Ten Years "with" Kunitachi

新年あけましておめでとうございます。

4月になって、桜も咲く頃になっていまさら2012年ブログ一発目です。
前回のブログが12月末だったし内容が2011年を忘却するのはいかがなものか、みたいなものだったから、久しぶりに会った友人には「まさかオマエの2011年はまだ終わっていないのでは・・・。」などと心配されたりもしましたが、いたって私は元気です。
1月・2月・3月と、たくさんの刺激的なヒト・コト・モノとの出会いがあり、色々なことを学ぶ機会に恵まれています。とても楽しく、充実しています。
そして、まだWaiting List待ちのところもあるので行き先が確定ではないながらも、ひとまず夏から留学に行けることが決まりました。まだスタートラインに立っただけ(かどうかも怪しい)の段階だけれど、ひとまず結果が出せたのは、ご指導くださる先生方、いつも刺激をくれる院の仲間たち、応援してくれる友人たち、見守ってくれる家族のおかげです。ありがとうございます。



1)国立と桜と私
今年も国立の桜が咲き始めました。今週の土日あたりで満開になるのでしょうか。
個人的には今年の国立の桜はひとしお感慨深いのですが、それは2002年に初めて国立に住み始めて、ちょうど今年で十年になるからです。


2000年夏休みの8月、高校二年生のときに初めて国立に大学のキャンパスを見に来て、僕はこの町に一目惚れしました。群馬県の田舎町から出てきた高校生にとって、国立の瀟酒で落ち着きのある、洗練された雰囲気はとても魅力的に見え、ここで四年間を過ごす事が出来たら、きっとこの町のように穏やかなオトナになれるだろう、そんな風に感じました。その日以来、この大学が自分の第一志望になりました。
受験では、数学で痛恨のミスをしでかしてしまい、絶対に落ちたと思っていたので、合格者番号の通知書のなかに自分の受験番号(今でも覚えているけれど10405でした)を見つけたときは、あまりにうれしくて腰を抜かしました。本当に、しばらく立ち上がれなかったくらいです。
晴れて2002年4月に入学して、当時は禁止されていなかった大学通りの桜並木の下のお花見(サークル新歓コンパ)に顔を出し、なぜか入る気もない競技ダンス部のキレイなおねいさんたちに促されるまま飲み、吐いたのも今となってはいい思い出です。
就職していた2006年の一年間を除けば、上京してきた2002年から現在の2012年に至るまで、この十年間は国立とともにあった十年間でした。ここで、たくさんの素晴らしい人たちと出会い、泣いたり怒ったり笑ったり、色々な事を話しました。

といっても、国立の美しい面を称えるばかりではいけないのかもしれません。「国立」という地名は、両隣にある「国分寺」と「立川」のそれぞれの頭文字を取って出来ています。しばしば言われる事だけれど、いわゆる「文教都市」国立は、ギャンブルや風俗店などといった「文教」的価値観にふさわしくないものをすべて両隣に排除する形で成立しているともいえる、とても人工的な町です。そこで自分が「学問」をするということの意義は、自明だとみなされるべきではなく、一度広い文脈の内に位置づけられて然るべきだろうと思います—―例えば、自律言語芸術を唱え、その美的完成度を称えられるモダニズム文学が、特にそれが描かれた同時代においては、高等教育を受けて文化資本を蓄積することができた社会層以外にはアクセスしがたいものであったこととも似て。


それでも、18才から28才になるまでの10年間をこの町で過ごしてきたから、国立はその良いところも悪いところも含めて、自分のかけがえのない構成要素の一つになっています。


その国立を、今年8月にいよいよ離れます。
ちょうど10年間。
自分なりに真剣に生きました。あとで振り返った時にも、きっと後悔はないだろうと思います。


今日はよく晴れた空の下で三分咲きの桜を見ていたら、新しい出発が何かに祝われているような暖かい気持ちになれました。

また一年生として再出発です。何だってフルパワーでやってやろうじゃないか、そう思います。



2)3つの箇条書き
3月の3週目に、衝撃や刺激や感銘を受ける事がいくつかまとめて起こった(内容的にこれは敬体ではしっくりこないので、常体で書く)。

一度このブログに途中まで書きかけたものの、書くことはできないしまた書こうとするべきでもないと悟り、思いとどまった。
しかし、時間がどんどんそれらを「過去」にしてしまい、一月も経たないのにそれらが意識から遠のきかけているのを感じ、それではいけないようにも思う。なので、自分に向けて三つだけ箇条書きを残し、折に触れて想起できるようにしておきたいと思った。

・「 」
・「誰に向けて語るのか」
・「コンセントの向こう側」



3)春ソング
そんなわけで春ですので、祝福と希望に満ちた三曲をば。

I hope tomorrow you'll find better things!

At the "end" of 2011

早いもので、12月ももう末、そして2011年もあと2日となりました。
出願手続き、授業の発表、急遽飛び込んできた学会発表の準備、そして年末の飲み会ラッシュと、今年の12月は今までの28年間の中ではもっとも高速で過ぎていった一ヶ月でした。

近況報告としては、13校に出願を済ませました。あと1月に6校出して、全部で19校に出願しようと計画しています。
また、ありがたいことに発表の機会をいくつか新たにいただくことができ、来年は1月、3月、5月に三度の発表をさせていただく予定です。せっかくの機会なので、学べるだけ多くのことを学べるよう、しっかり準備を進めたいと思います。
奨学金の申請は、R財団以外に申請した3つの奨学金には片っ端から落ちました。さらに、9月に出した投稿論文も、査読が通りませんでした。まあ端的に言って、いろいろ失敗しています。
でも、どうせ落ちる(fail)ならやらなければよかったなんて思うところは一つもなくて、tryした一つ一つが自分を育ててくれていると感じます。今日の自分が今までで一番マシだと思うし、グチを並べたい気持ちは少しもありません。研究においてはあらゆる業績は常に未完成であらざるを得ず、ある意味では失敗でしかありえないのかもしれませんが、次は少しでもうまく失敗できるようにと(fail better)、とどまることなく、できることを励みたいと思います。
はい、単にベケットの"Try again, fail again, fail better"がやりたかっただけですが何か。



