トム・ウェイツが語るトム・ウェイツ・その2

前回の続き。

 

Small Change

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《スモール・チェンジ》

(略)全体的にオーセンティックなジャズ色が濃くなったのは、シェリー・マンに負うところが大きい(ツアーには不参加)。(略)メンバー同士の微妙なハーモニーとリズムの掛け合いを力任せなプレイで邪魔しないマンの演奏は、まさにウェイツの求めるものだった(略)

 毎日スタジオに入ると、ウェイツはただ床に歌詞を書いた紙をばらまいた。一日レコーディングに精を出しても、でき上がるのは曲の断片のみ。それでも夜になると安食堂でプロデューサーのボーンズ・ハウを相手に、アルバムのコンセプトをまくしたてた。お陰でハウはウェイツへの親近感をいっそう深め、このわがままなアーティストに真の友情を感じるようになった。

 《スモール・チェンジ》のウェイツは非常にペシミスティックだ。収録曲のタイトル〈身も心も疲れはてて〉そのままの死に方をしたケルアックとチャネリングでもしたのか、ウェイツは収録曲の数々で運命の落とし穴を描いた(略)

フランシス・サムに「《スモール・チェンジ》で初めて音楽に物語をつけるまでは、自分の芸にちょっと自信がなかった」と打ち明けている。「《スモール・チェンジ》でようやく、よし、おれは進歩してる、この調子なら音楽を続けていけると初めて思えた。〈トム・トラバーツ・ブルース〉と〈スモール・チェンジ〉と〈想い出のニューオーリンズ〉のお陰で、少し自信がついた」

 〈トム・トラバーツ・ブルース〉を書いていたときのウェイツはインスピレーションを求め、ウィスキーの酒瓶を入れた茶色い紙袋を片手にロサンゼルスのドヤ街に乗り込んだ。(略)取材で何よりショックだったのは、話を聞いたホームレスの男たちが一人の例外もなく、ドヤ街暮らしに落ちたのは女が原因だと語ったことだったという。

 (略)

チップ・ホワイトのインタビューより

 

 「あれは確かトム・ウェイツの誕生日だった。(略)ロード・マネジャーが誕生日の今夜はトムに内緒でストリップ嬢を雇い、演奏中にステージに上げようって言い出した。そんなわけで〈ペイスティとGストリング〉が始まると、観客席からそしらぬ顔でストリップ嬢が近づいて(略)トムの目の前で(略)おもむろに服を脱ぎ始め、最後はペイスティ[乳首を隠すために貼る飾り]とGストリングだけの姿になった。場内は大騒ぎさ……(略)

それからというものトムは行く先々でロード・マネジャーにストリッパーを手配させ、観客席から登場させた。やがて僕らはストリップ嬢の品定めを始めた。(略)一位はウィスコンシン州マディソンの娘だった。(略)」

トム・ウェイツには誰も追いつけない

『ノースイースタンオハイオ・シーン』紙 一九七六年

ジム・ジェラード

(略)

 ――四枚のアルバムは、それぞれテイストがずいぶん違います。最近はグッとジャズ寄りですね。《クロージング・タイム》は正統派のシンガーソングライター・アルバム、《土曜日の夜》は場末感を強めながら郊外の雰囲気も出ていました。次の《娼婦たちの晩餐》はとびきりファンキーでアーバンでリアル。《スモール・チェンジ》は同じ路線ですがさらにジャズ色が濃く、サウンドはシンプルになっています。こうした進化はすべて意図的なものだった?最初からいずれはこういうスタイルに、という計画があったのですか?それとも次第に変化していった?

(略)

 

こいつはトップクラスに長い質問だな。(略)

 

 ――OK。質問を変えましょう。作風がずいぶん変わりましたよね?

 

 (略)アルバムは最終的に、一つ一つが独立したプロジェクトなんだ。前のやつとは完全に違うものになる。《クロージング・タイム》は初めてのアルバムで、書きためていた曲を集めた。誰だって初めてレコーディングスタジオに入るときは、知識もないし、ちょっと気後れがするだろ?《クロージング・タイム》が出てからはずっとドサ回りの日々だ。今はあちこちの町や移動中に曲を書いていて、暮らしはかなり変わった。生活が変われば、言うこともやることも変わらざるを得ない。

 

 ――新しく作った曲はレコーディングする前にステージで披露し、観客の反応を確かめるんですよね?

(略)

曲ができれば、そりゃすぐにでも生でやりたい。一人で小さなクラブを回ったり前座に呼ばれたりしていた頃は、どんな曲をやろうが構わなかった。(略)何をやるかは完全におれ次第だった。おれの音楽に詳しい客などいなかったから。だが最近はちょっとばかし事情が違う。観客はおれの音楽を聞きに、特定の曲を目当てにライブを見に来る。となると、好き勝手やるわけにもいかない。クリーブランドで《スモール・チェンジ》の曲を中心にやるのは、このアルバムがここでは一番親しまれているからだ。(略)

都会の彷徨がトム・ウェイツには似合う

『カントリー・ランブラー』誌 一九七六

リッチ・トレンベス

(略)

「おれも前座が長かったんだ。ようやく少しずつメインアクトを任されるようになったところさ。まるで別世界だね。昔はフランク・ザッパマザーズ・オブ・インヴェンションやチーチ&チョンの前座だった。ありとあらゆる果物やゴミをぶつけられたもんだ。時にはフルーツサラダができるほど飛んできた」

(略)

 この六年間、住まいはロサンゼルス郊外にあるエレベーターなし、家賃一三五ドルのワンルームアパート。料理はホットプレートで作り、フィリコ社製の白黒テレビを見る。とはいえ家にいられるのは年にわずか四カ月ほどで、その四カ月はもっぱら安酒場で友達とたむろする。「友達のほとんどは普通の労働者だ。なぜおれが長いこと家を空けるのかわかっていないやつも多い」

(略)

高校を出てから音楽で食べられるようになり始めた五年前まで、ウェイツは本当にその日暮らしだったのだ。その職歴は求人広告さながらで、タクシー運転手、酒屋の店員、消防士、コック、用務員に夜警、倉庫や宝石店で働いたかと思えばアイスクリームの移動販売もやった。

 子供時代はロサンゼルスのメキシコ系やアジア系が多く住む地域で過ごした。(略)「ごく普通の子供だった」らしい。「よくドジャー・スタジアムに行った。熱烈なドジャース・ファンだったんだ。駐車場で遊んだり新聞配達をしたり、車にいたずらしたり雑貨屋で万引きしたりと、普通の子供がやることは全部やった」

 本人も認める通り今の質素な暮らしは自ら選んだもので、子供の頃も生活苦には縁がなかった。家庭は裕福ではないが、暮らしには困らなかった。父親は今もロスのダウンタウンにあるベルモント高校でスペイン語を教えている。

(略)

ウェイツが尊敬するのはジェローム・カーンガーシュウィンアーヴィング・バーリンコール・ポータージョージ・シアリング、オスカー・ブラウン・ジュニア、ロード・バックリー、ピーター・ポール&マリーにミシシッピジョン・ハート。(略)

「初めてステージで歌ったのは、サンディエゴの小さなナイトクラブだった。フォーク系の店で、死ぬほどブルーグラスを聞かされたよ。おれはドアマンだったから、もぎりをやりながらいろんなバンドを聴いた。そもそもドアマンの仕事に就いたのは、いつかこの店に出てやると心に決めていたからだ。そんなわけでおれは人知れず店の奥で人脈作りに励み、下っ端なりにのし上がろうと頑張った。(略)」

《パラダイス・アレイ》

『ダラス・モーニングニュース』紙 一九七七年

ピート・オペル

(略)

「(略)ここだけの話だが、マーフィー病院の駐車場に停められたタクシーの後部座席で、おれは生まれた。育ったのはロサンゼルス。親父はスペイン語の教師で姉貴は共産主義者、このおれは失業中のガソリンスタンド店員ってわけだ。親父が翻訳会社を始めるっていうんで、家族でサンディエゴに引っ越した。高校もサンディエゴで入ったんだが、まずいことになって退学した」

(略)

 「(略)ステージのおれはちょっと誇張されているが、おれはおれでない人間を演じるつもりはない。妥協するつもりも、自分を偉そうに見せるつもりもない。知っていることしか話さない。心の奥をのぞいても、そこにレジャースーツ[七〇年代に流行したカジュアルなスーツ。派手な色使いとベルボトムが特徴]を着た男はいない」

 「住んでるのは安宿のトロピカーナ・モーテルだ。宿泊料は全室前払いでね。おれの他に四速オートマチックのドラァグクイーン、失業中の消防士、レズの男役、チンピラ、娼婦、サディストにマゾヒスト、身を持ち崩したエイボンのセールスレディー、執行猶予期間中の殺人犯、元ビバップ歌手に片腕のピアノ弾きが住んでる。何でもござれ、だ」

 「おれはフィラデルフィアじゃビッグでね。だからあの町にはよく呼ばれる。後はミズーリ、モンタナ、日本だな。日本じゃ大物さ。ちっこい日本人が、カメラ片手にわんさか押し寄せる。ブリュッセルでもビッグだ」

 (略)

 「一月には日本に行くか、ハリウッド大作に主演する。どっちにするかはまだ決めてない」

(略)

 シルヴェスター・スタローンの関心を引いたのも、独特の風貌だった。(略)

『パラダイス・アレイ』(略)にウェイツを抜擢し、落ちぶれたピアノ弾きのマンブルを演じさせた。最終的に(スタローンが弟のフランク・スタローンともども自慢の喉を披露することにしたため)出演シーンは大幅にカットされてしまったが、全体的にぱっとしない映画のなかで、ウェイツが提供した挿入歌〈アニーズ・バック・イン・タウン〉と〈ミート・ミー・イン・パラダイス・アレイ〉は光っていた。『パラダイス・アレイ』は酷評され興行的にも失敗したが、ウェイツにとっては新しい世界への入口だった。この映画がきっかけでハリウッドを代表する監督の一人、フランシス・フォード・コッポラの目に留まったのだ。

 

ブルー・ヴァレンタイン

ブルー・ヴァレンタイン

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ブルー・ヴァレンタイン》、リッキー・リー・ジョーンズ

(略)楽曲に「恋の病」が見え隠れするのは、二二歳のシンガーソングライター、リッキー・リー・ジョーンズへの想いが染み込んでいたためだろう。(略)

ジョーンズの音楽をそこはかとなく彩るボヘミアン的な感性は、ウェイツの音楽世界にも通じていた。二年後の七九年、ジョーンズはリトル・フィートローウェル・ジョージの目に留まったことから念願のレコードデビューを果たし、デビュー作《浪漫》でグラミー賞最優秀新人賞を獲得した。

(略)

 

 リッキー・リー・ジョーンズ、新しい家族を語る

『ロック・ライブ――スプロフィールとインタビュー』一九七九年後半

 あの頃(七七年)は友達が一人もいなくて、住む場所もなかった。一文無しだったし。だからよくトロピカーナ・モーテルに行ってひと休みしたの。そんなある日、知り合いのアイバン・ウルツがトルバドールに出たときに、君もステージに上がって何曲か歌えよと誘ってくれた。トルバドールの厨房では、チャック・E・ワイスって子が働いててね。(略)

トムが私のステージを見て、トムとチャックと私の三人でつるむようになったの。人生で一番楽しい時期だったな。それまでの私はたぶん経験からだと思うけど、人を頼らなくなっていたの。生活を人に振り回されると困るから。でも今はチャック・Eとトムが私の家族。ときどきね、私たち三人は生まれる時代を間違った、とびきりロマンティックな夢想家なんじゃないかしらって思うのよ。だから三人はいつも一緒。心から愛し合ってるわ。

 

トム・ウェイツリッキー・リー・ジョーンズを語る」一九七九年

 リッキー・リーを見たときは、ジェーン・マンスフィールドを思い出した。最高にイカした娘だと、グッと来たんだ。(略)ステージでのリッキー・リーはセクシーな白い黒人娘とでもいおうか、見てるとゾクゾクした。

(略)

 リッキー・リーが初めて、少なくともおれと知り合ってから初めてハイヒールを買ったときのことははっきり覚えてるよ。おれの部屋の窓の前まで来て、ハイヒールを買ったお祝いに連れ出してよってわめくんだもん。言われた通りに連れ出したら、リッキー・リーのやつ、べろべろに酔っ払ってサンタモニカ大通りを歩くもんだから、何度もハイヒールが脱げちまって。おれたちの関係はマイク・トッドとエリザベス・テイラーにはほど遠いがおれはおれなりに、頭がおかしくなりそうなくらい彼女を愛してる。でもおれはリッキー・リーが怖いんだ。ストリートで生き抜くあのしたたかさときたら、地球ができたときから生きてるんじゃねえかと思うほどさ。なのに普段は無邪気な少女そのものなんだ。

(略)

ジョーンズは、酒と女と歌からなる三位一体の象徴だった。トロピカーナ・モーテルのプールに裸で飛び込み、黒いベレー帽と手袋と中古の靴を身につけるその生き方はまさに自由人だった。やがてジョーンズとウェイツの友情は恋愛に発展したが、ふたりの関係が公になるのはジョーンズのデビューアルバムがヒットしてからのこと。それまでのジョーンズは、《ブルー・ヴァレンタイン》に登場する「謎のレディー」だった。

(略)

ウェイツ、音楽シーンにもの申す

『クリーム』誌一九七八年五・六月号

(略)

