*[コラム][書評][ネット]アバタロー、専守防衛と貞観政要
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*[スポーツ]2013年日本シリーズ・東北の夢・楽天V
NHK・BS1の番組の再放送「あの試合をもう一度!スポーツ名勝負」を観た。
プロ野球2013年の日本シリーズ、巨人VS楽天の優勝を決める第7戦の試合である。巨人の監督は原、楽天の監督は星野。2011年3月の東日本大震災の傷がまだ癒えない2013年の秋。楽天は絶対的なエースの田中でリーグ制覇を果たし、日本シリーズ最終戦を地元仙台で巨人を迎えた。
3対0楽天リードで迎えた9回最終回、前日の第6戦で手痛い負けを喫した田中を星野監督はマウンドに送る。ツーアウト・ランナーは一塁三塁。一発ホームランが出れば同点のピンチ。ベンチの星野監督の不安な表情が映し出される。
常識的には田中の登板はない。前日160球を投げて負け投手になっている。しかし、田中の申し出により最終戦にベンチ入りした。
最終回、星野監督は決断していた。マウンドへ田中を送り出す。主審に投手交代を伝える星野監督の表情が画面に映し出される。主審に対した時、最初は怒ったような厳しい表情、そしてその後での笑顔、そして「田中」と伝えたときは、また厳しい表情に戻る。星野監督の「決断」の一瞬である。
球場ファンの緊張感と応援の叫び声。そして田中は三振に打ち取りゲームセット。球団創設9年目ではじめて日本一の栄冠を楽天は獲得した。
プロ野球名監督の一人に野村克也さんがいる。野村さんは数多くの書籍を出版しているが、代表作に『野村ノート』小学館文庫がある。
野村さんは「決断」と「判断」は違うということを同書で述べている。
「判断」とは頭でやるもの。判断には基準がある。確率的には高い意思決定である。
「決断」とは賭けである。確率は決して高くなくリスクがある。決断には覚悟が必要である。すなわち失敗したら責任をとらなければならない。
星野監督は、9回最終回に「決断」したのであろう。一塁三塁になったときの不安の表情は、もし田中が打ち込まれたら監督として投手起用の全責任をとらなければならないからである。
星野監督の決断の理由の一つに、エンタテイメントとしてのプロ野球、ひいては野球界だけでなく東北復興という社会情勢の中で、そして田中投手という逸材を育てるという意味で、決断したのだと思う。失敗したらすべて監督自身がその責を負うという「覚悟」のもとに。
そしてその監督の「覚悟」を田中投手は十分すぎるほど意識した。三振にとりゲームセットとなった後、一呼吸おいて田中は喜びを表現した。星野監督も勝負が決まった直後、一瞬の無表情の空白の表情が映し出された。両者の覚悟が解き放たれた一瞬の空白の時間である、と感じた。
野村監督の野球セオリーは天下一品である。そして星野監督は野村監督にはないエンタテイメントの演出力を有していたように思う。そしてこの二人に共通するのは「巨人何するものぞ!」という強烈な意識である。
今、この野村も星野もいない。そして田中はメジャーから古巣の楽天に戻ってきた。今年のプロ野球、あらためて注目してみたいと思った。
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極真空手とサッカー
たたかう植物~仁義なき生存戦略
【書評】『たたかう植物~仁義なき生存戦略』稲垣栄洋、ちくま新書、2015年刊
7月も半ばに入り、もう少しすると子供たちは夏休みに入る。
夏休みというと、アサガオの観察日記をつけたことを思い出す。
種を蒔くと双葉が出て、本葉が出た後はぐんぐんと伸びていく。
その急成長するアサガオは、企業の競争でいえば成長期のベンチャー企業のようだ。
アサガオが急成長するのは、「つる」で伸びる植物だからだ。
ふつうの植物は自分の茎で立つので、茎を確立するのに時間がかかる。
アサガオは他の植物などに絡まり、頼りながら伸びるので、エネルギーを節約できて伸びが速い。
いち早く生長できれば、広々とした空間を占有し、存分に光を浴びられる。
軍事や政治経済で他国に頼る国の競争に似ていないだろうか。
植物を見ると癒される、と言われている。
すくすくと太陽に向かう木々や美しい花々。
植物は争いのない平和な世界のように見える。
動物は、他の生き物を食べたり、植物を食べて生きている。
植物は他の生き物を殺さなくても生きていける。
太陽の光と水と土があれば生きることができる。
しかし、現実は、日光や水や土壌などの資源をめぐって、植物は激しい争いを繰り広げているのである。
平和そうに見える植物たち。
実は激しい戦いを演じている。
これが自然界の実態である。
本書は仁義なき戦いを繰り広げる「たたかう植物」を見事に、わかりやすく描き出している。
本書を読みながら、たたかう企業、たたかう国家、たたかう人間、たたかう生物に思いをはせてしまう。
