廃屋が好きという話

廃墟というか廃屋が好きで、見かけると即侵入して中から色々と眺めてちょっとした時間を過ごすのが趣味です。

といってもそんな行為はまだ10回もしたことがないと思う。これでは趣味とは呼べないかもしれない。

廃墟というと比較的大きな建造物を想像する。廃業したホテルや病院、ショッピングモールなど。行ったことはないけど町ぜんたいが廃墟な軍艦島なんかは有名ですね。そういうパブリックな空間が朽ちて一種の侘しさに満ちている、というのが廃墟の良さなんだと思うが、僕がわくわくするのはもっとパーソナルな或いは家族的な廃屋です。

これまでに中に入ることのできた廃屋は、大体が昭和20〜30年頃に建ったような木造の家だった。いわゆる文化住宅的な平屋もあれば、つい最近まで核家族が住んでいたような普通の二階建てもあった。

壁に貼られたままのカレンダーや置いていかれたタンス、観光地のお土産、ぬいぐるみ、束になったハンガー、ちぎれたサンダル、湿気で歪んだ窓枠と汚れたガラス、表面の化粧板が剥がれた玄関のドア。何かがあり、何かが抜け落ちたパズルのような空間に、それまでの生活の匂いだけが濃厚に立ち込めている。そういう場所が好きです。

小学2年生の頃に、家族や親戚と行ったダムのほとりの廃屋が最初だったと思う。二階建てで、ダムに面した壁一面が剥がれていて、建築模型のように中が見えていることが面白くて、いとこたちと探検しました。おじさんの一人暮らしだったらしく、洋服やアルバムなどがいくつか残っていた。厚いホコリをかぶった空手の賞状やメダル、道着を着たおじさんの写真など。他の子どもたちはすぐに飽きて外に遊びに行ってしまったけど、僕だけは興奮していつまでもおじさんの遺留品を漁っていた。外にはホンダの小型のバイクがあって、それにまたがって壊れた外壁の向こうの部屋の中を眺めていると、父親が呼びに来て、バーベキューをするから戻って来なさいと言われました。だんだん暗くなっていくダムの湖面と、廃屋の冷えた湿った空気の中で、初めて恍惚という感情を知った気がする。

リトル・ミス・サンシャインの感想


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2回目は『リトル・ミス・サンシャイン』。推薦してくれたのはみんな(@MINNA_TACHI)さん。


アメリカってずいぶん他者に優しくというか、大人になったんだなあと思いました。アメリカのロードムービーというとどうしても『イージー・ライダー』とか『ワイルド・アット・ハート』みたいな、個をクローズアップした、社会との軋轢の中で燃え尽きる生みたいな激しいものを思い出してしまって、単にジャンルが違うんじゃないかと言われればそれまでですが、まず『リトル・ミス・サンシャイン』のような映画が作られて、それがサンダンスを受賞して世界的にヒットしていわばスタンダードとして認められたということが、社会の老いとインディーズの成熟がちょうどいい位置で重なった2000
年代初頭を象徴しているような気がします。

映画に出てくる家族はみなそれぞれが社会からはみ出しているんだけど、そこへの眼差しがあたたかいというか、作中でも「勝ち馬とか負け犬みたいな価値観はもうやめようよ」というメッセージが明確だし、終わり方も明るい。多様性への寛容さと希望が見える。そういう意味ではやっぱりすごくアメリカ的な映画でもあります。たしかに子どものミスコンは醜悪だけど、カリフォルニアのひたすら赤茶けた何にもない風景と重ねあわせて映し出されたその情景は、古き良きダサくグロテスクでもあるアメリカを全体的には「しょうがないなあ」と肯定しているようにも見える。同じムードで撮られたと思われる『バス男』ほどの、半アメリカ的な憎しみや皮肉を感じません。

