すべての女が求めているのはなにか

この高校の世界史授業には瞠目した。とてもおもしろい。なぜこの話がとてもおもしろいと私は思うのか、という話を以下の引用のあとにするが、授業自体のテキストを最後まで読んでからでないとなにをいいたいのかわからんと思うし、ネタバレ的でもあるので是非読んで欲しい。長いテキストではない。

第1回  最初の授業
1,解説

新学年最初の授業は生徒も教師も、相手を探って独特な緊張感があふれています。生徒は教師を値踏みしています。面白いか、つまらないか、怖いか、怒るか、甘いか、厳しいか、いい加減な人か、親身になってくれるか、教師集団の中で重いか軽いか、等等、、、。この1時間目に、生徒にどういう印象を与えるかでその後の一年間の授業のやり易さが決まります。
同僚たちは自己紹介や、休み中の体験を話して、授業にはいるのが一般的のようです。生徒は、授業をしないことを熱烈に期待しています(私も高校時代はそうでした)。できるだけ、彼らの期待にそれなりに応えながらも、単なる雑談でもなく、またこれからの授業に少しでも期待を持たせる。そんな作戦で考えたのが、「最初はお話をする」です。
(続く)
timeway.vivian.jp


「すべての女が求めているのはなにか」という寓話であるわけだが、実は女に限った話ではなく、意志を持つということの不思議さとその根源に触れるような、そのような内容だと私は思った。「意志を持つことを望む」は英語だと”will to have one’s will”となって自己言及的な意志の再帰性があるので動的な精神の活動が表現できる。直訳すると「意志を持とうとする意志」になるがこの日本語だと再帰性のあるダイナミクスがいまいち表現しきれていない。英語の"will"は「意志」のみならず、純然たる未来形として機能するので、再帰的な円環が作動し、個人の中で意志というポテンシャルが高まっていく状態をうまく表現できる。この再帰性をもう少し紐解いてみる。

「意志をもつ」にはまず自分のなんらかの意志を自分で発見する、あるいは見いだす意志が必要があり、その前提としてそれを言葉などの表現によりロゴスとして表象する能力が必要である。旅はその発見の過程であり、魔法は、その意志が見えていないという「呪い」のことである。もう少し具体的に説明すると、笑いは意志であり、泣くことも意志であるが、意志が枯れていればいずれの場合も無表情であり、感情は表出されることはない。通常、これはポーカーフェイスと呼ばれ、笑いや悲しみの感情を心の中に押し隠し、無表情を装っている、と解釈されることが多い。しかし、あえて無表情なのではなく、感情を表出しようという意志そのものが弱りきって無表情になった状態の人間も存在する。たとえば、隷属状態にある人間。感情の表出がそれに呼応する感情に迎えられなければ、意志は枯れ、感情の表出は死に絶える。さらにそれ以前に、笑ったり泣いたり、という感情の表出手法を習得していないゆえに、表出が不可能である、という状況の人間も実際にいる。戦争の中で孤児として育ち、そうした感情の表出方法を知らない子供もいるのである。こした無表情の場合は、笑いや泣く、といった原初的な感情であってもその表現手段をまず知ることが必要になる。ヘレン・ケラーが「水」という表現を獲得した時の様子は、多くの人が知っているのではないだろうか。ましてやなにかの奴隷であることを自覚しそこから離脱するには強力な意志の醸成が必要となるが、枯れきった意志からそのポテンシャルをいきなり生み出すことは難しい。困難であるが、その困難を乗り越える第一歩は、意志、という表象の獲得である。

この困難克服の過程(あるいはハッキング)が、アーサー王の騎士物語の寓話として描かれている。老婆=美女は「すべての女が望んでいること」の答えをまずはアーサー王、次にガウェインに与えることで、意志を持たぬ存在という魔法から順次、自らを解放した。「意志を持とうとする意志」という表象をなぞなぞの形式で他者に示し、そのことに対する他者から答え、という形でフィードバックを受ける、というやりとりを段階的に繰り返すことにより、意志の存在を無から有へと確定してゆくのである。意志が枯渇した状態と意志を持った状態との止揚による意志の生成がそこでは起きている。コンピュータでいえば、ブートストラップ問題を抜け出すための手法ににている*1。結局それは無意志の宿痾に絡め取られた一人の女が「意志をもつ構造」のリバースエンジニアリングで自らを意志的存在へと解放したお話、なのである。

