『ゴーン・ガール』と同じく、旦那を主人公にしたら超コメディなのに、嫁さんの目線から大真面目に描いてるので、笑っていいのかどうか戸惑う。笑うべきだったのかなぁ。ちなみに『ゴーン・ガール』は北野武が絶賛してた。
主人公の旦那さん役は仲野太賀なので、そっち目線で描いていたら絶品コメディになってた。ホストを刺し殺しかけた女と結婚した挙句に、しまいには他の女に刺し殺されかける。
これは腕のあるコメディ作家がリライトしたら大爆笑コントに仕上がる。が、敢えてここは、大真面目に書かないとダメなのは間違いない。題材は、実話だから、ダウ90000とか、ヨーロッパ企画なら「コントにしてえ」と右手が疼くのではないか。それをそうせずに、いかにもラブロマンスみたいな顔して書き上げた脚本家はえらいと思う。
仲野太賀の描写とか見てたら、絶対、笑いのツボも心得てる人なはず。だいたい最初の見合いのところから相当おかしいし。坂井真紀が演じる主人公の母親は、誰でもいいから押し付けようと思ってるの丸わかり。そのあと一度も出てこない。
橋本愛が演じてる主人公はハマってたホストを刺し殺しかけて何年間か臭いメシを食らってた姉御なんだが、出所後はなんだかんだで仲野太賀の嫁におさまってた。
そこに謎の女(木竜麻生)が現れる。この辺なかなか緊迫してよい。木竜麻生は『菊とギロチン』『福田村事件』『エルピス-希望、あるいは災い-』と、刺激的な作品選びをしますね。
そこから急に主人公(橋本愛)が本性を発揮し出して、究極の愛の実践者みたいにレゾンデートルを語り始めるわけだが、他者目線からすると、ホストに騙されてカラダ売らされて貢がされたあげくに切れてナイフで刺したにすぎないことを、主人公の頭の中では究極の愛になってる。
ところが、肝心の相手のホストは、水上恒司が演じてるんだが、最後までまともに顔もわからない。セリフも一言もない。完全に観念的な存在。最終的には主人公と再会するんだけど、真っ暗なプラネタリウムで橋本愛が一方的に愛を語るのを、後ろの席で子供が聞いてビビって泣き出しちゃう。あの子供のセリフは間のとり方にこだわればそうとう笑えたはず。蛙亭の中野に声の出演してほしかった。
で、ホストが「蛙化」してたんで帰ってきました。って、元の鞘に収まる感じも『ゴーン・ガール』と同じ。
木竜麻生の視点を入れて立体的にしたのがえらい。これで、ホストの水上恒司の側のキャラもちゃんと描くと『寝ても覚めても』みたいになってたかも。
評価が分かれてるそうですが、蛙化ラブロマンスの傑作、怪作、問題作。最後まで飽きさせない。
『フォロウイング』
『オッペンハイマー』を受けて、クリストファー・ノーランのデビュー作が公開中。制作費は何と6,000ドルだそうだ。当時のレートで日本円にして60万〜70万くらい。
要するに友達と手弁当で撮った、クリストファー・ノーランの手見せだな。
お金がかけられない分、シナリオにこりにこって見応えのあるミステリーに仕立ててある。モノクロームなのも画面がしょぼく見えないための工夫だろう。時系列をいじるのも退屈させないサービスの意味合いが大きい。
タランティーノの『レザボアドッグズ』よりさらに小規模ながら、鑑賞に耐えるエンターテイメントに仕上げる力量はさすが。クリストファー・ノーランの立志伝がここから始まると思えば感服せざる得ない。
だから、『オッペンハイマー』も「どうして広島を描かなかったの?」とか言われても「知らねえよ」ってことだと思う。どこまでも映画であって市民運動じゃない。
もし日本人が本気で原爆禁止を求めるなら政府にそれを訴える権利は日本人自身が有しているはずで、それもせずに、結局、アメリカの核の傘の下にいて、映画にだけ文句をつけるって、そりゃ見透かされるでしょう。
『異人たち』ネタバレ
『異人たちとの夏』、山田太一原作、大林宣彦監督。出演、片岡鶴太郎、秋吉久美子、風間杜夫、名取裕子、永島敏行。なんでこんなに憶えているかというと、この度の『異人たち』の公開に合わせてYouTubeで無料公開していたのを観たばかりなのだ。
いい映画だけど、1988年のこの日本映画をなぜまた今ごろイギリスでリメイクを?、と、不思議に思うのは私だけじゃないと思うのだ。これはさすがにTPPとは関係なさそう。
しかし、観てみてなるほどと思った。たぶん、監督の個人史を刺激する部分があったのだと思う。
