唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

ファースト・フィナーレ。

「カラサワ5つの誓い」
一つ。体調の悪いままホッピーを飲まぬこと。
一つ。天気のいい日に帽子を干すこと。
一つ。ネットに書き込むときには検証者に気をつけること。
「次郎ちゃーん」
一つ。他人の文章を頼りにしないこと。
一つ。舞台の上で前説をしてトラウマを作らぬこと。
「聞こえるかい? 唐沢さーん!」

 
 最終回なのでね。『電脳なをさん』で「ウルトラ5つの誓い」をネタにした時もやっぱり「次郎ちゃーん」は入れてたのでオタクとしてそれに倣いました。「♪復讐の風〜」ときたら「飛鳥ァーッ!!」と入れたくなるのと同じで。…まあ、本気で唐沢さんと何かを誓おうとしたら5つじゃ済まないからなあ。次郎くん、ずっと砂浜を走らなきゃいけなくなる。初見では二代目ゼットンのゆるさが頭を占領していたけど、今になってみると「ああ、終わっちゃうんだなあ」という胸を締め付けられるような感じがあって、これもいい最終回だと思う。…という感じで、最後なのに特撮話で始めるというのが我ながらダメダメなのだが、あまりシリアスになるのもおかしいからこれでいいのかな。


 というわけで、2008年7月から10年以上にわたって続けてきた「唐沢俊一検証blog」、今回を持ちまして更新を終了させていただきます。長きにわたってご支援していただいた皆様に心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。
 …しかし、自分で言うのもなんだけど、長すぎですよね。もっと早く終わらせるべきでした。唐沢氏の本が最後に出たのが2012年12月で、このブログも2013年以降は更新がかなり飛び飛びになって惰性のように続けてしまっていました。だから、今回のはてなダイアリーのサービス終了は終わるいい切っ掛けになって本当によかったと思います。特に不自由することなく書かせてくれた、はてなダイアリーにも感謝します。引き続きはてなブログでもよろしくお願いします。
 そして、唐沢俊一氏にも感謝申し上げます。これまで何度も書いている通り、自分は唐沢氏が憎くて検証をしてきたわけではありませんし、検証を通じて多くを学べたと思っています。おかげさまで検証を始める前よりはいくらかマシな自分になれました。ですから、唐沢氏が演劇あるいは文筆業でまた華々しく活躍されることを心から祈るとともに、もしも新刊が出た暁には必ず新しいブログで取り上げることをここに誓います。及ばずながら全力で検証します。唐沢さん、本当にありがとうございました。


 それでは、今後の方針をいくつかご説明させていただきます。
1.新ブログについて
 これからは「ex検証ブログ」にて更新していきます。はてダがサービス終了と聞いた時に「はてブで続けるとして、そこでも唐沢検証をやるの?」と思って正直ウンザリしてしまったのですが、そこで「そうじゃない。これからは唐沢俊一以外のテーマを検証しよう」と思ったら目の前が明るくなったんですね。実際、旧ブログでも唐沢氏以外の人物を検証する機会もありましたし、興味のあるテーマはわりとあるので、これからはそれに取り組んでいこう、と決めた次第です。まだ準備中の段階ですが、第1回目を見てもらえれば新ブログの方向性は理解していただけるかと考えています。正直、対象が代わっただけであまりやることは変わらないので、これまで通り好きにやっていくつもりです。あまり頻繁に更新できないはずですが、最低でも月に1回は記事を上げていくつもりなので今後ともどうぞよろしくお願いします。

2.Twitterについて
 実はTwitterを始めていました。新ブログの告知用に作ったのですが、現状ではダラダラと無駄話をしている有様ですので、気軽にのぞいてもらえれば幸いです。…そういえば、Twitterの方で唐沢スレ@5ちゃん一般書籍板の人に一言書いたのだけど、どうも話が通じなかったようで「ムキになって反論するのはおかしい」などと逆に妄想をこじらせていく一方なので、自分としてはこれ以上説得するつもりはありません。まあ、唐沢スレやうちのブログのコメント欄で暴れる限りは世間に迷惑をかけはしないはずなので、「検証班は芦原太郎と同一人物だ」「検証班はプロのライターになろうとして失敗した」とか根拠ゼロの妄言をいくら言ってくれても構いません。妄想の人が心身ともに健やかであることを願います。

3.「検証本」完結編について
 出すことにしました。一応今年の冬コミに出すつもりでいますが、どうなるかはわかりません。委託オンリーになる可能性も無きにしもあらず。内容としては、完結編なので総括をすることになるはずですが、前回参加したのが8年前の夏コミなので、時間が経過してどのような変化が生じたのか、というのも考えるべき点かも知れません。あと、本を買った人だけにある「お知らせ」をするつもりなので、興味のある人は冬コミでぼくと握手!

4.やり残したことについて
 そう。これがあるから終わるに終われなかったわけで。具体的に言えば、「『フィギュア王』で唐沢氏が永山薫氏に謝罪した件」「唐沢氏による『テヅカ・イズ・デッド』批判」ですね。この2つは事情があったり書き方に苦労したりで旧ブログでは発表できなかったのですが、それでもなんとか「検証本」完結編で取り上げることにします。もしくは新ブログで取り上げることになるかも知れませんが、いずれにせよ、この2つは必ずなんとかします。それと、「『唐沢俊一検証blog』10年の歩み」も最終回までにやっておけばよかったかな、と思ったのですが、これも「検証本」完結編か新ブログでやることにします。

5.唐沢俊一氏について
 Twitterで氏の活動に触れることはあっても、新ブログではよほどのことがない限り取り上げないのではないかと思います。Twitterでちょこっと触るくらいがちょうどいいような気もするので。もちろん、新刊が出たら話は別です。


 とりあえずお伝えするのは以上です。
 最後にひとつだけ確実に言えるのは、このブログをやってよかった、ということですね。そりゃあ、訴訟や探偵をほのめかされたり、つらいこともいろいろありましたが、多くの人に読んでいただき、多くの励ましの言葉をいただき、応援してくれている人と直接お目に掛かれたり、普通に暮らしていれば会えない人にも会えたり、いいことの方が断然多かったですね。ふてくされてばかりの10代を過ぎ、ふてくされてばかりの20代を過ぎ、ふてくされてばかりの30代を過ぎ、ふてくされてばかりの40代になりましたが(分別はいつつくのやら)、新しいブログも今まで通り楽しみつつやれたらいいな、と思います。
 
 
 最後になりますが、「唐沢俊一検証blog」、これまで応援してくださって本当にありがとうございました。よろしければ「ex検証ブログ」もごらんになってください。それではごきげんよう


kensyouhan

ファースト・フィナーレ

ファースト・フィナーレ

地獄のズバット <怪傑ズバット>

地獄のズバット <怪傑ズバット>

愛し愛されて生きるのさ

愛し愛されて生きるのさ

新にして真にして神。

 シン・ゴジラには大してハマらなかった。劇場には3回しか行かなかったし(堀込高樹は4回観ている)、グッズもブルーレイと『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ』しか買っていない。「21世紀の邦画暫定1位」と心中ひそかに考えていて、そう言うといかにも大仰だが、たかだかこの15年あまりで1位というだけで、それほど評価しているわけではない。ホラン千秋似のママさん(実在します)が『シン・ゴジラ』を観て、「日本の官僚って優秀なんだね!」と感激しているのも聞いたが、「現実とフィクションをごっちゃにすると唐沢俊一になるよ」と思っただけだった。しかしながら、残念なことに映画の見方がおかしかったのは美人ママさん(実在します)と唐沢氏だけでなく、あの町山智浩氏もそうだった、というのが「唐沢俊一検証blog」実質最終回のテーマである。


 唐沢氏と町山氏が『シン・ゴジラ』をめぐってtwitterでバトったのは一昨年10月のことで、一連のやりとりはtogetterにまとめられている。個人的には、このやりとりの中で『新・UFO入門』盗用事件について語っているのが非常に興味深かったのだが、それについては過去記事でまとめているので参照されたい(その1その2
その3)。…唐沢氏は反省してないのか、できないのか。
 さて、このバトルについて取り上げる前に、唐沢氏がバトルに先立って『シン・ゴジラ』を批評しているのも紹介しておこう。週刊新潮』2016年9月1日号の特集記事に唐沢氏がコメントしている(現在は「デイリー新潮」で読める)。

ところで、今、なぜゴジラなのだろうか。評論家の唐沢俊一の回答はこうだ。
「最初の『ゴジラ』は、第五福竜丸事件の年に封切られました。日本人が水爆への漠たる恐怖を抱いたとき、水爆実験で怪獣が目覚めるという映画で恐怖が具現化されたのです。また、1954年は高度成長が始まった年で、見慣れた風景が次々と壊されていくイメージとリンクした」
 だが、高度成長が終わり、バブル景気から平成の時代には、「大気汚染や食品添加物のメタファーは、むしろホラー映画の幽霊などだった」が、近年、それが変わったという。
東日本大震災が起き、福島の原発事故が発生し、人間の恐怖の対象として災害が改めて認識された。われわれは戦争以外の、新しい破壊の恐怖を体験したのです。この映画は明らかに災害映画で、内閣がどのように対応し、自衛隊への命令がどう出されるかということは、自然災害への対応を元にしています」(同)

