レイチェルの結婚』を今更見た。『シークレット・サンシャイン』に欠けてると思っていたものが、こっちにはあった。音楽とダンス、そして笑いを健康的な麻薬のように描き、映画そのものも彩ることによって暗く痛々しい内容を最後まで観続けられるものにしていた。そこから思ったのは、宗教は麻薬ではなくメソッドなのだな、ということ。麻薬的効果ももれなくついてくるが、それは本体ではない。「許し」の問題だけではなく罪そのものにも揺さぶりをかける凄い映画だった。

今更『シークレット・サンシャイン』の感想。

映画を見てものすごく満足するということがあまりなく、そのためたくさん見ているわけでもない。この映画はタマフルのシネマハスラー年間ランキングの1位だったなーということがぼんやり頭にあって、DVDを見つけたとになんとなく手に取った。そして、観た。とつぶやいたら感想を求められた。書いてみたら超長くなってしまった。その結果が↓↓


見終わった直後思ったのは「すごく丁寧に作っていて演出も面白いが。気持ちが高ぶるような感動はなかったな」だった。そして最後の最後で感じた違和感。いろいろと考えていくうちに、それは自分がミスリードしていたから起こったものだとわかった。それはとても映画の中でもっとも重要といっていい要素「絶望」、その中に自分が見出していたものが、作り手とまったく違っていたのだ。

子供を死に追いやった自分自身が許せない。

主人公である母親の絶望の中には常にこの想いがあった。と思いながら見ていたのだが、最後の最後でその絶望が「漠然とした喪失感」としか言いようのない掴み所のないものであるとわかり、混乱した。


子供を殺したのはもちろん事件の犯人、アイツだ。しかし母親に何の落ち度もなかったわけではない。知り合いのいない土地にわざわざやってきて、噂話がすぐ広まる土地柄と知りながら嫉妬を生むような嘘を意図的に流し、事件の夜は幼い子供を置いて遊びに出ていた。事件は突発的に起きたのではない。難病に犯されたり、防ぎようのない事故に会ったわけではないのだ。

自分に直接否がなかったとしても、子供の死に対峙すれば親は自分を責め続けるだろう。「もっとああしてあげれば良かった」「どうしてあんなこと言ってしまったんだろう」などと思い出が多ければ多いほど逆に責めるネタが増えてしまう。それがもし自分の否がハッキリとあったとしたら、それほどの絶望はないだろう。子供を思い出す度に自分を強く責めてしまうという無限地獄のような状態、想像しただけでゾッとする。

この映画の主人公である母親も、子供の死に対して誰よりも自分を責めた。そう考えるのはごくごく自然なことではないだろうか。自分を責任を自身で追及するシーンはこそなかったものの、姑に「お前のせいだ」と罵られたり、犯人を目の前にして怒りが沸いてこなかったりといった描写が、その想いを浮きだ出せていた・・・・・・、そんなような気がしていたが、実は思い違いのようだ。

宗教に頼ったこともきっと「子供を死に追いやった自分自身が許せない」そんな自分を許すためなのだな、と思いながら見ていた。彼女の絶望は深い。宗教に懐疑的な自分でも、そんな辛い状況ならしかたない、そう共感して見ることができた・・・・・・・、がそれも思い違いだった。

その後彼女は宗教に対する違和感を強く突きつけらる出来事により、その宗教関係者を逆恨みするようになる。ほとんど八つ当たりにしか見えないが、そんな絶望の中でさらに絶望したら、そんな風になっちゃうかも、と思えばさほど違和感なく見れた。

そしてそれからまもなく彼女は自傷行為に及び、病院に連れて行かれることになる。ここでもやはり宗教から距離を置くことにより「子供を死に追いやった自分自身が許せない」想いが再び戻ってきたのだな、と理解していた。だがそれも違った。

彼女は退院し、もう一度辛い現実を目の当たりにし、軽く救われるような出来事に出会い、自分の力で生きていくことを示すようなエンドを迎える。素晴らしくいいシーンの連続だったものの、そこで、あれ?と思った。「子供を死に追いやった自分自身が許せない」はどこいったんだろ??と・・・・・・

