うわさが広まる過程

2011年3月19日にFaceBookに投稿された記事から抜粋

現在報道は全くされていませんが
石巻では外国人窃盗団が横行しており
ガソリンスタンドもコンビニもガラスは割られ、モノは略奪され
メチャクチャに荒らされているそうです。

もっと許せないのは
女性は性的被害に遭っているというのです。

警察を呼ぼうにも人員が全く足りず
正に無法地帯になっているそうです。


3月20日に訂正された記事

現在報道は全くされていませんが
石巻(特に市街地や海側地域)では窃盗が横行しており
ガソリンスタンドもコンビニもガラスは割られているところもあり
モノが略奪されているところが目立つそうです。

石巻は外国人が多い地域で、現地では「外国人窃盗団では?」との声も
多いそうですが100%定かとはいえないとのこと。

さらに許せないのは
女性はに対する被害が出ているという風評が広がっています。

警察を呼ぼうにも人員が全く足りず
正に無法地帯になっているそうです。
(これに関しては3/20早朝に警察増員のニュースが出ておりました。)


「外国人窃盗団が横行しており」が「石巻は外国人が多い地域で、現地では「外国人窃盗団では?」との声も多いそうですが100%定かとはいえないとのこと」に変更され、
「女性は性的被害に遭っている」が「女性はに対する被害が出ているという風評が広がっています」に変更されています。

この記事を書いた人は修正に際し、こう書いています。

だた私は、震災でもパニックにならない
慎ましい日本人の姿が美談として先走りすぎていますが
現実は
全部が全部そうじゃない地域があり、大切な友人が怯えながらの
復興生活を余儀なくされていることに憤りを感じ
それをなんとか多くに方に知っていただきたい、救っていただきたい
との思いからの書き込みでした。

悪意はなく、ちょっと噂と事実の違いがあいまいになっただけのようです。
ただし、こういった話はどんどん広まっていきます。


1995.01.26の朝日新聞の記事 「不安が生む“外国人窃盗団” 震災報道(メディア)」より抜粋

自治体は広報態勢の充実を 廣井脩・東大社会情報研教授に聞く
 震災で一番多いのは余震の流言だ。私も十七日に神戸市で「午後一時に大きな地震が来る」と住民から聞いた。「マグニチュード6級の余震の可能性がある」という学者の予測が、「震度6の余震が来る」となって広まったとも聞いている。
 災害直後は報道が被災状況に集中する。被災者が生活情報を得るには口コミが頼りだ。口コミには正確な情報もあるが、情報不足と不安定な心理、願望などが複合するために、誇張、歪曲(わいきょく)されて伝わることも少なくない。
 例えば、外国人が集団で盗みを働いているといううわさは、在日外国人に対する日本人の無理解や不安感、潜在的なべっ視感情などが、「泥棒が横行している」という情報と結びついてしまったのだろう。
 デマをくい止めるには、行政が正しい情報をすばやく住民に伝えることだ。地域の実情に応じたきめ細かい情報提供は行政が主体にならないとできないし、それが筋だ。今回、行政はマスコミに頼るばかりで、住民とのコミュニケーションが極端に少ないため、被災者は行政不信に陥っているようにも見える。
 かつて北海道の有珠山が噴火した時、地元の自治体がガリ版の新聞を作って避難所などに配った先例もある。神戸市など自治体は避難所にファクシミリを置くなど、情報を直接住民に伝える手段の整備、拡充に直ちに取り組むべきだ。

国家システム型と国家支配型

哲学も社会学もまったく知らない私が、感じたことを適当に書いてみる。


「国を必ず守らなきゃいけないってなんかヘンだよね……」ホリエモンひろゆきが、“国防”を語る - 週プレNEWS http://wpb.shueisha.co.jp/2011/02/25/2809/


とその記事に関するブコメを読んで、国家と国民の関係のとらえ方がおおざっぱにいって2種類あるような気がした。

  1. 国家システム型
  2. 国家支配型

  