こうして、庵野氏の情念があまりに強く押し出されたというこの映画。唐沢氏は、それはオタクならではのものだと、こう語る。
「『シン・ゴジラ』が今までのゴジラと大きく異なるのは、無駄がないこと。70年代、80年代のゴジラには色恋沙汰などの人間模様も入れ込まれていたけど、今回は恋愛も一切描かれていません。これはオタクにしかできない決断です」
 オタクであればこその思いきりが生み出した、純度の高さだというのである。

 前段はいいとしても、後段は明らかに妙だ。庵野監督は『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ(グラウンドワークス)に収録されたロングインタビューで、人間ドラマを入れろという要求をかなり執拗にされたと語っているが、それを突っぱねた庵野監督の気力を称賛できても、オタクだからそれができた、という話にはならない。意気地のないオタクだっていくらでもいるだろう(唐沢検証を見ても分かる)。上で挙げたロングインタビューによると、

もともと僕は、どちらかというと粛々と変化する状況が客観的に描かれていて登場人物の主観的なドラマが少ない作品が好きなんですよ。(後略)

庵野監督は語っていて(P.494)、もともとの好みもあったのだろう。なお、「登場人物の主観的なドラマが少ない作品」の例の一つとして『日本のいちばん長い日』が挙げられている(『シン・ゴジラ』を観てしばらくしてから『日本のいちばん長い日』を観る機会があったが、思いのほか似ていて笑ってしまったので、興味のある人は観たらいいと思う)。あと、庵野監督のフェイバリット映画として知られている『激動の昭和史 沖縄決戦』も。どちらも岡本喜八作品。
 ただ、この記事の中で、唐沢氏より妙なコメントをしている人がいるので、一応紹介しておく。

さて、若いころから庵野総監督をよく知る評論家の岡田斗司夫は、庵野氏がリアリティにこだわったというこの映画に、また別の影を見ている。
ゴジラは最初、蒲田から品川へ向かいます。これは庵野くんの家から(自身のアニメ制作スタジオの)カラーへ向かう道のりだという指摘もある。うつ状態で1年ほど出社できなかったのが、ようやく行けるようになったという姿です。またラストに、石原さとみに向って長谷川博己が“辞めることで責任をとる”という発言をしたあと、一人になって“オレは辞めない”とつぶやく不自然なシーンがあります。辞めて責任をとるというのは宮崎駿監督のことを指していて、“オレは辞めない”というのは“エヴァンゲリオンの続編を作る覚悟ができた”という意思表明なんです」

 『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ』によると、まず、ゴジラの上陸ルートは初期のプロットでは芝浦に上陸することになっていた(そのまま海には戻らない)。その後、アクアトンネル直上→羽田空港から京浜運河を北上→芝浦で上陸して品川まで移動して海中へ→鎌倉に再上陸という流れに変更されたのだが、結局、皆さんご存知の通り本編では芝浦ではなく蒲田に上陸することになる。「えっ蒲田に?」が「えっ芝浦に?」になっていたのかもしれないのか…。同書P.502より庵野監督のコメント。

確か3月中頃に樋口監督らがロケハンに行って「京浜運河は沿岸の画が面白くないから、海老取川から呑川にして、上陸は蒲田にしましょう」と。僕は台本の作業で春は籠りっぱなしだったので「まあ、そう言うなら。でも僕は場所をよく知らないから台本の柱はそちらで直して」という感じでした。(以下略)

 はいダメー(トム・ブラウン風に)。誰の指摘を聞いたんですかね…。その後で、岡田氏は「プライベートフィルムを大予算で作っている」とも評しているのだが、これを見る限り、岡田氏は『シン・ゴジラ』を『新世紀エヴァンゲリオン』と同じような作品として見ているのではないか。『エヴァ』を批判していた岡田氏が『エヴァ』の延長線上に『シン・ゴジラ』を見るのも奇妙な感じだが、過去の作品と関連付けるのであれば、モルモット吉田氏の批評の方が妥当だと個人的には思われる。あの音楽が何度もかかるからといって、あまり『エヴァ』に引き付けて考えるのもどうかな、と(あれがかかると条件反射で血が騒いでどうしようもない)。あと、ロングインタビューの中で庵野監督は「周囲のことも考えている」と何度も強調していたから、「プライベートフィルム」みたいに言われるのはすごく嫌がりそうだし、そもそも映画は基本的に一人で作れるものではとてもないから(アニメとはスタッフの数も違うだろう)、やはり岡田氏の見方には疑問がある。

 で、いよいよ本題の唐沢vs町山に入るわけだが、この件に関して自分が一番に感じるのは「しょうもない」という気持ちだ。いや、だって、過去記事でも指摘しているが、2人とも庵野監督の元の発言を確認しないままやりあっているんだもの。プロ同士が又聞きでやりあうなんて、目の前が暗くなる。というか、この件に関連して発言した人でソースを確認しようとした人がどれくらいいたのか。山本弘氏がデマによる大虐殺を心配するのも無理はないかもね。
 ほんでもって、肝心の発言も「どうか」という感じだ。まずは唐沢氏のツイート

国民はみんな、国政に頑張っている安倍首相の足を引っ張る野党の姿にストレスを感じていたのですね。なんか今の若い人の感覚に、すごく納得。

 「唐沢さんのツイートをいちいち取り上げないようにしてブログを休んでいたのは正解だわ」という感想しか出ない。雑すぎて話にならないもの。言うなれば「検証またぎ」。それでも気を取り直して一応やってみると、なんといっても「国民はみんな」というすごい出だし。「メロスは激怒した」とは別の意味でハートを鷲掴みにされるすごい出だし。もうここだけで「そんなわけねえだろ」と終わってもいいと思うのだが、そうもいかないのが検証者のつらいところだ。しかし、出だしを無視したとしてもやはり話にならないのには変わりない。だいたい、その年ヒットした1本の映画と国民性を関連付けて話をしている時点で粗雑極まりないし、『シン・ゴジラ』を観に行ったのは若い人に限らないだろう。それに、みなさんご記憶の通り、2016年には『シン・ゴジラ』以上にヒットした『君の名は』が存在している。こっちはどうなるの? という疑問が当然湧く。要は、唐沢氏が面白く感じたとはいえ、たった1本の映画を元に唐沢氏の都合のいいように世間を語っているだけなのだ。雑すぎて話にならない、ともう一度書いておく。
 はっきり言って、この唐沢氏のツイートに負ける方が難しい。自分でもこれくらい突っ込めるのだ。しかし、どういうことなのか、 町山氏のツイートはそれを下回ってしまう。

シンゴジラ」には足引っ張っる奴が出ている。大杉漣首相と小池モドキ防衛大臣たちで、そいつらがいっぺんに死んだから仕事が楽になる。それとあのな、「シンゴジラ」と今回の選挙を強引に結び付けるないで消えてろ唐沢俊一

 なんといっても、このバトル全般に言えることだが、町山氏は感情的になりすぎである。「冷静に間違っている人」と「感情的な正しい人」がやりあっているのをみれば、観衆は前者に軍配を上げたくなるものだ。発言の内容よりも立居振舞いが評価される、ということは確かにあるので、自分も気をつけたい。まあ、唐沢氏はこれまでの論争でも外見上一応は冷静に振舞ってきた人だから通常運行なのだけど(自分は唐沢氏は多分に感情的な人だと思っている)。しかも、残念なことにこのバトルでの町山氏は「感情的な間違っている人」になってしまっている。誤字が二か所あるのもさることながら、大杉漣首相と小池モドキ防衛大臣たちで、そいつらがいっぺんに死んだから仕事が楽になる」というのは『シン・ゴジラ』を観たほとんどの人は首を傾げるのではないか。いや、そんなことはなかったけどなあ…。あと、唐沢氏も町山氏も平泉成に触れていないのが不思議ではある。
 この後、延々とバトルが続くのだが、唐沢氏がシニカルに雑なことを言い、それに町山氏が激昂して反撃する、という流れは変わらず、精神衛生上よくないのでそれを逐一見ていきはしない。善男善女のみなさんならば、2人の最初のツイートを見ただけで「あ、これダメなやつだ」とお分かりになるかと思う。
 ただ、ひとつだけ町山氏のツイートを取り上げておきたい。

唐沢俊一、あんたはもう終わったんだ。事実を受け入れて消えてなさい。

 このツイートは自分も過去に取り上げているが、後になって「ああいう風に言ったらダメだとはっきり書いておくべきだった」と反省したので、今回あらためて指摘しておく。誰かが誰かに対して「終わった」などと言う権利はない。町山氏だって「終わった」と言われたら嫌だろうに。唐沢氏は終わってなどいない。むしろ今からが始まりかも知れないではないか。自分はそう期待している。
 ついでに唐沢氏のツイートもひとつだけとりあげておこうか。これとか。

