映画を見るたびにぼくは少年に戻って行く 武市好古

ストリップティーズとW・アレンのティー

 ティーズ(tease)ということばがある。これは、いじめる、悩ます、からかう、ひやかす、なぶる、などの意味が一般的には知られているが、ぼくはこのことばから、どういうわけかすぐ「じらす」という日本語を想像してしまうのだ。

(略)

ぼくにとってのティーズは、ストリップティーズのティーズなのである。(略)

お客をじらしながら裸になってゆく踊りがストリップティーズなのであって、なるほどいまのようにじらし抜きでズバリ御開帳ではストリップとしかいいようがないのだろう。

(略)

 実は、ティーズこそエンタテインメントのコアとなる技術であり、思想でもあるとぼくはつねづね考えているのである。ティーズこそ芸であり、ティーズ抜きのエンタテインメントなんて、チーズのはいっていないチーズバーガーのようなものなのである。一流の芸人や芸の世界のつくり手の仕事には、かならずティーズがはいっている。ヒチコックの映画はその典型で、ぼくにいわしてもらうとヒチコックはシネマティーズの名人なのだ。ビリー・ワイルダーもかなりのティーザーだ。そしてぼくの大好きなウディ・アレンは、ミスター・ティーズマンとでも名付けたいほどの、ティーズの天才である。

(略)

ウディ・アレンティーズは、ヒチコックやワイルダーのようなシネマツルギーに内包された技術としてのティーズとちがって、ことば遊びの中にとじ込められた思想としてのティーズなので、翻訳のプロセスで洗いおとされてしまうこともあってちょっと判りにくいのである。

 英語、いや米語、それもユダヤ的発想のアメリカン・イングリッシュが判れば、ウディ・アレンは最高におもしろいのだ。この意味では彼の著作は、映画よりも判り易いかも知れない。

(略)

誤訳字幕

(略)

 六八年公開の「ダイヤモンド・ジャック」というジョージ・ハミルトンが宝石泥棒になる映画で傑作誤訳があった。

 ザ・ザ・ガボール扮する有閑マダムが、別れた亭主からの長距離電話を受けて話しているうちに「ところであなたはどうして自分の過去の罪をむかえしてばかりいるの」という。(略)斜体の部分が誤訳で、ここは原語では、Reverse charge といっているので、これはコレクトコールつまり受信人払いのことなのだ。どうして私に料金を払わせてばかりいるの、と金持ちの女がケチなことを言っているのがおもしろいのに(さらにこのとき彼女のダイヤモンドが盗まれるのだ)字幕の訳では、つじつまも合わないしおもしろくもなんともない。

(略)

 「スーパーマンⅡ」の冒頭の部分で、新聞記者クラーク・ケント(実はスーパーマン)が編集長に休日をどう過ごしたと問われ「本を読んでいました」と答えるシーンがあるが、カッコの字幕に対して原語では「ディケンズを読んでいました」といっているのだ。ただ本を読んでいたのと、ディケンズを読んでいたのではまるで人物のおもしろさがちがってくる。宇宙の孤児スーパーマンディケンズの、おそらく「ディヴィッド・コパフィールド」か「オリバー・ツイスト」(ともに孤児が主人公の小説)を読んでいたと想像するだけで、この映画がぐんと楽しくなるのだ。事実、このスーパーマンの人間を愛しすぎる優しさが、ドラマの重要なポイントになっているのだから、ディケンズを省略したのはセンスのない訳といわなければならないだろう。アラさがしが本意ではないので提案をひとつ。どうでしょう、字幕翻訳者をもっと自由に選んでみては。たとえば、スーパーマン小野耕世さんに頼むとか、ハードボイルドものは小鷹信光さん、コメディなら片岡義男さん、だが。文芸ものは村上春樹青山南さん。この顔ぶれならポスターに名前を出しても効果があると思うのだが。

スポンタニティということ

(略)

[「駅STATION」]

 高倉健の主人公は、そのまわりの人物がよく描けているからその人たちの存在感という栄養分を充分に吸収して、魅力的な人物たり得ている。(略)

[高倉健が]デビューした時、三白眼のおもしろいやつが出てきたな、と思ったことがある。たしか、沖縄の空手使いの役だったはずだが、これはよくなるぞという予感がピーンときたのを今でもよく覚えている。(略)

石原裕次郎だって、あの太陽族映画でデビューした時、兄貴の七光りだけじゃないものが、スポンティニアス(自然発生的)に伝わってきた。スポンティニアスな魅力がなければ、俳優なんてデクのぼう同然である。うまい、へた、はそのあとである。とりあえず、そんなにうまくなくともスポンタニティさえ持っていれば俳優稼業は立派につづけられるのだ。

(略)

 スポンタニティこそが俳優の存在理由である、とぼくはつねづね書いているが、ごく最近、それについて蘆原英了さんが書かれた文章を見つけ、それがとてもわかり易いので、ちょっと引用してみたい。

 「モーリス・シェヴァリエは、一つの唄を三ヵ月ぐらい準備し振付師によって振りまでつけてもらう。これはイヴ・モンタンも同じことである。両人とも器用でないので、振付師や演出者の手をかりて、アンコールのお辞儀まで稽古する。しかしそれを舞台で見ると、まるで彼等が今そこで自由にやっているように見える。振付師や演出者の手を借りた芸とは、とても見えない。これをフランスではスポンタネテ(偶然性とか自然に内面から湧きでる性質)といって、非常に重要視する。そしてスポンタネテのないものは、ダメだというのである。

 越路吹雪が何度もピアフの同じ舞台を見たために、たいせつなことを発見したことはいいことだった。毎日毎日新たに見える芸が、実は毎日毎日同じ芸だったというわけである。ついでにおまけをつけ加えておけば、越路吹雪もじゅうぶんにスポンタネテを持っている。」

 この文章は、昭和四六年日生劇場で行われた越路吹雪ロングリサイタルのプログラムに掲載されていたものだ。さすがは見識ある評論家だった蘆原さんの文章である。スポンタニティが、フランス語のスポンタネテであり、しかもエンターテイナーの必要条件であると、ハッキリ書いておられるのに感心した。

 実は、スポンタニティをエンタテインメント論で意識的にとりあげたのは、このぼくが最初ではないかといささか己惚れていたので、偶然にこの蘆原さんの文章を発見したときは正直なところショックだった。

 大体、スポンタニティということばをぼくがはじめて見たのは、植草甚一さんの文章だったと思う。昭和三六年頃だったのではないか。映画雑誌のはずだが誌名も、また何について書いた文章だったかも憶えていない。ただ、スポンタニティというカナ文字がやけに印象的に使われていたことだけが頭に残っているのだ。

 「駅」の中でスポンティニアスな演技をしていたのは、電車の中にほんのちょっと出てくる武田鉄矢ひとりである。あとの俳優たちはみんななんだか計算した芝居をして、それがちょっと気になっているのだが……。

ウディ・アレンの素顔をのぞく

 オーストラリアで手に入れたシネマ・ペイパーズという雑誌のバックナンバーに、ウディ・アレン関係の記事があったので紹介してみよう。

 これは、ウディのマネージャーであり、プロデューサーでもあるチャールズ・H・ジョフェにインタビューした記事である。

Qまずふたりがビジネス仲間になったきっかけは?

A私がマイク・ニコルズとエレイン・メイのマネジャーをやっていた頃ですから、およそ二十年ほど前ですが、シャイで小柄なウディにはじめて会いました。当時彼はジョークやコントの作家でしたから、何か書いてもらおうとして会ったわけです。それ以来、ずっと仕事をともにしているのです。

Qその時、現在の彼が想像できたでしょうか?

A才能のひらめきはたしかにありました。それでもその頃の彼は、一所懸命に自分の道を探しているという感じでした。

Q監督しているときの彼は画面の中の彼と同じでしょうか?

Aいいえ、まるで別人です。マジメな顔つきで笑顔ひとつみせてくれません。

Qセットを出たときは?

Aいずれにせよ彼はシャイを絵に書いたような人ですから、知らない人の中ではまるで居心地が悪いのです。友人となら自然にふるまえるのですが。

Q「アニー・ホール」がアカデミー賞をとった時の彼は?

A彼は映画はコンテストではないと考えています。それに大体「スタ・ウォーズ」と「アニー・ホール」はどう考えても比較のできる作品ではないし……。

Qウディ・アレンは観客を頭において作品をつくっているのでしょうか?

Aいいえ、彼は自分のつくりたいものをつくっているだけで、それが観客の気に入ってくれればうれしい、という考えです。もし、俗受けを狙うのなら、セクシーな女優を五人ばかり使ってたっぷりヌードを見せるようなものをつくるでしょうが。

(略)

Qいままでの作品で一番興行成績の悪かったのは?

A「インテリア」と「バナナ」です。それでも赤字になってはいませんし、「インテリア」はある程度それを予想してつくったようなところもあったので。

(略)

シゴニー・ウィーバー

 ウディ・アレンのことを最近ウッディ・アレンと表記するようになったが(略)とんでもない間違いである。WoodがウッドだからYがついてもウッディだろうとお考えなら短絡すぎます。これはむしろウーディなのだが、ウディでいいのだ。(略)

ある雑誌にウディと書いた原稿を渡したのに全部ウッディに直されていた

(略)

スタンリー・カブリック→キューブリックのときもおもしろくなかったが、これはその後の調査によってクブリックが正しいと確信を得たのでぼくはそのように書くようにしている。そういえば植草甚一さんがクブリックと書いていたような気がする。

(略)

 シガニー・ウィーバーは本人がいっているように、シゴニーが正しいのだから、やはりガをゴにすべきである。

 

ワード・オブ・マウス ジャコ・パストリアス 魂の言葉

生い立ち、音楽的バックグラウンド

父親はギリシャ系で(略)ドラマーで歌手なんだ。フランク・シナトラとかトニー・ベネット風のジャズ・シンガーだ。もちろん現在も現役としてやっている。

(略)

僕が7歳になった時、両親は離婚してしまい(略)母と一緒にフロリダに移住することになった。(略)アメリカとキューバが国交を断絶する前だったから、フロリダではキューバの音楽がとても盛んだったんだよ。トリニダッドのカリプソとかスティール・ドラムのバンドなんかもよく聴かれていたね。ラジオでもこの種の音楽がしょっちゅう放送されていた。フロリダではこのほかに、R&Bなんかのブラック・ミュージックも盛んで、僕は11歳か12歳になる頃には、ジェームス・ブラウンとかオーティス・レディングウイルソン・ピケットのファンになっていたよ。一方、父がドラマーだったので、子供の頃からドラムをよく叩いていてね。当然のようにリズムには特に感受性が強かった。だからフロリダで聴いたカリブ諸島の民族的なリズムは、僕のリズム感に大きな影響を与えたんだ。

