2010年2月15日森アートコース:東浩紀「民主主義の新しい可能性」についてのレポート(今更)

久しくブログを書いていなかったのですが、これからしばらく書こうと思っています。
数カ月間忙しく動き回り、様々に蓄積してきたはずですが、それを振り返る意味でも文字として書いておくことが重要だと思いました。

というところで、久々のブログのエントリは、
2月15日(月)に森アートコースで開催された東浩紀さんの講演会、
「民主主義の新しい可能性」の時のレポートです。
基本的には講演内容の振り返りとなりますが、ブログですので自身の考えなども織り交ぜることもあります。その点は了承して読んで頂けると嬉しいと思っています。
(すいません、文章がうんこで、ことばを誰が言ってるのかがごっちゃになってます、申し訳ない)


以下ブログ本編:

講演会導入

ルソーとはまず「アンチ文明」の人でした。彼の初の著書の『学問芸術論』で彼は明確にそういった内容のことを書いています。
そしてルソーはある種の分裂症的な方で、「個人としての存在のあり方を追求する」にも関わらず、有名な著書のタイトル通り「社会契約」について論じている。
ルソーは現代的に言えばいわゆる「引きこもり」のような人であり、ルソーの活動時期と重なる頃にフランスで活発だった「サロン」・「百科全書派」などの活動から距離をとっていました。
つまり、ルソーは当時の巨人と呼ばれる他の思想家達からは基本的に仲違いをしている存在だったわけです。

しかし、そんな引きこもりで非社会的な存在であるルソーが、『社会契約論』と名の付く書物を書いたのです。



ルソーの「一般意思」と、「一般意思2.0」


「一般意思」
ルソーの『社会契約論』では、人間の意思について三つの枠組みが提示されています。
「一般意思」・「全体意思」・「特殊意思」の三つ。
まず、特殊意思とは人間個々の意思、欲望のようなものです。
そしてルソーは『社会契約論』の第二編3章において、
「一般意志は間違うことのない意思」であるという旨を論じており、一方「全体意思はプライベートな個人の特殊意思の総和である」というような内容のことを論じています。
そして、「特殊意思の総和である全体意思の相互に相殺しあうプラスとマイナスの部分を消去すると、差異の総和としての一般意志が顕現し、そして差異の総和としての一般意志は数理的に計算できるものである」というようなことを記述しています。
当時の数学では、ベクトルというような概念はありませんでしたが、ここでの差異の総和としての一般意志はベクトルをすべてかけあわせた時に解として出てくる物と言えるのではないかと、東浩紀さんは解釈しようとしています。

そしてまた次が、ルソーの「一般意思」を解釈するうえで非常に重要です。
ルソーは「一般意思」を論じる時に以下のようなことを論じます。
「充分に情報を与えられた市民が熟慮する時に、そしてコミュニケーションを取らない時に一般意志が顕在化してくる」と。
そしてコミュニケーションを充分に取らない事によって、個々人の間に微細な差異が常に残り、その差異が多ければ多いほど一般意志が顕現すると論じているようです。
この部分、「コミュニケーションは意思を調整する作業になってしまうからダメだが、個人には充分な情報が必要である」という部分が、東さんにとって重要なルソー解釈のポイントになっています。

「法」
また『エミール』解釈の中で東さんはルソーにおける「法」とは何かを簡潔に説明してくれてました。
『エミール』の中でルソーは、人間には「モノへの依存」と「人間への依存」があり「人間への依存」はやめるべきものだと論じているようです。平たく言えば、人間や社会の意思によって社会を制御しようという考え方は間違っており、そうではなく「モノ」として存在しうる秩序=「法」によって社会をコントロールする必要があるんだと。
そして繰り返しになりますが、「一般意思」とは特殊意思やその総和ではなく、特殊意思の集合が持つ「差異」によって顕在化するものであり、「差異」とは当然個々人の意思と意思の狭間に存在するものであるが故に人間の意思の外側に存在するものです。それ故「一般意志」は、人間の意思の外側に成立する「モノ」として定位することができます。
このように、「一般意思」とはモノであり、イコール「法」となりうるものなのです。


「政府」
そしてまた、『社会契約論』の第二編においてルソーは、「一般意志が統治・政府を生み出し、政府とは一般意志の代理人でしかない」というような内容のことを論じており、つまりルソーにとって政府の形態は君主制であろうが議会制であろうが「一般意思」を反映するシステムであればなんでも良いようです。
つまり、「一般意思」という主体・主権は政府という機関の外部に存在し、常に現在の統治形態を問い直すものとして存在すると考えます。言い換えると僕たちが「世論」ということばで想定するものはある種「一般意思」であるとも言えるわけです(当然留保付きで、となりますが)。


「一般意思2.0」
このように差異の総和として顕現する「一般意思」は、
「数理的存在(ベクトルとして計算しうるもの)」であり、
「人の秩序ではなくモノの秩序(個々人の特殊意思間の差異として集積されるものであり、個々人の(特殊)意思の外部に存在するもの)」であり、
「政府の外側に存在するもの(政府とは一般意志の代理人であり、政府とは一般意志の代理をしうるものであれば形態は何でも良い)」です。

そして現在のような、ウィキペディアなどによって実現されている集合知が存在し、ツイッターやブログ、購買履歴などの個人情報がライフログとして垂れ流される社会では、まさに数理的に計算された「一般意思」を抽出することができるのではないか、と提案します。
そしてこれが、東浩紀さんの言う「一般意思2.0」という発想です。
現在の社会においては「計量政治学」と呼ばれる学問が成立しているようですが、そこでよく行われるボートマッチシステムなどはまさに「一般意思2.0」のベータ版のようなものだと考えられます。



集合知ライフログ

集合知ライフログ
集合知*1ライフログ*2などの情報の援用、それによって政治の意味は根本的に変化させられるのではないかと、東さんは論じています。
「一般意思2.0」によって可能になる政治。
それは、人々の意見が数理的に計算されることによって、人々の「生」そのものが決定的に反映される「政治」となります。
またそれは、ライフログの情報に基づき、例えば貧乏な人には多めの資源配分などが自動計算的に給付することができるという、効率的な資源配分が可能になる「政治」です。


コミュニケーションとそれ以外の区別
東さんは「一般意思2.0」によって政治を機能させようと考えるときに、「コミュニケーションによってできること」と「コミュニケーションでなくても出来ること」を峻別する必要があると主張されていました。

コミュニケーションでなくても出来ることとはつまり、人々の無意識を資源配分に活かすことです。
例えば、数理的に現在の計算機科学によって計算される「一般意思2.0」やライフログ集合知などのデータの利用によって可能になる資源配分の効率化などです。
コミュニケーションによってできることとはつまり、人々が意識的に政治・経済的活動に参加することであり、例えばネットによって島宇宙化・クラスタ分化していく中で自身の所属するクラスタから別のクラスタへと意識的にホップすることなどが挙げられていました。




個人的な所見
僕は東浩紀さんの信者であるというタイプの学生では特にありません。
しかしそんな中でも東さんのおっしゃるようなある程度の自動化技術をもっと援用した社会システムの再編に対してはすごく肯定的な立場を取っていると思います。
と、ここで自身がなぜ肯定的にそれをとらえているかを説明するのはなかなか難しいんだなということに直面しています@汗