今はもうちょっとまた時代が進んで、ゆるい諦めのようなものが全体のムードとしてある気がします。『ファイト・クラブ』で提示された「それでいいのか?」という問いかけが効果を失って久しいというか、もう誰も大企業が自分たちの生活に浸透しきってしていることに疑問を持たなくなってきて、映画はシネコンで見るしスタバでお茶することに抵抗はなく、その上でより内面化された問題へと、もしくは全く関係のない(アメコミ映画などに代表される)エンタメのCGだらけの娯楽大作みたいなものになっていく。あとはコスプレの時代物。それが悪いという意味ではなく(映画の第一義は娯楽のためのものだと思っているし、個人的にもアメコミ映画は大好きなので)、現代と社会を映画という手段で問う(イーストウッドみたいな作家と)作品が少なくなっているんじゃないかということで、繰り返しになりますが、『リトル・ミス・サンシャイン』ってちょうどその手前にある作品だったんじゃないかという感想です。

主演の女の子、オリーブを演じた子が素晴らしかったですよね。あんな風に無垢を体現されたら、それは見てるだけで泣いてしまう。お兄ちゃんを演じたポール・ダノという人もすごく良かったです。ポール・ダノの出てる映画観たい。

8人の女たちの感想

ツイッターでおすすめしてもらった映画の感想を書いていきます。
内容に触れるので部分的にネタバレもすると思います、知りたくない方は注意。

最初はフランソワ・オゾン監督の『8人の女たち』。推薦者はでこ彦(@decohico)さん。
雪深く閉ざされた田舎の家で起きた殺人。殺されたのはその家の主人で、その場に居合わせた家族や使用人、8人の女たちがお互いを疑って探り合うが──みたいなあらすじ。

長女シュゾン役のヴィルジニー・ルドワイヤンがとにかく可愛かったです。後で検索したら自分の同い年(40歳)でちょっとショックだった。あとメイド役のエマニュエル・ベアールがエロい!注射をするシーンがあって、ベロを出してグサッとやるんだけど、エッチすぎて巻き戻して3回見ました。女優たちのファッションがすごくおしゃれ。若い女は若いなりに、歳をとった女もまたそれなりに美しく着飾っていて、年齢や体型にそぐう服装ってあるんだなと改めて思った。

冒頭のクレジット画面の背景がキラキラした宝飾品で、その画面がいかにもテレビ的な“VTR”という感じの画質だったので「向こうにも昼ドラみたいなものがあって、そういうのへのオマージュ的な映画なのかな」と思いながら観始めました。室内劇、一夜の出来事ということから舞台を意識してるのかなとも思った。ストーリーも色んなことが起きるんだけど、どのプロットもソープオペラにはよくあるような内容で、ある意味では全てが描いた餅であり書割りなんですということを自ら表明しているようなところがある。

女優たちの演技もオーバーアクションなんですよね、それがこの映画の書割りチックな諸設定にすごく合っている。役というよりもキャラっぽいというか。皆、人生についてのセリフや苦い言葉を口にするんだけど、どこか(だが意識された)作り物っぽさがあって、「あ、人形劇をやりたいのかもしれない」と思いました。パペットムービーやテレビの人形劇が僕はわりと好きで、たまに本当の生き物みたいに見える瞬間があるじゃないですか、あれを逆に人間でやろうとしているのかも知れないと思ってワクワクした。そういう映画もたまにあって、やっぱり好きなので。たとえばリヴェットの『セリーヌとジュリーは舟で行く』の劇中劇とかね。ていうかリヴェットの映画は全部そうな気もするけど。

で、観てたらやっぱりその瞬間がきました。歌うシーンですね。のっぺりとした書割りを背景に動き喋っていた美しいだけの人形が、命を宿したように感情を声にする。人はみなそれぞれが各々の人生の主人公で、そこにある悲しみや美しさはその本人にしか語れない……そんなブルース(シャンソンですが)を歌い出す。その瞬間に、描かれた女たちが二次元から三次元に浮かび上がるような驚きがありました。またいいのが、歌い終えると女が人形に戻っていくんだよね。スポットの当たる、本当の意味で生きている時間はそう長いものではない、という教訓まで含んでいるようにさえ思われた。

フランソワ・オゾン監督はきっと賢くてスケベな人なんだろうな〜と思います。女を可愛く撮っていればそれだけでそれはいい映画だなっていつも思うのですが、女を残酷に撮るのはそれ以上。面白かったです。

