最後のエントリ - 電波受信記録について

かつてこのブログは3人の人間によって運営されていました。このブログを始めた最初の人間は、当初こそ意欲的に記事を書いていましたが、すぐに放り出してこの場を友人に譲り渡してしまいました。

その友人とは、この文章を書いている人間、私自身です。しかし、私もまたすぐに行き詰ってしまいました。そこで、このブログを続けるために、ある知人の助けを借りることにしました。

私が言うのもなんですが、彼はとても聡明な人物でした。少なくても私はそう思っています。しかし、問題がありました。そう、彼は重度の精神疾患を患っていたのです。それは鬱病に似た症状を示していましたが、あらゆる医学的対処法を試しても改善の余地が見られないような原因不明の心の病でした。

また、彼はとても聡明でしたが、病気の影響なのか、理性的な文章のところどころに意味の分からないこと、まさに「電波」としか思えない妄言を書く癖がありました。おそらく幻聴のようなモノが彼にそれを書かせたのでしょう。そこで私は、彼の文章を校正する役割を引き受けました。


こうして電波受信記録は、約1年ほど続いたのです。

今思えば、彼の現実に対する冷たい観察眼と、それとは似ても似つかない想像力豊かな妄想の世界との間を、傍観者として行き来できたのは刺激的な体験でした。


しかし、去年の暮れごろにとても悲しいことが起きました。
彼が自殺したのです。


私は心の底から動揺し、しばらくの間、世の中の一切の動きに関心がなくなってしまいました。当然、ブログを更新する気などまったく起きなくなっていました。もちろん、自殺の原因について詳しく語る気はありません。恐らく彼が書いた最後のエントリに何らかのヒントが隠されているでしょう。

あのエントリに書かれている事柄が真実なのかどうか、私にも分かりません。ただ実感としては、大部分が彼の妄想に過ぎないような気がします。しかし、それが何でしょうか?彼は自分自身の思考能力を持て余し、圧倒され、追い込まれ、そして殺されました。妄想であれなんであれ、それは「現実」として彼を殺したのです。

彼が自ら命を絶った原因の一端を私が担ってしまったのかもしれません。彼の妄想は、文章化することでより強固になっていったからです。言葉にならないほど後悔しています。しかし、覆水盆に帰らず。彼は死んでしまいました。もはや後の祭りです。


心を病んでいたとはいえ、私は彼を人間として尊敬していましたし、今もその気持ちは変わりません。一方で、彼の頭脳がもう少し劣ってさえいれば、彼は心を病まず、若くして死ぬこともなかったと思うこともあります。しかし、そうであれば、私が彼に関心を持つこともなかったでしょう。

このブログに何度も書いてきたことですが、世の中は矛盾しており、物事には必ず皮肉的な結末が待ち受けています。それを甘んじて受け止める無謀で、無意味で、無価値な行為の連続こそ私たちの「人生」そのものです。高度な思考能力など、人間として生き続け、そして死ぬためには必要ありません。世界は、人間の思考能力を遥かに超越しているからです。


皆さんも「自分は世界を理解している」などとは思い込まないでください。

当然ながら私も含め、ほとんどの人間は無知で凡愚です。ほんの一握りの人間だけが「世界」の微細な一部分を理解できるかもしれません。しかし、彼らはその代償に人間として生き、そして死ぬ権利を生まれながら奪われているのです。その権利を彼らから奪っているのは、俗に言う「神さま」なのかもしれませんし、あるいは世界が内包する矛盾そのものなのかもしれません。

私は、それでも世界の矛盾を愛することを選びたいと思います。


ここまでお読みいただいたことを感謝します。
ありがとうございました。

三人の女性

今日は全く個人的な話をしようと思う。

自分を偽り続けることで誰かを幸せに出来る状況を考えよう。この状況では自分の心理的な負担が大きい。故に、その「誰か」を幸せにすることに大きな価値を見出せないかもしれない。

