夕焼け雲

だいだい色に染まった大小の雲たち、夕焼けの空に、沈みゆく夕陽に、みんなひきつけられ固まっています。まるで遠近画法の風景画みたいにね。そんな作り出された風景は、先に進むほど尖って、夕陽に向かってまっすぐ隊列を整えているようです。

えーと還暦を過ぎたジジイの文章ですが、なにか!

まぁ、とにかくなんだかずいぶんと感傷的な文章ですし、んー自分で言うのもなんですが、ロマンチック過ぎるし、文章も幼稚だから、だから少年少女のそれではないかと・・・

あのここだけの話ですが、自分でもそう思いますよ。でもね、年寄りでもそんな感じかたができるということをわかってもらいたいな。なにせすなおな感情を、思いのまま見たままの表現ですから。

「母親を大事にしない男など最低」 Twitterのタイムライン、そんな文章が目に入りました。両親親子関係のもろもろは、どんなものでも、その文章に、ぼくはけっこうな打撃を受けます。池袋のデパートで置きざれにされようが、よそに預けられようが、どんなに邪魔にされようが、親は親ですからね。

さて突然ですが我が家の愛犬「ケンタクン」は老犬です。すっかり足が弱ってきています。毎日の散歩は大喜びですが、でも時々コケます。コケてもコケても、彼はなんでコケるのか不思議らしく、妙な顔をしてぼくを見上げます。ぼくはすこしうろたえ。そして悲しい顔を見せないように、知らん顔を決めこみます。

かれは自分が年老いていることに気が付きません。人一倍別れが苦手なぼくは、16年間毎日ぼくの散歩に付き合ってくれている彼との別れを、そろそろ覚悟し始めています。

ずいぶんと昔です、台風の被害による雑木林の倒木がまだ若々しく、横たえたそのからだのあちこちからまだ新芽が出ていた頃、彼ケンタクンは我が屋の一員になるべくやって来ました。埼玉の植木業者さんからいただいた。かわいい秋田犬の子供でしたよ。

もっとも秋田犬といっても母親だけで、父親の方はさだかではありません。近所の野良だそうです。その雑木林の倒れたばかりで青々としていた倒木も、いまは朽ちて土に変わりつつあります。16年経ったのですからとうぜんですよね。

倒木を飛び越えていた若犬が、今はちょうどよい高さとなって朽ちているそれを、「よいこらしょ」とばかり歩いて乗り越えます。過ぎゆく時、年月は彼の味方ですね。

Twitterのタイムラインの件、「ぼくは最低なのだろうか」と、口先だけでつぶやいてみました。であるのでタイムラインには流れません。でも本当はつぶやきたいのです。ぼくが優しいあなたの笑顔をどんなに望んだかをね。そんな気持ちをあなたはご存じでしたか。連絡を取ることをやめたぼくにお怒りですか・・・

だいだい色が大好きです。そしてそんな夕焼け空が大好きです。雲だけでなく、その色と空と空気が僕をうんと惹きつけるんです。見とれているうちに、景色はとんがって、先っぽに行くほど小さくなって、そして消えていきます。

つぶやく環境はあるのだけれど、テキスト以外では許されません。それでもぼくは夕日に向かって問いかけます。ぼくは最低なのかとね。どうか、どうかお願いです、忘れないで下さい、そんな最低な息子がいたことを。

ころもがえ

                      
                       



 「君に一番にあう季節は秋だね」と、ぼくは傍らによりそうケンタクンに話しかけます。


 「なんで秋なの・・・」彼はそう言いたげな目をぼくに向け、そして目をパチパチと。ぼくはあまり根拠なく、ただ感じるままにかけた言葉に反省。それこそ人間の子どもが向けるかのような彼の目に、少しばかり動揺です。


ケンタクンはもう老犬の部類に入ります。もう15才だからね。でもって彼は、いつも全身でぼくを理解しようとしてくれます。ぼくだけをね。つまりそういう意味で、彼はいわゆる世間が理解している犬ではなく、僕の娘たちとおなじ家族なのです。


 雑木林は冬支度が間に合わず、木々は急な冷え込みに、ただ、どうしてよいのかわからずうろたえています。古い服を脱ぎ捨て、身軽になり、かたくなな肌をむき出しにして、なんとも挑戦的に冬を迎える。そんな準備がきゅうにはできないようです。


