2018年上半期ベスト映画

1:ショーン・ベイカーフロリダ・プロジェクト 真夏の魔法
最も誠実に子供と女性と男性を描いた作品。人間の生存に関わる「なぜ?」と「私は私である」を巡る根拠の物語であり、鮮烈なラストの後ろ姿に一抹の夢と希望を託したくなる寓話である。

2:スティーブン・スピルバーグペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書
世界に存在する完璧な映画の1つ。オールドスタイルなハリウッドの映画作法を引き継ぎ、ストーリーテリングとスペクタクルの理想的な鬩ぎ合いを模索し続ける巨匠の結晶体。

3:リュック・ベッソンヴァレリアン 千の惑星の救世主
2018年最も不憫な映画であり、本作への過小評価に不寛容と差別を衒いなく謳歌する世界の一端を感じてしまうのは邪推に過ぎないのだが、あらゆる生命体の共存と平和という究極の理想論を夢想するクリエイターのセンス・オブ・ワンダーは、極上の冒険活劇として結実する。

4:ポール・トーマス・アンダーソンファントム・スレッド
「I love you」に「I love you」で返せない男と、男性支配に対する抵抗の策略を巡らせる女の凡庸な共依存のメロドラマは、暴力的な不協和音の連鎖によって緊張感に絡めとられ、ポール・トーマス・アンダーソンの映画としてファントムのごとく現出する。

5:吉田恵輔犬猿
近しい人の死を望むわけではないが、その死に胸が痛むわけではない。血縁関係に何の理想も羨望も期待も持たない人間にとっては、明白に敵視すべき家族がいることの方が生きやすいのであって、好きでも嫌いでもない空白の狭間で心が蝕まれていくのみである。

6:ジェレミー・ジャスパーパティ・ケイク$
しみったれたリアルを音楽に変えるために、くそったれな現実に飲み込まれてしまう前に、言葉を吐き出すしかない。だらしなくてみっともない言葉の羅列だとしても、偽物の言葉だとしても、他の誰からも無視される言葉だとしても、吐き出された言葉は革命の音楽となる。

7:ルカ・グァダニーノ君の名前で僕を呼んで
「夏」は人を惑わせる。「夏」は空気を変容させる。あの「夏」の出来事をいつまで記憶していられるのだろうか。あの瞬間でしか生まれえなかった音が、映像が、記憶が刻まれ、映画はどこか見果てぬ場所へ動き出すのだが、不意に耳に入る「自分の名前」が、あの「夏」の終わりを告げる。

8:スティーブン・チョボウスキー『ワンダー 君は太陽
人にはそれぞれの物語があり、その人ではないわれわれは、他人が決断した選択という結末しか目にすることがない。その選択の裏にある物語を丁寧に掬い取ることがチョボウスキーの美点であり、人間の善性にそれでも期待することが、あまりにバカげたことばかり起こる世界への抵抗である。

9:ラウル・ペック私はあなたのニグロではない
「ニグロとは、差別をする者が差別を正当化するためのマジカルワードでしかない」と喝破するために、どれだけの道程を踏破しなければならないのか?どれだけの暴力を我慢しなければいけないのか?世界に蔓延る差別をせせら笑い、自分は加担していないと嘯くことでしか知性を堅持できないのであれば、今なお鈍く輝くボールドウィンの言葉の数々に圧倒されることこそが処方箋となりうる。

10:ジョセフ・コジンスキー『オンリー・ザ・ブレイブ
人生には良くできた脚本もアッと驚く伏線回収も準備されていない。だからこそ、あの日あの時あの一瞬が、不意に愛おしく思えてしまうのであり、不可逆性という映画が孕む残酷さをも刻印された彼女らの表情に呆然とするしかない。

フェミニストについて私が知っている二、三の事柄

わかった、わかった、フェミニストという言葉が嫌いなのは。そんなことは承知で書いているのだ。現代におけるフェミニズムは罵倒や脅しの枕詞に近い存在のようにすら感じる。
「あいつはフェミニストだから云々」「あいつはフェミニストのくせに云々」。フェミニストフェミニズムGoogle検索をして関連キーワードを見るだけで、フェミニストフェミニズムという言葉が纏っている不穏さの一端を垣間見ることができる。

正直に言おう。フェミニズムを巡る論争が反復と循環ばかりで嫌になることがある。(もちろんそこには少なくない差異が、進歩があるのだから、それに意味が無いと切り捨てることは先人の勇気ある言動に対する歴史修正主義的な振る舞いであり、断固として認められるべきではないのだが)

認めよう。フェミニズムはあまりに多くの失敗をしてきた。フェミニストであることを証明するために一人の女性であることを忌避させることも、セクシュアルマイノリティに対して差別的な態度をとることも、フェミニズムの明らかな瑕疵であるし、なによりすべてのフェミニストに完璧なフェミニスト像を押し付けてきたことは、今もなお押し付けていることは何度だって批判されるべきだ。

単一の、完璧なフェミニストイメージの強制は男性嫌悪を衒いなく称揚しつつ、根底には「男性になる」ことへの歪んだ欲望(男性との同一化と呼び換えてもよい)がある。それはある時期のフェミニズムが、自らの生き残りを賭けた方策であったことは是認できたとしても、それが未来永劫肯定されるべき方策でないことは明らかだ。自分で自分の首を絞め続けるフェミニズムには別の藝術が、別の形式が必要なのだ。
フェミニズムがあえて強硬的な態度をとってしまったことの余波が、様々なネガティヴイメージを纏うフェミニズムを生み出した。
それゆえに、この時代にフェミニストであると宣言するだけで、アンチフェミニストからもフェミニズム原理主義からも嫌われる。

しかし、これはフェミニズムに限ったことではない。あらゆるイズムにおいて、アンチと原理主義は不可思議な協定を結ぶのだから。そして偏見と盲信で本来の多様性を失ったイズムは暴力性を孕むのだから。
フェミニズムの瑕疵はあらゆる政治的な策略にも通じる。この社会/世界の認識を革新するための近視眼的な市民権を得るためには、少しばかり荒っぽいことも承知で突き進まなければならない、と。そんなものはつまらないレトリックにすぎない。何かこの社会/世界には人類の誰もが望む理想があって、それを達成するためには少なからぬ犠牲は払うべきであると。しかし、その犠牲に自分は含まれていない。