翻ってみれば、この物語が広い共感を生むのは*2、「すべての女が求めているのは意志をもつことである」というメッセージが提示されることで、自らの「意志を持つことを望む意志」を発見、あるいは見いださせることにあるのであろう。つまり、この物語が意志の存在を覚醒させる、あるいは再覚醒させるのである。「これは水だ」とサリバン先生がヘレン・ケラーに伝えたように。

男視点で読むと、「醜い老婆になる魔法をかけられたかわいそうな美人が立派な騎士と出会い救済される」とか「男に意志を認めてもらって解放された女」とか、そっちのポイントを拾って読むので、意志を解放したのがそもそも自分自身であるというお話の核になっている構造をスルーするかもしれない。

この世界史講義第一回を読んで、以前夢中になって読んだ中沢新一の「カイエ・ソバージュ」5冊を思い出した。上の私の読みのような考え方に興味ある人にはおすすめである。まずは「人類最古の哲学」。シンデレラの北米ネイティブバージョンでは、意志的で凛としたシンデレラに出会うことができる。

bookclub.kodansha.co.jp

*1:wikipediaからの引用:「ブートストラップ問題 (Bootstrap problem) は、コンパイラコンパイル対象のプログラミング言語で作成した際に、そのコンパイラの最初のコンパイルをどうするかといった場合を典型的な例とする、いわゆる「鶏と卵」の形をしたセルフホスティング環境の問題を指す。これを解決するための方式をブートストラップ方式といい、この問題を何とかして最初の完備した環境を作ることをブートストラッピングという」

*2:この講義をツイッターで紹介したら、1万6千件のリツイート、6万件のライクをもらった

学術と不安

日本学術会議批判

00年代の従軍慰安婦の歴史修正問題は1998年に出版された小林よしのりの漫画「戦争論」を契機とする。研究者が発見した資料やその背景説明に対する、読まずしての否定や無視、牽強付会な史料解釈、チェリーピックでお話を作り上げる“The Facts”な人々に、どれだけ丁寧に説明しようが理解や態度変更そのものへの意欲がないらしく空振りが多かった。この立場の方々にとっては、自分がよって立つところのアイデンティティである「日本人」が、いかに揺らぎなく清廉潔白で優秀な人々であるか、ということを示す第一目的に比すれば、歴史の中で何が本当に起きたかということは、さほど重要ではなく、それどころかより正確な歴史解釈を説く研究者を、それが人聞きが悪いとでもいわんばかりに「日本人を貶める存在」として捉えることになった。

目下の学術会議に対するマジョリティの反感*1はこれが全面化したものだ。日本における政治、経済、人権の現状を、研究者、専門家、学者の目から見れば批判しどころ満載、糾弾すべき点続出でありそれはきつい批判にならざるを得ないが、上記の第一目的からすれば、それは「利敵行為」に他ならない。したがって今目前で起きているのは、反知性主義ではなく、まさに国家主義なのである。実は私も少し前までは「反知性主義」と思っていた。

かつて20年ほど前にその初期の姿を小熊英二は「癒しのナショナリズム」と名付けたが、今や単に「攻撃的なナショナリズム」に変貌した、ということなのである。その一方で、対抗する言論の側、「ペンは剣より強し」であるはずの側は同時進行するメディアの形態の根本的な変化の荒波に乗ることもできず撃沈近し、という様相である。「癒しのナショナリズム」が「攻撃的なナショナリズム」となる、その過程で何が起きたのかといえば、大きな結節点として考えられるのが福島核災害である。その事故の直後に、理系文系分け隔てなくある程度の素養が有れば想定できたのは、日本国土の半分が居住不可となり人口が最も集中する関東平野の4千万人を待ち受けるディアスポラであった*2