ホリエモン氏やひろゆき氏はもちろん国家システム型。国をシステムやインフラのように考える。もちろんシステムやインフラがしっかりしている方が有利だが、「国に頼ってない人は“別に関係ねえや”って思ってるわけでしょ」(ホリエモン氏)のように、自分の能力が高ければ、システムやインフラが多少悪くても問題ないと考える。
またひろゆき氏は「無血革命みたいな形で譲渡されて、人が死なないんだったら、(他国に国土を譲渡しても)いいんじゃないの?」と人命のほうが国家より重いと考える。
私もホリエモン氏やひろゆき氏と同じ国家システム型の考え方。決してリバタリアンでもないし、能力もない人間だけど、国家は愛の対象にはならない。

ホリエモン氏とひろゆき氏の対談につけられたブコメの反論は、国家システム型と国家支配型両者から反論がつけられた。


1. 国家システム型論者からの反論 
中国人になると、現在の自由や豊かさが減るので困る、などの反論。 この反論が起こることは2人は予測して、こう答えている。
「役員とかトップは首をすげ替えられるけど、現場の社員とかは残りますよね」(ひろゆき氏)
「民衆の生活はあまり変わらないのに、変わるって洗脳されている。変わるって思わされて戦争をするのはおかしい。もしかしたら将来、“あのとき、中国の何十番目の省になったほうがよかったんじゃね”みたいなことがあるかもしれないよね」(堀江氏)

国家のシステムが貧弱だと、とくに弱者にとって不利になる。中国の格差について昨日夕方のNHKで放送していた。 私も困ると思う。 ただ、この国家システム論者とホリエモン氏やひろゆき氏とは、同じ言葉を話しているので会話が可能だと思う。



対してまったく言葉が通じていないのが、

2.国家支配型論者からの反論だ。
国家支配型論者は、国家という大いなるものの加護のもとに国民がいると考えているので、ホリエモン氏らと言葉が通じない。

たとえば、ブコメから抜粋すると

  • 国の恩恵を受けておいてそれは無い
  • 逆に、国に守ってもらってるんだけどね国民は。それなのに、守らなくていいってのも変だ。
  • 日本国があるからホリエモンが居るわけで、国が不要なら中国にでも移住した方がお金儲けの点では有利だろうね 

再配分で他の国民に助けられたと考えても「国の恩恵」だとは考えないだろうし、自衛隊は税金で保有しているので守ってもらっているとは考えない。日本がなくても父ちゃんと母ちゃんがいれば生まれる。

国家支配型論者が絶対的な存在だと信じる国は、国家システム型論者には見えない。
国家システム論者にとって困るのは、国家支配型論者がしばしば自分たちの信じる「国」に自己の欲望を重ね合わせ、他の国民を支配しようとすることだと思う。

国を絶対に守らなければならない派で「朝まで生テレビ」でホリエモン氏と共演した竹田恒泰氏は、朝生の1週間ほど前のツイッターでこうつぶやいている。

日本国憲法は、世界の憲法のなかでは珍しく、国籍離脱の禁止を定めていない。つまり、日本人は勝手に日本人を辞めてよい。国旗国歌が嫌いなら、とっとと日本から出ていけ!6:34 PM Jan 28th

言葉は通じない。

○○は悪い。僕たちも○○と同じことをすべきだ

私には理解できない思考回路があります。
「○○は悪い。僕たちも○○と同じことをすべきだ」という論理です。

たとえば産経の正論から藤岡先生の正論

拓殖大学客員教授・藤岡信勝 自決は軍の指示とする重大改悪
産経新聞 正論 2011.3.1

 中国では、日本が累積数兆円にも及ぶ対中ODAをせっせと貢いでいるさなかの1990年代、江沢民国家主席が号令を発して全国300カ所の反日博物館をつくり、「愛国教育基地」と称した。その内容は反日のお化け屋敷で、それを利用した反日思想教育によって、抗日戦争に勝利したのは共産党の功績であるというフィクションを国民に信じ込ませ、天安門事件以来揺らいだ共産党政権の正統性を担保しようとした。

