しきたりと「御しな様」

しきたりと「御しな様」
 美島家では毎月一日と十五日を「とうじつ」と言って、朝出勤したら先ず、本家の奥の仏間へ行って、ご先祖の御仏前でお祈りをして、そこに並んで座っていられるご家族に、「とうじつでおめでとうございます」とご挨拶をして、各自職場に就き、また、従業員同志の間でも同じ挨拶をしてから仕事をはじめるという「しきたり」があった。
 仏前には家族の方はじめ、事務所の従業員全部の名札が並べてあり、お祈りが終わると自分のを裏返しにしてから静かに部屋を出ることになっていた。うっかり忘れたりすると、名前がすぐ分かるので、遅れたりした時などはお互いに注意しあったものだった。
 「とうじつ」とはどういう意味なのか先輩のタイプの人に聞いてみたが、「よくわからないけど、皆がやっているから同じようにしている」との返事だったが、その中に古くからいる人に聞いてみようと思っていたのに、どうしてだかその機会がなく、いまだにわからないままだ。
 とにかく、ご先祖様を敬い、無事平穏、商売繁盛を祈る御心は最高に強かったように思う。
 本家で一番年長の方は、先々代の未亡人でもう七十歳を過ぎているようであったが「御しな様」と呼び、気品があって、いつも背筋をぴんと伸ばして若々しく、美島家の総元締めでも言えるお方で、ご家族をはじめ親戚から従業員に至るまで、親しみと尊敬の中心になっていた。四季を通じていろいろのしきたりが多いようであったが、それは「御しな様」を頂点として、分家の人たちにも家風として受け継がれているように思えた。
 気品の良さと老舗商家としての腰の低さ、周りへの気配り等々、私には今までに経験のなかった様々のことを、身近に学ぶ機会だったように思う。
 現在「美しく老いる」という言葉をよく聞くが、あの頃の「御しな様」こそこの言葉にぴったりの人であったと、当時の面俤を懐かしく思い出し、願わくばほんの一部分でもあやかりたいものだと思っている。

美島本店事務所に就職

美島本店事務所に就職

 昭和十四年十月、邦文タイピスト養成所課程終了の証書を受けた私は、所長さんの紹介で徳島では老舗の、美島本店に就職が決まった。
 本店は徳島駅から西方向で、徳島連隊へは歩いて十五分程の所だった。次兄の家からバスで一時間ほどを要した。勤務時間は朝八時から夕方五時まで、日曜、祭日は休みで、給料は最初十五円だったように記憶している。
 美島家は古くから綿糸、綿布の工場を経営し、その工場は本店とは別の場所にあった。
 本店には事務所の他に製品を入れておく大きな「蔵」があり、また、家族の住む本家が同じ屋敷内にあって、事務所は通路に面していて、本家の建物が幾棟もその奥に連なっていた。
 事務関係の従業員は、五十歳くらいの支配人を中心に総務、綿糸、綿布、毛糸、会計、庶務等に分かれて、十五、六名の三十歳前後の男の人たちが机を並べ、店長の旦那様と副店長の若旦那様(旦那様の妹婿さん)が常に忙しそうに本家と事務所の間を行き来していられ、共に三十歳過ぎのように思えた。他に高知と大阪に支店があって、それぞれ四、五名の従業員が勤めているとのことであった。
 女子従業員の方は、電話交換手とタイピスト、それに雑用をする給仕の子の三名だったが、タイピストは私と交代に十月末に退職することになっていた。
 医院では病人の治療介助、それに日常の家事一般のことを四年間続け、大体身についてきていたが、今度は書類関係、人間関係、そしてタイプという機械を相手の仕事である。住む世界が急変したので毎日がとまどいの連続であった。
 これでは肝心の自分の勉強どころではない、どうしたものかと思案していた時、就職する前の九月に徳島県庁内で行われた専検の受験の結果、修身と家事の二科目とも、合格点を得た証明書が文部省から送られて来た。初めての受験で不安を感じていたが、八十点以上とれていたらしいので、何よりも嬉しく明るい報せに心から勇気付けられた。 次は来春四月の試験を目指して頑張らなくてはと自らを励ますのだった。