1)「忘年」会について
ある先輩が、年末の飲み会について「忘年会」という呼び名をあてることを好ましく思わないという−−とりわけ2011年に対しては。特に、東北出身で、自身の研究も東北と関わりの深い彼女にとっては、2011年は簡単に忘却できるような年ではないのだ。
自分はさほど深く考えることもなく年末の飲み会の呼称として忘年会という用語を使ってしまっていたけれど、考えてみれば確かに楽観的に過ぎるし、脳天気とも言える響きに思われた。


wikiで忘年会という言葉を調べてみた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%98%E5%B9%B4%E4%BC%9A

年度末に飲み会を行うという慣習は東アジア圏にある程度共有されており、韓国では送年会、中国では年夜飯、台湾では尾牙に翻訳されうる言葉をあてるのだそうだ。翻訳前のもとの言葉が自分には読めないのでそれぞれのニュアンスはよく分からないけれど、日本語の漢字で読む限りは、いずれも忘却というのとは、表しているものが違う気がする。
また、「忘年会」のルーツは不明瞭だが、「近代の忘年会がお祭りムードに変化したのは明治時代からで、無礼講などのキャッチフレーズで広まった」という(この部分、ソースがR25だから信憑性はやや心もとないけれど)。
仮に、賑やかな宴で年を忘却しようという行事が明治時代に端を発するのだとしたら、当時まさに編集されつつあったNation(国民/国家)は、なぜ他でもない「忘却」の会を必要としたのだろうかとふと思った。


この一年間には、多くの出来事があった。パッと思いつく一例だけでも、アラブの春。震災と原発事故。ノルウェー連続テロ。ロンドン暴動。Occupy Wall Streetビン・ラディンカダフィ、北の将軍ら、政治指導者の死も少なくなかった。日本だけでなく、相当に大きく世界が揺れたし、今なお揺れている。

自分には何らまとまったビジョンがあるわけではないけれど、姿勢の問題として大切なのはもちろん過去を忘れることではなくて、引き継ぐこと・引き受けることだと考える。自分が生きている今日が、過去と連続していて、間違いなく歴史の上に存在する一日なのだと思うことはきっと大切だとも。

今おなかが減って麺類が食べたくなったのだけれど、「忘年」するよりは、そばを食べて年を「越す」、あるいは「乗り越えるovercome」ほうがいくらかいい表現な気がした。だから自分がとんでもない時間にズルズルカップ麺を食べることは政治的に正しいのである。そーだそーに決まった。



2)Sense of Humor 
今年はM-1がなくてやや寂しいから、ユーモラスな動画を挙げます。去年はスリムクラブおもしろかったなあ・・・。

peeping life
ビレバンが去年・一昨年くらいにやたら押してました。

・フーさん1

・フーさん2

自分はYouってとても好きなんですけど、このフーさん2(特にラストの回答)を見ると惚れ直しますね。頭いいなあって。
「面白い」って、世間的に女の人にはあんまりホメ言葉にならないのかもしれませんが、自分は面白さは頭の良さと連続していると思うし、面白い人は男女ともにステキだと思います。



2011年に書くブログはこれで最後になると思います。今年も、たくさんの人たちの優しさに恵まれ、育てていただきました。少しは自分も何かを返していきたいと思います。

2011年を引き継いで、良い2012年を皆様と作っていけることを願います。

師走と私

早いもので、2011年も師走です。
推薦状ご執筆のお願いにより、師走の文字通りに、ただでさえご多忙の先生たちにweb上を走っていただいてしまっております。ああ電脳の21世紀。

11月がやたら暖かかったものだから、国立の大学通りでは銀杏並木にまだ黄色い葉がフサフサと茂っています。しかし、それにもかかわらず大学通りは12月のイルミーションモードへと突入し、葉がまだ茂っている銀杏の木に電飾の衣装が無理やり上からかぶせられている様は、さながら元気のありあまった小学生が中学の制服を着せられているようでもあり、はたまたカイオウが自らの全身から噴き出す魔闘気を黒い鎧で封じ込めているかのようでもありました。ああ北斗の拳




1)Modern Art, American
相当遅まきながら、「モダン・アート、アメリカン展」@国立新美術館に行ってきた。
もう来週で終わりっていうギリギリ感。
http://american2011.jp/index.html

美術史専門の友人には「わりと地味で、さらっと見終わっちゃう展示会だよ」と言われていたし、そんなもんかなあと思って見に行ったのだけれど、門外漢の自分にとってはとても刺激的だったし、面白かった。美術館とか慣れないので足腰すごく疲れたけど。

1921年に一般公開を開始したフィリップス・コレクションから110点を展示。時代的には19世紀中葉から世紀転換期を経て戦後までの時期を、絵のテーマとしては田園から都市を経て抽象表現主義へと至るまでの歴史を辿る。


予備知識としては、去年授業で抽象表現主義アートに関する本を一冊読んだことがあるくらいだったのだけれど、とても素敵な本だと思うのでまずはご紹介。

How New York Stole the Idea of Modern Art

How New York Stole the Idea of Modern Art

『ニューヨークはいかにしてモダン・アートという概念を盗んだのか:抽象表現主義、自由、そして冷戦』というイカしたタイトルが、本書の内容を的確に表している。
第二次大戦まで、ヨーロッパの知識人・美術関係者の間には、近代芸術といえばまずは西ヨーロッパのことだし、芸術の中心といえばパリのルーブルでしょ、的な考えがゆるやかな共通認識としてあった。同時に、アメリカなんて田舎だし、アメリカのアートは田舎者がヨーロッパの模倣をしているにすぎないだろう、というような認識が評者の間の多数派の意見だった。

