黒人ばかりのアポロ劇場・その2

ビリー・ホリデイ

四〇年代にさしかかるころには、彼女は全世界にその名を知られるようになった。けれども、その時すでに彼女は、痛ましい麻薬の虜にもなっていた。

 厳密に言えば、ビリーを掘りだしたのは、ジョン・ハモンドではなく、アポロ劇場専属の照明家ボブ・ホールであった。

(略)

「はじめのうちは彼女も素直で、純情でした。酒に溺れることもなく、麻薬などまったく縁がないようでした。アルハンブラの店での、あんな一件のすぐあとから――そういえば、アポロ劇場のアマチュア・コンテストでも彼女は優勝しました――彼女は人気がではじめました。数年の間は健全そのものだったんですが、やがてあの麻薬中毒にかかってしまいました。哀れとしか言いようがありませんでした。あんなに可愛かった娘がと思うと……」

 私が個人的にビリーと会った最後の時といえば、彼女がまだ若くして逝った日の四、五年前のことだった。異常な美しさで胸を締めつけるような彼女を見ると、私はいつも、ゴーギャンの"南海の島の人びと"に描かれた人物の一人を思い出した。だが彼女の暗い瞳には、陰惨な影が宿っており、時にその視線はひとの心を見通していた。まるで彼女は虚空からの便りを聴いているかのごとく、そこに誰がいるかもわからないらしかった。彼女の舌は終始もつれたり、途切れたりして、泥酔しているかのようだった。彼女は麻薬常習者の空想の世界へと心を奪われていたのだ。

 その朝、私は彼女の楽屋を訪れた。たぶん、自分のマネジャーと口論して、そのほとぼりのさめない彼女を追いかけて行ったのだ。彼女はそこに立ちつくしていたが、光沢のある黒髪はひときわ艶を増し、類いまれなほど彫りの深い顔の奥にある素晴らしい眼は、大きく開かれたままだった。彼女は前後に身を揺らしながら、こう呟いていた。「あたしって、なんてドジなの!救いようのない馬鹿だわ」私は彼女の楽屋をあとにした。こういう彼女の煩悶を見るに忍びなかったからである。

ソウル・ミュージックの生みの親、オリオールズ

 いずれにしろ、バップは一本の支流にすぎず、それが流れこむ大河こそ、やがてソウル・ミュージックとなるものだった。ここには、別に源を発したR&B(略)も流れこんだ。

 リズム・アンド・ブルースとはなにかを、簡潔に示すのは至難に属する。なにしろ、それを形成するのは、過去に存在したありとあらゆるものであり、その中にプログレッシブ・ジャズ、バップ、ブルースといった比較的新しいビートが混じり合い、さらにゴスペルの味わい、カントリー=ウエスタンも散りばめられ、その底にはクリエイティヴ・マジックという黒人芸術の血が流れている。悲しくも皮肉なめぐり合わせの結果、実質的にはソウル・ミュージックの生みの親ともいうべきコーラス・グループは、現在ではほとんど世間から忘れ去られてしまった。(略)

このグループこそ、その名をオリオールズと称し、リーダーは、美男で才人の誉れの高い、若き日のソニー・ティルだった。

(略)

 当時のポップ・ミュージック界の状況を考えれば、もしオリオールズがあの時期に現われなかったとしても、彼らに代る別のグループが似たような立場を築き上げたにちがいない。第一、オリオールズでさえ、自分だけではやっていけなかったのである。彼らがボルティモアからニューヨークへ来たときには、財布にはビタ一文残っていなかった。(略)

なかば義侠心から(略)なかば興行師としての直感から、父はチャンスを与えてやった。(略)

数年が経つうちに彼らの人気は高まり

(略)

オリオールズのメンバーが舞台中央に登場するやいなや、一階の前から十列目あたりは、混沌を絵に描いたようで(略)

 新しい歌がはじまるごとに叫び、ソロを受けもつ若者がセンターマイクを握るごとにわめき、彼らが歌の間に、おさだまりの器用なステップを見せるごとに絶叫するしまつで、場内は興奮にどよめいた。そして、ソニー自身が、その痩躯を傾け、まるでそこに熟れた女体があるかのごとく、悩まし気にマイク周辺の空気を愛撫しはじめた時!なんと女の子たちは、自分のボーイフレンドだろうが、手近かにいる男の子を抱き締め、キスを浴びせ、身もだえていたのだ。それに、「やって、ソニー!あたしを犯して!」というあの嬌声!

(略)

彼らが生みだしたのは、現在なら、私たちが"グループ・サウンズ"と考えるもの――つまりゴスペルとジャズを組み合わせたり、一つの旋律の途中に声門を止めて息で歌ってみたり、裏声でテナー・ソロを歌うもの――といえよう。これらの様式こそが、自分たちだけに固有な象徴を探し求める世代の敏感な聴覚をとらえたのだ。また、以上のことを理解して、オリオールズにつきものの踊りを考えれば――これは最後の一歩に至るまで振り付けされ、一定の型があった――情緒不安定な思春期の世代にとって、抗しがたく壊しがたい斬新なアイドルの実体が理解できるだろう。

 オリオールズが新しいサウンドと様式を創ってから十五年過ぎた時点で、テンプテイションズ、スプリームズをはじめ、いちおう名の通ったコーラス・グループはすべて、彼らの余情を伝えていると言ってもよく、ビートルズローリング・ストーンズも例外ではない。またアポロ劇場の側からすれば、ソニー・ティルと彼のグループが劇場の番組編成に与えた影響も、重大なことだった。

 私の父は、こう回想している。「ほとんどの人が、毎場面に"ニュー・サウンド"が演奏されるものを望んだ」伝統を誇っていたバラエティ・ショーは、すべてヴォーカル・グループの波の前に押しながされた。ダンスもその色香を失い、時代遅れの喜劇にはだれも笑わなくなってしまった。その挙句、十年前であったら、単調すぎると非難されたはずのもの――一枚のプログラムに、コーラス・グループの名を連綿と並べたもの――が、出しものを編成する上での見本となった。観衆は、単調さを敬遠するどころか、まるで飽和状態すらもいとわぬ素振りだった。

 ほどなく、舞台の上では、オリオールズのすぐあとを追いかけてきたグループがひしめき合うようになった。ビリー・ワードとドミノズ、ザ・ファイヴ・キイズ、ザ・クローヴァーズザ・ドリフターズ、ザ・ハープトーンズ、ザ・ソリテアーズ、ザ・ムーングロウズ、ザ・ヴァレンタインズ、ザ・ダイヤモンズ――まるで、数人のメンバーと一台のピアノ、それにグループ名がついていれば、それだけで舞台にあがれるのではないかと錯覚しかねなかった。

 ミルズ・ブラザーズをはじめとし、それを手本として多くの忘れ得ぬグループが生れたが、その中にはジ・インク・スポッツ、キング・コール・トリオ、ザ・チャリオティアズ、ザ・ビリー・ウィリアムズ・カルテットもふくまれていた。とはいえ、オリオールズは着想のすばらしさで新しい境地を開拓した。また、彼らの名前が今日でも伝説と化してはいないとすれば、彼らの力が目に見えない形で、レイ・チャールズ、アリサ・フランクリン、チャック・ベリー、ボディドリーに伝わり、サム・アンド・デイヴ、ミッキー・アンド・シルヴィアにも流れ、さらにコーラス・グループ界の巨峰ザ・テンプテイションズをうるおす一方、まだギターを習得して間もない長髪の連中が新たに組織するグループにも受け継がれているからなのだ。オリオールズこそは、第二次世界大戦後のポップ・ミュージックと一九六〇年代のソウル・サウンドの間にあって重要な橋わたしの役をつとめたのである。

ゴスペル

ゴスペル・ミュージックの感化を受けなかったとしたら、モダン・ポップ・ミュージックの歴史には、いささかの発展もなかったと言っても過言ではなかろう。"黒人霊歌"という形で存在したごく初期のころから、ゴスペルは断片的にではあったが、当時の人気歌手によって取り上げられ、ジャズやブルースという大河へとそそいでおり、一方では、芸能界に籍をおく黒人にほとんど例外なく、大きな影響を及ぼしていた。けれども、ゴスペルが純粋な形のままで、堅固な聖域から形をみせることは、まずなかった。というのも、ゴスペル及びそれを守りつづける人びとが、卑俗な流行文化によって毒されるのを恐れたのであろうか。だが銘記すべきは、ジャズの発祥をたどれば、売春宿に至るものも多いのだ!

 ゴスペルを歌わせたら、並ぶ者のないほど傑出しているマヘリア・ジャクソンが、アポロ劇場には出ようとしない理由は、この辺にあると考えてもよかろう。私たちは彼女を相手に幾時間も、いや半日近くも費やして説得に努めたがアポロ劇場への出演が彼女自身にとっても、観客にとっても、おそらくは教会のためにも良い結果をもたらすことを理解してもらえなかった。彼女は、商業劇場の舞台に立つのは冒瀆行為になるという信念をあくまでまげず私たちは結局、お客様に彼女の晴姿をおめにかけたいという夢を断念せざるを得なかったのである。

 こんなわけで、一九四〇年代から五〇年代の初期に、私たちの舞台で生粋のゴスペル・ミュージックを歌ってくれたのはシスター・ロゼッタ・サープだった(時には美貌のマリー・ナイト夫人も加勢してくれた)。

(略)

父はこう考えていた。「ゴスペルの歌手たちが普段歌っているようなホールではとてもできないことを、アポロ劇場は大衆のために提供する。坐り心地のよい座席、すぐれた音響装置、完全な照明器具、劇場にあるその他の付帯設備、これらの設備はすべて、聴衆の心をほぐし、出演者の力量を発揮してもらうためなのだ」

(略)

父は牧師さんたちに集まってもらい、自分の計画、出し物はゴスペルだけとし、その情緒、厳粛さ、純粋性を紹介する意図を説明におよんだ。

(略)

 私たちは"ゴスペル・キャラヴァン"と名づけたが、第一回目から二つの貴重な教訓を学んだ。第一に、劇場でゴスペルを観たいというハーレムの住人は、私たちの予想を上回る数だった。第二に、次回からのキャラヴァンでは、熟練した看護婦をかなり多勢、待機させる必要があるということだった。第一回のキャラヴァンに、アポロ劇場の"会衆"から寄せられたものは歓迎というより、いまだお目にかかったことのない集団ヒステリーに近かった。金切り声でわめき、涙にむせび、手足を痙攣させ、意識不明となり、発作を起す始末だった。

 現在でもアポロ劇場には、ありとあらゆる種類のショーがかかるが、イースターとクリスマスのころ年に二回行われるゴスペル・キャラヴァンで、熱狂のあまり生じる精神的錯乱状態は何物にもたとえがたい。なにしろ、ザ・ステイプル・シンガーズ、ザ・ゴスペラーズ、ザ・マイティ・クラウズ・オブ・ジョイ、ザ・ファイヴ・ブラインド・ボーイズ、ザ・ピルグリム・トラヴェラーズ、ザ・キャラヴァンズ、クララ・ワード、ジェイムズ・クリーヴランドといった震えの出そうな面々が舞台をつとめるからなのだ。

 さて、ゴスペル歌手といえば、アポロ劇場の観衆にワンマン・ショーでは空前絶後の驚嘆を与えた人として、やがては劇場の歴史にその名を刻むと思われる歌手がいる。彼女の名をクリスティーン・クラークといい、現在ではオリオールズと同様、実質的にうもれてしまった。

 だが私の兄ボビーは二千人もの人たちがすっかり暴徒と化すさまを目のあたりにしたときのことを記録に残している。

(略)

[浮かない顔のクリスティーン]

私はいつも神様を忘れたことはないわ。(略)自分でしているのは神様の仕事だといつも思っているのよ。だけど、あのお方が私のところへ来たことはないの。自分で救われたと感じたこともない(略)。ボビー、なにかがいけないのよ。

(略)

そこでボビーはクリスティーンにいってやった。「いいことを教えてあげよう。この次に歌い終って、自分の席にもどったら、頭をうしろにそらして、できるだけ高い音を出してごらん」

「それでどうなるの?ボビー」

「結果はあとのお楽しみさ」

(略)

[自分の席へもどった]彼女は腰をおろすやいなや、頭をうしろにひくと、想像を絶した甲高い声を張り上げた。彼女がそのまま絶叫しつづけると、隣にいたキャラヴァンズの女の子は、まるで背中に弾を受けてはじかれたように飛びあがり

(略)

 彼女は通路のあちらこちらを駆けめぐり、ゴスペル歌手ならだれでも知っているステップで踊り出し、救われた喜びを叫びに託して有頂天になっていた。舞台の上でも、出演者がどんちゃん騒ぎを演じ、観衆の右往左往も三十分以上続いた。気絶した女性は十二人にのぼり、男性もあたりをはばからず泣いていた」

(略)

「ショーのあとで彼女のところに行ってみると、彼女の瞳は以前には考えられなかったほど輝きわたっていた。彼女はまだ雲の上をさまよってる感じだった。そして彼女は同じ言葉を繰り返すだけだった。"あなたのいったとおりよ、ボビー。確かに、あなたのいったとおりだわ!"クリス・クラークはついに救われたのだ!」

 蛇足ながら、彼女は牧師と結婚して、主婦となった。もはや、その美声に接する特権を有する聴衆は片田舎の教会に集う人たちだけになってしまったがおそらく彼女の歌は、どんな歌手にも真似のできない程、感動へ導く力を今なお有していることであろう。

障害者ダンサーたち

ハロルド・キングはローラー・スケートをはいたまま、見事なダンスぶりを見せてくれた。彼はフィナーレとして、二フィート四方の台上でローラー・スケートのタップ・ダンスをした。しかも、目隠しをしたままなのだ!(略)

うしろ向きに滑りながら徐々に速度を増してゆくと、あわや背中から観客席へ墜落かと思いこんだ人たちは、悲鳴をあげて逃げたり、彼を支えてやろうと手を伸ばしたりした。だが、彼は決して落ちなかった。