「パンクを不快に思う人は多いだろう。だけど少なくともパンクはこの一〇年間のさばってきたゴミに代わる音楽だ。クロスビー・泥棒[スティールス]・アンド・現金[キャッシュ]みたいなのには飽き飽きしてる。ちんぽこが二本要らないのと同じように、あの手のバンドはもう要らない。カウボーイブーツに刺繍入りのシャツを着た冴えない連中の〈シックス・デイズ・オン・ザ・ロード〉(略)を聞くくらいなら、革ジャン姿の若造が『かーちゃんのアソコを舐めてえ』とわめくのを聞きたいね。ミンク・デヴィルが気に入ってる」

 「(略)CBGBの表に立ってたんだ。襟の細いジャケットと先の尖った靴でめかし込んだあんちゃんたちが煙草を吸いながら、酔っ払いどもと世間話をしてた。いい感じじゃないか」

(略)

ウェイツが力説するには、曲がいつも簡単に書けるとは限らない。曲作りは最もつらいが、最もやり甲斐のある作業だという。一方レコーディングは「残酷で異様な刑罰。歯医者に行くような拷問」で、スタジオに入るときは緊張で身がすくむ。レコーディングを手っ取り早く片付けるために二トラックで録音し、オーバーダビングはしない。要はスタジオでライブをやるようなものだ。

新しいバンドでいつもの音を

サンタバーバラ・ニュース・アンド・レビュー』紙 一九七八年

 現在二九歳の彼は、下積みのつらさを今もはっきりと覚えている。長距離バスに揺られてサンディエゴからロサンゼルスに通ったこと、ナイトクラブの用心棒稼業、〈オール’55〉そのもののキャデラックに寝泊まりしたこと(この車は、最近憧れの六四年型サンダーバードに買い換えた)。

(略)

ウェイツが表現者としてもソングライターとしても完成していることは、シルヴェスター・スタローンの新作映画『パラダイス・アレイ』が証明している。「スタローン本人が、家に電話をくれたんだ。あれは光栄だった」と、ウェイツは語る。「挿入歌を作るだけのはずが、スタローンはおれのために役を作ってくれた。マンブルスってキャラクターなんだ」

(略)

  ウェイツは二年半の間、苦楽を共にしたバンドを解散し、新しいバンドを組んだ。「少し音を変えようと思ってさ。違うことが試したいんだ。マンネリはまずい。だが前のメンバーと別れるのはつらかった」。言葉を切って、頭を振る。「いっそマンネリになった方がましなくらいさ」。(略)新しいメンバーは全員が黒人だ。(略)ウェイツは愉快そうに言う。「白人はおれだけ」

(略)

 「この業界に現状維持はない。這い上がるか落ちるかのどっちかなんだ。このアルバムはデカい山だった。プレッシャーはあったが、それは自分で自分に課したもの。(略)」

 

 六枚のアルバムを発表し、そのたびに馬車馬のごとく各地を巡業し、テレビや映画にも出演。それでも世間に認められていないという不満は根強く残った。リッキー・リー・ジョーンズがスターダムに駆け上がった七九年は、ウェイツにとって失意の年だった。映画初出演で映画俳優協会に入会を認められたものの、『パラダイス・アレイ』の出番はちらりと顔が映る程度までカットされた。この映画のために書いた挿入歌はどこで流れたかわからないような扱いで、別の映画の企画は頓挫した。しかもジョーンズのミュージックビデオでは、自分とそっくりな風貌の男が実際よりも清純そうなジョーンズをストーカーのように追い回している。このビデオを見るに至り、ウェイツは音楽シーンへの幻滅をいっそう深めた。業界の罠にうんざりし、一年が終わる頃には心の底から新天地を求めていた。

(略)

 公演では、舞台美術が少々大がかりになった。(略)紙吹雪が舞い、街灯やガソリンスタンドの給油機やタイヤがステージを彩った。(略)

時折ライブの演出にひねりを加えた。(略)〈ペイスティとGストリング〉の演奏中にバスローブに着替えて現れ、安楽椅子に座って電源の入っていないテレビに見入るという趣向で客を楽しませた。

 

トム・ウェイツには誰も追いつけない

『サーカス・ウィークリー』誌 一九七九年

(略)

 七九年の春はヨーロッパを回り、続いてオーストラリアをツアーした。その後、自分の仕事はひと休みしてリッキー・リージョーンズのヨーロッパ・ツアーに同行、帰国すると年末まで全米各地で公演を行った。

 短気な観客からブーイングを受ける屈辱を身に染みて知るウェイツは、(フランク・ザッパとは違って)自分の前座を野次からかばおうとした。(略)

ミンク・デヴィルがステージに上がるなり、観客は激しいブーイングを浴びせた。嫌気が差したバンドは、楽器を置いて退場。するとウェイツは自らステージに出て、観客に不満を表明した。出演時間は契約で決められているので自分の時間が来るまでは歌わないと宣言し、アイビーリーグのエリート学生たちを開演時間まで待たせておいた。愚か者には我慢がならないたちなのだ。

 七九年は音楽の面でもプライベートでも、人生の大切な一章が幕を閉じた年だった。もはやステージの給油機にも街灯にも紙吹雪にもストリッパーにも、トロピカーナ・モーテルにもリッキー・リー・ジョーンズにも用はない。ウェイツは突破口を求めていた。毎日毎年同じことの繰り返しのような日常を変えたかった。音楽を安酒場から連れ出し、演劇界に進出することを考えた。(略)試験的に東海岸に移るのも一つの手だと考えた。

 ある日、ハリウッドにあるフランシス・フォード・コッポラの映画会社「ゾエトロープ」の狭苦しいオフィスにボーンズ・ハウとこもっていたウェイツは、脚本編集アシスタントのキャスリーン・ブレナンという年下の女性と出会い、夢中になる。ふたりは間もなく親しくなり、八カ月後に結婚した。

(略)

『メロディー・メーカー』誌 一九七九年

(略)

アン・チャーターズが書いたケルアック伝は、ケルアック神話をぶち壊していませんか?ビート文学の王様が母親の家に入り浸りだったなんて、がっかりでは?

 「いいや、おれは、むしろ意外な面を見たいんだ」と、ウェイツ。「ケルアックは完全無欠のヒーローじゃない。いろんなものを見て、いろんな場所に行った。ニール・キャサディほど狂っちゃいないし、衝撃的でもなかった。ニールが死んだことをケルアックは認めなかった。『ニールは帰って来る――ここに帰って来る』と言い続けた。

(略)

[ケルアックが死んだ]セントピーターズバーグにはおれも行ったよ。ライブをやって、ケルアックを偲んだ」

《ハートアタック・アンド・ヴァイン》、結婚

 ウェイツにとって、妻のキャスリーン・ブレナンはアイディアの宝庫だった。熱烈な音楽マニアであるブレナンは、彼女と出会わなかったら知ることもなかったであろう音楽をウェイツに教え、その影響はアルバムにも、依頼された映画音楽にもはっきりと表れている。

 またフランシス・フォード・コッポラ監督とのコラボレーションは、自己変革のチャンスという意味でかけがえのない経験となった。映画音楽を手掛けたことでウェイツはソングライティングに自制心を働かせるコツを学び、そのストイックな姿勢のままにニコチンと強い酒への依存を断った。フィットネスジムに入会したのもこの頃の話だ。

(略)

プロモーション用インタビュー 一九八〇年

(略)

――(略)声の調子が良さそうです。

 レコーディング中に煙草をやめた。そのお陰かもしれない。健康のレベルを引き上げようと思うんだ。アルバムのためにはそれくらいしてやらないと。少しばかり、自分を浄化したかった。

(略)

――(略)去年、あるインタビューで、「音楽的な岐路に立たされている」と発言しましたよね。もう少し詳しく説明してもらえる?

 ソングライターの季節も移り変わる。今のおれは、曲を速く書くコツを学んでるところだ。昔は何カ月もうじうじ悩み抜いて書いたもんだが、《ハートアタック・アンド・ヴァイン》の曲はもっと自然にできた。(略)

何ていうか、音楽的な視野が狭かったんだな。今回はもう少し冒険したかった。ある程度は成功したと思うよ。すべては今も続く変化のプロセスの一環だ。

(略)

――(略)今回はプロデューサーにジャック・ニッチェの起用も検討したそうですね。

 ああ、プロデューサーを変えることは考えた。(略)だがボーンズとはツーカーの仲だし、個人的な付き合いもある。信頼できて、おれのことをよくわかっていて、よくわかっているがゆえにズルを許さないやつと組むのが、レコーディングでは何より大事なんだ。ボーンズとのそんな信頼関係を揺るがす気にはなれなかった。だが一方で、すべてを根底から変えたい気持ちもあった。そんなふうに悩んでいるうちに、おれは悟った。変化ってのはおれのなかで、音楽的成長と共に起きなきゃいけないんだとね。今回は危ないこともやってみたかったから、やっぱりボーンズが一緒だと心強かった。

《ワン・フロム・ザ・ハート》、コッポラ

《ワン・フロム・ザ・ハート》は、ボーンズ・ハウがプロデューサーを務める最後のウェイツ作品となった。ハウによればコンビの解消は友好的で(略)

トムが打ち明けるには、ある晩、曲を書いていて『これができたら、ボーンズは気に入ってくれるだろうか』と自問したんだという。だから、僕は言った。おれたち、老夫婦みたいになりかけてるんだ。アーティストの創造性を阻む存在にはなりたくない。そろそろ他のプロデューサーを探してくれってね。握手を交わして、僕らは別れた。トムとの仕事は最高に楽しかった」

(略)

マネジャーのハーブ・コーエンとも、ウェイツは縁を切った。しかしこの件についてはメロディー・メーカー誌で、不快感もあらわに「マネジャーをクビにした」と語っている。「これまで組んできたがりがり亡者や害虫どもはまとめてお払い箱にした。今後ビジネスは、妻とふたりでやっていく」

(略)

『シティ・リミッツ』誌 一九八三年

(略)

「映画音楽の仕事はどうだったって?しんどかったの一言に尽きるよ(略)ああいう状況に身を置いたのは初めてだった。サウンドトラックの作り方には細かい制約があって、おれはそういうのに慣れてない。それに今回は自分だけでなく他人のお眼鏡にかなわなきゃならない。だから最初は手こずった」

 そもそもなぜサウンドトラックを引き受けることに?「夜中に電話で、フランシスに呼び出されたんだ。教皇に拝謁を賜る気分だった。映画監督ってのは翼の生えた魔王みたいなもんだと思ってたし……」

(略)

「面白そうな企画だし、おれには初めての体験だった。カネは二の次さ。おれはカネで仕事を選ばない。昔からそうなんだ」。(略)必要な場面に使えるようにと一二曲ほどの楽曲を用意した。「それをミュージカルの前奏曲みたいにつなげた。フランシスに頼まれたのは、コップの中の水のように足したり減らしたりできる音楽だった。スタジオに入って、ストーリーに当てはめる音楽を録り、メロディーを練り直した。音楽を入れる箇所は全編で一七五もあった。楽な仕事じゃなかった」

(略)

「フランシスはおれのアイディアを歓迎してくれた。(略)

あるスクラップ場のシーンで、おれはハンクにオイルゲージで指揮をさせたらどうだろうって提案したんだ。するとフランシスはその案を採用してくれた。他にもいくつかアイディアを出したよ。

 フランシスが名監督だってことは、あんたも知ってるだろ?彼は頭で想像したものをそのまま映像にしてしまう。悪魔みたいだ。こういうのはどうかなと、おれが提案したとする。フランシスはいいねと答えるやいなや、どうしたら映像化できるか模索する。いや、フランシス、ちょっと思いつきで言っただけだから真に受けないでくれよとこっちは恐縮する。次の日現場に行くと、フランシスは装置から何から準備万端整えて、撮影に取りかかってるんだ」

 ウェイツはコッポラを絶賛する。「フランシスは天使だ。ビジョンのある男だ。(略)そんじょそこらの大物とは違う。本気で映画を愛してる。社会的良心があだになって、トラブルに巻き込まれることも多い。気骨があるなあ、と尊敬するよ。フランシスは映画のことを、映画の未来を本気で心配してるんだ」

 ウェイツが映画に関わるのは、今回が初めてではない。数年前には自分で『夢はなぜ経験よりもずっと甘美なのか』なる脚本を書いて売り込んだ。舞台はロスのダウンタウンで、主人公は中古車ディーラー。(略)

晦日の物語だというあたりも、妙に――独立記念日が舞台の――『ワン・フロム・ザ・ハート』を彷彿とさせる。

(略)

 「ニコラス・ローグ監督に『ジェラシー』のテーマソングを依頼されたんだが、おれには時間がなかった。そこでローグは既成の曲を使った」。ローグが選んだのは《スモール・チェンジ》収録の〈ブルースへようこそ〉。流れ者による安食堂のウェイトレス賛歌は(略)ローグの気取った心理劇にはちっとも合っていなかった。『ジェラシー』を見た感想は?「うーん。上半身裸のアート・ガーファンクルを見たいやつはいないだろうよ」

 シルヴェスター・スタローンの『パラダイス・アレイ』には、ホーギー・カーマイケル風のピアノ弾き役で顔を出した。スコアもテーマソングも書かなかったが(略)ウェイツの曲はサウンドトラックに収録された。(略)

三週間も撮影した割に出演シーンが少ないですねと指摘すると、ウェイツはうなずいた。「もっと撮ったのに、カットされたんだ。結局、映画はテレビで妻と見た(略)

。わくわくしながら(略)ハニー見てくれ、おれが映るよってね。だがほんの一瞬で、おい、おれはどこだ、どこに消えた?って感じだった」

ソードフィッシュトロンボーン》、妻の影響

(略)

