批評としてのアダプテーション――『ドライブ・マイ・カー』の「演技」について


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 濱口竜介監督の映画『ドライブ・マイ・カー』について、これは村上春樹の原作とまったく別物だ、アダプテーションとも言いがたいという声が聞かれた。その一方で、それでいて妙に村上(の文体)っぽいとも言われた。作品そのものについては、もはや語り尽くされている。ここでは、そもそもなぜ濱口竜介は、この村上作品の映画化を試みたのか、そこに何がみえるかに絞って考えたい。

 

 結論から述べれば、それは「演技」をめぐる問題ではなかったか。まずは、村上春樹の原作における「演技」とはいかなるものかを見ておこう。

 

 主人公の「家福」は、自分の妻と寝ている「自分より六つか七つ年下」の男と、あえて「友だち」になろうとする。「どうしてうちの奥さんがその男と寝ることになったのか」を「理解したかった」からだ。「家福」のドライバーである「みさき」が尋ねる。

 

「奥さんとその人が寝ていることは、家福さんがその人と友だちになる妨げにはならなかったんですか?」

「むしろその逆だ」と家福は言った。「僕がその男と友だちになったのは、うちの奥さんがその男と寝ていたからだ」

 みさきは口を閉ざしていた。説明を待っているのだ。

「どう言えばいいのかな……僕は理解したかったんだよ。どうしてうちの奥さんがその男と寝ることになったのか、なぜその男と寝なくてはならなかったのか。少なくともそれが最初の動機だった」

 みさきは大きく呼吸した。胸がジャケットの下でゆっくり盛り上がり、そして沈んだ。

「そういうのって気持ちとしてつらくはなかったんですか? 奥さんと寝ていたってわかっている人と一緒にお酒を飲んだり、話をしたりすることが」

「つらくないわけないさ」と家福は言った。「考えたくないこともつい考えてしまう。思い出したくないことも思い出してしまう。でも僕は演技をした。つまりそれが僕の仕事だから」

「別の人格になる」とみさきは言った。

「そのとおり」

「そしてまた元の人格に戻る」

「そのとおりと家福は言った。「いやでも元に戻る。でも戻ってきたときは、前とは少しだけ立ち位置が違っている。それがルールなんだ。完全に前と同じということはあり得ない」

村上春樹「ドライブ・マイ・カー」、『女のいない男たち』所収)

 

 村上作品において、「演技」とは端的に「別の人格になる」ことだ。「家福」が男の「友だち」になるということは、「別の人格にな」って「友だち」の「演技」をするということである。では、そのとき「友だち」とは、「本当の友だち」なのか「演技」なのか? 「家福」は「両方だよ」と答える。「その境目は僕自身にもだんだんわからなくなっていった。真剣に演技をするというのは、つまりそういうことだから」。

 

 「真剣に」「演技」をすれば、本当/演技の「境目」はなくなっていく。「別の人格になる」のは、そのように本当/演技の「境目」がなくなるからだ。だから「いったん真剣に演技を始めると、やめるきっかけを見つけるのがむずかしくなる」。本当/演技の「境目」がなくなれば、今自分が演じているのか、いないのかが、不分明になるからだ。そして、それはある種の危機に直面したとき(「家福」のように妻の「病のような」浮気に接したとき)、誰もがやっていることだと「家福」は言う。「そして僕らはみんな演技をする」。

 

 一方、濱口にとっての「演技」はどうか。それは、演じ手が演じるキャラクターとの差異=違和感を「見て見ぬ振りをしない」ことである。

 

演技に内在するパラドクスは二重の方向性を持っている。キャラクターは尊重されなくてはならない。彼女は他者だからだ。あらゆる他者との付き合いと同様に、想像上のキャラクターであっても彼女たちは固有の行動原理を持つ。その人の選択は尊重されなくてはならない。演者たちにはテキストを尊重して欲しいとは告げていた。ただ、それは一言一句を間違えずにいて欲しいとか、そもそも変更は認められないということでは全くなかった。「彼女は私ではない」以上、演じる上での自身の違和感を見て見ぬ振りをしないで欲しい、ということを伝えていた。それを前にした時には、改稿も辞さないという旨も繰り返し伝えた。」(濱口竜介『カメラの前で演じること』野原位、高橋知由との共著)

 

 濱口において、「演技」とは、むしろ「別の人格」になどなれないことを痛感することである。したがって、本当/演技の「境目」もなくなることはない。それをなくしてしまうことは「自分」を捨て去ることだ。「自分」を捨ててしまえば「恥」もなくなるだろう。

 

 濱口は、「恥を捨てろ」と役者に強要するような、一昔前にありがちな演出の付け方に違和感を抱いていたという。「恥を捨てて、演じてしまうこと」は「自分と役柄を切り離してしまうこと」であり、「「恥ずかしくない」自分を仮構してしまう」ことによって、結果的に「自分とは関係のない誰か」を演じることになってしまう」と。そうではなく、「演技」において重要なのは、むしろ「自尊」することである。自/他の「境目」はなくならず、決して「別の人格」になどなれないことを思い知ることなのだ。

 

この「自尊」の態度もまた、あらゆる他者との付き合いと同じ重要さを持つ。自分自身の感情を尊重することなくしては、他者との付き合いはいずれ破綻する。自分自身の感情はコントロール可能であって、円滑な他者との付き合いのために常にそれを抑制することを選ぶ人は、結果的に関係の一端を担う人間を破壊している。つまり「自分が自分のまま、他者は他者のまま、一緒にやっていく」という人との付き合いの難しさは、そのまま想像上のキャラクターを演じる困難さに移し替えられるのだ。他者=キャラクターの尊重はもちろん重要だが、もしかしたらそれ以上に自身の違和感は尊重されなくてはならない。

 

 この「自分が自分のまま、他者は他者のまま」を、間違っても「君は君、僕は僕」という他者の相対性の尊重と受け取ってはならない。それどころか両者は真逆の態度と言ってもよい。他者の相対性を尊重するだけなら、別に人は「演技」に向かう必要はない。というか、濱口にとって「相対性」があるとしたら、それは「他者=キャラクター」を「演じる」ことで生じる「彼女は私ではない」という「違和感」の中にしか、その時に感じる「恥」の感覚にしか存在しないのだ。濱口作品にワークショップや演劇的なシーンが盛んに導入されるのは、濱口にとっては、登場人物が演じることと、彼らが他者との関係性を生きることは、同じことだからである。

 

 映画『ドライブ・マイ・カー』に出て来る(そして濱口作品には不可欠の)抑揚を排して台本を読む稽古(『ジャン・ルノワールの演技指導』における、いわゆる「イタリア式本読み」)のシーンは、まさにその実践である。抑揚を排してホンを読む必要があるのは、そうしないと俳優は安易に「演じ」てしまうからだ。容易にテクストの「他者」性、演じるキャラクターの「他者」性を無視し、自分との「境目」をとびこえてしまうからだ。そうすることを「演じる」ことだとはき違えている俳優の何と多いことか。

 

 映画版『ドライブ・マイ・カー』では、だから「家福」(西島秀俊)は、恥を捨てて「演技」に走り稽古中から女優にキスをする「高槻」(岡田将生、映画版でも妻を寝取る男である)に、ある時「もっと自分のテクストに集中してみろ」と言う。テクスト=他者性に踏みとどまることを要求するのである。同様に、女優と一夜を共にして追突事故を起こした高槻を「もっと分別をもってくれ」とたしなめるのも、決して妻のことを念頭に置いた道徳的な理由からではない。抑揚を排したホン読みが必要なのは、まさに役者に自/他の「分別」をもってもらうためなのだ。そのホン読みが徹底され、その前提が確立されていなければ、「演者は演者のまま、テキストでもある」という(もちろん、それは「演者/テキスト」の「境目」がなくなることではない。その逆だ)、スクリーンや舞台において「何かが起こる」、すなわち「テキストとともにスパークする」ことなど到底起こり得ないのである。

 

 「自分自身の感情はコントロール可能であって、円滑な他者との付き合いのために常にそれを抑制することを選ぶ人は、結果的に関係の一端を担う人間を破壊している」-―。この濱口の言葉は、「自分自身の感情」を「コントロール」して、本当/演技、自/他の「境目」をなくし、「別の人格になる」という村上春樹の「演技」に対する根本的な批判と読むべきである。村上作品の「家福」のいうように、もしそのような「演技」を「僕らがみんな」しているとしたら、濱口にとって、それは「円滑な他者との付き合い」をもたらすどころか、それによって、いつのまにか他者との関係性が「破壊」されていく社会が到来する。「演技」とは、自分とキャラクターとの「境目」からくる「違和感=恥」を見ない技術ではなく、むしろそれを最大限に感じることで、「こうとしかできない」自分、「容易には変えられない」自分を発見することなのだ。「違和感=恥」こそが、ブレない「自分」を構築することの支えになるのである。

 