まず第一に、ルソーの「一般意思」によって捉え返される「コミュニケーション」の概念のあり方に思想レベルで共感するという部分がまずあります。
というのも、僕はシステム論者でありラディカルな構成主義的なものの見方をするタイプなので、コミュニケーションというものが個々人の意思の介在によって制御されうるものであるという可能性を否定する立場にあります。例えば、「昨日何食べた?」という発話に対して「トッピロキー(魔法陣グルグル)」と応答されたときに、質問した人にとって意味不明でもそこに存在したやりとり自体はコミュニケーションでないとは誰にも証明などできない訳です。『涼宮ハルヒの憂鬱』の学園祭あたりで出てくる人語を喋る猫も同じようなことを言ってましたが。
そのように考えたときに、ハーバーマスアーレントの言うような「公共性」の要素としての「コミュニケーション」概念と、社会システム理論家のコミュニケーション概念は一線を画していますし、ルソーの「一般意思」とは後者のコミュニケーションに近い。それ故、社会システム理論を認識ベースとして持つ僕には、ルソーを援用して「モノ」としての「法」を主張することは、思想的に親和性が高いと言えます。

第二に、そもそも現在の情報技術によってある程度の可能性が存在するのであれば、それを行わないことになんの意味があるのかが僕にはわからないということがあります。往々にして文明の進歩というものは人間に反発的な感情を産んできています。例えばベンヤミンが『複製技術時代の芸術』を描いて芸術の「アウラ性」への警鐘をならしたときや、さらには近年でもポール・ヴィリリオが『自殺へ向かう社会』などで主張しているものも、文明進歩への嫌悪感のひとつだと言えると思います。
しかし実際のところ、そういった警鐘に耳を貸し倫理的に進歩それ自体を問い返すということは重要であっても、人間社会は間違いなくそれらを乗り越える形で技術を援用していく。であれば、思想や想像力はそこへの嫌悪感を示すだけではなく、それを追い抜く「向こう側」をいちはやく想定することも重要だと考えるべきなのだろうと考えています。
それ故、そこに自然言語処理やセマンティック技術を使って人々の言語情報から自動的に政策課題の抽出をできる方法論が存在し、アマゾンのリコメンドシステムなどと同様に個々人のライフログなどを援用することによって資源配分の方法をもっと効率化・自動化できるのであればそれに可能性を見出さない手はないと考えてます*3
ベーシックインカムなどの議論も、そういった自動化によってある程度余計な官僚労働力などの中抜きができるのであれば、より現実味も増すものだと考えています。



これ以上ひとつのブログのエントリが冗長になったところで誰にも読んで頂けない問題もあると思うので、今日はこのあたりで失礼します。

*1:ここで東さんが集合知の参考図書としてあげたのは以下の図書でした。

「みんなの意見」は案外正しい (角川文庫)

「みんなの意見」は案外正しい (角川文庫)

「多様な意見」はなぜ正しいのか

「多様な意見」はなぜ正しいのか

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

*2:ここで東さんがライフログの利用について例を挙げたのは、TwitterMicrosoft Photosynthgoogle Page Rankなどです。特にMicroSoft Photosynthは見た目にわかりやすく衝撃的で、ユーザがフリッカーなどにアップした写真を自動的に同期して、ウェブ上に実際空間の写像としての3D空間が再現されています。

*3:ちなみに本ブログの筆者である私自身が昨年よりコミットしている東京大学知の構造化センターのpingpong projectはまさに、そういった情報技術を利用した新しい知の創発・公共空間デザイン設計の方法を実践的に研究しています。→http://www.pingpong.ne.jp/

システム、アフォーダンス、身体拡張性、脳と意識

今日の日記は完全なる雑想日記であることを前もってお断りしておきます。
あと、うっすーい勘違いを含んでいる文脈いっぱいあるので、すいません。だから雑想です。




結局最近のところ自分が気になっていることはいくつかに絞ることができます。


1、身体空間と非身体空間、現実空間と情報空間、のデバイスレベルのインターフェースがどのように変化していくかということ。

2、インターフェースの変化によって、我々人間の意識自体が変化させられることが必至の事実であるということ。

3、現在の情報空間の変化の中において、それらアーキテクチャ構築側とアーキテクチャ環境受容側で完全なる知の二分化が起きていること。

4、知の二分化は、どちらにおいてもある種動物化、ないし「動物」化を引き起こすように思えるが、もしかするとホモサピエンスというレベルでの生物種の進化の分岐する時代が21世紀という時代かもしれないということ。


そんな感じのことです。





1、についてですが、
まず、人間の「意識」というものに対するひとつの仮説としてジュリアン・ジェインズの「二分心」仮説というものがあります。
それはまぁ単純に「文字」使用以前の人間には意識というものがなかったのではないかというようなことを提唱するもので、
「文字」以前の人間には「神の声」が聞こえるみたいな感じのとこがありましたよ、というか「神の声」に従ってたじゃないの?
みたいな話な訳です。


これは割と、オングやマクルーハンのようなメディア論者の議論と接続できるものです。
結局、文字という技術や数字という技術など、空間化され、平面メタファーで語られる抽象記号を使用をするようになったという環境が生まれて初めて、
人間には「抽象」の位相において「仮想」や「表象」空間を想定することのできる「意識」が生まれたというような議論にまとめられる。
逆に言えば、人間には「文字」という環境がなければ抽象的な位相において思考できる「意識」が存在しなかったという話。


つまりは「文字」を利用するという環境に対してアフォードしていった結果、人間には「意識」が生まれるようになってきていて、
記号によって補綴される論理構造を使えるようになったのもそういった「意識」が生まれたから可能になったという話になっていきます。
割とそれは文学史研究みたいな文脈で、記述形式の変遷や、ロマン主義の時代にやっと主人公への擬似同期的な小説がうまれてきたり、
みたいな話は思いっきりなされていて、自分的にはリアリティーまんまんな訳です。


結局人間は、自然環境であれ人工環境であれ身体拡張性であれ、そこにある環境に対して動的に、アフォーダンス的に適応することに依って進化してきていると要約することができる訳です。




2、についてですが、
しかしながら現在の情報環境において、僕たちが情報や知識を平面メタファーで蓄積し続けるという保証はもはや全くなくなりつつあります。

『智場#107』のIECPレポートでテッドネルソン氏が主張しているように、そして具体的には試行中の「Floating World」のようなソフトウェアとそれを利用する際のデバイスレベルでの操縦桿のようなインターフェースが示されているように、
電子空間がそういった現実空間と同様の3次元性のものとして認識されるものとなり、かつ、3次元性のままでインタラクションを行う対象となったとき、
僕たちが平面メタファーの中で培ってきた既存の「意識」構造がそのまま保存されるなんてことは考えられない訳です。


その時のテッドネルソン氏が紹介しているデモ以上に、
ARが今後現実空間に対して当たり前の存在としてせり出すようになり、
操縦桿レベルのデバイスではなく、人間の運動をモーションキャプチャ的に情報化するようなメタ言語とインターフェースが創出されるようなことがうまれれば、