自民勝利の選挙後でイラついてるんでしょうwシンゴジラへの批判に、政府の人間である主人公が日本を救う大政翼賛映画だというのがあり、監督がそんな映画を作った理由が「頭の悪い足引っぱり役を置かない」ということで、なんで若者が安倍支持に回るかの理由のひとつとして納得するものがありました。

 これを見ればよくわかるんだけど、唐沢氏は別に自民党や安倍政権を積極的に支持しているわけじゃなくて、自分の嫌いなリベラルな人が自民党や安倍政権に批判的だから敵の敵は味方で持ち上げているに過ぎないのではないかなあ、と思う。で、何故リベラルが嫌いなのかというと、自分が生活しているこの社会が平穏無事なものだと思いたいのに、リベラルな人が殊更に問題点をあげつらっている(ように見える)から、なのではないかなあ。過去にこのブログで唐沢氏を「現状維持」の人だと論じたけど、これもその一環。でも、まあ、Twitterで見る限り明らかに体調に異変をきたしているのに、それでも病院に行かないあたり、唐沢氏の「現状維持」精神はかなりの代物なのではないか。自分はもう唐沢氏に病院に行けとは言うつもりはないんだけど。
 結局のところ、このバトル、唐沢氏の勝ち、と判定されている方もいるようだが、個人的には「唐沢氏の負け、町山氏の大負け」くらいが妥当な評価だと思う。スポーツならば勝ち負けがはっきりつくが、ケンカでは「どちらも負け」ということも有り得る。あと、唐沢氏に比べて町山氏には評価を落とす余地があった、というのもあったと思う。少なくとも「国民はみんな」というのを勝たせるのはまずい。ただ、盗用の件について唐沢氏から発言を引き出した点は町山氏の功績である、と一応記しておく。

 
 これだけではどうか、と思ったので、町山氏の『映画ムダ話』の『シン・ゴジラ』の回も聴いてみた(収録は2016年9月)。出だしで『シン・ゴジラ』と『下町ロケット』が似ている、という話になるのだが、「国民全員が、日本人全員があのドラマによって高揚する感じ」と言っていたのでひっくり返ってしまった。…こっちもか〜。こっちも「国民全員」か〜。言いたくなっちゃうのかな〜。
 それと、庵野秀明矢口蘭堂みたいな話になって、『シン・ゴジラ』という作品をコントロールしていた庵野監督と、いわゆる「内閣総辞職ビーム」によって上の地位にいた政治家が死んでしまったことによって、そこから自分の思い通りに話を進められるようになった矢口がダブっている、という見立てを町山氏は披露しているのだが、ここを聴いて「あ、なるほど」と納得がいった。つまり、そのような見立てがあったから上に引用したツイートをしたわけだ。岡田氏の「プライベートフィルム」説とも近い見立てだけど。…しかし、矢口の思い通りに話が進んでるか、というとこれも疑問で、町山氏が自らの見立てに都合のいい解釈をしている感は否めない。やぐちひとりではヤシオリ作戦の成功は覚束なかっただろう。
 ただ、そうは言っても、やはり聴くべきところはあって、『妖星ゴラス』をはじめとした東宝特撮映画が戦後日本のナショナリズムをある意味で象徴していたとするくだりなどは、かつて『怪獣学・入門!』(JICC出版局)を編集した人らしいものだったし、『春と修羅』にからめた読み解きなどは当たっているかどうかは別にしてもつい引き込まれてしまいそうになった。町山氏は『シン・ゴジラ』に似ている作品を次々と挙げていっているのだが、ロングインタビューを読む限りでは、今回の庵野監督はその手のモトネタについてはかなりあっさりしていて、樋口監督から「グドンツインテールの回に似てるね」と指摘されても「そういえばそうかな」くらいのそっけないリアクションしかしていない(グドンツインテールは町山氏も指摘している)。本当に無意識だったのか、とぼけているのかは不明だけど。
 もうひとつ思ったのは、トークを聞くと文章に比べるとずいぶんと隙が多いように感じる、ということだ。「え?」「そうかな?」と聴きながら戸惑うことがしばしばあって、「町山さん、文章はしっかりしていると思うんだけどなあ」と少し考え込んでしまった。最近でも町山氏は『ボヘミアン・ラプソディ』について間違いを指摘されていたが(togetter)、あれもラジオでしゃべった内容を突っ込まれていたから、やはりトークだと隙が多くなって危険なのだろう(しかも最近では音源が残って動画サイトにアップされたり文章に起こされたりして検証しやすくなっている)。


 結論としては、唐沢氏も町山氏も自分の見たいように見ているせいでどちらも話がおかしくなっている、ということは言える。批評なのだから、独自の見立てやある種の偏りはあってもいいのだろうが、それも程度問題であまりに行きすぎると単にズレた話になってしまう。プロでもそうなるんだなあ、というのが驚きである。あとは、『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ』は読んでおいた方がいい、というのと、「国民みんな」「国民全員」というワードは使わない方がいい、というところだろうか。主語がでかいにも程がある。


 …以上をもちまして、「唐沢俊一検証blog」における検証は終了いたしました。次回、最終回では皆さまへのご挨拶と新ブログへのご案内をする予定です。遅くても1月27日までに更新しますのでどうぞよろしく。

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ ([バラエティ])

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町山智浩の「アメリカ流れ者」

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愛をあるだけ、すべて(初回限定盤)(DVD付)

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魔法戦隊マジレンジャー VOL.1 [DVD]

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走れメロス (新潮文庫)

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君の名は。

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下町ロケット -ディレクターズカット版- DVD-BOX

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やぐちひとりDVD Vol.1&2 BOX

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Ain't No Mounting High Enough.

「山本弘のリハビリ日記」を読んでいたら気になる記述があった。山本氏の著書からの孫引きになってしまうが、著者本人がした引用なので間違いのないものだろう。

 2016年4月、熊本で大きな地震が起きた直後、「熊本の朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだぞ」というデマが流した奴がいた。それも1人や2人ではなく、ものすごくたくさん! 8月の広島の土砂災害でも「広島の被災地で在日韓国人が火事場泥棒開始」というデマが拡散した(広島県警が正式に否定)。関東大震災から80年以上経った今も、デマを流してあわよくばまた大虐殺を起こしてやろうと狙っている者が大勢いるのだ。

 ここで「?」となった。「大虐殺を起こしてやろう」? 「大虐殺をしてやろう」じゃなくて?
 いや、特定の人々を「大虐殺」しようと企む悪(としか言いようがない)の集団がいるというならまだ理解できる。しかし、「起こしてやろう」というのは他人まかせでまわりくどい。それに、デマに煽られて「大虐殺」をしてしまうくらい今の日本国民の民度は低いと山本氏はお思いなのだろうか。もしくは、「自分なら煽られたらそれくらいやりかねない」と山本氏は自己分析されているのか。
 もしかすると、流言蜚語に乗じて大虐殺の実行を目論む集団あるいは個人の存在を山本氏は実際に把握されているのかもしれないが、それなら今すぐにでも警察に通報すべきで、ネットや著書を通じて批判するなどあまりにも悠長すぎる。逆に集団の存在を把握しないままこのような話をしているのであれば、それはいわゆる陰謀論で、トンデモの一典型になってしまう。右でも左でも政治的な立ち位置を問わず、仮想敵を設定して論を進めていくのは知的衰弱の表れでしかない、と自分は考えている。「どこかで悪いことを企み実行している連中がいる」と考えて、話を分かりやすくしたいという願望に屈してしまっているのだ。


※ 上記の太字部分を一部修正しました(1月17日)


 一言で言ってしまえば、山本氏はデマを流す理由を見誤っている。もっとも、日記の中で山本氏が「善意」でデマを流す人がいる、と書いているのは当たっている。昨年9月に発生した北海道の地震では「もうすぐ余震が来る」というデマがネット上で流れたが、あれだってデマを流した人は早めの避難を呼びかけるつもりでやったのであって悪気があったわけではないはずだ(いつどこに地震が来るか分かればどんなにかよかったか…)。
 外国人がよからぬことを企んでいる、といったデマを流す、あるいは外国人に対して差別的な言動を取る人たちの多くは本気でやっているわけではなく、「ネタ」として消費しているだけ、というのが本当のところだろう。そう言っている人たちが本気で外国人排斥に動いていたら、もっと大変なことになっているはずだ。あくまで口だけの、何ら真剣味の伴わない行為なのだ。
 一例を挙げてみると、百田尚樹氏がTwitterで、

はっきり言います!
韓国という国はクズ中のクズです!
もちろん国民も!

