報告

公務員試験、
おかげさまで合格いたしました。


励ましてくださった方、

甘やかしてくださった方、

叱ってくださった方、

そっとしておいてくださった方、

応援してくれて、
ありがとうございましたm(_ _)m



全く手付かずのまま放っておいた卒論に
今から取り掛かります。

休みたい・・・。

『MELOPHOBIA』安川奈緒

試験が一段落しつつあるので
久しぶりに更新。



先日、安川奈緒の詩集『MELOPHOBIA』を
友人から貸してもらいました。
今日はそれについての感想。



どんな詩集かというと
タイトルになっている‘音楽恐怖症’の通り

詩の音楽性
もしくはそれによって表現されるナルシシズム
唾棄すべき下劣なものとして否定し
音楽の存在しない詩を書こうとした作品群らしい。

詩自体は、割りと好きなタイプの詩だったように思います。


だってナルシシズムに溢れていたから。


予定外への憎しみ 朝から晩までテレビを見ているせいで 明石家さんま島田紳助が 画面にあらわれると 胸がしめつけられる 自分の 自分のことだけが心配だ……知らないあいだに血まみれになった手が 都会の内面に触れることのありませんように

『背中を見てみろ バカと書いてある』安川奈緒


とか


強者は弱者を模倣し 強者は弱者の代わりに語り 最後に強者は弱者の場所を奪う
『《妻》、《夫》、《愛人X》そして《包帯》』安川奈緒


だとか。

もちろん引用は恣意的です。
好きな場所を引っ張ってきたわけですから。


けれど、全編を通して、作者が言葉を選んで
詩を書いているということは言えると思います。


当たり前のことですが、文章を書くということは
言葉を選ぶことです。
そこにナルシシズムを介在させないことは難しい。

よしんばそれができたとしても
言葉そのものから音楽性を排除することはできない。
言葉それ自体に、もともとリズムがあるから。


もし詩から音楽を排除しようとするなら
声に出すことをまったく想定されずに創られた言語を
想像するしかない。


そういう意味では、作者の目指した音楽性の排除は
完全ではなかったような気がします。




現代詩は難しい・・・。


皆そんな難しいことを考えて書いてるんだろうか。
ただ美しいものを書けば良いじゃないか。

薔薇の名前

〈過ギニシ薔薇ハタダ名前ノミ、虚シキソノ名ガ今ニ残レリ〉
ウンベルト・エーコ薔薇の名前』(河島英昭 訳)より


薔薇の名前』という小説は、中世のキリスト教修道院を舞台にしたミステリです。


被害者が僧なら、犯人も僧。
怪しい人物が僧なら、怪しくない人物も僧。
つまり関係者全員が僧で、探偵までもが僧という異色っぷり。


《ストーリー》
主人公アドソ(見習い修道士)が師ウィリアムとともに訪れたのは、キリスト教世界最大の文書庫を持つ修道院
しかし、そこではひとりの修道僧が不審な死を遂げていた。

修道院長に依頼を受け、調査を開始するウィリアム。
修道院の誇りである文書庫は、誰も立ち入ることの許されない巨大な迷宮だった。事件の鍵は文書庫にあるのか。

そして、謎が謎を呼ぶ連続殺人事件が幕を上げる…。


作者のウンベルトエーコ記号論の学者であるため、この作品には記号論の考えが入ってきているようです。
さらに、キリスト教思想、中世の政治関係などにも言及されています。


けれど、単にミステリとしても素晴らしい作品でした。

凶器や凶器にまつわるトリックも良かったし、
迷宮のように造られた文書庫の中の探険、そして謎ときも面白い。
隠し部屋の名称〈アフリカノ果テ〉というネーミングもハイセンス。またそこへの入り方もユニーク。

全てのミステリファンに薦めたくなる作品でした。


動機の奇抜さも出色しています。
そして何が凄いって、それでいてその動機に説得力があるのが素晴らしい。

先日読んだ、アンチミステリ『虚無への供物』でも動機が奇抜でしたが
奇抜すぎて、宙に浮き過ぎた感がありました(アンチミステリなんだから、それも狙いだったのだろうけど)。


中世を舞台にした小説が好きな人にも、キリスト教を題材にした小説が好きな人にもお薦め。
あと文体も美しい。訳者の功績だと思います。



蛇足ですが・・・
この作品は懐が深くて、細かいことを言い出せば切りがないし
考えの及ばない点もまだ多いのですが、敢えて幾つか。

小説の最初のページを開くと
「手記だ、当然のことながら」
と但し書きがあります。
つまりこの小説は、主人公アドソの書いた手記を、筆者が発見して発表したという形になっています(例えば、以前紹介した『反三国志』と同じような形です)。