完全にシームレスに我々の身体性や運動が情報空間と同期することになり、そこには情報空間と現実空間の位相の差異すらなくなるような事態が実現してしまう。


空想レベルの話ですが、そういったことが実現するための技術的要件は試行レベルでは出揃ってきていると思われます。


そんな中で、恐らく我々は、オング流に言う「第二の声の文化」を本当の意味で体現するかもしれず、
ウェブによってそれが実現されることを強調すると、「声の文化2.0」が出来上がるとでも言い換えることができるでしょうと。
そこには、「意識」を忘却した人間たちが住まう新しい時代がくる。
つまり動物化というよりは「動物」化の時代が来る(動物を強調してるんですねー、よしよし。ムツゴロウさん風)



しかしながら、
3、のフェーズにおいて指摘する2極化というヤツは、
そういった新しい環境=アーキテクチャを作っている側の人、と、環境=アーキテクチャを受容する側の人、で、
完全な知的二極分化を起こしているよねという、よくいわれるような当たり前の話を想定しています。

簡単に言えば、アルゴリズマー対ググラーみたいな対比です。ネットオタク対身体性回帰派、みたいにも言い換えられるかも。



けど、再度しかしながら、、、と論をひっくり返しますが、
4、そこにおける二極化って、別に知的な人と「動物」化する人が別れていっているというよりは、
どっちも違うベクトルで「動物」化していってんじゃないの?という風に、直感的には思ってしまっているわけです。


まぁ、これは完全な想像ですし、誰かが既にSF小説とかで書いちゃってるような気がする話ですけど。







だからたまーに思うことが少しあるとすると、

パターン生成によって動的に情報空間と現実空間が動的アフォーダンスを行い続けるような方法を構築することにやっぱり興味があって、
身体と非身体性が動的に生成しあう動的オペレーションそれ自体を構想しようみたいなことがやっぱり一番興味があるんだけれど、

パターンを生成するという認識構造、意識構造それ自体が下手するとインターフェースの移り変わりに依ってはなくなってしまう気もしていて。



そしてさっき言った二つの「動物」化ベクトルは、もしかすると数万年規模の目線で見れば、
ホモ・サピエンス・サピエンスという生物種としての人類が、進化の岐路に立っているのが現在かもというような想像を惹起する訳で、

そういう想像のカスケードの中でどれが自分の現実的に取るべき時代への関与の方法なのかということが非常に難しいなぁと、悩んで立ち止まることがあるわけです。




あ、あと付記するならばこれは特に悲観的にそういったことを想像しているのではなくて、
割と不可避的にそうなっていくだろうし、それはある種時間的に生成される人間と言う種の普通の出来事な気がしていて、
そこに特に価値判断を差し挟むつもりもない訳です。

想像しうるひとつの可能的未来。





勝手な想像をブログにぶちまけるという完全なる恥ずかしさなのです。

というか誰かがtumblerでこれに近い仮想SF作品を公開してくださっていたような気がする。。

なんにしてもユーザインタフェースが一番今本質的な問題ではあると思う。
ただ、そこに関しては状況を見守ろうかというような立場を取りつつあるし、取る気がする。

ARには興味はあるんですけども。

さて、いよいよ明日は第一回ウェブ学会である件について。


12月7日(月)9時〜18時、第一回ウェブ学会@東大本郷安田講堂
http://web-gakkai.org/

一か月以上前から、これを待ちつづけていたと言っても過言ではない。
1200人の入場者の中で、割と早い100番台で申し込みをしたし、待ちに待ったというウェブ学会。
知の構造化」、「一般意思2.0」などを本気で議論し始めるメルクマールともなるだろう第一回ウェブ学会。
もちろんもっと現実的な議論として、ヤフーやグーグルやマイクロソフトはてなのCTOなどが中心のシンポジウムの開催されるよう。


・ウェブ学会の模様は中継されているようです。(ニコニコ生中継が入るかもと思ってたけど、今回はニコニコじゃなかったか。。)
⇒ウェブ学会シンポジウム主催者より
「本シンポジウムは Ustream によるインターネット中継を予定しております。アドレスは当日お知らせいたします。」

ツイッター利用者は以下のハッシュタグを追えば議論の内容を中継してくれる(tsudaってくれる)人が沢山居るはずなので、興味がある人はぜひ。僕は今回はシンポに集中するためtsudaらない予定ですが、できるときはツダります。
⇒ウェブ学会シンポジウム主催者より
「講演に関する質問・コメントを Twitter 経由で受けつけております。投稿の際にハッシュタグ #webgakkai を付加してお送りください。」、また本シンポジウムの公式Twitterアカウント @webgakkai にて最新情報を更新しております。


以上、ウェブ学会の紹介。
時間のある人は恐らく中継でもツイッターでも議論をフォローしておいて損のないものだと思います。






ここからは個人的雑記。


ウェブによって与えられている社会の改変は、ウェブ学会の開催のお知らせでも述べられているように、「技術、学術、ビジネス、制度、文化が一体となって進化」させられるものであり、あらゆる領域での人間の社会を改変していると思います。


単純にメディア論的な視座に立ってそれらを概観した時、
仮想的な世界というものはそもそも文字などの抽象記号が存在するようになって初めて存在するようになってきたわけです。
それまでの時代においては当然ですが、人間の世界はイデアやミメーシスといった二つの次元に別れることすらなかったと考えられます(あくまで仮説)。


けれど、
「知」と呼ばれるものが外部記憶に保存しうるようになったこと、
その保存形態が石板、パピルス、羊皮紙、紙と変化してきたこと、
それら保存形態に対して保存するためのデバイスとして、石、ペン、活版、キーボードと進化してきたこと、
さらにそれらをより効率的にどれだけ複製しうるかということ(例えば※産業革命*1
我々にとっての世界認識の論理構造そのものがそれらの組み合わせにより変化させられてきたこと、

など、文明にとって以上のようなものが根源的影響力を保持してきた歴史が存在することを考慮に入れると、現在のウェブ技術は根本的にわれわれの知そのものの存在形態を変形させているうえ、そのインパクトの大きさは恐らく渦中に生きているわれわれの想像をはるかに絶するものとなって行く可能性を持っていると思っています。





現在のところ、ウェブがわれわれにとってその可能性に比してインパクトを与えていない理由は、おそらく、
①インターフェースが紙の次元(平面の次元)を超えていないということ(テッドネルソンの指摘)
②ウェブ上の知のセミラティックな構造が我々にとって現状は可視的ではないこと(目に見えない変化には一般レベルで人びとは気付かない)
③技術の動向に対して人間の想像力それ自体が追い付いていないこと

の3点が大きいと考えています(これら要因はもっとたくさん想定されるはずですが)。




知の保存媒体(紙とか)が変化すると、
知をどういった形式で保存するかという「論理」が変化する。
すると、保存の論理が変わることによって、社会の「構造」が変化せざるを得ない。

