強盗致傷被害者に2

今日は若干描写がグロいので、血などが苦手な方は読まない方が吉。


被害にあった翌日、私は早速警察に連れて行かれたわけだが、着替えなどできるはずもなく、すさまじい様子だった。
と思う。
鏡を見たわけでもなく、写真も残っていないので、あくまで想像だが、この姿を見せつけられざるを得なかった親戚や母の証言からすると、よほどひどかったらしい。
まず、スーツは当然ながらよれよれ。ネクタイは外されていて、あまりにも出血がすごかったワイシャツは病院を出る時に脱いでいた。
その下に着ていたTシャツはまだましだったとはいえ、やはり血まみれ。腕時計も後で見てみたらあちこちに血がこびりついていた。
怪我が頭部に集中していたせいだろう。眉間のあたりに大きな裂傷があったのだが、頭部の裂傷は周囲が驚くほどの出血を伴うことが多い。
また、鼻骨を折っていたから、鼻からの出血も少なくなかったはずだ。ERでの治療後もだいぶ鼻の中に血が溜まっていたようで、病院から警察の向かう頃になっても、姿勢を変えるたびにゆるく固まりつつある血の塊が出たりしていた。
しかも、殴られた後の腫れというものは、少し時間が経ってからピークに達する。


私の上司が、警察からの連絡を受けて急遽管轄署に姿を見せたのは、たぶん夕方前くらい(あまり時間の記憶が無い)。このあたりが、私の姿がもっともひどかった時間帯だったに違いない。
さすがの上司も私の姿に強烈な衝撃を受けたらしく、私はもう元の姿には戻らないかもしれない、と覚悟を決めたという話を後で聞いた。
その報告を受けた幹部社員や同じ事務所の社員たちも、相当ひどい姿を想像していたようで、若干回復してから事務所を訪れた際、私の顔がきちんと元通りに近い状態になっているのを見て、かえって驚いていた。
たまたまその時は社長がうちの事務所を訪れることになっていて、社長らは私の顔を見るなり、まじまじと観察。
命が無事でよかったとか、大変な目に遭ったなとかいう言葉より先に、
「見れる顔で戻ってきたじゃないか」
というような言葉が出てきて、思わず笑ってしまった。

強盗致傷被害者に

強盗致傷被害に遭ってしまった。


久しぶりの公開記事でこんな発表も何なのだが、近況報告を求める声が意外に大きいので、ざっとしたところを記録しておこうと思う。


事件自体はなにやら新聞にも小さく載ったらしいが、残念ながら私は一切新聞を購読しておらず、実物は見ていない。それほど大きな事件ではないし、ちょうど同じ日に中国人夫婦が相次いで死体で発見されるという事件がすぐ近くで起きていたから、大した扱いではなかっただろう。見た方から聞いた話では、被害者の私の氏名は載っていなかったらしい。

事件発生は6月22日午後10時頃。
被害者は私一人。
加害者は2名、どちらも若い男性。
被害現場は川口市内の自宅から歩いてすぐの交差点。住宅街のど真ん中というところ。
被害は私の負傷(全治1カ月)と、現金・カード類・デジカメなどが入ったバッグ。
翌日に被疑者1名が逮捕、残る1名は現在も逃走中。
逮捕された被疑者は日系ブラジル三世。名前はわかっているが、こういうところに載せていいものかどうかわからないので伏せておく。


