ゼーガペイン

なんか今年の下半期はあんまり面白いアニメも漫画もなかったなあと思っていたところで、ゼーガペインというアニメが一部で大人気だったそうで、5時半だか6時だか、妙な時間に放送していたので観てなかったと思って、試しに2話ほど借りて観てみたら2日で26話観るハメになってしまった。

個人的にはゼーガペインはぶっちぎりで2006年を代表するアニメだと思う。
第1話を観てあまりにありきたりな展開でもの凄く不安になって、第2話で初お目見えになるOP(http://stage6.divx.com/members/62188/videos/1321)が非常に地味で眠たくなるようなものだったので、これはダメかも分からんなと思った。けれど、第6話のラストでそれまで丁寧に積み上げられた1話から6話の内容が一気に収束した時、全26話のうち6話分をオープニングに充てるという構成だということに気付き、しかもそれまで退屈だったOPもある程度世界観を見通した後だと、密接に本編にリンクしているということが分かって、正に主題歌の名に恥じない作りで、前半は明確に「抑えた」という生半可ではない製作者の覚悟を感じた。そこからはラストまで上げては落としの連続で濃密に構成されていて、最後まで楽しく観ることができた。

以下ネタバレ

ゼーガペインのテーマは量子論多世界解釈とその世界をいかに認識するかというもののように見えるけれど、6話でそれまでのストーリーとOPの内容が変わっていないにも関わらず、受け取り手の視点が変わってガラリとその様相を変えたように、ゼーガペインの主題も最終話の存在で当初とはまったく違った風に受け取れるので、オレオレ考察をしてみたいと思う。
最終話ラストで、リョーコが葉っぱが入った水を飲んで、妊娠しているという描写があるけれど、調べてみるとアラスカ地方の神話(http://mania.sakura.ne.jp/zegapain/index.php?%A5%A4%A5%A7%A5%EB)をモチーフにしているらしい。なので、間違いなくリョーコの子供はシズノであると思う。そうなると、最大の問題は父親であるはずのキョウは一体どうなったのかということだけれど、それは建物が朽ち果てているという、時間経過の描写からキョウは死んでいるという立場をとりたい。
リザレクションシステムの完成には膨大な時間がかかり、リョーコが人間化した時には既にキョウは死亡していた。結局、キョウとリョーコが人間として再会することは無かった。しかし、シズノが人間化するためには触媒が必要で、誰かの子供として生まれる必要があった。そこで、見知らぬ誰かの子供として生まれるよりは、シズノはリョーコの子供として生まれることを望み、また、永遠に誕生することが無いキョウとリョーコの子供として生まれることを望んだ。こうして、新しく始まった人類最初の子供は処女懐胎より生まれることになった。そして、今はもう居ないキョウが命を賭けて繋いだ世界を前にして、お腹のなかのシズノに、リョーコは「早く生まれておいで。世界は光でいっぱいだよ」
こうなってくるともう完全に創世神話で、そういう視点でこれまでの物語を見返すと、幻体というのは不老不死、しかもセレブラントでない者は定期的にリセットがかかって、永遠に不変であるという正に神と言えるような存在で、でもぜんぜん崇高でも神聖でもない存在でもあって、世界の終わりは世界の始まりであり、最高の存在は同時に最低の存在であるというようにループしていて、また同時に近未来SFでもあり、最古の創世神話でもあるというように、物語のラストで劇的に作品自体の様相が一変し、最終的にゼーガペインは、作品のテーマが一直線ではなく、ありとあらゆる方向に立体的、有機的に結びついていて、かなり多様な読みを許すようになる。こういうのはなかなか無いことで、そもそも伏線の張り方/回収の仕方がグダグダなものも多いし、そうでなくても伏線を明らかにしたら単なる種あかしレベルに留まることがほとんどで、作品の様相が変わってまた違った趣で再視聴できるようなものは名作と呼んで良いと思う。これは素晴らしい作品だ。