 七九年末、エレクトラ/アサイラムに幻滅したウェイツはあわただしく契約を解消すると、アイランド・レコードに移籍した。この決断が呼び水となり、画期的なアルバムが生まれることとなる。(略)風変わりな楽器使い(と、いっそう迫力の増したダミ声)で新たなトレードマークとなるサウンドを作っていった。

 そんな進化に不可欠だったのが、妻キャスリーン・ブレナンの存在だ。ウェイツはブレナンを対等なパートナーと見なし、共作者としてアルバムにクレジットした。ウェイツがキャバレー音楽やタンゴに開眼し、ヨーロッパのマイナーな民俗音楽と出会った陰には、オルタナティブな音楽に詳しい妻の影響がある。

(略)

ウェイツはハモンドオルガンにピアノというお決まりの楽器を卒業し、ハーモニウムやベルやシンセサイザーに挑戦した。

(略)

『フェイス』誌 一九八三年

(略)

ロスの左端はメキシコ系移民を閉じ込めておくエリアだ。(略)

 界隈に住む白人は、トム・ウェイツとその妻だけ。

(略)

 ウェイツは想像していたよりも若い。実際、まだ三〇歳を少し過ぎたばかりなのだ。実年齢より老けて見えるように演出してきたのだろう。ウェイツは自分のイメージにうるさい男だ。

(略)

 「この業界に一〇年以上いれば、誰だってカネがどろんと消えた怪談話が一つや二つできるさ」。

(略)

「彼は新しいものを生み出す人、常に未来を見ているんだ」と高く評価するコッポラとは親しい仲で、今後も組むつもりだという。オクラホマで撮影中の青春映画『ランブルフィッシュ』にも、小さな役で出演が決まった。

(略)

 車の中でウェイツと私は、一度聞いたら忘れられない『タクシードライバー』のテーマを口笛で吹いた。(略)ウェイツは次第に心のガードを緩めた。(略)

 「数年前にサンディエゴで死んだハリー・パーチのすごさが、最近やっとわかった。パーチは自分が使う楽器を自分で作ったんだ。彼のアンサンブルはハリー・パーチ・アンサンブルの名前で今も続いているよ。(略)」

 尊敬するミュージシャンを尋ねたときの答えが、これ。一方、奥さんとのなれそめを尋ねたときは、にこりともせずこう答えた。「サン・カセードラってシケた町のシケた葬式で出会った。彼女はサーカス・バルガスの綱渡り芸人で、傘を一緒に使うことになった。話せば長い話だ。故人は七〇代だった。鶏の骨を喉に詰まらせて死んだのさ」

 プライベートに関する質問は、大抵拒否されるかあくびを返された。だが高校教師の父の転勤であちこちを転々とし、ロサンゼルスで生徒の大多数が黒人の中学に通い、ジェームス・ブラウンウィルソン・ピケットテンプテーションズの音楽に目覚めたことは、事実として書いても差し支えないだろう。一五歳でウェイツは学校の友達とソウルバンド、ザ・システムズを組み、後にはポルカバンドでアコーディオンを弾いた。そして多民族国家アメリカならではのさまざまな民族音楽とジャズに対する興味を深めていくうちに、ごった煮的でエキセントリックなシンガーソングライター、トム・ウェイツができ上がった。

(略)

ソングライターとしてもパフォーマーとしても、一流であることは間違いない。ブルース・スプリングスティーン漬けの大衆にアピールしようと腹をくくれば、名声も喝采も莫大な財産も転がり込むはずだ。だがそう水を向けると(略)ウェイツは辛辣な口調で答えた。

 「大衆の好みを勝手にこうだと決めつけ、初めて己を曲げた挙げ句にコケるほど、みっともないことはない。そんな真似をするつもりはないね」

(略)

「他人の言うなりになって成功するより、自分らしく失敗したい。まあ、口で言うほど簡単なことじゃないんだが。大切なのはファンの数よりファンにどんな影響を及ぼすかだと、おれはずっと信じてきた」

(略)

「自分の縄張りを確立したアーティストにとって大事なのは、そこから踏み出そうと挑戦し続けること。だから今回は今までよりもエキゾチックな音を盛り込んだ。東洋のキャバレーのイメージだ」

(略)

『NME』誌 一九八三年

(略)

――頭に刻み込まれている一番古い記憶を教えて下さい。

 かなり幼い時分、夜中に目が覚め、廊下の端にある部屋の前に立っていたのを覚えている。汽車が通り過ぎるのを待っていたんだ。汽車が通り過ぎてからでないと、廊下を走って両親の寝室に行けなかった。

(略)

――子供の頃はどんな音楽を聞いてました?

 記憶にある一番古い音楽はマリアッチやランチェラやロマンチカ――メキシコの音楽だ。親父がよく車のラジオでかけてたんだ。ジルバとかそういうのは、親父は聞かなかった。

 

 

夢はなぜ経験よりもずっと甘美なのか

トム・ウェイツには誰も追いつけない」より

『メロディー・メーカー』誌一九八三年(略)

 数年前、トムのツアーに同行したとき(略)トムは『夢はなぜ経験よりもずっと甘美なのか』という脚本を書いていて、映画化を大いに期待していた。(略)

「結局お蔵入りさ。ふん!だがコッポラにあらすじを話したら、一部を『ワン・フロム・ザ・ハート』に使ってくれた。男が車を指揮するシーンと、女がスクラップ場で綱渡りをするシーンだ。

(略)

インタビュアー不明 一九八三年

(略)

 ソングライターが讃えられ、貴重な存在だと考えられた時代もあった。歌を作るのは貴重で大事なことだ。肝心なのはアプローチの仕方。どこでアイディアを仕入れ、どうやってそれを自分のものにするかが鍵なんだと思う。おれはフォークミュージック・シーンの中心にはいなかった。なんとなく、い損ねた。おれはいつでもシーンの外側にいた。居場所のないはぐれ者だったからこそ、歌を作り始めたんだ。他人に「いやいや、あんたの居場所はここだ」なんて決めつけられたくない。居場所がなかったからこそ、自分の音楽を作り始めたんだから。一九三九年だろうが一九七九年だろうが、創作のプロセスは変わらないよ。まったく同じだ。

(略)

一時期(略)マリアンヌ・フェイスフルとのコラボレーションを考えた。フェイスフルは自伝で当時のことをこう振り返っている。「(略)トムは意欲を見せてくれたけれど、結婚したり、子供ができたり、アルバムを作ったりと自分のことで忙しかった」

(略)

ダウン・バイ・ロー』(略)撮影中の逸話をジャームッシュが明かしている。「ロケ地のそばには看護学生がたくさん住んでいた。おかしな感じさ。撮影中に誕生日が来たトム・ウェイツは両手にシャンパンのボトルを握り、それを交互にラッパ飲みしながら、看護師の卵の部屋のドアをたたいて回った。『パーティーだ!盛り上がっていこうぜ!おい、入れてくれよ』とね。看護学生たちは防犯チェーンをつけたまま細めにドアを開け、トムを一目見るなりぴしゃりと閉めた」

 一方、契約がまだ残っていたエレクトラ・レコードはウェイツがにわかに脚光を浴びたことにつけ込み、ベスト盤の《アンソロジー・オブ・トム・ウェイツ》と《アサイラム・イヤーズ》をリリースした。この二枚には完璧主義のウェイツが却下したデモやアウトテイクも収められており、彼はプロモーションに一切関わらなかった。

 

フランクス・ワイルド・イヤーズ

フランクス・ワイルド・イヤーズ

  • アーティスト:トム・ウェイツ
  • マーキュリー・ミュージックエンタテインメント
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《フランクス・ワイルド・イヤーズ》

『ミュージック&サウンド・アウトプット』誌 一九八七年

(略)

「(略)『ダウン・バイ・ロー』の撮影のとき、ジョン・ルーリーがでっかい排水管を湿地から拾い上げて、それを吹き始めたんだ。そうしたらディジリドゥのような音がした。分別くさい大人じゃなく、子供のようなアプローチができさえすれば、窓は開いて世界がよく見える」

(略)

トム・ウェイツは三七年前にカリフォルニアのポモナで生まれた。母ちゃんは小学校の教師、父ちゃんはベルモント・ハイスクールでスペイン語を教えていた。(略)食卓ではスペイン語が話され、ウェイツー家のラジオからはメキシコ音楽が流れていた。(略)

「一族には教師がうようよしている」とウェイツはこぼす。「教師と牧師ばかりだ。おれは窓をぶち破りたかった。葉巻を吸って、遅くまで起きて。わかるだろ。おれの理想はピノキオの世界だった。プレジャー・アイランドに行って、ビリヤードを好き放題突いていたガキ。おれがなりたかったのはそれだ。(略)」

(略)

「レストランで働くのが一番楽しかったよ」と彼は真顔で語る。「エプロンをして、裏で腰を下ろして、皿を洗って、あれこれ気を配り、ちゃんと役目を果たして。一人前になれたと思ったね」そのうちそうした経験は、ごろつきや遊び人たちという彼の登場人物となって、レコーディング・スタジオや舞台へとつながって行った。

(略)

[4曲でメガホンを使っている]

「(略)ぶっ壊れたマイクを使ったり、ブリキの缶に歌いかけたり、マイクに向かって両手をメガホンみたいにして歌ったり(略)

いろいろやった末にメガホンというのが答えとして出てきたわけだ」

 ウェイツによると、後になって、機械的に音を操作するよりも、リアルタイムでサウンドを変化させられれば、その場でエフェクトに反応して自分の声を調節できて良いのだそうだ。「イコライザーとかそういうので気に入ったサウンドを探すより、自分自身がサウンドを作っているという感じがしていいんだ。その方が自分で自分の場所、小さな世界をコントロールできている感じがして気分がいい」

 「昔はただ曲だけ作ってたけど、それはもういいって感じだ。前はスタジオを怖がっていた。でも、もし怖がりさえしなければ、やれることはたくさんある。スタジオは実験室なんだ。何でも持ち込んでいいけど、自分が何をしたいかだけはわかってないといけない。たくさんの素晴らしい人たちが助けてくれた。数カ月前に亡くなったばかりのビクター・フェルドマンというパーカッショニストに、楽器のことでとても世話になった。おれはもうスタンダードな楽器というのには飽き飽きしていて、何か新しいことを試したいと思ってた。バリの楽器とかそういうのだ。ブーバンとかアンクルンとか、アフリカの太鼓とか。で、彼はとても助けになった」

 「おれはできるだけ、自分がやりたいことができるように、オープンな環境を作っておきたいんだ。それが一三人のベーシストの場合だってあり得るし、野外での録音ということもあるし、バスルームで録音っていうこともある。あらゆるやり方があるってわけさ。スタジオにいるっていうことは、ノイズから音楽を作り出すみたいなことだ。自分が何をしたいのかを完璧に知ってないといけないし、それが実現するまで満足しちゃあいけないということを学ばなければならなかった。旅みたいなものなんだ。廃品回収業をやっているようなものさ」

次回に続く。

トム・ウェイツが語るトム・ウェイツ

《クロージング・タイム》1973

『フォーク・シーン』KPFK局

一九七三年九月二一日 ハワード・ラーマン

(略)

 ――どんなアーティストを聴く?

 うちにはFMがないから、ラジオはもっぱらAMだ。レイ・チャールズはよく聴くよ。レイ・チャールズの古いレコードをたくさん持ってるんだ。それからダイアナ・ロス。大好きなんだ。ビリー・ホリデイの古いレコードも何枚かある。モーズ・アリソンモーズ・アリソンは本当にいい。デール・エヴァンス、マイルス・デイヴィス。何でも少しずつかじってる。自分の曲のなかで、いろんな音楽を融合したいんだ。それにはいろいろ聴かないと。曲を作るのはピアノの方が楽だね。ギターじゃ決して見つからないことが、ピアノではたくさん見つかる。だから曲作りに関しては、ピアノの方が助かる。前はギターを弾いていたんだけどね。

(略)

子供の頃から音楽には興味があった。だが自分で曲を作ろうと思い立ったのは、六八年か六九年。それまではただ、いろんな音楽を聴いていた。小学校から高校までは学校のオーケストラでトランペットを吹き、クラシックのピアノを弾く友達が何人かいたから、見よう見真似で少しずつピアノを覚えた。ギターも覚えて、ヘリテージに拾ってもらった。

(略)

おれの通ったオファレル中学は、生徒のほとんどが黒人だったんだ。それで、七年生のときにバルボア公園でジェームス・ブラウンのライブを見て、ノックアウトされた。こてんぱんにやられた。だからブラックミュージックもずっとチェックしてきたし、できるだけ多様な音楽を聴くようにしてる。

(略)

 (〈土曜日の夜〉を弾きながら)これは新曲。早く生でやってみたい。土曜の夜にハリウッド大通りを車で飛ばす感じを歌った曲なんだ。ある土曜の昼下がり(略)ボブ・ウェッブとふたりで土曜の夜のど真ん中[ハート]を探すってのはどんなことなんだろうと言い合ううちに、歌詞が生まれた。その時点ではまだ曲の方は考えていなかった。おれもボブもジャック・ケルアックの熱烈なファンだから、これはケルアック・ファンに捧げる曲とも言えるだろうな。

(略)

 (〈土曜日の夜〉を弾いて)これは五分でできた。おれにとって曲作りの難しさは、なんといっても最初のアイディアを見つけること。アイディアを視覚化できれば、歌詞はすぐに書ける。ちょちょいのちょいだ。だがそのアイディアを思いつくのが難しい。よし次はラブソングだから歌詞は取りあえず「君を愛してる……」でいいや、なんて安易な発想ではなく、素材を見つけて磨き上げる。そいつが難しい。

 〈セミ・スウィート〉も楽にできた。なぜなのかよくわからないが、苦労した曲ほどできが良くないんだ。「愛[ラブ]」にしようか「鳩[ダブ]」にしようか「上[アバブ]」にしようかと悩んだ曲、苦心の作は、聞けばその苦労がばれちまう。

(略)

『サンディエゴ・リーダー』紙 一九七四年一月一三日

(略)

生まれて初めて買ったシングルは、ジェームス・ブラウンレイ・チャールズ。初めて買ったLPはJBの《パパのニュー・バッグ》。オファレル中学時代はJBがアイドルだった。

(略)

 ――二回目のツアーはフランク・ザッパと一緒だったね?

