誰にも気づかれることなく…

これを書いている。
これを最後に書いたのはもう何年も前の話で、「アンテナ」に残されたリンクの先にいるのも、
これまた何年も前の僕の知っている方々であった。
もちろんリンクの先の方々は、もうこの世界には存在ていないわけで。


こんなにも儚く無常な気持ちになるくらいなら、僕もこのサイトなんか思い出さず、
このまま放り出したままで、記憶から葬り去ってしまったほうがよかったなんて思う。

そういえば前回は文科省について書いていた。
今読むと「なんか、若かったなぁ」なんて思ったりもするのだが、その反面、
なんだかバイタリティみたいなものも感じる。

金とか名誉とか、誰かに認められたいとか、そんなことばかり考えていて、
でも等身大の自分を見つめなおすと、やっぱそれなりの成果しか得ていない。
それは誰が悪いとかじゃなくて、単純にそれは自分の今出せる結果であって、もちろんそれを自覚している。

「世の中が悪い」

なんて死んでも思わないが、そんな「世の中が悪い」と言い切ってしまう無頓着な若さと、エネルギーに時々憧れる。

「昔はよかった」とも「今に満足している」とも思わないけど、
「未来はよくなる」なんて考えたら、それは楽観的でお調子者な発言だろうか。
うーん、希望を持つことは決して悪いことではないと思うが、なんか違う。

とにもかくにも、「明日はきっと良いに決まってる」なんて自分に言い聞かせてみようか。
「遠い不鮮明な未来」に期待をするより、「閉塞感に侵されそうんな明日という未来に希望を抱く」くらい許されるんじゃないかって思いながら。



とりあえず……書いてみよう。
うん…まだかける。
まだいける。

文科省

文科省に自殺予告の手紙が連続して寄せられた。前回は男で、今回は女らしい。
自殺は悪だとよく耳にする。もちろん自殺を避けるに越したことはないし、自殺までしなくても、と思ってしまう時がある。ただ、その辺は当事者にしかわからない苦しみや悲しみ、空虚感や絶望感があるのかもしれない。

以前どこかで
「自殺と暇は密接の関係にある」
みたいなことを書いた。未だにそれは1つの理論として成立すると私は信じている。しかし自殺の理由としてあげられる代表的なものは「いじめ」である。

「いじめはいけないことだからやめましょう」
とか、
「いじめがなくなる環境、教育をつくる」
などがよく言われる。個人的には、そんな台詞は聞き飽きたし、いじめる側がそれを聞いて納得してるなら、とっくにいじめなんかなくなっている。
私は決していじめを肯定するわけじゃない。いじめは相手のプライドや価値や理念や存在、全てをズタズタにする。ただ、これから先もずっと、いじめはなくならないだろう。いじめはどんな時代にも存在し、その伝統は長く、根は深い。

それにしても、何故人は便乗をするのだろう。今回、文科省に送った女は、前回の男に勇気付けられやったのだという。
自殺には勇気が必要なのだろうか。私にはわからない。自殺したいと思ったことがない。ただ、勇気は必要な気がする。自らを死に追いやるのは、どんなに酷いいじめを受けようが、どんなに金がなかろうが、死を目の前にした時、計り知れない恐怖と対面するに違いない。

「その勇気を何故生きる糧にしない」

という人がいる。
それはムリだと私は思う。生きていく勇気の型に死に行くための勇気の型は当てはまらない。
どちらが大きいとか小さいとかの話ではない。要するにその観点がナンセンスなのである。
ただ便乗はどうかと思う。何故マネをするのだろう。日本人はマネ好きな人種だが、何故死ぬことまでにマネをするのだろう。私にはわからない。当事者意識というものなのだろうか。

いじめによる自殺をなくすにはどうしたら良いだろうか。私には難しい。いじめはなくなりそうにないし、自殺にまで追い込まれるほど、いじめの質は悪い。
ただ、いじめの環境下にいるとするなら、とりあえずその環境から避けることだと思う。どこの学校に行ってもいじめられるのなら、学校なんか行かなくても良いと思う。学校に行かなくても教育は受けられるし、何より自殺せずに生きていける可能性が増える。現状がそうなのだから、登校拒否児が増えてもしょうがない。
生命を守ることだけに徹底する考えは、決しておかしな話ではないし、そういった考えの人、極端に、

