「ウェイキングライフ」監督:リチャード・リンクレイター,2001,アメリカ

明晰夢』という状態がある、名前の通り極めてリアルな夢であり、自分が夢を見ていることを自覚しつつ、なおかつ夢を操れる状態だという。その状態を習得できれば、毎晩夢の中で新鮮な冒険を続けられる。夢のなかで感じる時間は現実の時間よりも長いので、そのような状態になったら夢の生活がメインになるだろう。なんてすばらしい状態なんだ。その状態を取得する方法として『今自分が夢を見ているかどうか常に考えること』があると聞いた。それから私はいつも自分が夢の中にいるかどうか考える習慣を付けたが、いかんせん、一向に明晰夢は見れない、悪夢を見るだけだ。
この映画はそのような『夢』をテーマにした映画だ。テーマに沿うように、実写映像をアニメ風に編集しなおすという二度手間をかけた映像となっている。ストーリーはなく、主人公が様々な人々の話をダラダラと聞き続けるのみだ。話の内容は科学、哲学から宗教まで様々だ、しかし全体として統一の取れてない話がずっと続くので覚えていられない。終いにはこちらもウトウトしてしまい、今見ているのが現実の映画なのか夢で構成された映画なのかわからなくなる始末。
一度見ただけでは理解できない難解な映画だが、もう一回見ようとする気は起らなかった。眠れない人は是非ベッドの中でこれを見るがいい。
アニメーションが面白かったので
評価 B+(佳作)

スタンリィ・エリン『鏡よ、鏡』

今回紹介するのはアメリカのミステリ作家、スタンリィ・エリンの作品『鏡よ、鏡』。一応、ジャンルはミステリであるが、その舞台となるのは現実か幻覚かもわからないような「現在」と、主人公が叙述する「過去」である。その二つの舞台はその性質からして客観性を失っている、極めて不確かな世界だ。
この作品は、主人公が浴室で女の死体と直面している場面から幕を開ける。どうやら、自分が殺したようなのだが、女の顔には全く覚えがない。困惑する主人公をよそに、知り合いの精神分析医を裁判長にした「裁判」が始まる。その「裁判」はまず、陪審員の評決で主人公の有罪が決まり、それから証言が許可されるという異様なものだ。まさにカフカ的不条理世界をミステリに移植したような作品であろう。しかしながら、今作品は最終的に全ての謎は明かされる。その謎の明かし方がミステリ的にフェアなものだろうかは議論の呼ぶところだろう、フェアかフェアではないか、その基準として「地の文で嘘をついていないかどうか」があるが、全編が主人公視点の作品では語り手自身が信用できないため読者は嘘と真実の描写を見分けなければいけない。読者は文の描写を基にして真実を構成するのではなく、文から想像できる一番可能性の高い真実を思考しなければいけないのだ。
その結末だが、ミステリとしては納得のいくものであるにしても、衝撃という面では想定内に収まるものだった。もっと、ひっくり返るような結末を用意しているミステリはないものか。
評価 B(凡作)

パオロ・バチガルピ「ねじまき少女」

本書は2009年度のヒューゴー賞ネビュラ賞という二大SF賞を受賞するという快挙を成し遂げ、おまけにローカス賞やキャンベル記念賞受賞、タイム誌〈今年の十冊〉に選出されるなどまさに『話題作』を絵に描いたような作品である。しかし、日本の読者のあいだでは本書は詐欺SFとして語り継がれるであろう。

なにが詐欺かって、まず裏表紙のあらすじだ。そこにはこう書かれている、


「(前略)アンダースンはある夜、クラブで踊る少女型アンドロイドのエミコに出会う。彼とねじまき少女エミコの出会いは、世界の運命を大きく変えていった」

これを見てわたしは「ほほう、けっこうセカイ系に近そうだな」と思ったのだが、それは早川書房の印象操作にまんまと騙された結果であった。何が詐欺かと言われれば、まず「少女型アンドロイド」という表現自体詐欺だ。実際にはアンドロイドではなくサイボーグと言った方が正しい、また「少女型」なのかも疑問を感じる、日本語における「少女」よりかは少し年配の感じで「お姉さん型サイボーグ」という表現が正しいだろう。そして次の「ねじまき少女との出会いは、世界の運命を大きく変えていった」というセカイ系的文は大きな詐欺だ。作中で、ねじまき少女は確かに大きな事件を引き起こすが、それは世界レベルというほどスケールの大きなものではなく、また、アンダースンとの出会いによって引き起こされているわけではない。こんなあらすじを書いた理由としてはオタク読者に媚びたというものもあるだろうが、この小説の性質という理由もあるだろう、なにしろ一本道のストーリーというものが見当たらない小説なのだ。様々な人々がそれぞれ思い思いに行動して、その行動の因果が他の人に渡っていくということを繰り返した小説なのであり、裏表紙に書けるような一直線のストーリーは存在しない。更にもっと言うと群像劇なためアンダースンが主役なわけではない。

早川書房の詐欺はこれだけに終わらない、なんと、あろうことか、帯にこのような宣伝文句が書かれていたのだ。


ニューロマンサー』以来の衝撃!