 同様なことが、ホン読みを通して、テキスト/自分との間にも見出されるだろう。するとそれは、テキストを「こうとしか読めない」、「容易には変えられない」読みを見出そうと試みる行為、すなわち批評にもそのまま「移し替え」られることになる。『ドライブ・マイ・カー』の映画化において、濱口竜介は、「こうとしか読めない」という批評としてのアダプテーションを試みたのではなかったか。おそらく濱口は、原作の「演技」に抱いた「違和感=恥」に対して、「見て見ぬ振り」をできなかったのだ。

 

中島一夫

 

遅すぎる、早すぎる――小柳玲子と石原吉郎 その9

 小柳もまた、石原の「のちの散文の仕事はあくまで詩の付録だと思っている」と言ったが、小柳の「付録」は、吉本の「虚偽=余計」とは決定的に異なっている。小柳は最初から、石原の詩の言葉は「地下に測り知れない泥沼を抱えて」おり、「言葉たちは地底の闇を吸いあげている」ことを感受していた。そして「おそらく石原吉郎の地下世界は性の欲望ばかりではない、シベリア時代の泥沼がせめぎあっていたことだろう」と。いわば「付録」は後から付加された「余計」ではなく、最初から「地下=闇」として伏在していたのだ、と。

 

 小柳が特異なのは、石原に「形式」の上で散文(化)の「過程=行方」の「ワナ」を見出し、散文を詩の「付録」と見なしながらも、同時に、一方で詩=形式の「輪郭」の「地下世界=地底」に、「形而上」ではない「泥沼=闇」を感受していたことだろう。おそらく小柳は、人間石原との関わりというか、述べてきたような現在ならハラスメントにしかならないレベルの侮辱を受けながら、それをもって関係が切断されずにそうした認識へと昇華していったのである。

 

 小柳は、石原のハラスメントに「耐えた」のだろうか。後輩として、相手が有名詩人だから「耐え忍んだ」のだろうか。もちろん、そのように捉えることもできるだろうし、今ならそのように読まれるのだろう。だが、それだけであれば、小柳が『サンチョ・パンサの行方』のようなものを書いた理由がどうにも分からない。やはり、小柳は石原に対する関わり方を、石原自身から受け取ったのではなかったか。小柳は石原の「風琴と朝」という詩を引き、次のように書く。

 

昭和三十九年四月発行の詩誌〈銀河〉にこの詩は載った。〈銀河〉は杉克彦の個人誌で作品掲載者からは頁相当分の掲載料をもらうシステムで刊行していた。この年の三月、第十四回H氏賞受賞が決定していた石原吉郎は、すでに名の通った詩人であり、ささやかな詩誌に掲載料まで支払って作品を載せる必要は露ほどもなかった。しかし彼はきちんとそれを支払い、杉克彦が亡くなる四十六年までの間、少なくとも三、四篇の詩をこの条件で載せている。しかも〈銀河〉の購読料として二人分の費用を毎回杉克彦に支払っていた。「一冊は妻が読みたがっているので」などと杉克彦に気を使わせないよう、苦しい言い訳までそえていた。

 石原吉郎は貧しさや病弱に対しおどろくべき優しさをもっていた。私が死の日まで杉克彦の優しい友人たり得たのはひとえに石原吉郎の薫陶によるものであって、私の本性ではなかったと信じている。

 

 「薫陶」という言葉にひさびさに触れた。もはや入試の漢字問題ぐらいでしかお目にかかれない言葉だ。

 

 杉克彦とは、「その2」で触れた小柳が石原に「杉君の三回忌、とうとうやりませんでしたね」と非難された、あの杉克彦である。この杉と小柳との関係も本書所収の「銀河憧憬――杉克追悼」に描かれているが、この「貧しさや病弱に対しおどろくべき優しさ」という「石原吉郎の薫陶」が多分に感じられ、正直涙なしには読めない文章である。この杉に発揮した石原からの「薫陶」を、小柳は石原自身にも差し向けたのではなかったか。いわば、それが小柳の「贈与—お返し」であり「贈与論」(モース)であった。両者の関係性やそれを書き留めた小柳の言葉を、現在の地平から批判してもはじまらないだろう。それが他には還元し得ない小柳と石原の固有の関係性というものではなかったか。そして、その固有性がどうでもよくなってしまえば、もはや批評など存在し得ないのである。それは、小柳にしかなし得なかった、石原詩の内と外とをジグザグに往還し続ける石原に対する批評の方法であった。

 

 最後に切腹事件に触れる。

 

 ソファーに並んで石原吉郎と新藤凉子が坐っていた。

 彼は一ふりの小刀(きりだし)――真新しいものを新藤凉子に見せているところであった。

 「これね、死のうと思って買ったんだよ」と彼はいった。私はびっくりして二人の真前に突っ立っていることになってしまった。

 「今朝もこれでお腹を切ったんだ」子供のように彼はくり返す。

 言われたほうは返事のしようがないが、さすがに新藤凉子は落ちつき払っていた。

 「お腹なんか切る必要はありませんよ。死にたけりゃもっと楽な死に方を教えてあげるから――さ、その刀、寄こしなさい」

 彼女は刀を取りあげバッグの中へ納めた。

 「そんなもの、また買えるんだからね」といったような憎まれ口を彼は口走り、信用しないのならこれを見せてやろう――とばかりズボンを脱ぎ始めた。

 詩人ばかりではない、一般の宿泊客もいる会館のロビーである。私は思わず二、三歩後ずさりし、植木鉢にぶつかって立ち止まった。

 彼はズボンの前をはだけ、下着をめくり、私たちの前にその腹部をさらけ出した。その腹部には確かに左から右へかけて、うすいみみずばれ程度の傷痕が細長くついてはいた。しかしあれは本当に死を決意した人の刀傷などでない。見せるためのもの、みんなを慌てさせるためのもの、慰められたいためのもの――であった。

 新藤凉子ではないが、本当に死にたかったら小刀など使う馬鹿はいない。まして腹部など切ったって死ねるものではない。

 ただ石原吉郎はなぜか三島由紀夫の死に方にいたく感動している一面があり、その当時「私こそがあのように死ぬべきだったのだ」と何度もくり返し言及していたことがある。なぜそうなのか訊ねても論理的にはっきりした返事はなく、そのままになっていた。

 石原吉郎には三島事件の頃から、自分は無駄に生きながらえて、恥をさらしている、といった気持がしきりに動いていたのは確かで、しかしその核心になっている事実については決して触れなかったし、それだけは生涯彼が口にできないことのようであった。

 

 小柳は、石原が「いたく感動し」たのは、三島由紀夫の死ではなく「死に方」だったと言っている。三島の死そのものよりも、その「形式」に衝撃を受けたのだ、と。その理由については、「論理的にはっきりした返事はな」かったようだが、小柳は次のように想像している。

 

彼は被害者であったために傷口が深く、あのような晩年を迎えてしまったのではなく、おそらく、ある日加害者でもあったのだろう。彼は自分で自分が許せなかったとしか私には思えない一面がある、

 初めに触れたように彼は三島由紀夫の割腹事件にただならぬ衝撃を受けていた。その衝撃というのが当時の私にはまるきり理解のできない種類のもので、頭をかかえてうめき続ける詩人の前で呆然としていたものである。

 「私はね、とっくに腹を切って死ぬべき人間なんですよ」と彼はいった。私が何と答えたらよいものだろう。

 「誰にもこれだけは分からない。まして小柳さん、あなたたちみたいな戦争に参加しないですんだ世代には分からない」

 もちろん私には分からなかった。そして自分で書いた通り、何か形而上的な、この詩人らしい理論により生きてここにある自分を嫌悪しているのだろうと思い込んでいた。

 自分で自分を許せない、というのは具体的にどんな場合があるといえるか。私に痛切に分かるのは自分の過ちで自分の子供を死なせてしまった母親、というシチュエイションである。この地獄はおそらく神などという観念では救われるものではない。想像しただけで狂おしくなる。そうした血肉をもった苦悩が石原吉郎の陰の部分にあったはずだと私は思っている。

 

 もちろん戦争中の石原にいかなる「加害」があったのか、なかったのかはついに分からない。小柳は、その石原の分からなさを、例によって「形而上」的な深刻さの方へではなく、その切腹事件すらも、とりまき女性たちによる狂騒曲を巻き起こしてしまう方へと、あくまで「何でもないこと。石原吉郎の作品にとっても、人柄にとっても、ほとんど重要性のない、いくつかの何でもないこと」という形而下に引きずり落としてしまう。石原を、特権的な主題をもつシベリア詩人にまつりあげる周囲を尻目に、あくまで「帰還」した「サンチョ・パンサ」として捉えるのだ。石原「礼讃」だった当時を考えれば、きわめて批評的なふるまいといえよう。

 

