Thoughts and Notes from CA

アメリカ西海岸の片隅から、所々の雑感、日々のあれこれ、読んだ本の感想を綴るブログ。

『台湾の本音』 美食の裏にある政治的事情

台湾との出会い:居酒屋でのバイト

私は学生の時に中華系居酒屋でバイトをしていた。そこのシェフが作る料理は絶品で、蒸し鶏は口の中でとろけるような柔らかさだし、チャーハンは旨味と香りが口の中で爆発するような衝撃の味で、料理とはかくも奥深いものか、と料理に興味を持つきっかけとなった。シェフは職人気質の無愛想な方だったが、まかないの料理を「旨いっす~(涙)」とかきこむ私を見ては、「そりゃ、旨いさ」とぼそっと呟くようないかにもプロの料理人という雰囲気を醸していた。その方は台湾で料理修行を数年して、日本に戻ってきたとのこと。大学生の私は台湾についての知識は当時あまりなく、その居酒屋の原体験から「台湾=美食の国=いつか行ってみたい国」という等式が形作られた。

日本が学ぶべき国、台湾

料理を除いたとしても台湾は魅力的な国だ。日本と同様に資源の制約の多い島国であるにも関わらず、世界の半導体産業を牽引するという経済的な大成功を収めつつ、コロナウィルス対策ではITを活用した革新的な取り組みで卓越した成果を収めたことも記憶に新しい。が、私の台湾に対する知識はその興味に反して非常に浅いものだった。「中国との兼ね合いで日本やアメリカと国交を結んでいなく、国連にも加入していない」という知識はおぼろげながらあったが、その歴史的背景などは勉強不足で把握をしていなかった。そこで『台湾の本音~“隣国”を基礎から理解する~』を手にとってみた。

『台湾の本音~“隣国”を基礎から理解する~』

筆者は野嶋剛氏。朝日新聞の台北支局長を務め、2016年よりフリーとなって、わかりやすくも造詣が深い台湾・中国論を発信している台湾に専門性の高いジャーナリスト。私のような台湾について勉強不足の人も、特に事前知識なく基本的な内容を抑えることができるようわかりやすい解説がなされ、台湾とその歴史、そして現状と未来への展望が明快に描かれている。台湾の入門書としては解説の面で優れているだけでなく、さらに深く勉強をしたいと思わせるような内容となっている。

台湾の首都はどこか?

さて、ここで私から皆さんにまたまた質問をしたいと思います。
「台湾の首都はどこですか?」
・・・はい。答えは出たでしょうか。正解は「ない」でした。
「え?台北じゃないの?」と言われる方も多いでしょう。残念ながら不正解です。
『台湾の本音~“隣国”を基礎から理解する~』

この質問は、台湾の政治の理解をはかる上で絶好のものだ。
私は筆者の期待を裏切らず「台湾の首都は台北」だとすっかり思い込んでいた。本書を通して、私は下記のことを学んだ。

  • 「中国と台湾は一体である」というのは中国側のみの政治的スタンスではなく、台湾も原則的には「自分たちは中華民国であり、自分たちが中国大陸を統治すべき」というスタンスをとっている。

  • とは言いながらも、現在の台湾の世論の大多数は、中国との統一を望んでおらず、その代わりに、台湾を事実上独立した主権国家として位置づける方向に流れている。

  • が、現実路線として「台湾独立」や「中国との統一」という明確な選択肢を避け、中国との間の微妙な距離を今後も保ち続けるというリアリズムに徹する意向が主流である。

  • 台湾理解には、複雑な政治的背景と、中国の立ち位置も含めたリアリズムをもってみることが大事であり、「台湾の首都はどこか?」という問いに答えるにも基本的な政治理解が求められる。

まとめ

台湾を学び初めて気づくのは、料理の旨さや半導体企業の強さにしても、そこに必然的な歴史的背景があるということだ。台湾の魅力をどの部分から紐解いても、その歴史的な複雑性にゆきつくというのは、歴史を学ぶことの魅力を表している。台湾有事は決して他人事ではないという論調も日本では高まっている。不思議な魅力的な国「台湾」についての理解をもう少し深めたいという方に、『台湾の本音~“隣国”を基礎から理解する~』を強くおすすめしたい。