簡単に言うと、
文字という石造りの土台(=論理)に今まで石造りの建築物(=構造)が立っていたけれど、
急に土台が泥(=ウェブというコミュニケーションの論理)になったから、上にある建築物(=社会構造)を作り変えなきゃいけないよね
って言うくらいの変化が、知の保存媒体の変化には含意されているということが言いたいわけです。


これは恐らく、自明すぎるが故に見落とされがちな部分なんだと思うわけです。






簡単にこれまでの人間の「知」を取り扱う技術というものは、
「本質」的なものから「方法」的なものへ、「本質」的なものから「関係」的なものへ、
と移動してきていると言える。


一神教が分派していくのは、
「神」の本質の下に平等であった時代から、「神」の解釈をめぐる方法の争いへと変化していくからだと単純化することに、ある程度の真理は見いだせるように思える。

そしてそれが大きく揺らいだのが宗教改革であり、末期中世であると言える。


そして近代は、そのな中での神の解釈方法によって争い、そして、神がないのであればその代替物として扱える何かの境界(例えば国民国家、例えば民族、例えば肌の色、例えば性別)を設定することによって、神という本質から解き放たれた個としての人間を枠組みに包摂しようと試み続けてきていると言えると思う。

つまり近代とは、解き放たれた個をいかに境界内包摂するか、を問われていた時代だと総括できると思う(当然一方で、ある程度流動性を確保された個は、個のアイデンティティーというものを欲求することも求められるようになり、近代とは解放と境界付け、解放と緊縛のアンビバレントな時代だったと総括しても良い*2)。



そしてポストモダンと呼ばれる思想の時代が来る。

ポストモダンと言って想定されるのは当然、フランソワ・リオタール、ミシェル・フーコージャック・デリダドゥルーズガタリなど沢山居るし、東浩紀ジャック・デリダ論でデビューしている。

(東さんは置いておいて、)あれらの思想潮流は、単なる近代批判でしかなく、オルタナティブをうまく提示できなかった時代であるし、ドゥルーズなどはある種のオルタナティブを観念レベルでは提示していたはずだが(ここちょっともっかい調べます)、
結局彼の思想は当時として技術的実現可能性がなかったからうまくいかなかったと言われている。


しかし、現在のウェブの技術は、[空間的(国民国家など)、もしくはイデア的(民族や人種あなど)に]枠組みを構築し続けていた近代が、もはや空間においてもイデアにおいても境界や枠組みなど構築できない状況を作り出していて、境界設定不可能な社会の存在論の素地を生みだしていると言える。





簡単に言うと、
仏教以外の宗教における宗教の時代は、全的本質とそれ以外という境界線を(この時代は今も終わっていないが)、
近代以後は、全的本質から解放された個に対し、国民や民族や人種や性別という想念という境界線を、
総括して、文字時代のわれわれは世界にどのように境界線を引くかということを考えつづけてきていたのだ、
ということが言えるのではないかと考えている。


そして、ウェブという技術は、これまでの境界線ありきだった時代に対して、
境界線を引くことの根源的難しさ、という数千年の歴史内においては人類未踏の状況を生みだしている。


そこにおいて、「いかに境界線を引かないことができるか」という命題こそが問われているし、
それを念頭に置いていない学者やトップクリエーターはほぼ居ないように思う。
(ここに建築という行為の難しさが存するわけだが、建築はまず空間ありきをベースの認識とする故、まったき境界なし、という考えを持ちだすことが難しい)








このように総括してきた時に明確になることは、

私たちは近代という時代から新しい時代への飛行途上に立っているということ、
そしていかに新しい時代へのソフトランディングを構想するかということが重要命題であること、
その二点である。





そして、ネクスト近代を構想するにあたって日本はチャンスである。


なぜなら、日本は近代の末路を世界に先駆けて体現している(その意味で日本は近代的な意味では没落国以外なにものでもない)けれど、
新しい時代のフロンティアに日本こそが立っていると言いかえることができるからである。


世界全体を見てみれば、
EUは圏域拡大や地の利によって近代の隘路到来を先延ばしし、
アメリカは述べるまでもなく移民などを含め人口総体は若い、
それ以外のアジア、ラテンアメリカ、アフリカは今が近代化だし、
中東は独自の論理を持ちつつも確実に近代の論理に包摂されている(ある種反西欧近代という枠組みにおいて中東は非常に近代的と言える。これについてはI.ブルマ、A.マルガリート『反西洋思想』などに詳しいかったと思う)。



それゆえ、向こう10年先まではインフラ技術の対外輸出等で日本は持ちこたえたとしても、
完全に既存の枠組みでは没落国になっていくことは間違いない。


そこで既存の枠組みで戦うことが日本の進むべき道か、
一方でまったく新しい時代を構築する方法論の試験場となるか、
日本という国家が進むべき道はその二つに一つしかない。


自分としては、後者を取りたいと思っているし、後者に向かって対決する人間であり続けたいと思う。







そしてこれらすべての記述が、所詮は若者の戯言でしかなく、あまりにもアホらしい。









12月9日(水)は東大知の構造化センターのミーティングに初参加。
http://www.cks.u-tokyo.ac.jp/


12月10日(木)は、d-laboにて濱野智史と長尾真のトークセッション
長尾 真 氏 ・ 濱野 智史 氏 「これからの知−情報環境は人と知の関わりを変えるか」
http://www.d-labo-midtown.com/d-log-detail.php?id=190


12月14日(月)は姜尚中北田暁大研究室主催「闘争としての政治/信念としての政治」シンポジウム


12月18日(土)は東大UTCP主催「大学における人文科学の未来」シンポジウム
http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/events/2009/12/colloque_lavenir_des_sciences/


など、とりあえず詰め込めるものは詰め込んで、年明けからは身体移動は控えめにしながら文字媒体を中心の研究生活に戻ろうと思っています。

*1:ここで産業革命を複製技術の爆発的拡大という意味において、知の構造を大きく再編した要因としてきっちり注目しておく必要があると思う。単純に経済的なイノベーションやそれによる社会の都市化とかで考えるのではなく、それは知の再編過程であったとして捉える必要性があると思っている。当然そういった環境があったからフランス革命などの市民革命のイデオロギーの素地が作られたであろうし、さらに個人的にはフランス革命のような革命こそが衆愚的革命だったのではないか?という疑問を抱いている。この辺はもっと勉強しなきゃいけないと思っています。

*2:ここで人間は機能分化された役割とそのまとまりとしての個という存在様式を手に入れることができ、それがあったからこそ人間はウェブ社会における並列的役割の機能分化に対しても個として対応可能性を持ち得ているのだろうと思っています。

システム論と三項図式と、コミュニケーションと社会、そしてコーディングと情報化。についてのメモ(自身twitter発言のコピペ)

あとでここに絵を描いて挿入したい。また今度(自分へ向けての発言です)。

システム論的発想を利用するとやはり社会の在り方をうまく記述できる気がしている。簡単に言うと、環境からシステムが分出し、システムは独自のコーディングの「形式」でもって分出するので、システムの「構造」はコーディング「形式」に対応する数だけ存在するし、だから色んな社会が存在しうる。

現在の社会を論じるにあたって重要なのは、システムが持つ「構造」の位相で議論することではなく、システムが持つ「分出形式」・「コーディング形式」で議論することだと思っている。なぜなら、現在のウェブなどのコミュニケーション様式は、まさに「コーディングの形式」を変化させているからだ。

