2ペンスの希望

映画言論活動中です

雑なるもの:再考(最高?)

常々 映画は猥雑なもの、夾雑物が混ざり発酵・発熱が起こる厄介もの・取り扱い注意物件だと思ってきた。ということで、雑なるもの:再考(最高?)。

テキストは、先回に続きロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書

彼は〈写真〉について「ステゥディウム:STUDIUM」と「プンクトゥム:PUNCTUM」という二つを挙げて 語る。

説明してみよう。( 独断も 偏見も混じるが 御海容 )

ステゥディウム:STUDIUM」とは、作者が意図したもの、記号化され掴み易く説明可能な要素、分かりやすく解釈し易い情報のたぐいだ。

対して、

プンクトゥム:PUNCTUM」は、分析不可・分解不能言語化できないもの、確かに映っているのに目に見えないもの、意識にのぼらない層を指す。偶然によって生まれるもので、写真を見たときに発生する(激しい)感情や感動をあらわす用語だ。

カメラを向けた先には、作り手の「企図・物語」を超えた「雑なる細部」が写り(映り)、見る者を突き刺す(ばかりか、時にあざをのこし、永らく胸をしめつける)というのがバルトの主張だ。「ステゥディウム:STUDIUM」をかき乱し破壊しにやってくるもの、それが「プンクトゥム:PUNCTUM」である。

そもそもラテン語由来のこの言葉、原義は「小さな点(を打つ)」。小さな穴、裂け目、刺し傷、鋭くとがった道具によって付けられた徴(しるし)といった意味を持つ。

言葉に還元するのをやめ、「ものそのもの」に向き合い、丸ごと受け止めることで見えてくるものを存分に感受し感応すること。それが、映画の愉快だ。

「雑なるもの:Mélange · baragouin · bric-à-brac · diverses · farrago · mélange · mélanger · méli-mélo · mélimélo · welter · Épice gériatrique · épice gériatrique 」≒「プンクトゥム:PUNCTUM」by Roland Barthes

 

雑なるものと純なるもの

何を今さらと言われそうだが、言葉は詰まるところ〈記号〉だ。それもかなり純度の高い。較べて、映像(画像)は、もっと雑。写真も映画も雑なるものが混入した表現物だ。そこで こんな図式を描いてみた。

【雑】の意義には、「いろいろなものが入りまじっている」「まじりけがある」「多くのものが統一なく集まっている」などが並ぶ。雑然・雑多・煩雑・粗雑・乱雑・などなど「純粋でなく」「大まかでいい加減なさま」といささかならず芳しくなく分(ぶ)が悪い説明も見受ける。けど、雑なるものはそれほど悪いものなのだろうか。

例えば、ロラン・バルトが自著『明るい部屋 写真についての覚書【1980年 みすず書房 花輪光訳】の冒頭に掲げたこの写真、その魅惑,その力感。

バルトは書く。

「写真」が数かぎりなく再現するのは、ただ一度しか起こらなかったことである。「写真」は、実際には二度とふたたび繰り返されないことを機械的に繰り返す。‥‥「写真」は絶対的な「個」であり、反響しない、この上もなく「偶発的なもの」であり、「あるがままのもの」である。‥‥要するにそれば「偶然」(Tuché心を奪われる 触りたくなる)の、「機会」の、「遭遇」の、「現実界」の、あくことを知らぬ表現である。( 2.分類しがたい「写真」より。太字強調は訳文では傍点。)

ダニエル・ブーディネ(1945ー1990)は、夜になるとパリの街を歩き、カメラに収めた。

ここには、言葉に還元できないものが定着されている。繊細にして精緻で優雅な何かが。〈意味〉や〈情報〉や〈指示〉ではない何かが‥‥。〈道具〉とは異なる何かが‥‥。

「映像」は直接性の塊(かたまり)である。有無を言わせない暴力性を孕んで現前する。生もの・ライブ。多義的多面体。丸ごと丸かじり。

とはいえ、「ことば=抽象性」「映像=具象性」といった二分法で事足りるほど事態は単純では無かろう。ことばの肉感・直接性・具象性もあれば、映像の抽象性だって間違いなくある。アタマとカラダ、ナカミとカタチ、という光の当て方だって無視するわけにはいかない。う~ん、一筋縄ではいきそうにない。時間も掛かりそう。今日はココまで。to be continued