 三週間ほど一緒に回った。(略)会場は主に大学のキャンパス(略)前座として三〇分ほど演奏するんだ。フランクには恐れ入ったよ。あの人も不思議なことに、おれの音楽を気に入ってくれた。

ケルアック、ブコウスキー

『フォーク・シーン』KPFK局

一九七四年七月二三日 ハワード・ラーマン

(略)

 (〈霧の夜に〉を弾き始める)これは映画のサウンドトラック。映画ができてから、かなり後になって作られたサウンドトラックだ。映画が封切られたのは一九四七年あたりで、おれが音楽をつけたのは二週間前。深夜放送で見かける類の三角関係モノで、ある霧の夜の出来事を描いてる。ジョージ・ラフトとフレッド・マクマレイとロザリンド・ラッセルが出ているような映画。一人の女とふたりの男の関係は、誰かが退場しないことには永遠に堂々めぐりだ。今回消えるのはマクマレイ。霧深い道を、ラフトがマクマレイの古いプリマスを転がしていく。トランクのなかにはマクマレイの死体。トランクから上着の襟がはみ出しているのが映ったところで、ラジオからこの曲が流れるのさ。

(略)

 (〈土曜日の夜〉を弾き始める)これはギターとベースだけで録音した。それとカフエンガ通りにマイクを持って行き、二〇分ほどラッシュアワーの音を録音してオープニングに使った。お陰で雰囲気がキマった。

 ――今でも《クロージング・タイム》は手に入るのかな?

 どうだろ。最近はどこのレコード店でも見かけない。廃盤なんじゃないか。赤字にはならなかったし、ちょっとは評価もされ、そこそこ売れたが、廃盤になったんじゃないかと思う。探しても見つからないって、友達も言ってた。次のアルバムが出たら、また売ってもらえるかもしれない。様子見だな。

(略)

 ――語りを入れるようになったきっかけは?

 うーん。《ジャック・ケルアック/スティーヴ・アレン》っていうアルバムを聴いて、語りに初めて感動したんだ。スティーヴ・アレンのピアノにケルアックがしゃべりを被せたのが、とてもリアルで印象的だった。あんなのは聞いたことがなかった。それで自分でも書いてみた。

 ――語りは五〇年代に流行ったね。

 ああ、ロード・バックリー(略)とかもやってたな。語りはソングライターを解放してくれる。リズムを外すんじゃないかとかそういう心配なしに、音楽に彩りを加えることができる。語りを書くのは楽しい。最近のおれは、普通の歌よりこっちに力が入ってるみたいだね。

 ――ケルアックを愛読してるんだよね?

 彼の書いたものはすべて読んだ。ケルアックが書いた雑誌記事まで見つけ出して読んだ。それがローグとかCADとか、際どい雑誌でさ。ケルアックはそういうエロ雑誌にも寄稿したし、その手の雑誌には彼に関する記事もたくさんあるんだ。とにかくケルアックが書いたものは片っ端から読んでるよ。

 ――ケルアックの他に好きな作家はいる?

 もちろん。チャールズ・ブコウスキーはおそらく今の文学界で、詩も散文も小説もすべて引っくるめたなかで断トツに個性的で重要な書き手の一人だろう。ブコウスキーは時代の最先端を突っ走ってる。圧倒されるよ。

(略)

 ――(略)曲作りは技術?それとも自然に生まれるものなのかい?

 技術以外の何ものでもない。ソングライターをふたり、腕がいいのと悪いのを並べてみればいい。曲作りが技術だってことも、技術の優劣もすぐにわかる。

 ――自然に湧いてくると言うソングライターをたくさん知ってるけど?

 嘘だ。(略)何かに心を動かされて書くことはあるが、突然体がぶるぶる震えて言葉が湧き出すなんてことはない。そんなのは、おれに言わせりゃ嘘八百イカサマだ。

 曲はコンセプトっていうか、アイディアを温めるところから生まれる。本を読み、耳を澄まし、ラジオを聴き、歌番組に耳を傾け、このKPFK局も聴く。そうやっているうちに、たぶん腕が磨かれる。

(略)

ランディ・ニューマンは職人だ。曲を作り、作った曲であんなにも聴き手の胸を揺さぶる。それはランディが汗水垂らし苦心して曲を作っているからだ。

(略)

 ――ランディ・ニューマン以外にはどんなアーティストを聴くのかい?

 モーズ・アリソンも好きだ。彼は無駄のないソングライターだ。腹が立つくらいスタイルができ上がっていて、とことん好きにならずにはいられない。聴いてると、体じゅうに蜂蜜を垂らされたみたいにうっとりする。モーズ・アリソンは心から尊敬してるよ。

 

 

 《土曜日の夜》1974

作詞作曲のクレジットはすべてトム・ウェイツで、ボーンズ・ハウはエンジニア、プロデューサー、サウンドマンとしてクレジットされた。ふたりの相性は上々だった。ジャズの表現方法を取り入れたい若き吟遊詩人にとって、ジャズ畑出身のハウは尊敬できる相手だった。ハウは出会いをこう振り返る。「君の音楽と歌詞はケルアックを感じさせるね、とトムに言ったんだ。私がケルアックを知っていると知って、トムは大喜びした。私がジャズドラムを叩くのを知ると、さらに興奮した。そこで私はノーマン・グランツ(略)の下で働いていたときの話をした。あるときノーマンがケルアックの録音テープを見つけたんだ。ケルアックがホテルの部屋で、ビート時代の自作の詩を吹き込んだテープをね。そのコピーを作ってあげるよと、私はトムに言った。私たちの仲はこれでうまくいくと決まったも同然だった」

 ベースのジム・ヒューアートは二〇〇〇年、ベーシックス誌でこんな思い出話を披露している。

 「(略)さて、これから話すのはおそらく私がトムに抱いた唯一の不満だ。スタジオに入ると、トムはポケットから紙切れをごそごそ出して『それじゃ、こんな感じてやってくれ』と言い、指でテンポを取る。そして私のベースラインに合わせて、紙に書いた言葉を歌う――というより唸る。それが、メロディーになっていくんだ。完成したレコードに『作詞作曲トム・ウェイツ』とあるのを見て、文句の一つも言いたくなった。作曲に、私をクレジットしてくれてもいいじゃないか。どのみちトムの曲をカバーするやつはいないんだ。いたとしても、ごく少数だ。だから少しくらい印税を分けてくれたって罰は当たらない。とはいっても、トムと働くのは楽しかった。一分一秒が楽しかった」

(略)

《土曜日の夜》プレスリリース

一九七四年一〇月 トム・ウェイツ

 

 小糠雨がぼんやりと窓ガラスを伝い、酔ったネオンライトが夜気をかき回し、キューボールの月が黒曜石の空を一人ころころと横切り、人気の多い大通りの角ではバスがうめいたり喘いだり(略)

ノームのパンケーキ屋でおれが仏頂面で六九セントの今週の定食を食いながら、この都会のはらわたのなかで羽を伸ばそうとしている。

(略)

土曜の夜の中心を探し求める旅のさまざまな側面の包括的研究になったと自負する二枚目のアルバムを、この度晴れてお披露目する運びとなった。(略)

音楽的に影響を受けたのはモーズ・アリソンセロニアス・モンクランディ・ニューマンジョージ・ガーシュウィンアーヴィング・バーリンレイ・チャールズ、スティーヴン・フォスター、フランク・シナトラ……

 贔屓の作家はジャック・ケルアックチャールズ・ブコウスキー、マイケル・C・フォード、ロバート・ウェッブグレゴリー・コーソ、ローレンス・ファーリンゲッティ、ラリー・マクマートリー、ハーパー・リーサム・ジョーンズユージン・オニール、ジョン・レチーなど。

(略)

ピアノの腕は大したことないが、メロディーのセンスは悪くない。創作の場はコーヒーショップと酒場と駐車場で、お気に入りのアルバムはハノーバー・レコードから出た《ケルアック/アレン》。

(略)

 《クロージング・タイム》に《土曜日の夜》と二枚の卒業証書を手にしたからには、音楽を続けていける程度にはクラブの仕事が入るはずだと信じている。

(略)

 あなたとおいらの友

 トム・ウェイツ

(略)

『フォーク・シーン』KPFK局

一九七五年一月一二日 ハワード・ラーマン

(略)

あの[五四年型]キャデラックは、おれが生まれて初めて店で買った車だ。どうして今まで店で買わなかったのかと言うと、カーディーラーはみんなペテン師、こてこてのイカサマ野郎だからだ。ともかくおれは(略)

黒い五四年型キャデラックに惚れちまった。でかいリムジンモデルで、誓ってもいいが、ミシンみたいにすーっとなめらかに走るんだ。今まで古いオールズモビルやシボレーに乗ってきたが、あいつらときたら一つ角を曲がって最初の交差点に行っただけで、ゲホゲホしやがる。おれはそのとんでもなくイカしたキャデラックを四百ドルで買い、さっそくアリゾナのノガレスまで転がしていった。いやあ、走るのなんの。あの車は鼻歌交じりで走ってくれる。とびきり音楽的なトランスミッションがついているのさ。

 ――前に話していたサンダーバードはどうなった?

(略)

実は雨の日にバーモントで事故ったんだ。四台の玉突き事故。事故を起こしたのは初めてで、あれはおれが悪かった。時速四〇キロくらいで走ってたときに、街灯が点いてさ。(略)街灯の明かりと雨で道路が虹色にぼやけて見えるせいで、おれには車が普通に流れているように見えた。そこへラジオから〈パパのニュー・バッグ〉が流れてきたもんで、すっかり頭がお留守になっちまった。

(略)

そんなわけでおれのサンダーバードは現在、運転休止中。(略)

今はキャデラックに乗ってて、こいつが素晴らしい。運転するとハイドロマティック・ダイナフロー・トランスミッションが歌い出すんだ……ラララララ〜ってな。

(略)

『ロサンゼルス・フリープレス』紙

一九七五年一月一七日 マーコ・バーラ

(略)

 デュークス・コーヒーショップのカウンターの隅で、トム・ウェイツはスツールに腰かけ、肩をだらりと落としている。新聞紙が散らばった床、調理器具や灰皿や冊子やらで散らかったカウンター。(略)

帽子とチョッキと皺だらけのシャツを身につけ、用心深そうな目は少々疲れてしょぼついている。(略)

「おれはこの町が大好きだ。ロスを愛してる。だが今はちょいと視界がぼやけてるんだ。車がないせいで」

「車を物色してるんだが、まともなのを買わなきゃってプレッシャーに押しつぶされそうでさ。『あんたアホか?百ドルで買い、修理やメンテに三千五百ドルつぎ込んだ車で事故って散々な目に遭い、売るときゃたったの一二ドル?いいかげん生き方を変えたらどうだい?』とみんなに呆れられてるんだ」

(略)

 ベンツかポルシェはどうですか(略)と私は勧める。  

 「ベンツねえ。おれも自分のイメージは大事にしないとな。だがおれが探してるのは、もっと独創的な車なんだ昔のプリマスみたいなやつ。いい身体をした車、プリマスバットモービルみたいのがいい」

 (略)

 「運転は楽しいね(略)車を転がしてると歌が湧いてくる。

(略)

最高の師は経験らしく、創作のヒントは「サンディエゴにあるナポレオーネのピザ屋で朝の三時までピザと格闘した」時期から得ていると、彼は言う。

(略)

文学は身近にあり、自然と興味を持った。ピザ屋からライブハウスへの転身を後押ししたのも、ウェイツが「自然の成り行き」と表現する幅広い読書体験だ。

(略)

土台にあるのは軽妙でのんきなユーモア、酔っ払いがクダを巻いているような酒場のユーモアだ。ウェイツはとりとめのない、しかし気の利いた思い出話に際どいエピソードを交え、タイミングを狙い澄ましてオチを繰り出す。

 「おれはコメディアンが好きだ。パフォーマンスに関してもユーモアのセンスのある人間が好きだ。肩をすぼめて舞台に上がり、心の傷を吐露するようなやつは虫が好かないね。客はカネを払って見に来るんだから、その分楽しませなきゃ。教会の説教みたいなステージは嫌だね」

(略)

「いつか自動車の修理工場か中古車店を持ちたい。そうなりゃおれもいっぱしの大物さ」

(略)

 ウェイツは自分の歌詞から抜け出てきたような、正真正銘の夜型人間だった。小話を披露し、詩をまくしたて、歌いながら夜更けまで起きていた。午前四時にいったん帰ったトム・ディライルが、昼頃ふたたびスチュワート宅を訪ねると、なんとウェイツはまだ起きていたという。「太平洋から太陽が、マリブ・ロードにギラギラ照りつけていた。トムは眩しそうに目を細めて、こう言った。『暗くなるのを待ってるところさ。この明るいのはいつまで続くんだ?』」

 場数を踏むことで、ウェイツは話芸を形にしていった。メリハリのつけ方を計算し、軽快で洗練されたレパートリーに磨きをかけた。

(略)