「学校に行ったら、いじめにあって死ぬかもしれない」

そういう考えが先行しても、私は驚かないし、現代なら正答とも思える。

誕生〜破壊〜再生  #1 「認められる」とは

久しぶりにある友人と話をした。体調不良を訴えて2ヵ月、未だ禁酒を強いられているオレと、知人内では酒好きで通っている彼の間とでは、居酒屋という場所は決してフェアな環境下とは言えない。もう1人の「ヲレ」は、そんな「オレ」の自制心を心底憎んだ。


彼曰く「はてなダイアリー」の大衆読者数は、某ブログ(コミュニティ拡張ブログとでも言おうか)をはるかに上回るらしい。両立させている彼が言うのだから、見当違いなものではないだろう。

さて、今回の話題は「認められる」についてである。結論から言うと、文章を書く者にとって、否、仕事をするにしても何にしても、他人に「認められる」というのは、最大のテーマであるとオレは仮定する。
「影響力」というのもあるが、これは「認められた」上での産物で「認知」されなければ影響もクソもない。


「認められたい」     

あなたも誰かにそう願っているハズである。でも心配するなかれ。その考えは至って健全なものなのである。
なぜイチローはあんなにも野球がうまいのに、それでも人一倍練習するのか。
なぜ中村俊輔はもっとうまくなりたい、と言うのか。やはりそれはそのフィールドで「認められたい」からであり、それが「好き」だからである。「好きだから」と書いたが、好きの対象、それは仕事でないと「認められる」は発生しないとオレは掲げる。趣味において「認める」は生まれない。例えば「趣味は歌うことです」という人がいるとする。実際、本当に上手いとしよう。しかしそれだけで相手のパーソナルな部分を認められるだろうか。私にはできない。何故なら、趣味では生きてはいけない。生きていく手段として手にした卓越した技術、才能、その人の生き様、その部分を見て私は初めて感動するわけであり、その与える感動が「認知」を生むのではなかろうか。趣味は周囲を対象としない。生活に支障もきたさない。あくまでも自己中心的なものである。そんなものでは、他者に感動を与えることは絶対にできないと私は思って止まない。

「なぜ文章を書くのか」

友人はオレにそう問いただした。オレはオレの書く文を誰かに認めてもらいたい、と純粋に願っている。それは確固たる事実である。ただオレは、
「認められたいから」
と素直に言えなかった。認められたいというのが願望というのは間違いない。ただ答えられないでいた。


自分が好きではないこと。例えばオレは転職経験者だが、前職の仕事があまり好きではなかった。
人間関係の善し悪しでも、仕事への意識は変わる。人間関係が良好な場合、仕事がつまらなくても辞めずに済んでる人は結構多いし、悪いものとは言えない。人間関係が良好の方が、不良なより全然良い。ただ、そういった人間関係などの要素を皆無にし、純粋に職業と向き合って、それでも仕事が好き、楽しいと言えるか、といった場合、その人数は極端に減少する。

そういった意味で考えた場合、仕事をつまらないという人は多い。つまらない仕事なんかには絶対誇りなんかもてないし、自信も生まれない。そんな仕事で成功し他者から誉め、認められて、人はそれでも喜べるだろうか。オレにはできないし、「ヲレ」はそんな環境を黙認しない。

話がズレたが、要するに「認められる」ことに人は憧れ、真の「認められる」の環境下に必要な要素は「好き」であることである。
だからオレは書くことが「好き」だから書くのであり、認めるとか、影響力とか、好かれたいとか、売れたいとか、そんなものたちは全て二の次の発想なのである。それくらい何かが好きで没頭できるというのは、素晴らしいなんていう安価な言葉では表現できないくらい絶大なものなのである。書く理由に「好きだから」以上の言葉はみつからない。それ以上の理由を知ってる人がいたら教えてほしい。

ただ残念なことに、好きであるなら趣味の枠組みから脱却しなくてはならない。これだから「趣味」という環境はチープで、曖昧で、ぬるく、面倒臭い。

趣味からの脱却。
それには努力が必要だ。そんなことは皆、わかっていると思うが、その労力は非常に大きい。

インタビューアー

「24時間働けますか?」

というキャッチフレーズを聞いて、

「ああ、あれね。」

と頷いてくれる人は、今僕の周りに何人くらいいるのだろう。

「ファイト〜!」

と町中で叫んで、

「いっぱーつっ」

と返事して僕の人生の命綱を引いてくれる人は何人かいるのだろうか?