自分が崇拝する理念にべったり寄り添って、無頼、アウトサイダーアナーキスト、何でも良いが、既成の価値への反発を気取ってみせる。そんなものには飽き飽きだ。既存の価値にノーを突きつけるだけで、変革への一歩がない。何も始まっていない。終わりを突き付けているだけだ。
確かにそれは「正しい」。錆と苔の生えたシステムがキリキリと音を立てながら何とか体裁を保っている姿は、あらゆる領域で観測できる。1つの形式が終わりを迎えている。しかし、それは永遠の終わりではない。その「正しさ」は何かを否定するための「正しさ」でしかなく、その「正しさ」ゆえに人の目に靄をかけてしまう。
余談ではあるが、その絶対的な正しさの裂け目をこじ開け、正しく失敗する/負けることに賭ける営みが生きるための技藝としての藝術であることは論を俟たない。

そう、フェミニズムの戦略は生き延びない。生存を続けるための策略であったはずなのに、最初からその生存への道が閉ざされていたのだ。
もううんざりだ。何回も見てきたじゃないか。ある権利を守るための闘いが、別のある権利を蹂躙しているところを。大きな物語/目的を達成するために小さな物語/目的はその存在をかき消されてしまうところを。崇高な理念の果てが暴力に成り下がるところを。
もはやその矮小な革命思想自体がこの社会/世界の認識に組み込まれた抵抗でしかなく、異端を旗印として自分以外の死を肯定する無残な代物でしかない。その認識から始める必要がある。

だから、フェミニズムの瑕疵を引き受けようとする態度はある側面において(自らの負の遺産を無きことにせず、目を逸らさずに見据えようとする意味で)誠実である。
そしてそれは、フェミニズムに対するあまりに無知蒙昧な暴言も、それが苦渋と屈辱に満ちたものだとしても、ひとまずは受け入れるところかは始めなければいけない、 という態度に結実する。

わかった、わかった、引き受けよう。そもそもが不平等なゲームなのには腹が立つし、それを不当だと糾弾せずにフェミニズムの瑕疵を批判することは、ジェームズ・ボンドとして生きることに何の疑いも感じない男の戯言なのだとしても。

未だに「男性は理論的で女性は感情的」という粗末なカテゴライズに溜飲を下げる人がいることも。(そのほとんどが男性が自らを安心させる策略的な方便だとしても!)
テレビの中でお笑い芸人がミソジニーとセクシズムを撒き散らして笑いを得ようとしていることも。
日本の大手出版社が女性トイレに下劣なサインを掲げていることも。(茶目っ気たっぷりのユーモアでしょ?と言わんばかりに!)

どこまで引き受ければいいのだろうか?あまりにミソジニーに塗れた、目を覆いたくなるような言葉や現状に正当に「No」を突き付けることをいつまで我慢すれば良いのだろうか?何かに対して正直であることになぜ疲弊しなければならないのだろうか?

なので反論したくなるのだ。声を挙げたくなるのだ。それは間違っているんだ、と。フェミニズムフェミニストを取り巻く罵詈雑言を聞くだけで、見るだけで何かむず痒いものを感じてしまう。
それに対して正直であることはなぜこんなにも批判されなければならないのだろうか?なぜ自分は男なのだろうか?なぜ男としての特権を無自覚に利用しつつ平気な顔をしていられるのだろうか?
なぜ、なぜ、なぜ?

いつか、いつの日かその問いが当たり前になる日を求めるために。
いつか男であることの恥辱が書くことの根拠になるために。
これ以上の言葉が続かない。これは今までも、今も、これからも自問しなければならない問いだからだ。
彼女たちは失敗した、坂口安吾のように。しかし、その失敗は明らかに、間違いなく、ある思考の沃野を開いた。

2017年ベスト映画

今年も映画を見て、ああでもないこうでもないと終わりのない煩悶を繰り返しながら好きな映画を選びました。

1:湯浅政明夜明け告げるルーのうた
初めて見た時から心のざわつきが少しも薄れず、何度も何度もルーがいる世界を想像する。
そこには荒唐無稽なハッピーエンドの肯定がある。

2:ポール・ヴァーホーヴェンエル ELLE
ヴァーホーヴェン的な過激さは、本作の主眼ではない。彼の映画に慣れ親しんだ者からすれば、あらぬ方向の肩透かしに感じてしまうかもしれないが、どこまでもヴァーホーヴェンの映画であることは間違いなく、生を渇望し、性に欲情し、政に唾を吐き、聖を求めて足掻く、人間的な、あまりに人間的な営みを見事に映し出す。
最大公約数的な/統計学的なカテゴライズによる円滑なコミュニケーションを拒否するためには、無理解を強要されることも無理解を内面化することも遠ざけた先にある人間を見つめなくてはならない。

3:アレハンドロ・ホドロフスキーエンドレス・ポエトリー
映画が生きる技藝としての藝術であるとするならば、医術と藝術が分かち難く結び付いていることを自明のものとして受け入れることができるのであれば、本作がもたらす「癒しと赦し」を疑う素振りはできない。
自分から遠く離れた人間に、人生に、なぜこんなにも心の撹乱と安寧を感じてしまうのか。(それも現実を歪曲し、捏造したフィクションであるにもかかわらず!)
ホドロフスキーの定義する「詩人」は絶えず自らの変革を求め、肉体を伴った行動を要請する。終わりなき永遠なる詩的行為の果てに、ホドロフスキーが到達した「癒しと赦し」に否応なく共鳴してしまうのである。

4:ジャン=マルク・ヴァレ『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』
感情は抜け落ちる。あるはずの感情が生起しない。そんな孤独と恐怖を感じたことがある。
人間的な情動が一切揺り動かされず、本当に自分は人間なのか?という問いに頭を悩ませることがある。
その心地良さにそのまま安住したくなることもあるが、「人生も時間もこちらの意図とは関係なく前に進んでしまう」という残酷さを見据えなければならない、という当たり前の事実を、時間藝術たる映画は教えてくれる。
心の澱に微かに残った感情が静かな波によって露わになる瞬間に、止まっていたはずの時間が、止まっていたはずの人生が、止まっていたはずの映画が走り出す。