そこいらの木がなんで支度なんかできるんだ。どうウロタエテいるんだ。どこがいったいカタクナなんだ。キチンと説明しろ。ナメンナヨ。町内会の政治倫理審査会で、いやいや同じく町内会の証人喚問の場でキチンと説明しろ・・・な―んて言われるとやはり困るな。


あのね、僕の感覚では、生きとし生けるものすべて、一定の安定のもと、それぞれを社会に・・・ちょっと話が複雑かな、つまり世間におのれを晒すことが、定期的にその精神を脱ぎ捨てそしてあらためることが、ただしい季節の迎え方なんだろう。なんて、少々持って回った言い方だけど感じています。


うーむ、ここいらの議論は枝葉が多すぎるな。いくら比喩をまじえて話しても・・・やはり意図を、僕のいまの能力ではキチンと伝えられそうもありません。自身の専門分野なのにだらしないね。でもしょうがない。


とにかくいそぎ足で逃げ出そうとする秋はいやです。秋は、やはりじっくりと一定期間、その秋でいてほしい。そう、少なくても2ヶ月ぐらいはね。いきなりの冬は寂しすぎますから。繰り返すけど、季節へ旅立つ準備にはそれなりの期間が必用です。いちどキレイに衣を脱ぎ捨てる期間がね。


還暦をむかえ、ここのところ何度かお伝えしていますが、すこしばかり、ほんとに少しずつだけど過去を振り返り始めました。キチンとね。そこで気がつき始めました。ぼくは、まったくあてのない旅を、えんえんと走り続けてきたことを。


でね、だらしないけど、だいぶ薄情者のように思われるだろうけど、ぼくは過去を振り返りながら、両親に文句を言い続けているのです。もちろん届かないけどね。


笑っちゃうのは、その両親をよく知らないことです。あげくにしばらくのあいだ無国籍でした。府中の米軍基地のそばに預けられていたのです。ぼくを産んでくれた母親、その意味だけの母親はいまでも健在です。ちょっと前までは、それでもすこしばかり行き来がありましたよ。けどこの4・5年は音信不通です。


縁が薄いということは、いかように努力をしても、疎まれることはあっても、幼子のようなむき出しの情感は拒否されます。許されないようです。とても残念です。もっとも幼子のような情感なんて、まったくもっていい歳をした60男が可笑しいよね。


いまでも、精神の大人への衣替えが必要なのに、僕はあいかわらずの着たきりスズメ。なにせ脱ぎ捨てる服が見当たらないのです。裸で放り出されたのか、あるいは自ら過ぎ捨てたのか・・・文句はいつまでも続きます。


雑木林、秋より冬が大好きなケンタクンは、幼子のようにぼくの足元に絡みつきます。ぼくは彼の気持ちに精一杯答えたくて、背中を、顔を、身体中をさすってあげる。そんなぼくの手を、彼はじっと受け止めます。うれしそうに首を上げてね。


たぶん、もうそれほど長い期間ではないだろう彼との日々を、ぼくはもっと、うんと大事に過ごしたいと、心底思います。だからね、もし万が一、ぼくが明日壊れたとしても・・・あたたかく見守ってほしい。キミ以外その役割を果たせそうにないから。


真っ青な空を見ることができる季節。凛とした空気が感じられる季節。それらは僕のあやふやな精神を整えます。社会という季節で生きるための手助けをしてくれます。冬はいつでもそうなのです。ふやけた精神を、疑いなくただしてくれます。

時刻表

                        
                  
                                 
                 



 東京都下、国立の駅前です。駅舎から続く広い車道、きれいに植樹された歩道並木、それらはぼくをなんとも不思議な世界に誘います・・・

「いきなり何のことだ・・・?」ですよね。


 あの、すこしの自慢にもなりませんが、ぼくにはすこしばかり妄想癖があります。でね、そのぼくの妄想なんだけど、これがまるでとつぜん、なんの前触れもなく始まる(あたりまえかな)のです。でもって気がつくと、なにやら不思議な、怪しい、妄想世界にどっぷり浸かっている自分がいます。


 その日は、ちょっとした用事で国立の近くまで足をはこびました。駅の北側からガードを南側に抜け、すこしばかりエキゾチックな駅舎を右手に見ながら車を南に。広い車道の両側も国立の駅前はやはり広い歩道です。植裁に見え隠れする洒落た店は、無遠慮だけど人と風景を飾ってくれています。


