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■大庭沙織「刑法上の故意と強制医療の対象行為該当性要件としての故意」(刑事法ジャーナル41号79ページ)
<概要>
・刑法上の故意について、規範化説は不合理な認識を持った行為者の故意について妥当な結論を得ようと試みるものである。行為者が有した外形事実が一般的経験則上高い危険性を徴表するものであり、一般人であれば犯罪事実の認識を形成したといえる場合に、故意を認める。「人の外観を有し、人の振る舞いをするもの」の認識を形成させるような外的事実を知覚していれば、「人でない」と思って殺害行為に出たとしても、殺人の故意が認められる。
・規範化説は、犯罪事実について真摯に判断しなかったことにあらわれた他人の利益への無関心に対する非難が、根拠である。これは、故意の提訴機能の無視に強い非難が向けられるという説明を徹底したものである。というのも、規範化説は、従来認められてきた違法性の意識を可能にする提訴機能よりも一段階前の、犯罪事実の認識を可能にする提訴機能の無視を厳しく処罰するからである。
・しかし規範化説の故意理解は支持できない。過失犯にとどまる者に対して故意犯への強い非難を向けるからである。外的事実の知覚に認められる提訴機能は、なお間接的なものである。行為者自身が「人を殺す」と認識していなければ「人を殺すな」という規範には、なお直面していない。
・それでもなお、一般人であれば犯罪事実の存在の認識を形成するような外的事実の知覚に着目した点は、注目に値する。故意が外的事実の内心への投影である以上は、外的事実とのつながりが必要なのであり、このつながりは、外的事実が犯罪事実の存在を徴表する場合に、行為者の犯罪事実の認識が外的社会の内心への投影であると認められる。故意を認めらためには、犯罪事実の認識が最終的に形成されてさえいればよいわけではなく、その認識が本当に故意として評価されるにふさわしいものでなければならない。心配性であるがゆえに自己の行為の危険を過大評価して犯罪事実の認識を持った者は、その認識が外的事実につながりを持たないため、故意は認められない。
・「医療観察法と故意」の問題を検討すると、まず、医療観察法は非難を前提としておらず、刑法上の故意犯処罰とは大きく異なる。そのことは、対象行為該当性の判断にも影響する。医療観察法の目的に鑑みれば、事実を正しく認識できないような重篤な者ほど強制医療の対象とするべきであるということになる。しかし、医療観察法が刑法の規定を用いて対象行為を限定している以上、対象行為該当性要件を刑法上の故意と全く別物と理解するのは、現実に即していない。
・刑法上の故意との重なり合いを求めるならば、認識形成プロセスとしての故意の下限である外的事実の知覚をもって対象行為該当性要件としての故意とするのが妥当であるように思われる。東京高判平成20・3・10(id:kokekokko:20150804)の行為者ように「人の外観を有し、人の振る舞いをするもの」と知覚した後、幻覚妄想により最終的に「人である」との判断を下せなかった者にも、対象行為該当性要件としての故意が認められる。ここでは犯罪事実の認識は要求されないが、犯罪事実の認識は故意犯処罰の強い非難を根拠づけるものであり、強制医療の対象行為該当性要件としての故意としては要求されないとすることは可能である。
・外的事実の知覚は、弱いとはいえ提訴機能を有している。外的事実の知覚は、行為者に対して行為の危険性を訴え、ブレーキをかける性質を持つ。精神障害ゆえに提訴機能に応じることができない者は、もはや外的事実によるはたらきかけは意味をなさない。
・また、外的事実の知覚は、社会復帰のためにも、対象行為該当性要件として必要である。外的事実の知覚すら欠く者は、自己の行為に向き合うことができず、何をしてはいけなかったのかを理解することができないと思われるからである。
<読んで>
・行為者の主観面における各段階が、どの程度、提訴機能と関係するのかについて整理してみると、まず筆者は、外的事実の知覚による提訴機能が間接的なものであるとしている。しかし厳格故意説のように、事実の認識の提訴機能も間接的であるとは考えないようである。限界づけのラインは、「人」という言語が脳内に存在していないと「人を殺すな」という規範に直面できないというあたりであろうか。規範化説の出発点は、主観面で積極的に「人」という可能性を排除した(積極的誤信)行為者はともかくとして、無関心(思考の焦点外)であるがゆえに「人」であると考えなかった行為者が故意犯とされないのは不当である、という思考だったのであるが、筆者は、(少なくとも殺人罪については)「人」という概念の認識がメルクマールであるとしているのかもしれない。もちろんこのようなメルクマールが財産犯や薬物犯罪などにも妥当するかどうかは問題ではある。
・「医療観察法と故意」では、医療観察法での対象行為が刑法上の行為であるという限度で、2つの法領域での主観面での重なり合いを要求しているようである。その観点から筆者は、「行為意思」を対象行為該当性要件から除外している。しかし、行為意思は故意とは異なる主観的要件である、という理解も存在するのであり、行為意思が対象行為該当性判断にとって不要かどうか、ここから直ちに導けるかは疑問である。
・また筆者が挙げる「外的事実の知覚」は、幻覚妄想状態においては存在するとは限らない。「何かを見たのでそれを包丁で刺した」というレベルの認識は一般人に対しては「その「何か」というのは「人」ではないか」ということを想起させるのであるが、幻覚状態であればその想起は不可能であろう。また制御無能力者であれば、「人」であることを確信している場合もありえる。責任無能力者の現実の主観的要素を用いて法的要件とすることが困難であるがゆえに、城下説のような最決平成20・6・18(id:kokekokko:#20150804)への評価があるのである。