細かく観ていけば、小さいキズは多々ある作品ではあるけど、アニメに一番大切なものが注意深くまっすぐに、そして製作者の愛情いっぱいに組み上げられているという、本当に観て楽しい作品だし、OP/EDも地味で一見なんでもないように見えるけれど、ゼーガペインという世界を共有した後では、これしかないという程に完成された今年最高のOP/EDだ。リアルタイムで追いかけていたかった。

消されるな、この想い 忘れるな、この痛み

雑文

昨日のエントリ(http://d.hatena.ne.jp/kojiy/20060727#p1)で面倒だったので、さらりと「相田裕はニンフェットとピグマリオニズムを混同しててそこが逆に面白い」と言ったけど、なんだかここら辺の性倒錯について書く気が湧いてきたのでもう少し突っ込んでみることにする。

現代ではロリというものは完全に商品化されていて、猫も杓子もロリというような風潮で、むしろ一人前のオタクならロリなど嗜んでいて当然だというレベルかもしれない。だけど、そんな振る舞いとしてのロリとは別に、少数ではあるが確実に真性のロリコンというものがいる。この真性ロリコンに共通するものとして、いい歳した男が少女に心奪われて、その心奪われている事実にのた打ち回るという視点があって、真性のロリコンは決して幼女にハァハァというものが本質ではなく、むしろそれは別の本質からもたらされた単なる表現としての一形態であるといいたい。
では、その別の本質とは何なのか。その本質はロリータではなくニンフェットと呼んだ方が分かりやすい気がしていて、そもそもなぜニンフェットは十代前半の少女に宿るのか。世間ではよく成熟出来ない男性が無力な少女を云々という言説で説明されるけど、それは完全に間違っていて、十代前半の少女には、少女と少年、貞淑と淫乱、大人と子供、無垢と残酷といったありとあらゆる二律背反が同時に存在するからこそニンフェット足りえる。例えば、十代前半では少年と少女で体の作りがかなり近づく年齢で、少女が走る姿はおそらく同時に少年が走る姿を思い起こすだろうし、肉体的には初潮を迎えて妊娠する可能性を持ち、いつか破られるという意味において貞淑さが逆に淫乱さを際立たせる。また、少女が見せる妙に大人っぽい分別のよさなども少女が持っているという逆転が魅力的なのであって、大人が大人っぽくても魅力的でもなんでもない。このように、見方を変えるだけで劇的にその性質を変える様々な概念を同時に少女は持っていて、さらにその少女自体が確実に時間の流れで失われてしまうという儚さ、この美しさがニンフェットとしての美しさだと思う。
もう一つ、重要なものでニンフェットの元になったであろうニンフの神話があって、どこかに迷い込んだ人間がこの世のものとは思えない程に美しいニンフと出会い、交わるけれども、精霊と人間なので必ず別れなければならないというものがある。ここで表されているのは、目の前に存在する、手を伸ばせば届く距離にあるユートピアが人生の一点において交わることができても、必ずその希望は砕かれなければならないということだ。ナボコフの「ロリータ」でも、ロリータは主人公の下からいなくなり、若い男と同棲をして子供を宿し、絶望した主人公は若い男を殺害し、投獄された後に獄死するという顛末を辿る。
このように、一瞬ではあるが目の前に現前する理想の美としての少女と、その理想の美としての少女と同一になることは許されず、しかもその希望は確実に打ち砕かれる宿命にある男の視線、これが古典的なロリータであり、ニンフェットである。
なので、ニンフェットは二律背反、もののあはれ、現実の女性の特徴といったことを理解する程度には成熟、自立した男性による視点でしかありえず、しかも徹頭徹尾観念でしかありえない。だから、当然成熟出来ない男性云々という言説は成り立たないし、理想の美というものが持つ暴力的な引力に悩まされることがあっても、男性側から暴力的に少女に働きかけるということもない。なぜならば、暴力的に働きかけた時点で、それまで存在していた複雑で多彩な美というものが単調な肉欲一色に染め上げられてしまうためだ。