が、大戦後、パクス・アメリカーナの時代がやってくると、政治・経済的な覇権だけでなく、文化的な覇権までもがパリからMoMAニューヨーク近代美術館)に移ってくる。そして、そのときに「新しい」時代のアメリカ芸術・文化を象徴する旗手として人気を博したのが、抽象表現主義(Abstract Expressionism)だった。
著者ギルボーは、抽象表現主義という潮流が他でもないこの時期に、「新しい時代」、「新しいアメリカ」の象徴として世界的に受け入れられたというその理由を、同時代の歴史的文脈に位置付けて考察している。そこには単に「いい絵だからウけました」という以上の政治性が機能していたはずだ、と。

This book is a social study of abstract expressionism which attempts to grasp the reasons American avant-garde art took the abstract form that it did as well as the reasons that form proved so successful. The answers to these questions are complex, yet I believe that they stand out clearly once the works and the writings of the painters involved are set against the historical and economic background. Restoring the context of the movement in this way will, I trust, expose the emptiness of the traditional claim that postwar abstract expressionist art achieved dominance solely because of its formal superiority (2).
[拙訳]
本書は、抽象表現主義を社会との結び付きから考えようとする研究書です。アメリカの前衛アートがああした形で抽象的な形式をとった理由を、そして、その形式があれほどの成功を収めた理由を理解しようと試みます。これらの問いに対する答えは複雑ですが、しかし私は、関係のある画家たちの諸作品や著作を歴史的・経済的背景に位置付ければ、答えはたちどころに明らかになると信じています。抽象表現主義という運動が存していた文脈をこのように修復すれば、従来の主張――つまり、大戦後の抽象表現主義芸術が支配的になったのは、単にその形式が優れていたからだという主張――の中身のなさが明らかになると、私は信じます。


その「答え」は本書を読んでのお楽しみだけれども、キーワードは、30年代を通じて、特に39年以降にニューヨーク左翼系知識人が脱政治化していくプロセスと、戦時中のナショナリズムの高まり、そして中産階級を中心に「右でも左でもない」というレトリックが戦後に帯びていく重要性、といった感じになると思う。

著者本人も認めている通り、美術史研究の文脈の中では、(少なくとも本書が出た1983年の段階では)こういう歴史主義的な研究はあまり人気がなかったのかもしれないけれど、自分はとても素晴らしい業績だと思う。美術史だけでなく、文学史の研究者が本書をしばしば引用するのも納得できる。文学史の方でも、同時代にはよく似た批評枠が実際に形成されていったのだし。文学やアートが、意図しようとせざると、いかなる形で同時代のイデオロギーと共犯関係を結んでしまうのかを活写してくれている。



実際に展示を見て回って思ったのは、アメリカの画家(あるいは批評する側)にとって、ヨーロッパをにらみつつそれとの関わりで「自国をどう定義づけられるか」、という問いが19世紀から戦後に至るまでずっと大きなテーマの一つだったんだろうな、ということだった(もちろん、そのときに国内の奴隷制ネイティブアメリカンの追放みたいな黒歴史や、世紀転換期の帝国主義的拡大の暴力性は全然出てこないわけだけど)。自国を象徴させるモチーフが、田園から都市へ、そして抽象へと変遷していく様に、その苦心ぶりを感じる。もちろん、展示ではすでに特定のストーリーに沿って作品が取捨選択され、順に並べられているから、自分はまんまとその通り見てほしいものを見たというだけなのかもしれないけれども。


自分の研究に近いところでいうと、30年代、WPA(雇用促進局)の下にFAP(連邦美術計画)が作られて、不況下の美術の振興に注力したという文脈を確認できたのがよかった。ちなみに、文学の方ではFWP(連邦作家計画)というのができていて、食えなくなった作家たちを雇ってアメリカ各地のフォークロア収集や、地誌編纂事業の仕事を割り当てたりしている。また、同時代には、他にもFSA(農業安定局)が、写真家を雇って農村の人たちの暮らしぶりを膨大な量の写真記録に収めたりもする。
実際に今回の展示の中で、30年代ごろのセクションでは記憶の復元や地域主義の芽生えというテーマが出てきていたのだけれど、アートの中でこういう潮流が起きてきたことは、上述のような政策が地域主義的な細部の発見に注力したことと無関係ではないだろう。せっかく今回の展示のカタログを買ったので、FAPについて書かれたイントロ部分を良く読んでみよう。


ちなみに、好きになってポストカードを買っちゃったのは、世紀転換期〜20年代くらいにかけての、都市を描いた作品群だった。特に、Louis Michel Eilshemiusという人の "New York Roof Tops"(1908)という絵を見て、『シスター・キャリー』(1900)が描く世紀転換期のニューヨークやシカゴってこんな風に感じられたのかなって、なんかしんみりした。

http://www.phillipscollection.org/research/american_art/artwork/Eilshemius-NewYork_Roof_Tops.htm




(2) Everytime We Say Goodbye
去年の一橋祭や、今年9月のライブで一緒にバンドをやったボーカルの子が、今月末から仕事のために東京を離れてしまうそうだ。
自分と同い年で、同じ2002年に大学に入学した同期なこともあり、なんとなくさびしさもひとしおだ。昨年司法試験に受かって弁護士になった彼女は、その社会的生産性も経済的安定性も、ニート予備軍の自分とは比較にならないわけだけれど(笑)、専門の法律知識の範囲を越えて好奇心が旺盛で、社会への問題意識が高い姿勢がいつも素敵だと思っている。
こういう本があることも、この間教えてもらったところだ。