・なお、刑法学での用語について少し気になる点を挙げる。鑑定書や判決文で登場する「幻覚」は、外界の対象がない知覚を指す。例えば「壁から人の手が出ている」というものである。幻覚の一種である幻聴は、聞き間違いではないのである。ゆえに、「幻覚に支配されている行為者」には、主観面に対応する外的事実は存在しない(壁は存在しているが、手は存在していない)。なお、感覚情報の誤体験は「錯覚」である。
・ちなみに、「幻覚妄想状態」は、精神保健福祉法28条の2(自傷他害の判定基準)等で定められている状態であり、精神障害者通院医療費判定基準などにも項目がある概念である。『国際疾病分類ICD−10の統合失調症分裂病型障害、妄想性障害、症状性を含む器質性精神病、精神作用物質による精神および行動の障害などでみられる病態である。』とあるとおり、精神疾病と密接に結びついている概念であり、認知障害意識障害とは異なる*1
医療観察法の目的からは、重篤な者ほど強制医療の対象とするべきである、とするが、ここでの「重篤」は治療困難性を指すのか(であるならば医療観察法の要件は精神科医の診断によるべきであり犯罪行為という要件は不要である)、それとも他害行為危険性を指すのか。重篤な者ほど「医療」の対象とすべきというのではなく「強制」医療の対象とすべきというのであれば、医療観察法の目的を保安と把握する考え方に通じることになろう。ただ、その考え方(医療観察法の本質を保安処分、あるいは懲役代替と捉える立場)であれば、刑法上の要件を医療観察法にも要求するという発想に親和的であろう。
・外的事実の知覚すら欠く者は、「自己の行為に向き合うことができず、何をしてはいけなかったのかを理解する」とあるが、これでは教育刑との相違が不明になるのではないか。医療観察法の対象者に必要なのは治療であって、自己の行為に向き合うことや何をしてはいけなかったのかを理解することではないはずだからである。

*1:これらの点は、私が刑法の人に言おうとしたことがあるのだが、全く関心を示されなかった。

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■伊東研祐「故意と行為意思の犯罪論体系的内実規定」(川端古稀269ページ)
<概要>
・最決平成16・3・22(クロロホルム吸引事件)では、被害者を昏倒させた(第1行為)うえ2キロ離れた場所で自動車ごと海中に転落させた(第2行為)が、被害者は第1行為で死亡していた可能性がある。ここで、第1行為については殺害の故意はなく第2行為については故意に対応する客観的事実(死亡)がないと構成するならば、いずれの行為についても殺人罪が成立しないことになる。最決は、両行為は密接であり一連の殺人行為であると評価した。両行為が同一構成要件に包摂されているならば、本件は純粋な「因果関係の錯誤」が存するに過ぎない。・第1行為時には、惹起を意図していない第2行為の結果について、何故に故意を認め得るかという点については、本決定は具体的な理由を詳細には説示していない。
・第1行為の時点では内実の意思的要素は全く認められないのであるから、故意に意欲や希望までは要しないとはいえ認容は必要であるとする判例の立場を考慮すると、違和感がある。しかし判例は本当に意思的要素を(構成要件的または責任)故意の要素として捉えているのであろうか。抽象的法定符合説・数故意説も、そのような個別の結果発生に対する意思的要素を要求していては成立しえないであろう。
・殺意などの意思的要素は、犯罪論体系における構成要件以後の段階に属する要素ないし規準である故意・過失に先立って存在する「行為」を構成するものとして要求されている、と分析・理解することができる。この「目的達成意思」を、判例は無批判的に故意の要素として議論してきた。
・行為能力・行為意思は、最終結果の実現それ自体だけに直接向けられた意思というよりは、目的・目標の実現に向けて諸々の因果連鎖・因果系列を設定・利用する能力・意思であるから、途中の手段的・個別的行為の制御・実現の意思は、全体的コンテクストの中で位置づけられるべきである。
未必の故意と認識ある過失の区別に関して筆者は従来から、生じた構成要件的結果の表象を有して行為する場合が未必の故意であり、いったんは生じた表象を否定・破棄して行為する場合が認識ある過失である、としてきたが、認容などの意思的要素は、意思の強度の差として現れる。
・また、因果経過の認識に関しては、行為意思は構成要件に先立つものであるため、責任主義の要請を満たすためには故意の要素として因果経過の認識が改めて必要とされるべきである。因果経過の錯誤については、表象と事実とが特定のコンテクストにおいて社会的に別個のものと捉えられない限りは結果は帰属する、ということになろう。
・さらに、故意に意思的要素を含める立場は、それを責任の実体をなすものと捉え、責任故意をも認める。しかし、客観的要素の認識によって喚起される違法性の意識から規範的障害を認識したにもかかわらず行為した事に対する非難を責任とする規範的責任論からは、行為の要素として既に具備されている意思的要素を故意の要素として重ねて要求する必要はないし、それを責任に位置づける必要もない。責任判断は故意・過失で共通なものであるとする理論的前提からすれば、意思的要素を責任に位置付けることは、責任要素論のみならず犯罪論体系的にも論理的整合性を欠く。
・原因において自由な行為に関しては、クロロホルム事件と類似して、結果行為の結果の認識ないし表象を以て原因行為の故意として足りると捉えられる。結果行為の際に機能すべき意思的能力は、その不機能化を原因行為により既に担保されているのである。
<読んで>
・規範的責任論を突き詰めると、意思的要素がそれ自体責任を基礎づけるのではなく、事実的故意の提訴機能に着目して責任を構成することとなる、というのはその通りであろう。意思的要素がどの段階に位置づけられるかはともかく、これを欠くからといって責任が認められないとはならない、というのもこの立場からはその通りであると思う。
・しかし問題は、故意と行為意思の区別・切り分けである。「客体が人である」という認識は故意であるが、「殺害する」という行為者の主観面が、認識といえるか評価といえるか、あるいは認容か意図かというのは、簡単には結論が出ないであろう。クロロホルム事件では殺害意図が強いためにそれが第1行為の殺意として評価されている部分があるが、「殺害する」という行為意思、「溺死させる」という故意と分けていいのかどうか。個人的にはこれは、故意よりもむしろ行為意思の側の定義の問題に属すると思う。また、構成要件的・法益的可分性も検討課題となる。違法性の意識では要求されている構成要件的可分性は行為意思にも要求されるのであろうか。