こだまさんのこと

遠き山に日は落ちて、みたいにシンプルな一文に、ぐっと胸を締め付けられるような気持ちになることがある。簡単に「山」としか書かれていないからこそ、自分の記憶の中にある山や夕焼け、様々な思い出を含んだイメージをそこに投影できるのだろう。想像の余地があり、読む人それぞれの解釈で、その世界が自由な広がりを持つ。文章という表現方法の一つの良さだと思う。たとえば俳句なんかもその顕著な例で、ツイッターもそういうとこありますよね〜って感じで始めたいと思って書きだしたけど失敗した。知的な装いに、失敗しました。

小さな会社の人間関係に疲れ果て、脱サラして喫茶店を始めてしばらくした頃、ヒマを持て余してツイッターをやるようになった。人との繋がりや環境を持続させることが苦手で、その場限りの表層的なコミュニケーションだけが上手な自分にとって、一人でやれてお客さんとも立ち入った話をせずに済む喫茶店ツイッターは向いているように思えて、特にツイッターは、140字の中で誰でも何でも好き勝手に言っていい自由さが気に入り、仕事そっちのけでのめり込んだ。

数あるアカウントの中でも、こだまさんは憧れの存在だった。ツイートやブログの飾らない文に丹念に込められた(時に苦い)ユーモアや、その反面で(時にどうしようもない)物事や人々に向ける優しい眼差しに惹かれたし、ひとつの出来事を簡潔に、面白くまとめる力をすごいと思った。そして今もそうだが、何よりもご本人の謙虚な姿勢を美しいと感じた。フォローしてふぁぼりまくっていたら、一度ふぁぼり返してもらったことがあって、そのことが長い間僕のツイッターにおける宝物の一つだった。

今のアカウントでフォローされた時には、嬉しさはもちろんのこと(顎が外れるかと思った。嬉しくて)、でもそれ以上に不思議な気持ちがしたものだった。だじゃれと下ネタしか言わないこんなアカウントを、なぜ…?誤フォローしたけど、後に退けなくなった…?色んなことを考えたけど、こだまさんは頼まれると断れないヤリマン体質らしいので、僕のふぁぼやリツイートに「負けた」のだろうという結論に今はなっている。あと、おれのツイッターもう上がりだな、と思った。いや、やめられないんですけど。あともうふぁぼじゃなくていいねですね。いいね!と言えば奇しくもこだまさんが発した初めての言葉がそうだったらしい。予言でしょうか。ツイッターの申し子か。

ブログや雑誌の記事、同人誌を読む限り、こだまさんは生きているのが不思議なくらい大変な奇病を患っている。身体の中で骨がずれたり曲がったり、入院時の闘病記も、事実だけ取り出せば凄惨な境遇に陥っている。大げさでなく死と隣り合わせの人生だ。それなのに、あまり悲壮感がないところも素敵だなと思う。『ここは、おしまいの地』としてクイック・ジャパンの記事で描かれた郷里の町での暮らしや、仕事上の挫折経験など、死にたくなることは山ほどありそうなのに。実際、死にたいという言葉もよく使っておられるような気もするのに。それはなぜなんだろう。人や世の中に最初からあまり期待してないからなのか。逆に実は底抜けに楽天的な人だったりするのか。死ぬほど落ち込んでも、あまりそう見えないだけなのか。そう見せることを潔しとしないためだろうか。きっと、全部違うんだろうな。

やはりクイック・ジャパンに掲載の『私の守り神』というエッセイの終わりの部分で、こだまさんのテキストではこれまでになかった種類の感動を覚えた。自分と同じ世代の方が、大きな傷や痛みを抱えつつ死地をどうにか脱し、再び自分の足で歩き始めるということ。そればかりでなく、文筆の世界に新たに自分の場所を作ろうとされていること。好きな人の綴る文章が、書店で買える本になる。それは単純にとても嬉しいことだ。勇気をもらった、などとずうずうしいことを言うつもりはない。こだまさんはご自分の力と努力でそこに道をつけたのであり、それは自分とは関係ないことだからだ。