 ハロルド・キングは少々無鉄砲だったにしても少なくとも五体健全だった。では、松葉杖をつきながら踊った、ジェシ・ジェイムズのようなひとのことは、なんと説明すればよいのだろうか。(略)

純白のタキシードに身を包み、無残な足をかばいながら舞台にいざりより、想像を絶した珍妙無類の格好で踊りはじめ、床につけた松葉杖でリズムをとり、良い方の足でタップを踏むと素晴しいシンコペーションがつくり出されるのだ。

 それにしてもジェシには、曲りなりにも両手両足があった。だが、次に紹介する"クリップ"ハードと呼ばれた気だてのいい若者には、なんと片手片足しかなかったのだ。クリップは片足を使い、片腕で平衡をたもちながら、カルテットで踊るなまじっかの連中よりも見事な踊りを披露した。彼にはタップは無理だった。だが、踊っていることに違いはなかったのだ!(略)床にぴったり腹ばいになったかと思うと機敏に起上がり、ハックルバックやその他、当時ハーレムで大流行していたダンスを見事にやってのけるのだ。その痛ましいハンディキャップにもかかわらず、彼は実に楽天的で感じのいい男だった。

 ハンディキャップを背負った芸人の話なら、その仲間の王様ともいわれたペッグ・レッグ・ベイツの剽軽ぶりを紹介しないわけにはいかない。ペッグの片足は、膝のすぐ下のところで切断されており(その上、片手の指も何本かなかった)、そこに義足をつけていた。生来の愛敬とリズム感ではだれにもひけをとらなかったし、彼の腕前は溜息が出るほどだったので、私たちはいつも破格の待遇を与え、主演スターのすぐ前に彼を出した。彼は良い方の足でタップをしたかと思うと、ゴムで被った義足の方でも同じことをした。足さばきがどんなに速く、複雑になっても、義足でそっくりそのまま繰り返した。

 彼のフィナーレは、自分で"ジェット機"と名付けたステップだった。走ってきて宙に飛び上った彼は、義足に全体重をのせて着地し、観衆から声にならない溜息が洩れるのを見届けてから、オーケストラのチェーサーにのって義足で後向きにジャンプしつつ舞台から消えていった。

 身体的な疾患で思い出すのは(略)バディ・リッチが(略)[二日前に骨折し]片腕をギプスで固めて[初日前日稽古に現れた時のこと]

(略)

ショーも終りに近づくと、彼は舞台に出て、やや控え目にソロ演奏をやりはじめた。それでも、片腕のドラマーには十分な出来映えだといえよう。ところが、続いてテンポを上げたバディはその程度のものでは満足せず(略)花火を音にしたような絢爛たる演奏に移ったので、みんなただただあっけにとられて見ていたのだ。(略)

片腕の天才を一目見ようと、長蛇の列が全期間にわたって続いたのは言うまでもない。

口コミに勝る宣伝はない

一九五三年には新劇を上演してみようと思いたったことがあった。(略)

[話を持ちこんだベン・カッチャー]は戦争中にブロードウェイで黒人による《アンナ・ルカスタ》を制作し、そのときの主演俳優がカナダ・リー

(略)

 一日二回、一週間限りの興行がはじまったとき、私たちは不安を隠せなかった。そして、第一回目(金曜昼の部)が終ってみると、身が縮む思いさえした。切符の半片は全部集めても握り拳に隠れてしまい、そのまま、さらにコーラの瓶をつかめる有様だったのだ。金曜夜の部も大差なく三百人ほど――私たちはいよいよ臨終が近づいたことを疑わなかった。

 土曜昼の部の開場時間には、父は保険金めあてに劇場へ火をつけようと思ったことだろう。けれども、辛うじて彼に思いとどまらせるだけの客足(六百人)に達した。その日の夜になると、九百人はいった。私たちはようやく愁眉を開く思いで、このまま切り抜けて、なんとかして損益分岐点まで売上げをのばしたいと願う気持だった。日曜昼の部には千人の客がつめかけ、また夜の部にはいると、千二百人を記録した。どうしたわけなのだろうか。

 ひそかに調べてみたところ、こんな噂が流れていた。「アポロ劇場は何か変わったことをやりだしたぞ。よくよく聞いてみると、バンドもいなければ、音楽が鳴るわけでもなく、歌手やコメディアンもいないんだとさ!そうらしいな、だけども、おめえ、あいつらには魂胆があるんだろうな。そりゃそうだ、ことによると……」

 木曜の午後になると、人びとは早くから並びはじめ、夜の最終公演の前に切符は売り切れた。父と私が夕食をすませて、八時ごろ劇場にもどると、びっくり仰天することが起きていた。西側にあるアポロ劇場と東側の七番街にはさまれたブロックはかなり長かったが、えんえんと並んだ人々は街角を越えて、アルハンブラ劇場付近まで続いていたのだ!その列には少なくとも二千人はいたことだろう。それにしても席はたった千七百しかなく、第一みんな売り切れてしまったではないか。

 私たちは早速、数週間後にはそのショーを再演する(今度はカナダ・リーを使った)旨を知らせて切符売場を閉鎖したのだった。自らの手で大当りをとってみて、私たちは、種類のいかんを問わず、どこかに魅力があれば、人びとはそれをみにくることを知った。それにしても、その時以来、果たして広告に金をかけてどのくらい効果があるのだろうかと、疑問を持つようになった。しょせん、口コミに勝る宣伝はないのである。

(略)

続いて私たちは《雨》《タバコ・ロード》《恭々しき娼婦》《探偵物語》といった作品を取り上げたが、最後にあげた作品にはシドニー・ポワチエというフランス系の名前をもった若くて美男の役者が主演した。

(略)

 私たちはジャン・ポール・サルトルの戯曲《恭々しき娼婦》も取り上げたが、多分に不安をもっていた。(略)"ニガー"という蔑称が頻出する点であった。サルトルはその単語に大きな皮肉をこめて使っていた。だが観衆にそこのところを感じとってもらえるだろうか?

 第一回のショーの半ばにロビーにある事務所へある女性がやってきて、切符の半券を下におくと、太い腕を腰にあてたまま、私をにらみすえた。彼女は一言もいわず、私も無言だった。私が入場料に相当する金を窓の下から差しだすと、威嚇するように身体の向きをかえ、立ち去った。ありがたいことに、全期間中、あからさまに反感を示した観客は彼女ひとりであった。

(略)

 父の思いつきに端を発し、やがてポップ・ミュージック界ではごく普通のことになったアイディアといえば、ディスク・ジョッキーにショーの司会をさせるということであり、その根底には、DJたちがラジオを通じて語りかけるよりは、劇場で実際の姿をさらした方が人を引きつける効果は大きいのではないか、という考えがあった。

 試金石として最初に登場したDIは、シンフォニー・シッドとして知られた、白人のシッド・トリンだった。

ソロモン・バーク

ボビーの話によれば(略)「一九六六年(略)ソロモン・バークに契約書を送ったところ、返送されてきた書類には、"公演中に限り、劇場内でのポプコーンの販売権はソロモン・バークに帰すること"という意味のことをタイプした契約条項がつけ加えられていた。

 俺はそんなものは一笑に付して、消してしまい、契約書はファイルにとじ込んだ。"この男はなかなか茶目っ気があるな"と独りで言ったりして。ひょっと不安な気もした。あれは本気でしたことかな?そしてまた安堵した。仕事をすれば、週に四千ドルもかせげる人がなんでポプコーンを売りたがるのだ?

 しかし、頑固者のソロモンが、劇場に到着したとき手にしていたのは、楽屋仲間に売りつける豚の厚焼用の鍋と、これまた商売用の飴を入れたボール箱だった。俺は彼がしたいようにさせておくつもりだった。あのトラックがきて止まるまではな。トラックはポプコーンを満載していた。俺は態度をはっきりさせようとしたが、ソロモンは言いはった。

"契約どおりだろう。契約書をみてみろよ"

"ポプコーンの条項は消してしまったぜ"と俺は言った。

"あんたの手元にある契約書では、そこのところを削ってしまったかもしれないがね、こっちの手元にある方は削ってないよ。だから、あの条項はまだ有効というわけだ"と彼は答えやがった。

"歌手一人と契約するのに、法律をふりかざす必要があるとはな"と俺は言ってやったが、腹わたは煮えくり返るようだった」

「仕方がないから、ヤツと取引きしたよ」と、ボビーは苦笑する。「あのいまいましいポプコーンをまとめて五十ドルで買いとった。そして手元には、トラック一台分のポプコーンが残ってしまったが、あんなものを置いておく場所がない。そこで、幾人かの男の子を集めて、どっかで処分して来てくれと頼んだ。それぞれ校庭や、街角や酒場や、公演へ行ったが、中にはユダヤ教の成人式にまで出かけていったものもいた。積荷の山は減ったが、まだかなり残っていたので、宣伝マンのピート・ロングを呼び、トラックでひと回りして、これを街の子供たちにやってくれと命じた。

「数時間が過ぎたとき、八才ぐらいの男の子が、五才ぐらいの妹と一緒にやって来た。ピートは、あの袋を手渡しているうちに腕がすっかり疲れてしまったのだろう、面倒くさそうに一袋を二人に差しだした。その子は拳固をつくると、あごを前に突き出しながら言った。"おじさん、その袋をもう一つおくれよ、それともおじさんに噛みついてもいいのかい?"」ボビーの話も幕切れだ。

「そいつが、あのとき俺たちが処分した最後のポプコーンだったのさ」

ミンストレル・ショー、「焼きコルク」メイク

 ほんの十八年か二十年前まで、アメリカの黒人コメディアンたちは、まず例外なく、顔をまっくろに塗って――焼きコルクをなすりつけて――ステージに立った。NAACP(全米黒人地位向上協会)が執拗にその改革をせまるにいたって、ようやくこのメーキャップは廃止された。

(略)

ジョン"スパイダー・ブルース"メイスンがステージでビル・ロビンソンの前を通りかかると、ビルは彼の腕をつかまえて、肌がむきだしになるまで、一方の手袋を引きおろした。その肌の色は、焼きコルクとは似ても似つかぬ、はるかに明るい色をしていたのである。「これがわれわれのいいところで」と、ビル・ロビンソンはアポロ劇場の客席に披露した。「ありとあらゆる色つやをお目にかけられる、というわけです」

(略)

 焼きコルクを塗るこのしきたりは、南北戦争以前の、ミンストレル・ショーにまでさかのぼる。(略)

ニグロにそんな大事な役をまかせられるものではない。もしニグロがおもしろいとしたら、それは偶然のいたずらというものである、と考えられていたのだ。(略)

南北戦争終結後、こうしたミンストレル・ショーのなかには、コメディアンとして、黒人を雇い入れるところが出てきた。しかし、それでも、この黒人俳優たちは焼きコルクのメーキャップをさせられていて、それはつまり、あるプロデューサーがその回想録で述べているように、"まちがえられないため"だった。

(略)

 白人プロデューサーが黒人コメディアンを取り扱う態度は、その後も変わらなかった。コメディアンは司会者とジョークで渡り合い、ときには司会者をからかったりすることも許される。だが、そのからかい方は白人に対する敬意を失わず、「イエス・サー」のふんだんに混じったものでなければならなかった。

出演料変遷

 立身出世物語は、アポロ劇場の会計決算台帳に、くり返し、くり返し、出てくる。一九六二年に、すんなりと背の高い、牧師の息子が三百ドルで、はじめての契約期間を歌っていた。七年たった一九六九年五月、その同じマーヴィン・ゲイは、週労働時間のらくな時でさえ、七千五百ドルはとっていた。(略)

マーサとヴァンデラス、一九六二年十月、四百ドル。一九六八年十一月、七千ドル。(略)

兄ボビーの索引カードからザ・テンプテイションズの頭の部分を抜き書きしてみよう。

 

一九六三年八月、九百ドル。ぱっとしない歌手グループである。動きはいい。

一九六九年六月、二万二千五百ドル。ステージでも、ステージを降りても、実に仕事を大事にする。ぴったり息の合った、ペースのしっかりした舞台。最高だ。

 

 アポロ劇場のアマチュア・コンテストで優勝したのち、ジョー・テックスは生れてはじめて週百二十五ドルでアポロ劇場に出演した。一九六九年に彼が帰ってきたときには、週一万四千五百ドルになっていた。

 ナンシー・ウィルソンの索引カードは、スターの成長の過程を物語っている。

 

一九六〇年六月、五百ドル。きれいだが印象はぱっとしない。

一九六二年八月、千五百ドル。ショーは大成功!

一九六九年四月、一万ドル最低保証。ほんもののスーパースター。偉大!

 

 ついでにいっておかなければならないが、ナンシーのギャラはいつも歩合制である。それも莫大な歩合なのだ。(略)

ジェイムズ・ブラウンの一九五九年の出演料は二千二百五十ドルだったが、いまでは最高の歩合がついて、世界中の黒人の芸人としてはこれまた最高の出演料である。比類なきレイ・チャールズ、かつて一九五七年には四千五百ドルを歌手一名楽団員十二名とで分けなければならなかったレイ・チャールズは、今日では一回の最低保証として三万ドルを手に入れている。

白い黒人

父が自分で説明していたように、「(略)わたしがやったことの中で最大のものはね、何百人という才能のある黒人アーティストや、何ダースもの黒人の裏方や、永年のあいだわれわれのところで働らいてきたそのほかの人たちに、仕事を与えてきたということなんだよ」

 永年のあいだ、アポロ劇場は黒人の裏方を使っているマンハッタン唯一の劇場だった。(略)

 ある面で、父は百二十五丁目の非公式の王者だったといってもよい。つまり、ここの住民たちもビジネスマンたちも、黒人、白人を問わず、すべて父の指導をたよりにしていたからで

(略)

父のユニークな功績をたたえるべきだと思うことのひとつは、百二十五丁目のレストランで、黒と白の境界線を打ち破った、ということである!