会社帰りに被害に遭った。
会社の半期決算が終わった直後の時期で、間近に迫ったイベントの担当を任されていた私は、想像していたよりは早く退社し、事務所がある大宮で夕食を採った後、まっすぐ帰宅していた。
私はいつも音楽プレーヤーを聞きながら通勤しているため、このときもドリームシアターというブログレッシヴメタルバンドの曲を聴きながら、道の左隅を歩いていた。
帰路の最後の交差点に差し掛かろうという時に、反対側から2名の若い男性が歩いてくるのが見えた。車通りも少ない道なので、端っこに寄った歩き方はしていなかった。その時点では当然ながら自分に関係ある人間になるとは思ってもいないから、気にもしていない。
位置関係でいうと、交差点を挟んで道の同じ側を私と被疑者たちが歩いていた。私にとって左側、向こうにとって右側。
そのまま歩いていると、被疑者のうち一人がこちらに寄ってくるのが見えた。なにしろ街灯もろくに無いような暗い道なのだが、自動販売機が交差点の外側に並んでいるため、この様子はよく見えていた。
知り合いでもない人間がこちらに寄ってくる意味もわからないから、私はとりあえずそのまま歩き続ける。
そのうち距離が縮まると、道の端っこを歩いている私に近づいてきた被疑者は、正面から私の肩を抱くような姿勢でとりついてきた。
普通に考えればあり得ない状況で、私はここではじめて相手の顔をはっきりと見た。私より若干背は低いが、体つきはがっちりしていて、髪は短く、顔立ちなどは日本人には見えなかった。東洋系というより、ラテン系に見えた。
この時点で被疑者が私に何かを言っていたのかもしれないが、イヤホンをつけている私に聞こえるはずもなく、立ち止まったまま見も知らぬ男に抱きつかれて喜ぶような性癖も持っていないので、私はそれを振り払うようにして横を通り過ぎた。


自分で音楽を聴いているとはいえ耳が封じられ、それまで経験したことがないような異常な状況に立ち至ったこの時点で、どうしてここまで危機感が出てきていなかったのか、今なら疑問にも思う。
交差点を左に曲がり、癖でそのまま左わきからのぞくように後ろを確認すると、二人組は明らかにこちらに迫ろうとしている。
走ってでも逃げだすか、あるいは大声をあげるべき場面で、私はあろうことか再び正面を向いてしまった。無視して歩き、そのまま家に入ってしまえばいい、とでも思っていたのか。
自分が身長175センチ70キロ弱の若い男性ということで、まさか人に襲われることがあるとは考えていなかったこともある。相手が喧嘩上等で歩いてでもいない限りは、だが。
直後、私の首筋に後ろから衝撃。
逮捕された被疑者の供述によると、このとき私は後ろから首を叩かれたらしい。
それ以降の記憶はあまりはっきりせず、気がついたら病院で寝ていたという感じなのだが、断片的な記憶をつなぎ合わせていくと、首筋の衝撃とともに覚えているのは、犯人の顔だ。
二人組だったはずなのだが、私に殴りかかった被疑者しか顔を覚えていない。記憶もはっきりしないから、わからないうちに別の一人からも攻撃されていたのかもしれないが、よくわからない。
とにかく、殴られながらも犯人の顔は見る場面があったようで、はっきりと覚えていた。
殴られつつ抵抗しながら、声を出さないと、と思ったのは覚えている。実際に声が出ていたかどうかは分からない。
痛みは、正直、感じている余裕がなかったのではないかと思う。少なくとも記憶の中には無い。
というより、そもそも殴られた記憶が曖昧。
最初の首への一撃は覚えているのだが、その後何をされたか定かでない。混乱してもいただろうし、初撃で意識が軽く飛んでいたのかもしれない。


その後の記憶は断片的。
あおむけに倒れていたのは覚えている。また、目を開いて周りを見た記憶がない。すでに目の周りが腫れて開かなかったのか、眉間などの出血のせいで目を開けても物が見えなかったのか。
男性の声が倒れている私に向いていて、住所や名前を聞かれたのを覚えている。また、同じ人だと思うのだが、やけに冷静かつ専門用語を用いての説明(誰に対してかはわからない)を聞いた。
後で聞いた話では、偶然被害直後の現場を、帰宅途中の警視庁勤務の警官が通りかかり、通報者の女性たちとともに対応してくれていたのだという。
次に覚えているのは救急車。ストレッチャーに乗せられる際、「協力しようにも体動かしたくないしなあ」などと思っていたら、意外に簡単に乗せられてしまい、「さすがプロやなあ」とのんきに考えていた。
こういうとき、意外に本人はのんびりしたものの考え方をするものらしい。
その後もとぎれとぎれに意識が戻っていて、記憶があるのは、救急隊員が搬送先の病院を探している声。電話で探しているらしいのだが、次々に断られていて、そのたびに同じ説明を繰り返し、苛立っているらしい様子だった。「おお、これが噂のたらいまわしかあ」と、ちょっと感激してしまった。
このあたり、体が動きもしないくせに変に落ち着いていて、この程度なら死ぬこともないだろうし、ちょっとくらい治療が遅れてもどうということはないだろう、などと考えていた。
その後の記憶はあまりなく、ということは多分意識を失っていたのだろうと思われる。


