単純な関係を入り組んだものにする。……三つの基本的な役割との比較において、そうした立場を、見かけと食い違った役割と呼ぶのがもっとも適切だろう。
具体例として、「情報提供者(インフォーマー)」「サクラ(シル)」「監視係(スポッター)」「仲立人(ゴー・ビトウィーン)」など。(228)
仲立人の役割は、インフォーマルな懇親のための相互行為(やりとり)において特に重要だと思われる。そしてそのこともまた、パフォーマンスを二チーム間のものと考えるアプローチの有効性の例証になる。ある人が会話の輪のなかにいて、その人の言動に他の人たちが一致して注意を払っているとき、その人は状況を定義しているのだが、その定義はそれを見聞きしているオーディエンスには受け入れにくいかたちで行われるかもしれない。その場にいるだれかが、その人に対して他の人たちが感じているよりも大きな責任が自分にあると感じるだろうし、そして私たちは、そう感じているその人にいちばん近しい人物が、話し手と聞き手の意見の食い違いを、当初に投影されたものよりその場のみんなにとって受け入れやすい見解に翻訳しようと努力することを期待するだろう。それに引き続いて他のだれかが会話での発言権(フロア)をとったなら、その人は、自分が仲立人や調停人の役割を担っているのに気づくだろう。(237)
(裏領域や破壊的な情報にアクセスできる人の一つの種別である「信頼できる友(コンフィダント)」について)元外交官や元ボクサーが回顧録を書いたなら、読者である公衆は舞台裏に連れていかれて、その時点ではすでにまったく過去のことになってしまっているとはいえ、すばらしいショーのパフォーマンスをした人物の、水増しされた「信頼できる友」になるのである。……
他者から信頼され心を許される人間は、それを仕事にしているわけではない。しかし、私たちは顧客がしばしば、自分がサービスを受けているスペシャリストを、(たぶん口を慎んでもらう手段として)信頼できるともに変えようと試みるのを目にする。とりわけ、聖職者や心理療法医のように、スペシャリストの業務内容がただ傾聴し語るだけであるときにそれがいえる。(250)

『日常生活における自己呈示』 アーヴィング・ゴフマン 4/7

第3章 領域とそこでの行動

もっと重要なのは、状況の定義はふつうインフォーマルとフォーマルの二つの様式の一方に向かいがちではあるが、しかし個別の具体的な状況が、インフォーマルな行動やフォーマルな行動の純粋な事例を提供すると期待すべきではないということである。あるショーにおけるチーム仲間は、ある程度まで別のショーでのパフォーマンスとオーディエンスであるだろうし、そしてあるショーにおけるパフォーマーとオーディエンスは、別のショーではそれがかりそめのものであれチーム仲間になることもある。だから私たちは、そうした純粋な事例を目にすることはない。したがって、個別の具体的な状況のなかでは、私たちはどちらかの様式が優勢になることを予期しながら、同時に、二つの様式の実際の組み合わせや両者間に達成されているバランスをめぐって、ある程度の罪悪感もしくは疑わしさを覚えるだろう。(203)
パフォーマンスの呈示にあたって協力しあう人たちは、オーディエンスがいないときには相互に気の置けなさを表出しあうだろうと言うときに、しかし、人が表領域での活動(および表領域での役割)に習熟しすぎて、自分がくつろいでいる状態を一つのパフォーマンスとして取り扱わなければならなくなってしまうことがあるのを念頭に置いておかなければならない。人は舞台裏にいるときに、気の置けないやり方で役割から外れた行動をすることを義務付けられていると感じるかもしれない。その時そうした行動は、くつろぎを提供しようとするパフォーマンスというより、見せかけのポーズになってしまっている可能性がある。(211)

『日常生活における自己呈示』 アーヴィング・ゴフマン 3/7

第2章 チーム

一つのチームが、現実にその場にいるわけではないオーディエンスにショーを見せるために、自分たちだけでパフォーマンスを演じるという可能性にも思い至らざるをえない。たとえば、アメリカの精神病院には、亡くなって身元引受人のいない患者のために、病院の構内で比較的手の込んだ葬儀を行うことがある。それが、時代遅れのの施設の状態と世間一般の無関心によって最低限の社会的基準が脅かされかねない環境のなかで、基準を維持する保証に役立っていることに疑いの余地はない。(134)
インフォーマルなクリーク(小規模な集まり)のメンバーもまた、一つのチームを構成する可能性がある。なぜならかれらは、メンバーではないある種の人たちの目からそのメンバーシップが排他的であることを巧みに隠しつつ、他の人たちを相手に自分たちについての気取った宣伝をするという課題のために協力しなければならないだろうからだ。……小さなクリークはしばしば、一緒にショーを演じる人たちの利益を増進させるためにではなく、意に反して彼らと同じカテゴリーの人間だとみなされないよう防御するために形成されるのだと思われる。したがって、クリークはしばしば、個人をほかの地位のランクの人たちからではなく、自分と同じ地位のランクの人たちから防御する機能を果たすことになる。(138)
なぜ自然な社会的場面での総合行為が通常、それより多くのチームではなく二チームの間でのやりとりという形式をとるのか、もしくはその形式に帰着することになるのか、その一般的な理由を私は知らないが、しかし経験的に言って多くの場合そうなるいえよう。……陸軍の中尉は、ある状況のもとではすべての士官と同じ側に立ち、すべての兵と対峙する立場にあると感じる。しかし、別の状況下では、下位の士官たちと協力して、かれらとともにその場にいる上位の士官のためにショーを演じる。(149)
チームが作り出している印象を維持しようとするなら、個人をパフォーマーとオーディエンスの両方のチームに参与させないために、何らかの保証が必要だという自明のことについても述べておかなければならない。たとえば、小さな婦人用の既製服店の店主が……客に良い印象を与えようと実際にありもしないニューヨークの仕入部について語り、じつは売り子に過ぎない若い女性店員のことを調整主任と呼んでいたとすれば、その店主は、土曜日にパートで働く若い女性が臨時にもう一人必要になっても、かつて客であった人、そして辞めたあとまた客になりそうな人を近隣から雇い入れたりしないよに気をつけなければならない。(151)
パフォーマンスを効果的にするために、それを可能にする協力の範囲と性質は隠され秘密にされるだろう。つまりチームは、一種の秘密結社のような性質をそなえている。……
私たちはみんなさまざまなチームに参加しているから、だれもが共犯者としての甘い罪の意識のようなものを心の奥に抱かざるをえない。そして、あらゆるチームがある種の事実を隠したり些細なことに見せかけたりして状況の定義を安定的に維持する作業に携わっているのだから、パフォーマーはひそかにその共犯者としてのキャリアを生きていると考えることができる。(168)