次に自分に正直であることで、誰かを不幸せにしてしまう状況を考えよう。当然、この状況では自分の心理的負担は小さい。最も正しい選択のようにも見える。だが、それ故に「誰か」を傷付けてしまうとすれば、結果として心理的負担は大きなものとなり得る。

つまり、これら二つの状況が重なり合うことによってジレンマが極大化する。しかし、今回はあくまで個人的な話だ。個人の経験でお話させて頂こう。過去、私の目の前には3人の女性が存在したのだ。


とある女性と何かの偶然で親しくなった。私はそれほど魅力を感じてはいなかったが、彼女が一人目の女性だ。付き合う前からある程度分かってはいたが、その女性は精神が未熟で、他人に対して理想化と軽蔑を行き来するような態度しか取れない人物だった。それでいて愛情表現は拙く、控えめなものだった。
その幼い部分はときに魅力的にも映ったが、大人し過ぎる性格は、正直付き合っていても張り合いがなかった。程なく、私は彼女が疎ましく思うようになる。

そこに二人目の女性が現れる。彼女は裏表なく他者と交われる快活な人物で、一人目の女性とは正反対な性格であった。私は彼女に惹かれていく自分を否定し切れなかった。そして散々悩んだあげく、私は自分に正直になることを選択した。一人目の女性を見限ったのだ。

二人目の女性との交際は首尾よく始まった。その関係はしばらくの間安定して推移した。だが関係が続くうちに、むしろ彼女の方が二人の関係に固執するようになる。そして私にはそれが負担に感じるようになった(心理学的には、「女性の愛情は交際期間を経るに従って深くなる」というデータがある)。

四六時中、交際相手に想われ続ける関係など、恋愛経験のない夢見る少年少女でもなければ、いかに鬱陶しいものかお分かりになるだろう。素っ気ない態度は物悲しいが、あまりに執着されるのは不愉快になる。巷には過剰なほど愛を賞賛した物語で溢れかえっているが、当時の私にはそれが悪い冗談のようにしか聞こえなかった。


実は一人目の女性が現れる前から、私が想いを寄せる女性がいた。それが三人目の女性である。三人目の女性は全く魅力的な人物だった。実のところ、私は他の女性と付き合っているときでも、常に彼女のことを考えていた。
だが、私は二人目の女性を見限る気にはなれなかった。彼女の強過ぎる思い入れに不快感を覚えていたものの、一人目の女性に与えたような屈辱を、彼女に経験させたくはなかったのだ(一人目の女性はあれから私を避けるようになった)。何はともあれ、私は二人目の女性を大切にしたかったのだ。

自分に正直になれない不愉快な日々。だが不幸な「幸運」が舞い降りたことにより、その毎日が唐突に終わりを迎えた。三人目の女性と親しくなる機会に恵まれたのだ。私は再び決心した、自分に正直になろうと。そうして二人目の女性との関係を曖昧にやり過ごしながら、自分が最も好意を寄せる人物との関係に没入していった。
今思えば当たり前のことだが、これは最悪の選択である。当然の結果として二人目の女性との関係は次第に冷めていった。だが、不幸にも三人目の女性は私に対して強い感情を抱くことはついぞなかったのである。その魅力ゆえに幾らでも代わりがいたのか、あるいはそういう性格なのか、三人目の女性は関係を維持することに無頓着だった。やはり今までの女性たちとは正反対である。彼女にとって二人の関係は、いつでもクーリングオフが利く「試用期間」のようなものだったのかもしれない。まぁ、今となってはどうでも良いことだ。


結局、私は自分自身を含む全ての登場人物が深く傷つくシナリオを選択してしまったのだ。いや、三人目の女性が傷付いたとは決して思えないから、最も愛する女性を傷付けなかったということだけでも「救い」とでも言えるだろうか。そんな無神経な冗談を笑えるほど、私は強くない。

とにかく、こうして私の前から、三人の女性が消えたのだ。


さて、では当時の私にとって次善の策は何であり得ただろうか。好意を感じていない女性と無理に関係を続けることだっただろうか。それなりに愛していた女性と不愉快な関係を維持することだっただろうか。それとも、他の女性を傷付けても最も愛する女性と浅薄な関係を楽しむことだっただろうか。