(略)

ベースは15歳になった春(略)

ジャズを自分で聴き出したのはこの頃からで、母親のベッドの下のほこりにまみれた(略)マックス・ローチの(略)チャーリー・パーカーの曲ばかりを演奏したアルバムだった。もちろん最初、僕はチャーリー・パーカーのことなんて皆目知らなかった。家にあったレコード・プレイヤーがまたひどいもので、ベースの音なんてはっきりとは聴きとれないような安物だった。でも僕は、トランペットとテナー・サックスが吹くメロディを聴きとって、その曲のラインを記憶すると、そのラインがどのコードになっているかをピアノで探り出し、それに番号をつけたりして、ベースで弾き始めたんだよ。自慢じゃないけど僕は記憶力がとても良くてね。その上ベースを弾くにはいい具合に手も大きかったから、上達は早かったと思う。一度弾いたスケールは記憶できたし、いくつものラインをいく通りにも弾いたりして、どんどん覚えていったんだ。こうしてベースを手にしてから間もなく、パーカーの6曲を弾けるようになった。

 実際のところは、ベースを始めて1週間目で僕はもうR&Bのバンドに入って仕事をしたんだ。もともと学校で勉強をするのはあんまり好きではなかったしさ。でも、学校ではいつも成績は優秀だったよ(笑)。高校生の身分で、朝方の4時頃までナイト・クラブで演奏し、2~3時間の睡眠をとって、午前7時頃には学校に出かけるなんてことをよくやってたよ。

影響を受けたベース・プレイヤー

▼では、影響を受けたベーシストと言えば誰?

(略)ジェームス・ジェマーソンジェームス・ブラウンとプレイしていたバーナード・オーダム、アレサ・フランクリンとやっていたジェリー・ジェモットかな。でも、僕が一番インスピレーションを駆り立てられるのは、いつもフランク・シナトラなどのシンガーだった。歌い手というのは、パーソナルな表現に秀でているからね。僕がベースをプレイすると、ほとんどの人が、これは僕だと言い当てることができる。なぜなら僕は、そういうパーソナルなものを自分のベース・トーンに織り込もうとしているからだ。

自由と現実が訪れる街、フロリダ

少年時代のジャコの友人(略)ボブ・ボビング[回想](略)

「(略)ふたりともソウル・バンドでベースを弾いていて、宗教はカトリックで、ハイスクールで建築製図を学んでいた。共通する部分が多かったんだ。また僕たちはホンダのオートバイを持っていたんだよ。赤、白、黒の3種類があったホンダのニューマシンは、ごく普通の少年にとって抗しがたい魅力を放っていてね。今日に至るまで、僕は初めて新しく買った白の"ホンダCB-160"に乗って走り回ったときに勝る経験をしたことはないよ。ジャコもホンダに魅せられ、新聞配達で貯めたお金で黒の"ホンダ・ブラック90"を買ったんだ。ティーンエイジャーにとっては、オートバイに乗ればどこにでも行けるという自由を新しく発見したようなものだったんだ。当時、フォート・ローダーデイル周辺は、白い砂浜と南国的な気候で、美しい冒険の世界という雰囲気を持っていた。まるでこの世の楽園のような場所だったんだ。大きな転換期にあったアメリカという国から完全に隔離されていたよ。変化の時代だった60年代。(略)社会的、政治的な問題は、南フロリダで育っているふたりの少年の頭からは抜け落ちていた(笑)。そんなことよりも、頭のなかは週末のダンスとバンドのリハーサルのことで占められていたよ。ジャコもとても前向きだった。彼は元気に満ちあふれ、楽しく音楽に打ち込んでおり、人生をエンジョイしていた。彼にとってまるでエデンの園のような時代だったと思うよ。僕が当時録音した、ジャコの初期のレコーディングを聴くと、メロディに関する彼ならではのアイディアが無数に散りばめられていて、ファンにはお馴染みの特徴的なプレイの萌芽を随所に発見できる。すでに才能が開花した演奏からは、後年の彼のベスト・プレイにも匹敵するファンク・ラインやソロも聴き取ることができるよ」。

(略)

▼(略)フロリダの良さはどんなところにあると感じている?

 フロリダには本物のリズムがある。それは海のせいだ。カリブの海には何か特別なものがある。そこから来た音楽がみんな本物のリズムを持ってるのは、そのためなんだよ。うまく説明できないけど、僕にはそれがわかるんだ。その場にいると、それが感じとれるんだ。カリブ海の水はほかの海の水とは違っていて、少し冷たい。フロリダでは波もそんなに立たない――ハリケーンがこなければの話だけどね。ハリケーンの時はまたほかのどこよりもすさまじく荒れ狂う。フロリダの音楽もそれと同じで、リズムは洗練されてなくても、ノリがスムーズで、それが知らないうちに聴いてる者を引きずり込んでいく。いつのまにか心が奪われてしまうんだ。

(略)

フロリダは音楽的に偏見がないところが素晴らしい。

(略)

どんな音楽スタイルをプレイしようと、誰も気にしなかったからね。純粋にライヴを楽しむのがフロリダの流儀だ。

(略)

ナイト・クラブでは、どんなスタイルの音楽でもやった。時には楽器も持ちかえたりした。テンプテーションズではキーボードをプレイしたし、フォー・シーズンズの場合はギターを弾いたよ。僕はいろんなことをやることによって楽譜を読むことも練習したんだ。最初にやったステージは、メルバ・ムーアとだったんだが、その時は一応楽譜は読めてたけど、ステージ全体を通してとなるとまだ不十分で、緊張のしっぱなしだった。ピーター・グレイヴスという僕にとっては最高のミュージシャンがいるんだけど、彼は僕のデビュー・アルバム『ジャコ・パストリアスの肖像』にも参加していて、僕の知る限りでは、最高のベース・トロンボーン奏者だと思う。その彼が、僕を作曲家として雇ったことがあったんだ。というのは、彼は僕のことを曲を書くやつとしか思っていなかったんだ。僕は曲を書いていたけど、曲を書くほどうまく楽譜は読めなかったわけ。まあスローだったんだな(笑)。それを知った彼は僕のためにつきっきりになって教えてくれた。そのおかげで彼とのステージで一緒にやった曲はひとつひとつの音まで暗記しちゃったよ。だからコードから何からすべて記憶でやっちゃったくらいだ。そういうことがあって、1年以内に僕自身がビックリするぐらい楽譜には強くなった。そのうちフロリダでの僕の評判は最高になっていたんだ。

(略)

僕は自分の好きな音楽に関しては、一度聴くと忘れなくて、すぐ歌ったりすることができたんだ。特に、マイルスの『カインド・オブ・ブルー』なんかだと、メンバーのひとりひとりがやっていることがすべて頭の中に入ってしまった。

(略)

[18歳で結婚したから]僕はやれることはなんでもやったさ。(略)音楽を正式に勉強したわけじゃないけど、写譜の仕事をやっているうちに、譜面が読めるようになっていったね。

(略)

▼楽譜は読めたの?

 うん。自分で覚えたよ。あれは簡単さ。譜面をまったく読めない時にショーやギグを頼まれ、金をもらうためには必死で覚える以外に道はないからね。そういう状況に自分を追い込めば一晩で読めるようになるよ。耳に全神経を集中して覚え、あとは試行錯誤だ。僕はそうやって覚えたんだ。

カリブ海の船旅をする、観光クルーズ船の専属バンドに雇われていたこともあるそうだね。

 それはけっこう楽しい経験だった。音楽的にという意味ではないよ。(略)カリブ海のいろんなところに行ったことさ。メキシコに2日間、それからジャマイカバハマ諸島、ハイチといった具合にね。出航して1週間後の土曜日の正午に帰ってくる。そしてまた数時間後に出航、というサイクルのくり返しだった。船が港に着いた時は、よく街に出て通りをぶらついたよ。ウェイラーズのメンバーと親しくなったこともあった。それを辞めたあとは、フロリダでカントリーやソウルのバンドで働いた。アメリカ本土に入ってきて流行り始めたばかりのレゲエなんかもやったよ。残念だったのは、フロリダには誰もそれらを語り、心を許しあえる仲間がいなかったってことだ。ミュージシャンの友人はいたけど、全国的な水準にはほど遠い人たちばかりだった。そういったことを話し合える友達すらあまりいなかった。ニューヨークなんかにあるような、志を同じくした若いミュージシャンのグループもなかった。彼らのやることと言えば、喋ったり、食べたりするだけで、僕にとってはちっともおもしろくなかった。

ロン・カーターフランク・シナトラ

僕がジャズのベース奏者で真剣に耳を傾けたのはロン・カーターひとりだった。(略)

あの頃のマイルス・グループの音楽は、いつ聴いてもいい気持ちになった。そして僕は『ソーサラー』のロンのベース・プレイを聴いて、彼がウォーキングベースで生み出すフィーリングや、マイルス・バンドの音楽が持っている独特のフィーリングの中で、ロンがどういう風にベースを弾いているかといったことを参考にした。僕はベースを弾くけれど、作曲することも大切だと思っているから、レコードを聴く時はベースのラインを聴くだけといったような聴き方はしない。音楽として聴き、作品として聴くんだ。しかも好きなのしか聴かないから楽しみで聴く場合が多いけど、聴けばその作品がどうなっているかが同時にわかるんだ。

(略)

▼ジャズで一番大きな影響を受けたのは、やはりチャーリー・パーカー

 一番とは言わないけれど、大きな影響を受けたのは事実だ。彼は本当に素晴らしいラインをプレイするからね。チャーリー・パーカーのプレイの仕方が僕は大好きなんだ。(略)

フランク・シナトラは最高だね。(略)彼の声域は、僕がプレイする音域とほとんど同じなんだ。バリトン・テナーの音域に近いと思う。僕はその音域でプレイするように心がけている。その音域では、僕は本当に歌えるし、ひとつひとつの音のクオリティに集中することができるんだ。それが難しいところなんだけどね。だから、どんなに速弾きをしている時でも、流れていくひとつひとつの音を考え、そこから最大のものを引き出すように心がけている。

(略)

▼あなたの音楽をフュージョン・ミュージックというファンも多いけど、それに対してはどう?

