愛と経済の一致 1

 久しぶりに投稿します。今回からは、私の活動の原点となる「活動理念」とそれが出来上がった背景の体験について書きたいと思います。

 僕の活動理念は、「愛と経済の一致」です具体的には、「思いやりとやさしさ、助け合いの精神と関係をベースに、人の生活の三つの側面である心の幸福、対人関係、身体の健康を統合した視点から、人の体力発揮、個性の発揮に貢献する」というものです。


その原点となる体験は、僕が高校生のころ少林寺拳法をしていて、よくケガをしました。その道場は柔道場を借りていたのですが、そこに併設されている接骨院に通ったことがそもそものはじまりです。
そこの雰囲気はとても「家族的」。和やかな柔らかく暖かい雰囲気を感じて、こんな雰囲気のなかで仕事をしたいなーと思ったのです。
もうひとつの体験は、僕がボランティアで精神障害者共同作業所に伺ったとき、時間と売り上げ目標などの数字に追われることなく、生存競争もなく、みんなが助け合ってひとつの雰囲気のなかで、のんびりと和気藹々としたなかで仕事が行われていました。そのとき、「これが本当の働く姿なんじゃないか」と思いました。

では、なぜ僕が接骨院も福祉も選ばなかったのか、そこには医学、心理学、社会学などの世間で評価されている「学門的裏づけのある考え方」では解決の及ばない個人的体験があったからです。 

それは、心の問題、家族関係の問題と社会的利害関係の問題、そして身体の健康の問題を別々に捉えた考え方に対する疑問です。確かに学問として、理論的に問題とそれに対する解決法をまとめようとしたとき、心の問題と関係性の問題、それに身体の問題が絡んだとき、その因果関係はかなり主観的体験に基づき、客観的には証明することが困難だから、分けて考えるのだと思います。

でも、実際にいろいろな問題に悩まされている人は、心の悩みの背後に対人関係の悩みがあり、その影響から身体を煩っていることは、多く事実として感じているのです。 


こうした体験から、愛と経済の一致といっても単なる人情に基づいたものでは、いろいろゆきづまってくる。だから、心も関係性も身体もひとつにした深い人間洞察がなければならないと思い、いろいろと研究模索、そして修行の人生が始まったのです。 

原因不明の病を癒すには 瞑想のすすめ

 考えてもわからないような複雑な因果関係によるもの、心の奥の問題は、当然「考えてもわからない」。
解決も「考えてもわからない」。

 ところが本人が考えてもわからないことに、以外と他人はわかることもある。どこで解るのかというと思考、行動のクセやパターンなど本人が無自覚に行っていることは、外側の他人の目からはわかりやすいこともある。
 しかし本人は、自分の考えや行動を正当化したい心が誰でもあり、自分でもいやなことは見ないようにする習性がある。

 プラス思考の持ち主でいつも前向きで明るい人が、体を壊したり家族関係をうまくやれないこともある。その原因は本人が認めたくなくて心の奥にしまい込んだネガティブな想いや感情にある。

 だから、自分のことを他人のように見つめられる物の見方を身につける必要がある。
 そして、自分の思考から感情の波、さらに同時に起こる感覚の反応まで細かく自分を観察する目を養う。
 さらに、観察を深め心の奥や自覚できない体の奥にある内臓の働きなど、自己の全体、全貌を見つめてゆく。
 
 

 霊能者やチャネラーに何かを指摘されても、それを他人のアドバイスとして頭で聞くだけでは足りない。
 彼らの言うことを心から信じるだけでも足りない。
 

 
 自分で自分の全貌を自覚するのだ。
 そのための方法が瞑想である。

原因不明の病 原因は「無意識にある」

 私たちの体は、意識、つまり理性の望み、指令どおりに動くと思っていますが、意識で動かせるのは「運動系」と呼ばれる手足や背中の筋肉、および呼吸を司る筋肉だけなのです。それ以外は意識では動かせないのです。
しかし、その骨格筋にしましても「錐体外路系」と呼ばれる全身の協調作用を司る神経系と自律神経の働きの上に成り立っています。 つまり、錐体外路と自律神経の協力がなければならない。しかしこの錐体外路と自律神経の働きは「無意識的」であり、「無意識の心」の影響を受けています。ということは、意識つまり理性の要求と無意識の要求に食い違いがあるとき体が病むと言えます。 

 

 無意識の心にあるものは、前回で書いたように「過去の記憶」があります。その「過去の記憶」が統合されて「自分の心」が形成されます。その自分は過去からの連なりですから、過去一切を覚えています。その中には「過去世の記憶」も含まれます。
 その自分は「こういう人生を送りたい」という気持ちを持っています。一方、頭、理性は今の現実社会に適応しようと考え行動します。