グレッグ・イーガンテッド・チャンを超えるリアルなビジョンを提示した新時代のエコSF

これは、あまりにも言いたい放題な広告だ。誇大広告レベルだ。少なくとも、今作はイーガンやチャンのようなベクトルに向いている作品ではない。イーガンやチャンは斬新なSF的アイディアを基にして作品を描くが、今作には基幹となる目新しいSF的アイディアは存在しない。「リアルなビジョン」とも書いてるが、この作品がリアルだとすれば、石油が枯渇した近未来の主要エネルギー源はゼンマイだということになる。それも遺伝子組み換えした象に大型ゼンマイを巻かせて、ゼンマイ列車やゼンマイ車を走らせているのだ。その他のSF設定は旧来の域を出ない、自分が人間でないことを悩むねじまき少女など、SFとして見たら「古いよ!」と叫びたくなる描写も結構ある。

では、SF的には面白くないのに、どうしてこんなに賞を取っているのだろうか? SF要素が少ないから逆にたくさんの人に受け入れられたという理由もあるだろうが、一番の理由は今現代、『問題』とされている問題をたくさん入れているということがあるだろう。一例を挙げると、地球温暖化、遺伝子組み換え生物による環境破壊、穀物企業による生産独占、エネルギー危機、グローバリズムナショナリズムなどの要素だ。ここら辺のことに興味がある人は読んで見たらいいだろう。SF的には面白くなく、エンターテイメントとしてもお世辞にもうまいと言えないが。

評価B (凡作)

(草野)

「フラットライナーズ」(監督:ジョエル・シュマッカー, 1990年, アメリカ)

タイトルになっている『フラットライン』とは、脳波が平坦になった状態、すなわち死を意味している。主人公である医学生たちは、臨死体験に魅せられ、自身の身体を使いその実験をする。実験は見事成功と思えたが、主人公たちの周囲に不穏な空気が漂う、過去に抑圧していたトラウマが蘇ったのだ。ストーリーを表すと、こんな感じだ、これだけとも言ってよい。ただ単に、臨死体験実験したらトラウマが蘇ってそれで終わり。特にオチがあるわけでもなく、SF的な説明も皆無である。ストーリーの描き方もただただ主人公たちの個人的なトラウマシーンが流されているだけでさすがに飽きる。映像も、さして共感できるわけでもないキャラクターたちのトラウマシーンと蘇生シーンを繰り返すだけで、目新しいところがなく、後半に出てくる映像は前半で見たようなものがほとんどだ。蘇生シーンもはじめのころは緊迫感があったが、何人もが同じやり方で蘇生されるので白ける。キャラクターたちが緊迫しているのが、逆にわたしの心を白けさせた。自分のトラウマの解決方法も、昔虐めていたクラスメイトに謝るとかせこい方法を使う。この種の映画にそんな人情話はいらない、サイケデリックな映像と大量のトランスミュージックで視聴者の脳を破壊してくれればいいのだ。

評価 B-(凡作以下)

ゲオルク・ハイム『モナ・リーザ泥棒』(河出書房新社)

雑誌『幻想と怪奇』に訳出された衝撃作「狂人」を含むドイツ表現主義作家の短編集。ハイムの世界に善意、救い、希望などというものは一切ない。狂気すれすれの、いや、すでに狂気の領域に突入した鬼気迫る筆致で悲劇を描き上げる。たとえ喜びのきざしが一瞬見られたとしても、それは読者と登場人物により深い絶望を味あわせんがための道具立てにすぎない。突き抜けた残虐性とあらゆるものの破滅を志向する感覚を前に、黒い笑いを爆発させる者もいればとても通読できない者もいるだろう。秘められた作者の怒りと悲しみに共感して胸がふるえる者もいるだろう。なんにせよ圧倒されることはまちがいない。真の「冥さ」を知りたければハイムを読め。ここより先はない。

『放課後の国』

少女漫画をつまらないとする言としてよくあるのは「少女漫画は恋愛のことしか書いてないから面白くない」というものですが、私はこれに大胆に反論したい。

すなわち、「少女漫画とはいつ恋愛に転ぶかわからないから面白い」ということなのです。

「放課後の国」では友情だか愛情だかよくわからない関係が書かれていますが(「数学の鬼」「理科の瞬き」「妄想の国語」)、これこそが少女漫画の真髄なのであります。

以下引用
(「理科の瞬き」)
「――僕にわかっていたのは”決断を迫る星が近い”ということだけだ。君が”運命”なのか僕にはわからない・・・僕は自分を占わないからだ。
君が”運命”であったとしても僕には君を・・・拒むこともできたんだ・・・これまでのように
そうしなかったことが
僕の”決断”だと―――」
(二人の手が合わさろうとして、上記の台詞を言われた方が手を引くコマが4コマ続く)
(そして手を引いた方が自転車を走らせながら)
「今井が誰よりも大切な人間になったら
どうしよう―――」