 フロリダ時代から僕は、今とまったく同じことをやっていた。ジャズとR&Bのコンビネーションをね。僕はレコード会社が騒いでいるバカげたフュージョン・ミュージックなんか好きじゃないよ。僕はジャズとR&Bが好きなんだ。というか、ジャズこそR&Bとも言えるんだ。チャーリー・パーカージェームス・ブラウンとか、僕はそんな人達を聴いて育ってきた。僕の音楽をフュージョン・ミュージックなんて呼ばれるのはイヤだ。まあ、誰が僕のことを何と言おうと関係ないよ。僕はただのミュージシャンであり、ベーシックなベース・プレイヤーなんだ。(略)

リトル・ビーヴァー

 1974年、ジャコは、憧れていたファンクの人気スター、ウィリー"リトル・ビーヴァー"ヘイルのアルバム『パーティ・ダウン』のなかの「アイ・キャン・ディグ・イット・ベイビー」に1曲だけ参加した。(略)

[リトル・ビーヴァー回想]

「俺はミュージシャンにいつも指示を出していた。(略)だけど、ジャコの場合は違った。あいつには何も言う必要はなかったよ。言わなきゃいけなかったのは、"もうちょっと、ゆっくりやれよ"くらいのものだった(笑)。あいつはベースをギターのようなフレーズで弾いていた。だから俺としては、そのプレイを邪魔しないように気をつけていたんだ。本当にファンキーだったよ。聴いたこともない曲でも、あいつにかかっては何の問題もなかった。すごかったのはイントロのプレイだ。ハーモニクスで演奏するんだぜ。それがあいつさ。本当にクレイジーだったよ(笑)。とにかく、白人のガキがこれだけファンキーに弾けるのには驚いたね。きっと、これまでいい音楽を聴いてきたんだろう(笑)」。

パーティー・ダウン

パーティー・ダウン

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カルロス・ガルシア

[ボブ・ボビングのバンドが出演したクラブの対バンの]

カルロス・ガルシアというベース奏者は信じられないほどユニークだった(略)ジャコに話すと、ジャコは早速、翌日にはカルロスを観にクラブにやって来た。それは有意義な、歴史的とも言える夜だった(略)

 最初にジャコが注目したのは、アコースティック360のベース・アンプ。そのアンプは奇妙な形をしていたが、明らかにそれまで聴いてきた中で最高の音を出していた。その上、カルロスの独特のスタイルは大いに目を奪った。ときどき左手でミュートをかけて、新しい次元のパーカッシヴな響きを作り出すというものだ。(略)

「ジャコはカルロスを観て、"あのミュート・スタイルは、絶対に掘り下げてみる価値がある"と言っていたよ。そして演奏が終わると、僕たちはステージにいるカルロスのところに行った。カルロスが、スピーカーはキャビネットのなかで裏側に向いていると話すと、ジャコがひどく興奮していたのを覚えているよ」と、ボブは当時をふり返る。

 その翌日、ジャコとボブは楽器店に行き、アコースティック360を2台注文したという。(略)

ジャコ奏法の確立へ向けて

▼わずか1年の練習で、どうやってこれほどまでに豊かなベースの知識を身につけられるのかな?

 耳をオープンにしておく。それだけさ。僕の音楽知識の大半は、演奏体験を積む中で培われたものだ。

▼プレイを始めた頃は、ピックを使っていたの?

 いや親指が先だ。一ヵ月ぐらい親指だけでプレイして、その後にほかの指も使い始めた。

▼どうやって右手のテクニックを身につけていったのかな?

 右手の練習は一度もやったことがない。自然に弾けるようになったんだ。最初の2本の指(人差指と中指)で弦をはじき、ほかの2本の指はミュートに使った。飛びまわる時は親指もミュートに使ったね。一番難しかったのは、プレイしていないストリングスを鳴らさないことだった。「ドナ・リー」なんかを聴いてもらうと、ノイズを出さないようにプレイしていることに気がつくと思うよ。

▼具体的にベースで行なった練習は?

 何年間もありとあらゆるスケールの練習はした。でも大半は3和音(トライアド)に関することだ。これは今までのベース・プレイヤーが練習してこなかったことだよ。だから僕がまるで新しい何かをプレイしているように聴こえるわけだ。ひょっとしたら、実際にそうなのかもしれない。でも僕はそれが当たり前のことだと思っていたんだ。だって、ピアノ・プレイヤーがウォーミング・アップをする時、あるいはソロなんかをとる時、そんな3和音を駆使してプレイしているじゃないか。でも、それをベースでやるのは至難の業なんだ。3和音を演奏するということがね。3和音を速弾きするのは物理的にものすごく難しいよ。だから3和音スケールをうまく使わないといけない。ドミナント・トライアド、またはメジャー7のトライアドは練習しないとね。全音階スケールであればどれでもいいから、そのスケールの各コード・ナンバーから離れたところでアルペジオをやってみるといい。おそらくこれはベース演奏で最も難しいことのひとつだ

(略)

僕は本当にそれを"オン・ザ・ジョブ・トレーニング"だけで身につけたんだ。振り返ってみると、6年前にウェイン・コクランのバンドを辞めるまで、僕はずっとそれをやり続けてきたけど、そのあとはまったく練習してこなかった。いや、弾き始めた頃、ベースの音がどこにあるかを確かめたことが唯一の練習と言えるかもしれない。音がどこにあるかを覚え、いろんなキーで演奏すること、それだけさ。あとは、ひたすら外で仕事をこなした。ほんと、音がどこにあるかを確かめることは数日もあれば充分だったよ。数学的に考えるだけでいいんだからね。みんなあまりにも音楽的に考えすぎるんだよ。数学の基礎さえ身につけていれば、そこからどんな風にでも応用可能なんだ。

 練習に関して言えば、1972年にウェイン・コクランのもとを去ったあと、1年くらいだったと思うけど、かなり真剣に練習した。1日数時間、どんなに忙しい時でも1時間から4時間は練習に費やした。その時間はものすごく集中してやった。

(略)

いったん僕が集中するとまわりの存在がすべて消えてしまう。それぐらい集中すると、モーター・スキルのようなもので手が勝手に動き出す。(略)

モーター・スキルが得られたあとは、メロディを考え始めてもいい。その時点では、どこにでも自分の思いのままに動くことができるはずだから。(略)

ビ・バップの譜面

[アレックス・ダーキ回想]

「僕のアパートメントには、古いビ・バップ曲の譜面があってね。チャーリー・パーカーの「ドナ・リー」や「コンファメーション」、「デクステリティ」など、とにかく素晴らしい曲がたくさん載っていた譜面集なんだけど、それを部屋に置きっぱなしにしていたんだ。するとジャコは、それに載っている曲を初見で次から次に弾き始めた。とにかく、暇さえあれば弾いていたよ。彼はビ・バップの曲が好きだったんだね。メロディラインが好きだったんだと思う。そこで弾いた曲たちは、彼にとって大いにプラスになったはずだよ。掲載していた曲はほとんど全部、一緒にメロディを演奏した。最終的には譜面なしでも演奏できるまでになったよ」。

 

ビートルズの時代 その3

前回の続き。

ポールの一人旅

 一九六六年八月二十九日、ビートルズは(略)「ロング・トール・サリー」でサンフランシスコのキャンドルスティック・パーク球場でのショーを締めくくった。「来年また会おう」とステージを降りながらジョンは言った。そのあと四人は装甲車に乗り込み、走り去った。それがビートルズ最後の正規のコンサートとなる。

(略)

雨降りのセントルイスでとりわけ惨めなショーを終えて、がらんとした窓もないトラックに連れていかれたところで、ポールが他の三人に言った。「まったく、みんなの言うとおりだよ。とにかく、もうたくさんだ」。

「何週間も前からそう言ってるだろう!」と返事が返ってくる。

 イギリスに帰る飛行機のなかで、ジョージがトニー・バーロウに言った。「これでおしまい。ぼくはもうビートルじゃない」。

(略)

「ジョンは何をしても無駄という気持ちだった、いずれにしろ、たいして長くは続かないのだから」。年が経つにつれ、ツアーに明け暮れたこの時期についてのジョンの見方は自己憐憫に変わる。五年後、ジョンはエリック・クラプトンにそれを「夜ごとの拷問」と形容した。

(略)

三か月の休暇をもらい、四人は好きなことができた。(略)

[ジョンは映画出演、ジョージはボンベイへ]

ポールは(略)前衛的な人々と深く付き合い、ロンドン暮らしを楽しんだ。(略)

[「無名の気分をもう一度味わおう」と、かつらと髭と素通しの眼鏡を作り]

髪をオールバックに撫でつけ、丈の長いコートを着込めば、誰にも気づかれずに歩き回れるとわかった。旅仕度をしてポールはひとり車のハンドルを握り(略)フランスに向かった。(略)「ぼくは旅する名もない寂しい詩人だった」(略)

ニュー・ウェーヴの映画やアンディ・ウォーホルを見て覚えた実験的な撮影技法を用いて、あれこれフィルムに収めた。

(略)

[ボルドーで]変装したまま地元のディスコに行ったところ、入店を拒否される。「みすぼらしい老いぼれに見えたんだ。『ノ、ノ、ムッシュー、ノン』とやられた。このろくでなし、さあ帰った!」そこでホテルに戻り、薄汚れたコートを脱ぎ、付け髭と眼鏡をとった。そしてディスコに戻ると、今度は大歓迎された。

 この頃になると、ポールは無名であることの欠点に気づき始める。(略)

名声からしばし身を退いてみて、ポールは自分の運を前より楽しめるようになった。

(略)

[マル・エヴァンズと落ち合うと、マドリードコルドバ、]マラガに向かったのは、漠然とジョンに合流しようと考えてのこと。ところがジョンはすでにスペインを発ったとわかり、ポールはこの計画を断念(略)

[ケニアでサファリ体験]

帰国する機上で、ポールは少し前に別人になってみたことを思い返し、ビートルズも同じことをしたらそこから何かが得られるのではないかと考えた。「別人格のバンドなら、演奏するのはぼくらではなく、ビートルズではない、別のバンドになる、するとぼくらは自分たちの人格をそのバンドに委ねて失くすことができる」。でもバンドの名前はどうする?ポールが思案しているうちに、機内食が運ばれてきて、そこにSとPと書いた袋が添えてあった。「これはどういう意味だろう?」とマルは訊ね、「ああ、塩(salt)と胡椒(pepper)か」と自分で自分の質問に答えた。「サージェント・ペパー」、ふとポールが言った。