そんなもの最初からなかったのかもしれない、という結論に達するまでしばらくかかった。途中まであまりにしっくりきていたものだから。けれどあのエンディングだと、彼女の抱えていた絶望は「漠然とした喪失感」としか言い様のないものにしか見えない。なぜなら「子供を死に追いやった自分自身が許せない」問題はまったく解消されていないからだ。もちろん解消しようのない問題といえばそうなのだけれど、せめてそこから脱するためのキッカケや環境の変化は描かれなければならないだろう。エンディングにたち現れた「救い」は、決してそれを解消するようなものではなかった。

そこから逆算すると、やはり「子供を死に追いやった自分自身が許せない」は最初からなかったのだと考えたほうがしっくりくる。最初から母親の絶望はぼんやりとして掴み所のないものとして描かれているのだ、と。

しかし、ぼんやりとした絶望ならばそこまで苦しむことがあるだろうか。シンプルだからこそなかなか拭い去れず苦しい、そういったものが絶望なのでないか。もちろん無自覚なストレスに苦しんでいる人は珍しくない。が、それも辿っていけば酷く単純なものだったりしないだろうか・・・・・・。


最後の最後で主人公である母親がいったい何で苦しんでいるのかまったくわからなくなってしまった。っていうか、お前子供が死んだとき自分のこと責めなかったんかいッ!という怒りのような気持ちまで生まれてしまった。彼女は決して誠実な人間として描かれているわけではなく、そのちょっと性格悪い行動が逆に見ているこっちに共感を生む効果になっていた。けれどそれもその自分に責任を感じていないことを考えると、単に嫌なやつに見えてしまう。いいシーン、いい演技、いい演出・・・・・・、感心するところはすごく多かったものの、全部どうでもよくなってしまった。


あと、キリスト教の批判のとして面白いという意見があるけど、そもそもダメなところなんて挙げればきりないし、どんな絶望からどのように救われるのかというところが曖昧なままであるならば、有効な批判にはならないのではなか。

『まんがキッチン』読書中。福田里香さんのフード理論語りは何度聞いてもおもしろい。しかし残念なのは、女性作家に限定しているせいか、コマツ的食べ物(≒食事)の扱いがもっとも素晴らしい漫画『よつばと!』に一切言及がないところ。これを機会にと食のシーンだけに注目しながらパラパラと読み直してみたら、またまた新たな発見があったのでその一部をちょっと紹介。


2巻の「ケーキ」の回は、主人公である5才の女の子よつばと、隣の家に住んでいる小学生の恵那、その友達のみうらが、急に食べたくなったという「かあちゃん」に頼まれて、みんなでケーキを買いに行くという話だ。

ケースを前にしてのそれぞれのケーキ選びは、3人の性格と年齢(!)が反映されていて興味深い。よつばはもっともスタンダードなイチゴのショートケーキを選ぶ。みうらはさらっとチョコレートケーキを選び、恵那は真剣考えた結果、モンブランを選ぶ。そんな二人によつばは、素直な感想を口にする。

チョコレートケーキ ← 「くろかー、いがいとおとなだなぁ」

モンブラン     ← 「あんましだなドロみたい」


ここで年齢という点に注目してみよう。お店に入ったよつばが、ケースを見回しながら言ったセリフに選択の兆しがよく現れている。

「どれだ!? どれがケーキだ!?」

「これ全部ケーキだよ」

「なんとまぁ!」


よつばはケーキの種類をほとんど知らないのだ。それ故にもっともケーキらしいケーキ、ショートケーキを選んだ。一方、恵那とみうらは様々なタイプを知っているので、超ベタなそれではなく、少し個性の見えるチョイスをしている。


そこにつなげて9巻の「そら」という回の会話を引いてみよう。

「何買ってきたの?」

「イモスティック 初めて見たから買った」


これは大学生であるあさぎと虎子のやり取りだ。二人くらいの年齢になると、初めて見たもの、希少性のあるものを選ぶ、という傾向が、ここにさらっと描かれているのだ。年齢、もっとあからさまに言えば経験の差によって、選択の根にある部分が違っている。これは面白い発見だった。


再度ケーキの回に話を戻そう。三人にお使いを頼んだ「かあちゃん」。最年長である彼女はいったい何のケーキを、どのように選んだのだろうか。娘である恵那に頼んでいるセリフから、それを確認してみよう。

「私はイチゴの イチゴのよ」


ケーキの名前すら思い出せない「かあちゃん」。原点回帰のようなチョイスである。だがしかし、こんな小さなコマの、一見ぼんやりとしたシーンでも、普段そんなにケーキ食べてないんだな、という食生活がわかったり、そういうものでも急に食べたくなる時あるよなー、などという共感を生んだりするのだ。あっぱれなフード表現である。