 その理性的行動と自分の心の求めるものが食い違うと、前回で書いたように、行動に身が入らない。頭がうまく働かない。そこを努力して、いろいろ学習して世渡りのためのノウハウやら哲学などを身につけたり、あるいは、あこがれる人物の考えや行動を身につけようとする。
 結婚した場合は、女性であれば「その家庭」になじもうとするだろうし、男性も奥さんやその両親などとうまくやろうとする。

 そのこと自体悪いことではないし、むしろ現実的努力をしない、つまり場になじもうとしないほうが悪いこととなる。

 ところが、その現実的努力が「自分の心」の求めるものと食い違っていると、常に「何か違う」「何か満足出来ない」という想いがつきまといます。しかしそこに明確な理由は見出せないし、見出せたとしても個人的な我儘として、その想いを否定します。しかし否定してもその想いはなくなるわけではない。

 その想いが抑圧されて年月を経て、意識から忘れ去られる頃に、逆に身体を脅かすようになる。しかし本当は脅かすのではなく、その想いを身体症状として表現しているのです。

 

 そう考えると、ほとんどの人が「心」において今の現実社会に生きることを、むしろ望んでないんじゃないか?みんなどこかで「何か違う」「何かおかしい」という想いを抱いているんじゃないか?あるいは過去に一時期そういう想いを抱いたことがあるんじゃないか? そこを掘り起こしてみると、原因不明の病の原因、あるいは社会現象として現れている「うつ病」などの原因が解るのではないかと思うのです。



  

原因不明の病 心と現実の時間のずれ

原因不明の病というのは、今現在、理性的反省をしても今ひとつピンと来ない、記憶をたどっても結びつくことが見当たらないような、つまり理性的には大したことがないと思われている出来事や、遠い過去(過去世)に原因があることが多いのです。


大したことがないこととは、ちょっとしたコミュニケーションの行き違い。これは人と人の物の捉え方、感じ方の違いから生ずるわけです。それが理性でも解るからこそ頭にも来ない。あるいは一瞬むかついたとしてもすぐに収まります。
でも逆に、その些細なことが原因で、仕事や対人関係をダメにしてしまったりすると、納得が行きませんね。
そしてそのことに、心はこだわり続けます。

しかし、現実には時間が過ぎてゆきます。翌日には気を取り直して仕事に向かうでしょう。でも、心が「その些細な出来事」にとらわれていると、頭と体は今の現実にあっても心ここにあらずとなります。
すると当然、今することに今ひとつ「身が入らない」。

最初のうちは、単に「身が入らない」だけだったのが、時間が過ぎてゆくに連れて、「疲労」となってゆく。その疲労も、体をほぐしても解消されない。


さらに時間が過ぎてゆくと、その間に様々な出来事も重なって、「その些細な出来事」は理性の上では忘れられてゆく。
しかし、心にはしっかりとその時の記憶は刻印されているのです。
さらに時間が過ぎてゆくと、「その些細な出来事」は、怒りや悲しみなど、感情に育ってゆくのです。
しかし、理性では忘れられていることだから、何で自分はハラがたっているのか、悲しいのか解らない。


さらに時間が過ぎてゆくと、その怒りや悲しみは、身体のある臓器、器官に影響を与え、「身体の病」となるわけです。


過去世、つまり前世に原因があるという説は信じる人と信じない人もいるでしょうが、自分の親か祖父祖母、あるいはその前の代の先祖の想いが、何かその家庭にひとつの「空気、雰囲気」を形成し、その「気」に身体が感応して病気になると考えても良いでしょう。いずれにせよ、「過去の心の傷」であることに違いはありません。

その傷は、傷を負った日から時間が過ぎてゆくほどに、理性では忘れられてゆくのに反して、心のほうでは傷は深くなるわけです。

原因不明の病 いのちの自発的働き 3

ともかく、どのような形をとろうと、いのちは自然環境、社会環境に適応しようと働いているだけなのです。すると、いのちのしていること、つまりいのちの要求と心の要求がひとつであれば、行為するとき自然と腰とハラに力が入るのです。腰とハラに力が入った体勢で行為するなら、多少の無理をしても疲れはしても体が壊れることはないのです。あるいはこれ以上無理をしたら、健康に支障を来たすことも予測出来る。


予測出来るなら、これ以上無理をしないか、無理が無理でなくなるようなトレーニングをすることを思いつくでしょうし、体のリズムを知り、無理にならないようなペース配分を考えるでしょう。