遂にポールもLSD体験

[「イッツ・ゲッティング・ベター」録音中に覚醒剤と間違えてLSD錠剤をのんでしまったジョン]

階段を昇ってコントロールルームに向かう。そして天井を見上げた。

「うわあ、ジョージ、星を見てごらん」

 マーティンは上を見たけれども、天井しか見えない。(略)一世代上の人間で、幻覚剤のことは何も知らない。「ジョン、新鮮な空気を吸ってみたらどうかな(略)

裏手の階段を昇れば屋上に行ける」(略)

「ジョン、あまり縁に近づくなよ、柵がないからな」(略)

[戻ってきたマーティンに]ポールが訊ねる。「ジョンはどこ?」

「屋上に置いてきた、星を見ていたよ」

「ははん、ヴィンス・ヒルみたいにってことだね」とポールは冗談を言う。(略)ポールとジョージは大声で「エーデルワイス」を歌い始める。(略)

 突然、ふたりはLSDでハイになったジョンが危険きわまりない状況にあると気づいた。揃って階段を駆け上がり、ジョンを階下に連れ戻した。そしてこれがレコーディング作業を終える潮時と決めて、ポールがジョンを近くの自宅に連れ帰った。

(略)

ここに来てポールはにわかに試す決心をする。「ジョンがもうやっているのだから、追いつこうという感じだね」。

 ふたりは朝まで眠らず、一緒に幻覚に耽った。「互いの目を見つめ合った、以前よくやったアイコンタクトってやつだけど、それがなんとも信じられないような話でさ。互いに相手のなかに溶けてしまう。(略)とにかくびっくりした。(略)相手のなかに自分が見える。(略)ジョンはずっと、ひどく謎めいた様子で座ったきりだし、ぼくはジョンが王様、絶対的な永遠の皇帝になる壮大な幻覚を見た。あれはいいトリップだったな」。

「アイ・アム・ザ・ウォルラス」

 一九六七年八月二十三日、ブライアン・エプスタインは「ユア・マザー・シュッド・ノウ」のレコーディング二日目の様子を見に立ち寄った。四日後、ブライアンはもはやこの世にいない。

(略)

九月五日の夕方(略)四人はアビー・ロードに集まった。重苦しい雰囲気が漂う。「その日のセッションは最初から最後まで沈んだ感じだった」とジェフ・エメリックは回想する。「みなブライアンのことを考えて、気もそぞろだった」。

 アコースティック・ギターを弾きながら、ジョンが新曲を歌った。歌い始めは「ぼくはかれで君もかれで君はぼくだからぼくらはみんな一緒」。

 いったいぜんたい、ジョンは何をしようとしているのだろう?ジェフ・エメリックは不思議に思った。「誰もが面食らった。メロディはほぼ二つの音だけでできていて、歌詞ときたらほとんどナンセンスなんだから」。

(略)

 ジョンがようやく歌い終わった。誰も何も言わない。ジョンがジョージ・マーティンの反応を知ろうと、コントロールルームを見上げた。「今のは『アイ・アム・ザ・ウォルラス』という曲だ(略)で、どう思う?」

 マーティンは絶句し、ためらいはやがて苛立ちに変わる。「そうだね、ジョン、正直に言うと、ひとつだけ訊きたいことがある。いったいわたしにこれをどうしてほしいと言うんだね?」

 気まずい笑い声が聞こえた。エメリックにはジョンが「明らかに面白くない」のがはっきりわかった。

 ジョンに「アイ・アム・ザ・ウォルラス」の訳のわからない歌詞を書いてやろうという気にさせたのは、八月の終わりに母校クオリー・バンク校に通う十五歳の生徒スティーヴン・ベイリーから届いた一通の手紙だった。(略)

ピート・ショットンは、ジョンが相当の覚悟を固めたのに気づいた。「[自分を落第生と見なした]クオリー・バンク校の文学教師がレノン=マッカートニーの歌詞の象徴性についてご託を並べる図に刺激されて、ジョンは想像力の限りを尽くしておよそ馬鹿げたイメージを歌詞に込めた」。

(略)

「おいピート、クオリー・バンクに通っていた頃に歌った『死んだ犬の目』って歌は、どんな詞だっけ?」

(略)

黄色い膿みたいなカスタード、緑色のこぼれパイ

みんな死んだ犬の目と混ぜこぜにして

厚さ三メートルのサンドイッチにべっとり塗ったら

カップ一杯の冷たいゲロと一緒に呑み下す

 

 一九五〇年代には、この国の津々浦々の学校の生徒たちがこの短い歌のさまざまなバージョンを歌った。(略)

ピートが歌ってみせると、ジョンは大喜びした。「それだ!」と言ってペンに手を延ばす。「すごくいい!」ジョンは「黄色い膿みたいなカスタード」と正しく書きつけてから、子供の頃の記憶から手当たり次第に集めたあれこれを付け足した。「ジョンはセモリナ(子供の頃に無理やり食べさせられた不味いプディング)とイワシ(よく猫にやったサーディン)のことを考えた。『セモリナ粉のイワシエッフェル塔を登っていく……』とジョンは厳かに言いながら、かなり嬉しそうに書きつけた」。教師が内に秘められた意味を探ろうとして時間を費やすと思うのか、見るからに楽しそうだった。「ピート、畜生どもに、こいつの意味を説明してもらおうじゃないか」とジョンは言った。

 この曲にはさらに(略)『鏡の国のアリス』でトゥイードルディーがアリスに話して聞かせる「セイウチと大工」の詩に見られるあべこべの世界のフィルターがかかる。

(略)

 ジョンは「アイ・アム・ザ・ウォルラス」をとりわけ誇らしく思った。「小さな面白さが詰まって、百年後でも興味を抱かせる曲のひとつだ」。

(略)

「あとで読み返してみたら、セイウチは物語の悪玉で、大工が善玉だったと気づいた。それで、『あれ、畜生、間違った奴を選んじまった』と思った」。というわけで、「グラス・オニオン」で自分のことを歌ったときには、こんな一節を考えついた。「じゃあここでもうひとつ手がかりをあげよう――あのセイウチはポールだったんだ」。

(略)

 「『アイ・アム・ザ・ウォルラス』を演奏したとき、みなの表情が虚ろだったのは、はっきり覚えている」とジェフ・エメリックは回想する。「ビートルズと過ごした日々のなかで一番悲しい思い出のひとつだ」。

 ジョンはマーティンとエメリックに、月から聞こえてくるような響きの声にしたいと言った。(略)エメリックはアンプを歪ませて、ジョンの声を鋭く、同時により霊妙にしようと試みる。

(略)

翌日、ジョンがラジオから流れる音をでたらめに付け足したいと言い張った。ジョージ・マーテインは呆れて目をむく。

 完成した寄せ集めには『リア王』の台詞の切れ端、マイク・サムズ・シンガーズの「エヴリバディーズ・ゴット・ワン、エヴリバディーズ・ゴット・ワン」の歌声に、遊園地で流れる歌「ウンパ、ウンパ、よけいなお世話」が含まれる。

(略)

[脚注]

マイク・サムズ・シンガーズはポピュラー音楽の歴史のなかで最も幅広く、最も報じられることの少ない活動歴を残した。グループの声は「レット・イット・ビー」と「グッド・ナイト」で聴けるほか、トム・ジョーンズの「デライラ」、ケン・ドッドの「ティアーズ」、オリビア・ニュートン=ジョンの「バンクス・オブ・ジ・オハイオ」など多くの曲でバックコーラスを務めた。(略)『海底大戦争スティングレイ』の記憶に残る主題歌も歌った。(略)

エルトン・ジョンはセッション・ミュージシャンだった時代にかれらと仕事をすることが何度かあった。「(略)中年のおばさん、おじさんがゴルフクラブの夕食付きダンスパーティーからスタジオに駆けつけてきたようにしか見えない。ところが一緒に歌うとなると、いきなり神の前に立たされたような畏れを感じさせる。なにしろ何を歌わせても上手すぎるから」。

マジック・アレックス

気まぐれから、ジョンはマハリシ超越瞑想のメッセージを世界中に発信できるラジオ局をリシケシュに作れる友人がいると話した。電力が余れば僧院と周囲の村々の照明にも使える。(略)

〈マジック・アレックス〉・マーダスは何種類かのネジ回しと電線を何本か入れた小さなリュックサックを背負ってリシケシュにやってきた。

(略)

トニー・ブラムウェルは、物理学の学位を持つマハリシが、いったいどうすればわずかな電線とヒューズだけを使って国際ラジオ局を作れると提案できるのか、マジック・アレックスに根掘り葉掘り訊きすぎたという噂を耳にした。「マハリシが鋭い質問を連発して、若いギリシア人は答えられず、パニックを起こした」。

(略)

[お返しに]マーダスはマハリシ若い女を口説こうとした(略)とジョンとジョージに吹き込み、マハリシへの敵意を植えつけ始めた。

(略)

「おれが代表して話した」とジョンが回想する。「(略)『お暇するよ』。『なぜだ?』とマハリシに訊かれて、おれは言った。『あんたは宇宙までお見通しなんだから、なぜだかわかるだろう!』(略)」

(略)

 ジョージはのちに、ジョンは前から帰りたくて、マジック・アレックスの作り話をこれ幸いと口実にしたと思うようになった。

(略)

 英国に戻ったビートルズは、マハリシに抱いた懸念については驚くほど口が固かった。幻滅したと少しでも言おうものなら、自分たちが騙されやすいと認めるようなものだから、黙っておくにしくはないと考えたのかもしれない。

(略)

[一方]マハリシの盛名は増すばかり、超越瞑想のワークショップには著名人多数が参加する。カート・ヴォネガットローリング・ストーンズ(略)女優のシャーリー・マクレーン(略)

二十四時間放送の衛星テレビ放送チャンネルも主宰し、超越瞑想を二十二の言語で百四十四か国に課金方式で発信した。いくつもの関連会社の複合ネットワークが書籍、CD、精神相談、マッサージオイル等の超越瞑想関連商品を販売する。ニューエイジのヘルスセンター、大学、公益信託に加えて「地上の楽園不動産会社」を運営し、政界にも進出して自然法党を結党し、一九九〇年代には減税、ヨガ式空中浮揚法、すべての町にハーブ村をとの綱領を掲げて英国の総選挙に打って出た。(略)