一方のピグマリオニズムは、神話で王様が現実の女性に絶望して、理想の女性彫刻を作ったら神様の力で魂が宿って、その女性と結婚したという話が基になっていて、これはむしろ、王様が女性に絶望して、彫刻を作ったら神様の啓示を受けたと王様が大喜びして、その後一生その彫刻とブツブツ話をしながら暮らしました。めでたしめでたし。というように読んだ方が分かりやすいと思う。要するに人形愛とはこういうことだ。これをキモいの一言で切り捨てるのは簡単だけど、結構色々な示唆に富んでいて、例えば現実を遥かに凌駕する女性彫刻が作られるあたり、技術信仰、機械信仰を表しているというようにも解釈できるし、理想というものは観念の中でしか存在できないものなのだというような解釈もできる。その他にも原初的な宗教の発露や、人の認識とは何ぞや?とか幸せって何?とかにも繋がってくる。
まあその中でも際立って倒錯しているのが自分の理想をモノに投影しているというところだろう。このように、無制限な妄想を物言わぬ、心を持たぬモノにぶつけてそれに陶酔するというのは完全にオナニーで、本質的に人形愛とは自己愛、ナルシシズムであるとされているようだ。さらに、人形の物体性、不毛性からネクロフィリアペドフィリアといったイメージも簡単に連想できて、むしろ世間一般で言われているロリコンピュグマリオン・コンプレックスであり単なるナルシシズムだろうと思う。

ここまでが前置きで(長すぎ)、GUNSLINGER GIRLではこのニンフェットとピグマリオニズムを完全に混同していて、ある部分では少女に対してピグマリオニズム・ネクロフィリア的アプローチをして肉欲を満たし、またある部分ではニンフェット的アプローチで形而上学的欲求を満たしている。これは非常に都合が良くてある意味ではグロテスクな、またある意味では相当に冴えた混同の仕方で、もしかすると相田裕だけがニンフェットとピグマリオニズムを混同しているのではなくて、現代でいう商品化された「ロリ」という概念がニンフェットとピグマリオニズムの混同をしているような気がしてきた。

はやて×ブレード

はやて×ブレード 5 (電撃コミックス)

はやて×ブレード 5 (電撃コミックス)

まさか暇つぶしに買った漫画かここまで面白くなるとは予想外だった。ジャンプよりバトルが盛り上がる百合バカップルバトル漫画とは恐れ入った。
5巻で初めて知ったけどこの漫画のタイトルは「はやて くろす ぶれーど」だったのか。。

GUNSLINGER GIRL

GUNSLINGER GIRL 7

GUNSLINGER GIRL 7

自分は和月伸宏武装錬金が大好きで、その中でも自分の理想と現実、過去の栄光と未来への不安の狭間で葛藤してなお受け入れられないかもしれない理想の少年漫画を描き続ける作者の姿にシビレていた。武装錬金自体も面白かったけど、(不謹慎かもしれない)あの作者の生き様は虚構を超えた瞬間があったように思う。