しかしその経緯が複雑にされていて
主人公アドソの書いた手記を誰かが書き写し
それをまた誰かが書き写し
それをまた作者が書き写して、世に発表したという体裁を取っています。
なぜわざわざ、このような形を取って創作したのか。


元々アドソの書いた手記(すなわち本編の小説)は、一冊の本を巡る殺人事件についての書物であり、つまり書物についての書物です。
そしてその手記を書き写した写本は、言うなれば書物についての書物についての書物です。
さらにそれを書き写し(一部付け足し)たものは、書物についての書物についての書物についての書物です。
さらに作者によって訳され、出版されて、日本語に訳されると、書物についての書物についての書物についての…となっていき
乱暴に言えば記号についての記号が生まれていきます。
そして元々あった事物からは遠ざかり、実在さえもおぼつかなくなっていく。
あたかも
〈過ギニシ薔薇ハタダ名前ノミ、虚シキソノ名ガ今ニ残レリ〉
の如くです。

だから、そこには無常感がある。
アドソの辿り着く死の境地は現代哲学的で、それがまた作者の思想とも関わってくるのでしょう。

神の左手悪魔の右手

最近、楳図かずお作の長編漫画『神の左手悪魔の右手』を読み終わったのですが、それについて感じたことを幾つか書いておこうと思います。


文庫で全4巻。五話構成。
山の辺想という名の小学一年生の男の子が主人公。
想が、これから起こる事件を夢を通して予知したり
同時進行の事件を夢を通して当事者の視点で体験したり
さらには、夢を通して事件を解決してしまったりする、というのが大まかなストーリーの流れ。


この漫画のひとつの側面として、非常にグロテスクなスプラッター漫画であるということがあります。
特に第一話と第五話の残酷描写には目を見張りました。
血の描写が苦手な方は注意したほうがいいかもしれません。


けれどこの漫画にあるのは、それだけでなく
言うならば、

夢と現実の境目がまだ曖昧な子どもが、その境を曖昧にしたまま生き続けていってしまう

それがこの漫画の主題であるように思います。


夢と現実の境目が曖昧と書きましたが、想は夢と現実とを一緒にしているわけではありません。
悪夢を見て、起きた後に「あれは夢だった」と思い直す場合もあるし、夢の中で「これは夢だ」と理解している場合もあります。


問題なのは、夢が現実を言い当てている、もしくは夢が現実に影響を与えているのに、想がそれを受け入れてしまうところにあります。


想の存在は徹底的に、子どもとして描かれています。
正義感と残酷性、両方のベクトルに向かう子ども特有の無垢さ。
想が消しゴムに穴を開け、大層な名前をつけて、自分の守護神や悪魔に見立てるという描写などを見ても、彼は子どもそのものです。


例えば『漂流教室』(作者同)の主人公たちは、小学五六年生とはいえ、子どもではありません。
漂流教室』においても同様に、夢によって騒動が引き起こされるというエピソードがありましたが、そのとき登場人物たちは、それについて合理的な理屈をつけ、謂わばお互いの共通理解を作り上げました。
しかし想の場合、何か不思議なことが起こっても説明をつけようとはしません。
また、説明のつかない何かおかしなことが起こったとき、『漂流教室』の登場人物たちは「そんなばかな」と言います。
既に彼らには、あるべき世界の型が存在するからです。
しかし想の場合は、その型も、ルールも存在しません。
体験したことと外の世界の常識に齟齬が生じたとき、彼はその折り合いをつけようとはしないのです。
体験したことを「自分の思い違いだ」とも、「常識のほうが間違っていた」とも思わず、ただそのズレを放っておきます。
想にとって夢と現実はパラレルに存在を続け、その境は曖昧なままです。


だから想は、夢の現実化を受け入れます。
目が覚めたとき恐ろしいものが手の中に ―夢の中にではなく― 残っていても、彼は彼の世界をそのまま生きていけてしまうのです。



(そういえば、登場人物に「香月細子」という霊能者がいたけど、アナグラムなんだろうか
劇中で凄い(ひどい)扱われ方をしていたので気になります)