(略)

フランクの店は、ギリシャ人の経営する小さな店で、ハーレムのどまんなかに存在する人種差別のとりでだったのだ。

 父は一人の黒人の友だちを昼食に連れていった。映画のプロデューサー、オスカー・ミーショウである。ミーショウのステーキがとどいたが、コショウでむせび返るようなステーキだった。父は彼におだやかな態度で自分のステーキをすすめておき、それからウェイターに、コショウのかけてないステーキを持ってくるようにいいつけて「じゃないとこの場で見たこともないような大喧嘩を見せてあげることになるよ」といったのである。今日ではそこでギリシャ人のウェイターと黒人のウェイターが一緒に働らいている。お客のおよそ八〇%は黒人である。

(略)

 父は自分たちで立ち直ろうとするハーレムの住民たちの手助けをする努力を決して止めなかった。ストークリー・カーマイケルが、自分たちの地域内なのに黒人たちには責任ある仕事をさせようとしないといって白人を非難していたとき、父は黙々として、ハーレムに本拠を置く黒人の建築会社を雇い、五万ドル相当のアポロ劇場の改修工事をさせていた。改修工事はフリーダム・バンクから借りた建設ローンの助けによって行われていたが、この銀行もまた、父がその創立に一役かった銀行で、彼はいまでもその重役をつとめている。この銀行でも、父のうるさ型の気性は、ハーレムの社会全体の利益に向けられた。黒人の同僚重役たちを説得して、黒人の顧客のためだけにことさらやっきになるのを止めさせたのである。父の考え方によると、それもまた、裏返された一種の偏見なのだということなのだ。

 ところで一方では、YMCA理事会唯一の白人(それも唯一のユダヤ系白人)として、ほかの理事たちがそれも一つの偏見ではないかと抗議しているのに、白人のバスケットボールのコーチの代りに黒人のコーチを雇うべきであるとして、熱心な説得を行なった。

 父の挙げた理由は単純なものだった。「問題は」と父はいった「あの子供たちが、かつて黒人を指導者、権威者として尊敬する機会を得なかった、ということです。彼らが仰ぎ見ることになるのは、常に白人です。子供らに、黒人だってそのような地位につくことができるのだということを理解させる、その機会を持たせなければならないのです」

 YMCA理事会は、この父の見解に沿って、白人コーチを解雇するという暗黙裡の差別待遇は、黒人青少年が白人以外の人間を尊敬することを学ぶこととくらべればそれほど重大ではない、と決議した。マルカム・Xがその自伝のなかで、好意をもって父のことを書き残したことに、何の不思議があるだろう。

(略)

 数年前、父はそのまれな、短かい内省の間につぎのような文章を書いていたのである。

 

 "私はかつて衆人を瞠目させるがごとき行動をなそうと願ったことはなく、また大いなる富を集積しようとのぞんだこともない。その起源さえ定かでない一つのみじかいことばが、週ごとに、月ごとに、年ごとに、ラファイエット劇場の、また、ハーレム・オペラハウスの、あるいはアポロ劇場のささやかな成功の物語とともにわたしの胸に思い浮かぶ。闇を呪うならむしろ小さなローソクをともした方がましではないか。わたしの願いはこのささやかなローソクの火にあった。納屋に火をつけようと望んだのではないのだ"

人種問題解決への願い

 ルー・ロウルズの場合、アポロ劇場の舞台を初めて踏んだときには、ザ・ピルグリム・トラヴェラーズの一員だった……。

 ジェイムズ・ブラウンの場合(略)そもそもはゴスペルを歌っていた……。

 ディオンヌ・ワーウィックの場合、ザ・ドリンカード・シンガーズの一員、リー・ワーウィックの娘である……。

 マーヴィン・ゲイの場合、子供のころは父の教会で歌っていた……。

(略)

今日の芸能界にあって黒人の身で傑出した存在となり得た最大要因を語るとすれば、歌手と聴衆の別なくあらゆる世代の黒人たちを育てたゴスペルを媒介として、足で床を踏み、手を打って拍子をとり、指を鳴らしたことに尽きるだろう。

(略)

アリサ・フランクリンは牧師の娘として生れ、ゴスペル隊の一員として歌っていた。

 ゴスペル・ミュージックの実質的な原型ともいうべき地方色豊かな形式は、棉畑で汗する人たちの単調な調べから派生したものであり、そこの労働者は生れ落ちるとすぐに、奴隷制というわくのもとで死ぬまで苦しみ続ける運命を背負っていた。現世の終末は望むべくもないところから、奴隷達は来世における救済に願いを託して慰め合ったが、彼らが宗教的な会合のおりに歌った宗教音楽から近代のゴスペル礼拝が誕生した。

 南北戦争後の"自由"も幻想にすぎなかったことは周知の事実であり(略)

 棉畑にたれこめていた意気阻喪の感情は今や都会の街頭を覆い、大農園で飼い殺し同然だった労働者の絶望感は黒人居住区で暮す人びとの諦念に変った。(略)

都会のこうした挫折感があるからこそ、ゴスペルは今なお会衆を引きつけるのであり、それが福音啓示の一形態であるからこそ、今日のブルース歌手は自分の霊感をかきたてることになる。(略)

もっぱら夢想に傾きがちであった初期の作品とは異なり、今日のブルースは社会に対する抗議運動から発しており、その結果として、黒人の個人的な挫折感、つまり常にブルースの核心に存在していたものの中に、人種的屈辱感という新しい要素が溶けこんでいる。

 ところが、今日の黒人音楽からはさらに性質を異にする旋律を聴きとることができ(略)

それは、希望の高鳴りに他ならない。(略)今日の黒人は現世において自由、正義、均等な機会を享受できる日が来ることに一沫ののぞみをつなぎ、もはや世俗的な希望を放棄する気構えも、この世の苦しみを甘受する気構えもない。彼はこの地球上にある自分の楽園を希求し、あるいは少なくとも鮮明な模型写真を手に入れようとする。

(略)

 皮肉な見方をすれば、この新しい姿勢によって黒人たちの文化的エネルギーの源泉そのもの、すなわちゴスペル教会が脅威にさらされている。教会は諦念に支配されており、それが必需品として存在しているのは、はかない希望など街頭で吹き飛ばされてしまう黒人社会であってみればこそなのだ。

 ゴスペルの支配力が弱まった場合に、それにとって代るものはなにか?そもそも、黒人たちがこの地球上で待望久しい楽園を見つけ、そこから新たな活動力を引き出すだろうと考えては、どうしていけないのだろうか?私が問題にしているのは架空のユートピアではなく、少なくとも自由と平等がうたい文句だけに終っておらず、われらが建国の父たち、つまり"理性の時代"に生きた白色人種系のゴスペル歌手たちが描いた夢が実現されている場所なのだ。

 最近、白人の友の一人が由々しき疑問として口に出したのは、黒人と白人とは互いに手を携えて生活できるのだろうか、ということだった。彼は、こう言い足した。「だけど、どこかで可能だとすれば、まずアメリカをおいて他にはあるまい。また、それがだれかの手で実現するとすれば、今後の世代に委ねられるだろう」

 私も彼の説に賛成だ。そのわけは、今日すでにあらゆる人種に属する若者が、価値観、野心、不安、遺恨、娯楽などの面で共通の基盤を見いだしている。

(略)

 文明批評家で『エボニー』の編集者でもあるフィル・ガーランドは『ソウルの響き』[『ソウルの秘密』三橋一夫訳、音楽之友社、一九七三年]という彼女の好著中に、有名なブルース歌手B・B・キングとの会見記を収録しているが、キングは予想以上に説得力をこめて、次のような考えをのべている。

 

 変化のきっかけはローリング・ストーンズやイギリスの別のグループがブルースを手がけはじめ、それらが再びアメリカに入ってきた(略)ときだった。それらのブルースは、白人しかもイギリス人の手を経ただけに一風かわった響きを伝えていたが、彼らにすれば、自分たちが感じとったなりにソウルをこめて演奏していたのだし、僕もその点は十分感じたけれども、同様に奥行きの深さでは彼らをしのぐ人が、僕の知っている中にも何人かいた……。(略)

 こうした中で、おおぜいの白人の子供たち(アメリカの子供たち)がブルースについて追求を始めた。そして彼らが発見したのは、ローリング・ストーンズをはじめ、幾多のイギリスのグループがやっているのは、他ならぬアメリカの黒人たちから吸収したという事実だった。そこでそれ以後、彼らは僕たちがつたえようとしていたのは、一体、どのような啓示なのかと耳を傾けはじめ、理解しようと努力しはじめた。僕からみると、こういう人たちの一部には、その一端を感じはじめている者もいる。

 当然のことだが、彼らの感じ方では僕たちに及ばない。僕たちにはそれが血となり肉となっているからだ。とはいえ別の言葉を使えば、こうも言えよう。他人の足を踏んだとする。それが気分をそこねるものであることはあなたにも察しがつくだろう。ところが、その感じ方がどの程度で、どれだけの痛みを伴っていたかはわからない。でもとにかく、他人の気分をそこねたことがわかるのは、たぶんあなたにも他人に足を踏まれた憶えがあるからだ。僕らに対してちょうどこれと似たようなことを今日の白人系アメリカ人は気づきはじめている。若者たちやそれ以外にも少なくない人びとは、僕らの苦しみがどれほど奥深く、広範に及ぶものかは、わからないにしても、僕らがずっと感情を傷つけられてきたことだけはわかる。それはたぶん、彼らも感情を傷つけられたことがあったからだろうが、彼らの受けた苦しみが僕らの受けたものと同じほどだとは考えられない。いずれにしても、彼らにはその心情が理解でき、だからこそ、ブルースが今日隆盛をきわめているのだ。

 彼らは門戸を開いて、ブルースを真に体得している人たち、しばらくの間、啓示を守り伝えてきた人を迎えはじめている。そして僕が思うに、この事実こそ、B・B・キングの真価が理解されはじめた証拠に他ならないと言えよう。

 

(略)

 肌の白いアメリカ人は、これまで黒人たちの自尊心を手際よく取り去ってしまい、代りに自己侮蔑と自己不信を植えつけたあげく、われわれ側から見た彼らのイメージを彼らに押しつけた結果、彼らはそれを誤りなきものとして認めていたにひとしかった。

 この国の黒人英雄譚の素晴しさは、奴隷制のもとで故国から隔離され、われわれのきめ細かい洗悩教育を通じて自我と遮断されても、なおめげず、自分の手でなんとか文化を創造し、しかもその内容の豊富さと活気に溢れる点では、アメリカ社会が生みだしたいかなるものにも負けない文化であったことにある。けれども、私たちの汚点として永遠に残るのは、私たちがこの文化の極致をささやかな感謝ぐらいでほとんど代償もなく取り去ってしまったことだ。白人社会には、黒人たちはすぐに暴力をふるいたがると考える輩もいる。私自身の判断からすれば、これまでの彼らの抑制力と度量は筆舌に尽しがたい。

(略)

[黒人は]これまで禁じられていた自主独立を主張し、過去のくすぶる欲求不満の灰の中から威厳と自己の構築にとりかかっている。白人の助けがあろうとなかろうと、白人の反対を向うにまわしても、自己を完成しようという決心はかわらない。(略)

教育計画、美術展覧会、文化的行事には白人の理解と尊敬が欠かせない。このような点を十分に認識してこそ、現代の不均衡が正常に復し、私たちの二分された社会を改造する助力が得られよう。

 本書に託したのは、そういう目的に寄与したいという願いなのである。

 

黒人ばかりのアポロ劇場 ジャック・シフマン

1971年出版、アポロ劇場初代経営者の息子による様々なエピソード。

スラング、百二十五丁目のにぎわい

 言葉使いの中にもハーレムの住民たちの特徴がはっきりとあらわれている。たとえば"マザー"といったごく普通の言葉にさえ、信じられないほどの意味と感情がこめられ、泣きたくなるような優しさから侮辱まで含んでいる。言葉は、胸にキュッとくるような微笑かまたは野卑でワイセツな響きとともに語られる。黒人たちの発音の中で実に特徴的で描写的なのは、口の中で音をころがすようにして言う"シイイイット[sheeeit](畜生)"のような短音節だ。これはおそらく黒人たちの辞書の中でも、もっとも豊富な意味をもった単語であり同時に黒人社会のつき合いにおいて欠かすことのできない小道具なのだ。冗談ばなしのときには"シイイイット"が笑いとともにとび出してくるし、いやな話をきいたときの"シイイイット"は悲しい響きをもっている。言葉の意味にもいろんなニュアンスがあり、人や声もさまざまなように"シイイイット”にもいろいろあるのだ。

 黒人の変化に富んだ言葉は、彼らが奴隷だった時代に生れたものであり、仲間うちの内緒ばなしのとき、白人の主人に意味をさとられないよう、暗号としてのなまりを作ったのだ(略)

もちろん、なまりだけが次代に受けつがれてきたのではなく、暗号を作った精神もちゃんと伝えられているのだ。

 アメリカの都市の黒人地区の中で、きわだった独自性をみせているものは、言葉なのだ。黒人たちの口から何気なく飛び出す、生きのいいスラングを、いち早く白人社会がとり込む。例えば次のような言葉である。

“Outa sights(最高にスバラシイ)""Right Ons(よし、やったぞ)""Where it's ats(これなのだ)""Uptights(ヤバイぞ)""Get it togethers(さあ、やろうぜ)"

 白人には判読できない黒人文化の新鮮さこそ黒人の自治を維持するものでもあるのだ。

(略)

 百二十五丁目のにぎわいは昼も夜ものべつ幕なし、ハーレムっ子によるハーレムっ子のための見せ物がひとりでにできあがって行く。

(略)

肝っ玉かあさんは賛美歌をうなりながら、がっちり太い褐色の腕で食料品を引きずり、我が家へ向っているし、やせっぽちの新聞少年はタクシーやトラックの間を通り抜けながらバスケット・ボールのシャドー・プレイをやっている。ちょいと格好のいい秘書のネエちゃんたちも、ランチ・タイムに外出したついでに黒い、アーモンドのような瞳をくりくりさせて、精一杯セクシーな視線をあっちこっちへ放射している。サラリーマンはヒットソングの口笛を吹き、ませた子供たちはスピーカーの前で歌手の物真似をやっている。