5:ユン・ガウン『わたしたち』
一人称の「わたし」はいつだって他者であるはずの「あなた」を求め、「わたしたち」になることで安心を得る。
一人ではない、というあまりに脆く、あまりにナイーブなよすがに縋ることで、不安定な「わたし」を、平穏を担保する「わたしたち」に変えてくれる。
しかし、「わたしたち」は「わたしたちではないわたし/わたしたち」を区別し、差別し、排除する。無数の「わたしたち」がそれぞれの「わたしたち」を守るために、様々な策略を張り巡らせ、正当な根拠を求め、「わたしたち」であることを確認し合う。
世界中のありとあらゆる場所、ありとあらゆる時代に起こる「わたしたち」の抗争の終焉は、勇気ある赦しである。

6:ミア・ハンセン=ラブ『未来よ こんにちは』
イザベル・ユペールという存在を無視して2017年の映画を語ることは、私にはできない。
「男の身勝手な幻想でしかない女性像」からの逸脱は、その幻想を内面化して演じることが女優として評価される唯一の道(これもまた男性側の狡猾な策略でしかない)であるかのように仕立て上げた映画界への痛烈な一撃である。
エル ELLE』でもそうであったように、イザベル・ユペールが演じるキャラクターの言動は、年齢を重ねた女性に対する「幻想と失望(言わずもがな男性から女性への)」、そのどちらをも投影されていない。
女性が女性たらんとする凛然とした姿に慄然とし、ミア・ハンセン=ラブとイザベル・ユペールという2つの知性の邂逅に、心を奪われる。

7:ジョン・マッデン女神の見えざる手
銃規制を巡るロビイストの物語は、ジェシカ・チャステイン演じる「Miss Sloane(原題)」が自らの名前を告げるところから始まり、まずもってその「声」に魅了されることで、圧倒的な「言葉=声」の波に溺れそうになる本作において、「Miss Sloane」の「声」を拠り所にして画面を見つめなければならないのだ、という前提を飲み込むことができる。
ロビイストとして、清濁併せ呑む手練手管を余すところなく披露しながらも、正義を掴み取るための不正義が不意に正義の正当性を反故にしてしまう恐れをひた隠しにする「Miss Sloane」は、言動とは裏腹に、誠実にアメリカ社会を、世界を見据えている。
巧妙に組み上げられたシステムの中では、アンチテーゼすらも取り込まれ、システムの存在を許容する理由として機能させられてしまう。解を見えなくさせるシステムの隘路の中で、そのシステムを成立させる前提に「No」を突き付けることの清々しさに喝采をあげたくなる。

8:マット・ロス『はじまりへの旅』
「正しく人を弔うこと」を描くことは難しい。それも「われわれが葬礼と呼んでいる仕方」ではない形で、「正しく人を弔うこと」の意義を問う本作は、遥かなる歴史の中で、人間が編み出してきた統治のバリエーションがいかに豊穣であるかを揚言することで終わりを迎える。
国家も宗教も、正しく人を弔うために必要な装置であったし、あるし、これからもあり続けるだろう。しかし、単一の/唯一の装置ではありえない。本作のラストを見れば明らかである。
歌によって、ダンスによって執り行われる葬礼が、永遠に死を自覚できない死者に死の根拠を与え、残された家族はしめやかに愛する者の死を受け入れる。

9:ジャファル・パナヒ『人生タクシー』
もう新しい映画など見ることはできないし、撮ることもできないなんて譫言を言うのであれば、すぐに映画に関わるのをやめるべきだろう。凡百のラディカルさなど一笑に付し、軽々しく「ラディカルさの罠」を飛び越えていく本作は、「自由」を希求する者にしか訪れない奇跡に満ちている。
映画を撮ること、自由を求めること、生を全うすること、そのすべてを規制され、「死」を眼前に突き付けられてもなお、パナヒは決して「愛とユーモア」を手放さない。パナヒからのエールと花束に感涙し、鼓舞され、映画に関わることをやめられない酔狂な人々が世界中に存在する。
そんな人々の存在を知った上で、藝術と政治を意図的に切り離そうとする「腑抜けさ」をなぜ許容できるのだろうか?

10:バリー・ジェンキンス『ムーンライト』
秘められた想いはどこに向かうのであろうか?一向に解きほぐすことのできないその想いを抱えたまま生きることは、どれほどの抑圧を強いるのだろうか?自らを「孤独」に追いやれば納得はできるのだろうか?
「孤独」を気取ることができれば、どんなに楽なのだろう。秘められた想いを「無かったこと」にできれば、どれだけ平穏な生を送ることができるのだろう。
それができないから、人は「本当の自分」を追い求め、「愛」を探し求める。他の誰でもない「自分」と、他の誰にも邪魔をさせない「愛」があるだけで良い。ただそれだけのことが、こんなにも難しいことを、『ムーンライト』は切実に映し出す。
愛とは、目の前にいるその人を飢えさせまいとする心である。


11:湯浅政明夜は短し歩けよ乙女
12:大林宣彦『花筐 HANAGATAMI』
13:ゲイブ・クリンガー『ポルト
14:スティーブン・ソダーバーグローガン・ラッキー
15:ジェームズ・ガンガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス』
16:オリヴィエ・アサイヤスパーソナル・ショッパー
17:ナ・ホンジン『哭声 コクソン』
18:トム・フォードノクターナル・アニマルズ
19:瀬田なつき『PARKS パークス』
20:マーティン・スコセッシ『沈黙 サイレンス』

以下、順不同
西谷弘『昼顔』
ギャビン・オコナー『ザ・コンサルタント
ティム・バートンミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち
ダニー・ボイル『T2 トレインスポッティング
M・ナイト・シャマラン『スプリット』
ジム・ジャームッシュ『パターソン』
リドリー・スコット『エイリアン コヴェナント』
エミール・クストリッツァオン・ザ・ミルキー・ロード
マーク・ウェブ『gifted ギフテッド』
ジェームズ・マンゴールド『LOGAN ローガン』
クリス・マッケイ『レゴバットマン ザ・ムービー』