と呟いた後で、韓国人の母親を持つ人から反論されて、

誤解しないで貰いたいのですが、私の韓国非難のツイートは、レーダー照射に関する私自身のツイートに対して追加したものです。
軍も政府もメディアも一丸となって嘘をつき、逆ギレする様を見て、それらを支える韓国国民もクズと言ったのです。
一般論として、人種差別をしたわけではありません!

と返事している(Twitter)。…いや、それで「誤解するな」と言うのは無理だよ、とか、作家なのに言葉軽いなあ、とか何重にも呆れる。百田氏が「韓国国民はクズ」と本気で考えていたとしたら、「あなたのお母さんもクズです」と反論してきた人に返事しなければいけないはずなのだが、弁解しているところをみるとよく考えもせずに発言していたのが見て取れる。百田氏はつくづく隙の多い人なのだが、そういう隙の多さを改めるどころか逆に自らのチャームポイントのように考えているようにも思われる(こういう人を相手にした検証は難しい、というのは『日本国紀』騒動を見てもわかる)。困った人である。
 百田氏をはじめ、この手の発言をしている人の本気度はきわめて疑わしい。だからといって、自分はその手の発言およびデマは大したことはない、と言いたいわけではなく、それはそれで悪質だと言いたい。同級生をからかっているうちに、その子が泣いたり怒ったりしたら、「冗談なんだから本気になるなよ」とヘラヘラ笑ってごまかすようなタチの悪さ、とでも言うべきだろうか。まあ、この問題に限らず、政治や社会についてSNSで過激な発言をする人は大勢いるけど、自分の発言が実現したらどうなるのか考えて発言しているのか、というときわめて怪しいところだし、ある問題について調べて考えていくとおのずと口は重くなっていくものだし、自分と関わりのある問題であれば尚更口は重くなる。よく知らないからこそ好きなことを言える、というのは確実にあるし、逆に言えば、好きなことを言うためにあえて知ろうともしない、ということすらあるのではないか。
 山本氏に話を戻すと、氏には「デマを流す少数の悪質な人間」より「デマに流されない大多数の普通の人間」を信じた方がいい、と言っておきたい。何より思い詰めるのは身体に毒である。


・本題。みなさんは、何気なく本を読んでいたら自分のことが書かれていて驚いた、という経験がおありでしょうか? 自分はあります。2016年11月に発行されたロマン優光『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』(コア新書)で、唐沢俊一氏に言及した部分があるので、まずそこを引用してみる。同書P.175〜176より。

 そういえば、唐沢さんが数々の盗作・盗用疑惑で追及されていた時期があるじゃないですか。それは自業自得なんですが、中には追及するのは微妙なのではないかというケースもあったんですよね。先人の書いた雑学本やエピソード集みたいなやつからネタをもらってくるというのは、昔は色んな人がやっていたことなんですよね。そこは時代による感覚の違いみたいなもので。
 唐沢さんの場合、この著作権意識が発達した現代において、同時代の人、しかもアマチュアの人相手にそれをやってしまったことが大問題で絶対に悪いのですが、あまりにも細かい所や過去すぎること、グレーゾーンの中でも白寄りのあたりまで追及されたのは、さすがに気の毒かなとは思いました。状況証拠だけで黒だと決めつけることは、検証と言う場では許されないとは思うのですが、そういうレベルのこともありましたしね。

 「ああ、なんか言われてるなあ」というのが最初に読んだ感想。つまり、ロマン氏は、唐沢氏を検証している人は細かいところまで追及しすぎなんじゃないの? と疑問を呈しているようなのだが、それはその通りだと思う。今になってみれば、自分でも些末な点を取り上げたこともあったかもしれない、と思うことはある。ただし、それにはそれなりの理由もあって、あえて重箱の隅までつつくような真似をしたのは、あくまで検証を厳密なものにしたかったからで、つまり隙のある検証よりは細かすぎる検証を選んだのだ。だから、「細かすぎる」というお叱りについては甘んじて受けるしかない。それに、「グレーゾーン」の事柄を取り上げたこともあったと思うが、その際には間違いだとか盗用だとか直ちに決めつけることはせずに、留保付きで取り上げるようにしたつもりだが、もしも配慮を欠いて決めつけたことがあったとすれば、それは自分としても望ましいことではなく修正しておきたいので、お気づきになられた人がいれば、どうか具体的に指摘してほしい。
 ここまでは唐沢検証一般についての指摘だと思っている。別に自分だけが検証をやっていたわけでもないので、もしかすると他の方への指摘だったのかもしれない。だが、これに続くくだりは明らかに自分を指している。同書P.176〜177より。

 唐沢さんを追及していた人たちの一人が、私が昔書いた唐沢さんに関する雑文の中のネタと内容的にかぶることを書いていたことがありました。その人は、以前にその雑文の感想を書いていたことがあります。私がパクリではないかと指摘したところ、彼は「その文章のことは存在を忘れていたのでパクったわけではないし、語句が少し違うのでパクリとは言えない。」という弁明をしました。しかし、彼は唐沢さんに関しては、より状況が不明瞭な場合でもパクリ認定していたのですよね。
 いや、読んだものを忘れていて、何かの拍子に内容だけ思い出した場合、自分の中から出てきたことだと思ってしまうことは誰にだってあります。自分の中にある情報がどこから来たものなのか全て把握するのは不可能だからです。私だって、気づかないうちにやってしまっていると思います。だから、「意図的にパクったわけではない」という彼の弁明は嘘ではないと思います。ただ、唐沢さんに対してはより厳しい基準でパクリ認定を行っていた人の発言としてはどうかとも思います。彼の振りかざしていた基準でいうならば、彼は私の文章を間違いなく盗んだことになるのだから。
 私は、唐沢さんは職業上許されないことをしたと思いますし、全く好感は持っていません。ただ、追及する側にフェアな精神とバランス感覚がなければ、やり過ぎてしまうことで、自分たちの評判を下げるようなことになり、かえって相手を利することにもなりかねないのです。自分も、他人を批判してしまう時にはそういうところを気にかけてやっていきたいと思っていますが、できているかどうかは自信がないのです……。

 はい。これは自分のことですね。詳しくは過去記事を参照されたい。
 一言で言えば、ビックリした。そうとしか言えない。いや、だって、商業出版された本でわざわざ素人アマチュアブロガーのことを触れるなんてなかなかあるものじゃない。だから、驚いたその後で「ありがたいな」とも思ったし、その点ではロマン氏に感謝しています。
 ただ、文章の内容については首を捻らざるを得ない。まず、自分は「語句が少し違うのでパクリとは言えない」とは弁明していません。それは上でリンクを貼った過去記事を読んでもらえればわかるかと思う。でも、これってなんだろう。それこそロマン氏が記憶に頼って書いているのか、意地の悪い見方をすれば、自分を卑怯者に見せかけようとしているのか。何も知らない人が読めば、いかにもズルイ奴にしか思えないもの。
 ただ、それは細かいことだから別にいい。一番気になるのは「唐沢さんに関しては、より状況が不明瞭な場合でもパクリ認定していた」「唐沢さんに対してはより厳しい基準でパクリ認定を行っていた」。この部分。ここは読んでいて「え?」と目が点になってしまった。
 え? いつ? どこで? 一体どのケースで自分が唐沢さんに対して厳しいパクリ認定を行っていたのか、本気でわからない。上に書いたことの繰り返しになってしまうけれど、これに関しても具体的に指摘してほしい、と本気で思っている。もしそんなことがあったなら直さなくてはいけない。
 自分としては軽はずみにパクリ認定をしないように気をつけていたつもりだったので、この指摘は本当に意外だった。たとえば、ワンフレーズが同じだったくらいですぐに「パクリ」と認定するようなことはしないように心掛けていた。唐沢氏の文章とネタ元とされる文章を比較して、複数にわたって重複が見られるか、重複した部分の分量が長いか、または同じ箇所で同じ間違いをしている、とか、そういう件について取り上げてきたつもりだが(それこそ何度も比較対照表を作ったくらいだ)、そうでないケースもあったのだろうか。不安になる。…いや、もうブログの更新も終わるから言ってしまうけど、実は他にも怪しいケースはあったんですよ。「これってパクリなんじゃないの?」という。ただ、上にあげた基準から外れていたのでやめにしたわけで。「細かすぎる検証を選んだ」と言っておきながら矛盾しているけど、ライターにとって盗用の疑惑をかけられるのは重大なことだというのは自分でも理解しているつもりなので、その辺を考慮して自重したわけだ。そのあたり、自分に「フェアな精神とバランス感覚」があったかはみなさんに判断していただきたい。
 あと、唐沢氏に関しては青山学院大学を卒業したのか、という問題もあるけど、これに関しても自分は「卒業していない」と決めつけたことはないはずだし、いや、ガセにしろパクリにしろ、決めつけはしないように気をつけているつもりだったんだけど、そうでないこともあったのかなあ、と困惑している。長く続けてきたせいで記憶も曖昧だ。まあ、たまに過去の記事をチェックしているうちに唐沢氏に対して過度に感情的だったり攻撃的なくだりを見つけては、「なっちゃいないな、俺」と訂正することはあるので(その場合は断り書きをしたうえで直しています)、全く問題はないとは言い切れないのが情けないんだけど。別に唐沢さんが憎くてやっているわけじゃないし、悪口を言って気持ち良くなりたいからやっているわけでもないので、あくまで冷静にやるべきだし、感情的な文章を書けば後でつらくなるのは他でもない自分自身なのだ。
 ついでに書いておくと、さらにこの後で、