(略)

道路のあっちこっちで握手したり、手をたたいたり(略)

あかの他人だってかまうことはない、お互いに気安く「やあ」「やあ」と挨拶すればそれでいいのだ。(略)

劇場の前でこのにぎやかな見せ物を見た私の友人がこう言った。「こいつは、アポロのショーの、まるでリハーサルそっくりだ!」

おれたちの劇場

 アポロ劇場のロビーは細長い廊下のようで、いつも私にボーリング場を連想させる。「こっちの壁からそっちの壁へ、つばをかけることだってできる」と案内人のひとりが言う。「実は、みんなやってるんです」

(略)

 モギリのところでロビーはいくつかにわかれる。まっすぐ行くと一階席、モギリの前を右へ曲ると三階席、うしろを右へ曲ると二階席

(略)

三階席の客は、階段が完全に別になっているので、値段の高い、下の階へは絶対に出入りできない。

(略)

 三階席につけられた呼び名のなかで一番ピッタリなのは"愚連隊屯所"というやつだ。いつもの騒がしい子供たちのほかに、酔っぱらい、麻薬常用者、やくざ、夜の女、落後者、奇人、変人など、とにかく一風変った個性的な連中がたむろして、三階席を自分たちのなわ張りにしているのである。映写室と照明室は三階席の上にある。

(略)

頭のいい芸人は三階席に向けた演技をする。そして三階の愚連隊屯所のうるさ方さえ手に入れてしまえば、もうこっちのもの、成功は疑いなしなのだ。三階席の連中は、露骨で残酷だが、本物を見分ける鋭い嗅覚を持っている。だから本物にはちゃんと反応してみせる。

(略)

 劇場はそれほど大きくはない。座席は千七百だが、通路に補助席を出し、一階と二、三階の後部にある立ち見席まで一杯になると、収容人員は二千三百に増える。平土間の勾配はかなり急なので、二階の張り出し部分がちょっとばかり一階の後方の客の視界をさえぎる。舞台は三階から相当遠いのでまるでチェス盤のように小さく見えるのだ。

(略)

[ハービー・マンがテレサ・ホテルから出てくると]

ブラック・パワーの闘士がホテルの前の群衆に向かって何やらぶっていた。

「白人だ!(略)われわれを窮地に陥れている犯人は。ハーレムから白人を追い出すんだ。(略)誰が白人なんだ?」闘士は迫った。

「誰だか教えてやろう。そいつだ!(略)」彼の右腕がさっとあがり(略)

驚いたミュージシャンの顔から血の気がなくなり

(略)

 だが、幸運にも波乱は起きなかった。群衆の一人がこう言ったからだ。「違う、違うよ、そいつは白人じゃない、ハービー・マンだ」

(略)

 一九四三年のハーレムの暴動や、そのあとに起きた百二十五丁目周辺の騒動や不穏な状態のときなど、大勢の黒人たちが自発的に集まってアポロ劇場を守ってくれた。(略)集まった黒人たちはアポロの従業員ではなかった。彼らは顧客だったのだ。この事実を私は強調したい。街にある他のどんな施設に対しても同様の行動がとられたという事実はないのである。

 一九六八年の夏、アポロ劇場のロビーは改装された。父は黒人の建設業者を雇い、街の北にある新しい(ほとんど黒人が経営している)フリーダム・ナショナル・バンク(父は重役の一人である)の建設ローンを利用した。それは実に見事な出来ばえだった。旧式の柱は、渦巻模様のついたものになり、金箔をはりめぐらせた装飾的な天井は、さっぱりと単純化されたものにかわり、壁画も新しくなった。

(略)

私の兄ボビーが、ロビーに入って行くと、二人の若者が片側に立って、彼らの新しい劇場を眺めているのに気づいた。彼らは最新流行の服を身につけた、このへんの言葉でいえばグルービーな若者だ。「すごいぜ!」一人がため息をついた。「やってくれたじゃないか」「やったぜ」相棒が答えた。「見ろよ、おれたちの劇場なんだ!」

世界で最も"うるさい"観客

アポロの観客は世界で最も"うるさい"観客なのだ。あまりうるさいので、なかには出演をいやがる芸人もいる。リナ・ホーンなどは、いやがるどころか絶対に出演しないというのだ。

 たとえば、偉大なるビリー・エクスタインは、名声をきわめたあと、突如としてアポロには手の出ないスターになってしまった。(略)

名実ともに第一人者となって、われわれから離れてしまった。理由は?彼は恐れていたのだ。アポロのうるさい観客が、スターの彼を容赦なく鼻であしらうかも知れないということが恐かったのだ、と私は思っている。

 これは、後年、彼が再びアポロ劇場に出演した時、結局は自分が間違っていたことに気がついた。彼の出演期間中、劇場は立ち見席まで満員の盛況だったのだ。今日では、ビリーはアポロに年に一度は出演しているし、彼も彼のファンも、それを楽しみにしているのである。

「ありがとう、ほんとにありがとう」最初の一曲を唄い終ると彼は言う。「またアポロに出られて気分は最高……故郷はいいもんだ」これは舞台用のセリフではない。ビリーにとって、アポロ劇場は本当に故郷なのだ。

 最高クラスのスター(略)でさえ、相手がアポロの観客となるとかなり緊張する。舞台袖で出を待っていたエラ・フィッツジェラルド(略)は檻の中の熊のようにそのあたりを行ったり来たりしながら、ハンカチを握りしめ、額の汗をせわし気に拭いていた。

「具合でも悪いの?」と私は彼女に尋ねた。

「医者を呼びましょうか?」

「いらいらしてるのは観客のせいよ」彼女は答えた。

「舞台にあがってみるまでは、一体どんなことが起るか分らないんだから」

(略)

ハーレムほど、どんな社会よりも、音楽意識が高く、またそれが必要とされている社会はないのだ。

(略)

 ほかの舞台に立っても、うけることは出来るだろうが、何かが決定的に失われるのだ。その何かを一言で説明すれば、それは"電撃"である。アポロ劇場の内部空間を支配している熱狂的興奮は言葉に置き換えられない。普通の劇場なら、観客はおとなしくて節度を保っている。たとえロック・コンサートでさえ、興奮した若者が見物人の域からはみ出すことは少ない。いかに強烈なビートが彼らをしびれさせようと、そこに理性が働いて、とことんまで行こうとする情熱を管理してしまうのだ。

 アポロにはそんな抑制力は存在しない。それは理性がないからではなく、出演者と交流する姿勢がほかの劇場とはまるっきり違っているからである。ハーレムの住人たちは、ゴスペル・オリエンテーションによって、どんな活動においてもリーダーとそれにつづくものという形で、個人的に参加することに慣れているのだ。礼拝、市民権運動、あるいはショーにおいても、この形に変りはないのだ。一方には、牧師、リーダー、出演者がいて、もう一方の群衆、大会、観客とお互いに競い合い、それぞれが相手の爆発を求めている。誠実と怒りと熱狂による爆発である。

(略)

 ソニー・ティル(後述するが、彼のオリオールズは、二十年後にビートルズがやったと同じような世紀の音楽革命をやってのけたのだ)がアポロでラブ・ソングを歌ったときのことだ。ソニーは独特のスタイルで身体を曲げ、マイクにおおいかぶさり、肩をなまめかしくゆすり、両手で見えぬ相手をかき抱くようにして歌う。これが女の子たちを完全にしびれさせてしまった。金切り声が劇場中に鳴り響いた(略)

「やって頂戴!私を犯して!」

 たとえテープ・レコーダーが、この雰囲気をある程度は伝えることができたとしても、それはこの場の光景を見せてはくれない。彼女たちの表情をこの目で見なければ駄目だ。悲しいバラード、ハッピーなリズム、それぞれの曲のもつムードによって移り変る感情の動き、生き生きした瞳の輝き、ヒップのゆれ加減、肩のこきざみなゆすり、指を鳴らす音、そして足でリズムをとる音などのすべてを実際にその場で味わってみなければなんにも分りはしないのだ。またそれらをフィルムに収めたにしても、あの動き、あの興奮の中で感じられる刺激的な若者の体臭、ポプコーンとチョコレートをミックスした麝香のような匂いを嗅ぐことはできないのだ。

 このなかには、最低所得層の連中も結構いるのだが、彼らこそ舞台と客席の交流を左右する切札的存在なのである。もし彼らが気に入ればもう大丈夫だ。彼らは喜んで金を払い、あなたをスターにしてくれるだろう。しかし彼らの期待を裏切ったが最後、一巻の終わりだ。三階席に巣くう愚連隊のめんめんは、あなたの死体の骨をしゃぶることだって出来るのだから。

ライオネル・ハンプトン

 ライオネル・ハンプトンは、その強烈な興奮で髪の毛を抜けさせるほど多才な音楽家なのだが、一九五五年に登場してきたときはすごかった。どんなに強力な興奮の壁でもたちまち打ち破ってしまうスタイルを持っていた。もちろんまずは彼自身を血祭りにあげて。彼はショーを最後までうまくコントロールし、自分のソロがくるまで、はれものにでもさわるように注意深く緊張を盛りあげていく。ヴァイブのソロになると彼は二十分以上もたたきっぱなし。その天才的なテクニックは、ハーモニーとリズムをいつの間にかだましこんで、見事な彼独自の世界を創造しているのだ。スロー・ナンバーをやるとき、彼は一度に六本から八本のマレットを使うこともあり、テンポの速いもののときは、軽快な音がめまぐるしく動く彼の両手からまるで滝のように流れ出てくる。

(略)

彼が何かに憑かれたように首を振るたび、汗がにじみ、潤滑油をさしたようにライオネルの手にひろがっていく。彼は意味不明瞭なことをうなりながらコードをたたく。観衆もうなり返す。彼が創造のたかみをいつまでもさまよっていられるように雰囲気を盛りあげているのだ。彼はいまや最高潮をきわめようとしていた。

 クライマックスに達した「ウー!」といううめき声とともに、彼のきまりのフィナーレ、〈フライング・ホーム〉の最初の一小節が鳴りはじめる。観衆の感きわまった叫び声が場内にこだまする。そしてイリノイ・ジャケーのあの有名なテナー・サックス・ソロにはいってゆく。

(略)

またライオネルのソロになった。彼がすばらしいクレッセンドをくり返しているとき、舞台に紗幕がおりてきた。オーケストラもいっせいに演奏しはじめる。ライオネルは、自由奔放にたたきはじめた。低空飛行をつづけるジェット機の映画が紗幕に映され、エンジンの爆音とエキサイトした音楽が混じり合って一大音響となった。

(略)

劇場中の、二千人もの人間ほとんど全員が、気が狂ったように立ちあがり、胸もはりさけんばかりに叫びはじめた

(略)

ライオネル自身は、もうひとつの世界へはいり込んでいた(略)

タムタムを引っぱり出し、ありったけの力でたたきはじめた。それからその上にとび乗り、そこから彼のメンバーたちをもっと高みへ(宇宙かも知れない)導こうとした。次の瞬間、さっと身をひるがえして、うしろのヴァイブにとびつく。と、繊細なアルペジオがさざ波のように劇場の中を伝わっていった。十分、十五分、二十分とこの大混乱は、裏方の一人が父の肩をたたき三階席を指さすまで続いた。(略)

父の目は恐怖でとび出した。三階が揺れているのだ。間違いなく揺れている!

(略)父は、舞台監督のロイ・モンローにサインを出した。ロイはライオネルのヴァイブにつながっている電気のコードをそっとはずし、楽器を舞台袖に引っ込めはじめた。ライオネルは演奏に集中しているので何も気付かず、またミス・ノートひとつしない。彼は楽器と一しょに動き、演奏しつづけた。彼と楽器が舞台袖に消えてゆくのにあわせてゆっくり幕が下りた。だが拍手は鳴りやまなかった。それがやっと鎮まったのは、十分から十五分経って、力尽きた観客がロビーのドアに向って歩きはじめ、虚脱状態のミュージシャンたちが楽屋へ引きあげてからだった。しかし、この大混乱のほんとうのハイライトは、それでもまだライオネルが舞台袖で演奏をつづけ、"もうひとつの世界"に没入していたことにあった。バンド・ボーイは彼のそばに立って、額からあふれ出る汗をなんとかしてふき取ろうとけん命になっていたのである。

奇妙な果実、ナンシー・ウィルソン

 不思議な力の働くもうひとつの世界は、必ずしも喧噪の中にだけ出現するとは限らない。ビリー・ホリデイの歌う〈ストレンジ・フルーツ〉などは、あまりの静けさに心を乱され、思わず叫びたくなるような名唱である。この歌はリンチにあった黒人の身体(奇妙な果実)が木に吊り下げられ、ねじれた唇から血がにじみ出し、顔の傷痕が黒からどす黒く変色するさまを描写したものだ。

 この歌をどこかほかの場所で聴けば、ただホロリとするだけでおしまいになるだろうが、アポロでのこの歌はもっと深い意味を持つのだ。その"果実"を、目のあたりに見るような恐怖を呼び起すだけでなく、ビリー・ホリデイの中に、木に吊られた犠牲者の妻や姉妹そして母の悲しみと怒りにうちひしがれた姿を発見するのである。

 もしもあなたの精神の運動がアポロの観客とおなじ方向にあるとしたら、あなたはもうひとりの、リンチをうけた犠牲者の苦悶を見、そして感じるはずである。それはゴルゴタの丘で木の十字架にかけられた犠牲者なのだ。ビリー・ホリデイが自分の唇から最後のフレーズをもぎり取るように出したとき、観客の中で絶息に近い状態に陥らない者は、黒人白人の別なく、ただの一人もいない。息苦しく重い沈黙の時が流れ、それから聞いたことのないような音がする。それは二千人のため声なのだ。そのうちの一つは私のものだ。私はまるで、首にまきつけられたロープがやっとはずせたばかりのような気がしたのである。