具体的にいえば、これまでの「コーディング形式」は単純にマクルーハン的立場に立って「文字」などに代表される論理形式によって規定されてきていると言える。一方で、現在の電子の情報は既存の論理形式をメタ記述する「コーディング形式」であると言える。メタ記述形式は、遠藤薫的に言えば「エクリ・エクリ」と呼ぶこともできるだろう。

ここに後で絵を挿入したい。(コーディング層が二層になっているシステム環境図絵を挿入)

さらにAR的な発想は、エクリ・エクリの「形式」を利用してシステムの恣意性をシステム環境に投射する技術可能性を顕在化している。確かにそれは認識レベルに限定された環境への働きかけであるけれど、認識を存在(ないし環境)に帰せられない社会が顕在化すれば、それは割とまったく新しい現象であるように考えることができると思う。

ここにも絵を挿入。(ARによってシステム内コードが環境を記述する様相、これはオープンソースアーキテクチャの現実空間への干渉とも位置づけることができると思う)。


で、まとめていうと、おそらく、システムの環境との境界線の引き方が変化してきていると言える。僕は以前ブログで三項図式とシステム・環境・動的オペレーションの三項を対応させて論じたが、現在は動的オペレーションのための「コーディング形式」がエクリとエクリ・エクリに二層化しているはずだ。

というのが、観察者として現在の社会システムを俯瞰したときに見える今の社会システムのあり方のように思えている。





そして例えば、エスノメソドロジーなどの現象学的調査方法は、「コーディング形式」を精査しようとする方法論だと思っているので、今後きっちり勉強したいと思っている。

実はカルチュラルスタディーズなんかも、場の論理を追求するものであるので非常に「コーディング形式」を調査する方法として有効な気がしているが、なぜあれが割と政治的なものに包摂されがちなのかは不勉強故よくわかっていない。おそらく出自的なものだと思うが、未修というかんじ。







で、今度は話の位相が変わり、コミュニケーションを社会システムの構成要素と見ると、という仮定を受け入れつつの話。で、そもそもウェブのコミュニケーションが新しい感じで簡単に言われているけど、それはどういった新しさがあるのかを精査する必要性がまずあるということ。

短絡的な発想で言うと、ウェブ的コミュニケーションは都市的コミュニケーションに人間が慣れ親しんでいたから可能だったのではないかという考え方ができる。単純に都市生活によって機能分化された個が存在したからこそ、機能分化のあり方の変化形態として簡単にウェブ的コミュニケーションにも人は対応できた、という考え方。

時系列的に直列な機能分化が既存の都市的個の機能分化であったけれど、それがウェブによって並列機能分化に形態が変容していると言えるだろうということ。そして、そのように個の機能分化によってコミュニケーションの形式が変化しているのであれば、その表象である都市や政治なども当然変化すべきではないか?と言える(gov2.0、民主主義2.0の議論と接続される)。

つまりコミュニケーションのコーディングが劇的に変化している訳だから、システムの構造とミスマッチを起こしているのは自明なわけで、じゃあシステムの構造を原理論レベルで作り変える必要あるよね?って考えるのは当たり前すぎる発想であると考えている。そしてなおかつ現在の情報技術を駆使し、アーキテクチャをうまくオープンに構築できれば、それは実現可能性がある。




少し話は遡及して、都市的コミュニケーションによってウェブコミュニケーションが可能になったのであれば、ウェブコミュニケーション的なものの源流はペルソナ的な発想まで遡及する必要がある。機能分化できる個が存在するその歴史的源流を突き詰める必要性、つまりはギリシアにさかのぼる必要があるし、アーレントとか読まなきゃいけない。






そんなところでしょうか。とりあえずこれは僕の黙想かつ備忘録です。そういった位置づけのブログなのであしからず。



ちなみに

11月21日(土) 東京大学知の構造化センターシンポジウム→http://www.cks.u-tokyo.ac.jp/



11月22×23日(月×火) 慶応大学SFC、orf2009の各種シンポジウム→http://orf.sfc.keio.ac.jp/



11月25日(水) Revita、クリエイティブラボ第三回(guest;design matt李氏)
         →http://www.rebita.co.jp/seminar/creativelab/



と、今週から来週にかけては各種おもしろそうなシンポジウムやトークセッションにたくさん参加しています。

興味のある方は非常に有意義なものに自分は思っているので、一緒に参加しましょう。

一方逆に、何かお勧めのシンポジウムなどありましたら、教えてください。

DESIGNTIDE×pingpong、トークセッション@六本木ミッドタウン、が非常におもろかった件について。

10月30日(金)DESIGNTIDE×pingpongっていうイベントのトークセッション行って来ました@六本木ミッドタウン



先に関連情報に関するURLでも提示しておきます。

DESIGNTIDE(デザインタイドのトップページ)
http://www.designtide.jp/09/jp/


DESIGNTIDE×pingpongについて。
http://www.pingpong.ne.jp/


pingpong本部、東京大学知の構造化センター
http://www.cks.u-tokyo.ac.jp/




今日のトークセッションの出演者は

岡瑞起(東京大学知の構造化センター特任研究員,pingpongプロジェクトマネージャー)
濱野智史(日本技芸リサーチャー)
李明喜(デザインチームmatt主宰,pingpongディレクター)他



議論の焦点は、デザインという思考の現代における転回はどういったものか、というようなもの。
より具体的に言うと、「行為」をデザインするにあたって、
①行為(あるいは意図)や情報を構造化する方法 と、
②構造化された行為をいかに具体に結びつけるのか
という、おおまかに二つのフェーズにおいて、デザイナーの立ち位置をどこにどう取るべきかという話。




まず、
①行為を構造化する方法 について。

今回の話の中でメインテーマとして出てきたのは、デザイナーそのものの存在論が転回しつつあるのでは?という話。

具体的には今後、
デザイナーのエゴが出ているデザインではなく、もっと使用者の体験レベルの行為をいかにデザインできるかっていうところが中心になってくるだろうと。

その考えそのものは非常に古びていて、
単純に機能主義の建築などは常に使用者の動線などを想定して作られていたりはしたけれど、
そこには往々にして、デザイナーや制作者の「物語」が挿入されていた。

しかし現実的に、オブジェクトが制作された段階においては、
デザイナーの「物語」は使用者の体験レベルから離れたものになってしまうことが往々にあった。

例えば、掲示板やインフォメーション伝言版のようなものは本来人の立ち止まる場所として設計されたのに、実際の使用者の動線を観測したところそこは通過点になってしまっていたりする。
(pingpong多摩美図書館プロジェクトの例を取りながら、詳細はHPを参照してください。)


その解決策のひとつとして、実際の人々の動線の在り方を情報として蓄積し、その情報をセマンティックな情報構造化技術を利用することで構造化し、
それによって可視化された実際の人々の動線の観測から空間構成そのものを新しく作り変える案が出てくるのではないか?