・次の問題は、犯罪に向けられた行為者の積極的な認識である。規範的責任論からは、この認識も、いったん規範的なフィルターに通して再評価する。行為者の生の認識を責任要素とはしないという立場は強く理解できるが、ではその規範的なフィルターの中身は何か。すべて反対動機形成可能性=他行為可能性の判断材料として一元的に捉えるというのがシンプルな考え方であるが、それが適切なものであるかはなお検討が必要であろう。

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■城下裕二「医療観察法における対象行為の主観的要件について」(岩井古稀99ページ)
<概要>
・「医療観察法と故意」の問題。立案担当者によれば対象行為は「構成要件に該当し違法ではあるが責任の有無は問わない」とされる。しかし法の目的に照らして、故意をはじめとする責任要素ないし主観的要件が当然に不要となるわけではない。
・責任前提説は、責任能力を当該行為から相対的に独立した行為者の一般的能力と理解する。ここでは責任無能力者には責任の前提が欠けることになるので、責任要素たる故意も否定されることになる。これに対して、責任要素説は故意が認定された後に責任能力の有無を判断することになり、責任無能力者にも故意が認められる。本稿も、責任要素説を妥当と解する。
・東京高判平成20・3・10(id:kokekokko:20150804)では、構成要件故意を肯定したうえで、責任故意の判断に先行する責任能力判断により無罪とした。対象行為該当性を肯定するためには、「犯罪の成立を認めるに足りる故意」(責任故意)は不要だが「一般人であれば犯罪事実の認識を有するに至るであろう程度の事情」の認識(構成要件的故意)は必要であるとする。しかし、故意の体系的位置づけについて一定の見解を前提としなければ医療観察法の解釈を導くことができないというのは、問題であると思われる。また、こうした立場を前提としても、本件のように「人の外観を有し、人の振る舞いをするもの」の認識から直ちに「人である」という意味の認識を有していたと結論付けてよいのかは問題である。人との類似性を認識しているだけであり、人そのものであるとは認識していないのではないかという疑問が残る。さらに、この判決の見解であっても、さらに幻覚妄想が甚だしい場合には、構成要件的故意が否定されることになるが、医療観察法の趣旨に叶っているかは議論の余地がある。
・最決平成20・6・18(id:kokekokko:20150804)では、対象者の認識した内容に基づいて判断すべきではなく、心神喪失の状態にない者が同じ行為を行ったとすれば対象行為を犯したと評価することができるかどうかの観点から判断すべきであるとする。医療観察法に対する政策的考慮から、故意の体系的位置づけにかかわらず説明可能であるという点で、この結論は支持しうる。
・最決は、実際に存在している(あるいはその可能性がある)認識内容を推認しようとするものではない。対象者が仮に幻覚・妄想に支配されていなかったとすれば、どのような認識・意図に基づいてその行為を行ったと「想定」できるかが問題とされている。
・前提として、医療観察法は、犯罪防止を目的とする刑事法ではなく、対象者の社会復帰を目的とする精神医療法である。他害行為は、非難の対象ではなく、将来に向けての対象者の医療・保護の必要性を示すものである。他方、医療観察法成立前から、心神喪失心神耗弱と判断された者について「故意」「確定的故意」が認定されているものも多い。また、医療観察法では「刑法39条に規定する者」とされており、これは、「責任能力以外の責任要素は備えている者」を意味していると解することができる。ここでは例外的に、本来の意味での故意を有していない者でも、政策的考慮に基づき、主観的要件の判断方法について一定の修正を施すことが許されるものと解される。
・以上の点から、(a)対象者が心神喪失心神耗弱の状態にない者と同様の認識を有していた場合、その認識内容に基づいて主観的要件を認定し、(b)対象者が幻覚・妄想などの心神喪失の原因となった症状の影響下で認識しそれに基づいて行為に出ていた場合、当該他害行為を客観的・外形的に考察し、故意によるものといえるかどうかを判断することになる。これは、主観的要素の「擬制」ではなく、客観的要件が充足されている場合に対応する一般的主観的要件を決定する判断方法である。このアプローチは、心神喪失等の状態にある場合には故意の判断方法に修正を施すという意味で「責任前提説」的な立場とも評しうるが、これも政策的考慮を優先させたことによる例外的取扱いとみることが許される。
・また、政策的に考慮外に置かれるべきは「認識面」にかかわる部分であり、認知対象に対する「実現意思」については当該対象者の主観面を前提として判断することが可能である、という論者もある。他害行為の危険性を基礎づけるのはこの実現意思の部分である、との理解に基づくものである。しかし、ここでいう実現意思は「対象者の認識した内容を実現しようとする意思」であるから、対象者の認識内容を実現意思の間には、連続性・関連性を有する。両者を截然と区別できるかは疑問が残る。さらに、実現意思が危険性を基礎づけるとの理解についていえば、本法の立法経緯(「おそれ」の文言の削除)および1条の「社会復帰の促進」の目的からみて、本法は、対象者の利益のためのパレンス・パトリエの視点から根拠づけられていると解される。
<読んで>
・「医療観察法と故意」の問題につき、医療観察法を医療法(福祉法の一部)と位置付け、その主観的要件も刑法とは異なるとする立場である。それならば、医療観察法の対象行為がなぜ刑法上の犯罪であるのかという点、処遇決定になぜ裁判官が関与するのか(決定手続きの法的正当性の担保のためならば、指定医師の決定を裁判所が許可するという形式でいいはずである*1)という点が改めて問われよう。