かくなる決定的な危機をまえに、知を生業とする人々の間で一瞬だけ生じた共同戦線は、瞬く間に崩壊したが、その背後にあったのもすでに胎動を始めていた攻撃的なナショナリズムであり、シュプレッヒコールは「不安を煽るな」であった*3。究極の危機的状況で不安の源泉を直視しできるかぎりの対策を力をあわせて生き抜こうとする人間たちは想定外、だったのかもしれない。代わりにトップダウンで支給される「安心」が渇望の対象となった。ここで起きたのも価値の逆転であった。不安を支給するものは悪であり、安心を供給するものが善、という価値観。事実を伝達し解説すること、嘘を喧伝し事実を暗渠沈めてしまうこと、という二つの軸が社会の中に並存し、その異なる価値の軸にあるものが互いに罵倒し議論はまさに平行線をたどった。

その末に今、がある。事実ーデマという対立軸が、不安ー安心という対立軸にジャックされ、不安を呼ぶものはデマという考え方までも生み出しつつあるのが現在である。風評被害、の「風評」がたとえばそれである。覚えている人の方がすでにマイノリティかもしれないが、かつてそれは純然たるデマを意味していた。今ではその言説が事実であっても日常業務に滞りを生じさせる情報による業務の損害は「風評被害」。つまるところ、大学や学術が近代科学のもとで追求している価値は、税金を納めているマジョリティの価値とは決定的に乖離しているのである。それはつまり、事実とフィードバックのサイクルに従って導かれる生活の安心、ではなく苦渋と隷従の生活がまっていようとも国家がトップダウンで与えてくれる虚偽虚栄の安心を選んでいる。

 

参考記事

以下、引用する。朝日新聞 2021年7月15日付

 日本学術会議の会員に推薦されながら、菅義偉首相によって任命を拒否された問題が報道されてから9カ月余り。歴史学者加藤陽子さんがインタビューに応じた。1930年代を中心にした戦前の日本近代史の研究で知られる加藤さんは、拒否した理由を説明せず、批判されても見直しに応じない現政権を、どう見ているのか。

 ――菅首相が6人の任命を拒否したと報道されたのは昨年10月でした。自身の任命が拒否されたことをどのように知ったのですか。

 「9月29日の午後5時ごろに学術会議の事務局から電話があり、任命されなかったと伝えられました。『寝耳に水』という言葉が実感として浮かびました。私のほかにも任命されなかった推薦者が誰かいる、とも言われています」

 ――詳細に覚えているのですね。日時は確かなのですか。

 「確実です。私はこの件が始まって以降、記録として残すために日記をつけていますので」
 「日記には学術会議のことだけでなく、その日の新規感染者数などコロナ禍の情報も書いています。社会の雰囲気や同時代的な偶然性も含めて記録するためです」

 ――拒否された6人の中で見ると、加藤さんはこの問題について人前であまり語っていない印象があります。会見には出ましたか。

 「出ていません。ひと様の前に顔を出して語ることには積極的ではありませんでした。研究者としての就職を控えた人たちを大学で多く指導しているので、彼らの未来に何か負の影響が及んではいけないと懸念したのが要因です」

 ――では、なぜこの段階でインタビューに応じたのでしょう。

 「政府とのやりとりが先月末で一区切りを迎えたことが一因です。私たち6人は、任命が拒否された理由や経緯がわかる文書を開示するよう政府に請求していました。たとえ真っ黒に黒塗りされていようと何かしらの情報は開示されるものと思っていたのですが、実際の政府の回答は『文書が存在するかどうかも答えない』という非常に不誠実なものでした」

 ――6月に出された不開示決定ですね。どう感じましたか。

 「納得できませんでした。回答した政府機関のうち内閣官房は、該当する文書は存在しないと通知してきました。内閣府の回答はさらにひどく、文書が存在するかどうかを明らかにしない『存否応答拒否』でした。文書が隠滅された可能性もあると思います」

 「インタビューに応じたもう一つのきっかけは、報道機関などによる調査が進んで、学術会議の自律性が前政権の時代から何年もかけて掘り崩されてきた過程が明らかにされたことです。関係者に迷惑をかけずに私が発言できる状況が整ってきたと判断しました」

 ――任命拒否が判明した直後の昨年10月、加藤さんは、菅首相の決定には法的に問題があるとするメッセージを公表していますね。

 「日本学術会議法は、会議の推薦に基づいて首相が会員を任命すると定めています。この首相の任命権については1983年に中曽根内閣が答弁しており、首相が持つのはあくまで形式的な任命権であって会議の推薦が尊重される、との法解釈が確定していました」