 あと、唐沢さんのところはプロダクションの形をとっていたし、スタッフが資料集めとか編纂をしていたんだと思うんですよ。

 とあるが(P.177)、そうだったのだろうか。


 この本は発売直後に読んでいたのに、何故2年半も抛っておいたかというと、自分でも思いも寄らないことを言われたのでどう対応していいかわからなかった、ということもあるし、それと同時に思いも寄らないことなら別に反論しなくてもいいんじゃない? という怠け者・インサイド・ミーの囁きがあったせいもあるが、いずれにしても早めに反応した方が良かったのは確かなので、その点はロマン優光さんには申し訳なく思っている。
 ただ、この本は別の箇所で当事者から事実誤認の指摘を受けていたりする(Togetter)。「業界の人って大変だなあ」という感想しかないが、そもそもロマン氏がこの本の中で「映画秘宝まつり」の件にこだわっているのも正直よくわからない。町山智浩氏がイベントではしゃいだのだとしても、それはサービスの意味合いもあっただろうし(過去にはもっとすごいこともしていた覚えがある)、場の空気を読めずにはしゃいだおじさんが顰蹙を買う、というのは自分を含めた世間一般のおじさんたちが自戒すべき事柄であって、別にサブカル関係者に限った話ではない。ロマン氏は町山氏に思い入れがあるがゆえに「もっとちゃんとしてほしい」と思っているのだろうけど。
 個人的な話をすると、少し前に実家に戻った時に、父が「町山智浩は面白いな」と言い出したので驚いたことがある。サブカルにはまるで興味のない人なので、WOWOWか『週刊文春』で話を見聞きしたのだろう。それ以来、町山氏の本を父によくすすめるようになったし、「俺、町山さんに“文章が上手い”って言われたことあるよ」などと言ったりしている。父親にマウンティングするな、という話だが。それはさておき、つまり、父の事例は町山氏がサブカル以外の人にも届くような手堅い仕事をするようになったというひとつの証明でもあって、ロマン氏の「後進に道を譲らない」云々の指摘は少しずれているように自分には思われる。ロマン氏とは逆に、今の町山氏を「丸くなった」と不満に思っている人もいるだろうし、どっちにしても批判は避けられないのがつらいところだ。まあ、町山氏が連載を持っている『週刊文春』がサブカルで活躍した人を多く起用しているのも興味深いところではあるが(なにしろ桜玉吉氏までいる)。ちなみに、次回は実質最終回になるが、そんな(?)町山氏を取り上げる内容になる予定。もちろん唐沢氏も。
 『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』という本自体に関しては、ロマン氏の個人的な思いを吐露したエッセイに近い内容で、分かる部分もあればそうでない部分もある、という感想を個人的には持った(岡田あーみん氏に言及していたのは面白かった)。とはいえ、くりかえしになってしまうが、商業出版された本で自分のような素人アマチュアブロガーのことを触れてもらってありがたい、というのが一番の思いだ。


イントロだけで名曲だとわかる。



ユナイテッド

ユナイテッド

世にも不思議な怪奇ドラマの世界

世にも不思議な怪奇ドラマの世界

今こそ、韓国に謝ろう

今こそ、韓国に謝ろう

おれの中の殺し屋 (扶桑社ミステリー)

おれの中の殺し屋 (扶桑社ミステリー)

最後から四番目くらいの真実。

 今回を含めてあと4回で終了の予定だけど、何かニュースが飛び込んでくるかもしれないので、「四番目」ではなく「四番目くらい」。


唐沢俊一氏の「鬱アピール」については、いちいち取り合わない方が氏のためになるとも思うが(「かまってちゃん」になられても困る)、それでもいくつか紹介しておく。

その1

背中から左の股関節にかけて、呻き声あげるほどの痛み。鬱で身体が痛くなることってあるのか?

その2

昨夜から「やたらな尿意」「腰のあたりの痛み」に悩まされていた。今日になっても同様で、歩行困難にまでなり、どうも風邪っ気が膀胱に潜ったのではとあたりをつけた。膀胱が腫れて周囲の神経を圧迫し、容量が少なくなって頻尿になるのである。薬局でロキソニン買って服用したら果たしてかなり回復。

その3

劇団『虹色くれよん』の小堀座長と年末飲み。単なる儀礼的飲みで、ということだったんだけど、いや、座組の話、役者の話、脚本の話とそれからそれ、あれからあれと盛り上がり弾みまくり。ふと気がつくと、もちろんロキソニン効果もあるだろうが腰の痛みまるで忘れて話しまくって。やはりこれでないと!

 痛みの元を治さずに薬で痛みを散らして飲みに行く、というのが、前回の52万円もそうだったけど、本当に末期なんだな、という感じがする。もうこの人をウォッチしてもしょうがない、というか、ヲチしている方にも悪影響が出てきそうな、というか。潮時だ。「さっさと病院に行けよ!」と怒ろうかと思ったけど、自分の家族でも友達でもない人にそこまですることもないか。唐沢氏には好きに生きて行ってほしい。
 ただ、自らの健康を過信する人は決して珍しくはない。山本弘氏も「闘病日記」の中で、

甘いものが昔から好きだ。医師から血糖値が高いとよく警告されていた。だが常人に比べて何倍も高いわけじゃないし、血糖を抑える薬も飲んでいる。何にせよ、いきなり破滅的な影響が出るとは考えにくい。

と書いた直後に、

それに僕は酒も煙草もやらない。信じられないほど健康な人間のはずなのだ。僕より不健康な暮らしをしている人間はいくらでもいる。

と書いていたので「ええ〜っ…」としばし呆然としてしまった。いや、「血糖を抑える薬」を飲んでいるのに「信じられないほど健康」って。これで実際に病気になっちゃってるわけだからなあ。これに限らず、山本氏の日記には考えさせられる点が多々ありはするものの、最新の日記を読んで、悲しくてやりきれなくなってしまったので、何も言わないことにする。自分ももういい年齢になって他人の健康を気にしている場合でもないので、日頃から身体のメンテナンスは怠らないようにしよう、と思うばかり。


・そういえば、山本氏は日記の中で「と学会」についても書いていた(カクヨム)。一言で言えば、トップに向いていないどころか、組織にも向いていない人に長年会長をやらせていた、押し付けていたのが問題なのだろう。もちろん、唐沢氏も会長には向いていない。このツイートって「と学会」の雅叙園でのイベントのことだよな…。個人的には、皆神龍太郎氏が会長になるのがおさまりがいいと思っているのだけど(山本氏のこのツイートを見る限り、皆神氏はかなりしたたかな人だ)。…あれ? そういえば、今年は「日本トンデモ本大賞」、なかったんだ。今の今まで完全に忘れていた。


・今頃発見した唐沢俊一氏の過去の仕事その1。1994年発行の火浦功伝説』アスペクト)の中で「唐沢俊一火浦功探偵団」名義で「火浦功を読み解くキーワード」を担当していた。内容自体は特にどうということもないが、唐沢氏と火浦氏、という結びつきが多少意外ではあった。


・今頃発見した唐沢俊一氏の過去の仕事その2。『SFアドベンチャー』1991年11月号唐澤俊一『猫伝』という小説が掲載されている。昭和初期を舞台に「人造人間」が騒動を繰り広げるというストーリー。話自体はわりと普通なのだが何より文体が特異なので、少し引用してみる。『SFアドベンチャー』P.186より。

 ≪科学と芸術の一致≫なる崇高なテエマアの基に製作せられ、頭部には緑葉の冠を被り、左手に霊感燈なる水晶硝子製のカンテラをかかげ、右手にかぶら矢のペンを握り、紫紺色の室内に流るる荘厳なオルケストラの演奏に合わせてユックリと動き出し、空気の膨圧力を機構の原動力となして一日八時間の興行を続ける黄金色のこの人造巨人の評判は、恐多き次第乍ら久邇之宮邦彦王・同妃両殿下におかせられても京都行幸の際、天覧あらせられて感嘆の声をあげられ給う由であったが、この折、同じくこの学天則を見学し、これこそまさに二十世紀の新発明なり、これからの金儲けはこれじゃ〳と深く心に銘記したのがその当時、東京を食い詰めて広島くんだりをフラフラしていた、わが喜多川吹雪先生であった。