・純粋な医療法であるならば、対象者に責任はおろか違法性や構成要件該当性が欠けていても問題はないはずである。おそらく、医療保護必要性の判断基準の一つに犯罪行為該当性を採り入れる、というものであるのだろう。しかし、再度犯罪を犯さないように医療で保護するというのであれば、社会が精神障害者に寄せる主関心が「犯罪を犯すかどうか」であるということになろう。ただこの問題は、医療観察法自体についての問題点であるから、今回は深くは立ち入らない。
・東京高判では、当該行為者に構成要件故意の存在を認めたが、それに対して本稿は、「人である」という意味の認識を有していたと結論付けてよいのかは問題である、とする。意味の認識に対しては、日常的概念の法的概念への翻訳であるという立場もあるが、その立場だと、判断者(裁判官)のレベルでは裸の事実認識と意味の認識との間に齟齬はないのであり、「人の外観を有し、人の振る舞いをするもの」という裸の事実的認識を裁判官が「人である」意味の認識であると並行評価(翻訳)する、とも考えられるのではないか。

*1:裁判所の関与自体が処遇に保安要素を混入させる、という批判は法制定当時に多くされた。

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■箭野章五郎「精神の障害にもとづく錯誤の場合の医療観察法における「対象行為該当性」判断」(刑事法ジャーナル41号70ページ)
<概要>
・精神の障害に基づく錯誤において、故意が欠けると判断されれば、医療観察法の対象行為該当性も欠けることになり、医療処遇がなされなくなるおそれがある。
・東京高判平成20・3・10では、殺人・放火の故意につき構成要件故意は認められるが責任故意が欠けるとした。「どの罪を構成することになるのかを振り分ける契機」を果たすのに足りる認識があれば構成要件故意は認められるが、客体が「人の外観を有し、人の振る舞いをするもの」であるという認識を有していれば、それらを総合して「人」であることの認識を持っていたと推定することができる。しかし、責任要素としての故意までは、認めることができない。ここで、責任故意が欠ける者が医療観察法の対象者に該当しないとするならば、医療観察法の適正な運用・解釈に大きく背理する。
・かかる判決に対しては、人との類似性を認識しているだけで「人そのもの」であるとは認識していないのではないか、構成要件故意としても「人」の認識は必要ではないかと批判される。また、幻覚妄想が著しく「人のようなもの」とすら認識できていなかったときは、構成要件故意も認められなくなるのではないか、と指摘される。
・最決平成20・6・18では、対象者が認識した内容に基づき故意を判断するのではなく、対象者の行為を外形的・客観的に考察し、「心神喪失の状態にない者が同じ行為を行ったとすれば、対象行為該当性が認められるか」を判断するべきである、とした。
・かかる決定に対しては、故意は行為者自身の認識の有無を問うものであって通常人を仮定するのはいわゆる「客観的故意」の考え方である、あるいは、仮定的判断を取り込むことは故意に過失的要素を取り込むことになり認識可能性によって故意を肯定することとなる、などと批判される。
・学説は、(ア)精神の障害に基づく錯誤は考慮しないとする見解(医療観察法の目的の重視)、(イ)責任要素についてのみ変容を認める見解、(ウ)主観的要件を厳格に要求する見解がある(立法的措置の必要性の強調)。(ア)の見解においても、「実現意思」は他害行為の危険性を基礎づける部分であり当該行為者の主観面を前提として判断するとされたり、「意思性」の欠如する行為は刑法上の行為や医療観察法対象行為に当たらないとされることもある。
医療観察法の対象行為を殺人や放火などに限定する論拠は、「被害の重大性に加えて、他の行為に比べて心神喪失者により行われることが比較的多いから、医療の確保を図ることが肝要である」とされる。なお、昭和56年の刑事局案(現行法と同様に、処分の対象行為を殺人や放火などに限定する)では「市民生活に与える不安の性質及び程度」との説明もある。ここで、精神の障害に基づく錯誤については、被害の重大性、医療の必要性、市民生活への不安という点で、故意を満たす場合と等価と評価することは可能である。等価値性を要求することによって、範囲の不当な拡張も封じられる。
・なお、強制処遇の正当化根拠の対立(パレンスパトリエ的考慮か再犯可能性か)によって、錯誤の処理に、基本的に差異は生じない。いずれの立場の論者からも、錯誤の場合に対象行為該当性を肯定する見解が提示されている。
・また、対象行為が故意犯であることから、故意(などの主観的要件)が備わっているうえで責任無能力状態になりうることは想定されている。よって、故意(事実認識)と責任能力(評価能力)は分断されている。そうだとすれば、責任能力を故意の前提とする立場は、排斥されているといえる。実際、責任能力を故意の能力とする厳格故意説からは、医療観察法が対象行為に故意を要求していることにつき欠陥であるとの指摘がある。
・ここで、制限故意説が、違法性の意識の可能性と責任能力のうちの認識能力と内容上重なるのであれば、責任能力が故意の前提となることになる。これを回避するには、違法性の意識の内実を異なるものとしたり、違法性の意識の不可能性の原因を精神障害以外のものとしたりすることが考えられるが、そうした理解が適切かどうかは改めて問われる。
・責任説からも、「故意」(意味の認識を含む)と「違法性の意識の可能性」は区別されると解し、かつ、「違法性の意識の可能性」は個々の行為について問われるとし、加えて、責任能力における「認識能力」と「違法性の意識の可能性」は内容上重なるが責任能力は精神の障害のみを原因とする、とするならば、精神の障害による錯誤では、「故意」が欠けることを経由して当該行為についての違法性の意識も欠け、それが精神の障害によるものであるから責任無能力である、という阻却事由の競合は考えられる。
<読んで>