藤岡信勝先生は、「反日のお化け屋敷」とネガティブな表現を使っていることから、博物館で国民の思想教育に対して批判的な姿勢のようです。 

しかし、次のパラグラフでは、中国と違う方向性の日本の博物館を「国民国家を解体する愚挙」と批判しているのです。

 ところが、日本では、国民の税金でつくった博物館で、国民を分断し、国民国家を解体する愚挙が行われている。博物館問題は教科書問題と並んで、国家の存立にかかわるテーマなのである。

中国の「愛国教育基地」と称する博物館を「反日のお化け屋敷」と批判しながら、それと違う方向性の日本の博物館を国家を解体する愚挙だという。

批判した相手と日本が同じことをしないことに怒っているのです。すごく不思議な考え方ですよね。

○○は悪い。僕たちは○○と同じことをすべきでない。
○○は良い。僕たちは○○と同じことをすべきだ。

なら分かります。 批判対象と同じことをしない、もしくは素晴らしいと思う行動はマネをする。スジが通っています。

だが藤岡先生の論理は、
○○は悪い。僕たちは○○と同じことをすべきだ。

せんせい、理解不能です。

なぜ警察は在特会を止めなかったんだろう

京都・徳島襲撃事件刑事第一回公判傍聴

京都朝鮮学校徳島県教組を襲撃した在特会の刑事裁判に行かれた方が、傍聴記を書いてくださいました。

被告人らは無罪を主張したようです。
その無罪理由は矛盾していると思いますが、他の方が指摘されるでしょうから私は繰り返しません。


ただし、被告人らの主張に同意できる点がひとつあります。

警察は現行犯逮捕をしなかった。


上の傍聴記からの抜粋です。

それでも一応、ここでは繰り返し被告らが無罪を主張する根拠として以下のものが上げられていた。(取りこぼしはあると思う)

京都

朝鮮学校北朝鮮支配下である。それに抗議した。

○学校は公園を不法占拠していた。

○危険物を除去しただけ。

○警察官が現行犯逮捕しない。

徳島

○寄付は詐欺活動だ。

○わざわざ朝鮮学校に寄付するのは寄付者に対する不正行為だ。

○警察は現行犯逮捕していない。

○上記両事件行動はN氏が良く考え調査したものだ。

最後は、なんかもうN氏が首謀者認定されている気がするのだが・・・。そして警察はやはり現行犯逮捕をしない事を言い訳に使われていますよと

N氏が用意してきた陳情書より

朝鮮学校は総連の支配下にあり北朝鮮支配下にある。これは誰もが知っている事実だ。我が国を狙う核兵器武装したテロ独裁国家に支配される学校に寄付がいき善意を踏みにじるのは許されない。全ての寄付と日教組の金をまぜてマネーロンダリングして連合に渡した政治活動だ。当日は建物に入る予定はなかったのだが、人がいないので建物に近づいた。神戸から付いていた警察官も特に咎める事もないので建物に入りました。また受付の人も苦笑いしながら2回にいくように合図しました。

在特会の人たちは、暴れても、誰かに嫌がらせをしても、逮捕されないということを「学習」していって、エスカレートしたのではないでしょうか。

京都朝鮮学校の現場で、警察が、現行犯で彼らを逮捕していたら、学校の中にいた子どもたちは、それほど怖い思いをしなかったかもしれません。

そして、在特会の人たちは、逮捕に懲りて、徳島県教組を襲撃しなかったかもしれません。

徳島の事件の動画では、数人でひとりの教組の方を取り囲んでいました。 その職員の方は恐怖で崩れ出しそうでした。
警察は、教組の職員を救えたはずなのに。 警察が在特会の人たちが教組事務所に入るのを止めていたら、もしくは、現行犯逮捕していたら、教組職員の方の感じる恐怖は、少なかったかもしれません。

加害者の人権に配慮する必要性があるかもしれません。 でも私には、警察官の前で行われている犯罪を放置して、数ヵ月後に、いきなり家宅捜索に入るようなやり方のほうが、人権無視に感じられます。