 「これじゃ」の後は繰り返しを意味する記号、いわゆる「くの字点」と呼ばれるもの。意図的に古めかしい文体にしようとしているんだろうけど、単純に読みづらい。まあ、人造人間がテーマなあたりは初期の唐沢商会に通じるものがあって(『蒸気王』とかあったね)、唐沢氏、お好きなんだろうな、とは思う。ただ、引用しようとして気づいてしまったんだけど、「天覧」「行幸」は天皇以外の皇族には使わないような…(宮内庁公式サイト)。…憎い。27年前の小説をわざわざ見つけてくるほど粘着的かつ些細な点も見逃せない偏執的な自分が憎い。なお、タイトルの「猫伝」というのは、猫のように柔らかい伝エ門という軽業師のあだ名のこと。山田伝が「ヘソ伝」と呼ばれたようなもの、と言えば、「ああ、あれね!」とみなさんわかっていただけるかと。
 ただし、この小説を書いた「唐澤俊一」氏、同姓同名の別人なのではないか? という疑いを捨てきれない。なにしろ、唐沢氏自身が『猫伝』に言及したことはないはずだし(これ以外にも唐沢氏は過去に何篇か小説を発表しているが、何故かそれらの作品にあまり触れることはない)、『猫伝』が掲載された『SFアドベンチャー』には著者のプロフィールが載っていない。情報があまりに少なすぎて、それで発見が遅れてしまったわけである。
 とはいうものの、自分で疑問を呈しておきながらなんなのだが、この「唐澤俊一」氏はやはり唐沢氏だろう。『SFアドベンチャー』を発行していたのは徳間書店だが、唐沢氏のデビュー作『ようこそ、カラサワ薬局へ』も徳間書店から1990年2月に発行されていて時期的にも近い。そもそも、弟の唐沢なをき氏が連載を持っていた『少年キャプテン』(これも徳間書店発行)の編集部に出入りしていた時に、編集者から「本を書いてみないか?」と勧められて『カラサワ薬局』を書くことになったらしい(過去記事)。ちなみに、唐沢氏の最新の単行本『日中韓お笑い不一致』は徳間書店から出ていて(『カラサワ薬局』以降唐沢氏は徳間から本を出していない)、それに発売当時不吉な予感をおぼえて「いやいやそんな馬鹿な」と思おうとしたものの、この本を2012年12月に出して以降、唐沢氏は本を出していない(さらに厳密に言えば『日中韓お笑い不一致』は石平・呉善花両氏との共著になるので、単著は『トンデモ非常時デマ情報レスキュー』が今のところ最新)。あれから6年って…(絶句)。でも、唐沢さん、またこういう話を書いたらいいと思いますよ、本当に。


渡辺真由子『「創作子どもポルノ」と子どもの人権』勁草書房)で盗用が発覚したにも関わらず、著者の渡辺氏が開き直りと取れる説明(渡辺氏のブログ)をしたことが唐沢俊一みたいだ」と言われたり、百田尚樹『日本国紀』幻冬舎)がウィキペディアからコピペしていたのを批判されて、重版でひそかに訂正していたのもやはり唐沢俊一みたいだ」と言われたり、すっかり盗用の代名詞になった感のある唐沢氏。『新・UFO入門』で被害に遭った「漫棚通信」の管理人氏も反応されていた(Twitter)。訂正するならはっきり言えばいいのにねえ。
 渡辺氏に関しては、「謝ったら死ぬ」もしくは「ミスを認めず堂々としていればなんとかなる」という精神性を持ったよくいる人なんだろう、という感じだが、@niftyニュースを見る限り、百田氏に関しては、そもそも問題を理解していないんじゃないか、という気がしてならない。いや、ごく一部でも「借りる」のはいけないんですよ…。「樽に詰まったワインにスプーンひとさじの汚水を垂らせば、樽に詰まった汚水になる」というのを思い出した。あと、コピペを批判されて、「それでもベストセラーなんですけど」とか「『日本国紀』を読まれると都合の悪いサヨクが騒いでいる」といった擁護の意見が飛び出すあたり、百田氏は小林よしのり氏の正統後継者なのだな、という感がある(もっとも、この論法は売れる本を書ける人だからやれるのであって、そうでなくなったときは大変なことになるというのは小林氏の現状を見れば分かる)。まあ、「小林よしのりネトウヨの生みの親だ」みたいな批判はかえって小林氏を神格化しているようで筋が良くないと思うのだが…(「ネトウヨが増えた一因」ならありなのでは)。話を戻すと、『日本国紀』に関しては、ここに来て安倍首相が購入したTwitter)という最強(見方によっては「最凶」)のカードが加わってしまった。この写真、クソコラの素材になりそうなのが若干気がかりだが、それはそれとして、この件に関しては怒りよりも呆れの方が強い、というのが正直な感想。「日本通史の決定版」を謳っておいてその脇の甘さはなんなの、というか。
 ただ、百田氏に関しては、先の沖縄県知事選の結果を受けて「沖縄、終わったかもしれん…」と呟いた方が個人的には問題だと思っている(当該ツイート)。「はいはい。もう終わりましたから、沖縄について二度と何も言わないでくださいね」という思いしかない。そんなことを言っておいてローラを批判する資格ないだろう、と。ウフフ。そういえば、唐沢なをき氏が辺野古の埋め立て中止の署名をした、というので驚いたけど、ロボット刑事』の沖縄ロケの画像を一緒に貼っているあたりはさすが(ツイート)。いろんな意味でお兄さんとは違う。
 なお、沖縄関係のネタは新ブログの方でやるつもりでいる。いくらか政治色のある話題になりそうなので炎上しなければいいけど、と弱気になる心をおさえて、「荒れるぜ〜、止めてみな!」とあえて強気を装うことにする(リュウソウジャーは意図的にキョウリュウジャーにかぶせているのだろうか? と思いながら)。

最後から二番目の真実 (創元SF文庫)

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完全保存版 火浦功伝説

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リベンジポルノ―性を拡散される若者たち

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日本国紀

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HONEY Beauty(ハニービューティ) (NEKO MOOK)

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ロボット刑事 VOL.1 [DVD]

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黄昏の呟き。

はてなダイアリーの更新が来年1月28日で停止するそうなので、当ブログも年明けに最後の更新をして、新ブログへの移行のご案内をする予定です。「唐沢俊一ドキドキ情報局」も捨てがたかったのですが、新ブログは別の方向性でやることにしました。どんな方向でやるのかは、新ブログ最初の更新を見ていただければわかるかと思います(こっちは早ければ年内にスタート予定)。



唐沢俊一氏は来年早々に上演される舞台『KARASAWA幕末劇 うそつきお扇』の脚本を担当されるとのこと。「KARASAWA幕末劇」って『NINAGAWA・マクベス』みたいですごいな。一応書いておくと、前回取り上げた『週刊新潮』の「私の週間食卓日記」によると、「KARASAWA幕末劇」というのは劇団の方で名づけたそうで、唐沢氏も最初は驚かれたらしい。この舞台には、極楽とんぼ山本圭壱も出演するそうで、記者会見の模様はスポーツ新聞でも取り上げられていた(「劇魂」の14分30秒くらいから記者会見での唐沢氏のコメント)。まあ、「うそつきお扇」もいいけど、個人的には「うそつきくん」の舞台化を希望したい。「原作/唐沢なをき 主演・脚本・演出/唐沢俊一の夢のコラボ。



「劇魂」の1回目にも唐沢氏は登場しているが、その中で若き日の自分と演劇のかかわりを話すうちに(3:05くらいから)「お笑いサタン」なる存在に言及している。「80年代にそんな悪魔的な存在が演劇界にいたなんて知らなかった…」と驚いていると、その後で続けて「イッセー尾形も“お笑いサタン”で知られるようになった」と言ったので、
「それは“お笑いスタ誕”、“お笑いスター誕生”のことじゃないか!」
とPCの前で盛大にひっくり返った後で大笑いしてしまった。いや、だって、この番組、「お笑いサタン」「イッセー尾形さんもお笑いサタンで知られるようになった」ってわざわざご丁寧にテロップまで出すんだもの。笑い死ぬかと思った。ものすごい殺人トラップだよ。
まあ、番組スタッフが誰も『お笑いスター誕生』を知らなかったのも問題だけど、一番の問題は唐沢氏の滑舌なのだろう。確かに「お笑いサタン」って聞こえるもの(気をつけて聞けば「お笑いスタ誕」だと一応わかる)。そもそも略して言うな、という話でもある。にしても、インターネットとはいえ、テレビ番組でこんなミラクルを起こすとは、唐沢さん、やっぱり持ってるなー。イッセー尾形の話が出たなら「前説事件」の話もすればよかったのに(過去記事)。


