「心のクウェート」の漫画の本の発送とか即売会がほぼ全部終わった。多かったので、色んな人に手伝ってもらって。

今回は直接買ってもらうのを、久々にやってみたかった。stores.jpというサービスを使って楽に決済ができたのもあるけど、今までやった通販よりも、みんな入金も早いし住所間違いとかも少ないし、素晴らしく助かりました。こういう、裏方コストが増えると大変だから。今回の漫画で僕を知ってくれた人も多かったので、うれしかった。

ウェブでの頒布は限定なので、ストアページに書いてくださったレビューは、僕が自分で保存させてもらいます。ありがとうございました。

以降はカバー無しになるけど、こっちが普通です。何店舗かに置いてもらって、通販もやってもらえると思います。まだ買ってないけど興味がある人がもしいたら、こちらで買ってもらえたら良いなと思います。

というのも、自費出版の本を扱う店だって、道楽じゃない。たとえば1000種類の本を扱ってる本屋なら、それぞれの本あたり家賃や光熱費、人件費の0.1%ずつかかる。10万の家賃、20万の人件費、3万の光熱費だとすると、1種類の本を置くのに1ヶ月330円かかる。これを割ると赤字で、慢性的に赤字だと貴重な場が消えることになる。

だいたい店舗委託の場合、売上の3割とかを店がもらう。だから上の例だと、本1種あたり月に1100円売れないと店を圧迫することになる。店には他にも火災保険とか商店街の費用とか色々かかるので、できればもっと。「自分が好きな場所が、コストがかかることをやってくれてる」。

うっとうしい話を長々するのも、そんなに気持ちがいいことではないけど、「面白いものを作る」のも、「それを知らない人が、偶然出会う場を維持する」のも、支える人があってこそだ。そういう意識が弱い社会だと、「強い集金システム」「派手なセールや頻度の高い広告」「惰性や不可抗力への課金」みたいなものに、どんどんお金や時間が流れていく。僕は、日本の景色のほとんどがこういうものになってしまっていると思っていて、それが好きではないけど、そうでない部分も残っていて、ゼロになってほしくないな。


今日コミックマーケットだったみたい。僕も本を持っていったことがあって、当時25歳だったから、9年も前だ。

9年前、「残念だけどこの人ゲーム完成できなさそう…」と思った人が、ちょっと前に会って、そのままだった。良い方に予想外れることもあるけど、大体、他人から見ても分かるほど明らかに「制作完了できない生活習慣(行動パターン)」で日々動いちゃってる場合が多い。

その人には否定的にそのことを話すことはしない。別に悪いことじゃない。それが楽しい場合もある。完成させないことで、リリースや告知や税務などの事務をまったくしなくて済むので、趣味としては純粋な状態が維持される(場合もある)。

だけど、完成させたい人なら、パターンを変えた方が良い。今週中に小さいゴミ完成させる。できたら次はゴミみたいなカレー。次はカレー。参鶏湯。ミニおせち。なれてきたら月餅みたいなの(月餅は難しくて、ゴミと参鶏湯とミニおせちが作れないと、まず作れない)。

完成というのは、お弁当容器に入って、フタもしまっていて、食器もついてて、客一人で最後まで消費完了できる状態になっているものを言う。「パッケージになってる」とも言う。ゴミに目次と奥付と表紙をつけたら、初めてゴミ本が完成する。それができず、作り途中だと思われるようなものしか作れない場合は、その内容をもっと小さく、よりゴミなものにしなければならない。常に「コンテンツを作る労力以外の余力」を残しておいて、パッケージ化するためにそのパワーを割かなければならない。

ゴミゴミ言ってるけど、ゴミっていうのは悪くない。僕はゴミが好きだ。だけど多くのゴミ愛好家は、完成したゴミを愛する。それはなぜかというと、作者がそのゴミに注いだ愛情を読み取れるからだ。完成過程にそれが備わる。

赤ちゃんは、原付免許の取得を目指すべきじゃない。それは15年後の楽しみにしておいて、まずは目の前の、ドロドロになったさつまいもペーストを嚥下することに集中しなくてはならない。できれば赤ちゃんらしく、よだれかけにも分けてやるぐらいの余裕が必要だ。だから原付のことなんて考えてる余裕は無い。

いつまで経ってもゴミしか作れなかったり、自分がおいしいと思うカレーが誰にも評価されなかったり、色んな悩みが人それぞれあるけど、「出発したい人が出発できない」のは、一番解決しやすい。今出発すれば良いだけだからだ。

今でしょ!」の真意は、「今終わらせる」ということにある。「今始める」は誰でも出来る。「今日やるべきことを、今日終わらせる」。それができたら1週間単位、1ヶ月単位と、自分の理想の規模に広げていく。

天竺をめざすのもいいけど、楽しい道中を今日、今週、今月積み重ねていけば、どこに辿り着いても、そこが天竺だと思えると思う。それがまた悪く作用することもあるけど、それは「月餅が作れて当たり前になった人たち」にとっての課題だ。