というような話。


そして、そういった多量の情報の採取と、その情報の様々な軸の取り方による解析データの作成、さらには解析データ間の有意性の測定など、
それらが現在のコンピュータ技術であれば可能になってきているだろうということ。



で、ここでひとつの問題提起。

そこにおいてではデザイナーはどういった立場を取ることが正しいだろうか?


そこへの議論展開。

恐らく、自身のエゴによるデザイン性の追求ではなく、
無限に蓄積されうる生のユーザーの声を解析することによる、ユーザーの使いやすさのデザイン性を追求することではないのか?

自信満々のデザイナーというよりは、消費者ニーズを有意に体現するデザイナーこそが新しいデザイナーなのではないか?

そのためにデザイナーこそ、自身の趣味性に凝り固まるのではなく、新しい技術の可能性に飛びつく必要があるのではないか。

そもそもデザイナー的存在は、新しいものに敏感であったはずなのに、近年のデザイナー一般は物質的デザインの領域から脱却して、ウェブにおける不可視な情報やソーシャルネット的関係性をデザインするという発想、新しいものへの嗅覚が鈍っているのではないか?

というような話が出てきました。



そんな中で、デザイナーの立場である 李明喜氏が、

「現在のデザインの発想の転回は、デザイン1.0からデザイン2.0への進化というよりは、
これまでの前期デザイン時代から後期デザイン時代への転回と言えるだけの大きな転回であるのではないか」

ということをおっしゃっておりました。






次に
②構造化された行為をいかに具体に結びつけるのか という感じの話。

この話の中にも焦点はさらに二つ存在し、

1、まず情報を構造化する方法論そのものを導く方法論について
2、構造化された情報をいかに具体にデザインするかについて。



1、まず情報を構造化する方法論そのものを導く方法論について
ここはうまくは処理できない問題として、人間の力に残されるだろうというのが議論のおおかたの落ち着きどころ。
しかしながら、セマンティックな解析などによって何か一般レベルから可視化することのできる構造化の方法論や軸を見つけられるようにやってみたいというのが展望。


個人的に、ロングテール的な発想と同じく、突飛な発想と当たり前すぎて見落とされる重大な発想などは、
実際には一般レベルから可視化されて見えてくる部分も大きいのではないかと感じたのだが。
そういったものはまさにグーグルやアマゾンがなしえたもののなかで評価すべき功績なのだとは思うわけで。

ページランク的な情報への重みづけみたいなもののアーキテクチャの構築方法によって、よりロングテールに目を向けられる可能性を顕在化できる気はする。



2、構造化された情報をいかに具体にデザインするかについて。
ここにこそやはり、デザイナーの今後の立ち位置が残されている。




だから、総体としてデザイナー不要論ではない。

デザイナーは必要であるが、存在論的に根本からデザイナーは変化を求められる可能性はあるのではないか?

というのが落ち着きどころ。




実際問題として、こういった技術的要件によって情報がたくさん可視化されることによって、
そういった情報から何かを作り出すデザイナーへのニーズは増えるのではないか?
という風に、岡瑞起さんが言っていたのだが、それは非常に的を得ているように思う。


実のところこれは、デザイナーの能力そのものが変容する必要性についての議論がなされただけであって、
全くと言っていいほど、デザイナーへの死刑宣告ではない。

むしろ、デザイナーに既存の方法論ではない新しい方法論が提示され、それがオプションとして増えたということでしかないのではないか?

というのが個人的な所見。


そういった意味では、既存のやり方以外に消費者や利用者にリーチできるための方法が増えたと思い、むしろ楽観的に状況を喜ぶことが重要なように思われた。










ここから先は自分自身の雑記。




まず、政治とデザインの発想の相同性(これはただのたとえ話なので、それ以外の大きな意味も発想も含意していません)。


政治とは、住民 の意図を汲みながら、 社会構造 をデザインする存在。
と、考えれば、政治においても当然デザイナーと同じく
集合知をいかに構造化して利用するか、
②そのためにどういった軸を構造化の軸として取るか、
③それが可能になるための規模とはどの程度もものなのか

などを現実的要件として考えながら、その可能性試してみる必要性は非常に大切だということ。





第二に、
東浩紀が10月25日、朝生終わった後頃にツイッターで言っていた発言として、

「バカと言われること覚悟で言うと、ぼくが実験してみてほしいなと思っているのは、「政策単位の投票」+「投票利益とSocialGraphからなる投票権のグーグル・ページランク的な重み付け」で成立するシステムです。」

また、これは確か昨日の発言として、
「投票をPageRank的に重み付ける方法のアイデアと、住民の無意識の生活情報から政策を自動生成するアイデア。そのふたつの大枠が固まれば、一般意志2.0は生成することだろう。」

などがある。


「政策の自動生成」が、実ところpingpongが試行しているシミュレーションの目指すところといえる。

「政策単位の投票」に関しては、完全に政治レベルでの制度設計の問題。

「投票のページランク的重みづけ」は、実は一般に対する受けは良くないとは思う。ここに関しては、読み取り方が2種類あるので、なんとも現状で意見を述べることができない。
けれど、投票の重みづけに関しては、非常に重要な議論だと思う。これは恐らく、棄却された政策においてもどういった重みが社会に存在したかを明示化する故、勝利した政策が負かした政策がどれだけの重要性を持っていたかを可視化できるからだ。
割と当たり前な発想だけれど、これは非常に重要で、まさにロングテール的な発想のひとつなのだと思う。








あと、さらに一つ、メモ。

代理ー表象モデルで捉えられていた世界が終焉したというのは、当然ポストモダンの思想以降は自明なわけだ(というより、カントが認識論を転回して以後、近代は常にニヒリズムと表裏一体の状況であり続けている。ドイツ的っちゃドイツ的やが)。ここでポストモダンということばで僕がイメージするのは、構造主義以降として捉えて頂ければよい。


代理ー表象モデルの世界の終焉は捉え方によって想定すべきスパンはそれぞれだが、

でかく考えると、イデアーミメーシスのモデルで捉え、プラトン以後の2500年季として考えられるし、

具体的な消費構造や経済構造のレベル、ひいてはイデオロギーのレベルで考えるならば、
マルクシズムの台頭以後の共産主義対資本主義の対立構造の終焉として考えられるから、250年季とも考えられるし、

近代的人間観のレベルで考えれば、中世後半からルネサンス頃からの1000〜500年季の転換とも考えられる。


で、
代理ー表象モデルが終わり、現在の社会が東浩紀流的なタームで言う「データベースモデル」の社会になっているととらえること自体は納得がいく。




そうやって考えたときに、濱野智志が言っていた、

近代という構造がデータベースとして流動化してきたものから、
再度構造化をするフェーズが現在なのかもしれないとふと思った。

みたいな言葉は当たり前すぎる現状認識やけれど、まさに本質をついている。



さらに言えば、ここで再構造化を論じるにあたっての構造化そのものの方法論は、近代や過去の方法論とは根本的に異なるということが重要になる(だからこそ一夜にしてpingpong的な方法論に非常に魅せられた)。