精神分裂病者の責任能力―精神科医と法曹との対話

精神分裂病者の責任能力―精神科医と法曹との対話

周囲にいる、ロースクールあがりの受験戦士的弁護士の中では、そもそも本書のタイトルみたいなトピックに関心をもつことすら極めて稀なのだそうだ。でも、ボーカルの子は「裁判に関わる人間ならむしろ知らなきゃいけないくらいの大切なことだと思う」と力説し、その話しぶりに励まされる思いがする。

新天地でも、いい仕事をやってほしいと思う。

というわけで、彼女はジャズ研だったなと考えつつジャズ・バラードをば。


全然関係ないけどおまけ:
昔heyheyheyにX Japanが出演した時の動画です。友だちのブログに挙がってて、おもしろかったのでこっちにも。
Yoshikiおもろいなあ。

よい12月をば!

どうでもよくないことを

結構久しぶりにブログを書きます。
半ば、目の前に山積した課題からの逃避として。
Escape from Tasks (課題からの逃走)。



(1)On _The Things They Carried_
今月の主ゼミでTim O'Brien _The Things They Carried_ (1990)を読んでいる。

The Things They Carried

The Things They Carried

日本語訳は村上春樹
本当の戦争の話をしよう (文春文庫)

本当の戦争の話をしよう (文春文庫)

学部3年生位のときに、江國香織のエッセイを読んでいたら「『本当の戦争の話をしよう』を読んで、しばらく小説が書けなくなった」みたいなことが書いてあって、ほうほうなんか凄そう、と思い初めて読んだのだった。
泣かない子供 (角川文庫)

泣かない子供 (角川文庫)

ベトナム戦争を、作者と同名のティム・オブライエンという人物の一人称視点から描く。本書の特徴の一つは、戦争を扱う小説だといっても、開戦の経緯やその位置づけ(価値判断)、特定の作戦行動や軍の司令体系といったマクロな視点はほとんど描かれないこと。代わりに、本書は「ベトナム戦争を語る」ということがどういうことなのか、またどのようになされうるのか/えないのかというテーマを、メタファーの力を活かしつつ、登場人物たちの「身体的感覚」の描写を通じて探求している。例えばセクションの一つ"Style"は、米軍に家族ごと焼かれてしまった集落で踊るベトナムの少女の姿を描く、2ページだけのごく短い短編なのだけれど、ベトナムの把握し難さと寂寥感を雄弁に伝える。
初めて読んだ20歳くらいの当時は、ポストモダンだの構造主義だの脱構築だのといった現代思想用語なんて全然知らずに読んだのだけれど、なんか良く分からないすごいことが目の前で起きていると感じ、ゾクゾクしながら読み進めたのを覚えている。アメリカ小説って面白いんだな、すごいな、と教えてくれたのはこの小説だった。


それから7〜8年の時間が経ち、昔よりはいくばくか他の小説を読み、多少なりとも批評理論をかじったりしてからもう一度この小説を読み返すと、やはり印象は随分違う。
もちろん、原著で読んでいるからというのもあると思う。特に、本書の村上春樹訳はかなり彼オリジナルの小説のように訳されている部分があるから。(たとえば"well"(175)を「やれやれ」(300)と訳すのは彼ならではでしょう 笑。とはいえ、個人的には全体として名訳だと感じている。)
小説の構造や成り立ち、そしてそれらを成立させている思想や社会状況といった事柄が一部にせよ自分なりに言語化できるようになってみると、昔ハラハラした部分が実は無味乾燥な記述であることや、同時にその無味乾燥さに意味があることが見えたりと、対象から距離を取り、相対的に多くを理解し説明できるようになる。例えば、最初のセクション"The Things They Carried"において仔細に記述される兵士たちの荷物について、昔読んだときはドキュメンタリー的な、緻密な、あるいは「リアリスティックな」描写として意味があるのだと思っていたのだが、今読むと、その執拗なまでの記述が記号の羅列になってしまっており、差異の戯れとして並べられている点が小説の主題や構造とパラレルであると理解できる。
だがしかし、20歳のころ感じたこの小説に対する自分の敬意は今でも少しも薄らぐことはなく、むしろ改めてその迫真性に胸を打たれる。


文庫版の訳者あとがきの中で、村上は「この本における戦争とは、あるいはこれはいささか極端な言い方かもしれないけど、ひとつの比喩的な装置である」(392)とし、オブライエンが究極的に描こうとしているのはベトナム戦争自体ではなく、誰もが自分の中に抱えている自分なりの戦争なのではないか、との解釈を記している。同じ作家同士で理解し合える部分もあるのかもしれないし、この解釈が的を射ている部分もあるかもしれない。
しかし、個人的にはやや異なった意見をもっている。つまり、オブライエンの卓抜は、やはりベトナム戦争とその表象(不)可能性について真摯に考え抜いた点にこそあるのだと思うのだ。「語る私」について語るこの小説は、確かに物語行為一般という概念と親和的かもしれないが、それはあくまでも、ベトナムという、自らの実存と切り離せないモチーフとの格闘の結果としてこの形をとっている。社会リアリズムでは表象できない対象を、意味の決定不能性を、それでもどうにか表象できないかという葛藤からこの小説の語りの形式が生まれているように思うのだ。敷衍するならば、自分にとってどうでも良くない特定の対象をどこまでも考え抜き、それがこういう形をとってしか表せなかったと感じさせるというその代替不能性、単独性のようなものが今でも自分の目頭を熱くさせるのだと思う。