 ナンシー・ウィルソンの舞台には、また違った形のスリルがある。いつのショーでも、四、五十人のファンが催眠術にかかったように席を立ち、舞台のかぶりつきまで歩いてゆく。そしてナンシーの手や衣裳に触わり、芳香のあとを追い、彼女の輝くばかりの美貌を眺め、ただ恍惚の人となるのである。(略)彼女は多彩な照明の中で、きらめき輝いている。それから〈ゲス・フー・アイ・ソウ・トゥデイ〉を歌いはじめる。小味な気のきいた曲で、夫がガールフレンドと一緒のところを私は見た、というような内容の歌だった。だが彼女がたっぷり心をこめて歌ったので、曲はかなりドラマティックなものになり、聴衆をしびれさせた。何回かこの舞台を見たあと、かつては名ダンサーでいまは劇場支配人のホニ・コールズに私はたずねてみた。「ナンシーは、最近旦那とうまく行っていないのかい?」

「ズバリだ」ホニは答えた。「別れたんだ、ふたりは。彼女、だいぶまいってるね」

(略)

彼女は観衆を親友に見立てて、自分のみじめな気持ちを舞台にさらけ出していたのだ。そして不思議なことには、彼女の足もとで共に嘆き悲しんだ人々のやさしい気持ちを通して、彼女は新しい活力を手に入れたのだ。

ハーレムの黄金時代

 「十九世紀から二十世紀になったばかりのころ」と九十四才のリー・ホイッパーは語る。

 このハーレムに黒人はほとんどいなかった。いまのアポロの建物の地下にナイトクラブがあったけれど(略)黒人は立入禁止だった。(略)この頃のハーレムは白人の街、すべて白人のものだった」

 リー・ホイッパー、性格俳優として永いキャリアを持ち、黒人俳優協会の創始者の一人である彼は当時のことを体験的に知っている。彼は一九〇〇年にニューヨークへ出てきたのである。

(略)

百四十五丁目にあったオデオン劇場は、一九一〇年における至宝のような劇場であった。オデオンは銀行家、弁護士、政治家によって創設され、まるで三頭政治のようだったが、珍しいことに彼らには、金儲けの意志はまったくなかったのである。オデオン劇場は、労働者とその家族に、安い入場料で娯楽を提供するためにつくられたのだ。

 ところが、この先進的な意図は、ジョージー・ジェッセルやジミー・デュランテたちを雇ったために失敗してしまった。つまり意図に反して金を儲けたのだ。(略)彼らは劇場にいや気がさし、興味を失なってしまった。そして一九二〇年までには、普通の映画館に衣替えされてしまい、レオ・ブレッチャーと呼ばれるやり手の若者がそこをきりまわしていた。ここで、フランク・シフマンが登場する。

 両親は移民で(略)父は、貧乏とたたかい、大家族の生計を助けながら一九一四年、ニューヨーク・シティ・カレッジの学位をとった。(同級生にエドワード・G・ロビンソンがいた。)それからの父は、レオによって劇場へ誘い込まれるまで、先生から靴屋の店員までなんでもやっていた。(略)

 一九一〇年頃まで、現在のハーレムにあたるこの地域は、上流社会の白人たちの遊び場であり、また居住区でもあったのだ。そこへ二、三組の黒人家族が、ひっそりとダウンタウンのサン・ホアン・ヒルからレノックス街百三十五丁目付近へ引越して来た。これを皮きりに百四十五丁目の新築アパートが黒人家族に部屋を貸すと、あとはあっという間に黒人の大群がアップタウンに移住していった。やがて南部から移ってきた人たちによって、黒人人口は大きくふくれあがり、一九二〇年までには、百三十丁目から百四十五丁目にかけての地域はほとんど黒一色に染められてしまったのだ。

(略)

 一九二二年になって、レオ・ブレッチャーと彼のブレーンたちは、ヴォードヴィル劇場のチェーンのひとつとして(略)ハーレム・オペラハウスを手に入れた。

(略)

 一九二五年、七番街百三十二丁目のラファイエット劇場は、父とブレッチャーのものになり、同年五月、新装オープン。小編成のオーケストラと黒人のショーガールによるバラエティ・ショーを上演した。ところで、そのオーケストラにはすばらしいオルガン奏者がいたのだ。彼の名はトーマス・ウォーラー、のちに"ファッツ"のニックネームで知られた男である。

 短期間のうちにラファイエット劇場の舞台は、ハーレムにおけるブラック・ショー・ビジネス創世期の伝説をつくった無数のスターたちで飾りたてられた。その人たちの名は、ベッシー・スミス、エセル・ウォーターズ、ビル・ロビンソンキャブ・キャロウェイ、ノーブル・シスル、ユービー・ブレイク、メイミー・スミス、ミラー・アンド・ライルス、ルイ・アームストロング、ミルズ・ブラザーズ……。

(略)

 ラファイエット劇場は、かなり永い間ショーをやっていたため、ショー・ビジネスの歴史の中で、いわば中間駅とでもいうべきものになっていた。不況の襲来とハーレムの活動の中心が百二十五丁目に移ったことが、父と彼の仲間たちの行動を決定した。(略)

ハーレム・オペラハウスは、シフマン=ブレッチャー組の活動の新しい本拠となったのである。

(略)

 新しく復活したハーレム・オペラハウスの寿命も比較的短かかった。(略)

元ハーティグ・アンド・シーマンズ・バーレスクだったアポロ劇場は、シフマンやブレッチャーと同じような経営理念を持つシドニー・コーエンによって動かされていた。二つの劇場は、お互いにしのぎを削ったのである。(略)一年後、コーエンが死ぬと、実演の製作はすべてアポロへ移った。その時以来、ハーレム・オペラハウスは不振に陥り、悲しい下り坂をゆっくり、しかも確実に降りはじめ、映画館からボーリング場へ、そして一九六九年にはついにオフィス・ビルへと変身したのである。ちなみに、オデオン劇場、ラファイエット劇場はともに、教会になった。

 父とレオがつんぼ桟敷におかれたまま、シドニー・コーエンとの取引きは、すんでのことでご破算になるところだった。

(略)

[ジョン・ハモンド談]

「私がジャズや黒人ミュージシャンに興味を持っていることを知ると、シドニーは自分と一緒にアポロをやらないかといったんだ。私はびっくりしたが、願ってもない感激だと返事した。そして契約書にサインするため彼の事務所へ向う途中で、コーエンは心臓発作で死んだんだ。それですべてがおしまいなのさ」というわけでジョン・ハモンドは、私の父にかわってハーレム興行界の第一人者になるチャンスをおしくも逃してしまったのだ。

ベッシー・スミス

 ビッグ・バンド・サウンドが伸長しようとしているとき、あのブルースの灯は一時的にではあるが消えかかっていた。というのは、一九三〇年代初期には、例のニューヨーク株式市場大暴落や押し寄せる不況の波をまともに受けて、レコード会社のほとんどがつぶれるか、あるいは深刻な打撃を受けていたからだ。ベッシー・スミスやメイミー・スミス(略)のように、"レイス"レコードからの収入で生計を立てていた歌手は、一夜のうちにがっくりやせてしまった。ベッシーの週給は三千五百ドルあたりから一挙に二百ドルまで下り(略)なんともひどい没落ぶりだった。

 ベッシーは"ブルースの女帝”とうたわれ、多くの人も彼女のことを最高のブルース歌手と信じている。(略)

 彼女のブレーンであり、友人であり、そしてプロデューサーでもあったジョン・ハモンドは、彼女についてこう語った。「ベッシーこそ不世出の歌手だった。彼女が観衆を一人残さず泣かしてしまうのをこの目で見たことがある」

(略)

 何と偉大な才能だったことだろう!彼女はそれまでのブルース歌手の誰よりも、声量豊かに歌うことができた。エレクトリック・サウンド装置が出たばかりの頃、彼女はマイクなしで大ホールのすみずみまで鳴り響かせるほどの声量を持っていた。父はいう。「彼女は自分の声に感情移入することができた。そんなことができたのは、あとにもさきにも彼女だけだった」

(略)

 ベッシー・スミスが一九二三年にはじめてレコーディングした〈ダウン・ハーテッド・ブルース〉というレコードの売上げは、なんと八十万枚を突破し、コロンビア・レコード会社にとって空前の大ヒットとなった。それ以前から彼女は年間二万ドルをコロンビアから貰っていた。そのうえ、週千ドルをTOBAから受けとっていた。

(略)

ベッシーはかなり以前からアルコール中毒だったが、例の大恐慌がそれに輪をかけ、それが一九三七年の自動車事故で悲劇的な死を招く原因となったのであろう。

 ラファイエット劇場で歌っていたベッシーのことを私はよく覚えている。当時、私はまだ六才だったので彼女がとても大きな女性にみえたものだ。髪の毛をうしろできっちりと束ね、目は重いまぶたで半分ほど閉じられ、その表情は、歌っている歌に合わせてナイーブに変化する。あるときはいたずらっぽく、またあるときはいくぶん陽気に、そして突如として私が見たこともないような、とても悲しげな表情に変るのだった。彼女はステージの中央にしっかりと立って、その顔と首だけが、あざやかな白いスポットライトの中で浮き彫りにされるのだ。ロマンティックな恋の歓びや、失恋のメランコリーは、子供の私にはとうてい理解できなかったが、それでも彼女の魂をゆすぶるような表現力によって、私のみぞおちのあたりが、何かこう、きゅっとなったのをいまでも覚えている。

レッドベリー

 沈んでいきつつあったブルースに橋を架けたのは、正確にはブルース歌手ではなく"ワーク・ソング"の元祖として有名だった男である。"レッドベリー"の名で知られたフーディ・レッドベターがラファイエット劇場に姿を見せたとき、ハーレムの住民たちはショックをうけた。有罪の判決をうけた殺人犯レッドベリーは、自分が作曲し歌った歌によって世論を味方につけ、ついに一九三四年、ルイジアナ州知事から赦免を獲得したのだ。

 父は彼のことを次のように語る。「多分、彼が人殺しだということを知っていたからだと思うが、私はいつもあの男が恐かった。見るからに恐かった。彼が大男だったからでない。それどころか彼は中肉中背だった。だがなにか得体の知れない不吉な影が彼のまわりにただよっていたのだ。それでもわれわれは彼を出演させたし、私はいまでも彼がラファイエット劇場に登場したときのことをはっきりと覚えている。われわれは州知事室のセットをつくり、レッドベリーを囚人服で登場させた。知事は囚人の歌に感動し、彼を赦免するのだ(略)彼が歌うのをはじめて聴いたときのことは、決して忘れられない。(略)彼は泣き叫んだ……なんともすさまじいものだった」

カウント・ベイシー

 父とレオ・ブレッチャーがアポロを手に入れ、現在のアポロに作りあげた年、一九三五年までにはジャズは原子反応にでもたとえられるような状態にあった。まるで高速度で動く粒子のように、ファッツ・ウォーラーカウント・ベイシー、ジミー・ラッシング、ライオネル・ハンプトンなど無数のすばらしい新人たちが、ポール・ホワイトマンルイ・アームストロングなどの古くからある原子核とさかんにぶつかり合ったのだ。その結果は、すさまじい光と熱と核爆発が起った。灰が落ちつくとそこには新しいリズム、新しいハーモニー、さらには新しい楽器までもたずさえた新しい超一流のオーケストラが出現していたのである。

(略)

やはり一流のオーケストラのリーダーだったフレッチャー・ヘンダーソンはジョン・ハモンドにこう語った。「おれのバンドをぶっつぶして、そのかわりにベイシーのバンドをそっくりそのまま雇いたいと思ってるんだ」

 カウント・ベイシーサウンドにもひとつ問題があった。それはあまりにも時代を先取りしていたことだ。一九三〇年代の聴衆は、ジャズとともに、相変らずラグタイムやセンチメンタルなものを要求していたのだ。

楽譜を読めなくても

 私がいまもって不思議に思っている一つの事実は、当時のバンド・リーダーの多くが楽譜を読めなかったということだ。もっとも何人かは独学で読めるようになっていた。ルシアス・ラッキー・ミリンダー、タイニー・ブラッドショーそしてキャブ・キャロウェイたちがその仲間であり、あとにはディジー・ガレスピーがいた。

 ディズは彼がキャブ・キャロウェイに雇われ、はじめてのリハーサルをやったときのことをこう話してくれた。「おれにはどの頁にも黒い虫が運動会をやっているとしか思えなかった。だがおれはシャープも、フラットもちゃんと吹いたし、休止符だって正確だった」

 ラッキー・ミリンダーは、譜面上の半音も知らなかったが、それが彼のバンドをハーレム一の人気バンドにすることのさまたげにはまるでならなかった。しかも実に気持のいいリハーサルをやってくれるのである。ラッキーは生れながらの音楽の天才だった。「さあ、ハ調でやろう」と彼がメンバーに言うとき、それは譜面を見ているのではなく、頭の中で覚えているフレーズで言っているのだ。

(略)

アポロに出演した有名な歌手、ダンサー、演奏家たちの多くもまた楽譜が読めなかった。ピアニストのエロール・ガーナーはなかでも傑作だった。(略)

メンバーのひとりが、なにも知らないでエロールに尋ねたことがある。(略)「ねえ、エロール、この歌はどんなキーでやるんだい?」エロールはにっこり笑ってピアノのそばへ行き、コードをたたいた。「これだ」こんなハンデがあるにもかかわらず彼は〈ミスティ〉のような名曲をたくさん作っている。そんな才能があるのなら、楽譜なんぞ読めなくともかまわないのである。

ビ・バップ

チャーリー・パーカー――友人は彼を"ヤード・バード"(俗語で囚人の意)と呼び、のちには単に"バード"と呼んだ(略)

彼は演奏するたびに、まるで種子をまくようにして、陶酔へ誘う音楽の真髄を伝えた。彼のまいた種子からは、何千という芽があらゆる方向に伸び、一九五〇年代には彼の弟子たちが輩出することになった。(略)

〝バード"は三十四才にして悲劇的な最期をとげたが、彼の影響力は今日もなお及んでいる。

 "キャノンボール"アダレイと私は、ある日昼食をともにしたが、話が最近のジャズの歴史に及んだとき、彼は私にこう言った。「チャーリー・パーカーという天才が亡くなって、ジョン・コルトーンという異才が現われるまで、サックス界には目新しい出来事は全然といっていいほどなかったね」