新たな道へ

一先ず白衣を脱ぐ

 その年も暮れ、新しい年を迎えたお正月、次兄を訪ねた。
 次兄は県庁の学務課から県立徳島商業学校の書記官として転任になり、住居も学校に近い吉野川土手にも程近い教員用の社宅であった。
 義姉が四月に出産の予定だが、初めての出産だし人手がないので、私に家事を頼みたいし用事のない時は、自分の勉強をしていいから家へ来てはどうか、ということで、昭和十四年四月、私は四年間の白衣生活から離れることとなった。
だが、専検を取ったその後は、赤十字看護婦へ進む決意は緩んでいなかった。
 いざ、この医院を去るとなると、やはり名残り惜しく、特に三人のお子さん方が私によくなつき、「大石さん、もうずっとこの家にいてくれればいいのに…」などと言ってくれると胸にじーんとしてきて、何もわからなかった最初の頃が思い出され、失敗ばかりしてよく叱られたことも、今となっては懐かしい思い出となり、井の中の蛙が今では池の蛙くらいに成長できたことをありがたく、感謝の気持ちで一杯であった。
 ―もう六十年以上のご無沙汰でその後の様子は何も分からないが、私を真ん中にして写した記念写真をじっと眺めていると、あの頃の日々がまぼろしのように浮かんでくる。


邦文タイピストへの道

 昭和十四年四月に次兄夫婦の間に女の子が生まれ、順調に育ち明るい笑い声の中に、私も家事を手伝いながら兄の机を借りて勉強した。
 専検の国家試験は、春の四月と秋の九月の年二回施行されることになっていたので、比較的易しいと思われる「修身」と「家事」の二科目を受験することに決め、官報発表の九月の願書受付に合わせて受験願書を提出した。
 そんなある日、次兄が勤務している徳島商業学校へ兄のお弁当を届けに行った。家から十分程歩いたところだが、校門を入るのは初めてであった。事務所へ入ると兄は来客者と話中だったので、お弁当を手渡すとその人に軽く会釈をしてそのまますぐ帰った。
 その夕方、勤めから帰宅した兄は、「菊枝、タイピスト養成所へ入ってみないか」と言った。あまり突然だったので、私はびっくりして、よく聞いてみると、昼間学校の事務所で兄と話していたのは、徳島市内の文具店の主人で邦文タイピスト養成所所長でもある人で、私を妹だと言うとその人は、「タイプの技術をつけられてはどうですか。今、何処の会社でもタイピストはひっぱりだこで、就職の方は責任をもっていい所へご紹介致しますから」との話だったとのことであった。
「お世辞とは思うが菊枝のことを感じのいい娘さんだって盛んに誉めていたよ」
「誉めておけばきっと来てくれると思ったんじゃないの」
「そうよ、きっと」
 義姉さんと三人で大笑いしたので、眠っていた赤ちゃんが驚いて目を覚まし、泣き出したことを思い出す。
 後で私は考えてみた。このままいつまでも兄の家で居候しているわけにはいかない。目指す日赤看護婦とは全然関係のない職業だが、習っておけば何かの役に立つことだし、一日中机の前に座っていては運動不足にもなるので「よし!」と私はタイピスト養成所へ行ってみようかと思うようになった。
 そして、二、三日後の日曜日に、軍人の兄が外出して来たので、タイピストのことを話すと、「まあ若い時には何でもやれることはやっといた方がいいよ。特に女は嫁に行くと自分のことは何もできなくなるからなあ」と言ってくれたので、いよいよ私は決心した。
 軍人の兄はあらたまった顔で、「あと幾日かで再び出征するので、今日はそのお別れに来たのだが、前の時のように大袈裟にせず、隊の近くの蔵本駅から出発することになるらしい。それで見送りは禁止になっているから来ないように。現地に着けば手紙を出すが、多分、今度は満州方面になると思う。赤ん坊も次に帰る頃にはもう歩いているだろうなあ」
 何となく暗い気持ちになっていた私たちを励ますように、
「ではまた、元気で会おうよ。ハハハ」
 明るい笑い声を残して帰って行った。
 かくして私は、看護婦を中止して二ヵ月後の6月1日から、また、着物に袴をつけた生徒となり、タイピストへの道へと変身していた。