ということで一番重要なポイントは、

「構造化の方法論をいかに構築しうるのか」という問題。

こここそが、一番急務かつ本質的な問であり続ける。



無限の智をどういった方法で構造化する、たとえば何をパラメータの軸として取るのかという発想そのものは、知識人的な人々や最後に質問をなさっていたpingpongプロジェクト内部の女性のような言語系の方、さらにもっと心理学的な人であるとか、物理学者であるとか、
様々で多様な観点から構造化する方法論は導き出される方が良いきがするし、

もっと一般的な「当たり前やのに忘れてた!」的な構造化の軸を引っ張り出す必要もあるだろうと。





長々としてしまったですが、とりあえずのところ個人的な備忘録としてのブログなので、こんなとこで今日は失礼します。

日記というかメモです。先週はいろいろと盛り沢山だったことと、関連したエントリーをそれぞれ書かなきゃならないという自己言及。

先週は色々と盛りだくさんだった。


10月20日(火)は『GLOCOMフォーラム2009』を聴講させて頂きに青山ダイヤモンドホールに行ってきました。

詳細→http://sites.google.com/site/glocomforum09/


講演者は

ケビン・ワーバック(アメリ連邦通信委員会(=FCC)のアドバイザー)
関口和一(日経新聞の人、GLOCOM客員教授
夏野剛(元NTTドコモのimodeとか作った人、現在慶応SFC特別招聘教授)
津田大介(メディアジャーナリスト)
石黒不二代(株・ネットイヤーグループCEO)
木村忠正(東大総合文化研究科准教授、GLOCOM客員研究員)

みたいな感じでした。


これに関しては別エントリーを近日中にもう一つ記述しようと思っています。







10月21日(木)は自身の所属している大学院研究科内での交流会。
自身の所属には教育学専攻、社会学専攻、社会福祉学専攻、心理学専攻があり(ここに新聞学専攻を名前を変えて参入してくれたら、もっと有意義な交流の幅が広がると思うんだけれど、コミュニケーション学とか)、僕自身のその世話役的に携わっていたので参加しました。

といっても、心理学理論を援用しながらシリアスゲームの開発をしようとしている人と知り合ったことと、
前から仲良くして頂いている、現在ルーマン読書会(今後ルフェーブルを読む予定)を一緒にやっている社会学の30過ぎの先輩と久しぶりに話をしたことくらいが収穫。



シリアスゲーム関係のことをやっている人は、きっちりと今後の自分の居場所に関して考え始めているようで、
iphoneアプリなどのプラットフォームを利用したゲーム開発の部分でゲームを作ることを考えているようでした。

「ゲームとしての競争力としては、心理学の理論的素地をもった信頼度の高い教育シリアスゲームみたいなものを作ることでニーズはうまくゲットできると思っていて」というような話をしていたのですが、
結局のところそういったオンラインゲームでの収益をいかにあげるか、いかにマネタイズできるかというところはネックなんだろうなぁと思いました。

後、僕にはわからないところで、「映像表現等の技術レベルでは飽和点が来ていて、、」みたいなことを話しており、そういう意味では、映像モニターや操作などのインターフェースのレベルでの技術開発が前進すればまた表現技術も変わってくるのだと思い、インターフェース次元だったり使用デバイスの次元でのイノベーションの可能性を見る必要が、コンテンツ制作者にも大きく影響を与えるのだなぁと感じました。





社会学の先輩には、「夏の間に就活をすることにしたことと、その理由は30までに起こるであろう次世代イノベーションの最先端を見据えながら30頃に起業をするための人脈と経営ノウハウを身につけようと思ったから」というような話をしていると、
その先輩もちょうど、「そろそろ起業を考え始めている」みたいな話で、とりあえず盛り上がり、、@笑

根本的に産業構造や、どういった企業が社会的に求められるかという社会的なニーズや価値観、ひいては時代そのものが大きく転換しているので、既存のものとはまったく新しいパラダイムというか理念を持った、有意なソーシャルアントレプレナーとしていくつかのニーズを満たせる企業を創っていかないとね。というような話が抽象的な次元では行われ。

具体的なところは絵にかいた餅になってしまうのでここでは書かないですが、個人的には彼のような先輩と一緒に働けてもおもしろいなと思っていて、今週一番テンションが上がったのがそこでの話でした。







10月22日(金)に行ったデジタルコンテンツEXPO2009と、そこで参加した「デジタルコンテンツプラットフォームシンポジウム」もなかなか面白く。

デジタルコンテンツEXPOの展示自体は、技術的なことはよくわからないので観客魂丸出しできゃっきゃ楽しかったです。
と言いつつ、金曜の割に混んでてめんどくさくなったので、興味あったのに体験してないとかいくつかあったり。
3D系のテレビなんですけど、個人的にそんなに驚かなかったんですよね。別に奥行そんななくて良いやーとか思ったり。
もう少しの技術の向上とかが待たれるというのが自分的には本音。まぁまだ個人の日常使用向けではないなというかんじ。


ひとつだけ特におもしろいと思ったのは、仮想上の熊のぬいぐるみにさわった感触を指に伝えるインターフェースの展示。
まぁぬいぐるみ自体に触れた感じというよりは、物に触ったときの反動みたいなものに特化しているうえ、まだまだの技術なのだと思うのですが、
仮想上の物体に対する触覚インターフェースの研究が、実際にデモで行えるところまで来ているのはすげぇなと思いました。

ARとかで作った電脳物質に、電脳的に触覚を付与することができる可能性を演繹的に想像できる訳で、ちょっとすげぇなと。
まぁ、現実的にはインターフェース自体をどういった形で実用化できるかとか考えると、すげー先の世界ですけど、触覚と視覚と聴覚を結びつけるという試みは他にもみられたので、非常に興味深かったです。




「デジタルコンテンツプラットフォームシンポジウム〜新たなコンテンツビジネスを生み出すプラットフォームの行方〜」も非常に興味深く聞かせて頂きました。

モデレーター:津田大介
お話:川上量生ドワンゴ会長)、植田修平ゲームポット代表取締役)、信谷和重(経産省文化情報関連産業課長)

といった面々。

シンポジウムのテーマ設定は「デジタルコンテンツをいかにマネタイズするか」というところでしたね。
これについても別エントリーで自分のために整理しておこうと思うので、別記します。








10月22日深夜から、「朝まで生テレビ」。偶然テレビかけたら東浩紀が出ていて見てしまう。

僕は番組が始まった当初にツイッターで、

「世代間の対立という争点そのものの設定が、実際問題争点がカスケードを起こしているように思ってしまうのですが。まぁ黙って聞こう。」
「世代間論争という設定より、世代を超えていかに共同性を構築するかということに設定変えた方が良いと思うんですが。まぁ黙って聞こうpart2。」


という風に呟いていたのですが、

しばらく何も発していなかった東さんがはじめに話を振られたときに同じようなこと、「未来を語る必要がある」とか「今までの話がまったくつまらない」的な発言をして、おもいきりよく議論をおもしろい方向にひっぱってくれたのが気持ちよかったですね。

これに関しても、自身のツイッターの発言等見返したりしながら、いくつか普通に自己の考えと引き合わせて後日何かアップしようと思っています。


なんにしても、http://www.j-cast.com/2009/10/24052476.html のニュース記事のように、東浩紀の発言が「大胆」であるということばで表現されている時点で、「想像力が技術や現実に追いついていない」という状況が露呈されているように思う。