「雑草」対決

友人に教えられて『テレビマン伊丹十三の冒険』【2023.6.26. 東京大学出版会を読んだ。永くタッグを組んでいたテレビマンユニオン今野勉が書いた本だ。副題に「テレビは映画より面白い?」とある。

伊丹十三という「人物の考察本」であると同時に、今野流の「テレビ論」として面白く読んだ。( いささかかったるい箇所 無きにしもあらずだったが‥) 正直、伊丹十三の映画には感心したことがない。熱心に観たわけじゃないのでエラそうに言えないのだけれど肌に合わないというか‥苦手だ。サービス精神旺盛だし、悪い出来でもないのにダメだった。ずっと謎に思ってきたのだが、この本で腑に落ちた。初期三本に主演し、それ以降出演が途絶えた俳優・山崎努の述懐。(2007年新潮社「考える人」編集部編『伊丹十三の映画』から孫引き)

彼の演出と、僕の演技‥‥というか役作りの仕方がちょっとかみ合わなくなってきたからなんです。

僕は、自分なりにキャラクターをかなり作り込んで撮影に臨むことにしてるんですけど、現場には共演者もいれば、監督やスタッフもいる。天候にだって左右される。つまり、何が起こるか分からない。でも逆に、そのせいで自分が意識していなかったものが出てくることがある。僕はむしろ、それを期待している。手入れの行き届いた庭の思いがけないところに思いがけない雑草が生えてくるのを喜ぶというか、そういうのりしろのある演技を理想としているところがあるんです。

ところが伊丹さんは植木一本、花一輪に至るまで入念に設計して。完璧にその設計通りの庭を造ろうとしてた。一挙手一投足にまでこだわって演出してた。「山さん、そこは目尻のしわ一本で笑ってちょうだい」なんて言ってね。

第一作目の「お葬式」のときからその傾向はあったんですが、「タンポポ」から「マルサの女」へと本数を重ねるほどに、その傾向が強くなってきた。雑草の生える余地がなくなってきた(笑)。それで僕は息苦しくなっちゃったんです。

僕がそう感じていたということは、伊丹さんも分かっていたと思います。

(註:太字強調は引用者) 

思いがけない雑草 受諾派」vs「入念設計演出 雑草排除派

いいなぁ、プロ対プロの真剣対決!

伊丹十三は生前 週刊誌の連載記事にこんなことも書いている。

全員がプロである時、各各が安心してアマチュアにかえれる

(1977年~週刊文春連載『原色自由圖鑑』)

確かにその通りだ。きっと 伊丹十三は雑草ではなく、根っからの貴種(インテリエリートお坊ちゃん)だったんだろうな。(貶めてるんじゃないよ、素直に出自を受け止め、終生誠実に藻掻いた賢人才人だったに違いない)

「昭和」人として生きる

ずっと昭和で生きていく。発作的にそう決めた。かつて杉浦日向子橋本治が江戸人として生きたように。

んっ、何故かって? だってそうじゃない。貧しかったけれど豊かだった時代。慎ましかったけど、贅沢だった時代。暮らしも映画もすべてが痩せて貧相になっていった平成・令和なんて真っ平ごめん。そう思いませんか 御同輩&若い衆。

岐阜市柳ケ瀬商店街にある「ロイヤル劇場」入場料600円で連日昭和の映画をフィルム上映中の映画館。現役バリバリだ。

www.tochiko.co.jpラインナップが渋すぎる!!

垂涎モノ!!!!

映画のお手本:カタチであってナカミでもあるような映画

久しぶりに大阪九条の映画館に出掛けた。

清水宏監督『桃の花の咲く下で』(1951年/新東宝/74分/モノクロ)

満員御礼の大盛況 慶賀の至りだ。( 但し 平均年齢70歳超とおぼしき老人ホーム状態だったが‥)

スコブル良かった。カタチであってナカミでもあるような映画のお手本だった。当時山ほど作られた母もの映画の一本だが、いやぁ~お見事!トップシーンの長廻し移動カットから「川向こうの幼稚園」の字幕が入るラストシーン(桃源郷?)まで間断なしの名人芸。

子供、ロケーション自然描写、川、温泉宿、按摩といったお馴染みのアイテムに、歌と紙芝居まで加わって「鬼に金棒」(虎に翼?)