自分の話をすると、5年ほどやった喫茶店が経営不振に陥り(ツイッターばかりやっていたので)今年閉店した。働かないわけにはいかないので、七月の終わりに都内の企業に再就職してみたらまあまあなブラックで、最近は仕事のある日は徹夜か終電がほとんどだ。就職してみて、自分が人の顔と名前を全く覚えられないこと、特に四文字以上の名前が壊滅的に駄目なこと、思っていた以上に仕事が出来ないことなどがよく分かった。

つらいと思った時、何度かこだまさんの文章を読み返した。自分とは関係ないとしても、こんなにがんばっている人がいる。そう思うとやはり励まされた。他人の中にごめんなさいよと割り込んでいって、そこに溶け込み、笑顔で付き合っていく。そういうの自分、苦手なんで…とは言えない。居場所を作るため、生きていくために必死だったし、今もそうだ。

全然関係ない話になるが、フォロワーで最近田舎から上京してきて、都内で進学するためにキャバクラの寮に入って暮らしていた女の子がいた。店では嘘ばっかり喋らなきゃいけなくて、全然お客はつかないし、貧乏だし部屋は狭いし毎日泣いてるしもう嫌で、九州に帰りたくなるけど、帰ったら負けだと思うから帰れない、みたいなよくいる感じの女の子だった。店と寮のある池袋が大嫌いだったけど、東京で初めて出来た同性の友達と朝まで遊んで部屋に帰ってきた時、ああただいま、池袋ただいまとはじめて思った。というツイートを見て、そうか、誰にとってもやっぱり居場所は大事なんだなと思った。彼女はその後キャバクラにさっさと見切りをつけ、今はSMの女王様をやっている。天職だと思う、自分の欲望がここなんだってわかった、と言ってディオールパチスロ猫カフェで豪遊する毎日だ。AVにも出ようとしてるらしい。ちょっと速すぎるんじゃないか。生きるスピードが。

こだまさんがこれからどうなって行くのか、ファンの一人としてすごく楽しみだ。なんか上からですみません。そしてそんなに付き合いが長いわけでもないのにすみません。でも実力を持った人が、その力量を思い切りふるうために、そうした環境を作るために世界に切り込んで行くのを見るのは、なんてわくわくするんだろう。そういう思いを味わわせてもらっています。個人的な願望としては、月刊エグザイル(まだあるのか知らないけど)に呼ばれて本物のエグザイルと対談をして欲しい。あとなし水が買えなかったので、まだ読めていない、そしてこだまさんブレイクのきっかけとなった、当時の全精力を注いで書いたという『夫のちんぽが入らない』の早めの書籍化を望みます。


以上、明日の文フリでたぶんお会いするのでやっべ〜書かなきゃと思って書きました。読んでくれるといいな。

鏡の中のマリオネット

小学5年生くらいのある時期、塾の帰りにコンビニで究極超人あ〜るのコミックスを立ち読みするのが最高に幸せだった。たった一人の、誰にもじゃまされない時間。店内では当時流行っていたBOOWYのMARIONETTEがよく流れてた。

いまの70代くらいの年の人と話していて思うのは、彼らは街や風景、時代の変化の波をすごくダイナミックに感じてきたんだろうな、ということ。ビルが建ち、道路が舗装され、線路が敷かれ、日本全体の風景がものすごい勢いで変わっていく。過ぎ去ってしまった風景は良くも悪くも取り戻しようがなく、そこには強烈なノスタルジーが生まれたことだろう。電車に乗っても飛行機に乗っても行けない、もう記憶の中だけにしかない街や村、時間のふるさととでも呼べるものがあっただろう。

僕が塾帰りのローソンで究極超人あ〜るを読んでいたのはもう30年近く前のことなんだけど、その頃から街の風景というのは実はあまり変わっていないんじゃないかと思う。コンビニの数が増えたり、外国人の姿が多くなったり、車や建物のデザインが多少変わったりはしているかもしれない。でも30年前に当時の大人がそこから30年前の少年時代を想うときのようなギャップはない。風景だけではない、社会全体の変化が緩やかになった30年だと思う。