 「しかし今回の菅首相による拒否は、会議の推薦を首相が拒絶できるという新しい法解釈に立っています。つまり政府の解釈が変更されているのです。解釈変更が必要になった場合には政府は国会で『どういう情勢変化があったから変更が必要になったのか』を説明する義務があるはずです。けれど菅首相は説明していません」

 ――同じメッセージの中で、決定の背景を説明できる決裁文書はあるのか、とも問いましたね。文書にこだわった理由は何ですか。

 「私は日本近代史を研究する者として、行政側が作成した文書を長らく見てきました。だから、何か初めてのことをするときには文書記録を作成する傾向が官僚にはある、と知っていたのです」

 「ただ近年、官僚が官邸からの要求に押され、適切に文書を作成できない事態が生まれていると感じていました。安倍晋三政権の時代からです。集団的自衛権に関する憲法解釈を閣議決定で変えたり、検察庁幹部の定年延長に関する法解釈を政府見解を出すだけで変えたり……。法ができないと定めていることを、法を変えずに実行しようとする人々が、どういう行動様式をとるのか。それを確認したい気持ちが今回ありました」

 ――任命拒否について菅首相は十分な説明をしていない、と批判してきましたね。何をすれば「十分な説明」になるのですか。

 「日本が立憲的な法治国家である以上、行政府の行為は、国民や立法府からの批判的検討を受ける必要があります。その行政活動には法的な権限があるのか、その権限を行使することに正統性があるのか。自らが任命拒否した行為について国会でそれらを正面から答弁することが、説明です」

 「首相が『人事の問題なのでお答えを控える』と言うとき、彼は『なぜ外されたのか分かるよね?』と目配せをしているのだと思います。自民党を批判したからだろうとか、政府批判にかかわったからだろうとか。国民がそう忖度(そんたく)することを期待しているから、説明しないのでしょう。忖度を駆動させない対策が必要です」

 ――政権や指導者が国民や議会に十分な説明をしないことは、社会に何をもたらすのでしょう。

 「日本の歴史を振り返れば、政権や指導者が国民に十分な説明をしなくなりやすいのは、対外関係が緊張し安全保障問題が深刻化したときでした。しかし歴史は、そうした傾向が国民に不利益をもたらしたことも教えます」

 「戦前の日本は、満州事変(1931年)を機に国際連盟を脱退し、常任理事国であるという巨大なメリットをみすみす手放してしまいました。もし脱退の必要性を政権が国民に説明していたら、それは国益に資するのかという幅広い検討機会が生み出され、脱退しない展開もありえたはずです」

 ――ご自身を菅首相が外した理由は何だと推測していますか。

 「歴史記録を長年眺めてきた者の直感ですが、2014年ごろから安保法制に反対したり『立憲デモクラシーの会』に参加したりしたことを含めて、政府批判の訴えをしたからでしょう。新聞や雑誌にコラムを書いたり勉強会で講師をしたりといった大衆的な影響力を警戒されたのだと推測します」

 「任命拒否問題の本質は、政府が法を改正せずに、必要な説明をしないまま解釈変更を行った点にあり、それは集団的自衛権の問題や検察庁幹部の定年延長問題とも地続きであること。私が国民の前でそれを説明することができる人間であったことが、不都合だったのではないでしょうか」

 ――菅政権が任命拒否した人数は、なぜ6人だったのでしょう。謎だとされている部分です。

 「象徴的な数字として使われたのではないかと私は見ます。前回17年に105人の新会員が任命された際、当時の学術会議会長は政府側から要求されて『事前調整』に応じています。推薦者の名簿に本来の人数より6人多い111人の名前を書き、見せたのです」

 「しかし今回は山極寿一会長(当時)が事前調整に応じず、初めから105人ぴったりの推薦名簿を出しました。それに対する政権の反応が、私たち6人を外す決定です。『次回は2017年のように6人多く書いて来いよ』というシグナルなのでしょう」
(後略)

 

 

*1:直近の問題は学術会議の任命問題であったが、学術会議を廃止せよ、という主張に発展した。引用:

日本を否定することが正義であるとする戦後レジームの「遺物」は、即刻廃止すべきです。国家機関である日本学術会議は、その代表格です。

学術会議は、連合国軍総司令部GHQ)統治下の昭和24年に誕生しました。亀山直人初代会長は設立の際、GHQが「異常な関心を示した」と語っていますが、日本弱体化を目指した当時のGHQは学術会議にも憲法と同様の役割を期待したのでしょう。会議はこれに応えるように「軍事目的の科学研究は絶対に行わない」との声明を何度も出してきました。憲法も学術会議も国家・国民の足枷と化したのです。

他方、学術会議は、国家戦略として「軍民融合」を推進する中国とは研究者の交流、科学情報の共有について覚書を交わしています。会員らは、学問の自由が脅かされていると政府批判をしますが、矩のりを越えた学者の政治活動で自由な学問・研究を阻害しているのは、学術会議自体ではないでしょうか。そんな組織に毎年10億円以上の税金を注ぎ込むとは何ごとでしょう。

真の独立国家としての土台を蝕む組織は、一掃すべきです。日本を私たち国民の手に取り戻し、前向きな光を当てる第一歩が学術会議の廃止です。

*2:「最悪のシナリオ」と呼ばれていたことが当時首相であった菅直人の記録にあるこちらも。引用:

それにしても、半径二五〇キロとなると、青森県を除く東北地方のほぼすべてと、新潟県のほぼすべて、長野県の一部、そして首都圏を含む関東の大部分となり、約五千万人が居住している。つまり、五千万人の避難が必要ということになる。近藤氏の「最悪のシナリオ」では放射線の年間線量が人間が暮らせるようになるまでの避難期間は、自然減衰にのみ任せた場合で、数十年を要するとも予測された。

「五千万人の数十年にわたる避難」となると、SF小説でも小松左京氏の『日本沈没』くらいしかないであろう想定だ。過去に参考になる事例など外国にもないだろう。

この「最悪のシナリオ」は、たしかに非公式に作成されたが、政治家にも官僚にも、この想定に基づいた避難計画の立案は指示していない。どのように避難するかというシナリオまでは作っていなかった。

つまり、「五千万人の避難計画」というシナリオは、私の頭の中のみのシミュレーションだった。

私の頭の中の「避難シミュレーション」は大きく二つあった。一つは、数週間以内に五千万人を避難させるためのオペレーションだ。「避難してくれ」との指示を出すと同時に計画を提示し、これに従ってくれと言わない限り、大パニックは必至だ。

現在の日本には戒厳令(*)は存在しないが、戒厳令に近い強権を発動する以外、整然とした避難は無理であろう。

だが、そのような大規模な避難計画を準備しようとすれば、準備段階で情報が漏れるのも確実だ。メディアが発達し、マスコミだけでなくインターネットもある今日、情報管理は非常に難しい。これは隠すのが難しいという意味ではなく、パニックを引き起こさないように正確に伝えることが難しくなっているという意味である。そういう状況下、首都圏からの避難をどう進めたらいいのか。想像を絶するオペレーションだ。

鉄道と道路、空港は政府の完全管理下に置く必要があるだろう。そうしなければ計画的な移動は不可能だ。自分では動けない、入院している人や介護施設にいる高齢者にはどこへどのように移動してもらうか。妊婦や子どもたちだけでも先に疎開させたほうがいいのか。考えなければならない問題は数限りなくある。

どの段階で皇室に避難していただくかも慎重に判断しなければならない。

国民の避難と並行して、政府としては、国の機関の避難のことも考えなければならない。これは事実上の遷都となる。中央省庁、国会、最高裁の移転が必要だ。その他多くの行政機関も二五〇キロ圏内から外へ出なければならない。平時であれば、計画を作成するだけで二年、いや、もっとかかるかもしれない。それを数週間で計画から実施までやり遂げなければならない。

大震災における日本人の冷静な行動は国際的に評価されたが、数週間で五千万人の避難となれば、それこそ地獄絵だ。五千万人の人生が破壊されてしまうのだ。『日本沈没』が現実のものとなるのだ。

