ポストモダニズムに対する批判の中で最も世間を騒がせた有名な騒動はソーカル事件でした。
ポストモダニズム系の学術雑誌に、アラン・ソーカルがポストモダニズム系の専門用語を誤用しまくった論文を書いて投稿したら、査読を通って、その論文が掲載された。
ソーカルはその論文の中で、ポストモダニズム系の学者が書いた論文を数多く引用し、彼らの多くが数学の専門用語を誤用していることを指摘している。
東浩紀はソーカル事件よりも「サイエンス・ウォー」という著作の方がより的確だとして、そちらを推薦している。
サイエンス・ウォーの前半3分の2ほどは、ポストモダニストや人文科学系の学者が論文の中で数学の専門用語を誤用している問題を扱っている。後半3分の1ぐらいのスペースを使って、大衆側からの知識人に対する嫌悪感を書いている。活字や書籍を読んで、理屈を言う連中ムカつくよね、という世間のムードを扱っている。
ソーカルとサイエンス・ウォーに共通するのは、数学者がポストモダニスト・人文系の学者に対して、人文科学は数学とは別ジャンルの素晴らしい学問分野なのだから、無理に数学の難解な概念・専門用語を使わずに、人文科学として優れた論文を書いてくれれば良い、としている所だ。数学の専門用語を権威付けや飾りとして使わないで欲しいという話だ。
東浩紀の哲学科における初期の専攻は科学哲学で、反復可能性、反証可能性などの話を扱っている。最新の著作である「訂正する力」も反証可能性のある物だけが科学だとする科学哲学の話をしているように見える。
水を電気分解すれば、水素と酸素が得られる。これは、いつどこで、誰がやっても、同じ結果が得られる。このような再現性の高い、唯一の正しい答えを、人文科学の分野や小説の読解などでも求められることが多く、結果、数学の概念を誤用した最先端の文芸批評、批評理論が作られる。
ポストモダニストが発した二つの有名なフレーズは、調度この対立を書いているように見える。ニーチェの書いた「神は死んだ」とレヴィ・ストロースの「人間は死んだ」。人文科学は英語でヒューマニズム。人間の死は、人文科学の死を指している。「実存主義はヒューマニズムである」と言ったサルトルとの論争の中で、主観的な人文科学が死んで、客観的で数学的な自然科学のみが残るとレヴィ・ストロースは書いた。
ニーチェの神の死は、逆で、人間個人個人の主観は皆、異なっていて、チンパンジーにはチンパンジーの主観があり、微生物には微生物の主観がある中で、神のみが客観的真実を知る者とされてきたのだが、神の死を宣言することで、客観世界は死に、主観的な解釈のみが乱立する状態を宣言した。
主観と客観の対立は西洋哲学の初期から存在していて、古代ギリシャ人が描く世界の図は、半球状の亀の背中に世界が存在していて、地球が動く球体であることを古代の知識人は知っていたのです。地動説や地球球体説は自然科学的な計算の中から出てきた客観的答えとして存在している。にも関わらず私たちの主観は、地面を平らで動かない物として認識している。その主観と客観をどう一致させるのかをめぐって西洋哲学史は進んでいく。竹田青嗣的な西洋哲学史は、そういった観点でつむがれる。
私個人が哲学に興味を持つきっかけとなった本の一つは「まんが 老荘の思想」です。
1m立方の木の立方体があったとして、それに腰かけるとイスに成り、それの上で文字を書くと机に成り、敵にぶつけると武器に成り、海に浮かべると船に成り、燃やすと燃料となる。その木の立方体は、客観的事実として何であるのか?イスなのか机なのか武器なのか船なのか燃料なのか?唯一の正しい客観的事実は存在せず、私がその木材に、どういう欲望で接するかによって、木材の意味は変わってくる。
という話が漫画内の老子の話として出てきた。ハイデガーの用具連関と同じことを老子は書いていた。ハイデガーは自分の書斎に老子の書を飾っていたというから、老子を読んだ上で「存在と時間」を書いたのだろう。
ビートたけしの「TVタックル」に、お馬鹿な若い女性タレント役として小倉優子が出ていて、フィールズ賞を取った数学の大発見や、遺跡の発掘によってくつがえった古代史の定説や、物理学者が発見した未知の元素が、紹介されたときに、小倉優子が
「それって、何の役に立つのですか?」と言います。
「それによって、新商品が発明されて、こんなに便利に成りましたという話なら嬉しいのですけどね」と言います。
その発言に対して周囲からブーイングが浴びせられ「話が理解できないなら黙ってろ」と言われたりするのですが、これは用具連関の話な訳です。
自然科学の大発見がそれ自体では大衆に理解されず、実用化され、人々の欲望を満たす商品として生活に入り込んで初めて、理解されます。何の役に立つのか分からない世紀の大発見を、商品化して世に送り出すのは人文科学系の文系職の仕事なのです。