『日常生活における自己呈示』 アーヴィング・ゴフマン 2/7

第1章 パフォーマンス

あるルーティーンがどれだけ専門化した独自のものであっても、その社会的な外面については、特定の例外的なケースを除けば、あれ程度異なるほかのルーティーンについても同様の主張や言明が行えるような事実が主張される傾向にある。……ロンドンでは近年、煙突掃除人や香水店の店員が実験室用の白衣を着用する傾向にあるが、……繊細で心づかいを要するものであり、標準化され、臨床的で、プライバシーを大切にするやり方でとり行われているという理解を与えがちである。(50)
私たちは、さらに、広報コンサルタントがなぜテレビの修理工に、修理が終わったときに受像機に戻せなかったねじは自分が持ってきたねじのそばに並べて置くように、そうすれば戻せなかったパーツが与える望ましくない印象を回避できるから、と助言するのかを理解する用意もなくてはならない。言い換えれば、私たちは、あるパフォーマンスがオーディエンスに抱かせた現実についての印象を、ほんのちょっとした不運な出来事によって粉々になりかねないデリケートで壊れやすいものとして理解する用意がなくてはならない。(94)
作り出された印象が本物か偽物かを問うとき、私たちが本当に問いたいのは往々にしてそのパフォーマーが当該のパフォーマンスを演じる権限を与えられているかどうかなのであって、実際のパフォーマンスそのものは主要な関心の対象ではない。……逆説的であるが、詐称者のパフォーマンスが本物に近づくにつれて、私たちへの脅威はより強いものになる。なぜなら、のちに詐称者であるとわかることになる人物が優れたパフォーマンスをするとすれば、ある役を演じてよいという正当化された許可とそれを演じる能力との道徳的な結びつきが、私たちの心のなかで弱められる可能性があるからだ。(100)
よい舞台俳優になるにはたしかに、底深い技能、長期の訓練、そして心理的な能力が必要だ。しかしこに事実のために、別の事実から目を背けることになっていはいけない。ほとんどだれもが台本を手っ取り早く覚えて、寛容なオーディエンス相手に企てられたパフォーマンスを、何らかの意味での現実感を与えるのに十分な程度に演じることができる。それは、日常の社会的相互行為自体が、演劇的に誇張された行為やそれへの反応、終結を示す返答といったものの交換によって、一つの場面として作り上げられているからだ。生活自体が劇のように上演されるものであるから、脚本は未熟な演技者が演じても生気を吹き込まれる。(119)
アメリカの中流階級若い女性のふるまいについて)しかし、彼女自身や彼女のボーイフレンドと同じように、私たちはパフォーマンス以前の事実として、このパフォーマーが若いアメリカの中流階級の女子であるという事実を受け入れている。……ある種の人間であるということは、単に必要な属性を持つだけではなく、同時に、自分が属する社会的集合体と結びつけられた行動と見かけの基準を充たしつづけるということでもある。(124)

『日常生活における自己呈示』 アーヴィング・ゴフマン 1/7

序論

観察する立場にある人は、自分たちが見聞きするものを二つに区分する傾向がある。一つ目は、おもに言語による主張からなる、操作することがが比較的容易な部分、二つ目は、おもに放出する表出から生じる、本人がそれほど関心を払わず、ほとんど統制していないと思われる部分である。(22)
観察する人が上記の二つ目に疑問を抱くことは少ないために、それを統制することには大きな利得がある。(25)
参与者間の相互行為が進展するにつれて、この最初の情報状態に追加や修正が施されるだろう。しかし、きわめて重要なのは、そうしたその後の展開は、何人かの参与者が最初にとった位置と矛盾しないやり方で関連づけられ、最初の位置を土台にして積み上げれれていくという点である。(つまり、第一印象が大切だということ)(28)
作り出された印象は、(本人による)防御の実践が使われなければ生き残れないだろうというのは理解しやすいことだと思われるが、いっぽう、印象の多くはそれを受け取る側が受け取る際に気くばり(=保護の実践)をしなければ生き残れないだろうというのは、たぶんそれほど理解しやすい事柄ではない。(32)