(略)

 時を経ずしてダウンタウンのミュージシャンたちも大革新の動きに加わったが、彼らの運動はまったく異なるものだった。ジャズ創世期における"生粋"のミュージシャン、いわば"音楽を肌で感じる"ような、"生れついての"ミュージシャンは、バラエティに富んだ大衆芸能のなかで育てられ、ささえられ、そして遂には大衆芸能に吸収され、そのアリバイを喪失しようとしていた。だが、この革新派の連中は、ニューヨークのジュリアード音楽院のような由緒ある養成機関の門を一度はくぐっていた。彼らの信奉の対象はイゴール・ストラヴィンスキー、サージ・プロコフィエフ、ウォルター・ピストンであって、"ジェリー・ロール"モートンビックス・バイダーベックシドニー・ベシェではなかった。(略)

 黒人、白人を問わず、そうしたミュージシャンたちは、自分たちの崇拝者が用いた無調で、フリー・リズムの音楽の上に、伝統に根ざした形式、すなわちジャズ、ブルース、そしてのちにはカントリー=ウエスタンまでをも溶けこませていた。この新しいサウンドは、"ビ・バップ"と呼ばれた。名づけたのは、チャーリー・クリスチャンだという説もある。

 "ビ・バップ"は、ブロードウェイにできた真新しいナイトクラブ"バップ・シティ"から響いてきたり、ダウンタウンの薄汚れたビストロやグリニッチ・ヴィレッジのジャズ・クラブから聞えたりしているうちに、ついに定着する場所を得た。そこはニューヨークのミッドタウンにあって、流行に敏感な"バードランド"であった。

(略)

 一九五〇年代にさしかかるころには、ビッグ・バンドの演奏は衰退し、かわって小編成のコンボが親しまれるようになった。とはいえビッグ・バンドがことごとく消えてしまったわけではない。十五人から二十人で編成するデューク・エリントン楽団やカウント・ベイシー楽団は微動だにせず、依然として人気を保っていた。またアポロ劇場では、五〇年代の初期から半ばにかけても、金管二十人編成というライオネル・ハンプトンと彼の楽団の強力な演奏につめかける客足は衰えをみせなかった。

 新興勢力であるビバップ派にしても、時には普段よりもメンバーをふやす必要が生じた。クールで、クラブ向きのバードランド・サウンドは、アポロ劇場では音がかき消されてしまい、三階席まで届かなかったからである。

 ディジーガレスピーがアポロ劇場で最初の成功を収めたときも、十五人編成のバンドであった。オープニング・ナンバーとして陽気な曲をいくつか並べて観衆を虜にした彼は、得意中の得意とする曲に移るころには、バンドをも完全に融合させてしまった。また、かつてチャーリー・パーカーがアポロ劇場に出演したおり、十五人編成の仲間に、さらに十二人の弦楽器奏者を加えたことも語り草になっている。この時の即興演奏は、私が今まで耳にしたものの中でも、迫力と味わいの点で屈指のものだった。

 スイング全盛時に見られた人びとの熱狂的な騒ぎに比較すると、バップの方は一沫の寂しさを隠せない。けれども、バップ・ミュージシャンたちが意図していたものは、ことごとく熱心に受け継がれていくことになった。この意味でバップもやはりビッグ・バンド時代の立役者といえた。またバップには、独特のスタイルと独自の神秘的な力が備わっていた。山羊ひげ、ベレー帽、黒ぶち眼鏡というディジー・ガレスピーの扮装や寡黙のうちにユーモアを秘めた彼の態度は、それを具象化したものだった。自分のショーで司会を勤めながら、彼がこんなことを言っている場面が想い出さいでたちれる。

「皆さん、次にお聴かせするものは、御紹介するまでもないと思います」

場内に沈黙が続く。ディジーも山羊ひげをしごいて考えこむ。やがて一言「とにかくやってみましょう」

 バップの神秘性について云々するには、もう一度、美男のビリー・エクスタインにふれないわけにはいかない。ヴィブラートをふんだんに使い、新しいスタイルをわかりやすく表現したことによって彼は芸能界の黒人としてはじめて、黒人、白人双方のティーンたちのアイドルとなった。

 彼がアポロ劇場の舞台に立つと、若者たちは黄色い声援をあげ、まるでトランポリンの上で跳ねるように、座席で飛び上がった。

エラ・フィッツジェラルドサラ・ヴォーン

 幾年かの間エラの編曲者を勤め、傑作も残したサイ・オリヴァーとの会話を私は憶えている。「あなたの編曲なら、彼女も文句は言わないでしょう」と私はきいた。

「いや、とんでもない」と彼は憤然として言った。「エラは、自分の意に沿うものを正確に心得ているし、他人があれこれと口を出すことはできないのです。もし私のやった編曲が、彼女の気に入らなければ、あとは彼女が自分で完璧なものに仕上げてしまいますよ!」さらに言葉を添えるなら、私が知る限りでもエラはこの上なく洗練された人だったと言えば十分であろう。ジョン・ハモンドも、こう評している。「ショー・ビジネスの世界の中で、彼女は優等生のひとりなのです」

(略)

サラ・ヴォーンは、永きにわたって"ミュージシャンの鑑"と言われてきた(略)

[絶対音感]がかえって禍いとなる場合もあった。仲間が間違った音を出してしまったり、楽器のチューニングが不正確であったりして、苦虫をかみつぶしたような表情をしていたミュージシャンを、私はこの眼で見たこともあった。

 サラ・ヴォーン(略)も、そういった宿命を背負いこんでいた。(略)彼女があるオープニング・ショーのあとで私のもとへやって来て、不平を言っていたのを憶えている。「ミスター・シフマン、ここのピアノの調律はおかしいわ。何とかして下さい」

 私はこう弁解する。「だけどサラ、あれはショーのはじまる前に調律したばかりだよ」

「それじゃ、その調律師が手を抜いたんだわ。まるで中途半端な音しか出ないんだから」

 二回目のショーまでにピアノを調律し直しておいたのだが、彼女が舞台に立って、こう口ずさむのを耳にした私は、すっかりあわててしまった。"調子はずれのこのピアノ、あたしの歌を狂わせる”

「あなたが正しい調律をして下さらないのなら、私に道具をかして下さい。自分でやりますから」とそのショーが終ってからサッシーは言った。もちろん、そんなことはさせられなかったので、とにかく新しいピアノを手に入れ、各ショーの前に必ず点検を怠らなかった。だが、調律がすむと、きまってサラは道具を持参して、ピアノに向かい、調律師の仕事ぶりを確認してみるのだった。

次回に続く。

ギャングスター・ラップの歴史 スクーリー・Dからケンドリック・ラマーまで

序文 イグジビット 2018年4月

(略)俺がギャングスター・ラップに共感をもったのは、俺の魂に語りかけてきたからだ。辛い目に遭ったり、目撃したこと、興味を持ったことに関して、俺が引き寄せられていたこの音楽にはまるで答えがあるかのようだった。

 いま振り返ってみれば、子どもの俺には何もかもがマジで酷い状況だったから、ギャングスター・ラップは俺の人生のサウンドトラックだったんだ。(略)[信心深い両親]はラップ・ミュージックが大嫌いだったから(略)俺は極秘に聴いていたんだ。この音楽は俺の攻撃性や怒りのはけ口で、友達と一緒に新しい音楽を発見するようになっていった。俺にとってドープなことだったんだ。

 アイス・キューブがN.W.Aと決別したときに、俺は本気で彼に夢中だった。彼のリリックや表現方法に惹きつけられた。度胆を抜かれたよ。1990年に彼のファーストアルバム『AmeriKKKa's Most Wanted』が出たとき、インターネットもなければMTVにもアクセスできなかったから、一部始終はおろか、なんでアイス・キューブがN.W.Aと分かれたか知らなかった。彼はソロ・レコードを出したんだと思ってた。でも実際にそのレコードを聴いてみると、それがニガネットだったんだよ。探していた情報がそこで手に入ったんだ。あのアルバムはクレイジーだと思ったよ。クッソ素晴らしいと思ったね。音作りが超ドープで、擦り切れるまで聴きまくった。俺の大好きな制作チーム、ザ・ボム・スクワッドが関わっていた。彼らはパブリック・エナミーと共に難関を突破してきたんだ。もう、「すげぇ」って感じだったね。キューブの表現、声の抑揚。そのすべてに畏敬の念を抱いていたよ。

 キューブはストーリーテラーだった。アルバムでの彼はキマってた。ほかの人たちもストーリーを語ったけど、キューブとは大違いだった。そのストーリーを思い描くことができるんだ。彼が言っていることを思い浮かべるのに、ビデオなんて観る必要はなかった。彼は聴き手の心に浮かぶような絵を描いていたんだ。共感できる内容だったし、サウス・セントラルに興味はあるけど、共感をもてない人たちも、ギリギリまで近づくことができたんだ。

(略)

 子どもの頃にギャングスターラップを聴いていたときは、自分がアーティストになりたいなんて思いもしなかった。いやむしろ、実を言うと、あの頃の俺は建築家になりたかったんだ。建築製図、コンピューターを使った製図をやっていた。俺はそれが得意だったのさ。橋やボートとかを作りたかったんだ。とは言っても、俺は刑務所に行ったから叶わなかったけどな。

 それからカリフォルニアに行って(俺は17か18だった)、ジェームス・ブロードウェイに会ったとき、彼の周りには(略)マッド・キャップ、キング・ティー、ザ・アルカホリックスといったグループがいた。(略)どんなに長くなっても、俺はただラップした。構造はなかった。小節はなかった。ただラップしていたんだ。

(略)

ギャングスター・ラップ以前

 レーガン大統領は学校のカリキュラムを骨抜きにし、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアにはまだ祝日がなかった(略)

クリップスとブラッズのギャングがサウス・セントラルを支配していた。CDプレーヤーの販売が始まり、ディスコは廃れかけ、ギャングスター・ラップが生まれようとしていた。スヌープ・ドッグは11歳、アイス・キューブは13歳で、彼らはそれぞれロングビーチとサウス・セントラルに住んでいた。17歳のドクター・ドレーは、グランドマスター・フラッシュの"The Adventures of Grandmaster Flash on the Wheels of Steel"を聴いた後に、最初のターンテーブルのセットを手に入れた。24歳のアイス・Tは、犯罪に明けくれる暮らしから、ラジオトロンの名でも知られるLA唯一のラップ・クラブ、ラジオ・クラブにラッパーとして出演するようになっていた

 この時点では、ラップのレコードのほとんどが、自慢屋で気立ての良いライムに溢れたパーティソングだった。1979年に、このジャンルで最初の大ヒットとなったシュガーヒル・ギャングの"Rapper's Delight"で、ラップは初めて商業的に大きな一歩を踏み出した。(略)

ラッパーのワンダーマイク、マスター・ジー、ビッグ・バンク・ハンクは、ファッションの好みや女性と近づきたいという欲望、友達の家で標準以下の食品を食べることの居心地の悪さについて、シンプルで陽気なリリックをデリヴァリーした。ラップが流行っていて、それ自体が画期的だったときでさえ、シュガーヒル・ギャングや、カーティス・ブロウやファンキー・フォー・プラス・ワンのような同時期の人たちは、時に機知に富んだ辛らつな言葉をライムしていたが、それらはせいぜい会話形式で単純なものに過ぎなかった。

(略)

 1982年になると、先駆的なブロンクスのヒップホップDJ、グランドマスター・フラッシュと彼のラップ・クルー、ザ・フューリアス・ファイヴも共にやってきた。グループの革新的な曲"The Message"と共に、ラッパーのメリー・メルは、多くのラップ・コミュニティの仲間が故郷と呼んだ荒廃した地元を描写した。「そこらじゅうに壊れたガラス(略)人は階段で小便してる、気にしちゃいないのさ」

 "The Message"は、アメリカの多くの黒人が経験していた現実を深く伝えた暗く憂鬱な曲であり、そのときのラッパーのほとんどがリリースしていた陽気な音楽とは、まったく対照的だった。

 多くのラップ・ファンにとって、レコードで冒涜的な言葉を聴いたのは、これが初めてだった。"The Message"の混沌とした結末で(略)ある警察官(または警察官になりすました誰か)が「クソ車ん中に入りやがれ」とうっかり口走ったとき(略)未来のギャングスター・ラッパー、若かりし頃のジェイヨ・フェロニーは圧倒された。それらのリリックは、今日のラッパーが使う言葉に比べれば非常におとなしいが、1982年には衝撃的だった。

(略)

ジェイヨ・フェロニーやラップを買うオーディエンスの心に、新しく強烈なやり方で響いた。アメリカの黒人の激しい怒り、カオス、どうすることもできない感情が、初めてラップ・ソングの中で披露されたのだ。

スクーリー・D

 その後1984年に、ギャングスター・ラップの祖先、スクーリー・Dが状況を覆してしまった。(略)この先駆的なフィラデルフィアのラッパーは、"Gangster Boogie"というレコードを作り、脅すように恐怖を植えつける人物を演じ、メリー・メルが説明した劣悪な環境のゲットーに住む人たちに対する犯罪を聴き手の記憶にとどめた。スクーリー・Dはその曲をレコードにプレスして、当時全米で最も影響力のあるラップラジオ番組のひとつだった、フィラデルフィアのパワー99で放送されていた「Street Beat」という番組のラジオDJ、レディ・Bのところにもち込んだ。

 レディ・Bはスクーリー・Dに率直に言った。彼と契約したり、彼のレコードを流通したがるレコード会社はいない、と。その理由とは?彼はクサと銃についてラップしていたからだ。とはいえ、スクーリー・Dは自身の音楽が不快だとは思っていなかった。