8枚組CDの円生百席「真景累ヶ淵」を聴き終える。超怖い場面がいくつかあって、すごく楽しめた。幽霊が怖いのではなく、怖い人間が死んでもつきまとってくるから怖いのだ、ということが理解できたのは発見だった。

落語を聴きながら笑うということは、実はほとんどないのだけれど、残酷なシーンを耳で聴く、という体験が面白く、最近ちょこちょこ聴き足している。大抵の噺は残酷な描写の後には必ず救いが付いているのだけれど、「真景累ヶ淵」は呪いが連鎖、というよりも奇妙に絡み合いながら繋がっていて、救いが一向に見えないところが恐ろしい。最後、今銃を売ったのはいったい誰か!といった、少年ジャンプの連載ような終わり方は違う意味で驚いてしまったが、それ以降は話が横道に反れるので、円生はそこまでしかやらないのだそう。作者である円朝の時代はまだ筆記が発達してなかったので、行き当たりばったりで、作っては話し作っては話しを繰り返してできたのだろう。ほんとうに週間連載漫画のような状況だったのかもれない。

真景累ヶ淵」の中にも「笑い」の要素はいくつも散りばめられていたけれど、残酷な描写の中にそれがあると、「楽しい」というよりも「不謹慎」な感じがした(その感じは「笑えない」ものの、ひとつの「面白み」ではあるが)。かつては部分部分演じたのだろうから、うまい具合にバランス(前半笑わせて後半どんどん緊張感が高まっていくの)がとれていたのかもしれない。

グラン・トリノ』を観終わった直後、震えを抑えるためにちょっとメモ的なものを。

シンプルな話の中に色々なものが詰まっていすぎて、気持ちをどこに持っていっていいのかわからない。「アメリカ的なるもの」を考えてみたことのない人にとっては、ただの「カッコイイじーさんの話」でしかないのかもしれないが、自分にとっては、もう一度観なければ!と思わせるほどすごい映画だった。とりあえずさっきまで見てたところ、一番最後の部分だけでも考えたことを書き残してみる。


エンディング、グラン・トリノは隣の青年タオのものになる。そんなことは映画冒頭で予想できてしまうことなのに、驚くほど感動してしまう。しかしその感動を、お涙チョーダイのシーンを、おもいっきり邪魔するカットが出てくる。それは息子の馬鹿娘、つまり孫にあたる女の表情のアップだ。この娘はじーさんの家にある「ヴィンテージ」として価値のあるものを、まったく何もしないで、血の繋がりだけを根拠に手に入れようとする。しかも「おじーちゃんが死んだらコレちょーだい!」みたいな軽さでだ。

不愉快がガキである。中盤まったく出てこなくなるので清々するのだが、このガキのアップをわざわざ、グラン・トリノを誰に渡すか、を発表する最後の最後のシーンに入れているのである。この娘の、もしかしたらアタシにくれるかも!という素直な願い、祈りの表情が、心の底から憎たらしい。おかげで危うく流れるところだった涙が、寸でのところで止まってくれたのである。

この娘のアップは必要不可欠なものだと思う。単に若者、もっといえば人間の愚かさを指し示しているだけでなく、「何も行動を起こさないで何かを得ようとすることが、どれだけ醜いことなのか」ということを強く訴えかけてくるのだ。

現在、オバマ政権下でヒートアップしている福祉問題に象徴されるようなアメリカ的感覚。戯画化されるところの、無料=共産主義=唾棄すべきもの、というような強引な連想の仕方は、今まで冷戦下で染み付いた呪いのようなものだと理解していた。だがその根底にある信念を、この映画は最後で教えてくれた。

何も行動を起こさないで何かを得ようとすることが、どれだけ醜いことなのか。

それは裏返せば、行動しなければ何も得ることができない、とも言えるし、行動して得たものこそが本当のものなのだ、とも言える。言い回しはどうでもいい。とにかく、アメリカの例のアレな感覚の底にあるのは、きっとソレなんだろうな、と強く感じたのだった。



本当に泣かせるような映画は駄目だと思った。感動は流しちゃいけない。前から心がけていたことだけれど、感動は自分の中に押し留めなくてはならないし、映画もそう作られるべきだと強く感じた。ぬん