どうか想像して欲しい。自分が避難するよう指示された際にどうしたか。

引越しではないので、家財道具はそのままにして逃げることになる。何を持って行けるのか。家族は一緒に行動できるのか。どこへ避難するのか。西日本に親戚のある方は一時的にそこへ身を寄せられるかもしれない。しかし、どうにか避難したとして、仕事はどうする。家はどうする。子どもの学校はどうなる。

*3:引用:「そうそう、そんで日本語で情報入れようとしても無駄とわかったので、オンラインでBBC Liveつけっぱにしてたんだ。そしたらあの「爆発」の映像(日本では日テレが流したがNHKは流さなかった)。で、そのとき「メルトダウン」っていう言葉を使うと@飛んできて注意された。「不安を煽るな」と — nofrills/文法を大切にして翻訳した共訳書『アメリカ侵略全史』作品社など (@nofrills) 」2011年5月11日

「急に具合が悪くなる」

「急に具合が悪くなる」を読んだ。名著もとい名勝負な3ヶ月の往復書簡であり、片方は昨年の夏に世を去る。自分の11年前の経験が逆照射されるような言葉の数々を発見してしばし絶句した。ギリギリのところで哲学的思考のアクセルを最後まで踏み込んで空に軌跡を残す。凄絶。

偶然を受け止める中でこそ自己と呼ぶに値する存在が可能になる。

普遍である。実に普遍。突き抜けている。軽い感じで始まる最初から読みすすんで、最後にここに至る。経験の共有としての読書だわ。ほんま。

www.shobunsha.co.jp


book.asahi.com

拮抗の力学


ハンドルが付いているのに曲がれない車みたいなものだ。進行方向の目前に障害物が見えているのに、ハンドルにしがみ付いている人間が10人ぐらいいて、結果、右にも左にも回せない。その10人の1人1人は、迫りくる障害物がよく見えていて「あー、ぶつかるー!」とだれもが思っているのにもかかわらず、他の人々がてんでにハンドルを握っているのに声を掛け合いながら協力しようとしない。したがって、ハンドルを回すトルクが全体で拮抗してしまい、動かないのである。個人としては有能でも集団としては極めて無能。

何故こうなるのかというと、「おまえらハンドルから手を離せ。私がハンドルを切る」と声を上げたものを片っ端から潰していった結果である。かくして車は障害物に衝突大破、バラバラになった個人がまた自由に運転しだすのだろう。そうこうして上手に動き回る車のハンドルには徐々にしがみつくものが増え、曲がりにくくなり、ハンドルを切ろうとする人間が排除され、車は再び衝突大破、というなんかしょうもない栄枯盛衰ダイナミクスが繰り返される。

フェイクな経済統計


国家はある日突然崩壊するのではない。車のフロントグラスが破砕、ドアが壊れて剥がれ落ち、タイヤがパンク、エンジンの気筒が一つ残して死に、それでもプスンプスンと速度を落としながら慣性で走り続けて最後にガタリと止まる。運転手は外れたハンドルだけ握ってぼう然、のあれである。

日本の公式経済統計の4割がフェイクって、凄まじい事態だがこの2年の嘘まみれ続きで茹でガエルな本土である。というよりも、ここにきて「永遠の嘘をついてくれ」は極北にたどり着きつつある趣である。

Japan Data Scandal: Tokyo Admits 40% Of Its Economic Data Is "Fake News"

When it comes to the biggest monetary experiment in modern history, namely Japan's QE which has seen the BOJ buy enough Japanese bonds to match the GDP of Japan, there is nothing more important than the BOJ having accurate metrics to determine if its "inflation targeting" is working, i.e., if wages and broader inflation are rising. Alas, the recent news that Japan's labor ministry published erroneous statistics for years, has raised doubt about not only the accuracy of economic analysis released by the Bank of Japan, but prompted investors to doubt absolutely every economic report published by Tokyo.

For those who are unfamiliar with the latest economic fake news scandal, on Wednesday Japan's labor ministry revised its monthly labor survey for the period between 2012 and 2018 admitting it had overstated nominal year-on-year wage increases by as much as 0.7 percentage point between January and November of last year, to take just one example.

Unfortunately, there are many other examples, and according to an Internal Affairs Ministry report released late Thursday, nearly half of Japan’s key economic government statistics need to be reviewed with 22 discrete statistics, or roughly 40% of the 56 key government economic releases, turning out to be "fake news" and in need to be corrected.