 小柳は、述べてきたように、石原が出会いの頃から「シベリアには女性がいなかったこと」、「自分が野獣であること」、「初期〈ロシナンテ〉のメンバーには喜んで「性」の日記を見せていたこと」を書いた。詩という形式=輪郭は、むしろそれらを「泥沼=闇」として「祈」りとともに封じ込める楯か鎧のようなものではなかったかと。

 

私を盾とよぶな/すべて防衛するものの/名でよぶな

 一枚の板であれ/それは/祈られて/あるものだ…(「板」)

 

 「虚偽」や「余計」どころではない。そういってよければ、それはむしろ石原にとって不可避の「本質」だったのだ。〈ロシナンテ〉の頃は、その「本質」をさらけ出し「裸」でいられたのだ、と。

 

ロシナンテ〉という非常に小さい共同体の中で、彼は彼なりの青春を燃焼させたと思われる。そこでは彼は可能な限り裸になっていられた。仲間が詩を書かなくなったことを、あんなに心をこめて怒り、一番救いようのなかったグータラな私が一番早く詩に舞い戻ったことを、あんなに喜んだのは、彼にとって〈ロシナンテ〉がいかに大切な場所であったかということだ。しかし赤児と同じく、全ての人はいつまでも裸ではいられない。彼は他の詩人よりも早く着物をつけなければならなかったし、その着物は運命のいたずらによって僧服のような重さをもった着物だった。もっと無頼者の着物が選べる運命だったら、この詩人はどんなにか気が楽だったろう。

 

 そして石原吉郎にとっての人生とは、常に時間が狂っており、いつも「遅すぎる」か「早すぎる」かだったのだと。

 

石原吉郎の人生で時間はいつも大幅に狂っていた。彼はその時間の狂いに上手についていくことができなかった、ひときわ長い抑留生活、遅すぎる春、早すぎる有名詩人への昇格、死はまた彼にとって遅すぎた。人間であることをやめてしまったほど、苦しい数年を経てのろのろと死はやってきたのだった。

 

 石原の「位置」は、どうしようもなく常に狂っていてズレていたのだ。

 

〔…〕勇敢な男たちが目指す位置は/その右でも/おそらく/そのひだりでもない

 無防備の空がついに撓み/正午の弓となる位置で/君は呼吸し/かつ挨拶せよ

 君の位置からの/それが/最もすぐれた姿勢である(「位置」)

 

 小柳が最後に石原を見、石原の声を聞いたのは、一九七七年の死の年、現代詩人会会長として、H氏賞授賞式で賞状を渡すために(受賞者は小長谷清実)、石原が来場した折だった。「選考の席には出ないくせに、晴の舞台で楽な格好いい役はやるんですね」という批判が関係者の間でささやかれるなか、石原は役目を終えると早々とロビーに出てきた。

 

折しも何人か、彼とゆかりの深い人々がロビーの椅子に坐っていた。私もその一人だったが、こわばった感じのする彼に挨拶がしづらく顔をそむけていた。通路の中央を歩いて出口へ向かう彼はいかにも一人ぼっちに見えた。誰一人、親しく彼に声をかける者はなかった。椅子から腰を浮かす者すらなかった。全員、ほんの少し会釈をしただけである。その冷たい視線の中を歩いていく彼の背中が、私の見た最後の石原吉郎である。

 また出口の、たぶん受付にいた誰かに喋っている彼の、かなり大きい声が私の聞いた最後の石原吉郎の声である、それははっきりとこう言っていた。

「僕はこれで現代詩人会を退めさせてもらいますよ。こんないやな人ばかりいる会には、とてもいられませんからね」

 私はなぜかぐったりと疲れ、もう一年前のように、石原吉郎に対し、あれこれ反応する気力が失せていた。すでに石原吉郎に関し細かい事柄をキャッチする興味もなくなっていたのだろう。その原因の一つはあまりにおびただしい彼についての、女性たちの風聞が毎日毎日耳に入り、神経が参っていたのである。

 その十一月、私は電話で石原吉郎の死を伝えられた。その電話が誰からのものだったか、今、いくら考えても思い出せない。ただ私は一言、「あ、よかったわね」といった覚えがある。

 ほんとうによかった、と思ったのだ。深い安堵の思いが拡がっていき、くたくたと電話の前にしゃがみこんでしまった。

 この四、五年、石原吉郎にとって生きていることが、どんなに辛いものであったか、私は私なりに理解していたのだ。彼は安らかに眠れる夜を、こよなく欲していたに違いないのだ。周知のように石原吉郎は十一月十四日、自宅で入浴中に急性心不全で亡くなった。翌十五日訪問した笠原三津子によって発見されたわけだから、長い時間、湯舟に浮いていたわけである。想像しただけで痛々しいが、ずっと後の日、笠原三津子が「少し赤味のさした、きれいな死顔でした」と語っていたことが、いくらか私を慰めた。その肉体の死が、烈しい苦痛を伴わなかったことだけでも幸福に思えた。石原吉郎の生は、痛いことばかりの連続だったのだから。

 

 長い闘病生活をしていたわけではない人が死を迎えた時に、なかなか「ほんとうによかった」とは言えないだろう。小柳が見てきた石原は、最初「機械」だった男が「人間」になり、ずいぶんと長い間、その「人間」であることをやめてしまっていた。誰一人、親しく彼に声をかける者もいないなか、冷たい視線の中をひとり石原が歩いていく。何と「遅すぎる」死であったことか。

 

 だが、小柳の「ほんとうによかった」という声に逆らって、石原にとって、死は「終り」でも「救い」でもなかった。石原においては、死もまた、換喩的に散文的に持続する「過程」にあるのだ。サンチョ・パンサの「過程=行方」は「未来」へと続くのだ。それが形而下の残酷さというものだ。

 

 

 重大なものが終るとき

 さらに重大なものが

 はじまることに

 私はほとんどうかつであった

 生の終りがそのままに

 死のはじまりであることに

 死もまた持続する

 過程であることに

 死もまた

 未来をもつことに(「はじまる」、『足利』)

 

 それは「断念」することで「生」の「輪郭=形式」を設える「決意」、その「決意」そのものを「手放」すことだった。石原にとって「機械=形式」をやめて「人間」になることは、もはや「人間」としての「決意」を放棄することだったのだ。石原に「ポスト人間」などないのである。

 

 水に入るひとの決意を

 想ってもみただろうか

 くるぶしから 腰へ

 腰から胸元へと

 ひたして行く水の

 ひっそりとした気配を

 それは決意の持続ではない

 決意そのものの

 茫然たる手放しでもあったはずだ

 決意をさらに呼ぶはずの

 決意は

 そのままひっそりと

 水底へ沈みおちた(「入水」、『足利』)

 

 詩から散文へ。

 これほどまでに近代の力学をまともに受け、詩への「決意」=詩的決断を「断念=手放し」させられていく「過程=行方」を生きた詩人もいないだろう。詩人に「戻っていく優しい場所がある」などとは、そう書いた小柳自身もむろん思っていなかった。だから、あくまでそんな場所がある「としたら」なのだ。だが、この小柳の『サンチョ・パンサの行方』がその「優しい場所」になったと思う。こんなに言葉の真の意味において優しく、同時に石原にとって厳しい批評もないだろう。『サンチョ・パンサの行方』というタイトルには、ともすると宙へと舞い上がってしまう詩人を、地上におしとどめようとする思いがこめられている。そして、地上におしとどめることは、常に地下を感受し続けることだ。支配的な価値判断を先行させずに、石原に「何でもない」唯の物として対し続けることだ。

 

 言うまでもなく、それが最も難しい。

 

中島一夫

 

遅すぎる、早すぎる――小柳玲子と石原吉郎 その8

 石原は自分にしか関心がなく、自閉的で内向的な詩を書いたのではない。石原においては、はなから他者を「表現=代弁」などできないというところから言葉が発されているのである。だから、石原は別に、自己と他者を、表現可能か不可能かで区別していなかった。「失語」とは、まずもって「自分」についてそうだったはずであり、詩とは「沈黙」するための言葉だったはずだ。「あえて」比喩的に言えば、「棒をのんだ」状態とは、そうした「失語」や「沈黙」のありようそのものだったろう。

 

 したがって、石原は、詩において、自閉的に自己を「表現」したわけではない。それらが自閉的で内向的と思われたとしたら、それはあまりに「隠喩」や「表現」や「モノローグ」や「同一化」に慣れ親しんできた者が、その同じ目で石原詩の言葉を測定したにすぎない。石原においては、自己だろうが他者だろうが、常に「表現」への「断念」と、したがって「形式」という「輪郭」に囲われた(「表現」に対するバリケードとしての「形式」。表現「の」ではない。表現「に対する」形式である)。作品世界内部での換喩的な言葉の隣接性しかなかった(私は以前、その言葉のありようをマルクス「価値形態論」において、決して「貨幣」的なものに「隠喩」的に回収されない「第二形態」的なありようとして分析したことがある(「隣接する批評」、拙著『収容所文学論』所収)。価値形態論の「第二形態」とは、まさに諸商品が「棒をのん」で並列のまま互いに孤独に突っ立っている世界である)。

