自分にやる気を出させるための技術。自分の中には2つの人格があり1つはチャレンジ精神に溢れもう1人はそれを冷たくあしらう。具体的には何かやってみようと思いくがそれをやっぱりダメだよなぁと思って辞めてしまうということだ。このことを聞いたとき何度この2人目の人格に否定されたことかと思い出した。そういうことだったのかちくしょー。セルフコーチングはその仕組みを理解しつつ1人目の人格の思考をサポートして自分で自己否定を切り開いていくことを目的としている。俺にピッタリではないかと目から鱗が落ちる

 だが個人的にセルフコーチングをするには落とし穴がありそうだ。なぜなら二つの自分のシステムを考えるとコーチング自体を自己否定にさらすことになる。なぜそるなるかって?コーチングはいわゆるコーチすることだ。メジャーなイメージとしてはスポーツ選手のコーチがある。選手の技術面メンタル面においてアドバイスし能力をのばすことが役割だ。これは基本的に他人がやるからこそ重要なのである。自分の内部だけだとさっきの否定意識がそれを否定するからである。つまり、その否定意識をどうやってこくふくするのかが鍵となるわけである。

 克服可能な問題点なのかは分からないが自分としてはこれは必ず克服できるものであると決心している。理由なんてそこにはないが、その前提だけは信じるしかないのだから。

 何が価値のあるものか分からない。なぜなら価値はそこらじゅうにたくさん落ちているし、それは俺だけでは判断できないのだ。そこから自分の生きる意味も出てくるだろうし、まったく何も無いのかもしれない。現時点ではほんとうに何もないとしかいえない。そんな俺に未来圏からの透明な風は心地よく感じられるのだろうかそれとも薄ら寒いものでしかなくなるのか。私は今それを考えるときがきたのだと思う。

 闘争と聞くとヒトラーの『我が闘争』くらいしか思い浮かぶものはないだろう。私はこの本をかっこいい題だという雰囲気だけで読んだことはある。内容はまったく頭に入ってこなかったものの闘争という単語を覚えることができた。闘争とは調べてみると”社会運動や労働運動などで、権利や要求を獲得するために争うこと。”または”相手に勝とうとして争うこと。”であるらしい。戦う対象がいることや利権の獲得という目標が特徴みたいだ。つまり、その目標となるものがなければそれは闘争とみなすことができない。「俺はやってやる」と思ってみたところでそれは単に思ったことにすぎないというわけである。
 そこで私は闘争するに当たって対象と目標というのを仮にではあるが設定してみて、闘争を実践してみたいと考えている。

 前のバイトと縁を切るため鍵を返しに行く。これで完全なる無職なわけだ。ばかなことをと思うこともあるがきっぱりやっておかないと覚悟ができない性格なので仕方がない。店に行くと偶然社長がいてさらに偶然なことに社長が一番嫌っているアルバイトの人が入っていた。鍵はすんなり受け取ってもらえたものの決まっても無いのに辞めるなと案の定言われた。わかってたことだが。鍵は返せたものの水曜日に手伝いを頼まれた(時給はでる)。これで実質手伝いはできるというカードを与えてしまったのが痛い。この仕事はいくとして問題は俺の身の振りである。客観的にみても主観的にみてもなんら役にたたないだろう怠惰な人間がどうして仕事ができるだろうと思えるだろうか。だからもう覚悟とやる気しか見せるものがないとも言える。逆にいうとわかりやすい状況ではる。なんせ正社員を目指せばいいだけだから。

 どうも書くことが面倒なのか日記を書くのを辞めてしまう。そしてまた書こうと思いたちこうして書く。実際書くのだから多少評価のしどころはあるが習慣にしなくては意味がないだろう。
 今回、また書こうと思い当たった理由は2つ。志みたいなたいそうなものではなく思いつきでしかないのだけれど。とりあえず、自分の行動・思考を記録すること。そして、そこからさらに思考しフィードバックさせることをしたいと思ったからである。まぁ、自分の進歩のなさを細かく刻んで認識すれば改善するのではないだろうかと心に浮かんだからです。
 決意を新たにまた日記を続けていきます。