『異人たちとの夏』では名取裕子の立ち位置がちょっと弱いと思う。名取裕子の孤独を納得するには観客に歩み寄る必要がなかったろうか。風間杜夫にはミッドライフクライシスのリアリティがあったが、名取裕子の孤独にドラマトゥルギーが欠けていた。『異人たちとの夏』では、主人公の両親と主人公の恋人名取裕子はほぼ何の関係もない。といって悪ければ、主人公に取り憑こうとする悪霊と守ろうとする守護霊と言った、伝統的な怪談の構造だろう。ただ、両親と恋人とどちらが主人公に取り憑こうとしているのか最後までわからない。そこにドラマの推進力があった。
『異人たちとの夏』は、伝統的な怪異譚にことよせつつミッドライフクライシスを描いていた。これに対して『異人たち』は主人公をゲイに設定することで、主人公の孤独をまったく別ものに変換した。両親と主人公の関係と主人公と恋人の関係を対比構造にすることができた。そこに、この映画がよくある日本映画のリメイクではなく、アンドリュー・ヘイ監督の作家性が刻印されている。
12歳のときに失った両親との再会は、ゲイの主人公にとっては、『異人たちとの夏』とはまったく別の重みを持ってくる。もはや原作からも飛び出している。
主人公が最初に隣人を拒むのは共通していても、『異人たち』のそれは、かつての両親と主人公の断絶に重なる。主人公の孤独とボーイフレンドの孤独は共鳴し合う。たぶんそれがアンドリュー・ヘイ監督が36年前の日本映画を敢えてリメイクした意味なのだろうと思った。原作を超えているかもと思わせる。
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『春原さんのうた』
なんか日本にUberがすんなりいかなそうなのは、ひとつはタクシー会社の既得権益の問題で、これが一番大きいのだろうとは思うものの、日本の特殊事情として、公共交通機関が発展し過ぎているってのがあるかも。
杉田協士監督の『春原さんのうた』が下高井戸シネマで限定上映されるってので、月曜日の夜8時に下高井戸まで、しかもちょっと残業した後に、神奈川から電車バスを乗り継いで観に行ける。日本以外ではちょっとないと思う。
『彼方のうた』を観て「しまった!見落とした」と思っていた『春原さんのうた』。
『春原さんのうた』はマルセイユ国際映画祭 でグランプリを獲得したり、『彼方のうた』をはるかに上回るのかと思いきや、そうでもなく、よくもわるくも杉田協士節とでも言うべき何かだと感じた。
先に見たせいもあるか知らないが、『彼方のうた』の方が個人的には好きかも。
それはただ『春原さんのうた』がより劣るって意味ではなく、どちらにも好きなところと「?」のところがあるのだが、『彼方のうた』の映画のワークショップのシーンが個人的にとりわけ好きなので。
杉田監督が今後もこれをやり続けて、次回作もこのテイストで撮ったとしても私また観にいくだろうと思う。ただ、本人が飽きるほどこれをやり続けるかどうかはわからない。『彼方のうた』の後のインタビューでは「もういいかな」とか言ってた気がする。
ほぼ何も起きないのにずっと観てられる映画を撮れる監督は、何かしらの要諦を手にしているのだろうと思う。二ノ宮隆太郎とか。二ノ宮隆太郎が歩いているだけでなぜ目が離せないのかわからない。
『春原さんのうた』では、フェリーのシーンがよかった。映画からお芝居を削っていく冒険は今後も続けてほしい。
そう思うと次回も次々回もまだまだこれでやってほしい。
上映後にトークショーがあったが、30分録画したらiPadに保存する容量がなかった。
haruharasannouta.com
『ソウルフルワールド』
コロナ禍で公開できなかったディズニーのアニメが立て続けに公開されている。
ディズニーとしては配信の方が儲かることに気づいてしまい、おかげでビートルズのゲットバックセッションもディズニー+のみでの公開となってしまった。
『ソウルフルワールド』は最近のディズニーアニメでは唯一見る気になった作品。
キャラクターデザインも、世界観も、展開もよくできている。 もちろん音楽もよい。肩の力を抜いて6、7割の力で作りましたって感じが好ましい。
主演の吹き替えは 去年の大河の織田信雄役も印象的だった元SAKEROCK、現・在日ファンクの浜野謙太。
キャラクターの一部はパウル・クレーにインスパイヤーされてると思う。
3DCGではジブリよりピクサーに一日の長がある。手書きじゃなくてもCGに個性を感じさせる。
箱根の桜、彫刻の森、芦ノ湖畔
私がかってに勘違いしたのか、去年も訪ねた芦ノ湖の湖畔の一本桜が「咲いた」という情報を目にしたと思って箱根に出かけてしまった。