赤十字にあこがれ専検を目ざす

赤十字にあこがれ専検を目ざす

 戦地での日本軍の活躍が大々的に新聞ラジオで報道されるにつけ、私は赤十字看護婦となって戦地へ行くことにあこがれのようなものをもつようになってきた。しかし、それには高等女学校卒業程度の資格が必要であることがわかった。結局それには専門学校入学者検定試験に合格するより他なかった。この制度のあることを知った私は、これに挑戦してみる決心をし、早稲田大学講義録を取り、普通科の勉強をはじめることにした。
 講義録は三十六ヶ月(3年)終了で、毎月送られてくる新しい本を手にするのは嬉しいことであったが、一冊の本を一ヵ月でマスターすることは無理で、月が進むにつれて全然目を通すことができないうちに次の本が送付されてくるようになってきた。
 専検は九科目(修身、公民、国語、数学、理科、歴史、地理、裁縫、家事)を合格しなくてはならず、一度に全科目の受験は自信がないので、比較的やさしい学科から受けてみようと考えた。
 昭和十三年の三月で一応予定のお礼奉公は終わったが、磯崎先生の方から、差し迫ったことがなければもう少し続けて勤めて欲しいとの話があり、私も転々と勤務先を変えるのは余り好まなかったのでこのままの生活が続くこととなった。
 そんなある日、思いがけなく出征していた兄が戦地から隊へ復員してきた。少し細くなったように思われたが元気そうで、両肩の星が一つずつ増えて、曹長に進級していた。だがまた、何時戦地へ赴くかわからないとの話であった。
 専検を受けるということに次兄も賛成してくれていたが、普通なら四、五年間学校へ通って卒業するものを、指導して貰う人もなく、勤務しながら一人で講義録だけを頼りに勉強するのは、並大抵のことでなくどうしても無理をすることになるので、身体をこわしたりしては、元も子もなくなるので、それを一番心配してくれていた。

(10月2日「兄の出征」に千人針の写真を追加しました)

