兵庫県立美術館 常設展

 兵庫県立美術館といえば、今は横尾忠則現代美術館になっている場所にあった頃は、隣りの市民ギャラリーが小磯良平記念館になっていた。

小磯良平《T嬢の像》1926
小磯良平《T嬢の像》1926

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小磯良平《斉唱》1941
小磯良平《斉唱》1941

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小磯良平《和装婦人像》
小磯良平《和装婦人像》

 岡田三郎助がここにも。モデルはアーティゾン美術館の絵と同じ人かも。

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岡田三郎助《萩》1908
岡田三郎助《萩》1908

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小出楢重《芸術家の家族》1919
小出楢重《芸術家の家族》1919

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安井曾太郎《女の顔》1931
安井曾太郎《女の顔》1931

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 この舞妓の絵も白のテクスチャにすごく細やかに気を遣っているのがわかる。

林重義《舞妓(黒)》1934
林重義《舞妓(黒)》1934

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林重義《舞妓(黒)》部分
林重義《舞妓(黒)》部分

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須田国太郎《工場地帯》1936
須田国太郎《工場地帯》1936

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 金山平三もまた小磯良平と同じく個人の記念室が設られている。

金山平三《大石田の最上川》1948頃
金山平三《大石田最上川》1948頃

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金山平三《中山半島》1945-56
金山平三《中山半島》1945-56

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金山平三《メリケン波止場(神戸)》
金山平三《メリケン波止場(神戸)》

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 何気ないスケッチに見えつつ、実は画面全体が緻密に構成されているのがわかる。

 朝倉響子彫刻の森美術館に引き続きの再会で、また会いましたねって気分になる。

朝倉響子《女》1971
朝倉響子《女》1971

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 ザツキンも、ブランクーシ展に引き続き。

ザッキン、オシップ 《破壊された街》1947
ザッキン、オシップ 《破壊された街》1947

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 海側から外に出るとヤノベケンジのモニュメント。

ヤノベケンジ《SUN sister》
ヤノベケンジ《SUN sister》

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青りんご
青りんご

青りんごの横にこんなことが書いてありました。

青春

青春とは人生のある期間ではなく、心の持ちかたを言う。 薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな肢体ではなく、
たくましい意志、ゆたかな想像力、炎える情熱をさす。
青春とは人生の深い泉の清新さをいう。
青春とは体を退ける男気、安易を振り捨てる冒険心を意味する。
ときには、二〇歳の青年よりも六〇歳の人に青春がある。
年を重ねただけで人は老いない。
理想を失うとき初めて老いる。

青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心,こう言う様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。
歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ。
苦悶や、狐疑、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。
年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
日く「驚異えの愛慕心」空にひらめく星展、その輝きにも似たる事物や思想の対する欽迎、
事にする剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。
人は念と共に若く人は自信と共に若く
希望ある限り若く
疑惑と共に老ゆる
恐怖と共に老ゆる
失望と共に老い朽ちる
大地より、神より、人より、美と喜悦、気と壮大、偉力と霊感を受ける限り人の若さは失われない。
これらの霊感が絶え、悲の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至ればこの時にこそ人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる。

サミュエル・ウルマン

スーラージュと森田子龍、白髪一雄

 兵庫県立美術館の展示の充実ぶりに驚いた。贅沢と言うべきか。 

兵庫県立美術館
兵庫県立美術館

 スーラージュと森田子龍を観に行ったのだけれど、同時にキース・ヘリング展も開催中。これは森美術館からこちらに巡回してきたものだ。加えて、常設展では白髪一雄の生誕100年記念展示として39点の作品が一挙公開されている。
 キース・ヘリング森美術館で観ていなければ、一日で観終えられたかどうかのボリューム。にもかかわらず、平日とは言え5月1日、一応GWなのに混雑していない。というより、東京の美術館を思えばガラガラ。

兵庫県立美術館
兵庫県立美術館

トーハクの常設展でももっと混んでる。

 ピエール・スーラージュはアーティゾン美術館で《絵画 2007年3月26日》てふ作品一点しか観たことがないがこれが圧倒的な作品で記憶に残った。
 スーラージュが1950年代から日本の書家、森田子龍と交流があったのは、今回初めて知った。
 森田子龍の作品は撮影が許可されてなかったので画像はないが、見比べて納得した。片方は書、片方は絵なのだけれども、うっかり取り違えてしまうほどよく似ている時期がある。
 後年の森田子龍の「漆金」という技法は、書でありながらテクスチャーのこだわりが絵に近い。
 また、スーラージュも日本での個展で「刷け目という言葉を知り、興味を持」ったそうだ。