今年は寒さで全体に開花が遅れてるのに、去年(4/16)と同じはおかしくないかと内心で訝りつつも、去年は散り初めてたし、これでも遅いのかと半分納得しつつ出かけたら、まだ全然咲いてないでやんの。
唖然としつつも、こんなことだろうなとの思いもあり、天気も良いし、そのまま大涌谷に向かった。
この辺りは、日本人はどこに行ったの?って感じ。
それはいいとしても、大渋滞でここからはバスは諦め、ロープウェイと
登山電車で
箱根彫刻の森まで一気に降った。
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彫刻の森の外国人の多さは円安以前から。ここは確実に日本人より外国人の方が多い。もともと日本人の好みは彫刻より絵に向かいがちなのに対して、西洋の人は彫刻が好きみたい。
こちらの桜は満開だった。
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箱根彫刻の森の桜は森の中なので目立たないけど、街中にあったら相当な大樹なのが目立つと思う。
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ピカソ館では、最晩年の156シリーズが展示されていた。結局、ピカソは誰よりもエロいかも。
入口にあるこのマイヨールの
のついでに国立西洋美術館にあった
を。
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ジュリアーノ・ヴァンジの没年が
書き換えられていた。今年の3月27日に亡くなられたそうだ。
『パスト ライブス/再会』ネタバレ
「移住」って日本人にはあまり馴染みがない。主人公ノラの、韓国からカナダへ家族で移住して、長じてさらに単身アメリカへ、という経歴は、セリーヌ・ソン監督自身の経歴でもあるそうだ。
そう聞くとこの映画の冒頭はそういう経歴の人に独特の視点なのかもしれない。一瞬、画面に映っている3人、ノラ(グレタ・リー)、ヘソン(ユ・テオ)、アーサー(ジョン・マガロ)の会話なのかと勘違いしたが、最初に聞こえてくるのは、その同じ店内で食事している誰かの会話なのだとすぐに気がつく。「あの3人どういう関係だと思う?。アジア系の男女とひとりは白人」。
上手い導入だと思う。多くの場合、観客の視点は主人公に寄り添いがち。それをまず全くの赤の他人の視点にセットする。が、またすぐに、それは同時にノラの視点でもあることにも気がつく。
午前4時にちょっと飲んでる私たちはどう見えているのだろうという、自分以外の目に、たぶんずっと敏感であっただろうし、その目を彼女自身のものともしてきただろうとも思うから。
まさにこの映画を観た映画館にもきれいな白人女性がいた。きれいだから目を引いただけなのだが、でも確かに、それが白人だったり黒人だったりした場合は、もうひとつ別の「今の目線はぶしつけじゃなかったろうか」といった気持ちが乗っかる。
ましてや移民として生きる人たちはそういう二重の感覚を育んでいくことになると思う。この映画の淡々とした描写にずっと持続する緊張感はそこからも来ると思う。
ポスターにノラ(グレタ・リー)とヘソン(ユ・テオ)しか写っていないので、まるで韓国映画のように見えるが全然違う。日本では「冬ソナ」から始まった韓国ドラマのイメージは、この映画にはむしろマイナスに働いているように感じる。良くも悪くもあのメロドラマのイメージとはかけ離れたドラマだということが、あのビジュアルでは伝わらない。
GQのインタビューによると
『パスト ライブス』は、批評家によってウッディ・アレンやノア・バームバック、リチャード・リンクレイターらの作品群との比較で論じられている
そうだ。そして、セリーヌ・ソン監督自身は
「『パスト ライブス』が何にいちばん近いかと聞かれれば、あの映画(ウォン・カーウァイ監督の『花様年華』)でしょうね」
とも語っている。
演出の斬新さもこのデビュー作の巻き起こしたセンセーションに一役買っていることは間違いないだろう。
ヘソンとノラがUberの車をただ待っている。例のバーですごしたあとノラがヘソンを見送りに出たのである。ソンは、脚本を執筆した段階から、車が到着するまでの時間を「2分」と決めていた。撮影現場ではソンが車の合図を出すことになっていたので、そのタイミングはソンにしかわからない。その間、2人は向かい合ったまま。セリフもない。このシーンは見応えがあると思う。