2017年ワースト映画
『人生タクシー』上映前の短編2本
大根仁『‪奥田民生‬になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』
ガース・デイビス『LION ライオン 25年目のただいま』
富田克也バンコクナイツ』
デヴィッド・リーチアトミック・ブロンド
小林勇貴全員死刑


期待値の割には楽しめなかった映画
ケネス・ロナーガンマンチェスター・バイ・ザ・シー
ガブリエーレ・マイネッティ『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ
パディ・ジェンキンスワンダーウーマン
ヨン・サンホ新感染 ファイナル・エクスプレス
セオドア・メルフィ『ドリーム』
ジョーダン・ピールゲット・アウト
ザック・スナイダージャスティス・リーグ

2017年上半期ベスト映画

2017年上半期ベスト映画

1:『夜明け告げるルーのうた湯浅政明
1:『夜は短し歩けよ乙女湯浅政明
湯浅政明の才覚が全く別のベクトルで炸裂した2つの傑作。年間ベストではなく、オールタイムベストとして記憶したい。
湯浅政明の天才はあらゆるものを呑み込み、むしゃぶりつき、暴れ回り、アニメーションの快楽に触れる。
奇ッ怪なデフォルメと卓抜した色彩感覚に彩られる湯浅政明の画面ではありとあらゆる境界線が消えて行き、運動の快楽(歩くこと、食べること、踊ること、歌うこと)と映像の快楽が分かち難く結びついては浮遊し、湯浅政明にしか創造できない世界へと観客を誘なう。
どんな言葉を尽くしても凡庸な賞賛にしかならない。

3:『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』ジャン=マルク・ヴァレ
ジェイク・ギレンホールが世界で最も優れた役者の1人であることには何の証左もいらないように思う。
誰かを想うという感情が抜け落ちた男の再生は、男性性への回帰/開き直りではもちろんない。『わたしに会うまでの1600キロ』でただ女性であるだけで社会が突き付けてくる生き辛さを掬いとったジャン=マルク・ヴァレがそんな失態を晒すはずがない。
心の澱に微かに残った感情が静かな波によって露わになる瞬間に、止まっていたはずの時間が、映画が走り出す。

4:『未来よ こんにちは』ミア・ハンセン=ラブ
知性があることは美しい。そんな当たり前のことを湛えた女優であるイザベル・ユペールの一挙手一投足に心を奪われる。彼女の言動には年齢を重ねた女性に対する幻想も失望も投影されていない。
ストリートナレッジではない、アカデミックな知性が画面を燦々と照らし出し、女性が女性たらんとする凛然とした姿に寄り添うミア・ハンセン=ラブの視線に掻き乱された心を落ち着かせるだけで精一杯である。

5:『人生タクシー』ジャファル・パナヒ
もう新しい映画など見ることはできないし、撮ることもできないなんて譫言を言うのであれば、すぐに映画に関わるのをやめるべきだろう。
アッバス・キアロスタミが『ライク・サムワン・イン・ラブ』で示してくれたラディカルさへの抵抗を微かに確実に滲ませる本作は、どこまでも映画に誠実である。
昨今の藝術と政治を意図的に切り離そうとする「腑抜けさ」には呆れ返るしかない。それでも、なお。映画を撮ることが死に直結するパナヒから、それでも映画に関わることをやめない酔狂な人々への愛とユーモアに満ちたエールに涙する。

6:『ムーンライト』バリー・ジェンキンス
人間は孤独であり、映画は孤独に寄り添う藝術であることを改めて意識させられる。
強いられた抑圧が本来こうはなりたくなかった自分へ主人公を導く瞬間のどうしようもなさに嗚咽が止まらなかった。
同性愛を描いた映画だから、ほぼすべてのキャストとスタッフが黒人で製作された映画だから、アカデミー賞作品賞だから、そういった重苦しさをすべて抜きにして、眠れない夜にそばに置いておきたい映画。
愛とは、目の前にいるその人を飢えさせまいとする心である。

7:『パーソナル・ショッパーオリヴィエ・アサイヤス
クリステン・スチュワートは才気煥発な女優であり、寡黙な妖艶さを無邪気さとしたたかさの中にしのびこませている。彼女が画面に映るだけで不穏な香りが漂い、異世界への道が開かれる。
わからなさをわからなさのままに映し出し、何がわからないのかわからないという理解に到達すると、瞬く間にその理解すらもわからなさに収斂されていく。
幾重にも織り込まれたわからなさはオリヴィエ・アサイヤスの仕掛けた罠である。物語に従属しない映像のトリックに観客が溺れ落ちた時、クリステンの眼差しは何を見据えているのだろうか?クリステンの言葉は何を問うているのだろうか?

8:『はじまりへの旅』マット・ロス
正しく人を弔うことが宗教の最後の拠り所ではないか?というよりも、正しく人を弔うことができない宗教はそもそもが非宗教的である。
俗世間から離れ、生きる技術と智慧を蓄えつつ「生による抵抗」を実践する家族をカルト宗教だヒッピーだなんだのと嗤うことができるだろうか?
彼らは気付くのだ。世界には選択肢があることに。凡庸な文明と自然という二項対立は消滅し、人は何によって統治されるのか?という根源的な問いに至る。
国家でも宗教でもない統治の仕方がある。いな、統治のバリエーションはわれわれが想像するよりはるかに豊穣であり、いつもわれわれを驚嘆させる。
歌によって、ダンスによって執り行われる葬礼が、永遠に死を自覚できない死者に死の根拠を与え、残された家族はしめやかに愛する者の死を受け入れる。