 なにやらぼくの精神が怪しい雰囲気になりはじめました。最近はね、歳を重ねたせいか、以前であれば妄想と現実がゴチャマゼになって、そのまま一日が過ぎていくなんていう、危ない日がけっこう多かったのですが、それでもそうした前兆に気がつくことが多かったのです。でもね、最近はいつまでも気がつかないことが多く危険です。ぼくは大事をとり少し先のファミリーレストランに車を。妄想はおさまりました。


 ぼくが妹の存在を知ったのは、中学生のときです。いえもっと正確に言うと、それは小学生の頃と言えるかもしれません。驚愕とかそういうたぐいものは一切有りませんでしたね。ぼくはすでに、家族とか親とか、そういう方向での驚きを一切持たなくなっていましたから。


 誤解があるといけないので付け加えると、それは期待を持つことへの恐れからです。だから、いまぼくが拠り所にしている家族への安堵感が、不自然に恐れへと継ながる可能性を拒否します・・・少し難しいな。


 突然だけど一人旅は心を開放します。たとえ妄想でもね。ただし開放が過ぎると悩みます。そしてすれ違いや行き違い、そして過ちの心違いが、たとえそれが誤解だとしても心を傷つけます・・・やはり妹の話はやめましょう。悲しすぎるからね。


 秋の雨が、無遠慮に、つめたく、ぼくとケンタクンを濡らします。もちろん無遠慮はぼくの責任で、ただ傘をさしての散歩が嫌いだから、だから濡れながら、すれ違う人に奇妙に思われながら歩きます。でも風景は他の人を拒否し気にする余裕をぼくに与えません。それがぼくの人生だから。


 ケンタクンは飼い犬です。彼は来年で15才になります。1年365日ぼくは彼と毎日散歩をします。日課です。いまは家族以上にぼくと同じ時間を共有しています。15才の彼は、すこし老いが目立ち始めました。悲しいけどやはり、やっぱり秋がやって来ましたよ。そして準備をする暇もなく冬がやって来るのでしょう。残念。


 ぼくの妄想は楽しいものばかり、愉快なことばかり。それだけに秋はつめたく、現実は悲しい。


 いま一人旅のための時刻表を、また性懲りもなく探しています。路線図には赤線を引くつもりです。どのような経路を選ぶかはぼくが決めます。絶対にね。決して他人の思うままに人生を送りたくないから。

和光前

                            

  

和光前

 窓をあけると一面の曇り空、ぼくはほっとしてため息などをつきます。攻撃的な青空は、ただ季節の役割を果たしているだけなのに嫌われる。そんなふうに思うのはぼくだけかな・・・


久しぶりに出かけた銀座で、和光前で、なんとなく視線を感じました。眼を向けると、ぼくをじっと見ている初老の女性がいます。ぼくは年甲斐もなく戸惑い、そして目をそらしましたよ。よくあるのです。まぁ、でも、ほとんどがぼくの勘違いなんですがね。


勇気を出し、目を上げ、女性を探しました。人の波・喧騒・時間のながれは女性を遠ざけ、いつもどおりぼくの後悔を残すだけ。


 すこしばかり大人になることを戸惑っていた時代があります。うんと小さい頃にね。それは早熟だったということとは違い、多少その言葉を使うのに、それこそ戸惑いがあるのだけど、でも、やはり、ぼくには恐れがあったんだと、いまでも思っている。大人になることにね。


何に対する恐れかも、そう漠然としてわからないのです。けど、だけれど、いま思うとたしかにぼくは何かに恐れをもっていたようです。だからぼくは、無理やり時計の針を逆廻しにし、時の流れに身を任せることを、ひたすら拒み続けました。


壊れかけた時計は修復されずいまでも壊れたまま。見覚えのある風景はただ繰り返される。それでもぼくは、ただひたすら欲望に身を任せ、そう時計を逆回しにし続けます。時の流れが記憶の風景をすり減らすことが怖くてね。


多感な時代に時間を逆回しにしたツケは、いまのぼくにのしかかり、還暦を過ぎた年寄りには重さがだいぶこたえます。少しずつ減りはしているのだけど、溜め込んだ風景はますます重くなります。