(「妄想の国語」)
(モノローグ)「・・・なんでこんな気持ちになるの・・・会いたい 会えないと息も浅くなるわ
電話・・・ダメ 会わなきゃ なにかしらこの気持ち」
(そして相手のところに走っていって)
(モノローグ「ちゃんと親しくなりたいとき なんか こういう場合 なんかなかったっけ 常套句みたいなホラ
えーとえーとえーと・・・・・・・・・あのホラッ」
(台詞)「とっ 友達からはじめてくださいっ」

さて、上記の引用を読まれた方はまず間違いなくこれは恋愛であると判断するでしょう。私もそう思います。
しかし!しかし、この台詞はいずれも同性同士(「理科の瞬き」は男子高校生同士、「妄想の国語」は女子高生同士)なのであります。そしてどちらも最後は「友達だからな」「もう友達じゃん」の一言で終わる。でも、でもやはりこれは恋愛であると主張する私に皆さんも賛同してくださるでしょう。
吉野朔実は「恋愛的瞬間」にて友情とは恋愛の一変種であるとのテーゼを述べましたが(これは紙屋研究所の批評で知りました)、それをここに敷衍したい。すなわち「最上級の友情と最上級の恋愛とは再早区別がつかない」のであります。

そしてそれを「数学の鬼」にて見ることができるのです。数学の苦手な少女と、彼女に「押しかけ女房的に」個人レッスンを強制する少年との物語ですが、この二人の関係の色気のなさといったらもう実に体育会系なのです。
「やかましいっ! 俺がやれといったらやるのだ。やったら帰ってやる。ホレ今日の分だ、覚えろ」といきなり家にあがりこんで少女に数学を強制する少年。そして「・・・・・・こいつ・・・頭おかしい・・・」と思いつつ泣く泣く数学を勉強する少女。テストの成績が上がっても「バカかおまえはー!!」「バカッってゆーなっ おまえってゆーなっ!!」と喧嘩して海岸の砂を撒き散らす二人。しかしながら、終幕においてこのきわめて数学的かつ暴力的な二人が実は恋愛をしていたということがはっきりするとき、我々は恋愛というものの真理を知るのであります。

あらゆるカテゴライズ(例えば友情や性別や「恋愛とはこういったものだ」という先入観)によるせき止めをはじきかえす「想い」を描くことこそ少女漫画なのであります。友情が愛情に変る瞬間を描くというより友情とは愛情に他ならないと喝破することこそ少女漫画の使命なのであります。恋愛しか描かないからつまらないのではないのであります。あらゆるものが恋愛になる可能性を描くからこそ少女漫画は面白いのであります。

そして、この主張からまさに次のことが帰結されるのであります。

BL二次創作は少女漫画の精神を正統に引き継いでいると。

(3年 宇賀神鉄太郎)

amazon:放課後の国 (フラワーコミックス) (コミック)

『サマータイムマシン・ブルース』

タイム・マシンにはいろんな種類がある。大雑把に分けるとしたら、時を変えることができるものと、変えることができないものの二つ。ここではめんどくさいから、未来のことはおいておく。それじゃあ、過去へ行ってみようと実際に過去へ行ってしまうと、存在していなかったものが急に存在しちゃうことになってだから現在を変えることになる…というのはタイム・パラドックスの「いろは」だね。タイムマシーンに乗って自分が生まれる前に行って、お父さん(となる人)を殺してしまったら、自分はどうなるのかという思考実験が有名な「父殺しのパラドクス」だけど、タイムマシーンはひとたびこの世に生を受けた瞬間から、このパラドックスと正面切ってやりあわなければならない。父殺しのパラドクスをどう殺すか、それが問題。

過去を変えることができないタイム・マシンっていうのは、つまりあたかも昔撮った映画を見ているかのような時間旅行を可能にするタイム・マシンのこと。過去へ行くことはできるけど、過去に干渉したり改変したりすることはできないというやつ。これはお約束としてはOKかもしれないけど、目の肥えた読者を納得させるそれっぽい説明を考え出すのがなかなかちょっと大変かも。だって、誰が考えてもすぐに気がつくと思うんだけど、これってさ、質量保存の法則とかなんかそんな重大な物理学法則を明らかに侵しているでしょう。あの傲岸不遜な猫型ロボット一つとってみても、ヤツがどっから来たのかじっくり考えてみるとわかる。のび太の机の中からっていうのは半分正解で、でも半分間違い。時間軸を未来へと延長した通時間的な流れで見てみれば収支はプラス(現在に出現!)・マイナス(未来から消える!)・ゼロかもしれないけど、時間軸を現在という瞬間でスパッと切り取った共時間的な視点で見てみれば、絶対おかしい。ドラえもんを形作っている質量なりなんなりが、ひゅっとこの世界に登場したわけだから。まるで煙のようにひゅっとね。