 「俺はアーティスト然としていただけだ(略)俺は土曜日の夜にラジオでコメディの伝説、リチャード・プライヤー(略)を聴いて育ったんだ。土曜日の深夜に、DJが彼のアルバム『That Nigger's Crazy』をかけていた。俺たちは特になんとも思わなかった。アートだったのさ。俺たちにとっちゃ、それはアートだったんだ。あんたたち部外者にとっちゃ、『こういう声は止めなければならない』って感じだった。でも仲間たちは聴いてたのさ。(略)

今なら言ってやるよ、『お前らがどう思おうと知ったこっちゃねぇ』ってな。(略)俺は仲間たちのためにレコードを作っていたんだ、俺の生活を向上させるためにな。(略)俺は自分のやり方で、俺のストーリーを語りたかった。だからこそ俺は、自分のアートを絶対に変えたくなかったのさ」

 ラジオでは絶対にかけてもらえない、レコード契約を結べないかもしれないという、ハッとするような現実を直視して、スクーリー・Dは自分のレコードをプレス制作するために資金を貯め始めた。彼はファンク・オー・マートやサウンド・オブ・マーケットのようなフィリーの有力な家族経営のレコード屋のバイヤーと繋がった。(略)

 1985年にリリースされた"P.S.K. What Does It Mean?"は、ギャングスター・ラップ・ソングとみなされた初めての曲(略)

その雷のような自主制作ビートで音楽界中に衝撃を与えた。ほかの多くのラッパーたちとは異なり、スクーリー・Dは音楽を自分で制作、作曲した。彼はジャズやファンクを聴いて育ち、非常に長いギターソロやカ強いホーン・セクションのある曲を高く評価していた。オハイオ・プレイヤーズやジェームス・ブラウン、シカゴ、ビートルズの曲が彼のお気に入りだった。

(略)

 「この曲の目的は単にラップだけじゃなかった(略)音楽が目的でもあったんだ。俺が音楽を書いて、その音楽が俺をリプレゼントするんだから、あの曲を書くのには相当な時間を費やしたよ」

 「8街区分の大きさの教会の会堂に響き渡るようなサウンドだった」とクエストラヴは"P.S.K. What Does It Mean?"について述べた。「あれほどのエコーをさ。それぞれのフレーズの終わりのトップの部分にドラムをオフビートで入れ続けるやり方には、さらにうっとりしたよ」

 「彼らが使ったドラムは画期的だったよ」と(略)テック・ナインは言った。「あんな曲を聴いたのは初めてだったんだ」

 "P.S.K. What Does It Mean?"の影響は何年も響き渡った。それはラップの歴史上、最もサンプリングされ、参考にされた曲のひとつとなった。音質的には薄っぺらなこの曲は、ゴールドやプラチナを取ることもなければ、それを着服したアーティストに頻繁に引き合いに出されることもないが、何世代ものアーティストたちに影響を与えた、ジャンルを変えた芸術作品なのだ。

(略)

スクーリー・Dが属していたギャング、パーク・サイド・キラーズの頭文字、P.S.K.(略)スクーリー・Dは、曲の中でギャングであることについてラップしたことはなかったが、ギャングのメンバーであることをリプレゼントして誇示しているという評判がラップ界に広まり、この曲にいっそうの神秘や好奇心、脅威をもたらした。

 「俺は『じゃあ、これはちょっとしたギャングのアンセムみたいなもんだな』と思ったね」とアイス・T

(略)

N.W.A『Straight Outta Compton』

 「80年代に育った子どもたちには、父親的存在がいたことがなかったんだ」とケンドック・ラマーは言った。「俺の地元のホームボーイのうち、人生で親父がいたのは俺だけだった。彼は完璧じゃなかった。まだストリートにいたけど、俺が頭をぶつけしたときは、いつもそこにいてすぐに俺を引き戻してくれた。ほかのキッズたちにはそれがなかったから、ストリートに出て行って見つける父親代わりは、ブロックにいるビッグホーミーたちだったのさ」

 こうした"父親のいない"子どもたちは多くの場合、スポーツやギャング、犯罪を通してストリートに頼るか、または新たに出現してくれたヒップホップ・カルチャー、ラップ・ミュージックのおかげで家族を見つけた。

(略)

ギャングスター・ラップは音楽業界で勢いを増していたが、過半数の作品をリリースしていたのも、ロサンゼルス、シカゴ、ヒューストンなどの大都市圏で、アルバムやコンサートのチケットを最も多く売り上げていたのもエンパイア・ステートのアーティストだったため、ラップは依然ニューヨークが中心のムーブメントのままだった。アイスTはこの傾向に逆らい、彼の2枚目のゴールドアルバム『Power』を1988年にリリースした。

 同じ年に、カリフォルニア州オークランドのラッパー、トゥー・ショートはプラチナアルバム『Life Is... Too Short』で、ストリートのピンプと売春の世界を露骨な性的表現で考察し、カリフォルニア州コンプトンのラッパー、キング・ティーはBボーイの感覚とギャングスターの精神を『Act a Fool』で融合

(略)

[しかし音楽史の転換点となったのは]

N.W.A『Straight Outta Compton』

(略)

 ちょうどワールド・クラス・レッキン・クルーが創作上の意見の相違をぶつけていたときに、80年代半ばに9万人未満が住んでいたコンプトンのちっぽけな音楽シーンでドクター・ドレーとイージー・Eは友達になった。グループのリーダー、アロンゾ・ウィリアムズは(略)エレクトロダンス・シーンに忠実であり続けたかった。ウィリアムズはまた、一連の軽犯罪からドクター・ドレーを保釈するのに嫌気がさしていたため、次にドクター・ドレーが獄中から誰かに出してもらう必要が生じたとき、彼はイージー・Eに電話をかけた。常にビジネスマンであったイージー・Eは(略)ドレーに何曲か制作する助けになってもらうことで、彼の気前の良さに報いてほしいと思っていた。

 ウィリアムズが仕事関係において、そして個人的にもドクター・ドレーを追い払ったのと時を同じくして、ストリートでラップの人気が急上昇した。N.W.Aのメンバーと周囲のアクトが共作をし始めると、イージー・Eは(略)音楽業界の熟練マネージャー兼プロモーターのジェリー・ヘラーに会ってほしいと、ウィリアムズにせがみためた。イージー・Eは、自分に欠けていた音楽ビジネスの知識を提供してくれたヘラーと会わせるために、ウィリアムズに750ドル支払った。

映画『スカーフェイス

 『スカーフェイス』は、ほかのどの映画よりもラップに影響を与えてきたかもしれない。アル・パチーノ主演の1983年の同作は、下級のドラッグの売人から親玉の地位へ出世するキューバからの移民トニー・モンタナの軌跡をたどる。モンタナの権力の座への就任、倫理感、世知にたけた印象的な台詞はラッパーたちの心に訴え、彼らは主人公の希望、夢、野心、苦闘に自分を重ね合わせることができた。ザ・ゲトー・ボーイズやスカーフェイスなどのアルバムは、『スカーフェイス』のテーマ曲や映画音楽をふんだんに使い、いくつものモンタナのキャッチフレーズ(「これがご挨拶だ[(略)この台詞と共にモンタナが敵に向かってロケットランチャーを撃ち込む]」や「俺にあるのはタマと約束だけだ。絶対に破りやしないぜ」)を、曲やコーラスに取り入れて有名にした。

ドクター・ドレー『The Chronic』

デス・ロウ・レコーズを相手取って申し立てていた訴訟での合意の一端として、イージー・Eはドクター・ドレーの来たるべきレコード販売から支払いを受けることになっており、その事実はドクター・ドレーの離脱によるイージー・Eの痛手をほんの少し和らげた。「俺はドレーと独占的なプロデューサー、独占的なアーティストとして契約を交わしたんだ(略)だからドレーがインタースコープと契約を交わそうとしたとき、俺は次の6年間その中に含まれていたんだ」

 イージー・Eのビジネス感覚が再び発揮され、彼はドクター・ドレーのデビューアルバム『The Chronic』の売上の一部として、たっぷり報酬を受け取った。1992年12月15日にリリースされた『The Chronic』は、1年で300万枚以上も売り上げ、芸術上の画期的な事件、かつ商業面では圧倒的な破壊力となった。それはまた、ラップ全体の、特にギャングスター・ラップのサウンドと方向性を変えてしまった。

 『The Chronic』より前のギャングスター・ラップ(略)は、攻撃性、騒々しさ、怒りの組み合わせが典型的だった。

 『The Chronic』は、ファンクにインスピレーションを受けた音作りでラップのサウンドを変えた。EPMD、イージー・E、N.W.A、アイス・キューブ、MCブリードなども(略)ファンク音楽を使ったが、彼らは力強い拍手の音や、攻撃的なシンセサイザー、ヘヴィーで泥臭いベースを音のパレットの基盤として使用した。一方ドクター・ドレーは(略)耳障りな感じを抑え、平均的消費者がより聴きやすいものに入れ替えた。ゴツゴツしたそのほかのギャングスター・ラップとは異なり、『The Chronic』の重要な何曲かはスムーズで、ほとんど誘いかけているかのようだった。

 同様に、ドクター・ドレーのしわがれ声、N.W.Aの作品の多くで彼が自信たっぷりに見せつけた威嚇的なデリヴァリーを、たくましさと力強さはそのままに、それほど攻撃的ではないデリヴァリーに交換した。『The Chronic』の15曲の半分以上に参加したスヌープ・ドギー・ドッグは、"Deep Cover"で見せた不安が消えた、絹のようなスタイルでラップした。

(略)

ゲットーにおけるストリートの脅威から脱線して(略)夏のバーベキューの幸せな気分にさせる雰囲気と交換した(略)

 新しいサウンドは(略)非常に魅惑的で、すぐさま音の境界線として認識された。

(略)

[チャック・D談]

「ドレーは"'G' Thang"でジャンル全体の速度を落とした。彼はヒップホップをクラックの時代からクサの時代へともっていったんだ」

 強力なクサを意味する『The Chronic』のタイトルから、ドクター・ドレーによるリスナーへの「ジョイントを吹かせ、でもムセんなよ」という要請まで、マリファナへの言及はこのアルバムの重要な部分であった。

(略)

 ドクター・ドレーは"Let Me Ride"でもうひとつ重要な立場を取った。

(略)

ニューヨークで顕著だった、政治に関心のある社会意識の高い 「コンシャス」 ラップに対抗した。

 

 メダリオンドレッドロックも黒い拳もなし/ギャングスタの睨みがあれば十分/ギャングスタ・ラップと一緒にな/そのギャングスタ・シットが大金を稼ぐのさ

 

 その時代のコンシャスラッパーは、アフリカのイメージを特徴としたメダリオンを付けていた。先祖のルーツへの賛同としてドレッドロックを誇示した者もいれば、1968年のオリンピックで黒人スポーツ選手のトミー・スミスとジョン・カルロスが行ったブラックパワーの称賛に敬意を表して、ビデオや写真で拳を掲げた者もいた。 "Let Me Ride" でドクター・ドレーは、 社会的、政治的課題を推進するのではなく、ギャングスタリズムを支持していることをリスナーに知らしめた。(略)

ドクター・ドレーの主眼は、クサや女性、競争相手を打ち負かすことだった。 

ブラッズとクリップス

1988年には映画『カラーズ 天使の消えた街』が、70年代から80年代にかけてロサンゼルスの黒人の都市生活を支配していた地元のふたつのギャング集団、ブラッズとクリップスの出現を紹介した。最初に出現したクリップスは、青いバンダナをつけていた初期メンバーを称える意味も込めて、青を身につけて70年代に名を上げた。数年後に生まれたブラッズは、メンバーがクリップスから身を守る手段として結成された。ブラッズが選んだ象徴的な色は赤だった。

(略)

公の場では、いまだにギャング自身とアーティストのあいだには隔たりがあった。アイス・T、キング・ティー、N.W.Aのメンバー(略)はクリップスの地元の出身だったが、ギャングの特徴となる青の服やバンダナを身につけている者は誰もいなかった。(略)アルバムカバーやビデオ、宣伝用写真で黒を身につけていた。

 実際に、ロサンゼルスのストリートラッパーたちの第一波は、80年代から90年代初期にかけて、外見的には特定のギャングとの関わりを音楽にもち込まないようにしており、大部分はイメージ的に中立の立場に留まった。それは身の安全とビジネスの両方に根ざした意識的な決断だった。

 「もし青を着たら、クリップスだけを惹きつけることになる」と(略)MCエイトは言った。「それじゃブラッズはお前の音楽を買いやしない。年がら年中赤を着てりゃ、クリップスはお前の音楽を買いやしない。(略)黒を着るのは中立的だから、お前がいるところには、ブラッズもクリップスもいられるし、ハスラーズもいられて、彼らにとってお前はどちら側にもついていないことになる」

 「N.W.Aに関しては、イージー・Eがクリップだったことは誰もが知っていた(略)MCレンがクリップだったこともみんなが知っていた。人はドクター・ドレーの出身地を知っていたし、アイス・キューブが出身地に住んでたことを知っていた。黒を着ることで俺たちは中立でいられたんだ。だから俺たちは全域がブラッドの地元でショウをやらきゃいけないときは、マジで大勢のヤツの癇に障らないようにしていたのさ。(略)

俺は絶対にレコードで『俺はクリップだ』って言ったり、ビデオに出て青いバンダナをつけたりはしない。青い帽子とかは被ったかもしれないが、中立的でいようとした。ツアーに行くときはしょっちゅう、黒のTシャツに黒のジーンズ、黒の靴、黒のレイダースの帽子になる。黒、黒、黒。グレー、グレー、グレーだ。中立的でいようとするもんなんだ、どこに行くことになるか分からないからな。(略)」

アバヴ・ザ・ロウ

(略)ルースレス・レコーズの最盛期にイージー・Eは(略)アバヴ・ザ・ロウとの契約を交わした。(略)

作品の多くに政治的な暗示を加え、正真正銘のギャングスターになるより、ハスラー、プレイヤー、ピンプになることに重点を置いた。(略)

多くの同輩たちに比べて、より慎重で安定したデリヴァリーを選んだ。

(略)