思い出した風景は、悲しい顔をした女の子です。ぼくより先に施設を出てったその子は、その日異人さんに連れられて行きました。赤い靴を履いてね。なんどもなんども振り返りながら引かれていく女の子に、ぼくは、ただ小さく手を振りました。ぼくができることはそれだけ・・・


いまでもひどく胸が痛みます。重すぎるのです。今日もなかなか眠れないな。たいていこういう日はそうなのです。いろいろなことを考え、いろんなことを思い、長い夜明けにため息をつき少しまどろむ。なんどそんな風景が何度行き過ぎたか。


技術革新が進むいま、悲しさを圧縮する技術を完成させたくて、ぼくは努力を続けています。何年もね。でも積み重なったファイルはただフォルダを増やすだけ。蓄積されたDドライブを封印しても、意識の外でしらずしらずにファイルは引き出される。


和光前の女性が、彼女であることを心底願っています。生きて普通に暮らしていることを心底願っています。結婚をして子供を持って孫がいっぱいいて、でもって幸せでイッパイであることを願っています。絶対そうであることに決めました。でなければぼくは眠れません。


ぼくはいま、見覚えのある風景を、少しずつなくしていることに気がついています。大事な、ほんとうに大事なものまでもね。少ししたらまた和光へ行こうと決心しました。少し恥ずかしいけど銀座4丁目の角に立ちます。君の視線を感じにね。すこしばかり勇気を出して。

夏 窓の外へ

                                    


夏 家族の絆

 そんなに簡単じゃあないと思う。正直な感想としてね。 ん? 何? ・・・ 


 ははは、夏のことです。とつぜん何を言い出すかと、そう思われたでしょうね。そう、じつは、ちょいとばかし夏について思いをよせていたのです。でもってその延長で、絆(きずな)ってヤツにも思いを寄せることになりました。


えっ、夏から絆(きずな)へのつながりがぜんぜん理解できないって。あぁたねぇ、ぼくの文章をですよ、理解なんかしようとしたらダメです。胸の奥の方・・・ずーっと奥のほうでただ感じて下さい(笑)。


ぼくの文章はまとまりなんてありません。文章だけではありませんよ、ぼくの存在そのものがあやふやなんです。だから無理。まあそれでもね、なんとも不思議だけど、最後まで読んで、でもって一緒に載せている(一部メディア)動画のメロディなんかを聞いてると、なんだか納得しちゃう。そんなお便りをいただくことがあります・・・


自慢かな。まぁいいや。


さてと、もうすぐ暦じゃ秋です。だからほんものもすぐやってきます。感じではすぐ近所に控えているようです。その出動をね。横丁の、たとえば高木さん家の角で調整中です。きっとそうです。


もっとも昨日あたりは、もうすぐお盆だっていうのに、冷え冷え空気が感じられました。ぼくだけかな。散歩の途中、木漏れ日の雑木林で、秋の気配を感じました。カミさんに言わせるとそれは悪霊の冷気だそうです。なんだかな・・・ですね。


まぁ、でも、なんだかんだ言っても世間はもう少しで夏を卒業です。ちょいと早過ぎる気もするけど・・・でもそうなんです。


えーと突然ですが、皆さんはどのような家族構成をお持ちでしょう。ぼくには娘が二人います(犬も一匹)。下の娘はずいぶんと前に嫁ぎました。でもってこの間まで共に生活をしていた長女も・・・嫁いでしまいました。だから我が家はカミさんと二人です。とってもとっても思いやりのある娘達は、それぞれの部屋を片付けず、そのままにして嫁ぎました。ハハハハハハ・・・


ぼくはね、ともかく恥ずかしいので、みっともないので、だからけっしてカミさんには言わないのだけど、毎朝必ず彼女達の部屋を開け中に入ります。日課なのです。なんとなく感じる娘たちに・・・会いに行くのです。そんなまったくどうしようもないことを、日課にしています。


ぼくにしては、いえぼくだからこそでしょうね。この数カ月、精神の調整に手間取りました。想像以上に手間取りましたよ。


別れなんて日常茶飯事で、そんなもんはどうってことないなんて、せいいっぱいクールにツッパって生きてきたぼくですが手間取りました。きっと、だから、それはだいぶん想像以上だったのでしょう。


