2011年、初春の花々(再掲)


3月14日




3月14日




3月14日




3月14日




3月15日




3月16日




3月17日




3月18日




3月19日




3月20日




3月21日




3月22日




3月23日




3月24日




3月25日




3月26日




3月27日




3月28日




3月29日




3月30日




3月31日




4月1日




4月2日




4月3日




4月4日




4月5日




4月6日




4月7日




4月8日




4月10日




4月11日








3月11日の地震があった頃から、ほぼ一日に一枚、花の写真を撮ってきました。


最初は、twitterのタイムラインが
あまりにも辛い、シビアな内容ばかりで
少し気持を休めたくて、はじめたことでした。
とりあえずひと月続けようと思っていたら、
あっという間に、一ヶ月が経ってしまいました。


大きな余震も続く中で
まだ、地震のことを振り返るには、あまりに早いと思っていますが、
一区切りとして、写真をここにまとめてみます。


個人的なことですが、
私はこれまでずっと
落ち込んだり、辛い時には
花を見るようにしてきました。
「キレイだな」と感じることができたら、
私はまだ大丈夫だ。
そう思えるからです。


この春も、多くの花々が咲いています。
私たちのためではけしてなく
見ようによってはそっけなく
ただそこに咲いていることに、
逆に優しさを感じたりします。


少しでも多くの人に、
花を見て「キレイだな」と
感じることができる日々が、
戻ってきますように。






これの再掲です。
2011年3月の花(と月) - kobeniの日記

秋のだんち


団地が好きです。


このブログの最初の記事に、「よるのだんち(よるのだんち - なんか言えないdrops)」というのがありますが
今回は、昼間の、秋の団地めぐり散歩の写真をアップします。
今回も、「home」としての団地にこだわっていきたいと思います。キリンジでも聴き(「エイリアンズ」には「公団」が出てきます)カフェオレでも飲みながら、秋の夜長に楽しんでもらえたら嬉しいです。


東京にも団地はたくさんあると思いますが、「東京の団地」といえば、まずは「多摩ニュータウン」だと私は(勝手に)思っています。多摩センター駅への道中は、京王線の車窓からもたくさんの団地が見えます。
前回の「よるのだんち」も、一部、多摩センター付近で撮影したものが入っています。今回の散歩は、「都営愛宕団地」付近からスタートです。9月中旬に行ってきました。









団地でついつい見てしまうのは、壁面。団地の数字フォントって、独特ですよね。






ちなみに、ぜんぜん土地勘がないので、適当に歩いて行ったのですが、とにかく団地だらけでした。これ、なんだかすごい。「こんにちは」って歩きだしそうな、ちょっと巨大キャラみたいです。



むこうの方に、給水塔が見える。



この坂を登ると着くようです。




坂の途中にも団地。人が暮らして何年も経っている場所かどうかは、木々や花を見ればわかります。



給水塔は近くで見たら、けっこう汚れていた。






おばあちゃんには、エレベーターのない団地はしんどいだろうな。



日が暮れてきたので、9月の散歩はここでおしまい。向こうの方に見えるのは永山の団地かな?気になる…



というわけで、11月に入ってから、京王永山も散歩してきました。
秋の気配がいっそう濃くなっています。「ホームタウン諏訪」あたりから出発。




消防署でなにか演習中。





歩いていたら、公園に出た。色づいた落ち葉のせいであたりが明るい。




このあたりはURの団地。敷地内にある小さな公園で遊び放題なので、息子は嬉しそうでした。




女の子たちが、魔女の帽子みたいなので遊んでる。








この日は夕焼けがキレイで、ピンクの壁面が空に映えていました。






今回、散歩で見てきた団地は「多摩ニュータウン開発」の頃に建てられたものが多い。開発は1965年頃から始まり、70年代に入居が進んだようです。それはちょうど私が産まれ、私の両親がそれを機に団地(東京ではないですが)へ入居した時期と重なります。その頃、団地といえば新築で、あこがれの住まいだったのですね。


多摩ニュータウンの団地はいわゆる「マンモス団地」がとても多く、一つひとつ敷地がとても広い。そして小学校や幼稚園が隣接しています。私が育った団地はたった数棟だったので、その落差にけっこう驚きます。


ちなみに「耳をすませば」の舞台も多摩(聖蹟桜ヶ丘)ですが、雫ちゃんの住んでいる団地、エレベーターがなくて、階段が狭くて急な感じが、今回見てきた団地と似ていると思いました。


雫ちゃんも今は30歳を超えているはずですから、ひょっとしたら海外で子育てでもしているのかもしれません。70年代に建てられた団地で育った子供たちは、もう既に独立をし、親と離れて暮らしている年齢です。多摩ニュータウンでは入居者の高齢化と、それに伴う不便さが問題になっているそうです。そのせいか、今回散歩をした団地は、どこも公園に子供の姿があまり見えず、シンと静まり返っていました。ピアノの音も、聴こえませんでした。


それでも当時の団地を見ると、私はやっぱり、あったかい場所をイメージします。それは目新しいマンションではけして感じることのできないものです。
当時の団地が寂れて人気(ひとけ)が無くなってしまうのはやはり寂しい。
そういう郷愁は、身勝手なものだ、という自覚はありますけれど、団地で育った大人の中には、同じように思う人も多いのではないかと感じます。