・唐沢氏はTwitterでもたびたびひっかかることをつぶやいているのだが、それに関してはなるべく取り上げないようにしている。「小さな演劇ユニットを一生懸命主宰している人にあれこれツッコミを入れても…」とむなしくなるからだ。もっとも、このユニットを主宰している人は公演中に鬱になってたりするのでその辺は謎(そのツイート。唐沢氏のユニットは10月30日から11月4日まで公演をしていた)。アドレナリンは出ないのだろうか。
 とはいえ、バズったものは取り上げた方がいいだろう。先月26日のツイートがこちら。

安田純平氏が危険をおかして持ち帰った情報より、現地の人々がTwitterSNSで発信した情報を分析した方がずっと正確でリアルタイム性も高い、という“事実”は、そのまま旧ジャーナリズムの在り方の終焉を意味し、これを認めることは自己否定につながる。新聞やテレビが彼をもてはやす所以。

 KAZUYA氏など保守系(あるいはマスコミに批判的な)アカウントに取り上げられたせいで注目されたのだろうが、自分としてはただ一言、
「いやいや、当の唐沢さんが“TwitterSNSで発信した情報を分析”できてなかったから、検証されまくったんじゃないですか」
 とだけ言っておしまい、という気分である。「何を言ったか」も大事だけど「誰が言ったか」も大事だと思うよ。あと、付け加えるなら、山本美香さんへの批判を見る限り、唐沢氏には戦場を取材するジャーナリストに対して何かしらの思いがあるようにも感じられる(その1その2)。


11月13日のツイートを見て少し驚いた。

検索で@cxp02120+「訃報」「死去」で、ずっと書き続けている著名人訃報記事が読める。20年前から続けているもので、これまで数社から出版の話がもちかけられたが、あまりに大部になるためみんな途中挫折。せめて平成分だけでもまとめたい。クラウドファウンディング募集しようかしらん。

あれ? それは五月書房で出すんじゃなかったの?(前回の記事を参照)


・唐沢氏はTwitterでしきりに「朝鬱」なる症状を訴えているが、これに関しては医療機関まで早急に赴いてしかるべき処置をすべき」としか言いようがない。唐沢問題に関わっていると「この人は医療でしかどうにかならないんだろーなー」というケースに遭遇するのは珍しくはないので(かく言う自分が心身ともに健康なのが不思議なくらい)、普段はスルーすることにしている。それに自分が心配したところでどうしようもない。
 ただ。11月26日のツイートだけはどうしてもスルーできなかった。既に削除されているけど、たまたま自分のスマホではまだ見れたからスクリーンショットで残してしまった。



 …何も言うことはない。ただ、はてダがサービス終了するからこのブログを閉じるのではなく(はてブにこのまま移行して継続しようと思えばできそうだし)、自分の意志で「もう終わりにしよう」と決めたのは確かだ。たとえ冗談であったとしても(そうであってほしいけど)こういうものを見てしまってはね…。本当にもう終わりにしよう。

黄昏の囁き (講談社文庫)

黄昏の囁き (講談社文庫)

Kの食卓。

はてなダイアリーのサービス終了に伴い、「唐沢俊一検証blog」の更新は来春で終了いたします。皆様の長らくのご愛顧に心から感謝申し上げます。


 …といっても、当ブログの検証対象者である唐沢俊一氏が何やら出版の企画が進行中であるのをほのめかしている以上、それが実現した暁には触れなければならないという使命感とぜひ取り上げてみたいという欲望がありはするので、その日が来ることを夢見てはてなブログの方で後継サイトを一応作っておくことにします。唐沢俊一ドキドキ情報局」とかそんな名前にして、今度こそ純粋なファンサイトとしてやっていきたい所存。唐沢さんが演劇一本に絞ってくれるならこっちも喜んで幕を下ろすところなのですけどね。以前書いた通り、このブログは初心者にきわめて厳しい仕様なので、これを機に見やすく整理してみようかとも思っています。あと、まだやれてないネタがあるので、なるべく来年の春までに全部消化しておこうと思います。できなかった場合でも「唐沢俊一ドキドキ情報局」でなんとかします。

北条裕子『美しい顔』は盗用の事案としては久々に大きな話題だった。疑惑のかかった作品が芥川賞の候補になったのだから注目されて当然のことではある。自分で調べたわけではないが、ネット上でなされたいくつかの検証を見た限りでは、個人的にはこれはアウトだと判断せざるを得なかった。酷似した箇所が多いというのもさることながら、単なる事実の描写だけではなく比喩的な表現まで借りてきてしまっているのは明らかにまずい(HUFFPOSTを参照)。『新・UFO入門』事件の時に唐沢氏が「漫棚通信」氏のツッコミまでコピペしてしまったのを、唐沢検証をやっていた者としては思いだしてしまう。
 この件で自分が一番気になったのは、疑惑が発覚した後の講談社逆ギレに近い強気な態度で、あれだけの証拠を突きつけられてよくもまあ、と驚かされた。いいように捉えるなら、講談社は盗用の疑いをかけられた人間も見捨てることなくしっかりガードしてくれる義に厚い出版社、となるので、ならば唐沢氏も講談社に企画を持ち込んだらいいのでは、と思ったり思わなかったり。ただ、唐沢氏も『新・UFO入門』事件が発覚してからもライターとしての活動にさほど影響があったようには見えなかったので、出版業界自体が盗用に対して実は甘いのではないか、という思いは以前からあって、今回の講談社の対応も『美しい顔』を擁護する評論家が結構いたこともそれほど意外ではない。『フィギュア王』の連載コラムでコピペがあった時に自分が指摘のメールを送っても特に反応はなかったのに、その後原稿の使い回しで連載が打ち切られたのも妙な話だ、と思っていたけれど(もちろん、使い回しの時は『フィギュア王』元編集長の額田久徳氏が直接編集部に報告したのが大きかったわけだが)、あの件は案外出版業界の価値観を反映していたような気もしている。盗用よりも原稿の使い回しの方が重罪、という。
 それと、東日本大震災を題材にしたノンフィクションからの盗用、というのも話題性が高い、というかタチの悪いポイントだ。盗用された金菱清教授が「被災者の言葉を奪った」とまで言うのもわかるし(HUFFPOSTを参照)、そもそも北条氏が被災地に行かずに震災をテーマにした小説を書いていたのも凄いと思う(それで盗用せずに傑作を書けていたらよかった)。この事件、まだ決着がついたわけではないが、いずれ北条氏が被災地まで実際に足を運んで「贖罪」の旅でもするオチでもつくのではないか、という気がしている。
 盗用の話のついでに、当ブログの検証対象者の6月1日のtweetを紹介しておこう。

これいまだにリツイートする人がいるので言っておくが完全なデマ。私は何度も相手に対し面会を申し入れている。相手がかたくなに会おうとしなかっただけ。だいたい、私は町山氏のブログを読んでないから、忠告されたかどうかなど知らんわな。

 唐沢氏、話を微妙にずらしてますね…。町山智浩氏が「被害者に謝罪しろ」と言っているのに対し「向こうが会ってくれない」と返しているのだが、別に会わなくても謝罪は可能だろう。Twitterでもフェイスブックでも謝る気があるのなら今からでも謝れる。何故相手が悪いことになっているのかわからない。それどころか、このケンカでは「被害者が唐沢氏の悪評を広めようとしている」とか書いているから唖然とするばかりだ(過去記事)。この唐沢俊一vs町山智浩、「唐沢氏の勝ち」とする人が多いようなのだけど、そんな人でも過去の盗用について擁護してくれているわけではないのがまことに悲しいところ。考えてみれば、誰も得してないんだな、あのケンカ。俺もあれがなければブログをなし崩しで自然消滅させて、今頃は「けいおん! Shuffle』の清水楓ちゃんがかわいい」などと、お気楽に過ごせていただろうに…。なお、唐沢vs町山に関しては後日何かしら書くことにします。

週刊新潮は今でも唐沢氏をしばしばコメントで起用しているが、2016年5月19日号ではLGBTについて唐沢氏にコメントを求めている(過去記事)。それを覚えていたので、新潮45が例の騒動で休刊したときに「唐沢さんもあの特集に参加していたかもなあ」と思ったものだった。『新潮45』では「繊細チンピラ」の件も書いていたので有り得ない話ではない(過去記事)。
 それはさておき本題。週刊新潮』7月26日号P.58〜59に掲載されている「私の週間食卓日記」第1031回に唐沢俊一氏が登場していた。著名人の一週間の食事を日記の形式で公開し、それを管理栄養士が採点するという同誌の名物企画である。この企画に関しては唐沢氏もだいぶやる気があったようだ(Tweet)。

某誌よりコラム依頼、前から書いてみたかったものなので嬉しい。不思議なもので、今年に入って4月5月6月前半と運気絶不調、はっきり言っていいことがひとつもなかったのだが、6月後半になってから、仕事運生活運、急速に回復傾向。「運気」なんてトンデモの類だろうが、気は心。馬力かけて行こう。