 

 一九六五年に小説「棒をのんだ話」を書いたとき、石原が一つの転換点を迎えていたことは確かだろう。それは換喩的な石原詩が、言葉の隣接性によって展開、伸長されていった時に、あり得べき肥大化と散文化の形であった。「棒をのんだ話」の石原は、したがって小柳が言ったように、「他者の中の自分」を描いたわけではない。作品世界が肥大化していくなかで、主人公の「棒をのんだ男」が隣接する者々に換喩的に置き換えられていかずにいられなかったのだ。ここでは自分と他者もまたお互いに換喩なのである。

 

 だが、ヤーコブソンを待つまでもなく、換喩はある程度隠喩であり、逆もまたそうである。「棒をのんだ話」の後、一九六九年あたりから石原は、代表的なエッセイを次々に書いていく。例の鹿野武一を書いた「ペシミストの勇気」は七〇年である。六五年の小説「棒をのんだ話」が、その詩から散文へという「過程=行方」に向かっていく呼び水となったとは言えるだろう。

 

 それこそヤーコブソンによれば、「詩は隠喩、散文は換喩というのが最小抵抗の線」なのだから(「言語の二つの面と失語症の二つのタイプ」)、換喩の隣接性に沿って展開されてきた石原詩は、そもそも当初から幾分かは「散文」的だったといえる。それが「棒をのんだ話」の段階で、散文=換喩の力学に屈して、詩を詩たらしめる「抵抗の線」のリミットを超えつつあったということだろう。言い換えると、不断の「危機」をはらんでいた石原詩の「定型=輪郭」が、いよいよ臨界に達しようとしていたのである。

 

 エッセイにおいて、石原が鹿野に同一化し、英雄化されていったとしたら、それは石原の言葉が、もはや換喩的な隣接性に耐えきれず、鹿野が貨幣のごとくメタレベルで石原ら「囚人」を束ねる「隠喩」として機能してしまったということだろう。肥大化する換喩=隣接性に耐えられず、散文=エッセイにおいては、逆に隠喩が還流してきたのである。隠喩=同一化の力が、石原と鹿野を「棒」のように隣接させることを許さなかったといってもよい。

 

 だが、果たしてそれは石原の言葉の「ワナ」(小柳)だったのか。それとも、読む側の「ワナ」だったのだろうか。いつしか「毛布にくるまれ荒くれ達にボールのように宙に放りあげられていた」サンチョ・パンサ(=「棒をのんだ」換喩?)は、自らが英雄化され「胴上げ騒ぎでもしかねない人気者」(=隠喩?)になっていったのである。それは、サンチョ・パンサドン・キホーテになったというよりは、それを飛び越えて近代以前の叙事詩のヒーロー(貴種)になっていってしまったかのようであった(仮にもドン・キホーテは、「散文」的なアンチ・ヒーローではあろう)。小柳は、石原の英雄化を「散文のワナ」と呼んだが、正確に言えば、先に述べたように、散文自らの「抵抗の線」(ヤーコブソン)を喪失し、真に「散文」として耐えきれなかった時に陥る「ワナ」と言うべきだろう。そうでないと、「棒をのんだ話」を(「小説」というか「散文詩」というかは別にして)、シベリアエッセイと違って「散文」ではないと強弁せねばならなくなる。小柳も評価した「棒をのんだ話」の段階では、まだ石原は「ワナ」にはまっていなかったはずである。あるいは、それは「散文のワナ」というより、「表現」の「ワナ」と言うべきものだった。石原は、「詩」と「散文」の明確な区別を、その形態ではなく、「沈黙」か「表現」かという方法の相違においていたはずだからだ。

 

「いわなければよかった」ということが、たぶん詩の出発ではないのか。いいたいことのために、私たちは散文を書く。すべては表現するためにある、というのが散文の立場である。散文に後悔はない。(「私の部屋には机がない――第一行をどう書くか」)

 

 石原にとって、詩は潜在的に「定型詩」だと言った。むろん伝統的な意味ではない。それは、「輪郭」で区切られた作品世界の中で、言葉が換喩的な隣接性によって展開されるという「定型」の場である。石原においては、この「輪郭」は「自由」を許されない束縛的な「定型=形式」としてあるのだ。それは「輪郭=形式」の外部の現実については「表現」し得ないとして「沈黙」する。「見たものは/見たといえ」(「事実」)と「断言」するのみで、にもかかわらず、「見たもの」を描写し記述することは「断念」されるのである。

 

 だが、それは「断念」(発語しない)を「断言」(発語する)という、アプリオリにパラドキシカルなスタンスだった。小柳が言うように、石原がその「無理な姿勢をとり続け、まるで古武士か苦行僧のような言動をくり返し、崩れていった」ゆえんである。「詩がおれを書きすてる日が/かならずある/おぼえておけ」(「詩が」)。おれが詩を、ではない。詩がおれを書きすてる、のだ。

 

 石原は「いいたいことのために、私たちは散文を書く。すべては表現するためにある、というのが散文の立場である」と言い、一九六九年あたりから、堰を切ったようにシベリア体験をエッセイとして発表し書き始める。そのような意味において、石原においては、シベリア体験、収容所体験が「出てきちゃった」ことが「雪崩のような崩壊過程」を招いたという以下の吉本隆明の見立ては正しい。だが果たして、吉本の言うように、それは「虚偽」であり「余計」だったのか。

 

吉本 そうか、それではぼくはこう理解すればよいわけだ。ぼくの見方からね、つまり石原さんはひっそりと紛れて生きたかったんだけれども詩を書いているうちか、あるいは生活しているうちに収容所体験が出てきちゃった。でてきちゃったあとからの石原さんは要するに余計というか余生なんだ。つまりそこは虚偽なんだというふうにぼくは理解すればいいわけですね。つまりやむをえざる虚偽なんだと。〔…〕立原道造とか、中原中也でもいいですけど、そういう詩を書いて、それでひっそりと生きていたらよかった。ところがあるところから詩を書いているうちに何かしらんけどとにかく言葉のなかに収容所体験か何かがでてきちゃった。詩もでてきちゃってそれ以後は雪崩のような崩壊過程であって、一種の虚偽の過程に乗ったから、それは崩壊なんだというふうに理解すればいいんですね。(鮎川信夫との対談「石原吉郎の死」)

 

 「立原道造とか、中原中也でもいいですけど、そういう詩を書いて」の「そういう詩」とは、ここでは「四季」派のような詩というほどの意味だろう(むろん、立原と中原とではまた全然違うとしても)。だが、見てきたように、石原においては最初から「換喩」によって詩が構成されており、その意味において、アプリオリに散文化を余儀なくされていたのである。そもそも、石原において「収容所体験」が「虚偽」であり「余計=余生」だったとは口が裂けても言えないだろう。以前論じたので繰り返さないが、吉本は石原が個人に対する国家や社会といった共同的なものを思考していないと批判したが、むしろ思考したからこそ「表現」を「断念」し、「棒」が換喩的に隣接する世界を描いたのだ。「詩は表現ではない」(入澤)が「現代詩」の一つの達成でありテーゼであるとしたら、ラーゲリはその「原点」に位置している(もはやどうでもいいが、ちなみに「収容所文学」論とはそういう意味においてである)。その後の石原の「過程=行方」を、間違っても「収容所体験」という大文字の戦争=戦後史を背負うはめになって、「だんだん詩人として認められるし、いろんな賞をもらうし、そのうちに自分自身が日本の美しい風景になりたくなっちゃっ」(鮎川)て、サンチョ・パンサドン・キホーテになり崩壊していったという、見やすい「物語」にしてはならない。

 

(続く)

 

遅すぎる、早すぎる――小柳玲子と石原吉郎 その7

 「棒をのんだ話」に戻れば、夕方六時に棒を抜かれた「僕」は、さんざん泣きはらした後、それが「僕にとっては自由というもののはじまりかもしれない」と思いつつ、「おもてへとび出して行く」。そして「奇妙に動物的なものの気配が、僕のからだのどこかでかすかにうごめくのを感じ」る。

 

〔…〕すると僕は、おんながあるいているのを見るのだ。

 だが時には、ひと晩じゅうあるきつづけても、一人の女にも出会わないことがある。女ばかりではなく一人の男にも会わないのだ。そのような時、僕が出あうのは、銅像と犬だけである。この町には、馬の銅像が三つと、革命家の銅像が一つある。たぶん一生のあいだ失敗ばかりしつづけて、銅像になるほか仕方のなかった革命家なのだろう。なぜなら、この国に革命があったという話を、僕は聞いたことがないからだ。だがひと晩じゅうあるきつづけても、僕が出あうのは馬の銅像ばかりである。革命家の銅像がどこにあるかは、ほんとうは僕も知らないのだ。