友人フランシス・サムは、多様な音楽性を誇るハリー・パーチ・アンサンブルのメンバー。現代音楽家パーチの作品群に、ウェイツは深く影響され、刺激を受けていた。レナード・バーンスタインの下で指揮を学んだこともあるサムは(略)ウェイツとの思い出を語っている。

 

 自分では認めないが、トムは家庭で歌や楽器を楽しむという、古きよき音楽教育を受けたんだ。母親に教わった曲や教会で覚えた賛美歌もたくさんあった。出会った頃の僕とトムは、まさに家庭で音楽を楽しんでいた。声を合わせてガーシュウィンの曲を歌ったりしてね。ピアノの前に並んで腰を下ろしては、老人ホームの爺さんたちのように次から次へとガーシュウィンを歌った。トムはどんなジャンルの音楽も対等に扱う。彼のなかではクラシックと他のジャンルの間に垣根がないんだ。トムは音と音楽の奴隷で、彼の前で何か面白いものを演奏したら最後、食いついて離れない。それは子供っぽいようでいて、極めて洗練された姿勢だ。(略)

『都会のたわごと』

『メロディー・メーカー』誌

一九七五年六月二一日 ジェフ・バーガー

(略)

 トムが初めて仕事に就いたのは一九六五年のことだった。一五歳のときから四年間、カリフォルニア州ナショナルシティーのピザ店で調理をやり、皿を洗い、トイレを掃除した。(略)

「宝石店で働いたこともある。しばらく消防士をやり、アイスクリームの移動販売もやった。配達人もバーテンもナイトクラブのドアマンもやった。食うためには、何でもやった」

 仕事を転々としながら古いギブソンアコースティックギターで曲作りを始め、やがて音楽の道を考えるようになった。サンディエゴ界隈の小さなライブスポットに出演し、ロサンゼルスのトルバドールのフート・ナイトに参加した。

 トルバドールは毎週月曜日の晩、ステージをアマチュアに開放していた。トムは片道約二四〇キロの道のりをサンディエゴからバスに揺られてロスに行き、数時間、列に並んで待った後、呼ばれてステージに上がった。数曲歌い終わる頃には、表ではすでに太陽が昇り始め、バスで帰る時間だった。

 七二年のある晩、フランク・ザッパやティム・バックリィのマネジャーを務めるハーブ・コーエンが、トルバドールでトムの歌を聴いた。感心したコーエンはトムを顧客名簿に載せ、アサイラム・レコードとの契約を取り付けた。

(略)

今もトムが歌うのは、もっぱらナポレオーネのピザ屋で夜更けまで働き、仕事を転々としながら貧しさに耐えた頃の暮らしだ。

(略)

時には一曲も歌わないことさえある。

 「最近はスポークン・ワードをやることが多い」二杯目のビールを飲みながら、トムは説明する。「おれはソングライターってことになってるから、そっちの方もやらなきゃならない。だが自分の歌は聞き飽きたし、しゃべる方が楽しいんだ。尊敬する大勢の詩人を思うとおこがましいから、こいつを詩とは呼ばないが、伝統的な話芸の一つであるのは確かだ。おれは『都会のたわごと』って呼んでるよ」

 ここでポケットから紙を引っ張り出して「〈イージー・ストリート〉だ。聞いてくれ」と言い、紙をテーブルに放り出すと暗唱を始めた。

 終わると煙草に火をつけ、満足そうに椅子の背にもたれる。フォーマイカのテーブルには空のジョッキ、吸い殻で一杯の灰皿と、詩を書きつけた紙が数枚。テーブルをサッと見渡し、そろそろ時間だとトムは言った。

 きっとこれから貨物列車に飛び乗り、終夜営業のジャズクラブでギンズバーグと朝まで詩を読むか、ケルアックと飲んだくれるのだろう……だが実際にはトムは貨物列車に乗ったことはないし、ギンズバーグに会ったこともない。そして言うまでもなくケルアックは死んだ。

 トムの世界は彼が実際に暮らしている場所ではなく、本で読み、頭に描き、歌や詩で表現する世界。仲間は彼を取り囲むパプリシストでもライターでもクラブの出演交渉係や経営者でもなく、心象風景のなかにいるケルアックやギンズバーグレニー・ブルースだ。

 席を立つ前に、トムはジャズ評論家ナット・ヘントフの記事について語った。

(略)

「ある日、マイルス・デイヴィスに町でばったり会ったんだそうだ。昔は気の置けない仲だったが、ここ数年はすっかりご無沙汰だ。マイルスは自分に会ってどんな顔をするだろう。ヘントフはちょっと不安だった。だが結局、ふたりは抱き合い、マイルスはヘントフに向かってこう言う。『おれたちは別の時代の人間なんだよ、ナット。だから昔の友達が必要なんだ』」

 トムはブース席を出てコートを羽織り、考え込んだ様子で宙を見上げた。「昔の友達が必要だ、か。いい話じゃないか」

 

《娼婦たちの晩餐》1975

『ロサンゼルス・フリープレス』紙

一九七五年一〇月一七~二三日 トッド・エヴェレット

(略)

「誰しも人生のどこかの時点で、ケルアックは読むもんだろ。おれは南カリフォルニア育ちだが、それでも途方もない影響を受けた。黒いサングラスをかけ、ダウンビート誌の定期購読を始め……たんだが、ちょっとばかし出遅れた。ケルアックは年を取って偏屈になり、六九年にフロリダのセントピーターズバーグで死んだ」

 「とにかくビートニクのスタイルに好奇心を刺激された。それでグレゴリー・コーソローレンス・ファーリンゲティを読み……ギンズバーグは今でもときどき書いてるね」

 インスピレーションの源泉はさらに多様化した。コメディアンのロード・バックリー。ジャズの即興演奏とモノローグを融合したユニークなアルバム《ワード・ジャズ》で知られるケン・ノーディン。レイ・チャールズモーズ・アリソン。そしてジェームス・ブラウン

 「五七年にハノーバー・レコードから発売された、素晴らしいアルバムがあるんだ。《ケルアック/アレン》っていう。スティーヴ・アレンのピアノをバックにケルアックが語る。あのアルバムこそがビート文化なんじゃないかと思うよ。おれがスポークン・ワードをやってみようと思い立ったのも、あれの影響なんだ」

 ナイトクラブのステージに立つ数多のアーティストのなかでウェイツを際立たせるのは、何よりもこのスポークン・ワードだ。

(略)

 「詩[ポエトリー]ってのは危険な言葉だ(略)ひどく誤用されている。"詩"と聞いて大抵の人が思い浮かべるのは、学校で机に縛り付けられ、〈ギリシャの壺に寄す〉[英国ロマン派の詩人キーツの作品]かなんかを暗記させられたことだろ。おれだって、誰かに詩を読んでやるって言われたら、他にやりたいことを十も二十も思いつくさ。"詩人"って言葉にこびりついた汚れが、おれは気に入らないんだ。だから自分のやっていることは「即興の冒険」だとか「酔いどれ紀行」と呼ぶことにしてる。そうすると俄然、まったく新しい形と意味が生まれるからね」

 「縛られて、『肩書きを選べ、さもないと殺すぞ』と脅されたら、おれは『ストーリーテラー』を選ぶ。詩や詩人の定義は人それぞれ。おれに言わせりゃ、チャールズ・ブコウスキーは詩人だ――異論のあるやつは少ないだろう」

(略)

 「朝一〇時にトルバドールの前に並び、夜までひたすら待つ。その晩プレイさせてもらえるのは、最初に並んだ数人だけだ。でもってステージに上がると、歌えるのは四曲まで。たった一五分で努力が水の泡になることだってある。そりゃもうチビりそうなほど緊張したよ」

(略)

現在のところレコードの売れ行きは「散々」で収支は「トントン」だが、まめに地方を巡業しているお陰でファンは着実に増えている。

(略)

フランク・ザッパの前座に立ったときのことを思い出すと、今も背筋が寒くなるという。耳の肥えたザッパのファンにも、ウェイツと彼の「ストーリーテリング」は斬新過ぎたらしい。

 「三回ツアーに参加して、もうだめだと降参した。五千から一万の観客の前にひとりでのこのこ出て行ったら(略)視覚的言語的攻撃に遭わない方がおかしいくらいだ。ああいうのは、もう二度とやらない。イメージに傷が付くし、おっかないからな。観客が舞台に近づいてきて、おれに果物や野菜をぶつけるんだぜ。(略)

そういうのが続くと心が荒む。あれはつらかった」

 だがつらい経験は、よれよれのスーツにくたびれたネクタイというステージ衣装を生んだ。「どんなにめかし込んでもおれは冴えない。だから初心に戻って、スーツを着た。飲んだくれと呼ばれるようになったよ」

 衣装以外のトレードマーク――足を引きずる歩き方やアドリブ満載の話芸――は、どんな風にして育まれたのか。「試行錯誤を重ねて、何がウケて何がウケないかを学んだ。おれをひいきにしてくれるお客は、しゃべりを期待してライブに来る。人目なんか気にしねえよって感じの歩き方も。何年か前から、こういう歩き方をしてるんだ。ステージでの自分にある種のイメージがあることは、自覚してる。家のリビングとステージじゃ、煙草の火のつけ方も違う。ステージに上がると、態度や仕草がガラッと変わるんだ。すべて大げさになる。ステージでは自分のカリカチュアを演じたいのさ」

(略)

チャールズ・ブコウスキーに出会えたのは、本当に幸運だった。二回、一緒にステージに立った。今までのところ、あれがツアーのハイライトだな。尊敬できて、一緒にステージをやるのが楽しい人と共演できたって意味では。ブクにはロスでも会ってた。あの人は間違いなく現代詩のパイオニアだ。(略)」

(略)

ロンドンのソーホー地区にあるロニー・スコッツ・ジャズクラブにモンティ・アレキサンダーの前座として出演することになった。だが経営者のピート・キングと口論になって店を追い出されるという事件を起こし、なんとか務めたステージも評判は芳しくなかった。

(略)

[NMEの]フレッド・デラーに対しては、自分の曲をカバーするアーティストをこき下ろして見せた。イーグルスは「ペンキが乾くのを見つめているのと同じくらい退屈」で、そのアルバムは「ターンテーブルの埃除けには悪くねえ」。

おれは懐古趣味を売りにしてない

『シラキュース・ニュータイムズ』紙

一九七六年六月一一日 ロバート・ウォード

(略)

 ウェイツの手には古ぼけたスーツケースが一つ。(略)本人のくたびれた様子は楽屋で会ったときと変わらない。ベルトはひん曲がり、茶色いネクタイは安っぽくテカり、擦り切れた黒いスポーツコートもテカって全身から安っぽさを発散している。いわば、あてどなく行商を続ける聖書のセールスマン。

(略)

 マイクの前で、ウェイツがモノローグを始める。その後ろでウッドベースがクールに粋にリズムを刻む。ブンブンブンブン。ウェイツはリズムに合わせて指を鳴らし、体を揺らす。

(略)

ウェイツの半ば語るような半ば歌うような声が響く。声はサッチモのようでもあり、デイヴ・ヴァン・ロンクのようでもあり――いや、トム・ウェイツそのものだ。

 「旅に出て――」ブンブンブン!「長いこと旅に出て、ようやく家に帰ると冷蔵庫のなかは理科の実験室みたいになってやがる」ブンブンブン!ベースは笑顔で、サックス奏者は超然と、プレイを続ける。「忙しいのはいいことさ」ブンブンブン!「忙しいのは御の字さ。プエルトリコ人の結婚式のジャンパーケーブルより、おれたちは忙しい。わかるだろ、ベイビー」ブンブンブン!

(略)

ウェイツのピアノはセロニアス・モンクにはほど遠いものの、凡庸ではない。タッチも雰囲気もペースもいい。すべて悪くない。だが彼の本当の強みは言葉、秀逸な歌詞にある。

(略)

ウェイツはアメリカの負け犬/ヒーロー――場末のラウンジピアニストや、当たり馬券をなくしてしまう粋がったチンピラ――を描き、ノスタルジックでありながら真に現代的なスタイルで、そうしたキャラクターに新しい生命を吹き込んでいるのだ。

(略)

もちろん、評価は一様ではない。(略)自由詩に近いスタイルを採用してビート詩人とジャズのコラボレーションを蘇らせ、スキャットを好むウェイツに、ローリング・ストーン誌その他は厳しい評価を下した。

(略)

ビート作家たちは自然発生的な創造を標榜したが、言葉を音楽にマッチさせる才能はほとんど持ち合わせていなかった。(略)ビート詩人がジャズとコラボレートした古い作品を一つ二つ聴けば、トム・ウェイツが郷愁を乱用しているだけでないことはすぐにわかる。ウェイツはビート世代のスタイルを進化させているのだ。

(略)

[演奏後]

「いいや、盛り上がっちゃいなかった。お客はおれのことがさっぱり理解できなかったのさ。ウケたのは下ネタだけ」(略)

モーズ・アリソンの話を思い出す。モーズはすごいだろ?だが簡単にジャンル分けできないせいで、アトランティックに契約を切られた。

(略)

「懐古趣味を売りにしていると批判する評論家もいますね」(略)

「ああ、ローリング・ストーンの記事の話か。いいさ。記事を書いたやつは、腕を二本とも折ったらしい。もちろん、その件におれは関係ないよ。夜も昼も、アリバイはちゃんとある。けどな、あんな書き方は本当に不公平だ。おれは古い音楽が好きなんだ。ジョニー・マーサーの古い歌が好きなんだ。昔から聴いてるんだ。でもそういうのだけじゃないぞ。たとえば〈オール'55〉。あれはただ昔を懐かしむ歌じゃない。おれは本当に五五年型のキャデラックに乗ってるんだ。昔からずっと古い車に乗ってる。懐古趣味とは関係ない。オールディーズのカバーはやらない。〈ミニー・ザ・ムーチャー〉なんか、逆立ちしたってキャブ・キャロウェイのオリジナルにはかなわない。おれの方がうまくできると確信できない限り、オールディーズに手を出すつもりはないよ。マンハッタン・トランスファーとかポインター・シスターズとか、今は古タイヤをリサイクルしたみたいな音楽が流行りだが、そういうのにも興味はない。過去を食い物にしてるのは、ああいう連中だ」