兄の出征

 兄の出征
 昭和12年7月に起こった盧溝橋事件から、戦域はますます広がり、遂に日中戦争となってしまった。そして、8月18日、徳島連隊最初の動員で兄も上海方面へ出征することとなった。
 父母は遠地でもあるし、隊での面会はもう許されないので、見送りには来ないこととなり、昨年秋に結婚した次兄夫婦と私、知人が二人、それに医院の磯崎先生を加えた六人で見送ることとなった。
 出征隊は徳島駅から出発ということで、8月18日の夜10時頃から交通規制が行われ、道路の両側には太い縄が張られ、警備の巡査が立っていた。
 続々と見送りの人たちが集まり、私たちは11時頃黒山のような人たちに揉まれながら互いに離れないよう駅前近くに陣取り、悲壮な気持ちで胸がドキドキするのを感じていた。
 やがて12時近くなった頃、駅から離れた遠い方角で突然「万歳」の叫び声が聞こえた。そら !!とばかり群集が一斉に身体を前に乗り出したので、縄が一時にピンと張り、警備の巡査が両手を広げて群集を制した。
 高らかな進軍ラッパと軍靴の響きが近づくにつれ、「万歳々々」が連続して起こり、先頭の馬上ゆたかな大隊長の姿が目に入って来た。目の前を通り過ぎていく兵の中に、兄の姿を追い求めていた私たちは、「あっ 、いた!!」と同時に叫んだ。
 兄は夜目にもキラキラ光る汗、口をもぐもぐさせ(氷砂糖を入れていたことを後で聞いた)自転車を押して進んで来た。私は思わず半身を乗り出して「兄さん !!兄さん !!」と叫びながら夢中で右手の日の丸の小旗を振った。兄は気づいたのかどうだか、いたって無表情のまま私の手から日の丸をひったくるように取り、駅構内へすすんで行った。
 気がついてみると私の左手には、勤務の合間を利用して、駅前で道行く女の人たちに一針一針縫いとめて貰って腹巻に仕上げた「千人針」が握りしめられていた。
「あっ、これを兄さんに渡すのを忘れてた」
 あわてて次兄に示すと、次兄は千人針を持ち人垣をかき分けながら大急ぎで駅構内へ入って行った。
 ふっと気が抜けたようにぼんやり立っている時、私を呼ぶ声に振り向くと磯崎先生が、「兄さんが見つかってるから早くこっちへ来なさい」と言って下さったので、並み居る人たちを押しのけ突きのけしながら、やっと兄たちの所へ出られた。
 兄は私たちの顔を一回り見て「やあ、ハハハ!」と大声で笑った。
何か言おうとしていた私は、言葉が喉に詰まったようになって、無理に言うとわめき声になってしまうようなので、黙ったまま背高の兄の顔を見上げるだけであった。だが、それもほんの束の間だった。
 行進曲が響き、汽車に乗り込む時が来た。遅れてならぬ兄は「やあ」と直立の姿勢で敬礼し、先頭に立って大股に歩き去っていた。
 もうどれが兄だかわからない。長蛇のように戦闘帽が続くばかりであった。
 嵐のように「万歳々々!」の喚声が沸き起こり、人山に大波のような動揺が起こった。押し合い揉み合いながら、やっとのことで人の少ない所へ出てほっと呼吸をついた。
 ああ遂に征ってしまった。がっくりしたような気持ちで、もう武運長久を祈るしか方法はないことを思い生温かい涙が頬を流れた。兄たちに見られまいと顔をそむけて歩き、医院の前でみんなと別れて中へ入った。
 松木さんが私の布団も敷いてくれて、自分はスヤスヤと安らかな寝息をたてて眠っていた。
 ちょうどその時隣室の柱時計が、チーン、チーンと二つ鳴った。


(これは兄の物ではなく、昭和18年に出征した主人のための千人針です。)