東京団地散歩は、これからも続けたいと思います。

だれかをキライになりそうになったら

あなたは、晴れた日の草原にみっしり生えてるクローバー、のうちの一輪。もちろん、あの人もクローバー。
同じ根っこから生えている。風に揺れてる。







自分達がいるビルを、神様みたく上から見てみる。ちょっと汚いオフィス、最寄りの駅、都市、
流れている大きな川、海、日本、地球。グーグルmapみたいに。世界は広くて美しい。
そのなかで、粉砂糖のようなつぶつぶである我々。





彼/彼女には家族がいる。たとえば弟。弟はとある就職試験に落ちて凹んでいる。
その人は言う(お味噌汁をすすりながら)「ふーん。……………たまたまだよ」弟「うん」












町で赤ちゃんや子供を見かけたら、じっと見てみよう。
あの人もこんな小さかったことがある。
親御さんは、かわいいねかわいいね〜って育てただろう。





ある休日の彼/彼女。蛍を見て、(キレイだな…)なんて思う。
あなたもこの夏、蛍を見て、(キレイだな…)なんて思う。海でも可。

















キライになれるほどに相手のことをよく知ってるなんて、
それはかなり、「好き」に近い。






第一印象は、99.7%くらい間違いである。






キライはキライとしておける人たちが、
夫婦になっていくもんです。














「私」をミルフィーユの皮をめくるように剥いでいったら、
最後には、白い粉砂糖くらいの何やらしか残らなかった。つまり、「あの人」も、白い粉砂糖程度のもんなのだ。





だれかをキライにならなくても、
あなたの輪郭はもう既に、じゅうぶんクッキリしている。





気分を変えて、「人間関係」ではなく、
「人間木関係」とか「人間猫関係」とか「人間カナリア関係」
について考えてみよう。








自分の人生を思い返してみる。人生の一時期を共に過ごし、すれ違っていった人たち。
小学校の頃、よくケンカしたあの子は元気だろうか。みんないつか、あなたのそばから居なくなってしまう。
そして100年後には、知っている人は皆、この世を去っている。あの人もいないし、もちろんあなたもいない。







どうせ、みんないなくなるのだ。
あすの天気がよかったら、
お茶にでも誘ってみるのはどうだろう。

私の知っていた人生


私の知っていた人生は
なかなか素敵なものでした



おじいちゃんと おばあちゃんが
玄関で「また明日ね」と手を振る
ベビーカーから乗り出して
息子は ゆうぐれの街を見つめている
赤紫に光る 都バスの「降ります」ランプ
いちょうの木に 集会中のスズメたち
ガソリンスタンドの 「オーライオーライ」の声

昨日と 何ひとつ変わらないのに
こんな日がずっと ずっと続けばいい
そう強く思ったんだよ

決して逢うことのない
けれども とてもよく知っている友達
あの日の そして いつの日かの友達に
手紙を書くように祈った



私の知っていた人生は
そんな 素敵なものでした

なくてもいいけど、あった方がいいもの。


プリン


猫のまゆ毛


蒙古斑


真冬のアイス





ネイルアート


都心の女子の耳あて


オルゴール


恋の駆け引き


セーラー服のリボン


ポシェット




ただいま と おかえり


いただきます と ごちそうさま


おじぎ


おみくじ


お祈り


お墓





しらすの中のちっちゃいタコ


恵比寿駅のチャイム「第三の男」


あったかい便座


ヘッドフォンの紐


大人になってからの
「あたりが出たらもう一本」


一本締め






無人販売


ベンチ


ひなたぼっこ


板チョコ


合唱曲


嬉し涙


アンコール









文学




芸術




草原


小鳥



青空


地球





人生

よるのだんち


団地が好きです。


「団地が好き」と言うと、造形的に好き、という意味に取られがちだけど、
私の団地好きは、「独特なデザインの高層階がうんぬん」というようなそれ、ではないです。
「house」としての団地ではなく、断固「home」としての団地なのです。






団地を見ると胸がキューンとなります。
引越をするたびに、my団地を探して、ときおり少し遠くから眺めてはうっとりしてた。
彼らは、建てられた時期が同じであるせいか、日本全国、兄弟のように似た仲間が別の街に建っているのです。


団地の中でも、最も切ないのは、夕暮れ〜夜です。
カーテンの色ごとに、オレンジや赤や緑に光る家々(部屋部屋、という方が適確か)。
まだ薄暗い明け方に、タクシーを飛ばすその窓から見える団地の、ひとつだけ灯りのついた最上階、
どんな人が住んでいるのかな?と想像するだけで、懐かしいような不思議な気持ちになります。




もちろん、マンションの灯りも悪くない。


言うまでもないことですが、私は団地っ子でした。
だから一軒家への憧れがあまり無く、家の中に階段があるとむしろ落ち着かない方です。
階段というのは家の外にあって、私がリビングに居ると、階段を上がってくる音がだんだん近づいてきて、
(あ、お母さんかな…?違った)なんて思うのが好きでした。




そんな母に「灯りのついた団地を見るのが好き過ぎるんだけど、なんでだろう?」と聞いたら


「そこに人がいる、という感じがするからでしょ」


と言われました。







よるのだんち。
そこに人がいる、という、あたたかさ。