リゲインとかリポDとか、栄養ドリンクたちの存在は以外に大きい。特に「徹夜、残業のお供」的存在の彼らは、社会人の方々に重宝されている。

「今夜は忙しくて帰れないけど大丈夫!なんたって僕にはリポDがついてるんだから!」

と、前向きに仕事バリ男くん(バリ子さん)なのか、はたまた、実は自らの慰めなのか、その辺は知らない。
ただ残念なことに、その彼ら栄養ドリンクたちによって、社会人の過労死は加速されたに違いない、と思ってみたりする。

栄養ドリンクたちの、日本社会における生存領土は広い。薬局はもちろんのこと、スーパー、コンビニ、最近ではちゃっかり自販機にまで進出し、値段もリポDなら150円、ユンケルに関しては安くても200円。そしてその存在場所はオフィス内、もしくはビルの側。何という図々しさ、そして要領の良さ。間違っても町の駄菓子屋の自販機には居座らない。この販売戦略に、一時期僕は大正製薬等を相手に裁判を起こそうと考えたが、ここが米国ではないことを痛感し断念した。

さて、自販機に進出した栄養ドリンクたちに煮えを切らしそうなのは僕だけじゃない。この間、ある方にインタビューをした。

リポDたちのオフィス自販機進出、実際のところいかがなものですかねぇ?」

すると、

「正直言って迷惑極まりない。あの茶色い小ビンが、健康カバーしますよ、的なニュアンスを表現してるのがまず胡散臭い。愛想振りまいてる割りには内容量少ないし。それでいて金は取る。150円すよ!150!ニンジンエキスか何か使ってるみたいだけど。私なんて最近じゃ市場価値が落ちたのか何なのか、110円すよ!ヒドイとこは100円!昭和か?バブルか?って言いたいですよ!そりゃね、私は無果汁だし、オフィス内なのにスポーツドリンク掲げてるし、日常だと発熱した時くらいしか出番ないし。」

そこまで言うと、ポカリさんは俯いてしまった。大塚製薬のポカリさん。無常だったに違いない。


しかし、自販機の世界は実にシビアな所というのが、先日インタビューしたばかりのコーラさんの発言で感じ取れた。日本のドリンクたち、いや世界のドリンクたちのカリスマ的存在である「コーラ」 皆は彼をこう呼ぶ。


「世界基準」


彼の右に立つ炭酸はいないだろう。合法時、微量ながら混入されていたらしい「コカイン」から取られた「コカ」の頭文字。その後ろめたさなど微塵も感じさせない、その圧倒的カリスマ性はインタビュー中にも感じとれた。


「俺っちはね、別に何でも良いの。俺っちが町のコンビニやら自販機やらに置かれようがそうでなかろうが。だって、俺っちのこと知らないヤツっていないっしょ?というより、俺っち置かない自販機やらコンビニなんてないか(笑)何?栄養ドリンク?俺っちには関係ないね。土俵違うし。何?ポカリが怒ってた?相変わらず安い野郎だゼ。だからうちのアクエリアスに追われるハメになるんだ。俺っちなんかペプシに勝って当然と思ってるし。ペプシにはまだまだ甘味が足りねぇよ。でもな、うちのアクエリが言ってたよ。何だかんだ言っても、ポカリには勝てねぇって。ヤツはスポーツドリンク界を一生担ってく男だって。」

そう言うと、コーラさんは窓外に見える夕日に黄昏ていた。赤い缶の周りにかいた沢山の汗が何とも印象的だった。このコーラさんが言っていたポカリさんの話は、まだ本人には伝えていない。伝えるか否か僕はまだ少し悩んでいる。