・「医療観察法と故意」の問題である。錯誤による行為者につき、「処遇不可」としないのであれば、「刑法と医療観察法で主観要件を分ける」ことになる。その分け方が「構成要件故意と責任故意」であったり、「刑法の故意と医療観察法の主観要件」であったりするのである。ここで問題とされているのは、それらの分け方が犯罪論体系と整合するかどうかである。
・まずは、故意の内容が問題となる。故意とは行為者が実際に持つ主観面である、とするならば、最決平成20年は「故意がないところに一般人基準で故意を作り出す」立場であるとして批判されるであろう。一方で、故意とは行為者の種々の主観的断片のうちどれを採り上げてどう組み合わせて評価するのかという判断過程である、とするならば、最決のような故意の判断構造もありえることになる。しかしその立場は「故意の過度の規範化」として批判されうる。
・個人的には、対象者の主観面など本人にもわかっていないことも多く、また「刑法的評価」という評価基準がないと存否判断もしようがないと思う。例えば、リンゴの実を見ている者は「リンゴである認識」を持っている。しかし、赤いものである認識や果物である認識を持っているかどうかは、判断しようがない。「赤いか?」と聞かれたら「赤い」と答えるが、聞かれるまでは、見ている者の脳内言語に「赤い」という言葉が存在するとは限らないのである(物には、属性が無数に考えられる)。ここで「果物を食べるなと言われたのにリンゴを食べた」者がいるとして、その行為者の脳内言語を探ることにそれほど意味があるわけではなく、むしろ「リンゴに糖分があることを彼は知っていた。そしてリンゴは偽果だが果物だ。」という判断者の判断過程に意味がある。その判断過程には、規範的判断要素が多分に入る。
・本論文では、強制処遇の正当化根拠の対立と錯誤の処理との連関は薄いとするが、これはやや疑問である。このタイプの連関づけは、公式化・硬直化して議論の進展を妨げることになることが多い、ということはわかるが、それでも、危険性を持ち出すのであれば対象行為は重大結果や犯罪行為である必要がなく(結果の重大性と危険性(と病状の重さ)が相互に独立であることは、多く主張されている)、刑法上の主観的要件と異なる対象行為成立要件を持ち出すことに躊躇はなく、またその一方で、刑罰の代替としての処遇を考えているのであれば、刑法上の要件を満たすという前提を置かれやすくなるであろう。純粋な医療必要性を要件とするのであれば処遇決定に裁判官が関与する必要はないのである(精神保健福祉法を参照)から、やはり医療観察法は刑法上の要件と多少なりともリンクするはず、という考えがあってもいいと思う。
・シンプルな立場の一つは、責任要素はすべて反対動機を乗り越えたことへの非難の観点から説明され(擬制にせよ実在にせよ、意思自由が前提となる)、事実認識の可能性があれば反対動機形成可能性がありえる、としたうえで、精神障害の場合にはその障害のゆえに「非難することができず」、故意がない場合にはその事実認識可能性だけでは「反対動機形成可能性が弱すぎる」とする、というものである。ここで、精神障害の場合にもその主観的状況では「反対動機形成可能性を認めるには弱すぎる」とするのであれば、「精神障害ゆえの錯誤」は故意がない場合と同様に処理されることになる。一方、精神障害は反対動機とは異なる観点から責任阻却されるとするのであれば、「精神障害ゆえの錯誤」は故意阻却とは異なる処理をしやすいことになるであろう。

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■青木陽介「自動改札機を利用したキセル乗車の場合の電子計算機使用詐欺罪の成否」(上智法学論集58巻3・4号55ページ)
<概要>
・東京地判の事案は、上野駅(又は鶯谷駅)で「130円切符」を購入して自動改札機で入場して宇都宮駅まで乗車して、あらかじめ用意しておいた雀宮駅宇都宮駅〜岡本駅(それぞれ隣駅。岡本駅には自動改札機なし)の回数券(入場記録なし)を自動改札機に投入して出場した(「往路」)。さらに行為者は、宇都宮駅で「180円切符」(又は190円切符)を購入して自動改札機で入場して渋谷駅*1で最初の「130円切符」を使って自動精算機で精算して、入手した精算券を自動改札機に投入して出場した(「復路」)。
・判決では、電子計算機使用詐欺罪(246条の2後段)の成否が検討された。成立要件である虚偽記録は、実際の入場・出場情報と異なる切符の記録である。まず「往路」については、出場時点では虚偽の記録により処分行為をさせたものであり、出場の時点で電算機詐欺が成立する。次に「復路」については、精算時点で虚偽の記録により処分行為をさせたものであり、精算時点で電算機詐欺が成立する。
・まず虚偽記録といえるかどうかが検討される。電算機詐欺では、データの偽変造だけでなく、システムの目的に照らして真実と異なる情報を虚偽記録であると解する(「広義説」)。この理解からは、本件記録は、実際の入場・出場情報と異なる切符の記録であるため、虚偽記録であるといえる。
・次にどの時点で電算機詐欺が成立するかが検討される。判決では、事実と異なる入場駅が記録された切符を供用すること時点であると解して、往路では出場時点、復路では精算時点としている。しかし精算時点では処分行為はいまだなされていないのであり、復路でも出場時点で電算機詐欺が成立するとするべきではないか。
<読んで>
・「広義説」を前提にして、虚偽記録とは偽変造された記録(例えば不正にデータを書き換えたプリペイドカード)だけではなく、システムの目的に照らして真実と異なる記録を含むとするならば、確かに、実際の乗車駅と異なる切符が虚偽記録に該当するであろう。
・論点は、精算行為の解釈であろう。判例での解釈は「精算時」に虚偽情報供用とする。一方本論文の立場は、「精算時」には精算券を交付するのみであり処分行為とはいえないとする。つまり鉄道サービスにおいては「債務を免れる」とは「出場」を指すのであり、精算券取得後も翻意が可能である以上はこの時点を処分行為とは解せない、とする。確かに、72ページ注60のように、精算後に有人改札を通過したならば、精算は2項詐欺の前段階の行為に過ぎないことになる。