9:『哭声 コクソン』ナ・ホンジン
予測できたはずだ。その萌芽はあった。ナ・ホンジンは超現実的ですらある人間の生への渇望を描いてきた映画作家であった。
それにも関わらず、『哭声 コクソン』で突如として提示される突拍子も無さに言葉を失う。
あまりに唐突で大胆な舵取りの終わりに浮かび上がる全体像すらも一部でしかない。何も全体になることがなく、その刃はナ・ホンジン自身にも突き付けられている。
人は何を信じるのか?何を信じて何を信じないのか?その根拠はどこにあるのか?
『哭声 コクソン』は「自分だけは醒めている」という全能的な思考をすることが隘路に至るおそろしさを、誰にも想像し得ない形で映像化してしまったのである。

10:『PARKS パークス』瀬田なつき
消えてしまった音楽を思案すること/その続きを創ることの歓びは、澄んだ青空から射すあたたかい陽光のように、白いカーテンをこっそりとたなびかせるとらえどころない風のように、軽やかに画面に姿を見せる。
ボロボロの音が再び生命を吹き込まれる時、その音色を自らの手に取り戻す時、継承の鐘が静かに鳴り響く。
井の頭公園の歴史に刻み込まれた死と愛が、映画における「幽霊」の形象として茫洋と描かれることへの小気味良い悦びは、狭義の意味でのシネフィルを喜ばせる手慰みではない。

11:『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス』ジェームズ・ガン
12:『ザ・コンサルタント』ギャビン・オコナー
13:『沈黙 サイレンス』マーティン・スコセッシ
14:『T2 トレインスポッティングダニー・ボイル
15:『レゴバットマン ザ・ムービー』クリス・マッケイ

ワースト
『人生タクシー』の上映前に流されていた2人の日本人監督による2本の短編映像
パナヒの作品を見た上で両名がこの作品を撮ったのだとすれば、おそろしいほどに傲慢か驚くべき無知かのどちらかである。

『映画なしでは生きられない』真魚八重子

真魚八重子『映画なしでは生きられない』は純然たる「映画批評」であり、そうであるがゆえに1つの藝術として屹立している。
敢えて断言し、唐突に引用する。『映画なしでは生きられない』は個人体験の敷衍による安易な共感を斥け、ただそこに在ることを肯定することで真の共感に辿り着こうとする模索が刻み込まれている。
「『誰だってジタバタしながら、ぱっとしない人生を受け入れようとしている。約束して、わたしを置いていかないと。』失望しても、そのなかでなんとか生きること。(中略)死なないと確約はできない、でもできる限り回避することだけは努める。しかし、あくまで『死なない』と口先の嘘はつけない。」
「どうしても死なせたくない親しい人のため、なるべく先に死なないようにするというのは、生きる理由として捨てたものじゃない。そんな理由で生きていたって悪くないのだ。それはダメな人間にとってできる限りの、ギリギリの切実な愛なのだから。」
「死なないように生きているだけという人もきっと少なからずいて、能動的に死を選べないから、ただ死ぬまで生きながらえているという感覚の人もいるだろう。(中略)今いるここから、もうどこにも行きようがない。先細りになっていく詫びしい道を、いやいやでもただ進む以外にもはやない。」
「わたしも本当は死にたいなと時々、道で立ち止まるように思う。ただ、死ぬ勢いも切迫感もないから、よろよろと歩いているだけ。映画は、自分がいま死なない代わりに、スクリーンのなかで俳優が代替行為として死に向かう。(中略)死に瀕する精神的な限界に立ち会うことで、生きていたくない気持ちを浄化し、とりあえず明日、もう一本映画を見ようと思う」

「作品」と「批評」の健全かつ創造的な関係とは何か?
「作品」の創造主たる作家は、批評家の悪辣な批評に反旗を翻し、批評家などそもそも相手にしておらず、「大衆」からの支持を得ることができればそれでよいのだと嘯くだけにとどまらず、批評家のすることなど他人の褌で自らの権威付けを謀るだけで、一切の創造性を失った惨めな「創造主の寄生虫」にすぎないと痛罵することもある。
対して批評家は、あらゆる酷薄な選択を経て、痛痒とともに産み落とされた作家の作品をズタズタに斬り刻み、自らの思想、価値観、挙げ句の果ては文章の帳尻合わせに作品を利用する。言論の自由という美名の下、独善的な作家性に陥り、創造主であるというただそれだけで浅薄な自尊心を満たしている作家を駆逐することを厭わない。

創造主を自負するだけの才能も鍛錬も欠けた「偽の創造主」、自らを賭さず安全圏から創造主を痛撃するだけの「創造主気取り」。
あるいは、「作品&創造主」と「批評&批評家」が蜜月の関係を築き、結託し、阿り、両者の関係と同様に弛緩して寒々しい「作品」と「批評」が量産されることにもなりうる。

ジャン・コクトーを引用する。
「最悪の芸術家でも、最良の観客に勝る。」
この言辞には幾つもの注釈が必要であろう。どんなに無能な芸術家であっても、何かを創造するという一点において、「最良の観客=批評家」よりも優れているのだし、それを擁護する、というジャン・コクトーの芸術家肯定には時代的な要請がたぶんに含まれる。
アンドレ・バザンの存在を無視することなど無知の戯れと誹りを受けかねないが、ジャン・コクトーを会長として設立された「オブジェクティフ49」は、後に「作家主義の砦」となる「カイエ・デュ・シネマ」の人的、思想的母胎であろうし、オブジェクティフ49が、オーソン・ウェルズという偉大な「作家」にすら、同時代的に正当な評価をしなかったヨーロッパの頽落ぶりを比喩して、「呪われた映画祭」を開催することで「作家の映画」を顕揚することに躊躇いが無かったことも事実ではあろう。
今まで無視され続けてきた「作家」「作家の映画」を掲げることには、現状追認と粗製濫造に溢れた当時のフランス映画界への徹底したアンチテーゼとなりえたのである。
とすればジャン・コクトー箴言は、単純な作家の肯定ではありえない。自堕落な作品の「仮初めの作家」は、ジャン・コクトーが無意識に定義する「作家」からそもそも除外されている。ジャン・ルノワールが言うところの、「禁断の木の実を食べた」人間だけがジャン・コクトーの賞賛に値したのである。