絵画 130x162cm、 1966年7月22日
絵画 130x162cm、 1966年7月22日

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 テクスチャーや筆触という概念はもちろん西洋絵画にあるし、印象派の多くの画家は筆触を残すことを厭わなかった。それは、モチーフの質感よりもその印象を彼らの絵は捉えようとしたので、移ろいゆく一瞬の印象を捉える即興性には筆触の残るテクスチャーがむしろふさわしかったからだろう。
 それに対してスーラージュの「刷け目」は、そもそもアブストラクトなのでモチーフという概念がない。「刷け目」は表現の痕跡そのもののブツとしてそこにある。
 今回の展示のメインだろうと思うスーラージュの《絵画 324×400cm、1987年》(彫刻の森美術館所蔵)や先のアーティゾン美術館の《絵画 2007年3月26日》には表現であること自体の存在感を、画家がはっきりと意識していることが伝わる。

《絵画 162x130cm、1959年5月4日》大原美術館所蔵
《絵画 162x130cm、1959年5月4日》大原美術館所蔵

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《絵画 100x72.7cm、1953年7月19日》富山県美術館所蔵
《絵画 100x72.7cm、1953年7月19日》富山県美術館所蔵

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ピエール・スーラージュ 《絵画 143x202cm、 1964年11月19日》スーラージュ美術館
ピエール・スーラージュ 《絵画 143x202cm、 1964年11月19日》スーラージュ美術館

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 これに併せて白髪一雄の特集展示を開催するのが渋い。

白髪一雄《天罪星短命二郎》1960
白髪一雄《天罪星短命二郎》1960


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これなんか白髪一雄の足跡がはっきり確認できる。

白髪一雄《懐素上人》
白髪一雄《懐素上人》

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そのほかにも今井俊満堂本尚郎、菅井汲、岡田謙三4人の同時代に海外で評価された抽象画家たちの作品も展示されている。

菅井汲 《雷鳴》1954
菅井汲 《雷鳴》1954

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このような作品にテイストのある人は是非。

www.artm.pref.hyogo.jp

アーティゾン美術館 常設展

 ブランクーシ展を見た後、上野のデ・キリコ展にまわるつもりだったんだけど、常設展で思いのほか長居してしまい、また後日ってことになった。
 ここの常設展は、青木繁の《海の幸》、クロード・モネの《黄昏、ヴェネツィア》、ルノワールの《すわる水浴の女》などは必見だけれども、頻繁に訪ねられる立場のものとしては、毎回写真には撮らない。

アルフレッド・シスレー《サン=マメス六月の朝》
アルフレッド・シスレー《サン=マメス六月の朝》

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 晴れた日の朝だけならシスレーが最強じゃなかろうか。印象派唯一のイギリス人で、徹頭徹尾印象派で、生涯貧乏だった。

シャイム・スーティン (1893-1943 )《大きな樹のある南仏風景 》1924年 油彩•紙
シャイム・スーティン (1893-1943 )《大きな樹のある南仏風景 》1924年 油彩•紙

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 スーティンとシスレーの絵をこうして並べてみると、この間に大きな戦争があったことが如実にわかる。戦争が美を傷つけている。
 世界が画家に見せようとする姿そのものをもはや画家は信じることができない。画家だけでなく鑑賞者も見せかけの世界の裏側にある何かに気づいてしまった。印象派が鑑賞者と共有できた印象がスーティンの世代には変容してしまった。
 死の床の愛妻の変わりゆく顔の色を必死で描きとめようとしたモネは、世界が彼に真実を見せようとしていると信じることができた。スーティンはそれを信じられない。正しく言えば、むしろ彼らの世代が世界に戦争という、あまりにも強い意味を塗りつけてしまったためにそれを拭い去ることができない。
 と、まあこれは画家と鑑賞者が無意識の共犯関係にある時代感覚の話にすぎないが、スーティンの絵は私にはそんなふうに心に刺さってくる。

アンドレ・ドラン《女の頭部》
アンドレ・ドラン《女の頭部》

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 これは新収蔵品だそうだ。アンドレ・ドランは、本来はアンリ・マティスヴラマンクと同等にフォーヴの旗手と扱われてもよさそうなものなのに、ヴィシー政権時代にナチに利用された結果、戦後は対独協力者とみなされて追放されたとwikiにある。アンドレ・ドランの絵をまとめて観ることができないのはそのせいなのかもしれない。