ここでもう一つタイム・マシンが必要になってくる。過去にいったら過去が(その延長として現在、そして未来も)変わっちゃう、過去への干渉を許容するタイム・マシンが考えられたのはすごく当然のことだと思う。けど、問題なのは干渉の仕方、改変の程度がほんといろいろあること。ある時間旅行者が観光目的で恐竜がいる大昔に行ったんだけど、そこで一匹の蝶を踏み潰してしまう。時間旅行を堪能して現在に戻ってくるけど、そこは彼の知っている現在ではなかったなんていう有名な短編小説があった。時間のカオス理論とでも呼べるこの話は、ちょっとの間、読者をうならせる説得力はある。どれくらいかっていうとほんの二秒ぐらい。過去の小さな変化が現在の大きな変化になっている、っていうのは確かに「なるほど!」って思うかもしれないけれど、それだってほんの二秒の間だけ。だって、蝶を踏み潰すことも未来を変えられるほどに十分な変化であるのに、タイム・マシンがやってきたことによる大気分子の撹乱や、人が地面に降り立った痕跡、それまでに存在していなかった人が生命活動をすることによるさまざまな影響(呼吸とか分泌とか排泄とか)は「十分な変化」ではない、と誰もいえないってのはおかしいでしょ。ここでもさっきのドラえもん的な問題が反復されてる。ちょっとでも変化を許容するならば、全部のありとあらゆる分子・原子・素粒子、ひょっとしたら形而上学的な変化さえも考慮しなきゃならんっていうのが、論理的な筋道のはず。

過去を変えることができるタイム・マシンが生み出すこの難問にも、いろいろな解決方法が発明されている。これなんかすごい。タイム・マシンで過去へ行くということは、自分の知っている過去(つまりタイムマシーンの存在しなかった過去)ではなくて、自分がタイム・マシンでやってきたことによって変化を被った歴史を持つ過去へ行くことだと考えるの。ただ単に過去へ遡るっていう直線的な動きをするだけではなくて、それと一緒に別の過去へと平行移動もする。だからタイム・マシンに乗れば乗った数だけ過去を渡り歩くことができる。同じ過去を二度体験することはできない。ほかにはこんなのもある。歴史には修復する力があって、たとえ過去が改変されたとしても、どこか別のところでその改変を補うような変化が生じるっていう考え方。この考え方では、ヒトラーの暗殺に成功したとしても、ホロコーストが実際に起こった歴史であるため復元力が働き、別の独裁者が誕生してしまう。これら二つの考え方に共通して見えるのは、人間の力、もっといえば人間の自由意志の力と確定された出来事の集積、つまりは過去の間でなんとかしてバランスを取ろうじゃないかっていう葛藤。あたしがタイム・マシンを好きなのは、まさにこの葛藤がたまらなく好きだから。愛してるって言っちゃってもいいぐらい。

本広克行監督の『サマータイムマシン・ブルース』は、SFなんて研究するわけないと言ってはばからないある大学SF研究会の部室に、突如出現したタイム・マシンをめぐるドタバタを、ドタバタだけど丁寧に組み立てた物語。タイム・マシンを使って彼らがしようとしたのは、壊れてしまった部室のクーラーのリモコンを何とかしようという、宇宙規模で見ても、地球規模で見ても、いやいやどんな規模で見たって、やけにちっこい野望。果たしてこのタイム・マシンが、あたしが分類したどのタイプになるかは見てのお楽しみなんだけど、とにかくあたしは惚れた。やっぱ人間はこうでなくっちゃ。これ以上にないほどまったりした空気を吸う大学生たちは、やっぱりこうでなくっちゃ。どうでもいいことばっかりしているんだけど、時折に織り込まれるどうでもよくないことをなんとか必死に守り通そうとする。もう健気。それはまるでタイム・マシンと歴史の関係みたい。決まっているんだけど、決まっていないことにできる…かもしれないことが決まっている…としてもやっぱり決まってないことにしたい…とこれはどこまでもどこまでも続いていく。タイム・マシンと人間がいる限り。この決められる/決められないは、静かに時に激しく本編のブルースを奏でている。そしてあたしはこのブルースがたまらなく、好き。(4年 浅海有理)