実は自分史上、清水宏ベストワンは『按摩と女』だったんだが、順位が入れ替わった。

高峰三枝子笠置シズ子 になっちゃった。

 

広くなって狭くなった 再考

一年半ほど前に「広くなって狭くなった」という稿を書いたことがある。

kobe-yama.hatenablog.com

その時の論調は、悲観的・後ろ向きだった。時代や状況が変わったわけではないが、も少し、楽観的・前向きに考えてみる。ということで今回は「広くなって狭くなった」再考 篇。

かつて映画は劇場一択だった。映画は映画館で見るもの。映画館や上映会に足を運び、皆が一緒に同じ映画を観るのが普通だった。

今はいろんな土俵・場・環境(プラットフォーム)・媒体(メディア)で、いろんな人がいろんな文体(文法)・作法(さくほう・さほう)で作り、いろんなスタイルで享受できるようになった。

フィルム・テープ・盤を経て、配信の時代へー

技術革新と情報社会の進展・変化で、映画は広くなった。やっと文学・文芸並みのバラエティ・品揃えが整った。純映画、中間映画、通俗映画、娯楽映画、社会派映画、告白映画、自叙セルフ映画‥‥、ノンフィクション・ルポルタージュ映画、さらに勿論、艶笑映画、官能映画、ソフトポルノからハードコア・マル秘映画・裏映画までまで、何でもござれのお好み次第、嗜好の幅に合わせて広大無辺。

けど、好みは絞られ蛸壺化した。趣味じゃないものには目もくれない。わしゃ知らん、隣は何をする人ぞ。広くなって狭くなった。胃袋は縮んで小さくなっちゃった。

良い悪いじゃない。進化でもあり退化でもある時代。結局 ソレってどうなのよ。多様化・選択肢の豊穣化の果ての貧血状態‥太って痩せちゃった、ってことかも。

いけない いけない、まだぞろ、嘆き節が始まりそうなので‥今日はこの辺で‥to be continued

 

本 三冊

しばらく間が空いた。雑事にかまけてブログの更新が疎かになってしまった。

それでも何度か映画館にも出かけたし、本も読んできた。31年ぶりのスペインの巨匠の長編新作や2000年に作られたハンガリーの監督の4Kレストア版、5分のYouTubeから生まれたベストセラーの映画化イタリア映画などなど。残念ながらどれも期待通りとはいかなかった。(出来が悪かった訳ではない。観る前の当方の期待が膨らみ過ぎたせいだ。♬ 悪いのは 僕のせいさ 君じゃない(^^♪)北山修作詞 筒美京平作曲の昭和歌謡

ということで、最近読んだ本を三つばかし挙げてみる。どれも、映画と言語についてあれこれ考えるヒントになった。

🔳杉本穂高さん(1981生)の『映像表現革命時代の映画論』【2023.12.18.星海社新書】

タイトルは物々しいが、無声映画時代に戻って映像表現技術の変化、生産・受容の変遷を辿り直そうとする姿勢は悪くない。「ムーブとリアル」「トーキーという分断点、デジタルという結節点」といったフレーズが印象に残る。

🔳渡辺将人さん(1975生)の『アメリカ映画の文化副読本』【2024.1.25. 日本経済新聞出版】

筆者の目論見・親切とは裏腹かも知れないが、改めて、映画というものが、「国境や民族や歴史」を越え、「地域固有の文化・習慣・慣習・価値規範の漂白・希釈」を経てなお享受・堪能できるパワフルでユニバーサルな表現物であることを再認識できた。

🔳伊藤潤一郎さん(1989生)の『誰でもよいあなたへ―投壜通信』【2023.10.24. 講談社

「投壜」「不定(未定?)の二人称」といったキイワードを手掛かりに「言葉と映像」「記号と事象・事物」…… 表現行為の深奥に分け入っていくことであたらしい地平が拓かれていく。そのスリリングはカ・イ・カ・ン。