パウル・クレー《双子》
パウル・クレー《双子》

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 こちらも新収蔵品。

黒田清輝《針仕事》
黒田清輝《針仕事》

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 ラファエル・コランが「黒田清輝は日本に帰ってから下手になった」と評したときいて、それはモチーフが日本のものになったからと思っていたが、こういうの観ると、確かに滞欧時期の方が無心で描けていたのかもとも思う。帰国してからは結局、家業を継ぐことになるから。

岡田三郎助  《婦人像》
岡田三郎助 《婦人像》

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 浮世絵以来の「美人画」がついに油彩で描かれるようになった。そんなふうに油彩というフォーマットの普及に黒田清輝の果たした役割は大きかったと思う。コロンブスが発見しなくてもアメリカ大陸はそこにあったし、黒田清輝が持ち込まなくてもそのうち誰かがもちこんだろうけれども。

松本竣介 1912-1948 運河風景 1943年 油彩・カンヴァス
松本竣介 1912-1948 運河風景 1943年 油彩・カンヴァス

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ブランクーシ展

 アーティゾン美術館でコンスタンティンブランクーシ(1876-1957)の展覧会。意外にも本邦初だそうだ。

ブランクーシ 本質を象る
ブランクーシ 本質を象る

 これが

《苦しみ》1907
《苦しみ》1907

こうなって

《眠る幼児》1907
《眠る幼児》1907

こうなった。

《眠れるミューズ》(1910-11)
《眠れるミューズ》(1910-11)
《眠れるミューズ 2》1923(2010鋳造)
《眠れるミューズ 2》1923(2010鋳造)

少し角度を変えるとちゃんと目が見える。

《眠れるミューズ 2》1923(2010年鋳造)
《眠れるミューズ 2》1923(2010年鋳造)
《ミューズ》1918(2016年鋳造)
《ミューズ》1918(2016年鋳造)
《レダ》1926(2016年鋳造)
レダ》1926(2016年鋳造)
《魚》1924-26(1992年鋳造)
《魚》1924-26(1992年鋳造)
ブランクーシのアトリエ
ブランクーシのアトリエ

 ここに一歩足を踏み入れるとこんな感じの作品が所狭しと置かれていた。

アトリエ再現
アトリエ再現

 左から《王妃X》、《肖像》、《若い男のトルソ》、《ポガニー嬢 2》、《洗練された若い女性(ナンシー・キュナールの肖像)》。

アトリエ再現
アトリエ再現
《空間の鳥》1926(1982鋳造)
《空間の鳥》1926(1982鋳造)

 この《空間の鳥》は横浜美術館所蔵なので私には馴染み深い。横浜美術館もようやく再開しているが、東京の美術館より潤沢というわけでもなさそう。

マイアストラ
マイアストラ

 「マイアストラ」は、ブランクーシの故国ルーマニアの伝説の鳥だそうだ。
 1912年に、ブランクーシマルセル・デュシャン、フェルナン・レジェとともにパリの航空博覧会を訪れている。巨大なプロペラを目にしたデュシャンは「絵画は終わった。いったい誰があの巨大なプロペラにまさるものを作れるというんだ?」と発言している。
 プロペラに感銘を受けたのはデュシャンよりむしろブランクーシだったみたいに見える。デュシャンの航空博覧会のこの発言が、私には《泉》に繋がって聞こえない。

《雄鶏》1924(1972鋳造)
《雄鶏》1924(1972鋳造)
《雄鶏》1924(1972鋳造)
《雄鶏》1924(1972鋳造)

 ブランクーシと交流のあった人たちの作品も展示されていた。

イサム・ノグチ《魚の顔 NO.2》1983
イサム・ノグチ《魚の顔 NO.2》1983
アトリエの眺め 1934年頃
アトリエの眺め 1934年頃

 ここに写る《無限柱》を見ると、イサム・ノグチへの影響がはっきりわかる。

オシップ・ザツキン《母子》1919
オシップ・ザツキン《母子》1919
オシップ・ザツキン《母子》1919
オシップ・ザツキン《母子》1919
アレキサンダー・アーキペンコ《ゴンドラの船頭》1914
アレキサンダー・アーキペンコ《ゴンドラの船頭》1914
アルベルト・ジャコメッティ《ディエゴの胸像》1954-5
アルベルト・ジャコメッティ《ディエゴの胸像》1954-5
オシップ・ザツキン《三美神》1950
オシップ・ザツキン《三美神》1950
エミール=アントワーヌ・ブールデル《ペネロープ》1909
エミール=アントワーヌ・ブールデル《ペネロープ》1909