今の私には明確な答えがある。当時の自分が相談したとすれば、私はこう答えただろう、「二人目の女性を愛し尽くせ」と。

自分と相手の犠牲がちょうど釣り合うくらいの関係が、普通の人間同士にとっては最も適している、と私は考える。少し疎ましいくらいの関係性。つまり、自分にとっても相手にとっても何かが欠けていて、それ故に欠けたものを埋め合わせようという「意欲」が湧く程度の失望感。今の私には、それが最も安定した関係だと信じている。

今の私には分かる。幸せとは訪ね歩くものでも、掴み取るものでもない。即ち、育て上げるものなのだと。
そして、そのためにはある程度の犠牲と忍耐が不可欠なのだ。


三人の女性はもういない。だが、彼女たちがいなければ、今の私もいなかっただろう。
美辞麗句で飾り立てたことを言うつもりはない。ただ、私には彼女たちとの思い出が愛しくてならないのだ。

潔癖症に対する誤解

世間の人々は潔癖症に対して「病原菌を過剰に恐れる心の病」といった捉え方をする。だから、潔癖症に悩む人々に対して「幾ら身体を洗浄しても完全に菌を排除することは不可能だ」といったような見当違いな助言をしがちだ。こういった助言は、潔癖症的な行動が「何らかの合理的な価値判断に基づいてなされている」という誤解が根底にある。

しかし、潔癖症に悩む人々は「不浄」に対する恐怖や不安に苦しんでいるのである。病原菌といった具体例は、不快な感情を引き起こす原因の一つとして挙げられているだけに過ぎない。潔癖症の本質的な問題は「不浄に対する恐怖」である。極めて情緒的な問題なのだ。

恐怖や不安といった感情は、たとえ実体がなくとも湧きあがってくる。身体に危害を加えるような問題が何もなかったとしても、深夜に暗い山道を独りで歩いていれば誰でも不安や恐怖を感じるだろう。潔癖症の患者にとっては日常生活こそが深夜の暗い山道なのだ。

つまり、潔癖症に罹患した個人の脳内では「不浄」という問題に関して著しく不適切な処理が行われている。その症状を治療するには、相手の「不浄」に対する感覚を否定するのではなく、その感覚を日常生活に支障のない水準にまで調整すれば良い。

とはいえ、一個人の価値判断というものはそう簡単に修正できるものではない。人間には変化を恐れる習性があるからだ。これもまた一つの「恐怖」である。

本来「恐怖」は私たちを危険から守るための感情だ。だが、この現代社会では「恐怖」こそが私たちの健全で自由な生活を侵害する。私たちに残されているのは、幾つかの医学的な対処法か、自ら命を絶つくらいしかないだろう。

優しい社会と厳しい社会

優しい社会は社会的コストが高い。厳しい社会は社会的コストが低い。

一方で、厳しい社会は低いコストの代償として断続的に小規模なコストを払い続ける必要がある。まれに大規模なコストを払う必要も出てくるだろう。

しかし、全体にかかる社会的コストを合計すれば、厳しい社会の方が優しい社会よりもコストが低い。だから、私たちは厳しい社会を選択している。だとすれば、その突発的で大規模なコストは、低い社会的コストを享受する私たち自身の選択の結果であることが分かる。

こうして私たちは、断続的に小規模あるいは突発的に大規模なコストを見ないふりをして、社会に事実上のタダ乗りしている。確かに無賃乗車をうまく続けられるうちは気が楽だろう。

だが、確率論的に言って社会を構成する一部の人々が生贄とならざるを得ない。私たちは厳しい社会を選択しているのであり、低コストで社会を運営していくためには生贄がどうしても必要になるからだ。