収容されたのはなぜか板橋区帝京大学医学部付属病院。川口市内やその周辺の病院にすべて断られたに違いない。まあ、それほど遠くはなかったから、別に文句はないのだが。
怪我は、鼻骨の骨折と、眼窩底骨折。鼻骨は軽く砕けた感じ、眼窩底は数か所ひびが入った程度。ほか、眉間に大きな裂傷があったが、縫うほどではなかったようで、軟膏をべたっと塗った後にばんそうこうを貼るという、おおざっぱな応急処置が為されていた。
顔中が腫れ、変色もしていたが、入院加療が必要という状況ではなかったため、深夜に搬送されてきた私は、その日の午前中には退院。
搬送され、ERで治療を受けた後、警察から事情を聴かれたりもしたのだが、それもよく覚えていない。後で調書を見たのだが、この時点でかなりべらべらと受け答えはしているようで、唇や上あごが腫れていてしゃべりにくかったはずなんだがなあ、と我ながら感心する。
身寄りはないか聞かれ、一人暮らしであること、実家が遠いことを告げ、JR蕨駅近くに親戚がいることも告げていた。おかげでその親戚は深夜の3時過ぎに警察からの連絡を受け、私のためにきりきり舞いさせられる羽目に陥った。
申し訳ありませんでした。いずれこのご恩は必ずお返しいたします。
退院するとそのままパトカーに乗せられた。なんとその時点で既に被疑者が1名確保済みで、私に至急いわゆる面通しをさせる必要があり、警察側はいらいらしながら私の退院を待っていたらしい。
私が乗り、病院の駐車場を出ると、早速サイレンを鳴らして爆走開始。
サイレン鳴らして走るパトカーに乗るのも初めてだが、何に驚いたといって、その速度。凄まじい速度で国道を北上していくその景色の速さに驚くと同時に、怪我人乗せてるんだからもっと手加減せえ、という感想もあった。言わなかったが。


今はどうかというと、骨折の方は問題なし。鼻骨は少々痛かったが形成外科で施術し形を維持したし、他の骨折は経過を見る以外にやることもない程度のもの。
眉間の傷ははっきりと残ってしまったが、いずれ目立たなくはなるだろう。
顔の目から下、上唇から上にしびれがある。これは顔面の神経からきているもので、やや長い時間が必要らしい。感覚が全く無いというものでもないから、日常生活で困ることもない。
ただ、上あごの腫れからきているのか、物をかむのが痛くて、固いものが食べられない状態が続いている。おかゆやゼリー系の食品ばかり食べている。肉が食いたい……。
会社は休んでいて、22日に病院に行った後、復帰ということになりそうだ。
困っているのは、被害品の大半がまだ発見されていないということ。
たまたま印鑑もバッグに入れていたため、お金に関することが全て宙に浮いている状態なのが困る。