ぼく自身ときどき、「冬はなんとも寂しく、そしてなんとも切ない」などと、あまりふかく考えないで表現します。少しばかり反省です。たしかに冬は、秋は、いえ冬に向かう季節には寂しさのもとがいっぱいつまっています。そこいらは事実でしょう。


でも季節は廻ります。だからたとえ独りよがりの季節感を、勝手気まま、おもうままに自分のなかに作ったとしても、それは許される。そうも思います。廻る季節は寛容なのですからね。

 
娘たちの置き土産は、残念なことに、毎朝無遠慮にカミさんが開ける窓から、ちょっとずつ飛び出していきます。大空に向かってね。ちっぽけな感傷に浸るぼくを見下ろし、笑いながら自由な空に飛び出ていきます。


ぼくはすこしばかり急がなければいけません。もっと大人になることをね。娘たちの置き土産がなくなるのも。もう時間の問題だから。

すばらしい明日に

                  
                 


すばらしい明日に


 やけに空が騒がしい、そんな表現がぴったりな空模様でした。雲の動きははやく、ときおり怒ったように、いやいや思い出したように、大粒の雨が落ちてくる。そんな荒れた空、同様にぼくの精神はいつも以上に騒々しく、そして荒れています。


 少しばかり予定を早めた仕事先に、出かけました。仕事を終え、暇を告げると、その家の主人であろうお年寄りが、ぼくをお茶に誘ってくれました。荒荒とした精神には、ありあまる休息が必要です。ぼくは喜んでお招きを受けました。


通されたリビングに入った瞬間、ぼくは部屋中に飾られた写真に圧倒されました。そこには季節ごとの風景・季節ごとの花・異国の景勝地等々でいっぱいです。そして奇矯な感覚に、その意味に、ぼくは子犬のように首を傾けます。見守る老婆は笑ってましたよ。


少しばかり極端だけど、たぶんご自身で撮られたであろうそれらには、なぜか命が見当たりません。奇妙だよね。とにかく人の気配を意識して除いている。ぼくにはそう感じられました。そしてそう確信しました。


写真から受ける感覚にとまどい、そしてなぜか早まる動悸にもとまどいます。いつものように、いえいつも以上に話すきっかけがつかめず、ぼくはただ出された紅茶をいただきます。このお年よりは、どのような半生を過ごされたのだろう、ぼくは唐突に自分の半生に。


 ぼくが一人で生活を始めたのは16歳です。巣鴨の4畳半のアパートは、スプリングのきついベッドが部屋のほとんどを占領していましたね。無機質な部屋にはベッドと机とレコードプレイヤー、そして無造作に積まれた本だけ。


極端といえるほど感情を出さないぼくを、気にして、ある日突然高校の担任がやって来ました。部屋をみて、机を見て、本を見て、そして少しのあいだぼくを見つめて・・・多くを語らず帰りました。だから来ないほうがいいといったのに。


机上の読みかけ本は、『さらばモスクワ愚連隊』『蒼ざめた馬を見よ』『都市の論理』・・・


生活に、日常に、ぼくはずっと深くかかわることができませんでした。正直なところ今でもそうなのです。いつも意識は仮住まい、家庭を持ち家族を持った今でもね。パートナーにはたいへん失礼なはなし、だから本音を言えません。


浮遊し、漂流して、けっして出会いがない旅を、いまでも続けている、それが正直な実感です。あのね、過ぎたことを、運命などという言葉で結論付けることは、そんなふうに簡単に言える環境は、とっても贅沢です。だから自身に疑問を投げかけます。どこかで妥協をすることができたのではないのだろうかと。


リビングに飾られた写真を見ながらしばらくのあいだ、ぼくは何も言わずにお茶をいただきました。だいぶん失礼でしたね。


老婆はそんなぼくを、何も言わずに見守ってくれています。そしてぼくは、初対面の仕事先のお年寄りに、無言という、とても素直な感情をあらわにしていることに、いくぶんとまどいました。


写真から受ける感覚は、意味もなくぼく締め付けました。いえきっと、きっとそこには意味はあるのでしょう。ただ過ぎ行く過去に意味を見出すことを、いつも、いつでも、いっしょうけんめい抑えてきたぼくには、その風景を問うことができず、ただ見つめるだけ。それがせいいっぱいです。