オランダ領キュラソー
オランダ領キュラソー
MLBのエンジェルスの大谷翔平選手の活躍は日本人に多くの感動を与えている。
日曜日の昼下がり、PCに向かい原稿書きをしながら、TVに映し出されるアスレティックスとエンジェルスの試合をチラチラ見ている。
オランダ領キュラソー。
キュラソーという言葉の響きに何故か郷愁を感じる。
キュラソーといえばラム酒をベースとしたリキュール。最近10数年飲んだことはないが、かつて飲んだ記憶がある。
ロサンジェルスエンジェルスのショートを守るのがアンドレルトン・シモンズ。
かたやオークランドアスレチックスにはジャリクソン・プロファーがいる。
どちらも、オランダ領キュラソー出身のメジャーリーガーである。
キュラソーとはポルトガル語で「聖心」という意味であることを知った。
カリブ海のベネズエラ沖に浮かぶ人口14万人の小さな島キュラソー島。
シモンズ選手らの活躍でキュラソー島の名は日本でも広まった。
大谷選手のいるエンジェルス。どうしてもこのチームを応援してしまう。
永里亜紗乃、岩渕真奈と、かつてのドゥンガの言葉
永里亜紗乃、岩渕真奈と、かつてのドゥンガの言葉
2019FIFA女子ワールドカップで日本のなでしこジャパンはオランダに敗れ、フランスの地を去ることになった。
ワールドカップでのなでしこの戦いを振り返って、NHKの解説を担当した永里亜紗乃さん(2015カナダワールドカップ準優勝メンバー)と、日本のエースとして活躍した岩淵真奈選手の2人のコメントに注目した。
たいへん厳しい眼と、強い危機感を持っている。
この経験をバネに来年の東京五輪で頑張ろうなどという悠長なことを言っていられないという気持ちが、この二人から伝わってくる。
暗に、現監督や協会への不満の声ともとれるものである。
●永里亜紗乃さんのコメント
勝つチャンスは十分ある相手と内容だっただけに、ベスト16敗退という結果はとても残念です。これが今の日本女子代表の実力と認めざるを得ません。世界一を勝ち取った8年前、惜しくも準優勝で涙をのんだ4年前とは大きく立ち位置が異なり、結果だけを切り取っても危機感は募るばかりです。
常に日本の課題として指摘されてきたフィジカルや身体能力ですが、改善するための手は打てているのでしょうか。私は大会期間中、イングランドのトレーニングを取材する機会がありました。主に非公開練習のため目で確認できたのは冒頭15分のウォーミングアップのみでしたが、彼女たちは最初のアジリティトレーニングからフルスピードでした。次に重りをつけた状態でスプリントを行い、最後は重りを外した状態で約30メートルを全力疾走し、フィジカルトレーニング並みの負荷をかけていたのです。
日本の場合、ゆっくりとしたランニングやストレッチで体をほぐすことが多いはず。集団で行う和気あいあいとしたウォーミングアップが一概に悪いとは言えませんが、こんなところにも明確な違いが見えたのです。スプリントの質・量の差はそのまま日常になる。もともと体格に恵まれている選手たちとこれだけトレーニングに差があれば、その差が縮まるはずはありません。
日本人だからフィジカルが劣っていても仕方ない、という表現で片付けてはいけません。海外にも体の小さい選手、足の遅い選手はいます。でも国の代表に選ばれる選手たちは必ず努力し、トレーニングで改善を図っているのです。日本も最初から諦めてはいけないですし、起きている事象を課題として捉えて改善策を練るべきではないでしょうか。それができなければ世界との差は開く一方です。
オランダ戦後、涙を流している選手がいました。ですが、泣くのは何か後悔があるからではないでしょうか。私は現役時代も今も、泣かないために準備し、努力してきました。涙をすべて美談で終わらせてはいけません。
平日の朝4時に起床してなでしこジャパンを応援してくれた人がどれだけいたのか。今日や明日の各種メディアでどれだけ報じられるのか。取り巻く環境の変化を感じ、受け止め、次のステージへ進まなければいけません。
THE ANSWER 2019年6月26日
●岩渕真奈さんのコメント
11年、15年に続いて3大会連続出場となったFW岩渕真奈(26)は
「これまでの大会と比べて、長い時間ピッチに立って個人的に充実はしていた。ただ、自分にはチームを勝たせる力はなかったし、全てにおいて物足りない。やっぱり悔しいなと思う大会だった」と総括。
その上で「16強で終わってしまったが、東京五輪に出場できるのは12カ国。自分たちは予選を免除されるが、その予選を勝ち抜いてきた強豪が出てくる大会ですし、一からというとネガティブに聞こえちゃうかも知れないですが、個人的な意見として全てを見直さないといけないと思っている」と現状に危機感を募らせた。
スポーツニッポン 2019年6月27日
かつてブラジルから日本のジュビロ磐田にやってきたドゥンガ氏が1998年に日本での経験をもとに著した本『セレソン』(NHK出版)で、手厳しくサッカー男子日本チームを評している。