 早速、唐沢氏の一週間の食事を見てみよう。


7月1日(日)朝:フィンランドライ麦パン/スモークベーコン/チーズ一片
      夜:(鳥料理屋で)鳥炙り刺し/冷やしトマト/親子丼(ごはん少なめ)/日本酒3合
7月2日(月)朝:(病院の売店で購入)エッグマフィン
      夜:崎陽軒の「横濱チャーハン弁当」/缶ビール(本数不明)
7月3日(火)朝:たらこパスタ/サクランボ/ヨーグルト/マサラティー
      夜:(新橋の「天下一」で)ギョウザ/塩そば/ホッピー(量は不明)
7月4日(水)朝:クリームチーズと香菜を乗せたフィンランドのパン/マサラティー/ヨーグルト/桃
      夜:(新宿の「上海小吃」で)火鍋/紹興酒ボトル2本(同伴者1人あり)
7月5日(木)朝:桃/ヨーグルト
      夜:(幡ヶ谷の「青空」で)チャンスンマハ(茹で羊)/パオズ(小さな肉まんのようなもの)/串焼/モンゴルサワー数杯
7月6日(金)朝:(「青空」のおみやげ)羊肉餅(ピン)
      夜:猫丼(カツブシ、塩昆布、海苔、漬物をご飯に乗せたもの)
7月7日(土)朝:香菜を挟んだバゲッドサンド/コーヒー
      夜:(蕎麦屋で)天ぷら/冷酒(量は不明)






 …と、一応書き出してはみたものの、これが健康的なのか自分にはわからない。できるものなら「カラシュンの食卓」さんを召喚したいところだが…。


※ ポケタ・ポケタさんのご指摘があったので訂正しました。ありがとうございます。


 ただ、見てわかるように唐沢氏はここ4、5年「一日2食」の習慣とのことで、暴飲暴食をしているわけではなさそうだし、日記の中では定期健診の結果について

数値が(血糖値がやや高めの他は)正常

と書いてあるので、喜ばしいことにわりと健康なようだ。以前の日記の記述から糖尿病なんじゃないか? と心配していたので一安心。なお、倉田英之『倉本50』(KADOKAWA)を読むと、糖尿病がいかに怖いかよくわかる(手術の描写が結構エグいのであまりおすすめできない)。
それに、「私の週間食卓日記」のアドバイザーである管理栄養士の荒牧麻子氏も唐沢氏の食生活に「77点」をつけているので、プロから見てもそんなに悪くはないのだろう。以下は余談だが、亀和田武坪内祐三『倶楽部亀坪』(扶桑社)P.133より。

坪 『週刊新潮』に「私の週間食卓日記」ってあるじゃない。
亀 ああ、管理栄養士の荒牧麻子さんが採点するやつね。
坪 あれだと福田さん(引用者註 和也)の食生活は、マイナス百点とかつけられそう(笑)。でも、このところのあの点の低さは、異様じゃないですか。ヘルシーな感じでも六十二点とかさ。
亀 六十でも六十五でもなく、なんで六十二点なのかという基準がわからないしね。アドバイスも書かれてるんだけど、フィギュアスケートの採点よりあてにならない気がするなぁ。有名人にも甘いし。
坪 老人にも甘い。吉行あぐりとか、別に大した感じでもなかったのに、百点。満点は二人か三人目からしいですけど。あの人の一週間の食生活を、亀和田さんやぼくとかで、採点させてほしい。と言いつつ、あの欄には出てみたいですけどね。(後略)

 そう言われてみると「77点」というのも微妙な点数に思えてくるし、荒牧さんの採点基準も知りたくなってくる。「私の週間食卓日記」で話題を膨らませられる亀和田・坪内コンビ凄いな、とも思うけど。『週刊文春』の「淑女の雑誌から」でもできるんだろうな(2人とも『文春』で連載を持ってるし)。いや、やらなくていいです。

 唐沢氏の食生活に関して自分は特に意見はなくて、「2日前のつくねバーガーを食べなければ別にいい」くらいにしか思わないのだが、「私の週間食卓日記」の日記の部分に関しては結構気になる記述があるのでいくつか取り上げてみたい。まずはプロフィールから。『週刊新潮』P.58より。

1958年生まれ。学生時代から伯父のやっていた芸能事務所で働き、後に代表を務める。その後文筆家となり、『トリビアの泉』原案や、「トンデモ本」批評の“と学会”を創設。

 「『トリビアの泉』原案」。こういう表現は初めて見る。『トリビアの泉』で取り上げられた唐沢氏の著書にあるネタが結構少なかったりしたことを考えると妥当ではあるのだけど。「スーパーバイザー」だと番組全般に関わっているんじゃないか? と思っちゃうから。なお、と学会の創設に関してはこのような証言もある(togetter)。
 それにしても、山本弘氏は大変なことになってしまった…(カクヨム)。「山本弘の闘病日記」というタイトルだけでもうつらい。

 サブカルチャー畑でずっとやってきたが、学生時代ハマった演劇に10年ほど前、再度足を突っ込み、公演ごとに役者を集める自分のユニットを作って7年目。役者たちと夜を徹して飲んで、演劇論を語り明かすこともしばしば。

 唐沢氏が中の人だと推測されていた「東京情報」をチェックするために『週刊新潮』はずっと読んでいたのだが、同誌でコラムを連載している坂上忍「ひとつ言っておきますけど、売れない役者の飲みの席での演劇論なんて糞にも劣りますから」(2017年11月17日号掲載分より)と一刀両断しているのを読んで腹を抱えて笑ったのを思い出した。ヤン・デンマンさん、これを読んでどう思ったんだろ。そんな坂上さんにも唐沢俊一ユニットの公演を観てほしい! 今度恵比寿のバーでやるらしいですよ。加えて「学生時代ハマった演劇」というのも実はよくわからない(過去記事を参照)。アニドウに参加したり芸能事務所で働いたり演劇にハマったり古本を買いに行ったり、いつ勉強してたんだろ? と思うくらい多忙な学生時代を送っていたんですね(唐沢氏の学生時代については過去記事を参照)。そういえば、紹介しそびれてたけど、去年3月に「FMさがみの番組にゲスト出演した唐沢氏が「飲むと説教する先輩が多いのでいちど演劇の世界から離れた」って言ってたけど、今の唐沢氏は「飲むと説教する先輩」になってはいないだろうか? …検証のためとはいえ、相模原市の地域FMまでチェックしている自分もどうかと思いはするものの。♪さがーみはーら!




 『週刊新潮』P.58より。

(前略)午後、新橋G社。ドクターには若いと言われても、やはり60歳は60歳。文章の分野での仕事の総まとめ、ライフワーク的な企画を、人生の残り時間かけて仕上げたい。そう考えていたらG社が場を与えてくれた。企画室を設け、8月からそこの責任者となる。(後略)

 P.59より。

(前略)来年春から立ち上げる演劇の新ユニットの企画書き。『オトナの小劇場』と称し、かつて演劇少年だった40代以上向けに、洒落た一幕ものの芝居を提供するユニットにしたい。文筆ではG社。演劇ではこちらがライフワーク。どなたか興味を持って、資金面など協力してくださる方はいらっしゃらないだろうか。(後略)

 この「G社」というのは五月書房のこと。 この唐沢氏のツイートと五月書房のサイトのアクセスを比べれば分かる(唐沢氏もネタにしているようにGoogle mapの表記が変だけど)。

某社にて某企画が動き出しそうな感じ。この企画、これまで2度ほど、それぞれ別の出版社から話がきて、内容は問題なしだったんだけど、ちょっと大部なものになりすぎるということで中途でザセツしている。今度が3度目の正直。担当の人は「大部上等!」らしいがさて、どうなるか。

 このツイートを見る限り、「ライフワーク」というのはおそらく追悼本でしょうね。実現すればいいなあ。
 ただ、ひとつ気がかりなこともあって、五月書房の編集委員会のメンバーはだいぶリベラル寄りなので、保守を自称する唐沢氏と合うかどうか。特に金子勝教授は何度も批判してるし(一例としてその1その2)。

植松容疑者もきちがいだが金子勝も充分にきちがいだと私には思える。

公の場での個人攻撃というのは社会的モラルに反する部分があるので、それを敢えてするという行為には大変な興奮がつきまとい、脳内麻薬が分泌される。なのでこれを繰り返すと罵倒ハイになってきて、周囲から異様と見える状態になっても止まらなくなる。山口二郎とか金子勝とか香山リカとか、その典型。

 あ、山口二郎教授も編集委員会のメンバーだ。委員会のメンバーを見る限り、五月書房は朝日新聞と関係の深い会社みたいなので、かつて朝日で書評委員をしていた唐沢氏を企画室員に起用したということだろうか。ともあれ、新たな活動の場を得た唐沢氏のさらなる飛躍を期待したい。
 


 出だしでも書いた通り、このブログは来年春で終了するので、それまでに溜まっているネタを出来る限り処理していくことにします。この期に及んで新ネタを見つけてしまう業の深さに愕然としながらも(調べが甘いともいう)ナルハヤで次回も更新するつもり。

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