ブリジット・バルドー

 クオリー・バンク校では、少年たちが放課後になると藪のなかに集まって猥談に花を咲かせた。(略)少年たちは順番に有名なピンナップガールの名前を叫ぶ。「名前を聞くたびに、わたしたちはそれまでにない快感に昇りつめた」。

 自分の番が来ると、ジョンは好んでブリジット・バルドーの面影に協力を求める。(略)バルドーは端役で出演した『想い出』(一九五三年)の宣伝のためカンヌ映画祭を訪れ、ビキニ姿でポーズをとって英国でも一躍名を馳せた。バルドーが女優として大活躍した時期は、ジョンの思春期にあたる。(略)

「ウィークエンド」誌に毎週ついてくる付録の写真をつなげると、最後には水着姿のブリジット・バルドーの等身大のピンナップ写真ができあがる。全部集まると、ジョンは小さい写真を貼り合わせたポスターをベッドの真上の天井にテープで留めた。

 ポールもジョンに負けずにお色気たっぷりのフランス人女優に熱を上げた。「彼女だよ、彼女が最初の、最初のうちのひとりだ。ヌードやセミヌードを見たのは(略)すごくいい女で、フランス人とくれば、ぼくらにはブリジットしかいない、あの長い金髪と曲線美、それにぷっくりした小さな唇、あれが女性美の極致だよ。(略)」。

(略)

ジョンの心を掴もうと、シンシアは髪をブロンドに染め、付け睫をつけ、脚に吸いつく黒タイツを穿き、ぴったりしたセーターを着た。案の定、ジョンが興味を示すようになり、やがてふたりは付き合い始めた。

(略)

 ビートルズが初めてハンブルクに向けて旅立つ直前に、ジョンが電話をかけてきて、できるだけ早く家に来るようにと言われた。ミミ伯母さん[は留守](略)

「(略)色っぽいポーズをしてくれと言うので、髪を上げたり下ろしたり、スカートを持ち上げたり、胸を突き出したりして、できるだけブリジット・バルドーの真似をしようとした。写真を撮り終えるとセックスをして、それから暖炉に火を入れて、テレビの前のソファにもたれて、冷蔵庫にあったものを片端から食べた。してはいけないことだったから、なおさらわくわくした」。

 ジョンはこのとき撮った写真をハンブルクに持っていった。シンシアとポールの恋人ドットがハンブルクにやってくると、ジョンとポールはふたりを説得してちょうどバルドーが穿いているような革のスカートを着せた。何年も経ってから、ポールはジョンがこんなことを言っていたのを思い出した。「そうだな、ブリジットに似ていれば似ているほど、おれたちはうまくやれるってわけだよな!」

(略)

 一九六八年六月、ブリジット・バルドーがロンドンに到着し、アップルにひとりかそれ以上のビートルに会いたいと伝えてきて、空想が現実と衝突する。行くと言ったのはジョンひとりだった。

(略)

[対面を前に、気を鎮めんとLSDを嚥む、ジョンとデレク・テイラー]

バルドーは他のビートルが来ていないのにがっかりしたようだった。この頃になると、テイラーが服用したLSDの錠剤が効き始め、妄想の大波に襲われる。自分とジョンは危険にさらされているとテイラーはバルドーに言った。(略)

ジョンはしかるべく部屋までやってきたものの、LSDと革の服を着たブリジット・バルドーに二重のショックを受けて口が利けない。かなり苦労して「こんにちは」と言ったものの、その先が続かない。

(略)

 バルドーは、テイラーによると「ご機嫌麗しくはなかった」。バルドーと女性の取り巻きはジョンとテイラーをホテルのスイートルームに残して、足音高く階下のレストランに降りていった。ディナーから戻ってきたバルドー一行は、ふたりがまだそこにいるのを見て驚いた。テイラーはバルドーのベッドにぐったり横たわり、ジョンはインドで作った曲をギターで爪弾いている。バルドーの冷淡さはたちまち苛立ちに変わる。まもなくふたりにお引き取りくださいと言った。

「ヘイ・ジュード」

ジョンがヨーコと駆け落ちしてからまもない頃、ポールはシンシアに会いに車でウェイブリッジに向かった。シンシアには励ましが必要だろう、ポールはそう思った。「(略)ジョンはみなにも自分と同じようにわたしとは縁を切ってほしいとはっきり伝えたらしい。でもポールには自分の考えがあって(略)ジョンを恐れなかった」とシンシアは回想する。リンゴとジョージは何も言ってこないし、ふたりの妻も同様。「ジョンの怒りを買いたくないし、たぶんわたしに何と言ったらいいのかわからなかったのだろう」。

 ジュリアンはそのとき五歳、自分の父親が家を出たときのジョンと同い年だった。ポールは昔からジュリアンと仲がよかった。ポールは子供と心を通わせることができた。ジョンにはそれができない。(略)

「ポールはあいつの叔父さんみたいだった」とジョンもはるか後年、認めている。「ポールはいつも子供の扱いが上手なんだ」。(略)

「ジョンが寄ってきて(略)『どうやってやるんだ?(略)ジュリアンとだよ。どうしたら子供とあんなふうに遊べるんだ?』(略)

でもジョンにはどうしてもわからなかった。コツがわからないんだ」。壮年になったジュリアンは、父親よりポールと会う機会のほうが多かったと記憶している。「ぼくたちはとても仲が良くて、あの年頃ではポールと遊んでいる写真のほうが父とぼくの写真よりずっと多く残っている」。(略)

ウェイブリッジに向かう道すがら(略)どこからともなく、頭のなかに曲が浮かんだ。「ヘイ・ジュールズ」と始まる。「落ち込むなよ。悲しい歌を、もっとよくしよう」。

(略)

ジョンの脆い自尊心を傷つけまいとして、ポールは初めてジョンにこの曲を歌って聞かせる前に、「へイ・ジュールズ」を「ヘイ・ジュード」に変更した。ジョンは自分のこと、そして自分がヨーコを必要としていることを歌ったものと思い込ん「この曲のことを考れば、すぐにヨーコが思い浮かぶ。ポールが『ヘイ・ジュード』と言うのは、『ヘイ・ジョン』ってことさ。(略)これはたしかにおれに語りかける歌に聞こえる。『行って、あの子をものにする』のところは、無意識のうちに『さあ、行けよ、ぼくはいいから』と言っていた。ただ潜在意識のなかでは、ポールはおれに行ってほしくない。心のなかの天使は『うまくやれよ』と言っていた。心のなかの悪魔はまるで気に入らない、なぜならポールは相棒を失いたくなかったからだ」。

 

 何でも自分に引き寄せて解釈するのはジョンひとりに限らない。(略)

この曲はボブ・ディランに向けたものと考える者たちがいた。ディランはちょうどこの頃、ウッドストックの農場に引きこもっていた。「タイム」誌は周囲との関わりを求める呼びかけと理解した。「ローリング・ストーン」誌はジョンに女性への不届きな振る舞いをやめるように嘆願しているのではないかと考えた。

(略)

ジョンに歌って聞かせたとき、ポールはある一行の収まりがよくない――「君に必要な動きは君の肩の上にある (The movement you need is on your shoulder) 」――のにきまりの悪い思いをした。

「そこはあとでなんとかするよ」とポールは請け合った。

「よせよ、わかってるだろう」とジョンが言った。「そこがこの曲で一番いいとこじゃないか。何が言いたいかおれにはわかるすごくいい」。

(略)

最近この曲をコンサートで歌うと、「君に必要な動きは君の肩の上にある」の行にとりわけ胸を打たれることにポールは気づく。「この曲を演奏して、その行に来るとジョンのことを思って、その瞬間ちょっと気持ちが昂ることがある」。ということであれば、ジョンがうすうす気づいていたことは、その点では正しかったことになる。

『トゥー・ヴァージンズ』

 ある日のこと、ジョンが雑用係のトニー・ブラムウェルに、タイマー付きのカメラを用意して使い方を教えてほしいと頼んだ。翌日、ジョンがブラムウェルにこっそりフィルムを手渡して現像してれという。「ちょっと危ないんだよ、わかるだろう。誰にも見せないでくれ、いいな?」

 現像済みのフィルムがアップルに届いたとき、ピーター・ブラウンは悪趣味な冗談と思った。「あまり破廉恥なのでデスクの引き出しにしまって鍵をかけ、誰にも見せなかった」。潔癖なブラウンは「はにかんで微笑み、乳房が床に向かって垂れ下がる」ヨーコを見たくないし、「ヘロインが効いて目はとろんとし(略)馬鹿みたいににやにや笑い、萎んだ包茎のペニスを晒して誇らしげ」なジョンも見たくない。それ以上にアパートの惨状に狼狽した。「寝室はまるで豚小屋、しわくちゃのシーツ、汚れた衣服、新聞雑誌が床に山積みの、ヤク中毒の隠れ家と見紛うばかり」。数日後、ジョンが(略)『トゥー・ヴァージンズ』のジャケットに使うと一同に告げた。

(略)社内の全員が「笑い転げた。(略)いくらあのふたりだって、そこまでするとは誰も思わなかった」。

 そのときまで、ジョンは裸に対しては明らかに堅苦しい態度を示してきた。一九六五年六月にアレン・ギンズバーグの誕生日パーティーに出かけたところ、ジョンとシンシアを迎えた毛むくじゃらのビート詩人は、ボクサーパンツを頭にかぶった以外は何ひとつ身に着けず、「起こさないでください」と書いた札をペニスにぶら下げていた。ジョンは不快感を露わにする。「女の子の前でそういうことはしないでくれ」。(略)

その年の後半、「ローリング・ストーン」誌とのインタビュー(略)

「写真が戻ってきたとき、たしかにちょっとショックを受けた。もちろん、アルバムや写真に自分のちんぽが写っているのを見たことはなかった。『おいおい、いったいこりゃ何だ?ちんぽを出した奴がいるぜ』って感じかな。(略)」。(略)

ジャケット案を見せられたリンゴは、どこを見ればよいかわからなかった。何か言わなければいけないと思い、写真のなかのジョンの足許の床に落ちている「タイムズ」紙を指さして、「おや、『タイムズ』まで写ってるな」と言った。しかしいつまでも恥ずかしがってはいられない。「『おい、よせよ、ジョン。こんなことをして、君はイカしてると思うのかもしれないが、こっちはみなそれについて答えないといけないんだぜ』と言ったよ」。