ジャン・コクトーの断言は、後に「カイエ・デュ・シネマ」が、絶対的な作家の擁護と峻烈な作家の否定を批評によって明示することで、映画界に1つの大きなうねりを生み出したことと共鳴している。
ヌーヴェル・ヴァーグと歩みを共にした「カイエ・デュ・シネマ」において、作家は批評家であり、批評家は作家であった。限られた友愛によって強固に結束された「カイエ・デュ・シネマ」を悪しきロマン主義の象徴、内輪褒めと外部の拒絶による閉塞したコミュニティ、権威主義に繋がりうる衒学的な映画雑誌、映画の矮小化/自分語り化などと批判することはいくらでもできる。
しかし、「カイエ」が映画史に残した傷痕は途方もなく大きい。今もなおヌーヴェル・ヴァーグの影響下から抜け出せないフランス映画界の停滞は、ヌーヴェル・ヴァーグカイエ・デュ・シネマの遺産がいかに巨大であるかを物語っている。
仮に一瞬の、多くの遺恨を残してしまった結託とはいえ、「作品」と「批評」はお互いが果たすべき役割を果たし、手を結び、映画史を形成する作品を次々と産み落としていったのである。

長々と書き連ねたのは、創造主たる作家による批評の無効化と批評家による作品の冒涜ばかりに溢れ、自分語りでも映画を誤読した「社会批評」でもない、その名の通りの「映画批評」が生き残りを問われている時代において、どこまでも映画批評を貫いた本に出会ったからである。
『映画なしでは生きられない』はどこまでも「映画」に、「批評」に忠実である。索漠とした情報の羅列や手慰みの知識の披瀝に耽溺せず、あらん限りの自分を詰め込みながらも下卑た自分語りに淫していない。そこに映画があり、それを語る。ただそれだけである。穿った読解も奇を衒う文体もそこには付け入る隙などない。筆者は「退屈」を恐れていないようにすら感じる。だからこそそこには誠実な肯定があり、誠実な共感がある。

共感を勝ち得たか否かは、藝術を評価する際の1つの基準でしかない。受け手側の共感を意図して創られた藝術が酷く凡庸で、そのあざとさに辟易することもある。共感は強制されるものではない。強制された共感は他者を排除し、暴力として作用しかねない。共感には、自分と遠く離れていたはずの存在や状況と自分が不意に繋がる瞬間の、あの遭遇の、あの発見の、予定調和的ではありえない悦びが伴わなければならない。

『映画なしでは生きられない』の読書体験によって、初めて「映画批評」なる胡乱なものに触れた時の記憶が呼び起こされる。初めて山田宏一の文章に触れた時のような想いに駆られる。何故この人はこちらがずっと考えていて、しかし言葉にできなかったことをこんなにあざとくなく、厳しく、柔らかに掬いとり、映画を、映画を見る自分を密やかに肯定してくれるのだろうかと。そして、そこに書かれている映画を見たいという衝動を読者に植え付け、映画がもたらす独善的でない救いと軽やかに同調する。

「性差に還元しえない、それでいて女性性に自覚的な語り口」には筆者の苦悶が滲んでいる。日本、日本映画界という女性にとって「生き辛い」世界の中で、1人の執筆者として生き抜くために、「女性であること」を主張するでも捨て去るでもなく、かといって「女性である」という絶対的な事実から逃げるわけでもなく誠実に書き続けてきたからこそ獲得できた語り口であろう。
「女性ならではの」「女性にしか書けない」「女性だけがわかる」云々、そうした単純化の陥穽を避けて映画の本質に迫る筆者は、「女性批評家」などという忌々しい冠、ほとんど下衆な留保を必要とせずにただ「批評家」として評価されてしかるべきである。

『映画なしでは生きられない』は本文中で語られる映画がそうであるように、ある種の無関心を感じさせるほどの抑制によって言葉が連なり、人間の生を肯定する。「映画がそこにただ在り、それを見る」ということ自体によって、 最低限の生を保証する。うんざりするような楽観性でも優越に裏打ちされるシニシズムでもなく、死になり果てるギリギリのところで人間の生を掬い、救い、肯定する。

著者の文体は映画の情熱にほだされず、不思議な冷徹さを貫いていながら、安全圏から映画を「解体」する素振りなど見せない。映画を外部の存在によって語ること、映画を映画以外の何かによって説明することを拒絶している。どこまで突き詰めてもそこに映画が在るだけなのだ。そしてその誠実な「映画がただ在ること」の肯定は、「人間がただ生きる」ことの肯定へと繋がっていく。
「ただ生きる」ことは「生き辛さ」を自覚してしまった人間に許された逃走の、闘争の道である。「生き辛さ」を自覚してしまうと、あらゆるものが鬱陶しく、愚劣に思え、否定によってしか生への根拠を見出せなくなってしまう。それでもそれに立ち向かうだけの何かがあれば良い。闘争はそこからしか始まらない。
しかし、わたしはそんなに強くないのだ。闘争を始められるはずもなく、ひたすら逃走するしかない。否定して否定して否定して、「生き辛さ」だけに雁字搦めになって戸惑うのだ。自問するのだ。どうすればこの「生き辛さ」から逃げられるのか、と。
おそらくそれは叶えられない。「生き辛さ」はどこまでも付き纏い、どこまで逃げてもそれに追われてしまう。そして際限なく囁きかけるのだ。諦めよ、諦めよ、諦めよ、と。

『映画なしでは生きられない』の筆者は、この世界、この社会が要求する否応ない「生き辛さ」をじっくりと見据えている。けれども「生き辛さ」を抱えてしまっていることを前提にして「生きること」を見据えている。「生きたい」という情動はないけれど、それは「死ぬこと」を意味していない。「ただ生きること」は「死ぬこと」への精一杯の抵抗である。そして映画はその選択を赦し、そっと後押ししてくれる。

そう、自分だけではなかったのだ。「生き辛さ」に溢れた世界で、社会で「ただ生きること」という密やかな抵抗をしているのは。
それだけでよい。誰にも気付かれない共感と共鳴と共振を求めて、「とりあえず明日、もう一本映画を見ようと思う」。