たとえ、あなたが社会の生贄になったとしても誰もあなたに同情してくれる人などいない。むしろ人々はあなたを軽蔑し、人格を否定し、社会から追い出そうとするだろう。あなたは生贄になることを拒否し、社会に牙を剥くかもしれない。しかし、生贄になることが決定した時点で、あなたが人間狩りから逃げ出す手段など残されていないのかもしれない。唯一、自ら終わりにすることを除いては。

あなたが生贄になったとき、私はあなたを救い出すべきだろうか。私は救い出してあげたい。しかし、力が及ばないかもしれない。あなたが生贄になったことに気付かないかもしれない。

厳しい社会において個人の力はあまりに弱い。孤独では生きてはいけない。厳しい社会である以上、私たちは相互に優しさを共有していかなければ生き残れないだろう。この社会において他者に対する優しさを拒否することは、自ら命を絶つ行為に等しい。

だから、あなたが生贄に選ばれたのならば、私は同情するだろう。たとえ、あなたが大きな許されざる罪を犯したとしても、わたしは罪を犯すに至った背景に思いを馳せ、やり切れない怒りと後悔と哀しみを共有すると誓う。あなたが罪を清算するその直前まで、私はあなたを忘れない

私には生贄を解放する力はない。だから、私は忘れない。
怒りと後悔と哀しみを共有する。そう誓おう。

Free Tibet

"Free Tibet" は、この "Free" をどういった品詞として解釈するかによって意味が変わる。なかなか味わいのある言い回しだ。

チベット亡命政府ダライラマを慕う穏健派)は、宗教や自治という点で「自由(Free)なチベット」を求めている*1。一方、チベット青年会議(反猊下な過激派)は中国からの独立という意味で「チベットを解放(Free)せよ!」と唱える*2チベット人民の同床異夢を見事に言い表しているのだ。

ところで、欧米諸国の本音は「チベットはタダ(Free)」かもしれない*3。つまり、人権問題で中国を強請ればチベットの天然資源は「タダ」で手に入る(参考*4)。実際、スピルバーグ監督*5リチャード・ギア*6はご存知なかったようだが、北京五輪の成功を狙う中国はダルフール問題の解決に寄与している(参考*7)。参考リンク(外務省のサイト)にもある通り、五輪というネタで中国政府が脅迫された形に近い。国際外交において一度相手に屈すれば、同じ手で何度も脅される*8

要するに、現在の中国政府は国際社会という観客の前で踊る踊り子だ。踊り続けるに従って衣装が次々と脱がされていく。いつかは丸裸にされるだろう。つまり中華人民共和国の崩壊だ。このままでは避けられない。

だが、来るべき「終わりの日」を避ける手段がないわけではない。例えば中国全土に連邦制を採用するといった大規模な国家改造だ。しかし、連邦制を採用したり、諸地域に「高度な自治」の権利を与えてしまえば、地理的・地政学的・歴史的な観点から考えて現体制を無傷なままで温存できるとは考えにくい。つまりは究極の選択だ。即ち、共産党体制を解体するか、国家自体が崩壊するか。

遅かれ早かれ、また程度の差こそあれ、中国は変わるだろう。共産党体制を解体して自由民主主義を採用すれば、中国は欧米諸国にとって安心して同盟を組める国になる。China-free*9ならぬ、Free China *10が中国本土で実現するのだ。もちろん国家自体が崩壊し、中国全土が混乱すれば少なくとも軍事的な脅威はなくなる*11。どちらの道を辿るのであれ、そのとき中国は国際社会にとって政治的あるいは軍事的に「敵」ではなくなる。

Free Patani! - タイ王国に反撃しよう!