(略)

 次は笑いについて聞いてみる。

 「(略)下ネタは八方ふさがりなときの切り札さ。ああ、おれはジョークが好きだ。(略)

誰かにこっぴどく野次られたとする。そんなときは『やあ旦那、あんた、結婚してんの?』と聞いてやる。相手がうなずいたら、『かみさんの写真を見せてくれ』。写真は持ってないと答えたら、『ここにあるよ。見るかい?』と言っておもむろに財布に手を伸ばすって具合だ

(略)

 歌詞は本の影響を受けていますか、と私は聞く。

 「ああ、昔から本は読んでる。そこがちょいと人とは違うんだろう。好きなのはネルソン・オルグレン。詩人のチャールズ・ブコウスキーも大好きだ。(略)

ジョン・レチーもいい。『夜の都会』『Numbers』に『Fourth Angel』。レチーは『夜の都会』を基に脚本を書いていて、ひょっとしたら音楽をやらせてもらえるかもしれないんだ。彼もずっと過小評価されてきた作家だよ」

次回に続く。

黒人ばかりのアポロ劇場・その2

ビリー・ホリデイ

四〇年代にさしかかるころには、彼女は全世界にその名を知られるようになった。けれども、その時すでに彼女は、痛ましい麻薬の虜にもなっていた。

 厳密に言えば、ビリーを掘りだしたのは、ジョン・ハモンドではなく、アポロ劇場専属の照明家ボブ・ホールであった。

(略)

「はじめのうちは彼女も素直で、純情でした。酒に溺れることもなく、麻薬などまったく縁がないようでした。アルハンブラの店での、あんな一件のすぐあとから――そういえば、アポロ劇場のアマチュア・コンテストでも彼女は優勝しました――彼女は人気がではじめました。数年の間は健全そのものだったんですが、やがてあの麻薬中毒にかかってしまいました。哀れとしか言いようがありませんでした。あんなに可愛かった娘がと思うと……」

 私が個人的にビリーと会った最後の時といえば、彼女がまだ若くして逝った日の四、五年前のことだった。異常な美しさで胸を締めつけるような彼女を見ると、私はいつも、ゴーギャンの"南海の島の人びと"に描かれた人物の一人を思い出した。だが彼女の暗い瞳には、陰惨な影が宿っており、時にその視線はひとの心を見通していた。まるで彼女は虚空からの便りを聴いているかのごとく、そこに誰がいるかもわからないらしかった。彼女の舌は終始もつれたり、途切れたりして、泥酔しているかのようだった。彼女は麻薬常習者の空想の世界へと心を奪われていたのだ。

 その朝、私は彼女の楽屋を訪れた。たぶん、自分のマネジャーと口論して、そのほとぼりのさめない彼女を追いかけて行ったのだ。彼女はそこに立ちつくしていたが、光沢のある黒髪はひときわ艶を増し、類いまれなほど彫りの深い顔の奥にある素晴らしい眼は、大きく開かれたままだった。彼女は前後に身を揺らしながら、こう呟いていた。「あたしって、なんてドジなの!救いようのない馬鹿だわ」私は彼女の楽屋をあとにした。こういう彼女の煩悶を見るに忍びなかったからである。

ソウル・ミュージックの生みの親、オリオールズ

 いずれにしろ、バップは一本の支流にすぎず、それが流れこむ大河こそ、やがてソウル・ミュージックとなるものだった。ここには、別に源を発したR&B(略)も流れこんだ。

 リズム・アンド・ブルースとはなにかを、簡潔に示すのは至難に属する。なにしろ、それを形成するのは、過去に存在したありとあらゆるものであり、その中にプログレッシブ・ジャズ、バップ、ブルースといった比較的新しいビートが混じり合い、さらにゴスペルの味わい、カントリー=ウエスタンも散りばめられ、その底にはクリエイティヴ・マジックという黒人芸術の血が流れている。悲しくも皮肉なめぐり合わせの結果、実質的にはソウル・ミュージックの生みの親ともいうべきコーラス・グループは、現在ではほとんど世間から忘れ去られてしまった。(略)

このグループこそ、その名をオリオールズと称し、リーダーは、美男で才人の誉れの高い、若き日のソニー・ティルだった。

(略)

 当時のポップ・ミュージック界の状況を考えれば、もしオリオールズがあの時期に現われなかったとしても、彼らに代る別のグループが似たような立場を築き上げたにちがいない。第一、オリオールズでさえ、自分だけではやっていけなかったのである。彼らがボルティモアからニューヨークへ来たときには、財布にはビタ一文残っていなかった。(略)

なかば義侠心から(略)なかば興行師としての直感から、父はチャンスを与えてやった。(略)

数年が経つうちに彼らの人気は高まり

(略)

オリオールズのメンバーが舞台中央に登場するやいなや、一階の前から十列目あたりは、混沌を絵に描いたようで(略)

 新しい歌がはじまるごとに叫び、ソロを受けもつ若者がセンターマイクを握るごとにわめき、彼らが歌の間に、おさだまりの器用なステップを見せるごとに絶叫するしまつで、場内は興奮にどよめいた。そして、ソニー自身が、その痩躯を傾け、まるでそこに熟れた女体があるかのごとく、悩まし気にマイク周辺の空気を愛撫しはじめた時!なんと女の子たちは、自分のボーイフレンドだろうが、手近かにいる男の子を抱き締め、キスを浴びせ、身もだえていたのだ。それに、「やって、ソニー!あたしを犯して!」というあの嬌声!

(略)

彼らが生みだしたのは、現在なら、私たちが"グループ・サウンズ"と考えるもの――つまりゴスペルとジャズを組み合わせたり、一つの旋律の途中に声門を止めて息で歌ってみたり、裏声でテナー・ソロを歌うもの――といえよう。これらの様式こそが、自分たちだけに固有な象徴を探し求める世代の敏感な聴覚をとらえたのだ。また、以上のことを理解して、オリオールズにつきものの踊りを考えれば――これは最後の一歩に至るまで振り付けされ、一定の型があった――情緒不安定な思春期の世代にとって、抗しがたく壊しがたい斬新なアイドルの実体が理解できるだろう。

 オリオールズが新しいサウンドと様式を創ってから十五年過ぎた時点で、テンプテイションズ、スプリームズをはじめ、いちおう名の通ったコーラス・グループはすべて、彼らの余情を伝えていると言ってもよく、ビートルズローリング・ストーンズも例外ではない。またアポロ劇場の側からすれば、ソニー・ティルと彼のグループが劇場の番組編成に与えた影響も、重大なことだった。

 私の父は、こう回想している。「ほとんどの人が、毎場面に"ニュー・サウンド"が演奏されるものを望んだ」伝統を誇っていたバラエティ・ショーは、すべてヴォーカル・グループの波の前に押しながされた。ダンスもその色香を失い、時代遅れの喜劇にはだれも笑わなくなってしまった。その挙句、十年前であったら、単調すぎると非難されたはずのもの――一枚のプログラムに、コーラス・グループの名を連綿と並べたもの――が、出しものを編成する上での見本となった。観衆は、単調さを敬遠するどころか、まるで飽和状態すらもいとわぬ素振りだった。

 ほどなく、舞台の上では、オリオールズのすぐあとを追いかけてきたグループがひしめき合うようになった。ビリー・ワードとドミノズ、ザ・ファイヴ・キイズ、ザ・クローヴァーズザ・ドリフターズ、ザ・ハープトーンズ、ザ・ソリテアーズ、ザ・ムーングロウズ、ザ・ヴァレンタインズ、ザ・ダイヤモンズ――まるで、数人のメンバーと一台のピアノ、それにグループ名がついていれば、それだけで舞台にあがれるのではないかと錯覚しかねなかった。

 ミルズ・ブラザーズをはじめとし、それを手本として多くの忘れ得ぬグループが生れたが、その中にはジ・インク・スポッツ、キング・コール・トリオ、ザ・チャリオティアズ、ザ・ビリー・ウィリアムズ・カルテットもふくまれていた。とはいえ、オリオールズは着想のすばらしさで新しい境地を開拓した。また、彼らの名前が今日でも伝説と化してはいないとすれば、彼らの力が目に見えない形で、レイ・チャールズ、アリサ・フランクリン、チャック・ベリー、ボディドリーに伝わり、サム・アンド・デイヴ、ミッキー・アンド・シルヴィアにも流れ、さらにコーラス・グループ界の巨峰ザ・テンプテイションズをうるおす一方、まだギターを習得して間もない長髪の連中が新たに組織するグループにも受け継がれているからなのだ。オリオールズこそは、第二次世界大戦後のポップ・ミュージックと一九六〇年代のソウル・サウンドの間にあって重要な橋わたしの役をつとめたのである。

ゴスペル

ゴスペル・ミュージックの感化を受けなかったとしたら、モダン・ポップ・ミュージックの歴史には、いささかの発展もなかったと言っても過言ではなかろう。"黒人霊歌"という形で存在したごく初期のころから、ゴスペルは断片的にではあったが、当時の人気歌手によって取り上げられ、ジャズやブルースという大河へとそそいでおり、一方では、芸能界に籍をおく黒人にほとんど例外なく、大きな影響を及ぼしていた。けれども、ゴスペルが純粋な形のままで、堅固な聖域から形をみせることは、まずなかった。というのも、ゴスペル及びそれを守りつづける人びとが、卑俗な流行文化によって毒されるのを恐れたのであろうか。だが銘記すべきは、ジャズの発祥をたどれば、売春宿に至るものも多いのだ!

 ゴスペルを歌わせたら、並ぶ者のないほど傑出しているマヘリア・ジャクソンが、アポロ劇場には出ようとしない理由は、この辺にあると考えてもよかろう。私たちは彼女を相手に幾時間も、いや半日近くも費やして説得に努めたがアポロ劇場への出演が彼女自身にとっても、観客にとっても、おそらくは教会のためにも良い結果をもたらすことを理解してもらえなかった。彼女は、商業劇場の舞台に立つのは冒瀆行為になるという信念をあくまでまげず私たちは結局、お客様に彼女の晴姿をおめにかけたいという夢を断念せざるを得なかったのである。

 こんなわけで、一九四〇年代から五〇年代の初期に、私たちの舞台で生粋のゴスペル・ミュージックを歌ってくれたのはシスター・ロゼッタ・サープだった(時には美貌のマリー・ナイト夫人も加勢してくれた)。

(略)

父はこう考えていた。「ゴスペルの歌手たちが普段歌っているようなホールではとてもできないことを、アポロ劇場は大衆のために提供する。坐り心地のよい座席、すぐれた音響装置、完全な照明器具、劇場にあるその他の付帯設備、これらの設備はすべて、聴衆の心をほぐし、出演者の力量を発揮してもらうためなのだ」

(略)

父は牧師さんたちに集まってもらい、自分の計画、出し物はゴスペルだけとし、その情緒、厳粛さ、純粋性を紹介する意図を説明におよんだ。

(略)

 私たちは"ゴスペル・キャラヴァン"と名づけたが、第一回目から二つの貴重な教訓を学んだ。第一に、劇場でゴスペルを観たいというハーレムの住人は、私たちの予想を上回る数だった。第二に、次回からのキャラヴァンでは、熟練した看護婦をかなり多勢、待機させる必要があるということだった。第一回のキャラヴァンに、アポロ劇場の"会衆"から寄せられたものは歓迎というより、いまだお目にかかったことのない集団ヒステリーに近かった。金切り声でわめき、涙にむせび、手足を痙攣させ、意識不明となり、発作を起す始末だった。

 現在でもアポロ劇場には、ありとあらゆる種類のショーがかかるが、イースターとクリスマスのころ年に二回行われるゴスペル・キャラヴァンで、熱狂のあまり生じる精神的錯乱状態は何物にもたとえがたい。なにしろ、ザ・ステイプル・シンガーズ、ザ・ゴスペラーズ、ザ・マイティ・クラウズ・オブ・ジョイ、ザ・ファイヴ・ブラインド・ボーイズ、ザ・ピルグリム・トラヴェラーズ、ザ・キャラヴァンズ、クララ・ワード、ジェイムズ・クリーヴランドといった震えの出そうな面々が舞台をつとめるからなのだ。

 さて、ゴスペル歌手といえば、アポロ劇場の観衆にワンマン・ショーでは空前絶後の驚嘆を与えた人として、やがては劇場の歴史にその名を刻むと思われる歌手がいる。彼女の名をクリスティーン・クラークといい、現在ではオリオールズと同様、実質的にうもれてしまった。

 だが私の兄ボビーは二千人もの人たちがすっかり暴徒と化すさまを目のあたりにしたときのことを記録に残している。

(略)

[浮かない顔のクリスティーン]

私はいつも神様を忘れたことはないわ。(略)自分でしているのは神様の仕事だといつも思っているのよ。だけど、あのお方が私のところへ来たことはないの。自分で救われたと感じたこともない(略)。ボビー、なにかがいけないのよ。

(略)

そこでボビーはクリスティーンにいってやった。「いいことを教えてあげよう。この次に歌い終って、自分の席にもどったら、頭をうしろにそらして、できるだけ高い音を出してごらん」