ノーベル賞とナショナリズム

ノーベル化学賞】「私は受験地獄の支持者だ」「若者よ、海外に出よ」根岸さんが会見]
産経新聞 2010.10.7
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101007/acd1010070904010-n1.htm

 【ウェストラファイエット(米インディアナ州)=松尾理也】「たぶん、今日から人生が変わる」。ノーベル化学賞を受賞した米パデュー大特別教授の根岸英一氏(75)は6日、同大で会見に臨み、受賞の喜びを語った。

 「前日、家内に『百に一つくらいの確率で(受賞が)あるかもしれないぞ)』と話していたんです」。そう述べた根岸氏は、「実は数年前に(ノーベル賞受賞者でもある)恩師のハーバード・ブラウン教授に『ノーベル賞に推薦しておいたぞ』と言われていた。候補に上っていることはわかっていたので、まったくの驚きだったというわけではない」と、内幕を明かした。

 「ノーベル賞をとるという、50年来の夢が現実になった。これからの人生、喜びも責任も含めて、違ったものになると覚悟しています」

 「頭脳流出組」の先駆けとして、米国に活躍の場を求めた根岸氏。喜びにまじって、祖国日本への思いがところどころに顔をのぞかせた。会見の冒頭。「私は日本の(悪名高い)受験地獄の支持者だ」。理由は、高度な研究になればなるほど、「基本が大事になるから」。それをたたきこんでくれたのが、日本の教育だった、というわけだ。

 だが、日本に対しては賛美だけではない。日本を飛び出すことになったきっかけは、フルブライト留学制度を利用した米ペンシルベニア大への留学だったが、「いざ博士号を取得して日本に帰ってみると、日本には私を受け入れる余地はまったくなかった」と、日本の高等教育の閉鎖性を暗に批判した。

 「日本はもっとノーベル賞をとっていい」。そう考えている根岸氏は、日本の若者たちの「科学離れ」にも強い危機感を抱いている。最近、日本からの優秀な留学生をパデュー大でみかけることがめっきり少なくなったという。

 「日本はすごく居心地がいい社会なんでしょうけれど、若者よ、海外に出よ、と言いたい。たとえ海外で成功しなくとも、一定期間、日本を外側からみるという体験は、何にもまして重要なはず」と、奮起を促した。

日本という文字がこの短い記事に13回も出てくる。
根岸教授が日本へ非常に強い思いを持っていて、それを語った結果、「日本」という言葉だらけになったわけじゃない。 
記者が「ノーベル賞」と「日本」を結びつけることに強い思いがあっただけ。

テレビを見ていたら、2人のノーベル賞受賞に対する町の声ということで、中年男性と小学生の子どものインタビューが流れてた。2人とも「日本」ていう言葉を使ってた。
子どもは「日本を取り戻したみたいな感じ」と言ってた

ノーベル賞を受賞したのは、日本じゃない。鈴木章さん、根岸英一さん、リチャード・ヘックさんという3人の個人だ。 あんたら(私も含めて)関係ないじゃん。

・・・なんて考えると、コミュニタリアンの人に批判されるんだろうな。

オリンピックとかノーベル賞とかで盛り上がるNIPPON万歳!は良いナショナリズムと言われる場合が多いと思う。 
確かにそうだろう。 スポーツ、教育や研究への税金の投資が肯定されるし、それらは将来的に国全体の利益となって帰ってくるだろう。 

でも何なんだろう? この気持ち悪さは。

私が鈴木さん、根岸さんと同じ日本人であるというだけの大きなくくりで喜べるなら、秋葉原通り魔殺傷事件の犯人と同じ日本人であることで苦しむべきだと思う。 

70代、80代のノーベル賞を受賞する立派な科学者と私とでは、日本に生まれたぐらいのわずかな共通点しかない。 それに比べ秋葉原通り魔殺傷事件の犯人とは年代も近いし、きっと感じること考えることの共通点はずっと多いはず。

ノーベル賞やオリンピックなどの受賞の場合、「同じ日本人」ということで大喜びする人たちが、犯罪者へは「同じ日本人」だと認識しようとしない。 個人の残虐性や、他のマイノリティの属性(若者、派遣、オタクなど)を強調する。

私が気持ち悪く感じるのは、功績をあげた人を賞賛するコミュニティーが、平気でコミュニティーの人を切り捨てること。
アメリカのティーパーティは排外主義的だけど、国民総医療保険に反対して、同胞の医療費を助け合う気はないし、日本の排外的愛国主義者も福祉は大嫌いのようだ。

成功者の賞賛はするが、失敗した人間を切り捨てるようなコミュニタリアニズムはくそくらえだと思う。

差別は絶対悪か?