SFが好きだから、これだと物足りないのである。携帯電話とインターネットが普及したくらいじゃ「未来に来た」って気がしないし、将来もあまり変わり映えがしなかったらどうしよう、という不安がある。

ギブスンの作品や攻殻シリーズで描かれる電脳空間(サイバースペース)や、イーガンの示した人間がソフトウェア化した未来に、自分の寿命はきっと届かないに違いない。そういうせつない思いがあって、届かない場所に思いを馳せてるのだから、これだってノスタルジー(未来への)と呼べるんじゃないかと思ったりする。

のんきにあ〜るを読んでたら、ある日後ろから肩を叩かれた。学校の先生だった。帰ると、母親に叱られた。


鏡の中のマリオネット 気分のままに踊りな
鏡の中のマリオネット 自分の為に踊りな


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ドゥーワチャライク

子どもの頃から女の子のファッションが好きで、綺麗な洋服を着た女の子たちをうらやましく思っていた。何度かツイッターにも書いたけど、中学〜高校生の間はOliveとnon-noをほぼ毎号買っていました。同時にアップル通信やデラ・ベッピン、CANDY TIMEや漫画ホットミルクといったエロ本も買う(女性誌と一緒にレジへ)んだけどとくにおかしなこととは思わなかった。

オリーブは一種のカルチャー誌としても読んでいて(書評や映画のレビュー、小沢健二の連載等があった)、書体の選択や写真などの誌面のデザインには相当影響を受けたと思う。グラビアもロケーションに凝ったりしててノンノより数段おしゃれな印象でした。スタイリングが誰、とかは意識してなかったけどモデルさんが可愛かった。市川美和子・実日子姉妹や湯沢京など、猫背で、痩せて目つきの悪い不美人が多かったです。
ノンノの良いところは、ボリューム。トータルで好きな格好はあまり載ってないんだけど、アイテムの量が多いんだよね。でも分厚い雑誌の半分くらいは広告で、「雑誌ってそういうもんなんか」とびっくりした覚えがあります。モデルはりょうとか西田尚美なんかがいました。

オリーブのあのページの丸襟のブラウスと、このノンノに載ってる小花柄のプリーツスカートを合わせて…髪はゆるい一つ結びのでっかいおさげで…みたいな想像をしてよく遊んだ。あとは巻末のほうに載ってるショップデータを見て、もし東京に行ったら絶対この店は行く、ここにも行く、あっあと絶対に原美術館に行く、原美術館の芝生のテーブルでお茶をして写真を撮ろう、と少女みたいに夢を膨らませるようなこともよくやりました。

東京の大学に通い始めてすぐ、好きだったバンドのボーカルが死んで落ち込む、友達は出来ず、バイトをしないので金がなく、勉強をしないので単位を落とす、洗濯をしないのでどんどん着れる服がなくなる、女の子とまともに喋れない、皿を洗わないために部屋が臭いし虫がわく、といった自分のだめさに直面することとなった。長年つまらない生活を送って、結局卒業もしませんでした。あの頃のことを思い出すと、今でも胃のあたりが暗く、重くなる。諸事情で家賃も払えなくなり、人としてどん底の状態で住んでいた豊島区東長崎を去りました。

それからいろいろあって、去年の夏、初めて本格的な女装をした。
四谷にあるビルの2階、レンタルコスチュームのお店のドアを開けると、挑発的なボディコンのワンピースを着て女性のメイクを施されている最中のおじさんと、テーブルで話している二人の若いオタクっぽい男性がいました。狭い店内に体を押し込むように入っていくと、女性の店員さんが現れてお店の説明をしてくれた。彼女の説明に従って、カツラと洋服を選んで、メイクの順番を待ちました。同じテーブルの若い男性二人が話しかけてきて、彼らが女装愛好家だということが分かりました。一人の人は女装時の写メを見せてくれて、そこには顔立ちの派手な可愛いギャルが映っていて、思わずエッと声が出た。おれの反応に、幽霊みたいな生気の薄い顔をした男性は嬉しそうに自分の女装話を始めるのでした。