上等なティーカップ・香りのよい紅茶・セピア色の写真・凛としたたずまいのご婦人・そして精神が青二才の職人・・・どうにもチグハグだね。

精霊達に・・・


                   



精霊達に・・・



 秋が実感できるさわやかな空気に、匂いに、その音楽に、ぼくらはもっとワクワクしなければいけない。寂しさのきっかけともいえる秋と、まるで正反対の秋がそこにあることを、意識して楽しもう。そう思い始めました。いまさらだけどね。


「秋というだけで俯くことはね、やめなければいけないね。そうじゃないと、つまんねぇや。」ぼくはこの時期、涙目で遠くを見つめ、時折「フォン」などと小さな声をだし、悲しい目で下を向いているケンタクンに、偉そうに説教をします。


玄関の扉を開け、秋に一歩踏み出せば、白・紫・ピンクと、背高ノッポのコスモスたちが、それぞれが、競うように咲き乱れています。なんとも贅沢な景色です。


そんな贅沢な景色もね、うっかりして視線を左右にずらせば、残念なことに景色は人工物だけが、まるであたりまえのように連なっています。だから一方向とはいえ、いっぱいのコスモスが咲き乱れる場所があるだけで、そこは天国、ありがたいと思わなければいけません。


人工物がいっぱいの景色、そんな街が普通で、自然で、あたりまえであることに、ぼくはときどき反発を覚えます。疑問を感じます。ほんとうはさ、草花がイッパイ、木々の緑がイッパイ、原色に囲まれた風景がイッパイ、でもってそれがあたりまえで、それが普通で、灰色の人工物なんかは、その中にポツンポツンとあるべきなんだ・・・


たぶんそんな独り言が、そこいらが、キチンとした大人達から「キミはいつまでも青臭いね」といわれる所以なのでしょう。でも精神がガキで青臭いぼくはこう思います。キチンした大人達は、ほんとうはぼくとおなじ思いを持っていて、けどその反発や疑問を、意識の外で、どこかに封じ込めてしまっている。ってね。


ほとんどの街の造型物は、人の手に成るものばかりです。道路・電信柱・家々・ビル、残念なことにそんな街模様から、ぼくたちは一時も逃れる術をしりません。逃れることが重要なことを・大事なことを・・・意識することさえできないようです。考え過ぎでしょうか。でもなぜなんでしょう。大問題だな。


「だったらさぁ、田舎にとっとと行きゃあいいじゃないか」そんなこえが聞こえてきそうです。しごくごもっとも。でもね、ちょっと考えると、ちょっとガキのたわごとに耳をかたむけていただけると、そこいらのガキの真意が、あるいは見え隠れしているガキのピュアな響きが、少しおわかりいただけるかもしれませんよ。


ガキの代表でもあるぼくは、秋の始まりのいまどき、すべての秋を意識して感じます。楽しみます。幸いにも、我が家から歩いて37秒のところにある、大きく、ある程度の広さを持つ雑木林は、意識の結界をぼくに与えてくれます。もちろん聖なる領域がどちら側あるかは、ひとそれぞれです。決め付けることは無意味でしょう。


ぼく自身に限れば、結界の俗なる領域は自身が棲む街です。聖なる領域はわが心なのです。そして意識の根底に住まう雑念を追い払うため、積み重ねられた無意味な常識に逆らうため、さらに自然がなんなるかを意識するため、気づくため、そのために雑木林に逃げ込みます。助けを求めるのです。


そんな自分勝手な理由でもね、存在そのものが聖であるそこは、雑木林は、優しくぼくを許し、全身で抱え込んでくれます。毎日のようにね。なにしろ雑木林の中に入れば、冬の一時期を除いて、そこは人工物がまるで見えない場所なのです。ぼくは結界を越えるべく、意識して反対側へ行くために、そんな舞台を利用します。


木々に囲まれ、ワクワクしながら集中すれば、いろんなものが出現しますよ。木々のあいだから誰かがぼくを見ていたり(これを普通のキチンとした大人は気のせいといいます)、ビックリするぐらい大きなクモがぼくに笑いかけたり、首筋がザワザワと感じるほどの精霊たちをね。


人々は社会という造型を、当たり前のように規定しています。そう感じてなりません。当たり前が、その基準が、いかなる要素で成されるかを考えることは、それほど大それたことではないように思います。


オッサンへのメールは以下に
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