ハーバード白熱教室 Lecture22 愛国心のジレンマで紹介された、Eyes on the prizeというドキュメンタリーからの1950年代のアメリカ南部人種隔離主義者の言い分*1 *2

Clip: This land is composed of two different cultures, a white culture and a colored culture, and I live close to them all my life. And I’m told now that we mistreated them and that we must change, and these changes are coming faster than I expected, and I’m required to make decisions on a basis of a new way of thinking, and it’s difficult. Difficult for me, it’s difficult for all southerners.

現代のアメリカや日本であれば、人種による隔離政策を悪だと言える。
ただ、この男性は人種隔離が「当たり前」の環境に育ってきた。 そして突然、間違っているから考え方を変えろと言われた。
「難しい。私には難しい。すべての南部人には難しい」

もし正義が不変なものであり、差別が悪であれば、この男は悪であると言える。


私は差別は普遍的に悪であるべきだと思う。 そう思うけれど、私はこの人種隔離主義者を一方的に非難する権利を持つだろうか?


現代の日本の例
「肉屋、鞄屋の人とは結婚して欲しくない」

「肉屋と鞄屋の人とは結婚して欲しくないなあ。

そういう人たちは昔「えったもん」と言われててね。

そんな人達と結婚したらあなた自身だけでなく子供、孫までかわいそう…」

60歳後半の母親についての話。 
私の母と同世代。

現在と違って差別がもっとひどい時代に育ってきた。 差別されることもあっただろう。

1950年代のビデオクリップのアメリカ南部の人と同じく、差別がイケないということには気づいている。
でも簡単には変えられない。

もし、私が1950年より以前のアメリカ南部に白人として生まれていたら、そして周囲が人種隔離が当然という環境であったなら、
たったひとりで「差別はぜったいに許さない」なんてことが言えただろうか。


サンデル教授らコミュニタリアンはリベラルの主張「自由で独立した、みずから目的を選べる自己として人間を尊重すべき」という考え方を否定する。

われわれは先行する道徳的絆に縛られているのだから。

単一の価値観を持ちたい人と、多様な価値観を持ちたい人

たとえば、私が金髪に髪を染めたいとします。私の母は確実に反対するでしょう。 

彼女が反対するときの言葉は簡単に想像できます。 「ふつう」「みんな」「マナー」「常識」なんて言葉が並ぶでしょう。 

人工的に髪を染めることを彼女は悪だと思っているのではありません。彼女は白髪を染めています。 髪を人工的に染めるのが善か悪かではなく、普通でないことが悪い。 

「あたりまえ、ふつうであることが正義」という考える人と、「多様な価値観を認めることが正義」と考える人との議論は永遠に平行線をたどります。

リベラルな人なら言うでしょう。 髪の色が何色でも誰にも迷惑はかけない。好きな色にすればいい、と。


コミュニタリアンのサンデル教授なら、なんと言うでしょうか?

「自由であるために金髪にしたい」なんて言い分なら、サンデル教授は認めないと思います。

なぜなら、「髪の色を金色にしたい」もしくは「好きな色に髪を染めていい」と考えたのは私ひとりの自由な意志ではなく、社会やコミュニティに影響されているはずだし、「髪の色は金色にしてはいけない」という母の意見も母のオリジナルな考えではなく、彼女の属するコミュニティに影響された意見だから。 

「髪の色は自由であるべき」も「髪の色は統一されるべき」と同じく、社会・コミュニティから自由ではないようです。