 

 「ひと晩じゅうあるきつづけても、一人の女にも出会わないことがある」。前回見たドン・ファン気質である。石原においては、「女」に「出会う」(だが「女」は女なのか。これについては後で触れる)ことは(棒をぬかれた)「自由」の領域にある。ここでは「男」は「女ばかりではなく一人の男にも」と、「女」に隣接するがゆえに換喩的に呼び出されるにすぎない。

 

 「棒をのんだ話」の「棒」が何なのかは定かではない。石原自身、「むろん「棒をのんだように」という古典的な比喩があって、今でも結構リアリティを持っていることは僕も知っているが、この場合は比喩とはなんの関係もない」と、何かの「比喩」である可能性をあらかじめ退けている。だが、この小説が、隠喩でないにしても、換喩的な手法で構成されていることは否めないだろう。そして、以下の佐々木幹郎の解説のとおり、換喩はまた石原詩の方法でもある。佐々木は、「方向」という石原詩を引きつつ、「棒をのんだ話」についても述べている。

 

それはあてどもなく確実であり ついに終りに到らぬことであり つきぬけるものをついにもたぬことであり つきぬけることもなくすでに通過することであり 背後はなくて 側面があり 側面はなくて 前方があり くりかえすことなく おなじ過程をたどりつづけることであり 無人の円環を完璧に閉じることによって さいごの問いを圏外へゆだねることである

(「方向」、詩集「斧の思想」所収)

 

 石原吉郎の詩の特徴のひとつに、比喩の両極である隠喩(メタファー)と換喩(メトミニー)のうち、換喩によって全体を比喩するということがある。隠喩の軸よりも換喩の軸に偏るという方法をとるのだ。「方向」という詩篇では、「背後」や「側面」や「前方」というような、作品世界の内部で隣接しあっている構成要素を、部分ごとに採り上げ、それを次々と組み立てることによって、作品全体の比喩を完成する、という方法である。これは散文作品でも踏襲されていて、「棒をのんだ話」はその典型である。

 ここから放り出され、拒絶されるのは、社会科学や社会思想(政治)の抽象言語である。この詩語の方法からは、他者への告発も、自らを被害者と考えることも成立しない。失語の体験を経た石原吉郎にとって、シベリアで見たもの以外に、代替可能な言語を見つけることができなかったからである。それは別の角度から言えば、石原吉郎の倫理と言ってもよかった。(佐々木幹郎「失語という戦慄」、『石原吉郎詩文集』解説)

 

 石原においては、言葉は「作品世界の内部で隣接しあっている構成要素」としてのみあって、作品世界の外部の何かを「表現=表象」しているのではない。「詩は表現ではない」(入沢康夫)のだ。石原においては「言葉は表現ではない」と言ってもよい。「表現」の次元で言葉を用いようとすれば、「シベリアで見たもの以外に、代替可能な言葉を見つけることができな」い石原は、たちまちシベリアに戻って「失語」に陥るだろう。それが石原の「原点」なのだ。

 

 したがって、小説「棒をのんだ話」は、前回の小柳の言うように、書かれた経緯を見れば「この作品は決して散文形式をとった詩ではなく、小説として構成されたもの」だといえるものの、換喩によって作品世界が構成されているという意味においては、佐々木幹郎の言うように、「散文形式をとった詩」といってよいだろう。というより、石原においては、シベリアの「隠喩」も「表現」も存在しないのである。したがって、それらをきっぱりと「断念」し、あらかじめ作品世界を「輪郭」で囲った「形式」においてしか言葉は存在し得ないのだ。それが石原の「定型」であった。

 

 「棒をのんだ話」もまた、「棒」やそれを「のむ」というその内容や意味ではなく、それがきっかり六時に始まり六時に終わるという「定型」のあり方のみが描かれているといってよい。だからこそ、六時以降の「僕があの棒となんのかかわりも持たないでいい時間」=自由という「定型」の「外」においては「おんな」や「革命」への情動が喚起されるのだ。もちろん、「おんな」も「革命」も作品世界の外部に何ら現実や実体として対応物をもってはいない。したがって、「ひと晩じゅうあるきつづけても、一人の女にも出会わないことがある」し、「この国に革命があったという話を、僕は聞いたことがない」と、すぐさまそれらは否定され「表現」を「断念」されることになろう。

 

 先に触れたように、小柳がこの「棒をのんだ話」に感動したのは、「シベリア抑留体験が基盤になっていないこと、他者の中の自己を描こうとしていること」にあった。そしてこう述べる。

 

しかし私は後に読んだいくつかのエッセイよりも感動したのだ。多少カフカの「変身」ふうな設定の中で主人公が他者もみなそれぞれの棒をのんで暮していることを知るくだりで胸をつかれたのである。もちろん書き手が石原吉郎であることが感動を大きくした。石原吉郎は自分の孤独、自分の傷がたとえようもなく深いと思っている人で、他者がどうであるかということには無関心な面が強かった。このことは私が言及するまでもなく澤村光博の論評に詳しい。しかしこの論評は的を得て、共感者も多いものであったが、やはりあくまで理屈だといえる。石原吉郎は哲学を示したのではなく、純粋に自分を語ったのであるから、他者はどうでもよかったのだ。その石原吉郎が他者の中に在る自分を描いたことに、三十代を迎えたばかりの私は感動したのだ。

 

 石原の詩が、自分のことしか書いていない、きわめて自閉的で内向的な言葉だということは、ここに挙げられている澤村光博に限らず数多く言われてきた。なかでも最も影響を与えたのは、石原の死後に言われた吉本隆明のその種の発言だろう。小柳は、そんな「他者はどうでもよかった」石原が、「他者の中に在る自分を描いたこと」に感動したという。「他者」を描いたのではなく、「他者の中に在る自分」を描いたということが重要だろう。それは鹿野武一という他者を自分に同一化させ、さらには英雄化してしまった石原ではない。同一化できない、しかしどこかで共感、共鳴せざるを得ないという距離感と関係性で、自己と他者とを捉えることだった。具体的には「主人公が他者もみなそれぞれの棒をのんで暮らしていることを知る」という関係性である。

 

だが僕にとってその時のすべては、かけがえのない新しい経験だったのだ。得体の知れない熱いせつないものが喉もとへいっせいにこみあげてくると、僕は知らずしらず立ちあがっていた。僕には、同僚や上司たちをつぎつぎに見まわして行く自分の視線が、次第に火のようにあついはげしいものに変って行くのが、自分でもよくわかった。(こいつも……そしてこいつも……。そろいもそろって、よくもまあこんな大変なことを……。ひとりのこらず同罪じゃないか……。)

 部屋のなかがいきなりしんとした。誰も彼もが不意に腰を浮かすようにして、いっせいに僕の方を見た。僕は彼らに対して、まったく唐突に愛を感じた。僕はなにかしゃべりたかった。だが声にはならなかった。〔…〕あいつが腰かけていたのは、何かずっしりした根拠のようなものだった。僕は自分の頭をかかえた。なんだか妙なかたちのキャベツをかかえているような気持だった。キャベツの真中に、世界の中止のようなまっくらな芯があるのだ。僕は知らずしらず涙を流していた。だがありがたいことに、今度は両方の目から一緒だった。僕はなんとなく気をうしなって行った。

 

 「僕」は自分以外の誰もがみな「棒をのんで」いることを知り、彼らに「唐突に愛を感じた」。だが同時に、作品は、「棒をのんで」いることで彼らを安易に同一化させないのである。「僕」はあの「オールドミス」にこう言われる。「棒をのんでるってことだけで、人間の問題がそのままおなじになるなんて考えられないじゃないの」。だからラストで「僕」が「よし、あした教会へ行ってやる」と言っても、「オールドミス」は「そうしなさいよ」と「不思議なほど気軽に応じ」ながらもこう言うのだ。「それでなにかが変ることはないにしてもね」。

 

 「棒をのんでいる」人間たちを互いに同一化させるような「教会=超越性」など存在しない。これはほぼ「棒をのんだ」言葉たちが、この作品世界の中では互いに隣接しながらも、それらを束ねて同一化させるようなメタ言語は存在せず、したがって「隠喩」的で相似的な「表現」は成立しないという、石原の反—隠喩的なまでに換喩的な言語のありようそのものといってよいだろう。

 

(続く)

 

遅すぎる、早すぎる――小柳玲子と石原吉郎 その6

 繰り返せば、石原にとって、詩とは「沈黙」するための言葉だった。

 

そこにあるものは/そこにそうして/あるものだ

 見ろ/手がある/足がある/うすらわらいさえしている

 見たものは/見たといえ〔…〕(「事実」)

 

 明らかに「事実」について、はなから記述する気がない言葉だ。石原がシベリアから「帰郷」したのち、詩は書けたが散文は書けなかったという時、すでにその詩は矛盾を抱えていた。本当は「沈黙」するほかなかったのだが、詩という「形式」においては「沈黙」が可能だと思われたというのだから。不可能な言葉というやつを、詩という「形式」においては、それが「言葉」でありながら「言葉」ではない=「沈黙」していることが可能であるように思われたというのである。それが石原の「詩法」だった。