「それでどうなるの?ボビー」

「結果はあとのお楽しみさ」

(略)

[自分の席へもどった]彼女は腰をおろすやいなや、頭をうしろにひくと、想像を絶した甲高い声を張り上げた。彼女がそのまま絶叫しつづけると、隣にいたキャラヴァンズの女の子は、まるで背中に弾を受けてはじかれたように飛びあがり

(略)

 彼女は通路のあちらこちらを駆けめぐり、ゴスペル歌手ならだれでも知っているステップで踊り出し、救われた喜びを叫びに託して有頂天になっていた。舞台の上でも、出演者がどんちゃん騒ぎを演じ、観衆の右往左往も三十分以上続いた。気絶した女性は十二人にのぼり、男性もあたりをはばからず泣いていた」

(略)

「ショーのあとで彼女のところに行ってみると、彼女の瞳は以前には考えられなかったほど輝きわたっていた。彼女はまだ雲の上をさまよってる感じだった。そして彼女は同じ言葉を繰り返すだけだった。"あなたのいったとおりよ、ボビー。確かに、あなたのいったとおりだわ!"クリス・クラークはついに救われたのだ!」

 蛇足ながら、彼女は牧師と結婚して、主婦となった。もはや、その美声に接する特権を有する聴衆は片田舎の教会に集う人たちだけになってしまったがおそらく彼女の歌は、どんな歌手にも真似のできない程、感動へ導く力を今なお有していることであろう。

障害者ダンサーたち

ハロルド・キングはローラー・スケートをはいたまま、見事なダンスぶりを見せてくれた。彼はフィナーレとして、二フィート四方の台上でローラー・スケートのタップ・ダンスをした。しかも、目隠しをしたままなのだ!(略)

うしろ向きに滑りながら徐々に速度を増してゆくと、あわや背中から観客席へ墜落かと思いこんだ人たちは、悲鳴をあげて逃げたり、彼を支えてやろうと手を伸ばしたりした。だが、彼は決して落ちなかった。

 ハロルド・キングは少々無鉄砲だったにしても少なくとも五体健全だった。では、松葉杖をつきながら踊った、ジェシ・ジェイムズのようなひとのことは、なんと説明すればよいのだろうか。(略)

純白のタキシードに身を包み、無残な足をかばいながら舞台にいざりより、想像を絶した珍妙無類の格好で踊りはじめ、床につけた松葉杖でリズムをとり、良い方の足でタップを踏むと素晴しいシンコペーションがつくり出されるのだ。

 それにしてもジェシには、曲りなりにも両手両足があった。だが、次に紹介する"クリップ"ハードと呼ばれた気だてのいい若者には、なんと片手片足しかなかったのだ。クリップは片足を使い、片腕で平衡をたもちながら、カルテットで踊るなまじっかの連中よりも見事な踊りを披露した。彼にはタップは無理だった。だが、踊っていることに違いはなかったのだ!(略)床にぴったり腹ばいになったかと思うと機敏に起上がり、ハックルバックやその他、当時ハーレムで大流行していたダンスを見事にやってのけるのだ。その痛ましいハンディキャップにもかかわらず、彼は実に楽天的で感じのいい男だった。

 ハンディキャップを背負った芸人の話なら、その仲間の王様ともいわれたペッグ・レッグ・ベイツの剽軽ぶりを紹介しないわけにはいかない。ペッグの片足は、膝のすぐ下のところで切断されており(その上、片手の指も何本かなかった)、そこに義足をつけていた。生来の愛敬とリズム感ではだれにもひけをとらなかったし、彼の腕前は溜息が出るほどだったので、私たちはいつも破格の待遇を与え、主演スターのすぐ前に彼を出した。彼は良い方の足でタップをしたかと思うと、ゴムで被った義足の方でも同じことをした。足さばきがどんなに速く、複雑になっても、義足でそっくりそのまま繰り返した。

 彼のフィナーレは、自分で"ジェット機"と名付けたステップだった。走ってきて宙に飛び上った彼は、義足に全体重をのせて着地し、観衆から声にならない溜息が洩れるのを見届けてから、オーケストラのチェーサーにのって義足で後向きにジャンプしつつ舞台から消えていった。

 身体的な疾患で思い出すのは(略)バディ・リッチが(略)[二日前に骨折し]片腕をギプスで固めて[初日前日稽古に現れた時のこと]

(略)

ショーも終りに近づくと、彼は舞台に出て、やや控え目にソロ演奏をやりはじめた。それでも、片腕のドラマーには十分な出来映えだといえよう。ところが、続いてテンポを上げたバディはその程度のものでは満足せず(略)花火を音にしたような絢爛たる演奏に移ったので、みんなただただあっけにとられて見ていたのだ。(略)

片腕の天才を一目見ようと、長蛇の列が全期間にわたって続いたのは言うまでもない。

口コミに勝る宣伝はない

一九五三年には新劇を上演してみようと思いたったことがあった。(略)

[話を持ちこんだベン・カッチャー]は戦争中にブロードウェイで黒人による《アンナ・ルカスタ》を制作し、そのときの主演俳優がカナダ・リー

(略)

 一日二回、一週間限りの興行がはじまったとき、私たちは不安を隠せなかった。そして、第一回目(金曜昼の部)が終ってみると、身が縮む思いさえした。切符の半片は全部集めても握り拳に隠れてしまい、そのまま、さらにコーラの瓶をつかめる有様だったのだ。金曜夜の部も大差なく三百人ほど――私たちはいよいよ臨終が近づいたことを疑わなかった。

 土曜昼の部の開場時間には、父は保険金めあてに劇場へ火をつけようと思ったことだろう。けれども、辛うじて彼に思いとどまらせるだけの客足(六百人)に達した。その日の夜になると、九百人はいった。私たちはようやく愁眉を開く思いで、このまま切り抜けて、なんとかして損益分岐点まで売上げをのばしたいと願う気持だった。日曜昼の部には千人の客がつめかけ、また夜の部にはいると、千二百人を記録した。どうしたわけなのだろうか。

 ひそかに調べてみたところ、こんな噂が流れていた。「アポロ劇場は何か変わったことをやりだしたぞ。よくよく聞いてみると、バンドもいなければ、音楽が鳴るわけでもなく、歌手やコメディアンもいないんだとさ!そうらしいな、だけども、おめえ、あいつらには魂胆があるんだろうな。そりゃそうだ、ことによると……」

 木曜の午後になると、人びとは早くから並びはじめ、夜の最終公演の前に切符は売り切れた。父と私が夕食をすませて、八時ごろ劇場にもどると、びっくり仰天することが起きていた。西側にあるアポロ劇場と東側の七番街にはさまれたブロックはかなり長かったが、えんえんと並んだ人々は街角を越えて、アルハンブラ劇場付近まで続いていたのだ!その列には少なくとも二千人はいたことだろう。それにしても席はたった千七百しかなく、第一みんな売り切れてしまったではないか。

 私たちは早速、数週間後にはそのショーを再演する(今度はカナダ・リーを使った)旨を知らせて切符売場を閉鎖したのだった。自らの手で大当りをとってみて、私たちは、種類のいかんを問わず、どこかに魅力があれば、人びとはそれをみにくることを知った。それにしても、その時以来、果たして広告に金をかけてどのくらい効果があるのだろうかと、疑問を持つようになった。しょせん、口コミに勝る宣伝はないのである。

(略)

続いて私たちは《雨》《タバコ・ロード》《恭々しき娼婦》《探偵物語》といった作品を取り上げたが、最後にあげた作品にはシドニー・ポワチエというフランス系の名前をもった若くて美男の役者が主演した。

(略)

 私たちはジャン・ポール・サルトルの戯曲《恭々しき娼婦》も取り上げたが、多分に不安をもっていた。(略)"ニガー"という蔑称が頻出する点であった。サルトルはその単語に大きな皮肉をこめて使っていた。だが観衆にそこのところを感じとってもらえるだろうか?

 第一回のショーの半ばにロビーにある事務所へある女性がやってきて、切符の半券を下におくと、太い腕を腰にあてたまま、私をにらみすえた。彼女は一言もいわず、私も無言だった。私が入場料に相当する金を窓の下から差しだすと、威嚇するように身体の向きをかえ、立ち去った。ありがたいことに、全期間中、あからさまに反感を示した観客は彼女ひとりであった。

(略)

 父の思いつきに端を発し、やがてポップ・ミュージック界ではごく普通のことになったアイディアといえば、ディスク・ジョッキーにショーの司会をさせるということであり、その根底には、DJたちがラジオを通じて語りかけるよりは、劇場で実際の姿をさらした方が人を引きつける効果は大きいのではないか、という考えがあった。

 試金石として最初に登場したDIは、シンフォニー・シッドとして知られた、白人のシッド・トリンだった。

ソロモン・バーク

ボビーの話によれば(略)「一九六六年(略)ソロモン・バークに契約書を送ったところ、返送されてきた書類には、"公演中に限り、劇場内でのポプコーンの販売権はソロモン・バークに帰すること"という意味のことをタイプした契約条項がつけ加えられていた。

 俺はそんなものは一笑に付して、消してしまい、契約書はファイルにとじ込んだ。"この男はなかなか茶目っ気があるな"と独りで言ったりして。ひょっと不安な気もした。あれは本気でしたことかな?そしてまた安堵した。仕事をすれば、週に四千ドルもかせげる人がなんでポプコーンを売りたがるのだ?

 しかし、頑固者のソロモンが、劇場に到着したとき手にしていたのは、楽屋仲間に売りつける豚の厚焼用の鍋と、これまた商売用の飴を入れたボール箱だった。俺は彼がしたいようにさせておくつもりだった。あのトラックがきて止まるまではな。トラックはポプコーンを満載していた。俺は態度をはっきりさせようとしたが、ソロモンは言いはった。

"契約どおりだろう。契約書をみてみろよ"

"ポプコーンの条項は消してしまったぜ"と俺は言った。

"あんたの手元にある契約書では、そこのところを削ってしまったかもしれないがね、こっちの手元にある方は削ってないよ。だから、あの条項はまだ有効というわけだ"と彼は答えやがった。

"歌手一人と契約するのに、法律をふりかざす必要があるとはな"と俺は言ってやったが、腹わたは煮えくり返るようだった」

「仕方がないから、ヤツと取引きしたよ」と、ボビーは苦笑する。「あのいまいましいポプコーンをまとめて五十ドルで買いとった。そして手元には、トラック一台分のポプコーンが残ってしまったが、あんなものを置いておく場所がない。そこで、幾人かの男の子を集めて、どっかで処分して来てくれと頼んだ。それぞれ校庭や、街角や酒場や、公演へ行ったが、中にはユダヤ教の成人式にまで出かけていったものもいた。積荷の山は減ったが、まだかなり残っていたので、宣伝マンのピート・ロングを呼び、トラックでひと回りして、これを街の子供たちにやってくれと命じた。

「数時間が過ぎたとき、八才ぐらいの男の子が、五才ぐらいの妹と一緒にやって来た。ピートは、あの袋を手渡しているうちに腕がすっかり疲れてしまったのだろう、面倒くさそうに一袋を二人に差しだした。その子は拳固をつくると、あごを前に突き出しながら言った。"おじさん、その袋をもう一つおくれよ、それともおじさんに噛みついてもいいのかい?"」ボビーの話も幕切れだ。

「そいつが、あのとき俺たちが処分した最後のポプコーンだったのさ」

ミンストレル・ショー、「焼きコルク」メイク

 ほんの十八年か二十年前まで、アメリカの黒人コメディアンたちは、まず例外なく、顔をまっくろに塗って――焼きコルクをなすりつけて――ステージに立った。NAACP(全米黒人地位向上協会)が執拗にその改革をせまるにいたって、ようやくこのメーキャップは廃止された。

(略)

ジョン"スパイダー・ブルース"メイスンがステージでビル・ロビンソンの前を通りかかると、ビルは彼の腕をつかまえて、肌がむきだしになるまで、一方の手袋を引きおろした。その肌の色は、焼きコルクとは似ても似つかぬ、はるかに明るい色をしていたのである。「これがわれわれのいいところで」と、ビル・ロビンソンはアポロ劇場の客席に披露した。「ありとあらゆる色つやをお目にかけられる、というわけです」

(略)

 焼きコルクを塗るこのしきたりは、南北戦争以前の、ミンストレル・ショーにまでさかのぼる。(略)

ニグロにそんな大事な役をまかせられるものではない。もしニグロがおもしろいとしたら、それは偶然のいたずらというものである、と考えられていたのだ。(略)

南北戦争終結後、こうしたミンストレル・ショーのなかには、コメディアンとして、黒人を雇い入れるところが出てきた。しかし、それでも、この黒人俳優たちは焼きコルクのメーキャップをさせられていて、それはつまり、あるプロデューサーがその回想録で述べているように、"まちがえられないため"だった。

(略)

 白人プロデューサーが黒人コメディアンを取り扱う態度は、その後も変わらなかった。コメディアンは司会者とジョークで渡り合い、ときには司会者をからかったりすることも許される。だが、そのからかい方は白人に対する敬意を失わず、「イエス・サー」のふんだんに混じったものでなければならなかった。

出演料変遷

 立身出世物語は、アポロ劇場の会計決算台帳に、くり返し、くり返し、出てくる。一九六二年に、すんなりと背の高い、牧師の息子が三百ドルで、はじめての契約期間を歌っていた。七年たった一九六九年五月、その同じマーヴィン・ゲイは、週労働時間のらくな時でさえ、七千五百ドルはとっていた。(略)

マーサとヴァンデラス、一九六二年十月、四百ドル。一九六八年十一月、七千ドル。(略)

兄ボビーの索引カードからザ・テンプテイションズの頭の部分を抜き書きしてみよう。

 

一九六三年八月、九百ドル。ぱっとしない歌手グループである。動きはいい。

一九六九年六月、二万二千五百ドル。ステージでも、ステージを降りても、実に仕事を大事にする。ぴったり息の合った、ペースのしっかりした舞台。最高だ。

 

 アポロ劇場のアマチュア・コンテストで優勝したのち、ジョー・テックスは生れてはじめて週百二十五ドルでアポロ劇場に出演した。一九六九年に彼が帰ってきたときには、週一万四千五百ドルになっていた。

 ナンシー・ウィルソンの索引カードは、スターの成長の過程を物語っている。

 

一九六〇年六月、五百ドル。きれいだが印象はぱっとしない。

一九六二年八月、千五百ドル。ショーは大成功!