www.artizon.museum

無量義経の問題

 井沢元彦YouTubeにこれが出てきて唖然とした。
 この動画の前段の部分は知っていた。信長のその時代にとっくに決着がついたと思っていたのに、近代になってもまだこれを持ち出す学者がいたってことに驚いた。
 動画の内容を知ってもらってる前提で話すが、一応概要をさらっておくと、信長の治世に日蓮信者の誰かが、「無量義経というお経に、『法華経以前に説いたことは全部ウソだった。いきなり真実を説いてもあなたたちにわからないだろうから今までは真実ではない教えであなたたちを鍛錬してきたんだ』と語られている」とふれてまわって他宗を攻撃して市中が騒然とすることがあった。それで信長が公の場で議論させて事を収めた。
 今では無量義経偽経とされてるはずだが、そんな専門的な知識がなくとも、論理的な思考ができて公平な倫理観がある人なら、簡単に結論が導けるはずだ。そもそもこの逸話自体が宗教的なトピックというより、信長がいかに近代的な感覚の持ち主だったかを示す逸話として語られているものだ。仏教の議論としては内容がなさすぎる。議論した僧侶の名前すら寡聞にして知らない。
 蛇足ながら素朴な疑問点を挙げると、まず、お経はブログじゃないので、それが何年何月何日に説かれたか記されてない。法華経以前、以後と簡単に分けられない。それを成そうとすれば文献学的な態度が必要だが、逆に言えば、七千余巻と言われる一切経を文献学的に眺める態度がなければ出てこない発想だとも言える。いかにも一切経を全体像として眺められる後世の創作くさい。
 天台宗の祖である智者大師が釈迦の一切経を五つの時代に分けた。五時の教判というが、それ以後に出てきた発想だろうと思われる。
 それに、すべての経典は、釈迦の著作ではない。釈迦入滅後に弟子たちが集まって釈迦の説法を書き残したものだ。法華経以前の経がウソだというなら、なぜそれを書き残した?。
 そもそも、真実を語るためにウソで導く必要があったって、その理屈、何?。それで納得できる論理性と倫理観の持ち主だけがこの話を信じられるのだろう。
 信長治世の当時の公論で指摘されたのはもっと根本的に、そもそも法華経と他の経典で説かれてる事が違わない(あたりまえだが)ことがある。法華経と他の経典では「説かれてる内容がまるでちがう」ってことにならなければ無量義経の「爆弾発言」が意味をなさない。しかし言うまでもなく仏説には一貫性があり他の経典に説かれていることが法華経にも説かれている。この点が当時の公論で突かれた点だった。
 私に言わせれば、もし、無量義経が真実で、法華経以外がぜんぶウソだとしても、それでは日蓮が正しいことには全くならない。他の経典を信じている他の宗派は攻撃できる、が、自分たちの正しさの証明にはならない。なのにそれを吹聴してまわる、その態度にその信仰の倫理性は表れていると思われる。
 そもそも七千余巻に上る膨大な経典は、言葉に尽くされない事を何とか伝えようとした釈迦の生涯の痕跡でもある。当時、説法を聴きにきた人の中にそれ一度きりしか聞きにこられなかった人もいたはずではなかろうか。すると何ですか?。釈迦はそういう人に向かって「今これウソなんだけどまあしょうがないか」と思って説法していたと言いたいのか?。一切経を大どんでん返しのある推理小説と勘違いしてないか?。
 と、まあこんな具合に、別に専門的な知識はなくても、論理と倫理の両面から、誰だか知らないその時代の日蓮の信者はやり込められて当然だった。で、こんな具合に、この議論は、たとえばルターとエラスムスの議論のような、宗教的に重要な内容を含む議論じゃないのだ。だから、当事者の僧侶の名前よりも、広く公論という形にしたことが、信長の偉業の一つと語られてるだけなのだ。
 ここまでは個人的には知っていた。ところが明治以降に、「あれは日蓮信者が正しかったのに、信長が殺しちゃった」みたいな話にして広めちゃった学者がいたのは知らなかったので唖然としたのだ。
 つまりこれはどういうことかというと、釈迦がウソをついたとウソをついた日蓮信者が、ウソじゃなかったとウソをついた学者がいたって話なのだ。短く見積もっても300年越しにウソにウソを重ねてる。そのウソのおかげで法華経が正しいとなっても(他宗派の誰も法華経が正しくないなんて言ってないぞ)、それで日蓮が正しいって証明にはならないのに、そのウソに固執し続けるのは何故なんだろう。うすら寒いんですけど。
 前にも言ったように、近代の日蓮主義者といえば、北一輝石原莞爾もそうだった。二二六事件と満州事変、この2人の関わった謀略、つまり、目的のためには平気でウソをつく発想が、ここで繋がってると見えてしかたない。東條英機と仲が悪かった石原莞爾は「東條には思想がないが俺には思想がある」と言っていたそうなのだが、その思想というのが日蓮主義だったと思うと胸糞が悪い。