 

必要限度の誤解だけで

ととのえた行間へ

沈黙を盾に

生きのびるやつを

詩行の白昼へ

待ち伏せては

平然と主題をひるがえして

十行では なお

倒れぬやつを

十一行目で刺してころしてみよ(「詩法」)

 

 その第一行から「誤解」でしかない「言葉」。「沈黙」が「言葉」の最上のあり方なら、「言葉」は語られ出したその始まりから、もうすでに「誤解」であり、そのとき「言葉」に出来ることは、せめてその「誤解」を「必要限度」に押しとどめ、「沈黙」という理念を「盾」に何とか「生きのび」ようと延びていこうとする「誤解」の「詩行」を、「十行」目で駄目だったら「十一行目で刺してころ」すことにすぎない。

 

 小柳をはじめ、石原詩が尊敬されたとしたら、まずもってその詩がいかにその「形式」から漏れ延びていこうとする自堕落な「言葉」のありようを、厳しく「断念」しようとする「姿勢」にあっただろう(だからその後の石原に接するにつれ、小柳は「何が「断念」だ」と反発していくことにもなる)。基本的に、「詩から散文へ」(シクロフスキー)という流れを、いかんともしがたい近代においては、詩を「定型」に押しとどめておくことなど不可能だからだ。もちろん、石原にしても、先に述べたように、ずっと「定型」を意識し、クリムト的?な「形式美」を追求したものの、「定型=形式」を保持し得たわけではなかった。小柳が居合わせてしまったサンチョ・パンサの崩壊の「過程=行方」は、石原詩が「詩から散文へ」という流れに抗し得ず、「沈黙」の「形式」という堤防が決壊を余儀なくされていく「過程=行方」だった。

 

 堤防が決壊していく、少なくとも一つのきっかけとなったのは、やはり石原唯一の小説「棒をのんだ話」にあったと思われる。小柳は、この小説について次のように語っている。

 

石原吉郎が書いたただ一つの小説「棒をのんだ話」について触れておきたい。石原吉郎の作品中、異色のものであり、優れたものであるこの一篇がどういういきさつにより書かれたかを、いつか調べてみたかったし、できる限りこの作品を現在において多くの人に紹介してみたくもあるのだ。

 異色といったのは文芸のジャンルにおいてのことではなく、まずシベリア抑留体験が基盤になっていないこと、他者の中の自己を描こうとしていることなのである。彼のような特異な体験をしてきた人にとり、ことに内省的な人においては語ることの中心が常に自分の中の自己なのは当然で、作品はほとんど内なる自己をみつめ、あたりは他者も実風景も遠ざかり、鳴りをひそめている。

 たとえば彼はエッセイの中で、しばしば鹿野武一という感動的な他者を登場させるが、それすら自己同化が強く、読者はいつの間にか鹿野と詩人が区別しがたくなっていく。一つの仮定として小説は他人を書くものであり、詩は自分を書くものだという言葉が正しいとすれば、詩人であるほど小説は書きにくいものであるだろう。

 

 読まれるとおり、意外にも高く評価している。石原を駄目にしたのは、「散文」といってもあくまでエッセイ(特にシベリアもの)であって、小説はそれとは異なるということだろう(「明確なペシミスト」「鹿野武一」が、「他者」として書かれてはいないという指摘はその通りだろう)。「棒をのんだ話」についても、「まずシベリア抑留体験が基盤になっていないこと」が小柳の目を引くのだ。この小説については、内容を紹介してもあまり意味がないのだが、簡単に手触りを紹介する以下のようになる。

 

―――朝の六時に必ずやってくる男がいる。目的は「僕に棒をのませるため」だ。「それもところどころ瘤のある一メートルほどのしっかりしたやつ」だ。

 

僕の生活は、棒をのむことによって始まる。棒をのみ終るやいなや、僕はもう棒のことなぞきれいさっぱりと忘れてしまい、上衣に手をつっこみ、帽子に頭をつっこんで廊下へととびだすのだ。僕は、結構一日の目的だけはちゃんともっているような顔をして、すたすたときめられた道の上を歩いていくのである。〔…〕

 

「一体なにがおもしろくて、きちんと六時にやってくるのかね。」

すると彼は、そらきたといった顔で、即座にこう答えた。

「冗談じゃない。もともと君がいいだしたことじゃないか。自分がさきに頼んでおいて、なにが、とはなんだい。」

「僕が頼んだって? なんだい、それは。」

「からかっちゃだめだ。毎朝六時、それより早くても、それよりおそくてもいけないと、あれほど念をおしたのも君じゃないか。」

「僕が、六時にだって? 冗談じゃない。」

「冗談じゃない。」

 最後のせりふは、よく息の合った芝居のように、まるで一人のせりふに聞えたが、彼はもうそれ以上相手にならず、さっさと立ちあがった。

「いずれこんなことをいい出すとは思っていたさ。ついでにいっておくが、仕事が終ったら、よけいなことをいわずに、さっさと出て行ってほしいといったのも、そもそも君なんだぜ。」

 彼はそれだけのことをいうと、さっさとドアを開けて出て行ってしまったのだ。

 僕はその日いちにち、頭があつくなるほど考えてみたが、何がどういうふうにしてはじまったかは、ついにわからずじまいだった。(「棒をのんだ話」一九六五年)

 

 少しまとまった引用をすると何となく伝わるだろうが、たとえば村上春樹が書いていてもおかしくないような感触である(実際、登場人物が「やれやれ」とか言いそうだ)。そして、夕方六時になると、また男がやって来ては、今度は朝押し込んだ棒を抜き取って帰っていく。するときまって僕は泣き出すのだ。

 

 そんな毎日のなか、ある日偶然「僕」は、同僚もまた棒をのんでいる光景にでくわす。それについて思案していると、「むやみに爪の長いオールドミス」が声をかけてきた。

 

「気にすることないわよ。あの人はただ、棒の尊厳を維持したかっただけなんだから。」

 しかし、オールドミスのその、ごくあたりまえの言葉が、僕には新しいショックだった。

「棒って、君、あいつも棒をのんでるのか。」

「なにいってるのよ、棒ぐらいだれだってのんでるじゃないの。それともあんた……。」

それから彼女は、急に不愉快な顔をしてだまってしまった。自分自身の想像の思いがけない重大さに、自分でショックを受けたらしかった。

 だが僕にとってその時のすべては、かけがえのない新しい経験だったのだ。得体の知れない熱いせつないものが喉もとへいっせいにこみあげてくると、僕は知らずしらず立ちあがっていた。僕には、同僚や上司たちをつぎつぎに見まわして行く自分の視線が、次第に火のようにあついはげしいものに変って行くのが、自分でもよくわかった。

(こいつも……そしてこいつも……。そろいもそろって、よくもまあこんな大変なことを……。ひとりのこらず同罪じゃないか……。)

 部屋のなかがいきなりしんとした。誰も彼もが不意に腰を浮かすようにして、いっせいに僕の方を見た。僕は彼らに対して、まったく唐突に愛を感じた。僕はなにかしゃべりたかった。だが声にはならなかった。僕は、ただ茫然と交通事故の現場を見まもっているだけのような同僚たちの視線にそれ以上耐えられなくなって、そのまま廊下へとび出したのだ。

 

 小柳は、この「棒をのんだ話」が書かれた経緯について書いている。それは、木村閑子(本名:舟橋智枝子)の小説集『まぐだれーな』(一九八九年)のあとがきに書かれているという。シベリアから帰国後一年の頃、当時まだ無名の石原吉郎と偶然近所に住んでいた舟橋は、石原からドストエフスキー椎名麟三など文学修行の手ほどきを受けたという。やがてプロテスタント文学集団「たねの会」に参加した舟橋は、後に石原をも誘ったらしい。小柳は言う。

 

どういう事情があったか見当もつかないが結局詩人は参加しなかった。しかし関心がなかったわけではなく、例会に参加するためには短篇一作を持ちよらねばならない規則に従い、前号に紹介した「棒をのんだ話」を書きあげた。この作品は決して散文形式をとった詩ではなく、小説として構成されたものなのである。もっとも作者自身は決して小説という言葉は使わず『石原吉郎詩集』(四十二年)のあとがきでは「私自身の格好のつかない神話である」と解説している。

 私には小説を批評する能力はないが、鑑賞という立場からみて、終末近く主人公が「よし、あした教会へ行ってやる」というあたりがどうも唐突で、たどたどしさを感じると前回に記した所以なのである。どうしてこんな所に教会が出てくるのだろう。プロテスタント集団ということを意識しすぎていたのだろうか。あるいはキリスト教石原吉郎にとって最後まで格闘せざるを得ない対象だったのか。