一九六九年四月、一万ドル最低保証。ほんもののスーパースター。偉大!

 

 ついでにいっておかなければならないが、ナンシーのギャラはいつも歩合制である。それも莫大な歩合なのだ。(略)

ジェイムズ・ブラウンの一九五九年の出演料は二千二百五十ドルだったが、いまでは最高の歩合がついて、世界中の黒人の芸人としてはこれまた最高の出演料である。比類なきレイ・チャールズ、かつて一九五七年には四千五百ドルを歌手一名楽団員十二名とで分けなければならなかったレイ・チャールズは、今日では一回の最低保証として三万ドルを手に入れている。

白い黒人

父が自分で説明していたように、「(略)わたしがやったことの中で最大のものはね、何百人という才能のある黒人アーティストや、何ダースもの黒人の裏方や、永年のあいだわれわれのところで働らいてきたそのほかの人たちに、仕事を与えてきたということなんだよ」

 永年のあいだ、アポロ劇場は黒人の裏方を使っているマンハッタン唯一の劇場だった。(略)

 ある面で、父は百二十五丁目の非公式の王者だったといってもよい。つまり、ここの住民たちもビジネスマンたちも、黒人、白人を問わず、すべて父の指導をたよりにしていたからで

(略)

父のユニークな功績をたたえるべきだと思うことのひとつは、百二十五丁目のレストランで、黒と白の境界線を打ち破った、ということである!

(略)

フランクの店は、ギリシャ人の経営する小さな店で、ハーレムのどまんなかに存在する人種差別のとりでだったのだ。

 父は一人の黒人の友だちを昼食に連れていった。映画のプロデューサー、オスカー・ミーショウである。ミーショウのステーキがとどいたが、コショウでむせび返るようなステーキだった。父は彼におだやかな態度で自分のステーキをすすめておき、それからウェイターに、コショウのかけてないステーキを持ってくるようにいいつけて「じゃないとこの場で見たこともないような大喧嘩を見せてあげることになるよ」といったのである。今日ではそこでギリシャ人のウェイターと黒人のウェイターが一緒に働らいている。お客のおよそ八〇%は黒人である。

(略)

 父は自分たちで立ち直ろうとするハーレムの住民たちの手助けをする努力を決して止めなかった。ストークリー・カーマイケルが、自分たちの地域内なのに黒人たちには責任ある仕事をさせようとしないといって白人を非難していたとき、父は黙々として、ハーレムに本拠を置く黒人の建築会社を雇い、五万ドル相当のアポロ劇場の改修工事をさせていた。改修工事はフリーダム・バンクから借りた建設ローンの助けによって行われていたが、この銀行もまた、父がその創立に一役かった銀行で、彼はいまでもその重役をつとめている。この銀行でも、父のうるさ型の気性は、ハーレムの社会全体の利益に向けられた。黒人の同僚重役たちを説得して、黒人の顧客のためだけにことさらやっきになるのを止めさせたのである。父の考え方によると、それもまた、裏返された一種の偏見なのだということなのだ。

 ところで一方では、YMCA理事会唯一の白人(それも唯一のユダヤ系白人)として、ほかの理事たちがそれも一つの偏見ではないかと抗議しているのに、白人のバスケットボールのコーチの代りに黒人のコーチを雇うべきであるとして、熱心な説得を行なった。

 父の挙げた理由は単純なものだった。「問題は」と父はいった「あの子供たちが、かつて黒人を指導者、権威者として尊敬する機会を得なかった、ということです。彼らが仰ぎ見ることになるのは、常に白人です。子供らに、黒人だってそのような地位につくことができるのだということを理解させる、その機会を持たせなければならないのです」

 YMCA理事会は、この父の見解に沿って、白人コーチを解雇するという暗黙裡の差別待遇は、黒人青少年が白人以外の人間を尊敬することを学ぶこととくらべればそれほど重大ではない、と決議した。マルカム・Xがその自伝のなかで、好意をもって父のことを書き残したことに、何の不思議があるだろう。

(略)

 数年前、父はそのまれな、短かい内省の間につぎのような文章を書いていたのである。

 

 "私はかつて衆人を瞠目させるがごとき行動をなそうと願ったことはなく、また大いなる富を集積しようとのぞんだこともない。その起源さえ定かでない一つのみじかいことばが、週ごとに、月ごとに、年ごとに、ラファイエット劇場の、また、ハーレム・オペラハウスの、あるいはアポロ劇場のささやかな成功の物語とともにわたしの胸に思い浮かぶ。闇を呪うならむしろ小さなローソクをともした方がましではないか。わたしの願いはこのささやかなローソクの火にあった。納屋に火をつけようと望んだのではないのだ"

人種問題解決への願い

 ルー・ロウルズの場合、アポロ劇場の舞台を初めて踏んだときには、ザ・ピルグリム・トラヴェラーズの一員だった……。

 ジェイムズ・ブラウンの場合(略)そもそもはゴスペルを歌っていた……。

 ディオンヌ・ワーウィックの場合、ザ・ドリンカード・シンガーズの一員、リー・ワーウィックの娘である……。

 マーヴィン・ゲイの場合、子供のころは父の教会で歌っていた……。

(略)

今日の芸能界にあって黒人の身で傑出した存在となり得た最大要因を語るとすれば、歌手と聴衆の別なくあらゆる世代の黒人たちを育てたゴスペルを媒介として、足で床を踏み、手を打って拍子をとり、指を鳴らしたことに尽きるだろう。

(略)

アリサ・フランクリンは牧師の娘として生れ、ゴスペル隊の一員として歌っていた。

 ゴスペル・ミュージックの実質的な原型ともいうべき地方色豊かな形式は、棉畑で汗する人たちの単調な調べから派生したものであり、そこの労働者は生れ落ちるとすぐに、奴隷制というわくのもとで死ぬまで苦しみ続ける運命を背負っていた。現世の終末は望むべくもないところから、奴隷達は来世における救済に願いを託して慰め合ったが、彼らが宗教的な会合のおりに歌った宗教音楽から近代のゴスペル礼拝が誕生した。

 南北戦争後の"自由"も幻想にすぎなかったことは周知の事実であり(略)

 棉畑にたれこめていた意気阻喪の感情は今や都会の街頭を覆い、大農園で飼い殺し同然だった労働者の絶望感は黒人居住区で暮す人びとの諦念に変った。(略)

都会のこうした挫折感があるからこそ、ゴスペルは今なお会衆を引きつけるのであり、それが福音啓示の一形態であるからこそ、今日のブルース歌手は自分の霊感をかきたてることになる。(略)

もっぱら夢想に傾きがちであった初期の作品とは異なり、今日のブルースは社会に対する抗議運動から発しており、その結果として、黒人の個人的な挫折感、つまり常にブルースの核心に存在していたものの中に、人種的屈辱感という新しい要素が溶けこんでいる。

 ところが、今日の黒人音楽からはさらに性質を異にする旋律を聴きとることができ(略)

それは、希望の高鳴りに他ならない。(略)今日の黒人は現世において自由、正義、均等な機会を享受できる日が来ることに一沫ののぞみをつなぎ、もはや世俗的な希望を放棄する気構えも、この世の苦しみを甘受する気構えもない。彼はこの地球上にある自分の楽園を希求し、あるいは少なくとも鮮明な模型写真を手に入れようとする。

(略)

 皮肉な見方をすれば、この新しい姿勢によって黒人たちの文化的エネルギーの源泉そのもの、すなわちゴスペル教会が脅威にさらされている。教会は諦念に支配されており、それが必需品として存在しているのは、はかない希望など街頭で吹き飛ばされてしまう黒人社会であってみればこそなのだ。

 ゴスペルの支配力が弱まった場合に、それにとって代るものはなにか?そもそも、黒人たちがこの地球上で待望久しい楽園を見つけ、そこから新たな活動力を引き出すだろうと考えては、どうしていけないのだろうか?私が問題にしているのは架空のユートピアではなく、少なくとも自由と平等がうたい文句だけに終っておらず、われらが建国の父たち、つまり"理性の時代"に生きた白色人種系のゴスペル歌手たちが描いた夢が実現されている場所なのだ。

 最近、白人の友の一人が由々しき疑問として口に出したのは、黒人と白人とは互いに手を携えて生活できるのだろうか、ということだった。彼は、こう言い足した。「だけど、どこかで可能だとすれば、まずアメリカをおいて他にはあるまい。また、それがだれかの手で実現するとすれば、今後の世代に委ねられるだろう」

 私も彼の説に賛成だ。そのわけは、今日すでにあらゆる人種に属する若者が、価値観、野心、不安、遺恨、娯楽などの面で共通の基盤を見いだしている。

(略)

 文明批評家で『エボニー』の編集者でもあるフィル・ガーランドは『ソウルの響き』[『ソウルの秘密』三橋一夫訳、音楽之友社、一九七三年]という彼女の好著中に、有名なブルース歌手B・B・キングとの会見記を収録しているが、キングは予想以上に説得力をこめて、次のような考えをのべている。

 

 変化のきっかけはローリング・ストーンズやイギリスの別のグループがブルースを手がけはじめ、それらが再びアメリカに入ってきた(略)ときだった。それらのブルースは、白人しかもイギリス人の手を経ただけに一風かわった響きを伝えていたが、彼らにすれば、自分たちが感じとったなりにソウルをこめて演奏していたのだし、僕もその点は十分感じたけれども、同様に奥行きの深さでは彼らをしのぐ人が、僕の知っている中にも何人かいた……。(略)

 こうした中で、おおぜいの白人の子供たち(アメリカの子供たち)がブルースについて追求を始めた。そして彼らが発見したのは、ローリング・ストーンズをはじめ、幾多のイギリスのグループがやっているのは、他ならぬアメリカの黒人たちから吸収したという事実だった。そこでそれ以後、彼らは僕たちがつたえようとしていたのは、一体、どのような啓示なのかと耳を傾けはじめ、理解しようと努力しはじめた。僕からみると、こういう人たちの一部には、その一端を感じはじめている者もいる。

 当然のことだが、彼らの感じ方では僕たちに及ばない。僕たちにはそれが血となり肉となっているからだ。とはいえ別の言葉を使えば、こうも言えよう。他人の足を踏んだとする。それが気分をそこねるものであることはあなたにも察しがつくだろう。ところが、その感じ方がどの程度で、どれだけの痛みを伴っていたかはわからない。でもとにかく、他人の気分をそこねたことがわかるのは、たぶんあなたにも他人に足を踏まれた憶えがあるからだ。僕らに対してちょうどこれと似たようなことを今日の白人系アメリカ人は気づきはじめている。若者たちやそれ以外にも少なくない人びとは、僕らの苦しみがどれほど奥深く、広範に及ぶものかは、わからないにしても、僕らがずっと感情を傷つけられてきたことだけはわかる。それはたぶん、彼らも感情を傷つけられたことがあったからだろうが、彼らの受けた苦しみが僕らの受けたものと同じほどだとは考えられない。いずれにしても、彼らにはその心情が理解でき、だからこそ、ブルースが今日隆盛をきわめているのだ。

 彼らは門戸を開いて、ブルースを真に体得している人たち、しばらくの間、啓示を守り伝えてきた人を迎えはじめている。そして僕が思うに、この事実こそ、B・B・キングの真価が理解されはじめた証拠に他ならないと言えよう。

 

(略)

 肌の白いアメリカ人は、これまで黒人たちの自尊心を手際よく取り去ってしまい、代りに自己侮蔑と自己不信を植えつけたあげく、われわれ側から見た彼らのイメージを彼らに押しつけた結果、彼らはそれを誤りなきものとして認めていたにひとしかった。

 この国の黒人英雄譚の素晴しさは、奴隷制のもとで故国から隔離され、われわれのきめ細かい洗悩教育を通じて自我と遮断されても、なおめげず、自分の手でなんとか文化を創造し、しかもその内容の豊富さと活気に溢れる点では、アメリカ社会が生みだしたいかなるものにも負けない文化であったことにある。けれども、私たちの汚点として永遠に残るのは、私たちがこの文化の極致をささやかな感謝ぐらいでほとんど代償もなく取り去ってしまったことだ。白人社会には、黒人たちはすぐに暴力をふるいたがると考える輩もいる。私自身の判断からすれば、これまでの彼らの抑制力と度量は筆舌に尽しがたい。

(略)

[黒人は]これまで禁じられていた自主独立を主張し、過去のくすぶる欲求不満の灰の中から威厳と自己の構築にとりかかっている。白人の助けがあろうとなかろうと、白人の反対を向うにまわしても、自己を完成しようという決心はかわらない。(略)

教育計画、美術展覧会、文化的行事には白人の理解と尊敬が欠かせない。このような点を十分に認識してこそ、現代の不均衡が正常に復し、私たちの二分された社会を改造する助力が得られよう。

 本書に託したのは、そういう目的に寄与したいという願いなのである。