メイクは、自分でする。化粧道具も全部そろえてるし、洋服もどんどん増えていっちゃうんだよね。こないだっていうかわりとしょっちゅうなんだけど、街で男に声かけられた。自撮りしたり、写真撮ってもらうのも楽しいよ。きみ初めてなの?そうなんだ、新しい世界の扉、開いちゃうかもねェ〜。
テーブルのもう一人の少し太めで眼鏡をかけた男性は、主にギャル(になる前のもう一人のオタク)の話にうなずいたり、持ち上げたり、弱めの突っ込みをしたりしていました。そんな会話の間に、さっき選んだセーラー服に着替えました。

「じゃあ行ってきます」と言って、メイクを終えたボディコンのおじさんが鏡台の前から立ち上がりました。ずり上がったスカートの裾をつまんでぎゅぎゅっと押し下げ、ハンドバッグ片手に店の外に出て行きます。行くんだ。その格好で。「行ってらっしゃーい」と店員さん。じゃあこちらへどーぞー、とおじさんが座っていたイスに案内され、おれのメイクが始まりました。「どんな感じがいいですか?」とメイク専門のスタッフのおばさん。「えっと、女子高校生のイメージなんで、できるだけナチュラルな感じで」「わかりました〜」といったやりとりの、約30分後。ショートボブのカツラを被り、セーラー服を身に着け、メイクを終えたおれが全身鏡の前に立っていました。

これが……ぼく………?

ごつい。脚が太い。あと肌荒れがすごい。っていうか、見れば見るほど、おじさん。女装したケバいおじさん。正直、もうちょっとましだろうと思っていた。陶芸家が、気に入らない作品を地面に叩きつけて割るじゃないですか。見たことないけど。そんな気分でした。なんだよ。なんなんだよこれ。

「すごーい!可愛い〜!!」と言ってさっきの男性二人が褒めてくれます。女性店員さんも「お客さん……なかなかの素材ですよ……!」と興奮ぎみな表情。業界に新人(客)を引き込みたい一心なのがすごい伝わってくる。褒められるほどに、嬌声を浴びるほどに落ち込みは増す一方でした……が、実はここからが本番でした。店員さんに、写真を撮ってもらうのです。できればケータイで自撮りがしたかったんだけど、そっちのコースはすごく高かったのです。店の奥のカーテンで囲まれた試着室くらいの大きさの間仕切りの中で、撮影してもらいました。なるべく女の子らしい、ポーズや表情。上目遣いもしたし、アヒル口も練習して行きました。ここまでやったら、後悔だけはしたくない。おれはやりきるぞ。やってやるんだからね。

撮影データの入ったCD-Rを受け取って外へ出た。外は暗くなり始めていました。何だか体がだるくて、寒気もしていた。家に帰ると、飯も食わずに布団に倒れこんだ。翌日、熱が出ていました。もらったCD-Rをパソコンに入れて確認すると、鏡で見た以上にキツい写真の連続でした。吐きそうになりながら、あきらめずに全部のショット(100枚近くあった)に目を通し、一番ましなやつを選んでぶるぶると震えながらPhotoshopを起動しました。


結局おれは、原美術館にはまだ行ったことがありません。
理想というか、夢は美しい夢のままにしておいた方がいいこともある。よくある決まり文句だけど、そんな気がするからです。

……さて今年はどんな衣装にしようかな。やっぱ黒ギャルか。

レンタルビデオのバイト

若い頃は映画を作る学校に行ったりしてたんですが、ある日同級生のAくんに「お前は学科で一番映画を知らない学生だと思うけど、逆にそこがいい」と言われたことに危機感を覚えて、近所のレンタルビデオ店でバイトをすることにしました。安く借りられるだろうし、環境的に映画を観る気になるかなと思って。個人経営で、ウィンドウにヨーダルパン三世、アメコミのキャラなどのフィギュアが置いてあり、単館系のラインナップも充実した店でした。監督別、出演者別でビデオが並べられてたところが好きだったな。そう、まだDVDもブルーレイもなく、VHSが棚に並んでいた頃の話です。