近況報告と一時閉鎖について


人員不足のため異常に忙しく、書く暇がない、というようなことを何度か書いたが、それどころではなくなってきた。
また一人、事務所から人がいなくなる。前回は栄転だったが、今回は退職。
3人ですらあえいでいた業務を、今度は2人で回していかなければならない。
本格的に文章を云々している暇はなくなりそうで、ブログのことは、申し訳ないが構っている時間がまるで無い。
そのため、どうせ開店休業状態のブログでもあるので、一時閉鎖したいと思う。
ごく少数の人が見ていてくれて、その方たちに無駄に心配をおかけしているが、忙しいとは言え何とか生きているのでご安心を。
今のところ「完全なる独身」から脱却する見込みもなく、貧乏サラリーマンから抜け出せる道も見つかっていないが、どうにか一人で生きている。
これからもしばらくは何となく生きて行くのだろう。



しばらくこのまま放置した後、プライベートモードにでもしようかと考えている。

我がささやかなる戦いの記録


キーボード上に青リンゴジュースをぶちまけるという、致命的な事故を起こしてしまった。
これまでもコーヒーの侵略や紅茶の猛攻を耐え忍んできたキーボードだが、今回の事故はそれら小規模事故の比では無かった。
量が多かったということもそうだが、なにより、敵は大量の糖分を含むという凶悪な性質を持っていた。キーボードにとって、これは重大な被害をもたらした。
敵戦力に対し、キーボードの抵抗は緒戦においてしぶといものであった。無抵抗の状態から大量の水分の侵攻を許すという惨状下にありながら、全てのキーが正常に動作するという、奇跡の抵抗を示したのだ。
だが、敵の攻勢は時間を置くことでさらに攻撃力を増すという性質をはらんでいた。敵主戦力は無論水分だが、同等の戦力が内部に潜んでいる。前述の、糖分である。
コーヒーも紅茶もブラック派である点が幸いし、これまでは何とか敵攻勢をしのいでいたキーボードであったが、主戦力たる水分の攻勢が退いた時、残った糖分による第二次攻撃が開始された。
強度の粘性を持つ敵二次戦力の攻勢に、キー達は自由な動きを阻害され、表面においては拭き取り攻撃による完全勝利を得ても、内部構造における敵残存勢力の攻勢には手も脚も出ず、べたつきによるキーレスポンスの著しい障害を呈するに至った。
事ここに至り、司令部は重大な決断を迫られた。
分解清掃は、キーボードの構造上不可能に近い。パンタグラフ型キーボードの構造では、キーの個々を分解しての敵掃討作戦はきわめて困難とせざるを得ない。
司令部は、買い替えという選択肢をも視野に入れ、最終手段に訴えることを決した。
キーボード部分の流水洗浄という、大規模絨毯爆撃である。
精密電子機械に対する流水洗浄など、可耕地に対する毒薬噴霧に匹敵する暴挙であり、米軍によるベトナム戦争における枯葉剤散布をも想起させる言語道断の愚挙と指弾されて然るべきであった。
しかし、ベトナムは米軍の史上稀に見る残虐な攻撃にも耐え抜き、復興してきているではないか。また、原爆投下の憂き目を見た広島・長崎も、数百年は人が住めないとまでいわれた放射能の惨禍を撥ね退け、復興を果たしているではないか。
中古パソコンを扱う人々は、長年の使用で堆積した基盤の埃や汚れを、水洗いで取り除いているとも聞く。要は水分が残った状態で通電したり、電気敵接触が起こる部分に残存不純物がなければ良い話である。
司令部はキーボードを分解し、キーパッド部分を取り外すことで被害を最小限に留めるべく準備を整え、作戦を決行した。
ややぬる目のシャワーで洗浄すること5分。
永遠にも思える時間の中、司令部による流水洗浄という名の絨毯爆撃が丹念に、執拗に、連続的に敵二次戦力に対して加えられた。
流水爆撃の後、司令部はただちに回復作戦に入る。
まずは手による衝撃と振動により可能な限りの水分を飛ばす戦術が実行され、さらにダストブロワーによる不可触部分の離水戦術が採られた。洗浄爆撃以上の執拗さと入念さをもって。
自然乾燥を待っていては不純物が残存する。そのためのブロワーによる攻勢であったが、冬終わりぬとはいえど未だ朝晩の冷えはそれなりに厳しい時期、窓を開け放っての深夜の攻勢に司令部も大きなダメージを受けながら、それでも作戦は断固として遂行された。