その和月の勇姿が相田裕と重なるんじゃないかという瞬間があった。

元々、GUNSLINGER GIRL相田裕が女の子を描きたくてしょうがないようなところがあって、しかもその描きたい女の子は普通なら純情可憐なロリというように少女性へと向かうものが、何を思ったかキリングマシーンに対するピグマリオニズム(人形愛)へ向かっていった。1,2,3巻が手元に無いのでうろ覚えだけど、そもそも少女達を「義体」と呼ぶのもそうだし、度々描写されるどんな命令でも従うシーン、また「条件付け」と呼ばれる明らかに属性のカスタマイズを行っているシーン群、さらに圧倒的な戦闘力という男性的価値観による高機能さ、不死性、これらは決定的に鑑賞し得る人形たる要素だし、もしもこれをロリと言おうものならルイス・キャロルウラジミール・ナボコフなんかは激怒するか呆れ返るんじゃないだろうか。
それで、その少女達の周辺を構成する社会も、「公社」と呼ばれる諜報機関で、その諜報機関がやっているテロ組織との抗争も、果たして意味があるのか無いのかよく分からない状態で、「人を模している」人形が持つ模造性、不毛性なんかとリンクしたりして、かなりよくできている。絵柄も動きを抑えてオッサンは結構凝るくせに少女は幻想的な感じで、倒錯したイメージの元、かなりのレベルで全体が統一された漫画だという印象だった。
しかし、5巻あたりからちょっとづつ絵柄が変わりはじめ、最初は絵師としてもう一つ上の段階を目指して太い線で女の子を描くつもりなんだろうかと思っていたら、6巻でペトルーシュカが登場したあたりから作品自体の様相が一変した。ペトルーシュカは長身、高齢で(といっても16歳だけど。外人なので見た目では18〜20歳くらい。)作中では担当官と任務としてイチャイチャするような描写もあって、しかもペトルーシュカもそれを任務として割り切れる分別を持っている。印象的なのは7巻のラストで、以前なら死ぬことになったキャリア女性が今度は生き残っているし、明らかに昔と比べて作者の女性観が変化していて、過去の女性観と決別しようとする意志が見て取れる。
長年人形的な少女を描き続けて、もう飽きてしまったからこういう肉感的な女性を描きたくなったのか、それとも作画的なチャレンジとして年上の女性を描いたらそのイメージに引きずられてシナリオまで変わってしまったのか、それは誰にも分からないけど、個人的にはもっと実際的な理由としてリアルで彼女できたんちゃうん〜?げっへっへという下衆の勘繰りをしてしまう。
この変化がどのように作品に影響を与えるかというのは、ちょっと予測が不可能で、そもそも相田裕ピグマリオニズムとニンフェットを意識的にか無意識的にかは分からないけどかなり致命的に混同しているフシがあって(http://d.hatena.ne.jp/kojiy/20060728)、その混同からくる歪みが妙な魅力を生み出していたけれど、その歪みをスタートとしてアンチテーゼを掲げても、そもそもの出だしがひどくプライベートなものなのでその先にあるものなんてのは本人にしか分からない。
そういう、何かもの凄くプライベートな理想に向かって決して最適とはいえないフィールドで作品を発表し続けるという姿勢が和月伸宏とダブってしまう。こういう、作家自体が目に見えない何かと必死に戦う姿というものは、不謹慎だけどかなり心躍らされる。

カミヤドリ

カミヤドリ(3) (角川コミックス・エース)

カミヤドリ(3) (角川コミックス・エース)

三部けいは、カミヤドリという漫画で知っていたのだけど、この作者は女の子を描く時に妙な情念がこもっていて、時々描かれた女の子からさっき言ったような達人っぽい気配がしていたので、よく覚えていた。でも決して絵だけという訳ではなく、ストーリーの方でも死と性、権力、罪、薬物なんかを扱っていて、非常に描く気マンマンといった感じだった。だったというのは、どうも打ち切りくらったらしく、しかも単行本の方も絶版になっているようだからなんだけど、個人的な評価としてはあまりにも過小評価されすぎというか、むしろその前段階で認知されてなさすぎな漫画なので、こんなところで宣伝したからどうということもないだろうけど、仮にアニメ化されてれば間違いなく爆発する程度には面白いと思うので、絶版だけど、お勧め。

こういうエロから一般に行った漫画家はやっぱり人体を描きまくってるから絵が上手いのかと思って、いくつか挙げてみると、大暮維人甘詰留太okamaあたりで、あと介錯とかぢたま某六道神士なんかもいるから、別にエロから一般に行く漫画家は死ぬほど絵が上手いという訳でもなかった。でもやっぱり、大暮維人の線とokamaの線は三部けいとか胃之上奇嘉郎の線と通じるようなところがあるように思うし、それはエロ出身の漫画家独特なもののように思うから、やっぱり人体への情念がそうさせているんじゃないか。例に挙げた漫画家の中だと甘詰留太が一番情念溢れる作家だけど。