ただのファンの読書感想文ですね。
でも本当にオススメしたい小説なので、普段本をあまり読まない方にも、ぜひ読んでいただきたいです。



(2) On Realism and Literary Labor
そろそろ今年も出願の時期がやってきた。
この間某奨学金の面接でフルボッコにされた部分を見直して研究計画書を改善しようという意図から、リアリズム小説について少し再考してみようと考えた。
リアリズムについての論考はたくさんあるけれど、世紀転換期に集中的に執筆されたアメリカの社会リアリズムについての考察としては、自分の乏しい知識の限りでは、これがやはり優れた研究書の一つなのではないかと思われる。

The Social Construction of American Realism (Studies in Law and Economics (Paperback))

The Social Construction of American Realism (Studies in Law and Economics (Paperback))

現在はPennsylvania Uにいる、Amy Kaplan女史の第一作。博論がそのまま本になったというゴールデンコース。
大まかな枠としては、1)アメリカにおける既存のリアリズム評、つまり「政治性のない文学、たとえばモラル・リアリティを描くロマンス小説やモダニズムのような小説こそがアメリカ的であり、他方、社会リアリティを書こうとするリアリズム文学はヨーロッパ文学の劣化コピーにすぎない、というか階級なきアメリカ社会ではそもそも不可能ッス」、といったような文学批評の価値基準は、冷戦状況に対応して作り出された政治的尺度である。2)社会リアリズム小説を、単なる固定化した社会状況を受動的に映し出す文学だとして格下げするのは生産的ではない。3)1880〜90年代に生み出されたアメリカのリアリズム文学は、同時代の爆発的な産業化の進展の中で、無力感や非現実観に苛まれるようになった人々が、現実をどうにかして制御し、組み立て直し、無力感を和らげようとするユートピア的衝動を内包している、といったところ。
具体的な構成としては、William Dean Howells、Edith Wharton、Theodore Dreiserの三人の作家について二章ずつを割く、計六章構成。各作家について、先行する章では各々がもっていた「リアリズム観」そして「作家という職業観」を、各人の生きた特定の社会状況に位置づけて描写し、それらの価値観変容の様を個々人の問題としてだけでなく、生産様式のパラダイム・シフトの現れとして読ませる。そして、この議論を参照枠として、続く章では、各作家の代表作についての具体的テクスト読解を行う。

自分が読んだのはイントロと、ドライサーを扱う5・6章だけなのだけれど、特に5章は実に読ませる、魅力的な論考だと思う。
ヘミングウェイが最も有名な例だけれど、アメリカの作家にはジャーナリストの経験を経てから作家になる人が少なくない。ドライサーもその一人だ。しかし、一口にジャーナリストといっても、それは賃金を得なければならない労働者であり、当然時代ごとに異なった社会的ステータスを持つ。ジャーナリストあがりの作家たちにとって、彼らがその「見習い期間」から何を学ぶかは、各人の生きた社会状況によって異なるのだ。


以下、5章を自分なりに要約。
ハウエルズやウォートンらの先立つ世代においては、ジャーナリズムは、執筆プロセス全体をコントロールできる職人的仕事だとみなされていた。だがしかし、産業化が進展し、分業が著しく進んだドライサーの時代には、ジャーナリズムはすでに非熟練労働になっていた。NYでドライサーがやっとの思いで就けた仕事は、「脚夫legman」とでもいうべきものであり、彼の仕事は歩き回って事実を収集することであり、その事実を記事に仕立て上げるのは別の人間だった。また、彼が得る賃金は、彼が生み出したものに対してではなく、彼がかけた時間に対する対価だった。すなわち、セレブへ至りうる花形職業としての記者は、ドライサーの時代にはプロレタリア化した非熟練労働職に変容していたのだった。


そしてだからこそ、ドライサーと彼の先達の間には、「書くこと」の認識に関して大きな断絶があった。

Where both Howells and Wharton valued writing as productive work, as opposed to the idleness of the aristocracy and the consumption of the masses, Dreiser made an effort throughout his career to distinguish writing from labor. What he valued in newspaper work was the leisure it afforded him to frequent hotel lobbies and gossip with important people; or the status of the feature writer, at the top of the reporters’ pyramid, that gave him the opportunity to write “the idle stuff” he associated with “creative writing.” This need to dissociate writing from work stemmed both from his own class background and the changing conditions in the production of writing. Tramping the streets in search of news was not that different for Dreiser from collecting installment payments (116).
[拙訳]
ハウエルズとウォートンは、特権階級の怠惰さや大衆の消費に対置する形で、「書くこと」を生産的な労働だとして高く評価した。他方で、ドライサーはそのキャリアを通じて、「書くこと」をなんとか肉体労働から区別しようとした。彼が新聞記者の仕事に関して評価したのは、それが彼に浮いた時間を与えてくれることだった。彼はその時間を使ってホテルのロビーに足繁く通い、著名人たちと世間話をした。あるいは彼が評価したのは、記者のピラミッドの頂点たる、特集記事の書き手の地位だった。この地位は、「無為なこと」について書く機会を与えてくれ、彼はそれを「創造的な著述」と結びつけて理解した。「書くこと」を労働から切り離さなければならないというこの必要性は、彼自身の階級的出自に、そして、「書き物」の生産条件の変化に端を発していた。ドライサーにとって、ニュースを求めて町を歩き回ることと、ローンの取り立てをして歩き回ることにはさほど違いはなかった。