中国が倒すべき敵ではなくなってしまったときのことを考えてほしい。敵がいない世界というのは非常に不安だろう。そこで少数民族を武力で弾圧し、現在もなお文化大虐殺を行っているもう一つの国の存在を知っておいて欲しい。タイ王国だ。

タイ王国は深南部三県(パタニ地方)に住む原住民に対して弾圧を続けている。パタニの人々はタイ人とは異なるマレー系民族であり、本来ならばマレーシアに属するか、タイから独立すべき人々なのだ。

民族自決の権利を求めてタイ王国と闘争を続けているパタニ連合解放前線に支援をお願いしたい。そうすれば、晴れてあなたはテロリストの仲間入りだ。それこそが Free Tibet の本質でもある。

ダライラマ14世がノーベル平和賞に選ばれたのも、この「本質」を巧みに回避する独特な思想ゆえだ。そういえば仏教の極意は諦めにある。そう、妥協は敗北ではない。真の勝利とは厳かな敗北と共にやってくるものなのだ*12

*1:free を形容詞(最も一般的な意味)として解釈。

*2:free を命令形の動詞として解釈

*3:free を形容詞「無料の」という意味として解釈。

*4:木材, 金, 銅, ダイヤモンド, 石油, そして何よりも大量の水源。

*5:ハリウッド色全開の売れ線の映画ばかり作る日本マニア。たまに政治的に偏った映画も作る。

*6:他国の文化に無頓着だったためにインドで「強姦騒動」を引き起こしたアメリカの俳優。この人もやはり日本オタク。

*7:「(3)ダルフール情勢」の(ホ)を参照のこと

*8:日本政府の姿勢は Free Tibet ならぬ、Tibet-free(チベットをなかったことにする)のようにも見える。理由は言わずもがな。

*9:中国製品の一切を輸入しないという運動のこと

*10:「自由な中国」という意味であり、一般的には台湾を指す言葉。

*11:ヨーロッパ全土を巻き込む第一次世界大戦時の欧州諸国やロシア革命直後のロシアを想像してみると良い。

*12:行間を読めない、あるいは読む気がない方のために注記しておきます。タイ王国は一種の比喩として挙げたものに過ぎず、kilemall はパタニ連合解放戦線とは何の関係もありません。

信用してはいけない意見の一例 - 宗教編

世の中には信用してはいけない意見というものが存在します。日本においては、特に海外の宗教について論じた意見の中に荒唐無稽なものが多いようです。そして、そのような暴論の多くには共通する特徴があるのです。

それは、不適的な枠組みで宗教を論じていることです。例えば、ある宗教における異なる宗派群を大同小異として取り扱った上で批判するといった行為が挙げられるでしょう。

こういった意見が常に誤っているわけではありません。しかし、そういう前提に立った上で正しく論じるには細心の注意が必要となります。そのため、多くの論者が実態と乖離した不毛な意見を述べる結果に終わっています。それは、この電波受信記録における記事の一部も例外ではありません。

そこで宗教について論じる際の注意点と、適切な枠組みの区切り方について簡単な提言を述べておこうと思います。

大まか過ぎる枠組みで宗教を論じる意見

キリスト教を例に採ってみましょう。この場合、新教や旧教、その他の宗派間における違いを全く無視した上でキリスト教徒の行動や思想について論じている言説が多く見られます。同じようにイスラムを例に採ると、東南アジアにおける穏健で土着化したスンニ派と、極端に厳格で保守的なワッハーブ派*1を一緒くたにして論じるといったことが挙げられます。

酷いものになると、ユダヤ教から派生した全ての宗教*2を全く同じようなものとして扱う方々もいます。単なる暴論です。更に、そのユダヤ教について論じた言説の中には「ユダヤ教徒とは即ちシオニストである*3」といった間違いを信じて疑わないものが多く存在します。ちなみに、聖書の記述に誠実な保守派のユダヤ教徒は、人工的に建設された現代のイスラエルを否定することがあります*4

不適切な枠組みで論じた場合の不毛さ - オタクを例にして

但し、宗教にあまり関心がない方々には「同じ宗教であれば大同小異だろう」と思われるかもしれません。そこで上に挙げたような例がいかに荒唐無稽なものであるか、日本人に分かりやすい例で説明してみましょう。

一番良い例は「オタク」です。オタクが意味するものは普通、アニメやゲームといった趣味に熱中する人々のことでしょう。しかし、それ以外にも鉄道や釣り、歴史、芸能界、輸送機器、懸賞といった様々な分野においてオタクと呼ばれている方々が存在します。