 ポールはもっと強硬に反対した。(略)ブラムウェルはポールが「七千種の怒りの発作を起こす」のを見た。「ポールは胸くそ悪いと思い、ジョンが本気でそんなことをするつもりと知って心底愕然とした」。ブラムウェルによると、非はヨーコにあるとポールは考えた。「ジョンはヨーコと知り合うまでひどくお堅いほうだった。(略)ヨーコがジョンの抑制を解き放ち、惨憺たる結果を招いた。『ぼくら全員の問題だってことがジョンにはわからないのか?(略)写っているのはジョンとヨーコかもしれないけれど、世間の人々はビートルズは気が狂ってポルノを始めたとか言うだろう』」。

(略)

 最終的にEMI会長サー・ジョゼフが、EMIはジャケットに全裸の写真を載せたアルバムの配給はしない、ただしレコードそのものは通常の価格で生産しようと申し出た。アルバムは結局アップル・レーベルから発売され、ザ・フーのレーベル「トラック」が配給した。レコード店では無地の茶紙に包装されて店頭に並んだ。多くの人々が『トゥー・ヴァージンズ』をただジャケット欲しさに購入したのは避けがたいことだった。年若いビートルズ・ファンの何人かは、このアルバムで生まれて初めて大人の裸をちらりと覗くことになった。

チャールズ・マンソン

 チャールズ・マンソンにとって(略)[『ホワイト・アルバム』の]ジャケットの純白までが、マンソンの時代の到来を告げる合図となる。(略)黄色く塗って〈イエロー・サブマリン〉と名づけた家で、マンソンはこのアルバムに関するセミナーを主宰した。(略)

マンソンは信奉者たちに、互いに無関係な曲の雑多な集まりに見えるかもしれないものが、じつは武装蜂起への明確な呼びかけ、とりわけマンソン率いる比類ない特権を授かった「ファミリー」に向けて暗号化された檄であることを理解させたかった。

 マンソンは「ファミリー」に、アメリカの黒人たちが武装し、裕福な白人の抑圧者を数百万単位で殺害する準備をすでに調えたと信じ込ませた。この蜂起は白人と黒人の間の内戦に発展するだろう。殺戮がくりひろげられる間、マンソン・ファミリーはデス・ヴァレーの神秘的な洞窟に避難する。(略)勝利の喜びに湧く黒人たちが自らの「超意識」を利用して真の指導者、チャールズ・マンソンを見つけるだろう。

 こうした予言は、すべてビートルズの歌詞に見いだせる。ポールの「ブラックバード」は人種間戦争を煽動する。ジョージの「ピッギーズ」は解釈するまでもない。

(略)

 ジョージは一九六六年にこの曲を書き始めたものの(略)一九六八年になってもまだ歌詞ができずに四苦八苦していた。(略)backing(裏板)と韻を踏む言葉がlackingしか出てこない(略)するといきなり母親が、「あいつらに必要なのはどつき(whacking)」という歌詞を思いついた。ルイーズ・ハリソンが生涯にただ一度作詞に参加したのが、図らずもレノ・ラビアンカの死に一役買うことになったのだろうか?レノが腹にフォークを突き立てられた姿で発見された居間の壁には、「豚どもに死を」と血で殴り書きされていた。

 ビートルズそのものが人類に死をもたらすために遣わされた四人の天使にほかならない。マンソン・ファミリーの乗るバギー車はかれらの馬になるだろう。『ヨハネの黙示録』にマンソンは、イナゴが「鉄の胸当てのような鱗片をつけて」飛来するという一節を発見する――イナゴはむろんカブトムシであり、鱗片がギターであるのは言うまでもない。ビートルズにはいつの日か五人目のメンバー、あるいは「天使」が加わり、天使には「底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられる」。これは言うまでもなくマンソン自身だった。かれらはともに正義の名の下に大惨事をもたらす。「どちらも人を殺すこと、まじない、みだらな行ない、盗みを悔い改めなかった」。

(略)

英国では、ヘルター・スケルターは遊園地によくある鮮やかな色彩が目を引く螺旋状の大きな滑り台のことである。(略)その意味を無視して、マンソンはこれを蜂起への呼びかけと思い込んだ。信者のひとりは、マンソンが「ヘルター・スケルター」の語を差し迫った人種間戦争の略称に用いたと証言する。「これはつまりニグロが襲来し、都市を木っ端微塵にすることを意味する」。『チャールズ・マンソンとの日々』のなかで信者のひとり、ポール・ワトキンズはこう記す。「ヘルター・スケルターがやってくるまで、チャーリーの頭のなかには乱交しかなかった」。

(略)

マンソンはこう陳述した。「ヘルター・スケルターは混乱だ。瞬く間にやってくる混乱。瞬く間にやってくるその混乱が見えないのなら、好きなように呼んでくれ。これはおれの陰謀ではない。これはおれの音楽ではない。曲が語ることをおれは聞く。それは『立ち上がれ!』と言う。『殺せ!』と言う。なぜおれのせいにする?おれがその曲を書いたわけではない。お前たちの社会意識にこの曲を投影したのはおれではない」。

(略)

 ごく軽やかでふわふわした曲でさえ、はるかに不吉なものを指す暗号にされる。陽気な気分で、ポールはジャズ好きの父親へのプレゼントとして一九二〇年代のラグタイムを剽軽に模し「ハニー・パイ」を書いた。ところがマンソンにとっては(略)「大西洋を渡って故郷に帰る」の一行は、ビートルズがまもなくデス・ヴァレーにある農場で「ファミリー」に合流することを意味した。裁判中、殺人を命じたと非難され、マンソンはこう答弁した。「命じたのはビートルズだ、かれらが世に送り出す音楽だ。かれらは戦争を語っている。(略)」。マンソンの信者たちは「立ち上がれ」と「豚どもに死を」の言葉を犠牲者の家の壁に、「ヘルター・スケルター」を冷蔵庫に血で殴り書きした。

 ヘッドホンで「レボリューション9」を聴いて、マンソンはビートルズが「チャーリー、チャーリー、電報を寄越せ」と言うのをたしかに聞いたという。

エルヴィス・コステロ

ロス・マクマナスは一九六三年一月には三十五歳、ジョー・ロス・オーケストラの専属歌手だった。当時はBBCと音楽家組合の間に契約があり、毎日ラジオで放送できる録音された音楽は五時間に制限されていた。それを超える分は、すべて生演奏でなければならない。ジョー・ロス・オーケストラはその隙間を埋めるべく、他のアーティストの最新のヒット曲をわずか数日のうちに習得し、その後生放送のスタジオでそっくり真似て演奏した。

 マクマナスの九歳になる息子デクランは、父親が最新のヒット曲を何度もくりかえし聴き、声を合わせて歌い、覚えるのに耳を傾けた。(略)

 一月、マクマナスは新進のグループ、ビートルズの歌う「プリーズ・プリーズ・ミー」という曲を覚えるように指示される。デクラン少年は父親が何度もかけるレコードに聴き入った。少年はハーモニーをつける部分に驚いた。(略)「(略)あのクレシェンド、とくにファルセット気味に跳ね上がる最初の『プリーズ』はすごくいい」。

 デクランは父親に、曲を覚えてしまったらレコードをもらってもいいかと訊ねた。「父は笑って、レコードを手渡してくれた」。年が経ち、ビートルズの名声が高まるにつれ、デクランは父親がビートルズの新しいシングル盤が出るたびにレコードを持って帰宅するのを心待ちにした。(略)レコードはプレスされたばかりの状態でやってきた。ラベルの多くに「デモ盤」とか「ディック・ジェイムズ音楽出版社」と赤インクで印字されていた。

 十一月の初め、ロス・マクマナスはジョー・ロス・オーケストラとともにロイヤル・バラエティ・ショーに出演して「天使のハンマー」を歌うことになった。デクランにとっては、父親がビートルズと同じ日に同じステージに立つことのほうが、王室の方々の前で演奏することよりはるかに心躍る出来事だった。

(略)

ビートルズとほんとに会えたの?」

 父親はああと呟き、かれらに会えたし、とても感じのよい若者たちだったと答えた。「それから椅子の背にかけた上着に手を延ばすと、薄いエアメール用の便箋を一枚取り出して手渡してくれた。紙を広げたら、そこにビートルズの四人全員のサインがあった。(略)インクがまだ乾ききっていないみたいに見えた」。

(略)

 十年後、デクランがミュージシャンとしてデビューしようというとき、父親のロスは息子に、自分の父がジョー・ロス・オーケストラで歌っていたなどとは絶対に口にしてはいけない、さもないと真面目に相手にしてもらえないぞと助言した。デクラン・マクマナスはカムフラージュに加えて名前をエルヴィス・コステロに変える。「考えてみれば、親父はあのとき三十五歳だった。二十二歳の若者たちのところに行って、『息子のためにサインしてもらえるかな』と言うのは、なかなか大変だったと思う」。

Ross McManus with The Joe Loss Orchestra - If I Had A Hammer


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新語考

 一九六〇年には theme park、wheeler-dealer(策士)、beehive(蜂の巣形の髪型)が語彙に加わり、その年シルヴァー・ビートルズビートルズに改名してハンブルクに旅立った。

 続く三年間には、life-style、Purple Heart(興奮剤の俗称)、Chelsea boots、trendy、no problem(何でもない/大丈夫)、mind-expanding(ハイになる、幻覚作用のある)が日常会話に登場する。(略)一九六四年には、裾広がりのパンツを指す flares とともに gonk(卵形のおもちゃの人形)、disco が初お目見えした。swinger(グループセックスをする者)、topless、そして beautiful people という表現が、従来の考えにとらわれない時代の到来を告げる。