ドライサーの第一作『シスター・キャリー』(1900、僕がM2の修論で扱った小説)は商業的に失敗し、当時としてはスキャンダラスだという理由で発禁処分になった。その後、ドライサーは数年間ノイローゼ状態になる。しかしその商業的失敗の原因は、彼がジャーナリスト時代に学んだはずのマーケティングという教訓を、自身の作家としてのキャリアに適用させなかったことに原因があった。すなわち、『シスター・キャリー』を出版社の意に反して無理にでも売らせた結果、彼は宣伝をうまく打つことに失敗していたのだ。
1907年に別の出版社から同小説の再版が行われた時には、ドライサーはすでに学んでいた。彼は原稿自体にはほとんど手を加えなかったが、代わりに、出版社と緊密に提携し、派手に宣伝を打ち出した。広告の中には長大なパンフレットがあり、その中には初版へのレビューと、その「圧殺」の物語が含まれていた。著述業に関するドライサーの考え方の中心に自己宣伝があったと考えたとしても、だからといってリアリストとしての彼の地位が損なわれるわけではないし、あるいは、現実について真実を語るという彼の主張が市場に検閲されてしまったということにもならない。もしもリアリズムが、ドライサーが論じるように「諸慣習に抵抗する」ものであるとするならば、この図式自体が、ドライサーが自己を売り込むために採用した市場の慣習のうちにすでに巻き込まれていたのだ。
カプランは、そうドライサーの物語を編んでいる。


自分の研究は作家研究ではないし、「作者の死」以降テクストを作者に還元することはひとまずできないことになっているわけだけれど、作者を一つの参照点とすることで、同時代の言説空間や社会状況を具体的かつイメージ豊かに描出できるのはいいなと思う。同じことをやろうと思ったら相当の作業をしなければいけないのだけれど、容易には覆らないような、骨太で実直な研究成果なのではないかと感じ、なんか自分もがんばろうと思わされた。
なんか結論がズレている気がするけど。



(3) Let's play the guitar with DADGAD tuning!
去年くらいからずっと興味を持ちつつも、ゼロから始めるのが大変そうなんで敬遠していたDADGAD(ダドガッド)チューニングに、最近また魅力を感じています。
アイルランド民謡なんかでよく使うチューニングらしいんですが、普通のチューニングは六弦から一弦に向けてEADGBEでチューニングするところを、DADGADに並べます。開放弦でジャラーンと鳴らしただけでD sus4のコードになり、三度が抜けたなんとも神妙な響きになります。
コードの押さえ方もずいぶん変わるし、全く違う楽器をはじめたつもりでやらないとダメだろうと思うのですが、少しずつでも練習していこうかと思っています。

例えばこんな響きになります。
・Todd Baker, Every Walking Thought


・Irish

チュートリアル



最近、研究面でいい刺激をもらうことが多いと感じます。
クサリそうなとき、つまんないことにイライラ・クヨクヨしたりするときには、自分よりもっとがんばっている人の背中を見ればいいのだと思いました。
だから、自分もがんばって、また他の誰かにとってそうなれるように、とも。
はい、課題から逃走してる場合じゃない 笑。

猛暑の11月初めに、実家にて

諸事情あって、月曜から群馬の実家に帰ってきております。
実家では家族が任天堂Wii Fitにハマっています。「ちぇっ、そんな子どもみたいな・・・」とか言いつつもやり出したら僕も夢中になってしまったとか、身体年齢が37歳と診断されて心が折れそうになったとか、そういった事実は欠片も存在しませんのでご安心ください。
だってお酒が入ってたからさ・・・。


(1)ルカーチのお話
来週のサブゼミでルカーチの"The Ideology of Modernism"を担当することになったので、地元の図書館の学習室にて読む(基本的に家じゃ勉強できないタイプ)。

The Lukacs Reader (Wiley Blackwell Readers)

The Lukacs Reader (Wiley Blackwell Readers)

論文の該当ページ:187-209。初出は1964年の著作_Realism in Our Time_。

ジェルジ・ルカーチ(Georg Lukács、1885-1971)。ハンガリー出身の哲学者、マルクス主義批評家。1919−1920のクン・ベーラ政権では、文部大臣と国防大臣を務める。


ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』とトーマス・マンの『ワイマールのロッテ』の比較から本論を始めるルカーチは、前者が代表するモダニズム文学の世界観が、「特定の社会的悲運ではあっても普遍的な人間の条件ではない」(190)はずの近代人の孤立状況を固定化して捉えている点を批判し、そしてモダニズムの美学を、「個の主観と客観的リアリティの間の弁証法」(192)を決定的に欠いており、「無の超越」(209)を許してしまう美学であるとして否定する。

Attenuation of reality and dissolution of personality are thus interdependent: the stronger the one, the stronger the other. Underlying both is the lack of a consistent view of human nature. Man is reduced to a sequence of unrelated experiential fragments; he is as inexplicable to others as to himself.
[拙訳]
現実性の希釈と人格の崩壊とは、このように相互依存している。片一方が強まるほど、他方も強まっていくのである。両者の根底にあるのは、人間の性質についての首尾一貫した眺望の欠如である。人は互いにかかわりをもたない、一連の経験の断片へと還元されてしまう。彼は、他人にとってと同様、自身にとっても説明不可能なのだ(194)。

ルカーチの見解においては、人間は「社会的動物」(189)であり、その生は抽象的な潜在性(abstract potentiality,190)と具体的な潜在性(concrete potentiality,190)に根付いており、そして主体は選択と決定によって環境に働きかけ、同時に自らを発展させていく存在である。抽象的潜在性と具体的潜在性の区別を消去し(つまりすべてを主観だとみなし)、そして主体性を称揚しつつ同時に自身のおかれている環境の客観的リアリティを犠牲にしてしまうモダニズム文学は、「芸術の豊穣ではなく、否認を意味する」(209)とルカーチは結論づけている。



大ざっぱな感想としては、ルカーチの代名詞ともなっている物象化(reification)概念や、その発想のもとになったとされるウェーバーの合理化(rationalization)概念は実は本論文では一度も言及されず、やや拍子抜け感があり、理論的な追究がここではあまり十分にされていないという印象がある。ゴリゴリした第一線の研究論文というよりも、想定読者を広めに取り、わかりやすく書いた論文なのではないかという気がする。もう少しルカーチの批評観・歴史観に深く迫るには、やっぱり『歴史と階級意識』(1923)を読むべきだろう。