オーナー兼店長は在日韓国人二世の独身30代のおじさんで、親は大金持ちで働く必要はないけど映画が好きだからこの店やってる、というスタンスの人でした。黒人文化が大好きで、よくマーヴィン・ゲイスティービー・ワンダーをかけていた。スパイク・リーについて熱く語られたりもしたなあ。そんな店長ですが、熟女好きでドスケベの大麻中毒者という一面もあり、「半袖くん、市民プールいいよ。熟れ熟れの主婦がわんさかいるんだよ。もう……熟れ熟れよ?」と近所の奥さんとの不倫話を事細かに話してくれたり、ビデオを入れる店のロゴ入りのバッグにパンパンに詰まった乾燥大麻を「内緒だよ?通報しないよ?」と言いながら見せてくれたりしました(吸わせてはくれなかった)。

「半袖くんまだ若いんだから、映画をいっぱい観なよ。何も考えずにさ、棚のはじから始めて、全部見ちゃえばいいんだよ。タランティーノもそうしてたらしいよ?」そう店長に言われて、とりあえずアダルトコーナーの方でそれを実行することにした。当時の都内では珍しくなかったと思うのですが、店では裏ビデオも置いていて、童貞だった僕は「なるほどな〜〜!なっ……なるほどな〜〜!!!」と毎日人一倍熱心にひたすらエロビデオを見続けました。人妻もナンパもギャルも家庭教師もSMもノゾキもスカトロもレースクイーンも女子高生も白人も黒人もひと通り見尽くして一種賢者のような心持ちになった頃には、「たくさんの映画を観て勉強しよう」という志はすっかり失われていました。

間違いなくこの店で一番エロビデオを見てる男だろう、そう思っていたところに「全然ちゃうよ」とバイトで一番古株のNさん(バンドマンでモヒカン)に鼻で笑われた。「ミノワさんなんかもう、10年は通ってるし何っ回もおんなじの見てるで。本数で言ったらもう3周くらいしてんちゃう?」と言われて、そのミノワさんのことが気になりました。ミノワさんは近所の中華料理屋さんで働くコックのおじさんで、たまに袋にいれたホカホカのチャーハンを差し入れしてくれる。シフトが変わったことで程なくそのミノワさんとも会えました。本当にめちゃめちゃ借りてた。やけくそかよ?って思うくらいの本数を借りてました。店のコンピュータで貸出データを見たら、アダルト部門のみならず総合的にも店で一番借りてる人でした。坊主頭にグンゼの肌着をインしたケミカルウォッシュのスリムジーンズ、サンダルとウェストポーチがいつものスタイル。聞いていた話の通り、透明なビニール袋にパンパンに詰まったホカホカのチャーハンをカウンターにどしんと置いて、「差し入れよ。新作入ってる?」と微笑んで真っ直ぐアダルトコーナーに歩いて行く足取りの、その迷いのなさ。「ああはなりたくねえ!」って素直に思いました。ミノワさんのチャーハンはいつもすぐ店の裏に引っ込めて、ゴミ箱に捨てていました。めちゃめちゃいい匂いがして美味しそうだったんだけど、ついに食べる勇気が出なかったです。

いつものことだけど、この話にもとくにオチはありません。僕がバイトを辞めて九州に出戻ったあと、しばらくして店は潰れたと当時のバイト仲間から聞きました。それから10年以上が経った。

5年くらい前、池袋のビックカメラでテレビを買って、配送手続きのカウンターで書類を書いていると、隣に見覚えのある男性の横顔があり、店長でした。親戚がここで買ったクーラーの調子が悪くて、修理の事を聞きにきたんだよね、と言う店長を誘って喫茶店でコーヒーをご一緒した。「いやーオレもちょっと前だけど警察のお世話になっちゃってさ」と両手を「お縄」のポーズにしておどけて見せる店長は、当たり前だけど昔よりもだいぶ老けていました。「ところでテレビ、何インチ買ったの?えっ37?バカだね半袖くん、テレビは42インチからじゃないと『大画面』って感じしないよ?ハハハ」AV(オーディオ・ビジュアル)マニアだった店長の言うとおり、うちのテレビは全然大画面って感じがしないです。