 一九六四年にはリヴァプール生まれの作家アラン・オーウェンが『ハード・デイズ・ナイト』の脚本に grotty(むかつく/醜い)という形容詞を取り入れた。オーウェンはこの映画の台詞にビートルズなら使いそうと思う単語を散りばめた。たとえば、 dig(理解する、わかる)、fab(素晴らしい)、drag(残念)などである。オーウェンは grotty をありふれたリヴァプールの俗語と思っていたが、ビートルズのメンバーの誰ひとりその言葉を聞いたことがないと知って驚いた。「すごく変な言葉だと思ったよ」とジョンが回想する。「それを言わされるたびに、ジョージはきまり悪がって身体を丸めていた」。ところが映画がヒットしたおかげで、その年の終わりには grotty すでに立派な英語のひとつとなっていた。

 mini-skirt の到来は一九六五年のことで、この年にはgo-go dancer、teeny bopper(流行を追うティーンエイジャーの少女)、 loon(愚か者)、zit(にきび)、downer(鎮静剤)、women's liberation(女性解放運動)、chat show(トークショー)が、freak out(ドラッグなどで興奮状態になる)、turn on(興奮させる)という呼びかけの言葉とともに使われ始める。一九六六年(略)には Transcendental Meditation (超越瞑想)が初めて活字になったものの、日常会話で聞かれるようになるのはビートルズが初めてマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーと知り合ってからのこと、同じ頃、love-in(ヒッピーの愛の集会)、rave(どんちゃん騒ぎ)、encounter group(集団心理療法のためのグループ)、hype(誇大広告)、groupie、generation gap、mind-blowing(めくるめく(略))、flower power、そしてflower peopleとともに庶民の言葉に加わった。

 vibes(雰囲気)もやはり一九六七年に初めて登場したものの、ビートルズが初めて使用したのが記録されたのはその翌年、ジョージが自分のジンジャービスケットを断りもなく食べるヨーコを見てかっとなり、「あんた雰囲気を悪くしてるよ」と言ったのが最初とされる。

(略)

一九六九年は ego trip(独りよがりな振る舞い)、one-parent family(片親家庭)、alternative society(代替社会)、jet lag(時差ぼけ)、bowver boot、 missionary position(正常位)、roadie(ツアーアシスタント)が誕生する。turn on に遅れること四年、対義語の turn off(うんざりする/させる)がこの年に加わる。同じ年の三月二十五日、アムステルダムヒルトン・ホテルでジョンとヨーコは新語 bed-in を作ると同時に実演してみせた。これは sit-in(抗議の座り込み、意外かもしれないが、こちらはすでに四十年ほど前から通用した)が水平になったもの。(略)

さようならブライアン・エプスタイン

[引用者注:エプスタインの死からビートルズとの初遭遇へと時間が逆に進行し、最後に、本のタイトル「ワン、ツー、スリー、フォー」で、本の冒頭につながるという仕掛けになっている]

 

 一九六七年九月八日

[検視した病理医は]血液中から百六十八ミリグラムのブロミドが検出されたと報告する。(略)長期にわたり服用しないかぎり、これほどの量に達するはずはない。

(略)

血中のブロミド濃度が高くなると、無頓着、無分別になりやすいと書き添える。(略)「ドラッグに関しては、患者は少なくとも五年前から大量のアンフェタミンを服用し、また定期的にマリファナを喫っていた。ヘロインも試したが、中毒ではなかった。ときおり、とりわけこの二年間は、アルコールの飲み過ぎと、ドラッグなら何でも過剰に服用する傾向があった」と述べる。

(略)

 一九六七年八月二十九日

 ブライアンはエイントリーユダヤ人墓地の父親のそばに葬られる。父親が亡くなったのは、わずか六週間前のことである。ブライアンは帰宅する車のなかでこらえきれず泣きじゃくった。今度はブライアンが人々を悲しませる番だ。群衆が手に負えなくなるのを恐れて、ブライアンの母親クィーニーがジョージと他のメンバーに弔問に来ないよう頼んでおいたため、比較的静かである。

(略)

シラ・ブラックがあまりに悲嘆に暮れるのを見ていられず、クィーニー・エプスタインは精神安定剤を与える。

(略)

 一九六七年八月二十七日

 午後遅く、ポールはマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーウェールズのバンガーで主催した超越瞑想の集会を中座し、「リヴァプール・エコー」紙の人懐こい記者と話し込む。裏で電話が鳴りやまない。(略)記者は受話器を取り上げるポールを見つめる。ポールがこう言うのが聞こえる、「え、まさか、嘘だろ、どうしよう」。ポールは受話器を置き、ジョン、ジョージ、リンゴのいる二階に駆け上がる。しばらくして、階下に降りてきて記者にこう言う。「ブライアンが今朝、部屋のベッドで死んでいるのが見つかったそうだ。睡眠薬の過剰摂取か何からしい。さっぱりわからない。今すぐロンドンに戻らなくちゃ」

 ジョンは怯える。「困ったことになるとわかっていた。音楽を演奏する以外におれたちに何かできるとは思わなかった、ただ怖かった。『もはやこれまで』と思ったよ」。

(略)

[ブライアンが姿を見せないと秘書からアリステア・テイラーに電話]

過去に二度、どちらも日曜だったが、ブライアンが電話をかけてきて、これから自殺すると言ったことがある。「アリステア、もううんざりだ。お別れを言おうと思って電話しただけだよ」。二度とも、アリステアは大急ぎで駆けつけ、不機嫌なブライアンに迎えられた。「なんだ、馬鹿言うんじゃない。ちょっと気が滅入っただけさ。ほっといてくれ」。

 チャペル・ストリートに着くと、ジョアンがすでに医者を呼んでいた。医者が肩から体当たりしてドアを開ける。アリステアもあとに続く。ブライアンはベッドにいる。「眠っているように見えたが、死んでいるとすぐにわかった。全身が言いようのない痛みに襲われた」。

 医者が「残念ながらお亡くなりです」と言う。

 アリステアは呆然とする。何もかもが、自分自身も含めて、スローモーションのようにしか動けないと感じる。

(略)

遺書はなく、乱れた様子もない。引き出しを開けると、とてつもなく太いマリファナ煙草が見つかる。アリステアはそっとズボンのポケットに滑り込ませる。

(略)

 一九六七年五月十三日

 かかりつけの精神科医ジョン・フラッド博士に「不眠症、興奮状態、不安症、抑鬱状態」と診断され、ブライアンは自ら(略)診察を受ける。医者たちはブライアンを一週間弱、睡眠薬で眠らせる。

 目を覚ましたブライアンは、次々と訪問者に面会する。訪問者たちはブライアンが奇矯で被害妄想気味、ときおり感情を剥き出しにすると思う。面会に来たロバート・スティッグウッド、ナット・ワイスと仕事の打ち合わせをしている最中に、巨大な花束が届く。ブライアンはカードを開き、声を出して読み上げる。送り主はジョン。「ぼくが君を愛していることは知ってるね、心から」。ブライアンは泣き崩れる。ふたりの訪問客は廊下に退く。「ブライアンは正気じゃないな」とスティッグウッドが言う。

 ポールはブライアンに四枚の手紙を書くが、そこには忠告と励ましが優しくもぎこちなく入り混じる。「君の最大の問題は、なんでも深刻に受け止めすぎることだ」。「誰が気にする?」と書かれた新聞の見出しを切り抜き、三枚目の自分の文章のなかにそれを貼り付けて、「気にするひとだっている、友だちだ、そして友だちの声に耳を傾ける時が来た」と書き添えてある。手紙の締めくくりは、「いいこと考えろよ、元気を出せ、早くよくなるように祈ってる」。

 ビートルズはピーター・ブラウンに頼んでポータブル・レコードプレーヤーと新譜アルバムの初期プレス盤をプライオリー病院に届けさせる。プライアンはベッドの上に腰掛けて、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に初めて耳を傾ける。

 

 一九六七年春

 ブライアンの常軌を逸した振る舞いがますます目立ち始める。以前は時間厳守だったのに、めったに時間を守らなくなる。土壇場で約束をキャンセルする。仕事の会合で、大筋をまったく掴めていないのに、些事にこだわり、叫んだり怒鳴ったり、「なんでこんなことができないんだ?!」と大騒ぎする。

 

 一九六七年二月二十八日

 ブライアンはマンハッタンのウォルドーフ・タワーズ・ホテルに滞在中。(略)ナット・ワイスが立ち寄り、ブライアンがまともにしゃべれないのに気づく。ブライアンは睡眠薬[を](略)もっと嚥もうとする。ワイスは力ずくでブライアンを床に抑え込み、薬瓶を窓から外に放り投げる。(略)

自分の車に乗せてインタビューを受けるラジオ局に連れていく。ワイスはスタジオでもブライアンの隣に控え、ブライアンが崩れ落ちるのを防ぐ。最初の数分、ブライアンが訳のわからないことを呟く間、マレー・〈ザ・K〉がDJらしいおしゃべりで間を持たせる。だがそのうちに興奮剤が効き始めて、ブライアンは息を吹き返す。

 

 ブライアンはマンハッタンにいるときはいつでも、ひとりで運転手付きのリムジンの後部座席にゆったりと腰を落ち着けるのがお気に入りの気晴らしだ。銀のシガレットケースに手を延ばし、あらかじめスタッフに巻かせておいたマリファナ煙草をふかしながら、セントラル・パークの周りをドライヴするのを好む。ブライアンはいつも同じ曲を何度もくりかえしカーステレオ装置でかけさせる。曲はフォー・トップスの「イッツ・ザ・セイム・オールド・ソング」。

 

 一九六七年一月後半

 いつもとは逆に、ビートルズがブライアンのことを心配する。「エピーの具合がひどく悪そうだ(略)頭が完全にイカレてる、本当に心配だ(略)どうしたらいいか、まるで見当がつかない。独り立ちして、自分たちの道を進んでいい頃なんだが、それはそれとしてね」。

 ジョンが聞かせてくれた録音テープは(略)「人間の声とかろうじてわかる程度で、呻いたり、唸ったり、叫んだり(略)まるで意味不明だった」。

 ピート・ショットンがこれは誰かと訊ねる。「ブライアンだよ(略)自分の家でおれのために録音したらしい。なぜこんなものを送りつけてきたのかわからないが、何か伝えようとしたんだろう、何が何だかわからない。もうふつうのやり方でおれたちと話ができないらしい」。

(略)

 一九六六年十一月後半――十二月

 ツアーをやめた今では、ビートルズは以前ほどブライアンを必要としなくなり、一緒に過ごす時間も減る。スタジオの録音エンジニア、ジェフ・エメリックは、ビートルズの面々がブライアンにスタジオをうろついてほしくないと思っていることに気づく。ブライアンはビートルズとの日々の交流がないのが寂しい。することが減っていくにつれ、ブライアンの退屈しのぎもますます無謀になる。

 