東浩紀が放送で「ロングテール」ということばを持ち出していたが、
ロングテールという発想はもはや埋もれてしまったかのように見えるものが発見されやすくなり、実はそれらも集合すれば相当な売り上げになってくるということなので、
それは非常に個人化されたトリビアルな智を拾い上げることのできる可能性がネットの世界にはあるということを実証してくれている訳で。

だからこそ、ウェブのアーキテクチャの設計によってミクロな智を拾い上げることのできる可能性はより増大するし、そこが重要な議論の焦点になる。


といったところで、昨日の深夜頃、東さんや昔のised@glocomのメンバーだった人たちが、ツイッター上で面白い議論をなさっていたのを現在拝見中。



もし安田講堂で12月7日にシンポジウムが開催されるのであれば、間違いなく参加したい所存であるという意思を勝手に表明しておきます。

参考↓
http://togetter.com/li/399





いやぁ、先週はとりあえず盛りだくさんではあったなぁと、思い返しつつ。

ウェブ社会は信頼社会なのか、安心社会なのかということ。

昨日の深夜、と、今日の夜と、池田信夫氏のブログを簡単にチェックしていました。

というのも、池田氏の著書である『ハイエク、知識社会の自由主義

ハイエク 知識社会の自由主義 (PHP新書)

ハイエク 知識社会の自由主義 (PHP新書)

を読みかけているので、簡単に池田氏自身のブログも見ておこうと思ったのです。

ハイエクの市場原理への言及はGLOCOMあたりでもよくなされており、池田氏自身もGLOCOMの研究員をなさっていた経歴を持っていたり。
なんにせよ、知識社会化していく社会において、そこでの新しい経済原理においてハイエク的な自由市場原理への信頼感はいろんなところで言及されている。それゆえまずとっかかりとして、読んでおくべきだとも思っているわけです。



しかしまぁブログをチェックしている中で、明らかに僕とは真逆の発想から池田氏がウェブ社会を、というよりは未来の社会を捉えているのかもしれないという記事を散見するにいたったわけです。
少し古いエントリーでそれを発見し(2008年4月)、それに関連するエントリーを検索したところ、2009年6月以降にも同様の観点を持続させているエントリーを書かれているので、そこに関しては少し考察をしておかねばならないなと思ったわけです。


単純に一番はじめに引っかかった部分はhttp://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/559e23abed5ee4729bdd8b404f10bf11

好むと好まざるとにかかわらず、日本は「みんなと同じ」を行動原理とする安心社会から、「フェアプレー」を行動原理とする信頼社会に移行せざるをえないのである。

という、2008年4月5日のエントリーです。

その後、引用はしないですが、2009年6月21日http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/de963cfd6ffb968d7deec16bb65ae6f7、2009年8月28日http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/8c0f4f37800d4ba31f00651ee1d40693のエントリーなどでも、池田氏は安心社会ではなく信頼社会(=友愛社会)への移行こそ望まれるというような観点からブログを書かれている。




しかし、僕はウェブによって構築される新しい繋がりの空間を、安心社会的ゆるやかな繋がりの無限の可能性の広がりの世界だ、というような捉え方をしているのです。

たとえば、ウェブにおけるトリビアルなオタク的コミュニティや、趣味におけるゆるやかな連帯を持ったコミュニティなどは、信頼社会ではなく完全に安心社会であると言えると思います。
対話的に信頼構築を能動性を持って行う必要に迫られるのではなく、そもそもの嗜好性の共通性を担保されたつながりであるが故にそれは安心社会的なつながりであると。

そしてそれらが自明の環境と化していく先の世界は、そういった仮想コミュニティに安心社会的要素が現実空間にも逆輸入されてくる要素が強くなってくるゆえ、信頼社会がベースになっている現実空間も長期的な未来予測としてはむしろ安心社会的な存在になっていくと。





単純に、信頼社会の要件が何かというと、個が個として厳然として存在するということであるでしょう。

一方、安心社会の要件は何かというと、個が個として存在することではなく、そこでは個の存立そのものが溶解しているかのようになっていることである。安心社会とは、個と個の存在の場による規定性が非常に強い「ムラ」的社会であると言えるでしょう。





さて、ここで提起したい問題は、本当に日本は世界の信頼社会に迎合するかのように信頼社会化を目論むべきなの?ということです。


当然のことながら、新しい知識社会を構造として構築するためには、信頼社会的な価値観を有して構造構築をするにたる知識人的ふるまいが要請されるでしょう。まさにそれは池田氏のような立場の人に要請されるリテラシーだとは思います。
それだけではなく政治家、企業の経営レベルの人間、グーグルとかマイクロソフトの人間、法律家などにはあまねく必要とされるリテラシーだと言える。

けれど、一般的な生活者レベルの価値観は、なんとなくの繋がりをベースに持った安心社会的なものへと傾いて行くのではないか?という風に僕には思えてならないのです。
それは世界がむしろある種東洋的というか、日本的というような安心社会の方向へ向かいつつあるのではないか?という風に僕には見える。
梅田望夫平野啓一郎の共著『ウェブ人間論*1や、梅田氏の『ウェブ進化論*2を昨日と一昨日に読んだのだが(今更ですが)、
そこから見てとれるオープンソース的な価値観は、非常に安心社会的な価値観ではないのか?と思えてならない。

そして、新しい世代として目されるデジタル世代というよりは、インターネットネイティブ的な世代は、もっとあたりまえにオープンソース的な世界観をもった世代として今後僕たちの眼前に出現してくるように思う。それも世界中で。





デジタルな世界において重要なことは、
情報が複製可能でありどこへでも伝播しうるが故に、そのオリジナル性というものがもはや根本的に問題にならなくなるということだと思う。
言いかえれば、個が個であるという意味すら失われつつあるのがデジタルな世界なんだと言えると思います(当然そこで著作権うんぬんという問題=100年先から見ればくだらない争い、に人間は奔走するわけですけど)。
オリジナルなきコピーが自走性をもってオートポイエティックにオペレーションしながら出回るが故に、オリジナルという概念にこだわることがナンセンスになるのがこれから先なわけで、その中で個がいかにアイデンティティを形成するかは非常に重要な問題ですけど、それはまた別の問題ですね(また後日)。

個が個であることをアイデンティファイすることそのものが問題にすらならないような世界へと作りかえられている世の中で、個が個であることを前提にする信頼社会をベースに思考することにどれだけの意味があるのかということが、僕には多少疑問点として残るわけです。





ただ、確かにここで僕が留意しておくべき点がひとつあります。
僕は未来を50年〜100年というスパンで見ているが故に僕のような考え方を持っているだけであり、
近未来へ向けた数十年*3という観点でみるなら、実際のところ池田氏と同じような目線で世界を見ることの方が妥当性は高いということ。

その点は冷静にこのエントリーを書く意義を俯瞰する上で重要だと思ったので補足しておこうと思います。

*1:[rakuten:book:11979772:detail]

*2:

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

*3:個人的には2030年をめどに考えているのですが、それについてはまた別でエントリーを書くことします