無事卒業へ

遅刻遅刻の連続

 医院の勤めと自分の勉強にも慣れてだんだんと分かるにつれ、同じ一年生でも年齢は15歳から24、5歳くらいまで巾があり、15歳の私は一番年下であることが分かった。一年以上病院で見習いをしてから養成所へ入った人も多いようであった。
 お盆の興奮も冷めた頃、本場さんの実家から先生の方へたびたび手紙がくるようになった。
 以前、本場さんが休暇を貰って帰ったのは、実は「見合い」だったとのことで、その結婚話が決まって、お礼奉公は半年足らずで終止符を打ち、結局八月末に結婚のため故郷に帰っていった。
 私はいよいよ本格的に一人でやっていかなくてはならなくなった。
 診察室の仕事の方が主となってきたが、朝食の支度や掃除はやらなければならず、養成所へ出かける頃になって患者が来ると、出ることができず遅刻する日が多くなってきた。
 看護婦の教科書は、大筋のことだけの記述が多く、講師の講義を聞きながらノートに取らなければ、ほんとうのくわしい事柄が分からないので、遅刻するとその間のことが全然分からず、また、試験の問題は主として講義の中から出されるので困ることが多かった。
 また、夜10時に診察が終わって器具類の消毒から会計を済ませ、風呂に入って風呂場の掃除を終え、「おやすみ」のご挨拶に行く頃はもう11時を過ぎていて、いざ自分の勉強を始めると眠気が襲ってきて、教科書の上に額を押し付けたまま、朝まで眠ってしまっていたことも度々であった。
 今でも忘れられないのは、一年生の終わりに近い三学期の期末テストの時である。出かけようと袴をつけて準備したところへ患者が入ってきたので仕方なく、前だけの白衣をかけ、先生の治療を手伝い、駆け足で養成所へついたときは、既に1時を15分過ぎていた。
 事務所の窓口へ通学票を渡し、教室入り口のガラス戸を開けて入り、自分の席へ進もうとしたその時、教壇にいた講師が強い声で「待った!!」と言った。仕方なく私は入り口にじっと立っていたが、先生は私を無視したまま5分近く経った。
 黒板には問題が書かれ、教室はしーんとしてみんな答案用紙に向かって解答を書いている。私はいたたまれなくなって、先生のところへ行き、「試験を受けさせてください」と言うと、先生は、「ダメだ!試験のときに遅れてくるなんてもっての外だ。今日の試験は受けられないね」
 私「どうしてでしょうか」
 先生「君が入ってきたときは、始まってから15分以上経っていた。私が黒板に試験問題を書いている間だね、何処かで見ていて、ノート等で調べてから入って来たと思われても仕方ないだろ。君は何処の病院だ?」
 私「磯崎医院です。看護婦は私一人だけなものですから、患者さんを置いて出られませんので遅くなりました」
 先生「ちょっと待っていなさい」と言って、出て行ったが、2、3分後入って来て、
「通学票を出した時すでに遅刻だったようだから、まあ不正をする時間はなかったと思うので、試験は受けてよろしい。しかし、二度と認めないから遅れないように注意しなさい」
 答案用紙を渡されたが、もう、時間は30分以上経過していた。私は悔しさを押し殺して時間内に書けるだけ書いたが、何を書いたか読み返す余裕などはなかった。
 答案用紙を提出して筆記用具を片付けていると、隣りの席に並んでいる小児科病院勤務で私と同姓の方が「ずいぶんひどい先生ねえ」と肩に手を当てて下さった。私は涙がこぼれ落ちそうになったので、「お先に」と言って、唇を噛みしめたまま急いで外へ出た。
 その夜、勤務が終わってから布団に入ったが、一人になって気が緩み、昼間の試験のことが一気によみがえり、『黒板に試験問題を書いている間、どこかで見ていて…』そんなことをする人がいると思うのだろうか。疑わしそうな目で見た講師の顔がうらめしく、悔しさと憤りが込み上げてきて、涙が止まらなかった。


 無事に卒業
 
 昭和12年3月、私は看護婦科二年を無事に終了し、卒業証書を受け取ることができた17歳の春であった。
 今年1年間はお礼奉公の年である。昨年まではあまり心して見物することもできなかった眉山の桜が、この春は一段とあざやかに咲き誇っているように思われ、なんと美しい山なんだろうかと、満開の木の下で晴れやかな気持ちでたたずんだことを覚えている。
 都会の生活にも馴染んで、心にゆとりができてきたのであったろうか。
 この年の4月に、私と同郷の二つ年下の松木さんが看護婦科一年に入学と同時に、この医院に勤務することになった。ぜひ私と同じところで勤めたいと、村から出てきたのだった。とてもほがらかでよく笑う子であった。
 松木さんが大分慣れて来た頃合いを見て、二泊三日の休暇が出たので、故郷を出て以来二年目の帰郷であった。
 父母は「まあ二年も帰って来なかったんじゃのう。身体が大きうなったみたいで、丈夫で何よりだったなあ」
 看護婦卒業証書を早速神棚にお供えして、母は嬉し涙を流して喜んでくれた。
 恩師のお宅へも立ち寄り無事卒業をお知らせしたが、「よう、すっかり見違えたなあ」など、奥様ともども歓迎して下さった。