ここで、もし釣りオタクの人がアニメ好きなオタクと一緒くたにされ、「オタクは自然と触れ合わないインドア派の連中だ」などと批判されたとしたらどうでしょうか*5。また同じアニメーションだからと言って、パペットアニメ*6に熱中する人とユーリ・ノルシュテインルネ・ラルーに傾倒する人、日本の萌えアニメ*7を愛好する人たちを大同小異と片付けられるでしょうか。

アニメに詳しくない方でもノルシュテインの名作『霧の中のハリネズミ』と『ポケットモンスター』のピカチュー、ディズニーのミッキーマウスを「同じ齧歯類をモデルにしているから大同小異」などとは言わないでしょう。断言できます。これらは同じネズミを主役に据えたアニメーションであっても、それぞれ個別に論じるべき対象です。これくらいの差であれば一般人でも感覚的に区別できるでしょう。

話は宗教に戻りますが

これは宗教においても同じです。異なる宗教が一定の枠組み内に収まり得るとしても、基本的に各々の宗派は個別に論じるべきなのです。但し、確かに宗教間の比較として対象を大まかに区切ることは許されるでしょう。それでも雑駁な枠組みでの宗教論は、細心の注意をもって論じる必要があるのです。

具体的に言いましょう。同じキリスト教でも旧教と新教は別な枠組みとして捉えるべきです。もちろん正教会聖公会*8といった他宗派との区別も付けなければなりません。また新教であっても少なくとも原理主義とその他を区別する必要があります。

同じイスラム教国であっても原理主義的な中東諸国と世俗主義が浸透しているトルコや東南アジア諸国*9を一緒くたに論じるべきではありません。同じ中東諸国であっても部族の内規がイスラム法に優先することがあるイエメン*10イスラム法を絶対とするサウジアラビアを大同小異と捉えるのには問題があります。

日本の宗教観を例にして考えてみる

最後に日本人にとって自己言及的な説明をしてみましょう。仏教です。

日本の仏教はチベットやタイの仏教とは異なります。チベット仏教に親和的な日本人であっても、さすがにダライ・ラマを教祖として信仰する人は少ないでしょう。タイ仏教に関心がある人でもプミポン国王を仏教の守護者として崇拝するということはまずないでしょう。そもそも生存している人物を絶対的な教祖として崇拝するという仕組みが日本の仏教のあり方とは異なります*11

ここで海外のキリスト教*12が「日本人は仏教徒だから神(超自然的な対象)への信仰を否定する」と主張したらどうでしょうか。確かに日本人は多くはイスラエルの神への信仰を否定するでしょう。また彼らとは「神」の概念が異なることも事実でしょう。しかし、日本人は神=超自然的な対象を信仰することがあります。仏教信仰と渾然一体とはなっていますが、日本中に神社があることがその証拠と言えます。そもそも日本仏教では、如来や菩薩、天神といった数多くの超自然的存在が信仰の対象となっています。

また、ついでに儒教についても考えてみましょう。孔子様は怪力乱神を論じなかったと言われています*13。怪力乱神とは超自然的な対象一般のことです。そこで同じくキリスト教*14が「儒教の影響が強い国では神を信仰しない」と主張したとしたらどうでしょうか。答えるまでもありませんね。これまで述べてきたように日本でも「怪力乱神」は信仰されていますし、同様に朝鮮半島でも独特な先祖霊崇拝があります*15