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『熱のあとに』ネタバレ

 『ゴーン・ガール』と同じく、旦那を主人公にしたら超コメディなのに、嫁さんの目線から大真面目に描いてるので、笑っていいのかどうか戸惑う。笑うべきだったのかなぁ。ちなみに『ゴーン・ガール』は北野武が絶賛してた。
 主人公の旦那さん役は仲野太賀なので、そっち目線で描いていたら絶品コメディになってた。ホストを刺し殺しかけた女と結婚した挙句に、しまいには他の女に刺し殺されかける。
 これは腕のあるコメディ作家がリライトしたら大爆笑コントに仕上がる。が、敢えてここは、大真面目に書かないとダメなのは間違いない。題材は、実話だから、ダウ90000とか、ヨーロッパ企画なら「コントにしてえ」と右手が疼くのではないか。それをそうせずに、いかにもラブロマンスみたいな顔して書き上げた脚本家はえらいと思う。
 仲野太賀の描写とか見てたら、絶対、笑いのツボも心得てる人なはず。だいたい最初の見合いのところから相当おかしいし。坂井真紀が演じる主人公の母親は、誰でもいいから押し付けようと思ってるの丸わかり。そのあと一度も出てこない。
 橋本愛が演じてる主人公はハマってたホストを刺し殺しかけて何年間か臭いメシを食らってた姉御なんだが、出所後はなんだかんだで仲野太賀の嫁におさまってた。
 そこに謎の女(木竜麻生)が現れる。この辺なかなか緊迫してよい。木竜麻生は『菊とギロチン』『福田村事件』『エルピス-希望、あるいは災い-』と、刺激的な作品選びをしますね。
 そこから急に主人公(橋本愛)が本性を発揮し出して、究極の愛の実践者みたいにレゾンデートルを語り始めるわけだが、他者目線からすると、ホストに騙されてカラダ売らされて貢がされたあげくに切れてナイフで刺したにすぎないことを、主人公の頭の中では究極の愛になってる。
 ところが、肝心の相手のホストは、水上恒司が演じてるんだが、最後までまともに顔もわからない。セリフも一言もない。完全に観念的な存在。最終的には主人公と再会するんだけど、真っ暗なプラネタリウム橋本愛が一方的に愛を語るのを、後ろの席で子供が聞いてビビって泣き出しちゃう。あの子供のセリフは間のとり方にこだわればそうとう笑えたはず。蛙亭の中野に声の出演してほしかった。
 で、ホストが「蛙化」してたんで帰ってきました。って、元の鞘に収まる感じも『ゴーン・ガール』と同じ。
 木竜麻生の視点を入れて立体的にしたのがえらい。これで、ホストの水上恒司の側のキャラもちゃんと描くと『寝ても覚めても』みたいになってたかも。
 評価が分かれてるそうですが、蛙化ラブロマンスの傑作、怪作、問題作。最後まで飽きさせない。

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『フォロウイング』

 『オッペンハイマー』を受けて、クリストファー・ノーランのデビュー作が公開中。制作費は何と6,000ドルだそうだ。当時のレートで日本円にして60万〜70万くらい。
 要するに友達と手弁当で撮った、クリストファー・ノーランの手見せだな。
 お金がかけられない分、シナリオにこりにこって見応えのあるミステリーに仕立ててある。モノクロームなのも画面がしょぼく見えないための工夫だろう。時系列をいじるのも退屈させないサービスの意味合いが大きい。
 タランティーノの『レザボアドッグズ』よりさらに小規模ながら、鑑賞に耐えるエンターテイメントに仕上げる力量はさすが。クリストファー・ノーランの立志伝がここから始まると思えば感服せざる得ない。
 だから、『オッペンハイマー』も「どうして広島を描かなかったの?」とか言われても「知らねえよ」ってことだと思う。どこまでも映画であって市民運動じゃない。
 もし日本人が本気で原爆禁止を求めるなら政府にそれを訴える権利は日本人自身が有しているはずで、それもせずに、結局、アメリカの核の傘の下にいて、映画にだけ文句をつけるって、そりゃ見透かされるでしょう。


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