映画通とアフォリズム

なんだか最近また話題になってる記事です。
記事が出た当時も怒っていた気がします。

全方位に誤解を生む、心底どうでもいい内容なんですが、別ジャンルに置き換えると自分もそんな愚劣な振る舞いをしたことがあるのかもしれません。

だからこそ、普段映画を見ない方々に言いたいのは、ここに書かれてることは全部しょうもなくて、くだらない!と断言していい内容だってことです。

少しでも映画が好きで、その魅力に耽溺している人間からすれば、こんな中途半端で貧相な「映画通」なんて会話の相手にするだけ無駄です。
それは映画に関する知識がないから、という理由からではもちろんなく、戦略的に「映画通」を気取り、知りもしないことをお手軽なクリシェでわかった気になる愚劣な姿勢ゆえです。

この記事に挙げられているフレーズ全てが、インスタントな情報と表層の評価だけを抽出し、書き手の誤解と偏見丸出しの、とても「映画通」による発言とは思えない代物です。

仮に、1億歩譲って、これを実践すれば「映画通」なるものになれるとして、それに何の意味があるというのでしょうか?

作品も見ないままに、ゴダールと溝口の関係を薄っぺらな言葉で語り、「ハリウッド大作」批判で俗物根性を晒し、近年のタランティーノ作品における会話の物語的重要性を無視し、ミヒャエル・ハネケポール・トーマス・アンダーソンアキ・カウリスマキウェス・アンダーソンといった優れた映画作家を卑小なカテゴライズで理解した気になる。
そんなものが「映画通」なのであれば、「映画通」になる必要なんて全くないでしょう。

もちろんどんな藝術であれ(スポーツや学業に置き換えても同じことです)、知識を蓄積し、かぶれることには意味があります。
しかしそれは、スノビズムに浸ることでも、自分の優位性を担保することでもなく、自分の中でさる藝術作品をどのように位置付けるか、理解するかを手助けするために必要なことで、最終的な価値判断の基準は自分に求められます。

件の記事が、一個人の意見であれば全く問題ないのですが、戦略的に「映画通」だと見なされるための、実践可能な策略として流布されることを目的としているのであれば、それには断固として「否」を突き付けます。

少し話が変わるようで変わらないのですが、世の中には、「ニーチェぐらいは知っておかねばならない」といった強迫観念があるようです。
ニーチェの思想はアフォリズムであり、よくある「偉人の言葉」として、手っ取り早くわかった気になれます。『超訳 ニーチェの言葉』などその最たる例です。

しかし、当然それは「ニーチェの思想を理解すること」とは、全く異なることであり、ニーチェに関して言えば最も危険な理解の仕方です。
なぜなら彼の思想=アフォリズムは、それ単体では非常に危険な結果を導いてしまう可能性があるからです。
慎重に精読しさえすれば、全く相容れないものとして理解されるはずのニーチェの思想が「誤読」され、「曲解」され、ナチズムの思想的基盤に寄与してしまったことは、死後のこととはいえ、最大の汚辱でしょう。

何をそんな話を広げて、口さがなく批判しているのかと怒られそうですが、通底する問題は同じです。
まるで意味のない知識の複写であり、藝術を生業としている人々への冒涜だとすら感じます。

終わりです。

http://woman.mynavi.jp/article/130530-004/

『君が生きた証』呪われた藝術に関する雑考

この世に呪われた藝術など存在するのか?
この問いが提示する「呪われた」とは、「世間に発表すること」「創造者以外の人間の目に、耳に、感覚に触れること」を意味するという前提が許されるとすれば、答えは明白である。
焚書」は世界中のあらゆる地域・時代において行われ続ける愚行であり、「検閲」「規制」によって数多もの絵画・彫刻・書籍・音楽・映画などの藝術がその存在を歴史から抹消されてしまった例を挙げれば、枚挙にいとまがない。
これらは主に、その内容・主義・主張によって断罪されてきた藝術の例である。ここで言う「呪われた藝術」とは、重なる部分が多くあるとは言え、少しニュアンスが違う。つまり、創造主がある罪をおかした者である場合、その罪ゆえに創造物の存在そのものまで否定されてしまってよいのだろうか?ということである。

少し余談になるが続ける。もちろん、藝術が凄絶なる「検閲」の暴力の逃げ道を模索することで、表現の幅を拡張させていった事実は否定できない。藝術は「検閲」からの遁走の歴史と言っても過言ではないし、ある種の「不自由」があるからこそ「自由」へと生き延びる道は創造しうると断言しても良い。
しかし、それは後出しで見出された理由付けに他ならず、「検閲」が存在することを肯定するものではない。
また、「表現の自由」の美名の下に、自らの信奉するイデオロギーを無条件に最上位に位置付け、それ以外の価値観を廃絶する言説が蔓延っているが、「呪われた」藝術の存在をそのような卑劣な視点から擁護したいわけでもない。

ひたすら単純に、創造主の犯した咎を唯一の根拠として、「歌ってはいけない、演奏してはいけない音楽」が、「読まれてはいけない、書かれてはいけない書物」が、「見られてはいけない映画や絵画」が存在してはならない、ただそれだけのことなのである。
ある藝術が完全に社会性・外部と無縁であることは不可能だが、だからと言ってそれだけの根拠で存在を否定されるべきではない。

また、犯罪者の子どもは犯罪者、あるいは犯罪者の親は犯罪者、などという愚劣な思い込みは、自らはそんな振る舞いはしまいと固く信じている人々にさえ、無意識であれ、人の善悪を判断する際に何らかの根拠を与えてしまう。
犯罪者の親は、その犯罪者を育てた咎で断罪されるべきなのだろうか?犯罪者の子どもは、親の愚行の十字架を背負うべきなのだろうか?劣悪な(と世間的に勝手なレッテルを貼られているだけの)環境に育った子どもは、「普通に」育つことはできないのだろうか?あるいは、苦境の中で育ったことをある種の英雄譚の補強材料として機能させることに必然性があるのだろうか?(あるトラウマが人格形成の絶対的な根拠足りうるのだろうか?)
そうした問いがいくつも想起されるが、これらは全て否である。
もちろん、例えば、障害を抱えた子どもを持つことで想像し得ない苦悩と葛藤に晒され、自らの子どもを殺めるほどに追い詰められてしまう人々がいる、というのは前提にあり、それに対して安易な理解でもって共感を寄せることも避けるべきなのは当然のことである。

