2006年度の転機

 2006年はある意味日本の転機になるかも知れない。今の日本の状況は右か左かという
20年前のモノサシでは全く解析不能である。むしろ共同体主義/リバタリアニズム/リベラリズムといった三分立で考えた方がわかりやすい。
 90年代以降、共同体主義リバタリアニズムが同居してきた日本の保守主義が決別せざるを得ない状況に追い込まれた。
 元々中曽根時代にアメリカのネオリベラリズムが日本に移入され、日本の保守主義に大きな影響を与えた。アメリカではネオリベラリズムが伝統主義と相和性が高いため、なんとなくそのまま移入されたが、10年以上経ってようやく拒絶反応が起きた。日本は伝統的に共同体主義なのであって、リバタリアニズムが根付く土壌がまだ存在していないのである。
 アメリカでも90年代後半から小さな政府を標榜する新自由主義からキリスト教福音派の影響を受けたメンタル保守主義の影響が増している。日本でもその影響か世界的潮流か、教育問題や靖国問題などでメンタル保守主義が勃興したが、アメリカのメンタル保守がリバタリアニズムと相和性が高いのに比べ、日本ではより違和感が目立ってくるのである。
 日本でその違和感を決定的にしたのがホリエモンかも知れない。リバタリアニストから見れば彼は新しい時代の旗手となり、日本の伝統主義者から見れば拝金主義、道徳軽視の象徴なのである。
 一方、伝統的共同体主義と左派の接近も目立った。最近の読売新聞と朝日新聞の論説の接近はその象徴である。「助け合いの日本」という点では両者は同じなのである。何が違ったかと言えば、子育てや介護などの「助け」に於いて、前者が家族による内部扶助を重視する*1のに対し、後者は公的支援を重視する点*2である。リバタリアニズムはどういう立場になるかと言うと、稼いだ金で高い民間施設を使えということになる。

日本における伝統的共同体主義の可能性

 政界的潮流から見れば宗教という存在を無視できない。日本においては宗教の影響力が小さいので、共同体主義を形成する媒介がない。神道を利用するという考えの保守主義者もいるようだが、これは現実的には難しいであろう。それかルネサンスのような非宗教的な温故知新運動が起きる方が現実的かも知れない、

日本におけるリバタリアニズムの可能性

 日本でも一時、「自己責任」という言葉が多用された時期があったが、結果的に共同体的左翼を批判する文脈で用いられ、批判する側も多くが共同体主義者であるケースが目立った。本質的には日本には根付かないと思われるが、都市部の高所得者を中心に受け入れられる余地はある。だた日本においてリバタリアニズムは伝統ではないので、リバタリアニズムは改革派ということになる。基本的には伝統的共同体主義から決別するしかないであろう。

日本におけるリベラリズムの可能性

 世界的に一番元気がないのがリベラリズムである。元気がないのはリベラリズムは金がかかるので財政的な担保を見出せないからである。ただ日本にはかつての自民党政治のような政府依存のリベラリズムの他に在野のリベラリズムも存在した。政府の世話にはならない、非政府の共同体を作るという考えで、生活協同組合NGO等がそうである。
 実はこの思想は家族や地域を基盤とする伝統的共同体主義と余り変わらない。伝統的な共同体か新設の共同体かの違いだけである。右か左かという色眼鏡を外せば、共同体が崩壊したケースでの共同体復興運動としてリベラリズムのDNAは活用できるかも知れない。

今後の日本の政治に当てはめると

 小泉政権リバタリアニズム的性格が強いので、野党が共同体主義&リベラル連合で対立軸を作ればわかりやすいのであるが、どうもポスト小泉の最有力候補である安部官房長官共同体主義者の臭いが強い。一方で野党第一党民主党松下政経塾出身者を中心にリバタリアニストが多いし、小沢党首も元祖新自由主義ではなかったのか?でも言葉では「何でもありの自由主義」を批判しているし、実態はかなり混沌としている。

*1:内部扶助重視は日本においては女性の行動を束縛することを意味し、この思想が若い女性に支持される障害となるのであるが

*2:常に大きな政府による財政問題がつきまとう