楳図のホラー長編はこれで大体読んでしまったのですが、『神の左手悪魔の右手』が最も洗練され、かつ面白かったと思います。
上述の『漂流教室』や『わたしは真悟』などは、作品としてよくまとまっていて
『14歳』には意味が分からないほどのエネルギーが、冒頭から結末まで溢れ切っています。
それに対して、『神の左手悪魔の右手』には、複雑な構成の中に、貫徹された主題があるように感じました。
(『洗礼』などもそういう面では、これに近い作品かもしれません)
その主題は、最終話冒頭の台詞に最もよく表れていると思います。


色々書きましたが、そんなふうに考えるまでもなく、ただただ面白い作品です。
小道具のセンスの良さ。
嫌悪感を覚えるほどの人体崩壊の描写。
楳図らしい台詞回しの見事さ。
サスペンスとカタルシスの繰り返しはまさに天才としかいいようがありません。

久しぶりに更新

大分、間が空いてしまいました。
一度遠ざかってしまうと、書くのが億劫になりますね。


最近読んだ本の紹介でも。

先日、京極夏彦の『邪魅の雫』を読みました。
京極堂シリーズの最新作に当たっていて、概要は連続毒殺事件を巡るミステリー。

感想ですが、シリーズの売りのどんでん返しの迫力が、比較的弱かったのが残念。
京極堂の語りも、今回はストーリーの展開上か、毒気が抜かれた感じがしました。
作品としては勿論面白いのですが、全体的に小さくまとまってしまったような印象。
次回作のタイトルももう決まっているようなので(『鵺の碑』)、そちらは大味になるように期待したいと思います。


その『邪魅の雫』なのですが、このような一節がありました。


「為政者がこれでよし、としたものだけが公式な記録だよ」
そんな莫迦なと関口は云う。
「権力者が良しと云ったら事実になるのか?歴史とはそんな都合の良いものなのか。それじゃあ偏向するに決まっているじゃないか。権力者なんてものは自分の都合の良いことしか記さないよ」
(中略)
記してあるものを凡て真実として受け止めるとするなら偽史は作り放題だと中禅寺は云った。
「いずれ――記されないものは歴史になり得ないのだ。歴史は記録されることで作られる。


この下りが、丁度いま読んでいる本に重なったので、引用してみました。
言われていることは大体三つ。
まず
“権力者の思いのままに歴史は作られる”
ということ。それは事実とは程遠いが、だからといって、権力者でないものが書いた野史もまた
“記されたまま鵜呑みにするわけにはいかない”
ということ。そして実際に何があったとしても
“記録されたものだけが歴史になる”
という三点。


京極を読む前には、北方謙三の『三国志』を読んでいたのですが、
歴史小説を読んでいると時折、展開が拘束されていることを再確認します。
負けないで欲しい軍も、実際に負けたといわれる戦いでは絶対に負けるし、その戦いで死んだとされる将は必ず死ぬ。
その自由にならない展開の中で、どう人物描写をし、どう新解釈を加えるかが歴史小説の醍醐味であるだろうとも思います。


けれど『三国志』を読んでいると、関羽が死んでからの蜀は、どのように書いても哀れに感じられてきてしまう。


丁度いま読んでいるのが、そんな気持ちを代弁するかのような小説で。
上の引用部分もその小説を読んでいて思い出したので参照しました。
小説のタイトルは『反三国志』、作者は周大荒です。
登場人物紹介を一読しただけで、他の『三国志』との違いは瞭然。


劉備 字は玄徳。諸葛亮孔明)・徐庶・龐統ら名参謀と、関羽張飛趙雲馬超黄忠ら勇将の力を得て、ついに天下を統一する。しかし、最後まで臣節をつらぬき、帝位にのぼらない。


これに対照的なのが


司馬懿 字は仲達。魏の名指揮官。深い読みと、さまざまな策略をもって漢軍に抵抗するが、つねに漢軍の後手にまわってしまう。東阿で諸葛亮の地雷により爆死する。


前置きに作者は
“権力者の思いのままに歴史は作られる”
ことを述べて正史を退け、さらに『演義』をも否定。
“記録されたものだけが歴史になる”
先例を挙げ、事実は歴史とは違うと主張します。

勿論、正史であろうと野史であろうと
“記されたまま鵜呑みにするわけにはいかない”
のですが。
政治批判等の作者の思惑は別として、夢があることは確かです。
こんな三国志が、ひとつくらいあった方が良い。


久しぶりに思い立って更新しましたが、特に何も起こっていませんので、また本の紹介になってしまいました。