・ただそうなると、事前にどのような切符類・パス類を鉄道会社に交付させたとしても、それを使って出場する時点までは処分行為としない、ということになるが、それが妥当かどうかは検討の余地があるであろう。
 
■古川原明子「決闘罪の現代的意義の考察に向けた覚書」(龍谷法学47巻3号1ページ)
<概要>
決闘罪の適用例は、大人数による闘争行為が多い。判例の定義は「当事者の合意により相互に身体または生命を害すべき暴行を以て争闘する行為」である。
ボアソナードによる改正案では、一定の方式の決闘を正式の決闘として、決闘による死傷結果発生では通常の殺人や傷害より処罰を軽くするとしていた。しかしその後の政府改正案は、方式を問わず決闘を広く、そして重く処罰するというものであった。制定された法律も同様である。
・現行刑法制定に際して、決闘罪を組み込む案もあった。しかし、必要が認められないとして案は削除された。その後の刑法改正案でも、決闘罪が刑法典に組み込まれている。決闘罪を主に暴力団対策と捉え、「凶器による合意闘争」が本質であると考えられた。改正刑法草案では、決闘に関する規定は傷害・暴行の章におかれることとなり、凶器闘争の申込み・承諾のみが処罰されるとした。
・応挑罪は、これを決闘の予備とみるか独立の抽象的危険犯とみるかが問われる。抽象的危険犯ならば、逃亡するつもりで決闘の約束をしても、応挑罪が適用される。また、立会約束罪は、決闘の実行の着手がない時点でも成立するので、決闘罪の幇助行為とは独立した規定である。
・これら2罪の保護法益を個人的法益と解すると、通常の傷害・暴行では不可罰である同意傷害・同意暴行やその約束・幇助を処罰する不均衡に対して疑問が生じる。
・他罪との関係について、決闘の結果の死傷について判例は明確ではなく、殺人罪や傷害罪などとあわせて決闘罪が成立するとする判断と、決闘罪の成立を認めない判断がある。刑法典のみを適用する見解に対しては、傷害に至らなかった場合には決闘罪(刑の下限は2年)だが傷害を負わせれば傷害罪(刑の下限はなし)となり、下限が軽くなる。また、決闘罪(2条)は暴行罪より重い。傷害の故意(決闘では通常有する)で無傷だった場合の成立罪名も、問題となる。
・ヨーロッパ独自の制度である決闘裁判は、自力救済を裁判制度に組み入れるものとして、19世紀まで存続した。このようなヨーロッパの時代背景が、立法当時の日本に十分理解されていたかは疑問である。
決闘罪の経緯や罪数関係からは、決闘罪を個人的法益のみで構成することは困難である。
<読んで>
決闘罪の法定刑の重さを考慮して、個人法益(同意傷害)に還元されない性質がある、という把握は確かにありうる。一方で、現行刑法典以後の改正案は改正刑法草案も含めて、決闘を個人的法益として把握している。
・集団争闘や凶器争闘については同意があっても処罰することを前提に、現場助勢罪のように危険を高める行為を処罰するという発想が考えられる。危険を高める行為を処罰するわけだから、死亡結果の発生のように危険が実現したときは応挑行為を独自処罰する必要がない、という構成である。しかし着手に至らない抽象的危険発生を広く処罰対象とすることの可否は、なお問題となるであろう。

*1:もう一人は赤羽駅で同様の行為を行った

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岡上雅美「終身刑についての規範的考察」(川端古稀879ページ)
<概要>
・わが国の「無期懲役」は、仮釈放運用が厳しく、平均在所期間は長期化傾向にある。施設内で死亡した無期刑受刑者も多く、文字通りの終身刑となっている。
・しかし現行無期刑は「10年で(仮釈放で)出られる軽い刑」のイメージがあり、死刑存廃論に影響を与えている。すなわち、死刑と現行無期刑とのギャップを埋めるべく、仮釈放の可能性のない「絶対的終身刑」の創設が提案されることがある。
終身刑は、その非人道性が、死刑の陰に隠れている。最高裁も「死刑が非人道的でないのであれば、無期懲役刑もまた、非人道的でない」とする。しかし判断されるべきは、「死ぬまで拘禁する」制度の固有の残虐性ではないか。最高裁も、上告趣意の「死刑は苦痛が瞬間的だが無期刑は苦痛が一生継続する」とする主張に答えるべきであった。
・ドイツでは、死刑制度がなく保安監置処分が存在する。最も重い刑は終身自由刑である。連邦憲法裁判所判決では、(1)終身自由刑が基本法憲法)での人間の尊厳を侵害するとは確認されていない、(2)再び自由を取り戻すチャンスが、人道的な行刑にとって必要である、などとした。これに対して学説からは、人間の尊厳に反する性格や予防効果の不存在などからの批判がある。
・ドイツの無期刑執行状況については、多くの対象者が仮釈放されている点が挙げられる。ただ、ドイツでは保安監置処分が存在するため再犯可能性が大きい者は当該処分が課されることとなり、よって刑罰によって拘束されている者は比較的危険性が小さい者であるといえるので、日本との単純比較はできない。
・わが国の前掲最高裁での少数意見は、ドイツ連邦憲法裁判所判決と同じく、無期懲役刑の合憲の根拠を「執行中の仮釈放や恩赦などの可能性がある」としている。これは正当である。
・仮釈放運用は、現在のように厳格化するのも、一律緩和するのも妥当ではない。特に日本では保安処分制度がないために、再犯の危険性が高い者にとっては、自由刑が、(責任刑の枠内で)隔離による再犯防止の役割を担わざるを得ない。その一方で、再犯危険性の少ない者には積極的に仮釈放を認めるべきである。犯罪時の事情(検察官や被害者、遺族)の意見は、判決時に裁判官が既に考慮しているので、仮釈放決定の判断では重視すべきではない。さらに、受刑者の釈放後の受け入れ態勢や、施設内での教育指導プログラムの充実も、課題となる。
・また、無期刑の最低服役期間は10年であるが、これが実際には皆無であるにもかかわらず、規定があるゆえに「軽い刑」のイメージが存在するのであれば、服役期間の引き上げも検討されるべきである。さらに、仮釈放により事件と向き合う機会がなくなるわけではなく保護観察に付されることになるという知識も必要になろう。
<読んで>