花柳病とは

花柳病とは

(あまり書きたいことではないが、どうしても書いておかなくてはならないような気持ちにかられて、勇気を出して書くことにした。それは、当時としては人前で口に出して言えない言葉、「同衾」または「交接」、現在では「セックス」産業とか言われて、週刊誌やテレビでは堂々とその場面が映し出され、その言葉が日常会話の中に使われても、別に異常とも思われなくなってきた。しかし、花柳病とはその病菌を持った相手とのセックス行為によって媒介され、一旦、病菌に侵されると、治療をしない限り絶対自然には治らない恐い伝染病であることを言っておきたいためである。1958年(昭和33年)売春防止法が施行されてからも菌は今も生き続けているであろうと思うから)


 花柳病について何の知識もなかった私は、人体の解剖や生理学を学んでいくにつれ、また、毎日治療に訪れる患者を目の前に見ているうちに、大変な病気であることがだんだんと分かってきた。そしてその人たちは表面は立派な紳士であり、会社重役から警察官、学校の先生に至る各職業の人たちで、よほど重病にならない限り、病人とは見えない普通の一般大衆なのであった。
 カルテに記された病名は、淋疾(淋毒性尿道炎)、軟性下疳、梅毒、この三つのいずれかであった。しかし、中にはこれらの菌の出ない単なる尿道炎の人もあったが、これも要注意で、梅毒の場合は潜伏期間三週間なので、その頃再び血液検査を受けて、陰性ならばまず安心となるのであった。
 淋疾の人の訴える病状は、放尿時の疼痛、灼熱感、膿汁の排泄、これらが進むと副睾丸炎を起こし、不妊の原因となる。女子の場合は、子宮内膜炎、腹膜炎を起こし、また、手指を通して菌が目に入れば失明に至る結果となる。
 軟性下疳の場合は、局部の傷がほとんどで、その疼痛の激しさは耐え難い様子で、そけい部淋巴腺炎(よこね)を起こし、これは切開手術を行うよりほか、仕方がなかった。抗生物質などまだなかった時代である。
 梅毒の方は経過が緩慢なのが特徴で、潜伏期は三週間ぐらいと長く、その後、陰部、口唇その他局部が発赤して硬い潰瘍を生じるのが第一期。感染後三ヶ月位から全身の発疹、脱毛、淋巴腺腫脹し、これが第二期症状で、無痛性なのが特徴のようであった。    
三年以上経った第三期の人を見たときは気持ちが悪くなった。鼻は中央が凹み、髪の毛はまだらに抜け、全身に頭のないできものが生じていた。なお進めば梅毒性精神病となり不治の病である。
 当時はドイツ製の「サルバルサン」(俗に六・六と言っていた)注射が特効薬で、これと水銀剤とを交互に注射していたようであった。「六・六(ろくろく)」注射は当時一本七円くらいだったと記憶しているが、私の給料の約二ヶ月分近くであった。
これら花柳病は、接触伝染はもとより、手指、手拭い、衣服、寝具、風呂等をはじめ、キッス、授乳、食器、盃等によって間接的に伝染し、粘膜や皮膚の傷から感染するので、「亡国病」と言われていた。
 病院の看板から「花柳病」と言う字を見なくなったのは何時ごろからだったろう。花柳界で感染する病気だったので、花柳界がなくなった時点からこの名も過去の物となったのだろうが、この病気が全部なくなったとは思えないので、泌尿科の中に含まれているのだろうか。
 そして現在大問題となっているのはエイズである。昔、梅毒の特効薬としてドイツ製の「サルバルサン」があったように、エイズに対しても医学の進歩が目覚しいので、一日も早く特効薬が発見されるよう祈らずにはいられない。


2006-05-12 「徳島の盆踊り」にイラストを追加しました)