もう少し具体的な感想。ルカーチアルチュセールの間にはかつて論争があったとどこかで読んだのだが、アルチュセールの批判の矛先がどこだったのかはおおよそ当たりがつく。
すなわち、ルカーチの論には、無意識の概念がごっそり抜けているのだ。この論文の中でもフロイトへの言及はあるのだけれど、彼のフロイト理解は「内向き志向」=「モダニズム的引きこもり」というやや一面的な図式に終始していて、後にアルチュセールからジェイムソンへと引き継がれていく無意識概念を組み込んでの批評が出てこない。
ジェイムソンは『政治的無意識』や続く「モダニズム帝国主義」の中でルカーチの議論を発展させ、モダニズム文学が実はそれに対応する社会状況である帝国主義を適切に表象し得ている――内容(content)ではなく形式(form)のレベルにおいて――可能性を指摘したが、ジェイムソンの読みは「不在の原因(absent cause)」としての歴史をテクストの「無意識として」看破するという試みだった。(とはいえ、もちろんジェイムソンはルカーチに格別の敬意を払っている。)

なお、ルカーチやジェイムソンを含めて、モダニズム研究の系譜のマッピングをしてくれている論文としては↓に入っているJohn T. Matthewsの論文が秀逸だと思います。
Matthews, John T. “What was High about Modernism? The American Novel and Modernity.” _A Companion to the Modern American Novel 1950-1950_, Matthews ed. West Sussex: Wiley-Blackwell, 2009, 282-305.

A Companion to the Modern American Novel, 1900 - 1950 (Blackwell Companions to Literature and Culture)

A Companion to the Modern American Novel, 1900 - 1950 (Blackwell Companions to Literature and Culture)

また、モダニズム研究の中でも特に、90年代末から盛んになっている"New Modernist Studies"ないし"Revisionist Modernist studies"のマッピングだったら、コレがいいと思います。(あんまりアメリカ専門ではないけど。)ちなみに、人文系に弱いウチの大学の図書館にもこの雑誌は入ってます。
Mao, Douglas and Rebecca L. Walkowitz. “The New Modernist Studies.” PMLA 123.3 (May 2008), 737-748.
http://www.mla.org/pmla



加えて、ルカーチに対してアルチュセールが批判したのではないかと推測されるのは、文学と社会、アートと歴史の関係性についての考察が、比較的シンプルな反映論(reflection)モデルに立っているように思われる点だ。例えばレイモンド・ウィリアムズが後に「マルクス主義と文学」の中で提示したような、媒介(mediation)の枠組みはまだ現れない。おそらくはそのあたりに起因して、形式と内容を区別しつつも、彼の認識は「形式」が持つ政治性まで踏み込むには至っておらず、議論が内容のレベルをめぐるものにとどまっているように思う。


少し批判めいたことを書いたけど、でも、個人的には読んでいて楽しかった。リアリズムのほうがモダニズムよりも大切だと主張するだけあって、自身の文体もすごく明晰で、曖昧なところがほとんどない。(逆にジェイムソンの文体がああなのは、モダニズムが大好きだからなのだろうという気もする。)イントロダクションでは彼は「モラリスト」だと位置づけられているけれど、倫理的な問題意識をはっきりと持った、誠実な人だったのだろうと思う。


個人的に一番収穫だったのは、リアリズムとモダニズムを対比する中で、平均(average)や珍奇さ(eccentricity)という形象の位置づけ方が、両者では異なるという主張がされるところ。ルカーチによれば、リアリズムにおいては平均と珍奇さという両極は、「社会的正常性social nomalityの理解に資する(189)」ものだった。つまり、人物の類型化は、社会の全体性の理解のための手段だった(もちろん、「正常性」という言葉には容易には看過できないニュアンスがあるけれど)。ところが、これがモダニズムになると、「珍奇さは、平均的なるものの必要不可欠な補完物になる」(189)というのだ。すなわち、「社会の諸悪に対する抵抗としての、神経症への逃避」(189)がモダニズムの戦略になるのだという。
うまくいくかは分からないが、結局書ききれなかったMcCullers論文を4月までに仕上げるに当たり、小説内の政治性の混淆ぶりをうまくルカーチとつなげて説明できないかと思った。



(2)GREと私
留学にあたって必要なGREというテストを16日に受けるのだけれど、マジでヤバイ。
(S先輩、600点なんてとても自信がありません。)
単語力がモノをいう試験なのだが、一日100個ずつくらい単語を覚えないと、悲しい結果になりそうだ。
というわけでしばらく単語暗記マシーンになることをここに決意します。
みなさま、サボってそうだったらドロップキックを見舞ってやってください。
たぶん全力でよけますが。



(3)秋ミュージック 第四回
せっかく11月なのに今週は記録的猛暑だそうで、25度の日もあるそうですね。
うれしいような悲しいような。
おもに悲しいですが。
今回は、スコットランドグラスゴーしばりにしてみました。死ぬまでに一回は行ってみたい場所の一つがグラスゴーです。好きなアーティストがいっぱいいるんです。

1 Arab Strap
基本暗くダラダラと詩を朗読するスタイルなので、これはあんまり「らしくない」曲なんですが、取っつきやすくて好きです。


2 Belle and Sebastian
スピッツのマサムネさんも大好き、ベルセバです。


3 Mogwai
この曲昔やりました。ファズを踏んでゴシャーってやるのがとても気持ちいいんです。



いろいろ課題も葛藤もありますが、悔いのないよう一日一日に魂をこめて過ごしたいものです。

2011年OBライブ

こんにちは、先日友人に「おまえはアイスに例えるならパナップなどではなく、ガリガリくん、それもチョコ味あたりだ」との宣告を受けた僕です。
僕「その心は?」
友人「好き嫌いがスゲー分かれる」