 

 石原唯一の小説「棒をのんだ話」は、プロテスタント文学集団「たねの会」への入会規則のために書かれたわけだ。にもかかわらず、石原は結局入会しなかったのである。そのあたりの事情について、大西和男は、当の舟橋智枝子にあれこれ尋ねたようだが、「彼女自身がどこか浮世ばなれのした、現実とピントの合わせにくい性格の持主で」、あまり要領を得なかったらしい。その話を聞いた小柳が、「石原吉郎はそういう現実ばなれのした、あやうい感じの女性が好きだったなあと思ったという。それは大西も同じだったようだ。

 

「まったき僕の推測だけど」といやに強調しながら「石原さんは舟橋さんに惹かれていたのではないかと思う」と大西和男はいった。私もそう思っていた時なので例によってすぐ話が下落してしまい、

「あ、やっぱり。で、その女(ひと)もそういった?」

「〈私が恋人でした〉って? まさか! 女流小説家はね、どこかの女流詩人みたいにみっともないこといわないよ」

大笑いをして、この話はおしまい。

 

 石原をよく知る二人が口を揃えて言うのだから、よほど舟橋は石原好みの女性だったのだろう。一方、舟橋は、「たねの会」の月報に〈ロシナンテ〉時代の石原についてこう書いている。「ロシナンテの会員は石原氏を除いては皆二十代の前半で、当然仲間同士の恋愛関係も発生し、時折唯一の世帯持ちである私の所へ相談がもちこまれた。その中には石原氏と結婚したがっている女の子もいて、氏が彼女と結婚する意志のないことを知っている私は本当に困ったこともあった」(「石原吉郎氏と教会」)。

 

 もちろん、「たねの会」に入会しなかった理由が、舟橋をめぐる恋愛関係にあったかはわからない。だが、戦前から受洗し、神学校の受験まで考えていた「戦後のにわか信者ではない」(小柳)石原吉郎のことだから、ついそれが信仰上の問題であるかのように想像してしまうが、おそらくそれも違うのだろう。小柳が難じる、石原を形而上的に捉えすぎる傾向である。石原にとって信仰の問題が重要だったことは間違いないが、それでも現実においては救われなかったからこそ、迷惑をかけまくることも含めた女性問題が大きくなっていったのではなかったか。

 

(続く)

 

遅すぎる、早すぎる――小柳玲子と石原吉郎 その5

 石原は、選んで「断念」したのではない。「形式」の輪郭でもって性や情動を「断念」しなければ言葉を発し得なかったのである。

 

 花であることでしか/拮抗できない外部というものが/なければならぬ〔…〕

 そのとき花であることは/もはや ひとつの宣言である〔…〕

 花の輪郭は/鋼鉄のようでなければならぬ(「花であること」)

 

 この詩などは、石原にとっての「形式」やそれをもって「断念=断言」することで、かろうじて石原詩が存在するということが、分かりやすすぎるほどだろう。石原にとって「断念」は「形式」と「奇妙な一致」で不可分なのだ。「野獣」の「狂気」の「断念」こそが「断念なのである。

 

狂気とはなによりも「すがた」である。狂気がひとつのエネルギーとして顕在するそのすがたである。かたちにおいてくるうこと、それが狂気ではないか。

 あるいはかたちが狂気に一歩先行して、狂気をさそい出すのだろうか。そして私が狂気を断念するのも、その一歩手前である。断念と予兆との、位相のこの奇妙な一致は、おそらく私にあってのみ重要なものである。(「狂気と断念」)

 

 だが、「狂気」の「断念」のその先に、まだ生の「断念」=死があった。石原は戦争期にそれを思い知る。そして、「八月十五日」を迎え、その後の数日間で死が遠ざかり、「狂気」が後景へと退くことによって、「生」が顔を出してくる。それは「死」にも「狂気」にも見放され、生き残ってしまうということであった(「八月十五日」をはさんだ精神のありようは、特攻隊の「出発は遂に訪れ」なかった島尾敏雄を想起させる)。だが、「生き残る」ことは「生きる」ことではない。石原は、主体的に「生きる」ためには、あの「断念」をもう一度主体的に呼び戻し、今までとは逆向きに担い直さねばならなかったのだ。

 

断念が死へ向けての生の断念であったとき、狂気への断念は私にはなかった。戦争の時期、私はむしろこのようにして狂気を迎えようとしていたのであり、狂気のそのさいごの位相のようにして、死が、あたかも迎えられるもののように私にあった。

 私が狂気と、断念のかたちで向きあったのは、八月十五日をあいだにした前後の数日であった。その数日で私は、死からも狂気からも見はなされ、あらためて生の場へ向き直ることを余儀なくされた。生きのこるとは、その時の私にとって、そのままに死に見放されることであり、そのままに狂気に見放されることであった。私に残されたのは、死の断念という生死の位相の思いもかけぬ転換であった。

 断念の深さが、そのままに生きる深さとなろうとする地点から、私は歩き出さねばならなかった。であってみれば、断念こそは、生きることの基本的な姿勢であったのではないか。いわば狂気からの離脱こそが、私にとって生きることのはじまりであったといっていい。気のとおくなるような忍耐の過程が、それにつづく。(「狂気と断念」)

 

 石原の戦後とは、狂気、そしてその最後の位相としての死から「離脱」することによって始まった。死に向けて生を断念していた男が、八月十五日を境に、「死の断念という生死の位相の思いもかけぬ転換」を経験したのである。「断念」を境に生死の位相が転換したといってもよい。石原においては、「断念」とは「生きることの基本的な姿勢であった」。石原にとって生きるとは、断念によって「輪郭」を描き、それによって「形式」を設えることなのだ。

 

 そして輪郭によって狂気を断念することで、形式=定型に狂気を圧縮してしまいたいという狂気=欲望が常につきまとうことになる。「私には狂気を圧しころしたいという、狂気に近い願望がある」。

 

 だが、断念=断言の激しさと拮抗していたことで、かろうじて狂気は、情動は、性的欲望は緊張感を「輪郭」へと押しとどめられ、危うい「形式」美を表現し得ていたのである。にもかかわらず、徐々にその「正しい姿勢」を保てなくなっていったのが、サンチョ・パンサの「過程=行方」だった。

 

彼の詩はほとんどの場合強い言葉で断言し、おそらく断言することで自分をある正しい姿に整えていたのだろうと思われる。しかしいくら断言しても、所詮言葉は肉体を支えはしない。彼は晩年になるにつれ言葉だけになってしまったかに見える。

 

 ユーカリにかたらせよ

 ユーカリを病む土地への

 ユーカリの弁明を

 とおいむかしユーカリは移され

 移された土地で

 かすかな空を生んだ

 「ユーカリ」(部分)『禮節』

 

 この詩などはもはや空しいばかりの美しさで、ユーカリという言葉のひびきのよさだけで書いてしまったように思われる。空ろな感じのする幾つかの詩は、彼の肉体が次第にぬけがらになり、もうどうでもよくなり、町をうろつき歩いていることと重なっていくので、私には辛い作品である。しかも肉体は一挙に消滅できないため、辺りに毒素をまき、何人かの人々を傷つけ、それを彼はもはやどうすることもできなかった。

 

〔…〕晩年の石原吉郎は息をつぐまもなく詩を書いていた観があり、糸を吐き続け、吐き続けやがて空ろになっていくように、やっと輪郭だけを保って存在していた。その輪郭を支えるために、彼はしきりと姿勢を正し、それこそ形式美の中へ自分を嵌め込んでいたように思われる。しかし詩はそうした人間の知恵で囲みとったなかにはなく、ひょっと外れた場所にぬけ出て、息をついている。(『サンチョ・パンサの行方』)

 

 確かに先の引用の「ユーカリ」という詩の言葉には、「形式=輪郭」の抜け殻しかない。もはや「断念」しなければならないような緊張感をはらんだ情動はそこにはない。「しかし詩はそうした人間の知恵で囲みとったなかにはなく、ひょっと外れた場所にぬけ出て、息をついている」。石原にとって、生とは死の断念として、またその証としての「囲みとった」「形式」としてあった。したがって、断念がなくなれば、生もまたなくなるのである。そこでは、もはや「食事」という「形式」からも死が漏れ出している。石原にとって「食事」は「生き死にの」「証=形式」としてあり、したがってそれがなくなることで「もう生きなくても/すむ」=死を「断念」しなくて「すむ」という感覚なのだ。

 

 つらい食事もしたし/うっとりとした食事も終えた

 おなじ片隅で/ひっそりと今日も/食事をとる

 生き死にのその/証しのような

 もう生きなくても/すむような」(「レストランの片隅で」)

 

 石原の晩年においてよく言われるのはアルコール中毒のことだが、石原において重要なのは、自らのアルコール中毒を「形式」に囲い込もうとしていたことだろう。「食事」のみならず「飲酒」もまた石原にとっては「形式=手続」としてあった。