しかし、いのちの要求にどこか背く心がある。本音を言えば無理なんてしたくないけど、それを認めてしまうと「弱気の自分を人前にさらすことになる」からそれを認めたくなくて、格好をつけるのです。「こんなに痛い思いまでしてやってるんだ」という自分を認めてほしい。だから格好をつける。
格好をつけているときは、腰ハラの力は抜けるのです。肩と胸に力が入るのです。

肩と胸に力の入った姿勢というのは、実は無理の利かない体勢なのです。

原因不明の病気 2 いのちの自発的な働き

 いのちというものは、私たちの意識がそれを望む望まないに関係なく、自然環境に適応するように働いている。単純な話、寒いときは熱の放射を防ぎ、毛穴を縮め、体温が下がるのを防ぐ。夏は逆の動きをすることで体温が上がるのを防ぐ。
こうして、体温は36度前後を保つ。
 また、自然界も急な変化はなく、ゆるやかに季節は移り変わる。その限りにおいては、人の体が病むことはない。

 病むのは、外気が急に変化したとき。暑いなかで雨が降り急に冷え込む。寒い日が続くなかで、晴れの日が続き暑い日があるような場合。あるいは、体力以上の、身体能力を超えた刺激が外から加わった場合。わかりやすい例は交通事故。人の体に車を跳ね飛ばすほどのパワーはない。このような場合は病むというよりは体のどこかが破壊される。

 しかし、体に異常が生じたとき、いのちはすみやかに熱を上げたり腫れたりする。そのようなときは食欲が落ちたりやたら眠くなったりする。骨が折れたり筋肉が断裂すれば動かないようになる。
 実は、私たちが病気や怪我といっているのは、この一連の異常回復現象のことを指す。この「回復現象」を病気や怪我と言っていろいろ治療を施す。

 その治療も、回復の流れに沿うようにするなら自然の変化の時間の流れのなかで体は回復する。
しかし、回復のなかで起こってくる痛みや熱が苦痛だから、それを下げたり止めたりするなら回復の流れは遅れる。


 いのちの側からすれば、すべて自然の変化が起こっているに過ぎない。痛みも熱も自然であり、それを妨げれば妨げられたなりに反応するに過ぎない。回復の流れが遅れようともつれようと、回復に向かう、自然に適応するという方向が狂うことはない。こうした意味からすれば、いのちが病むことはない。

 すると原因が不明とは、意識の側で正しいと思って行っている日々の健康管理そのものに間違いがあるのかもしれない。

 

 

原因不明の病気 1 まずは活元運動から

何かのきっかけで起こるという病は、当然原因は明らかだ。しかしそのきっかけがよくわからない。つまりこれといった無理もストレスもないところで、体が勝手に病むこともある。ガンなどはそうかもしれない。違和感を感じて、検査したらガンだったという話はよく聞く。
 「なぜガンになったのだろう?」といろいろ考えても、そう考えてゆけば思い当たることもいくつかあるだろうが、「これが原因か!」とはっきり結びつくものがない。

 原因が漠然としているものに対して、人は不安を抱く。「何かの祟りか」とか悪いほうばかりへ空想がゆく。その悪い空想が余計に病を悪化させたり経過を悪くさせたりする楽天的に考えようとしても、得体の知れないものを抱えている気分のときに、楽天的に考えることは難しい。そのようなことも作用して、ガンなどの難病は悪化に向かうことが多い。

 実際、「意識の側」に原因を探しても「よくわからないというか、無い場合」もある。すると原因は意識にはなくて、いのちの働きそのもの、あるいは無意識の側にあることもある。 
 いのちの働きにあるとは、「いのちが自発的に病む」ということだ。もうひとつ、無意識にあるとは、原因が生まれる以前にあるとか、他人の念が作用しているなどだ。これは難しい!だから、いのちの働き、そして無意識の働きを丁寧に解説してゆこうと思う。
 

 解説に入る前に、読者に注文するとすれば、いわゆる「医学、物理化学、生物学」あるいは「心理学」などの「学的理解」にとらわれない頭の柔軟さだ。「学」というものは、「物の働き」を論理的に解き明かそうという姿勢がベースにある。つまり、他と分かれた固体、物体を認めているが、その固体、物体自体に自発的運動はないと考えているのだ。
 

 私たちの体、手足も、そして心も「意志」によって動くのであって、「動かそうという意志」がない限り動くことはないという考え、その考えに基づく空想を敢えて否定し、私たちの手足や心は、「私たちの意志に無関係に働くこともある、あってもいいじゃない」というふうに頭を柔軟にして読んでほしい。
 
 それと整体で勧める「活元運動」は結びつく。私たちの意志に関係なく、体が勝手に動くことを体験し、それを頭と心で認めていくことは、不可解ないのちと無意識を理解していくことにつながっていく。