前置きが長くなったが、『君が生きた証』はこの2つの問題を統合し、受け入れ難い現実の最中で生きるために、なぜ藝術が必要なのかをギリギリのバランスで提示してみせる。
たとえそれがある人物にとっては、酷薄で救いのない解決だとしても、それに賭けることでしか藝術は存命しない。

ウィリアム・H・メイシー初監督作品!という惹句にどれほどの集客力があるのか疑問に思うところだが、本作の非凡さは、コーエン兄弟ポール・トーマス・アンダーソンなどの作品で、悲哀を滲ませつつも情けない死に様で画面から消えていくウィリアム・H・メイシーの非凡さに近接している。
彼は人生における不条理や理不尽の狭間で苦悩し、引き裂かれ、コミカルにもシニカルにも見える死に様を演じてきたことを首肯するならば、『君が生きた証』で描かれる主題は、まさにウィリアム・H・メイシー的であると呼んで差し支えない。

本作は銃乱射事件を契機としている。実際にその殺戮の光景が描かれることはないが、これは作劇上の要請によるものである。
冒頭、たった数分しか登場しない主人公サム(ビリー・クラダップ)の息子は、銃乱射事件の「被害者」としてまず観客に認知される。
ここで主人公=父親は悲劇の渦中にある登場人物として画面に晒されるのだが、物語の進行に伴い、息子が「加害者」であったことが詳らかにされる。
まずここの提示の仕方が巧妙である。観客が「被害者」の父親として認知しているはずの人間が、本来そうあるべきだろうとこちらが想像している振る舞いをしないし、他者からもそのようには扱われていない、ということが細かな台詞や言動によって示される。
観客はイメージとの齟齬に戸惑い、この物語の主題を掴めないことに困惑し、主人公の苦境を把握できない。
自らが今対峙しているものの全容が理解できないことこそが映画の美点であるとするならば、なんと心地良い困惑だろうか。

父親は自分の育ててきた子どもが無差別殺人という卑劣な行為をしてしまったという残忍な現実に耐え切れず、隠遁生活を送ることになる。
誰にも迷惑を掛けず、誰にも影響を与えず、自分だけが生きる完結した世界。
そんな彼と世界との橋渡しを実現したのは、他ならぬ息子の「音楽」である。
息子がこの世界に残した「痕跡」を、「生きた証」を知ることで、彼は別の人生を始めることができたのだ。

息子の「音楽」を通して初めて、彼は自分の想いを他人に表現してもいいのだと思い至り、その「音楽」を通じて出会った若者クエンティンと蜜月の関係を築いていく。
しかし、そう簡単に過去は消えてくれないし、人の記憶は残酷なほどに鮮明である。
息子の「音楽」があったからこそ想像し得ぬ繋がりをもったはずなのに、まさにその「音楽」のせいで関係性が瓦解してしまう。

息子の「音楽」を演奏し、歌詞を読み、そうして思考の足跡を追体験することで、息子の情動を共有しようとするが、それは無為に終わるだろう。
「共感」とは生半可なことでは達成できない境地だからである。人を殺す人間の気持ちはそう簡単にわかるはずがない。安易な理解は無自覚な暴力であることはもっと強調されてもよい。

余談が過ぎたので本筋に戻ろう。
本作においてここで、犯罪者の「音楽」を演奏し、評価されることは許されるのか?「呪われた」藝術の存在は許されるのか?という問いが、犯罪者の血縁者は犯罪者であり、副次的にその罪を背負う必然があるのか?という問いと重ね合わせで不意に浮上するのである。
そのどちらも断固として否であることは、ここまで拙文を読んでいただければ改めて説明するまでもない。

誰かが「生きた証」は、どんな形であれ他の誰かの「生きる証」になりうる。
たしかに息子は多くの人を直接的にも間接的にも傷付け、あらゆる可能性を踏み躙った。それ自体を擁護することなどできない。だか、いやだからこそ、彼が残した「証」の存在は否定されるべきではない。

本作の結末は、主人公の視点に寄り添うならば、非常に苦々しく救いがない。
息子の「音楽」によって彼は再び言葉を手に入れ、他の全ての人が嫌悪し、無理矢理忘却しようとしている息子の「生きた証」を歌い上げる。ただし、今までのように、息子の「音楽」をそのままリフレインすることで、もう「ここ」にはいない息子の存在を追認識するというネガティブな意味合いではなく、彼自身の言葉で、この一回きりしか許されない鎮魂歌を歌い上げるのだ。
ここで主人公は、自分と息子の「生きた証」=「音楽」との関係に幕を引くのである。もう彼自身が「音楽」と良好な関係を築くことはおそらくない。
と同時にそれは、「音楽」をクエンティンに託し、彼自身は他のあらゆる関係から距離を置くことを意味する。サムは、クエンティンと出会う前の放浪生活をこれから先ずっと続けなければならない。

住処と仕事を手放し、友人との疎外を選択し、唯一残り得た息子との繋がりすらも託して、流浪の民として振る舞うことを余儀無くされる。
映画ではサムの「その後」が描かれることはないが、クエンティンが掴み得た希望とは裏腹に、サム自身の救いが見当たらないのは明らかであり、それは誠実な選択である。

ギリギリのところで息子の「生」を肯定する代償として、自らの「生」を放棄する。
それでもなお彼の「生」を救いうる何かがあるとすれば、それは息子の「音楽」によって偶然お互いの人生が交錯した友人が、音楽を続け、どんな形であれ息子の「音楽」を継承すること以外にない。

もちろんそれは、息子の「音楽」をそのまま受け継ぎ、「記録」として残すという意味ではない。「呪われた藝術」によって開かれた道を、それを理由にして閉ざしてしまうのではなく、いかなる卑下も特権性も拒否し、新たなる「生きた証」を残すという意味における「継承」である。

これ以上付言することはない。
本作品における映画的・音楽的快楽に触れる悦楽は、鑑賞したのみに許される特権である。