・・・ちょっと上手いし、こういうコメントには、よくわかってくれてるじゃねえか的なうれしさってありますよね。
でも彼は絶対普段から仕事中でも大喜利のことばかり考えているにちがいない、と信じて疑いません。



(1)OBライブ
10/22(土)、学部時代に入っていた軽音楽部のOBライブなるイベント(@国立リヴァプール)に参加してきた。
自分はThe Birthdayのコピーをやり(チバさん役じゃなくてイマイさん役)、四曲(「カレンダーガール」→「なぜか今日は」→「涙がこぼれそう」→「愛でぬりつぶせ」)を演奏してきた。メンバーは同期のドラム(ちなみに冒頭の友人)、二個下のギタボ(チバさん役。以前記事を書いたpocopocoっていう楽器を作った人)、そして今年3月に大学を卒業したばかりの5コ下のベース(若い!)。


もともとは8月の終わりに先輩に召喚され、「WANDSThe Birthdayかどっちか出ろ」と要請され、「WANDSよりは・・・(っていうかそもそもなぜその二択なのか)」という気持ちで切った、半ばしぶしぶのスタートだった。
正直なところ、はじめはThe Birthdayにもさほど関心がなく、一人で部屋で耳コピして練習してるときは「なぜオレはこんな残念な時間を・・・」的な嘆きもなくはなかった。
しかし、一度スタジオに入ってしまえば楽しくてたまらないのがバンドの魔法。当日の本番前も含めて全部で三回スタジオに入ったけど、いいメンバーに恵まれたおかげもあって、打ち上げの飲みも含め毎回の練習がとても楽しかった。最後には「愛でぬりつぶせ」や「なぜか今日は」をヘビロテで聞くようになっていた。本番もとても楽しくライブがやれて、出させてもらってよかったと思う。打ち上げは駅前の居酒屋で、久しぶりに「始発までコース」に付き合ってしまう。久しぶりに話す人も多かったけれど、不思議と懐かしい気はしない。「変わんないねえー」と言われるし自分も言うけれど、そもそも「変わった」なんて感じるような場面自体そうないだろう、とも思う。


前回の記事で「論文は会話」と説く本について触れたけど、それと似た形で、バンドも会話だと感じる。周りの音を聞いて、お互いに呼吸をさぐりながら楽器を弾くから楽しいのだと思う。そしてその意味で、今回のドラムスがムチャクチャ会話が上手くなっていたのに驚いた。最後に一緒にバンドをやったのは2006年3月の追いコンライブだからもう5年あまりが経っていて、その間、彼は会社で働きながら週末ドラムスクールに通い、オリジナルのバンドを続けている。5年ぶりにスタジオに一緒に入ってみて、はっきり格上の人になっちゃったなと実感した。表情が豊かで、でも周りに応じてピタッとついてくる、その精度が全然違う。当たり前のことだけど、この5年間、互いにずいぶん違う生き方を選んできたんだなと悟る。


(2)The Birthday「愛でぬりつぶせ」
そんなわけでThe Birthdayのコピーをやったわけだが、特にこの曲が好きになった。はじめはやっつけ仕事的にしか聞いていなかったが、最近はずっと、登下校往復40分強の自転車通学の中で必ず一度は聞いている。


イマイさんのいろいろあやしいギターソロが終わった後の、2:13からの歌詞がとても好きになったのだ。

なぁパンクス 
グチってばっかいねぇで愛で 
愛でぬりつぶせ


そこから先は ヒョウがお出迎え
やぁ来たねって さぁどこへ行こう


未来はどれも 同じじゃなくて
選んだ方に 向かうんだから


なぁパンクス 
グチってばっかいねぇで愛で 
愛でぬりつぶせ


あの娘を お前を
この星を 愛でぬりつぶせ

一緒にやったメンバーともちょっと話したのだけれど、この「パンクス」を広義の意味で取るならば、そこにはパンクキッズや不良少年少女のみなさんだけでなく、多分過去・現在のチバさん自身も含まれるのだろうと思う。ある種J-Rockの王様といってもいいような位置に昇りつめた人がこういうことを書くことに、少し驚く。
そして、「未来はどれも同じじゃなくて〜」の部分のストレートさといったら。恥ずかしながら、ズバッとストライクを取られてしまった。多分、例えばミスチルの桜井さんが同じ歌詞を書いてもあんまり説得力なくて、「本当にありがとうございました」って流して終わってしまっただろうと思うのだが。
the pillowsなんかもそうなんだけど、この世代(ちなみにチバさんは今年43)の日本のバンドはどんどんやることが若くシンプルになっていっている気がする。



(3)秋ミュージック第三回
国立の大学通りも徐々に銀杏並木が色づき始め、秋の深まりを見せております。春も夏も冬も全部好きだけど(これってとても幸せな/オメデタイことですね)、やっぱり秋生まれの僕としては秋が一番好きなのです。

さて、実は2011年の個人的ベストアーティストが決まりました。


島崎智子さんです(←The Birthdayはどうしたって自分で思いました)。といってもつい先週知ったんですが。
もう小学生の群れの中にシャキール・オニールが交じっているくらい、頭一つ(?)抜けた感じで決まりました。
「なんども」

「インターネット」

「ミヴァランス」

他にもいい動画がいっぱいあるので、ぜひ見てください。
天衣無縫だと思います。なんでこんな風になるんだろう。
久しぶりにCDを衝動買いしてしまいました。


実は11/6(日)、国立の富士見台のあたりに来てライブやるらしいんですよ!1500円プラスワンドリンクだからそんなにしないし、特にマーキュリータワーの住人のみなさん、研究の息抜きにぞろぞろと見に行きましょーよ!ぜひ!
http://8-shimasaki-8.com/live.html