これらは、今また、なでしこジャパンにも見事に当てはまるように思える。
1)日本チームはすべきことをし尽していない。
○勝つべき試合を落としたり、相手は弱いから簡単に勝つだろうという感覚が残っている。今までの試合の分析を徹底的にすべきだ。
2)日本チームはコミュニケーション不足
○ピッチ上で怒鳴ったりするのは敬意に反するという意識があるようだ。試合に負けたら敬意も何もない。注意をしないことで負けたら二人の関係は友人のそれですらない。
3)日本チームは間違いを見つけてもなかなか変えようとしない。
○トライしてだめなら、別の方法を考えるべきだ。
4)外部招へいでポリシーがしっかりしていない
○これまでに招聘した海外からの指導者や選手で問題のあった人もいるかもしれないが、根本は呼ぶ側のポリシーがしっかりしていないケースがほとんどだ。専門家畏敬主義ですべてお任せにしたり、呼ぶ側が過剰に口出ししたりといった事があってはならない。呼んでくるべきは、選手に教育のできる監督、チームに貢献できる人材、つまり日本選手やスタッフの模範になる人間でなければならない。
5)日本人はほんの少しのことを覚えると、もうすべて理解したような気になってしまうことがままある。
○サッカーはつねに学習を続けなければうまくならない。絶対に立ち止まることは許されない。
6)日本人は謙虚さが足りない
○ワールドカップのレベルとアジアのレベルは違う。アジアで代表に選ばれるのと南米で代表に選ばれるのとではそのプレッシャーは大きく違う。たかがオリンピックでブラジルに1勝したということを語り草にして喜んでいるような陳腐なメンタリティは捨てたほうがいい。
7)キャプテンは医者である
○キャプテンというのは監督と選手の間に立つつなぎ役ではあるが、伝達係ではない。選手たちの雰囲気をつかまなければならない。本当の医者はまず予防に全力を尽くすものだ。キャプテンがチームの雰囲気を感じ取らなければならないというのはそういうことだ。
8)日本の選手には気合が足りない。
○ジュビロ磐田でもっとも難しいと感じたのは、若い選手たちに、絶対に勝ちたいという怒りに似た闘争心をいつも百パーセント発揮させることだった。
9)日本の選手は自分のことばかり気にしている。
○周囲の人に注意を払わなければいけない。サッカーはサポートしあうスポーツだ。
10)基礎があるから高度なプレーが生まれる
○日本チームに勝ち負けの波が激しいのは、基礎が出来ていないからだ。日本の試合はあまりにミスパスが多すぎる。
これはサッカーの話ということで、終わらすことはできない。
日本の経済、企業経営、政治、その他社会のすべての分野において、日本の劣化現象が起こっているからだ。
岩淵選手の「すべてを見直さなければいけない」という言葉は重い。
背負うということ
*[コラム]背負うということ
最近は電車に乗っていても新聞や雑誌を読んでいる人はほとんどなく、半数以上の人はスマートフォンを見ていることは、日常の風景になっています。
それと同時に、リュックサック(デイ・バック、バックパック)を背負う人が目立って増えてきました。
かくいう私も、最近はリュックサックを多用するようになりました。
手持ちのかばんは片手がふさがってしまいますが、リュックサックであれば両手が使えるので、歩きスマフォなどに適しているので、スマフォの普及とリュックサックの普及は連動しているのかと思います。
子どものころの通学時には、小学生の時は、かばんはランドセルでした。中学生の時は、どんなカバンであったか何故か記憶から消えています。高校生の時は革の手提げのスクールカバンでした。
手持ちのカバン、片方の肩にかけるショルダーバッグ、両肩にかけるリュックサック、それぞれ長所と短所があります。
今はやりのリュックサックにスマフォの姿を眺めると、なぜか薪を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎(二宮尊徳)のことを思い浮かべてしまいます。時代は変わっても、荷物を背負いながら情報収集するという人間の行動は、共通しているようにも思います。
「背負う」ということ言葉。物理的に荷物やカバンや薪を背負うということだけでなく、眼に見えないものを背負うというときにも使われます。
過去を背負う、家族を背負う、責任を背負う、会社を背負うなど。
通常は「背負う」というとマイナスのイメージでとらえられると思います。できれば、物理的にも精神的にも、あまり背負うものがないほうがよいともいえますが、なかなか現実にはそうもいきません。
背負うものがあり、それを責任として踏まえたうえで生きていかなければいけないのかな、と思っています。
背負うものがなければ気軽でよいとも言えますが、それはそれで充実感が得られないのでは。人間として深みを感じさせない のではないかと思ったりもします。