このように同じ宗教だからといって大まかな枠組みで論じると、実態から大きく乖離した不毛な意見となってしまいがちなのです。

*1:サウジアラビアの国教として採用されている復古主義的な宗派。

*2:即ち、イスラエルの神を信仰する宗教。

*3:論理的に言えば、その逆は真です(厳密に言えば、ユダヤ教徒でないシオニストもいるので誤り)。だからといって命題が真である証明にはなりません。

*4:「真のメシアがユダヤ教徒の前に現れた時、初めてダビデの国が再興される」という聖書の一節から。

*5:この批判自体が荒唐無稽かもしれませんが…。

*6:人形や粘土をコマ撮りして作成されたアニメーション。

*7:日本アニメも多種多様なので一応簡単な区切りを付けてみました。

*8:例えば、アメリカ聖公会は同性愛や妊娠中絶を許容し、女性が聖職者になることを認めています。

*9:但し、ブルネイの例もあるので、必ずしも世俗主義の国しかないというわけではありません。

*10:しかもイエメンは自由民主主義を採用する中東唯一の国家。

*11:日蓮宗系の新宗教である創価学会を除く。ただ、日蓮の教え自体が仏教を逸脱しているという捉え方もありますが。

*12:自分で「区別しろ」と言っておきながら、ここで大まかに語ると片手落ちですね。とりあえず新教系である再洗礼派の一つ、メノナイト派信徒ということにしておきましょう。彼らの絶対平和主義は憲法9条に似てますし(冗談)

*13:論語』の一節:子不語怪力亂神(参考

*14:ここでは単性論を採用する教会の一つ、コプト正教会の信者ということにしておきましょうか。

*15:そもそも韓国にはキリスト教徒が多いし、韓国発祥の統一教会キリスト教新宗教です。

American joke a la Hollywood lah!

カリブの海賊: 世界の果てで』において周潤發が演じているシンガポールの海賊サオ・フェンは、劇中において中国語の官話を話している。これは非常に奇妙な光景だ。

官話は英語で言うところの Mandarin*1であり、現在の中国語における標準語(普通話)の基礎となっている。但し忘れてはならないのは、官話が華北を中心とした中国大陸における北方地域の方言であるという点だ。

確かに中国の首都が北京になって以来、官話が中国語の代表となった。そのため、現代における殆どの中国語話者は官話(正確には普通話)を理解できる。当然、シンガポールやマレーシアなど中華系の人々が多い国や地域では、普通話が使えれば(少なくとも簡単な)意思疎通は可能だ。

しかし、それが『カリブの海賊』の舞台となっている約300年前の世界となれば話は別だ。当時、シンガポールにいた華僑は基本的に福建語(特に閩南語)しか理解できなかったはずだ。ましてや劇中のフェンのように流暢な官話を話せるわけがない*2

ただ、ここで「お国訛りが違っても同じ言語ならば大した差はあるまい」と考える向きもあるだろう。確かに日本語は各方言間における差異が小さい。せいぜい互いの会話が聞き取りにくいといった程度であろう*3。但し、これは明治期に政府が極端な「方言狩り」を行った結果である。一方、中国語における各方言の話者間では、筆記であろうと口頭であろうと意思の疎通もままならない。しばしば中国共産党は他文化の抑圧を好むと喧伝されているが、言語に関する処置に関しては明治新政府の方がより苛烈であったようだ*4

要するに、少なくとも300年前の世界では官話と福建語は実質的に別言語であった。だから、劇中においてフェンが官話を流暢に話すというのは、生粋の薩摩藩士が流暢な津軽弁を話すというくらい奇妙な光景なのだ。これこそまさに、ハリウッド流のアメリカンジョークと解するべきだろう(大嘘)。

*1:「お役所言葉」という意味。

*2:ただ、香港出身である周潤發が話す普通語は、広東訛りが強いという批判もある。

*3:但し、奥羽地方の一部(特に津軽弁ケセン語)と琉球地方を除く。これら地方は別系統の言語(アイヌ語琉球語)の影響が強く残っているため、他の方言話者との意思疎通が困難なことがある。

*4:中国大陸の広大さを考えると、この領域内で同じ言語を強制することは原理的に不可能なだけかもしれない。だが、同じ広大な領域を持つロシア(旧ソ連)では、標準語の強制が徹底していたために国内における方言間の差が少ない(参考)。そう考えると、やはり中国政府は国語政策に関しては比較的寛容と言えるだろう。実際、チベット自治区においてチベット語教育が禁止されているわけではない。