「 彼らはまるで聴き手に話しかけているかのようなレベルまで、すっかり速度を落としたんだ」とヤックマウスは言った。「車の中で聴いていると、まるで会話をしているかのようだった。音楽に体を揺らしながら、『このバカ野郎、俺に話しかけてんのか?』ってくらいにな。そんな風に感じたし、胸をグサッと突いたんだよ。理解できたし、コイツが何を言ってるか理解するのに1000回聴かなくちゃいけないってほど巧妙ってわけじゃない。単刀直入だったんだ」

 しかしアバヴ・ザ・ロウが最も絶大な影響を与えたのは、音質面だった。

(略)

 アバヴ・ザ・ロウが1990年に現れたとき、プロデューサーのコールド187umは、クインシー・ジョーンズアイザック・ヘイズのように、その時点ではラップにとって型破りだった音楽ネタからサンプルを取り入れた。翌年コールド187umは、次の数年間のギャングスターラップを形作ることになるサウンドを開発した。(略)

[91年EP『Vocally Pimpin'』]

9曲入りのこのプロジェクトでは(略)"One Nation Under a Groove"から拝借したシングル"4 the Funk of It"が中心となった。(略)

 コールド187umは(略)セカンド・アルバム『Black Mafia Life』で、ファンクの貯蔵庫をより深く掘り下げた。

(略)

ラップでは、革新的なものを創り出したり、インスピレーションを与えた人よりも、商業的に人気を上げるものを作った人の方が崇拝されるため、ドクター・ドレーとスヌープ・ドッグの人気は、アバヴ・ザ・ロウのもたらした革新性の影を薄くしてしまったかもしれない。

 「彼らがGファンクの創始者だ」とヤックマウスはアバヴ・ザ・ロウについて言った。「(略)アバヴ・ザ・ロウが出てきてスピードを落としたんだ。グルーヴィーだったね。ベイエリア出身の俺たちにしてみれば、大勢のピンプに大勢のピンプに大勢のハスラーがいるから、スピードを落とした、モブとかグルーヴィーなヤツが好きで、だからアバヴ・ザ・ロウが好きだったのさ。ファンキーだったね」

 アバヴ・ザ・ロウがGファンクを創った後、それをドクター・ドレーが世に広め、スヌープ・ドッグ命名した。

マスター・Pとノーリミット・レコーズ

1995年2月、当時プライオリティ・レコーズの営業担当だったデイヴ・ウェイナーは、ミュージック・ピープルズ・ワンストップを訪れるために、 カリフォルニア州オークランドへ出張に出掛けた。当時、ワンストップ[訳注:1ヶ所でなんでも買えるサービス]として知られていたミュージック・ピープルズは、レコード会社からアルバムとシングルをレコード、CD、カセットで買い付け(略)各地のインデペンデントのレコード屋に売っていた。

 1991年にプライオリティ・レコーズの郵便仕分け室の仕事から始めて、 販売部で地道に働いていたウェイナーは、プライオリティのプロジェクト、具体的に言うとN.W.Aやアイス・キューブなどの主力商品をミュージック・ピープルズに売るための出張に出掛けていた。

(略)

ミュージック・ピープルズの駐車場で(略)ある新進アーティストが彼に近づいてきた。その人物はパーシー・ロバート・ミラー、 別名マスター・Pだった。 ウェイナーは(略)マスターPのことも(略)駆け出しのノーリミット・レコーズのこともよく知っていた。

 マスター・Pは彼のプロジェクト『99 Ways to Die』 のコピーをウェイナーに渡し、翌週のビルボードチャートでどこにチャートインするかを伝えた。Pの自信とビジネスの知識に関心したウェイナーは、『99 Ways to Die』 のコピーと一緒にそのラッパー/ビジネスマンの情報を持ち帰った。

 翌週、マスター・P の 『99 Ways to Die』はPの予測よりひとつ低い順位でデビューした。「彼がなんの援助もなくそれを成し遂げた事実にぶっ飛んだね」(略)

ウェイナーにあるアイディアが浮かんだ。 そのアイディアはひとたび実行されると、 音楽業界に大改革をもたらし、 プライオリティ・レコーズはラップ業界の大物、 N.W.Aやアイス・キューブで稼いだよりもさらに大金をもたらした。

 ウェイナーのアイディアは、ノーリミット・レコーズを手始めに、CEMA (キャピタル・レコーズ、EMIレコーズ、マンハッタン・レコーズ、エンジェル・レコーズ)と独自の配給契約を結ぶことによって、ほかのレコード会社の作品をプライオリティ・レコーズから配給させるというものだった。 そのときプライオリティ・レコーズは、ラップ・ミュージックで全米唯一の自己所有のインデペンデント配給業者だった。 プライオリティ・レコーズを始める前は、オーナーのブライアン・ターナーとマーク・セラミはふたりともコンピレーションのレーベル、 K-テルで働いていた。 K-テルにいるあいだ、ターナーはA&Rとして働き、アルバムの音楽の部分をまとめていた。 一方のセラミは販売を担当した。

 業界では、レコード会社からアルバム、シングル、またはEPを受け取った配給業者がそれを大量生産して、小売店に発送するというのが慣例だった。小売店は音楽を受け取ると、配給業者に支払いをし、次に配給業者がレーベルに支払いをしていた。

 この仕事を通して、セラミは全国のあらゆる音楽ビジネスの顧客と強固な関係を築いてきたのだが、プライオリティ・レコーズのプロジェクトをチェーン店のレコード屋やワンストップ、ほかのビジネスに直接売りたかった。結果的にセラミがその手はずを整えたことで、プライオリティ・レコーズは作品を製造して小売店に発送し、小売店はその引き換えとしてプライオリティ・レコーズに商品代金を支払ったのだった。レーベルがあらゆるレコード屋の棚スペースの大部分を牛耳っていたことから考えると、これは大きな資産であり、それはつまり、アルバムの在庫を置いておく不動産には限りがあったということでもあった。

 ビジネスの過程を中抜きすることに加え、プライオリティ・レコーズにはまた、もうひとつの明白な利点があった:その売り掛け金は、製造者/配給業者であるCEMAによって保障されていたのだ。これは、もしプライオリティ・レコーズが1作のアルバムを小売店に10万枚売れば、CEMAが小売店にもつ圧倒的な影響力により、その10万枚のアルバム全額の支払いを受け取ることができるということだった。見返りとして、CEMAは小額の配給手数料を受け取った。この関係がなかったら、プライオリティ・レコーズはおそらく、支払いを受け取るために小売店を追い回し、支払い期限からだいぶ送れて受け取るも、商品製造の割増金を支払わねばならないという、ほかの小規模レーベルのような運命に苦しんでいたことだろう。

 それゆえに、プライオリティ・レコーズは事実上、独自の全国配給業者であり、インデペンデント・レコードレーベルでもあったのだ。ほかのどのレコード会社とも異なり、プライオリティは配給ニーズに柔軟に応えることができたため、アーティストやレーベルと配給契約だけを結ぶことができるように手はずが整えられていた。

 ウェイナーが、マスター・Pのノー・リミットと手を組んで配給を任うアイディアをプライオリティ・レコーズに提案できたのは、このお膳立てがあったためだった。ターナーもセラミもラップシーンの実情を正確に把握している熱心なラップファンではなかったため、プライオリティはすでにそういう業界内部の仕組みに最適な取り決めを実施できるよう作られていた。

「プライオリティ・レコーズは、決してヒップホップ・レーベルになるように設計されていなかった」とウェイナーは言った。「彼らはコンピレーションを扱っていて、それがカリフォルニア・レーズンズに繋がって、さらにそれがN.W.Aを世に出すための資金繰りに繋がったんだ」

(略)

 セラミはウェイナーの構想を理解し、マスター・Pとノーリミット・レコーズと画期的な契約を結ぶことに同意した。マスター・Pは25万ドルを手に入れ、彼の作品の原盤権と音楽出版権を100%保持した。プライオリティ・レコーズは、独占的な製造/配給権を手に入れ、ノーリミットの商品を店に置くことを保障する引き換えに、配給手数料を取った。「そうしたチャンスの対価として、所有権の分け前を取ることなく全国的な配給契約を提供していたレコード会社は存在しなかった」と、プライオリティ・レコーズがマスター・Pのノー・リミット・レコーズと契約したときに、プライオリティが流通していたレーベルに新設された重役に就いたウェイナーは言った。「彼は前払い金を手に入れ、俺たちは出版も原盤も所有せず配給手数料だけを取るっていうのは、今までに類を見ない契約だった。単純だろ」

(略)

 今や全国に手が届くプライオリティ・レコーズと投資金が増えたおかげで、ノー・リミットは新たなファンを獲得し、雑誌やテレビ、ラジオでの露出も増え始めた。

(略)

マスター・Pはすでに西海岸と南部にファン層を抱えていた。ひとたびノー・リミット・レコーズの音楽に人気が出始めると、この地理的な恩恵は、彼がスターの座へ駆け上がる助けとなった。

(略)

 のちにノー・リミット・レコーズの慣行となったように、マスター・Pはレコード屋を彼のレーベルの作品で溢れさせた。

(略)

プライオリティ・レコーズのユニークな位置づけが、その持続的成功にとって極めて重要である理由のひとつだった。

 「(小売店の)顧客はラップ・ミュージックをどう扱っていいかよく知らなかったんだ、特にチェーン店はね」とウェイナーは言った。「だから自社の営業社員をそこに派遣して、ウエストサイド・コネクションとはなんなのか説明し、ノーリミットとはなんなのか説明し、なぜシルク・ザ・ショッカーを20万枚発送する必要があるのか説明することが、とても重要だった。俺たちが取り組んでいることを理解していない大手レーベルの営業担当を通していたら、あんな風にはならなかっただろう。ヒップホップの売り方を知っている営業マン、それがパズルの重要な一部だったんだ」

(略)

マスター・Pとノーリミットの面々が使う南部のスラングやアティテュード、大抵はけばけばしいアルバムカバー、そしてアル・イートンやK・ルーなどのサンフランシスコ・ベイエリアのプロデューサーが奏でるキーボード、ファンク、 Gファンクの組み合わせは、 ギャングスター・ラップに新たなひとひねりを加えた。(略)明らかに西海岸っぽいサウンドに南部の感覚を混ぜ合わせていた。 ゲットーで育つこと、ハッスルする[訳注:あらゆる手段を使って必死に金を稼ぐこと]こと、いかなる手段を取ろうともゲットーから抜け出そうとすることについて、暴力的で淫らな言葉に満ちた、しわがれ声のライムの(略)組み合わせには中毒性があることが証明された。

(略)

業界のベテランは彼の勢いに気づき始めた。

「まずストリートを動かすんだ」と(略)MCエイトは言った。「ストリートにお前をリスペクトさせろ。『ああ、俺はドープを売ってたぜ』ってな。だから彼はその方面のヤツらからあんなにリスペクトを得たのさ。 『俺はお前らと一緒に辺から出発したんだ』っていう姿勢でやってきたからな。でも彼はあれだけのカネを手に入れてレコードを売り始めたときに、『単にドープを売ったり、プロジェクトでヤバいハッスルをすることだけがすべてじゃない。観客を動かすことが大事なんだ』って感じで音楽野郎に変わったんだ。だから事態が移行したのさ、スマートだったよ」

 音楽帝国の基盤作りに取り組みながら、マスター・Pはまたほかの分野にも移行していた。1996年の後半に、彼は自分で資金を調達して長編映画デビュー作『I'm bout it』を撮影し始めた。マスター・Pは映画を配給するために、プライオリティ・レコーズに話をもちかけた。

 「彼が映画のコンセプトと一緒に『I'm bout it』の話をもってきたとき、俺たちは誰ひとりとしてどう判断していいか分からなかったんだ」とウェイナーは言った。

 ウェイナーはマスター・Pに、プライオリティはレコード会社だと伝えた。「いや、あんたたちは映画会社になろうとしてるんだよ」とマスター・Pに言われたことをウェイナーは思い起こした。マスター・Pはプライオリティレコーズの営業社員に、彼らからアルバムを買ったタワーレコード、ウェアハウス、ミュージックプラスの同じ担当者たちに働きかけるよう要請した。レコード屋で映画を仕入れる人たちは、アルバムを仕入れる人たちと同じではないと言われても、Pは諦めなかった。

 「彼は全然引き下がらなかった」とウェイナーは言った。「彼は『うーん、それじゃあ、あんたの音楽バイヤーに売ってくれよ』と言ったんだ。いや、それビデオだし。映画だろ。俺たちの音楽バイヤーには売れないよって。でも彼は『やらなきゃだめだ。彼らは俺が誰だか知っている。マスター・Pの価値を知っているんだ』と言ってね。それで俺たちはお互いに顔を見合わせて言ったんだ、『一理あるね。やってみようか』」

 マスター・Pの断固とした主張の結果、プライオリティ・レコーズの営業社員は彼の映画『I'm bout it』を異例な経路(略)を通して売り込んだ。その結果は並外れだった。ウェイナーによると、『I'm bout it』は50万枚以上売り上げたという。(略)

映画『グリンチ』(略)が年末までに140万本売れたということは、マスター・Pの『I'm bout it』は、その何分の一かのコストで、主要ハリウッド俳優たちが作った映画のおよそ3分の1を売り上げたことになる。

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「ハリウッドを迂回して自分の映画を発売し、製作費を回収し、いくらか金を稼ぎ、次の映画を撮ることができるってことをインデペンデント映画制作者に見せたことが、この作品の功績だと思うよ」とウェイナーは言った。「それは、それまで俺たちが通過した経路では前例のないことだったんだ」

 ほかのラッパーたちはすぐにマスター・Pのビジネス手腕の重要性を理解した。「俺たちのことをあまり熱心に追ってないか、マジで何も知らない人たちに対しては、異なる手段で働きかけなくちゃならないんだ」と(略)マック・10は言った。「『I'm bout it』はマスター・Pにたくさんの扉を開いたのさ。誰かがそれを観て、出演者のひとりに大作映画の役を与えるかもしれないし、俺たちのレコードを買っていなかった人たちに、もっとレコードが売れるかもしれないんだ」