 一九六六年八月二十九日

 ビートルズがサンフランシスコのキャンドルスティック・パーク球場で演奏を始めるほんの数時間前、ブライアンは打ちひしがれた様子に見える。コンサートは見に行かないことにしていた。その代わり(略)ホテルのスイートルームで過ごす。ブライアンはナット・ワイスに言う。「これがビートルズ最後のコンサート、もうこれっきりだ」

 ブライアンはナットに、昔の恋人ジョン・〈ディズ〉・ギレスピーが立ち寄ったと言う。(略)「あの子は変わった」とブライアンは言う。

「変わりゃしないさ」とワイスは言う。「追い出せよ」

「いや、君にはわからないよ……あの子は本当にぼくを愛している」

 ビートルズは四人ともギレスピーが好きなのだとブライアンは言い張る。ワイスはそれが真実でないと知っている。四人はあからさまにギレスピーを嫌った。ブライアンは横柄な態度や粗暴な行為に(略)性欲が昂るらしい。(略)

[二人が夕食から]戻ると、ギレスピーがふたりのブリーフケースを持ち逃げしたあとだった。(略)ツアー契約書と違法な睡眠薬セコバルビタールと現金二万ドルが入っていた。その後、ギレスピーはふたりに脅迫状兼取引要求の手紙を送りつけ、ふたりのブリーフケースと引き換えに一万ドルの支払いを求める。ブライアンはナットに「放っておこう」と言うが(略)ワイスは私立探偵を雇い(略)ギレスピーは逮捕され、ブライアンは金の半額が入ったブリーフケースを取り戻す。ところがブライアンはナットの行動をあっぱれとも思慮深いとも思わず、信頼を裏切られたと感じる。(略)

ワイスははるか後年、こう回想する。「あっちでもこっちでも裏切られたことが、ブライアンにとどめを刺した」。

(略)

 

 一九六六年四月六日

(略)ブライアンはナットに問題が起きたと告げる。ディズ・ギレスピーがニューヨークにいて、連絡してきた。ブライアンと縒りを戻したいと言っている。ブライアンは断りきれないと感じるが、同時にディズがビートルズを困らせるかもしれないと思うと怖くなる。ナットは(略)ギレスピーの姿を一目見て、どんなタイプか見抜く。「どこにでもいる男娼だ」。

 ギレスピーはブライアンを愛していると言い張る。「何もいらない。会いたいだけだ」

(略)

 ワイスはギレスピーの(略)要求を呑まないよう助言する。しかしブライアンはナットに、ギレスピーに車を買う金として三千ドルやるようにと言う。金を手渡す前に、ワイスはギレスピーに、ブライアンとビートルズが街を離れるまで、ワーウィック・ホテルの鍵のかかった監視付きの部屋から一歩も外に出ないことを承知させる。

 

(略)

 一九六五年八月十七日

(略)ラリー・ケインはビートルズ初の全米ツアーの全行程に同行してメンバーと親しくなっていたが、ブライアンに目立った変化が起きているのに気づく。気分の浮き沈みが激しい。輝くような笑顔を見せたかと思えば、次の瞬間には「打ちのめされた表情」に変わる。

 

 一九六五年三月

 ブライアンの新しい恋人ディズ・ギレスピーは暴力をふるう。ブライアンとディズは夜になると興奮剤をコニャックで嚥み下す。しまいには激しい口論になることもしばしばで、花瓶や鏡が叩き割られる羽目になる。ある晩、ギレスピーが怒り狂っため、ブライアンがアパートから出ていけと命じる。ギレスピーはキッチンナイフを掴んでブライアンの喉元に突きつけ、ブライアンの財布から金を抜き取る。

 

 一九六五年春

 パディ・チェンバースがナイツブリッジのアパートにブライアンを訪ねる。(略)「何から何までめちゃくちゃにされていた、ものすごく高級なアパートなのに、カーテンはすべて引きちぎられ、カクテルキャビネットは粉々に打ち砕かれていた。(略)ドラッグのせいと思うけれど、ブライアンは『気が触れていた』」。

 

 一九六五年二月

(略)ブライアンのベントレーのドアに、誰かが車のキーで引っ掻いて、QUEER(おかま)と落書きする。

 

 一九六五年一月

 ブライアンからかかってきた電話の声があまり奇妙なので、両親は息子の家に急いで駆けつける。(略)ブライアンはギレスピーを愛していると告白する。母親のクィーニーは、ピーター・ブラウンと一緒に南仏にでも休暇に出かけて、そいつのことは忘れなさいと強く言い聞かせる。

(略)

 一九六四年十二月

 ブライアン・エプスタインはいまや英国で、おそらく世界でも最も成功したマネージャー兼興行主である。(略)

ブライアンがマネジメントを担う他のアーティストの活躍も目覚ましい。

(略)

 事務所のスタッフはブライアンが傘下のタレント一覧に役者をひとり加えたと知って驚く。その名はジョン・〈ディズ〉・ギレスピー。

(略)

 一九六四年十月

 ブライアンは二十代前半のアメリカ人の若者ディズ・ギレスピーと知り合う。(略)「黒髪、いたずらっぽい目とやんちゃな小鬼のようなしゃくれた鼻」の持ち主。ギレスピーは役者か歌手、あるいはその両方になりたがっている。「かれには何か特別なものがある」とブライアンは言う。(略)

 ブライアンはギレスピーの借金を返済し、自分の個人口座から手当を支給し、NEMSエンタープライズに週給五十ポンドで雇い入れ、新しい服一式を揃えてやる。新聞各紙はギレスピーを、ブライアンの最新の掘り出し物と報じる。

(略)

 一九六四年五月十七日

[「オブザーバー」紙のインタビューで]

 ブライアンは自身の内気さ、不幸な学生時代について語る。ハリスが問う。「つまりビートルズがあなたの問題を、あなたに代わって解決してくれたというわけですね?」

 ブライアンは答える。「そうです、おかしなことですが、これまでそんなふうに考えたことはありませんでした。でも、たしかにそのとおりです。ビートルズのすべてが、わたしには正しかった。人生に対するかれらの心構え、かれらの音楽から伝わってくるあの心構え、かれらのリズム、歌詞、ユーモア、独特の振る舞い――すべてがわたしの望むものでした。率直で気取らず、気立てがよくて遠慮のないかれらのようなひととの接し方が、わたしにはどうしてもできなかった。そうしたいのにできないと感じていたのです。わたし自身の劣等感が、ビートルズのおかげで解消しました。なぜなら、わたしにはかれらを手伝えるとわかり、かれらがわたしに手伝ってほしいと思い、わたしを信じて、手伝わせてくれたからです。(略)」

(略)

 一九六二年六月七日

 デモ盤を聴き、EMIのジョージ・マーティンはテスト録音にビートルズを招くが、あまり気乗りしない。セッション中に席を外して社員食堂でお茶を一服、ビスケットもつまむ。「リヴァプールからやってきた四人の間抜け」をとくに気にかける理由は見当たらない。オーディションが終わっても疑念は消えず、とりわけ自分たちで書いたという曲には疑いを抱く。マーティンは「連中の作詞作曲の才能が売り物になる見込みはないと確信」する。ところがオーディションのあと、カフェで一緒におしゃべりするうちに魔法にかかる。当意即妙、ひとをからかうような気さくな会話、向こう見ずなエネルギー。「そのあとの十五分から二十分は、とにかく愉快だった。連中が帰ったあと、わたしは座ったまま、『ふう!あの子らのこと、どう思う?』と訊ねた。涙が頬を伝った」。

 おおまかに言うと、音楽より人柄を買って、ジョージ・マーティンビートルズと契約を交わすことにする。

 

 一九六二年五月八日

 何社ものレコード会社を訪ねた挙げ句、手持ちのデモ盤が尽きてしまい、ブライアンはデッカで断られた録音テープを持ってオックスフォード・ストリートのHMVの店に行き、一ポンド払ってレコードにしてもらう。ディスクをカットする係のジム・フォイが、このグループのサウンドは「かなりいいじゃないか」と言い、どこかと契約しているのかと訊ねる。「いや、ありとあらゆるところに行き、ありとあらゆるひとに会ったんですけどね」とブライアンが言う。

 フォイがブライアンを二階に案内し、EMIの音楽出版部門のシド・コールマンに引き合わせる。シドがブライアンにEMIにはあたってみたかと訊ね、ブライアンはあたったと答える。「だめだと言われました」。シドがジョージ・マーティンには会ったかと訊ねる。

 「誰ですか?」

 「パーロフォンの責任者だよ」

 ブライアンはいよいよどん底まで来たと感じる。パーロフォンはブライアンの眼中にない。コメディとジャズの屑籠だ。

(略)

 一九六二年一月二十九日

 ブライアンはビートルズの借金二百ポンドを返済する。これはギターとアンプの分割払い購入契約が積もり積もったもの。ブライアンは四人を行きつけの仕立屋ベノ・ドーンの店に連れていき、襟幅の狭い濃紺のモヘアの小粋なスーツを誂える。四人はズボンをもう少し細身にしてくれとしきりに頼む。ビートルズは有名になるからこの先注文が増えると言って、ブライアンはドーンに掛け合い、二十八ギニーを二十三ギニーにまけてもらう。

(略)

 ブライアンはビートルズに小ぎれいにするように強く求める。ひとりひとりに明確な指示を与え、最高級の紙にタイプして手渡す。「ステージ上では酒、煙草、チューインガムは禁止、罵りは厳禁。(略)ステージにいる間は可愛い女の子がいても話しかけないこと。時間を守ること。(略)いまや君たちはプロで、よい評判を保たなければいけないことを忘れないように」。

 グループのメンバーのなかで誰より問題を起こしそうなジョン・レノンが感心して、その気になる。後日、ジョンはこう回想する。「ブライアンが指示をまとめて紙に書いてくれて、それで何もかも現実だと思えた。ブライアンがやってくるまで、ぼくらは目覚めたまま夢を見ていたのさ。(略)それからはステージの上でチーズロールやジャムサンドをくちゃくちゃ食うのはやめた」。

 

 一九六一年十一月九日

ワン

 ツー

  スリー

   フォー

(略)

 演奏が終わり、テイラーは「まったくひどい連中ですね」と言う。

 「たしかにひどい(略)でも、すごくいいじゃないか。ちょっと挨拶しに行こう」

(略)

「やあどうも」とジョージは言う。「エプスタインさん、いったいどうしてこんなところへ?」(略)