・日本の無期懲役が「基本的に終身の懲役を意味する」(たとえば曽根威彦執筆「基本法コンメンタール改正刑法」29ページ)にもかかわらず一般に軽い刑のイメージがあるというのはその通りであろう。日常用語の「無期」は「期限をさしあたりは定めない」という意味であり(「無期停学」など)、名称を含めた制度改革がないと、軽い刑のイメージは払しょくされないのではないか。
・刑法改正の綱領(1926年答申)では既に「死刑、無期刑に該る罪を減少すること」「仮出獄の要件を寛大にし其の他仮出獄に関し受刑者を保護する規定を設くること」などが定められており、それらは保護観察などと異なり結局立法に反映されていない点も、問題となると思う。なお、無期刑に該る罪の減少については、有期刑をどれだけ加重・併合しても無期刑にはならない以上は、無期刑を宣告するためには「無期刑が規定されている罪」を選択する必要がある、という理由で困難であるかもしれない。個人的には、「殺人のうち犯情の重いものには死刑」というコンセンサスと同様、無期懲役に対する具体的なコンセンサスがあってもいいと思う。
・比較対象として、ドイツ以外の制度・運用の分析も有益だと思う。ドイツは強度の保安監置制度があるために、やはり日本の運用とは比較しにくいのではないか。たとえば北欧諸国の行刑運用が参考となるかもしれない。しかし制度論については、ドイツでは死刑制度を廃止してもなお無期自由刑に仮釈放制度を義務付けている点や、それにもかかわらず人間の尊厳の観点から無期自由刑に対する批判も大きい点などは、やはり非常に参考になる。*1
 
■平野潔「過失犯における違法性の認識の可能性」(川端古稀387ページ)
<概要>
故意犯における議論と比して、過失犯における違法性の認識および禁止の錯誤に関する論考は、多くはない。その原因は、一つには違法性の錯誤の問題が故意阻却の成否の問題として論じられてきた点にあり、もう一つには、責任説において違法性の認識が故意過失に共通の責任要素であるゆえに過失犯独自に検討されることが少ない点にある。
・故意説に従う場合には、過失犯における違法性の認識を論じる余地はないように思われる。ここで違法性の認識「可能性」については過失犯においても検討されうるとする立場もあるが、それを故意説と位置付けることは困難である。
・責任説からは、故意と過失の責任非難の差異は量的なものにとどまる。川端説では、過失犯の場合には構成要件的結果を実現する意思が存在しないから、違法性の現実的認識は存在しえず、従って故意犯より責任非難の程度は軽い。また実現意思がないので違法性の認識可能性も相対的に低く、やはり責任非難の程度は軽くなる。
・ドイツでは、過失犯における禁止の錯誤を巡る議論がある。認識ある過失の場合には、危険不法の認識可能性があるとする(ルドルフィ)か、構成要件実現の可能性を認識しておりそこから適法行為への動機を得ることができるとする(ロクシン)。しかしアルツトは、過失侵害犯においては危険は通常許されているので、危険の認識に警告機能(提訴機能)を付することはできない、とする。アルツトは、不法の認識(法的に許された危険を超える認識)がありつつ特別な正当化事情を誤信していた場合にも、そもそも過失犯では構成要件要素の認識と違法要素の認識を分けることは困難であるから禁止の錯誤は存在しないとする。
・認識なき過失の場合には、「行為者が構成要件的実現を認識していれば」不法を認識できたかどうかを判断する、とされる。この仮定的判断に対してアルツトは、まず認識なき過失を構成要件的錯誤と解して禁止の錯誤を仮定的想定するのは正しくないとし、また仮定的判断にはあいまいさが残る、とする。結局、認識なき過失の場合にも禁止の錯誤は存在しない、とする。
・過失犯を「故意の可能性」と捉えるのではなく、注意義務の点で故意と過失とは本質的に異なるという立場を採れば、錯誤論の過失への転用はできない。故意に提訴機能を認めるからといって、過失犯にも要求されることにはならない。過失犯では、客観的注意義務に反する行為を対象にして違法を評価する認識の可能性が問われるべきである。
・認識ある過失では、結果発生に至る可能性を認識しているので、反対動機形成が可能になる。認識なき過失の場合には、構成要件該当事実を認識していれば(自己の行為が客観的注意義務に反する行為であることを認識していれば)反対動機形成が可能であったか否かを検討すべきである。
<読んで>
・「注意義務の点で故意と過失とは本質的に異なる」としながらも、判断構造について、認識ある過失と認識なき過失の間で差異がある一方で故意と認識ある過失の間には連続性がある、とするのは議論の余地があると思う。違法性の意識の本質を「契機」と捉え、行為者の認識をその契機へと結びつけていく(私もその方向に賛成である)のであれば、認識ある過失における「認識」は故意犯における「責任故意」とは異質のものであるとしなければ故意と過失との質的差異を導けないであろう。
・認識なき過失と無過失との差異(つまり過失犯の本質)を「認識可能性」の有無に求めて、かかる「認識可能性」を「違法性の認識の可能性」と直接に関連付けるというのが古典的な責任説の立場(の一つ)であるが、それは現在の過失犯論と整合性が取れるのか。なお検討する必要があると思う。

*1:論文著者は別論文(「アメリカ合衆国における終身刑について」刑事法ジャーナル14号14ページ注33)で、「(アメリカの)恩赦や司法取引あるいは処遇方法などと切り離して、絶対的終身刑のみの導入は、ハード面のみをわが国に持ち込むことを意味し、アメリカ合衆国以上に過酷な厳罰化を実現する虞がある」と指摘する。

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高山佳奈子「違法性と責任の区別について」(川端古稀47ページ)
<概要>
・大阪地判平成24.3.16では、「急迫不正の侵害を受けている認識」と「逃げる意思」を有していた行為者につき、過失を認めながら正当防衛を成立させた。しかし防衛の意思が認められない本事例において、防衛意思必要説からは正当防衛を成立させられるのか。
・偶然防衛の事例(「急迫不正の侵害の認識」がない場合)に正当防衛を否定するならば、認識の欠如を処罰することとなり、法益保護に役立たない。