 

帰宅して風呂からあがると、ふつうのコップに二杯、時間をかけてゆっくりのむ。私は酒をのむときは、ほとんどなにもたべない。夕食は四時ごろ勤め先の近くで適当にすませて帰る。酒の肴はもっぱらたばこである。コップ酒二杯で一回目の「定量」が終る。

〔…〕私の体調はこの三回目の三杯のところでおさえられているかたちなので、これをこすと翌日はてきめんに体調がくずれる。首尾よく三杯目で栓をして、なかばあきらめに似た思いで、とはいえいく分はほっとして床にもどると、とたんに全量分の酔いを発して、そのまま眠りこんでしまう。

 なんでこんなややこしい手続を経て酒をのまなければならないかというかもしれないが、禁酒ができない以上、節酒しかないと覚悟して、失敗に失敗をかさねたあげく、自然にできあがった「三段飲み」なのである。(「私の酒」一九七四年)

 

 だが、小柳の描く晩年の石原像は、アルコール中毒よりも深刻である。こうした振る舞いを一般的な老醜というべきか、石原固有のものと捉えるべきか。

 

晩年の石原吉郎はちょっとした女性宛のハガキや手紙にも自作の短歌を添え書きする習慣があった。短歌をもらわなかったのは私ぐらいのものではないだろうか。とにかく乱発したのだが、石原吉郎の短歌というのは、どうと評価するほどのものがなく、これを添え書きする神経はかつての石原吉郎には決してなかったものである。

 彼は完全に神経のある部分を冒されていた。ある時、見せてもらった彼のラブレターはその恐しい兆候を見せていた。かつて「いちまいの上衣のうた」に添えられて提出された手紙の彼らしいナイーヴな感覚とは正反対に、この晩年のラブレターは荒々しく、正常な人の手になるものとは思えなかった。

 ある女性詩人が私にそれを見せたのだが、その女性はまた、そのラブレターをもらったことが一種の自慢で、できれば私の口から詩壇の面々にそれを伝えて欲しかった。

 手紙はコピーで(あちこちに同文面のものを出したのだろうか)末尾に、「これを読み終えたら、すみやかに焼却せよ」と記してある。こんな気味の悪いラブレターが自慢になるのかどうか、私には分からないが、彼女のほうは短歌の一首ももらえない私を気の毒がり、軽蔑しているのだから、価値観の相違である。

 その手紙は箇条書きなのであるが、要は「あなたは私に妻があるので、私の好意を受けかねているのであろうが、私の妻はかねてより〇〇〇とは淫らな関係をもっている……云々」という目もあてられないものであった。私は背筋が寒くなり、それ以上手紙を読みすすむことができなかった。

 書かれてあることは、もちろん根も葉もないことであり、全ては彼の妄想の所産であるが、彼の精神の荒廃がここまで進んでいるのを冷静にみつめるという業が当時の私にはできなかったのである。

 

 複数の女性に「箇条書き」の「同文面」の「ラブレター」を「コピー」で送りつける。そのおぞましさもさることながら、目を引くのは、ラブレターもまた「同文面」の「コピー」という「形式」であったことだ。おそらく添え書きの短歌のみがその相手に向けた肉筆の部分だったのだろう。しかも、「私の妻はかねてより〇〇〇とは淫らな関係をもっている」という文言まで付されている――。

 

 このような女性への執着を、先に述べたシベリア帰り「デビュー」と地続きの石原固有の行為ととるべきか、よくある老いによる性的欲望に抑制が効かなくなっていた状態ととるべきなのか。少なくとも、小柳の書きぶりによれば、石原にとって幸か不幸かラブレターをもらった数多の女性もまた嫌がらなかったようだ(無視した女性などはいたのだろうが)。自らを尊敬していて、ラブレターをもらえば喜ぶだろうという女性を選んでいたということなのか。ずいぶんとドン・ファン気質だったものだ。

 

 悪名高いラカンによる性別化の論理式によれば、「ドン・ファン」のあり方は「女性」の論理式に相当する。

 

では、男性の論理式と女性の論理式の違いはどこにあるのか。一方の男性の論理式を考える際に援用されたのは、例外として「すべて」を包摂し、普遍を構築する原父であった。他方、女性の論理式を考える際に援用されるのはドン・ファンである。なぜか。ドン・ファンは、原父のように女性たちをひとつの集合としてわし掴みに囲い込むのではなく、出会う女性をその都度つねに新たなプラス一として、「ひとりひとりune par une」取り扱うからである。(松本卓也『人はみな妄想する』)

 

 もちろん、実際に石原が「出会う女性をその都度つねに新たなプラス一として、「ひとりひとりune par une」取り扱」っていたかは定かではない(そもそも、「女性」の論理式において「ドン・ファン」が援用される時点で、あくまでそれは「男性」が「女性」を捉える論理式ではないのかという疑問は今は措く)。だが、石原の欲望というか享楽のあり方が、「形式=輪郭」に(例外として)「すべて」包摂されるようなあり方ではなく、「形式=輪郭」から常に逃れ去る「ひとりひとり」としてあったとは言える。石原もまたラカンのように、「女なるものは存在しない」、あるいは「女」を「囲い込む」「形式=輪郭」は「存在しない」と考えていただろう。これはまた、石原の言葉たちが、「原父=すべて」に「隠喩」的に包摂されるのではなく、隣接する言葉に「つねに新たなプラス一として」連鎖されていく「換喩」的なあり方をしていることと、おそらく相似的である。これについては、また後で触れよう。

 

 それにしても、「ドン・ファン」石原に「取り巻き」の女性達がいたことは、おそらく同時代の詩人たちには有名だったのだろうが、このようなラブレターと短歌によってその「ファンミーティング」?のつながりが成り立っていたことはどれほど知られていたのか。小柳の記述は、もちろんアルコール中毒についても、「老醜をさらす人間がきまって言い出す」「誰々が自分の金品を盗んだ」という金銭への執着についても及んでいる。だが、この頃のことは「あいまい」だという。

 

何故ならこの荒廃を前にして、なお彼の身辺にいた人というのは、よほど彼を愛していたか、極度のお人好し、あるいは野心家のいずれかである。あとの人々は恐れをなして遠ざかってしまったし、私などは短歌ももらわぬ身の上であるから、少しでも損などしたくない、というおよそ可愛くない損得勘定で、石原吉郎が前方から歩いてくれば、道を折れて逃げてしまうほどにも遠のいていた。そういうわけでこの頃の石原吉郎は私の中で生き生きとした像を結ばない。ほとんど他人の口からもれた噂という言葉で、歪み、汚れてしまった石原像である。

 

 普通、「前方から歩いてくれば、道を折れて逃げてしまうほどにも遠のいて」しまったら、石原吉郎のことにこれほど筆を費やさないだろう。もちろん、詩人たちとの「交流は私のみにくさ、やりきれなさをまざまざと反映するものであって、私は実のところそういう自分を描き出すほうが好きなのである」という小柳自身の気質もあっただろう(彼らとの交流には、詩人たちの醜さではなく「私のみにくさ」が反映していると書くところに、小柳によって暴かれる詩人たちの愚かさや卑小さが、読んでいて決して不快にならない、むしろ好ましくさえ思えてくる部分であろう)。

 

 だが一方で、石原は小柳と和解しないまま他界したのだ。だから、「憤りさめやらぬまま毎日口を開くと石原吉郎の悪口がとび出してしまう私は自分で自分を扱いかねた」という小柳の夢の中に、石原は「あんまり僕の悪口をいわないでくださいね」と現われたという。そのような石原吉郎の詩を、「どうか読んでいただきたい」と言って本書を刊行した小柳の石原に対する思いは、ポリコレ全盛の現在においては想像するのも難しい(小柳の本自体が現在は「読まれがたい」ものなのではないか)。

 

 それが、石原が有名詩人であったという理由からではないことは、本書を読めばすぐに分かる。小柳にとって、石原が有名詩人であったことは、むしろ頭痛の種でしかなかったに違いない。ましてや、鮎川信夫がいうように、「石原さんが死んだらみんな急に石原さんのことしゃべり出したり、書きだしたでしょう。これは面白いことでね、ある意味で孤立した対象で非常にしゃべりいい詩人なんですよ。批評家にとっても、あるいは詩人にとっても石原吉郎という対象は、どうにも手に余るという相手じゃないし、恰好な材料なわけです」(吉本隆明との対談「石原吉郎の死」一九七八年)という流れに便乗したわけではさらさらないことも、一読して理解できる。

 

 最初に尊敬していた人間のことを、まったく尊敬できなくなる。その「行方」を、だがこれほどまでに愛情をこめて書くということ。どんなに裏切られても失望させられても、最初に受けた詩の衝撃を、小柳自身がオブセッションとして最後まで拭い去れなかったということなのだろうか。繰り返しになるが、小柳の生前に会って聞いてみたかったことである。

 

(続く)