This is a major problem for Kuroda and the Bank of Japan which uses statistics from the labor ministry to compile two key pieces of economic data, in making its ongoing decisions whether to continue, taper or expand QE.
https://www.zerohedge.com/news/2019-01-27/japan-data-scandal-tokyo-admits-40-its-economic-data-fake-news

www.mag2.com

フォンタナの詩


無珍先生が週末遊びすぎてドイツ語の詩の暗唱を終えることができず、昨晩ものすごい泣き始めた。明日のみんなの前での発表はもう失敗だ、人生が終わった、という。私も困り果てて、担任に長い手紙を書いた。それを読んで息子は朝早起きして全部覚えたらしい。「手紙はいらない」といって学校にいった。手紙には「遊びすぎているが本人の真剣さは認めてください、叱らないように願います」という内容だった。担任に出さなかった手紙は結局、息子への手紙になったようである。うまくいったかな。まあでも、フマジメな私からみると真面目すぎて心配になる。若者ってどんなグレていても芯は真面目なものだが、なにしろ切ない。
そして、家に帰ってきた人は浮かぬ顔をしていた。やはり失敗か??と思いきや「先生が風邪で休みで一日延びた」とのことである。そんなわけで今日も引き続きフォンタナの詩の暗唱を続行。

自己責任について


「自己責任」という言葉の自己言及性と不可能性。責任とは応答することである。responsibilityと英語でいうが、これはresponse-bility、直訳すれば「応答性」になる。なんらかの問いかけや問題提起にたいして応答することが責任、となる。ドイツ語であれば、Verantwortung 遂行ー応答であり、同様の成語となる。つまり

自己責任という言葉を英語であれ、フランス語であれ、直訳して使うとほとんどの文章は、意味不明になる。

英語で日本語でいうような「自己責任」といいたいときにはat your own riskであり、責任ではないのである。なぜか。

責任とは応答することである、という理解に基づけば、「責任」は複数の人間が関わる社会で生じる人間の役割と機能の一つということになる。誰がその人間の集まり=社会を代表し応答するのか、という役割。つまり社会性を抜きに「責任」は存在しない。「それは私の責任である」と言明した時に、それが同時に個人のみに関わる事柄であることはありえないのである。したがって、「自己責任」は社会性の切断であり、社会性をその本質としてはらむ「責任」というあり方そのものを同時に否定する概念にしかならない。つまり、「自己責任」は社会的な意味において不可能なのである。ありうるとしたら、社会から個人を排除すること。しかし社会が個人のあつまりであるからして、自己責任という責任のあり方の辿り着く先には社会の崩壊がある。

例えば拳銃を持つある人が、その銃口をむけた先が自分自身のこめかみであったとしよう。この状況において、「自己責任で引き金を引く」と本人がいったとしても、それは不可能である。引き金を引いた瞬間に応答可能性が消失するから。私がいう「自己責任」の自己言及と不可能性とは、このことを指している。当然ながらそのかたわらで「自己責任で引き金を引いてください」と他者が告げることも、また不可能なことを述べているに過ぎない。

同様の不可能性の高いよびかけとして「自粛を求める」がある。自粛は求めることはできない。求めた瞬間にそれは自粛ではなくなるから。「自粛を求める」は比較的解剖しやすい。なんらかの権威なり権力が、個人なり団体に対して行為の停止ないし禁止を告知しているにもかかわらず、それが権力の行使ではないかのごとく装うための建前的用法が「自粛を求める」。ある人間が銃口を他者のこめかみに向けながら「自粛してください」。それは端的にいって「やめなければ撃ちます」といっているにすぎない。

社会が無責任であることの体のいい表現として「自己責任」が都合よく運用されている。行政府は社会そのものであり、無責任であることはその存在意義の自己否定になる。その隠蔽が「自己責任」という言葉の本質である。

「自己責任」は仏教でいう「自業自得」と考えたほうがよい。行いの良し悪しが結果につながる、という因果応報の鉄則が逆に悪い状況にある人間は行いが悪かったからである、という断定を導く。それは決定論的な宗教であり、日本の社会は無意識のうちに、それを内面化し「自己責任」を乱発し、社会の責任を免罪している。