・認識の欠如への扱いという点に照らすと、故意を違法要素とする見解には疑問がある。法益侵害(危険)に結びつかない内心を違法要素とするものであり、違法性と責任の混同に至る。行為意思は主観的要素であっても外部的危険性に影響を及ぼす違法要素だが、犯罪事実の認識としての「故意」は危険性に影響しない単なる認識にすぎず、これを違法要素とすることはできない。
・「急迫不正の侵害を受けている認識の欠如」「被害者が同意している認識の欠如」は、単なる不知であり、法益侵害やその危険性を基礎づけるものではない。先述の大阪地判は、防衛意思不要説に基づいて正当防衛とされるべきである。
・責任段階には、責任非難を積極的に基礎づける故意・過失も位置づけられる。つまり「責任を基礎づける事由」と「責任阻却事由」の2段階が観念でき、犯罪論体系は、(1)違法性を基礎づける事由(=客観的構成要件該当性)(2)違法性阻却事由(3)責任を基礎づける事由(4)責任阻却事由の4段階となる。
・また、一定の範囲で主観的違法要素を承認するとともに、行為者の個別的事情(能力など)もすでに違法性の段階で考慮対象となりうる。一般人にとって可能でも行為者にとって物理的にいかんともしがたい状況を違法と評価すべきではない。この立場は、個人の尊重を原則とする憲法の理念に合致している。
<読んで>
・事実的故意が責任を基礎づけ、違法性の意識の可能性が責任を阻却する、という体系は疑問である。違法性の意識(≒反対動機)の観点から切り離された事実的故意がなにゆえに責任を基礎づけるのか。執筆者は、事実的故意と違法性の意識は責任における別々の側面から、それぞれ独立して基礎づけられるとするが、しかし、客観的事実の存在が法益侵害と評価されて違法性を基礎づけるという構造とは異なり、心理的事実の存在が責任を基礎づけるという構造は、採用できないのではないか。
・その意味で、4段階の犯罪論体系は明快な体系ではあるが、違法と責任の構造上の差異を採り入れたものとは言えないかもしれない。
・本論文でも検討課題とされていた「身体的能力と精神的能力の区別」は、やはり気になるところである。また、行為者の能力の欠如を違法性阻却と解するならば、これに対する正当防衛や幇助をどう扱うのかがさらに検討されることになると思う。
・「裁判員にも分かりやすい犯罪論体系」「憲法の理念に合致した体系」というのであれば、古典的な客観的違法論、純粋結果無価値論がよりふさわしいのではないか。『「人を殺してはならない」という禁止規範は、故意であろうが過失であろうが無過失だろうが人の殺害全般を禁止していると理解する』(56ページ)という主張に最も同意する立場は、おそらく主観的違法要素を排除するタイプの結果無価値論であろう。
 
■城下裕二「アスペルガー症候群と刑事責任」(川端古稀241ページ)
<概要>
・大阪地判平成24.7.30では、アスペルガー症候群の障害を有する被告人に裁判員裁判で懲役20年(検察官の求刑は懲役16年)の判決を言渡したが、控訴審の大阪高判平成25.2.26ではこれを破棄自判して懲役14年を言い渡した。
アスペルガー症候群判例では、(1)完全責任能力を認めたもの(2)そのうえで量刑上の減軽事情として考慮されたもの(3)他の精神障害とあわせて認定されて心神耗弱が認められたもの、がある。アスペルガー障害の犯行に対する影響は間接的なものにとどまる、とする例が多い。また「計画性がない」「社会的サポートがなく一人で困難を抱えていた」「反省の情が見受けられ難いのは障害が影響しているとみられる」などという事情が量刑上認定されることがある。
・本件原審の問題点は、動機形成過程に障害の影響があることを認めつつも「そのような動機に基づいて被害者を殺害することは社会に到底受け入れられない」とした点、また、「健全な社会常識という観点」から再犯可能性が高いとした点である。
・「司法研究」(司法研究所(編)「難解な法律概念と裁判員裁判」)などでは、犯行が「もともとの人格」によるものか「精神障害のために」よるものかによって、責任能力を判断するとする。しかしアスペルガー症候群は生まれつきの資質特性のため、「もともとの人格」自体が障害の影響を受けている。すると犯行が「もともとの人格」と親和的である(よって完全責任能力が認められる)という結論が導かれやすくなる。
・「了解可能性」という基準も用いられるが、犯行にいたる一部分が了解可能に見えることを理由に「犯行の了解可能性」が認められるという結論に至ることには慎重さが求められる。
・本件控訴審で強い殺意と犯行の計画性を指摘しているのは疑問である。殺意の強度や、計画性に際しても、障害の事実を反映させるべきであったように思われる。
・「社会的なつながりを利用するのが困難であった」という事情は、責任評価に際しては有利に考慮されるもの、特別予防に際して不利に考慮される可能性があり、それには一貫性があるかという問題が生じうる。
<読んで>
アスペルガー症候群(かつては「自閉症」の一類型とされ、現在ではASDの一類型とされる)は従来、犯行に強い影響を与えるものではなく(強い妄想が出ることはなく、ただ行動制御が困難となる)、完全責任能力が認められることが多かった。本稿での大阪地判の事例も、完全責任能力という結論は了承できるものであろう。
「了解可能性」概念や「もともとの人格」概念の問題点は、いままで指摘されてきたところであるが、広汎性発達障害という事例に絞って検討された点は、有益な議論への一石となると思う。特に、当該障害群がASDとしてひとまとめにされているのはDSMが統計基準であるという理由によるものであり、刑事責任判断に際しては、個々の症例ごとの症状や社会的位置を考慮した検討が必要となると思う。
・量刑の基礎となる事情をどう評価するかは、非常に問題となるであろう。裁判実務例を基にした量刑基準を示せば、裁判員制度の趣旨にそぐわないと批判されるからである。確かに、本人の性格や社会的状況をどう量刑に判断させるかという議論は、まさに市民の感覚を採り入れるべき領域であるとも言えるし、逆に、裁判員制度においてはそこに保安的要素や感情的要素が混入して、前科や行動歴などを過大評価してしまうとも言える。