結果として、この文章がある。
キーボードは見事な復活を遂げた。
この文章を書いている段階で、不具合は確認されていない。
我が軍は勝利した。
決して褒められた勝利では無い。本来、このような戦いが行わなければならなかった理由などないのだ。全ては司令部の不明から起きた事故が原因であり、この悲劇をくり返さないためにも、司令部には猛省と対策の強化が求められることは論を俟たない。
だが、勝利は勝利として喜び、後世に語り継ぐのも重要なことである。同じ悲劇を受けるであろう、見も知らぬ未来の同志達へのささやかなる教訓として、この戦いの事実がわずかでも役に立てば、我が司令部にとってこれ以上の喜びはない。
戦いはいつも空しいが、だからこそ教訓として活かさねば、犠牲となった魂も浮かばれまい。我々は今日の勝利を明日の戒めとせねばならない。
我々がPC文明の戦士としてあり続ける限り、戦いは已むことを知るまい。我々は戦い続ける宿命にある。であれば、いかなる勝利を収めようとも、明日は敗れ去る運命を背負っているや知れぬ。
勝って兜の緒を締めよ。
戦いは終わってはいないのだから。

お詫び


申し訳ない、人員不足が昂じて休む暇がないんです。
小説書く暇なんてありゃせんので、当分更新はお預けって事で。
2名しか読者が確認されていないので、まあ、被害は最小限にとどめられたとしておこう。
その2名、申し訳ない。

たまの休日に


久々に、ある人のブログを読んだ。
もう放置されて久しく、定期的に巡回しているわけでも無い。今日そこに行きついたのは、単純な理由。ヒッキー的心性に拍車がかかっている昨今の私は、今日も今日とてその本性を出し惜しみもせずPCの前に座り続けていた。そのマウスをあやつる手の赴くままにブックマークを渉猟していて、近頃より付いていないページがあることに気が付き、クリックしただけ。



正直、幸せだった。
管理人が幸せに感じていることを感じるままに書いている記述が多いブログだったからだろう。
涙が出そうになった。
幸せな気分と、失ったものの大きさとの板ばさみに、久しぶりに頭が切り崩されていく感覚を味わった。
毎日のようにそのブログをチェックしていたころ、私は確かに幸せだった。
今の私は、当時の自分のように、自分が幸せであることを口に出来るという状態ではない。不幸だ、という気はないし、別に不幸な境遇でもないのだが、幸せではないだろう。不幸でない、と、幸せ、の間には、けっこう深い川が流れているはずだ。



私が自分の幸せを実感できなくなってからだいぶ経つが、今のところ、また幸せを実感できる日々が来るという見込みは無い。過去に捉われているからでもあるのだろうし、先を見通せない、もしくは自ら将来を作っていかれない愚物であるせいもあるのだろう。
戻ってこない幸せを引きこもりながら待っている自分の姿は、唾棄すべきものなのだろう。でも、そんな自分でしかいられない現実に、私は立ち尽くしてしまっている。

先に謝っておけば許されるというソーリーミュージック思想


正直申し訳無い。
いくらなんでも放置しすぎてしまった。
忙しかったというのはいいわけにしか聞こえないので、書くのもいやなのだが、なにしろ休みが無かった。どの業界でもそうだろうが、人員は増やさず業務は増え続けるという現実がある以上、労基法シカトの労働はやむを得ない。それも給料のうちだ。安いけれども。
年末年始は休めるのだが、実家に帰ってしまうのでネット環境もなければパソコンも無い。ちなみに私のパソコンはデスクトップ。
おかげでこのブログの更新もせっかくの休みだというのに確実に停滞する。年明けしばらくしてからでないと更新は無理。
先に謝っておく。
いやもうほんと、申し訳ないっす。



ソーリーミュージックの語源がわかる方はぜひお友達に。