アメリカ育ちの娘が中学模試を受けたら:娘が直面した受験英語のリアル

娘の中2英語模試の点が70点台だった

大分前の話になるが、私の娘が中学生の頃の話。娘が諸般の事情で日本の中2の模試を娘が受けたところ、英語の点数がまさかの70点台であった。当時娘は米国在住6年目で、英語力は相当のもの。TOEICも950点近く、日本のセンター試験の英語も半分ほど時間を残し190点を獲得するほどであった。その娘が中2の模試で70点台というのは、英文法の細かな知識不足はあったかもしれないが、やっぱり出題内容が悪いというところもあると思う。

 

日本の受動態教育

なお、点数を大きくおとしたのが、能動態の文章を受動態に書きかえなさい、という問題。例えば、

  • He washes this car.

  • She made the room clean.

  • We can see many stars from here.

などの問題が出題されていた。日本で受験勉強をした私は

  • This car is washed by him.

  • The room was made clean by her.

  • Many stars can be seen from here.

と機械的に書きかえることはできる。娘に解答を教え、説明を試みたが「え、、、こんな言い方しないよねぇ」と戸惑いを隠せないようであった。が、日本の受験戦争に勝ち抜くためには、こういうルールのパズルと思って解けるようにならないといけないのだ、と不本意ながら押し切った。

思い返せば、自分が中学生の時、「この車は私によって洗われる」という訳文を見て、「変な言い方だなぁ、でも英語ではこういう風に言うんだぁ」と感じたものだ。大人になって、アメリカに住んでみたら、英語でもこんな言い方はしないということが明らかになった。

 

アメリカ人にも解いてもらった

なお、上記の解答は私が変だと思っているだけで、実はアメリカ人はたまにそういう言い方をするのではないかという微かに覚えた疑念を晴らすために、同僚と友人5名ほどに上記の問題をだしてみた

まず、驚いたのが「このActive(能動態)の文をPassive(受動態)に書きかえられる?」と聞いても、日本の受験英語としては最も基本の型である「He washes this car」すら書きかえられない者すらいたことだ。この問題を間違えた者たちも、英語が苦手なんてことはなく、アメリカの大学や大学院をきちんと卒業している立派なビジネスパーソンである。

「娘3人を育て、宿題などは私が皆みてあげたのよ」という孫もいる同僚はかろうじて1問目と3問目は「It’s awkward though」を連発しながらも、正答にたどり着くことができたが、2問目は「The room was cleaned by her」と書きかえてしまった。今はどうかわからないが、私が潜り抜けた日本の受験戦争では、この解答では点はとれない。

もっとも、2問目を「The room was made clean by her」と答えることができた者は誰もいなく、受動態への変換に文法的に成功した人全員が「The room was cleaned by her」と答えていた。アメリカ人が共通に導き出したこの解答が正解でないとしたら、日本の英語教育が目指しているものは一体何なんだろうか。

 

英語の授業で教えて欲しかったこと

主語を省くことが多い日本語表現は、受動態との相性は良い。なので、私の書く英語も渡米直後は受動態が多かったのだが、上司から「お前の文章は受動態が多くてわかりにくい、最近のMBAでは受動態は使うなと教えられるんだ」と注意されたことがある。
特に、はっきりとした主体と主張が求められるビジネス英語では、婉曲的でわかりにくい受動態を使うことは好まれない

  • 「〜された」人が不明であるとか、敢えて隠す必要があるとき

  • 「~された」人や物に特に重きをおきたいとき

など特定の狙いがある時に受動態は使われるということは上司から指摘を受けて学んだ。能動態と受動態を互換可能なパズルとして教えるのではなく、「どういう表現をしたい時に受動態を使うべきなのか」というようなこともあわせて教えて欲しかった。

 

まとめ

もちろん、日本の英語教育で培った知識が役に立っていないとは思わない。アメリカに住む人でも、移民だと特に流暢に会話をすることはできるけど、書く文章は稚拙という人は沢山いる。私は実践的な英語の勉強を30歳になってから初めたが、受験勉強で培った知識が下支えにはなっていたのは間違えない。ただ、日本の受験英語でしか使い途のないパズルを沢山出題する今の受験英語は、役に立たないだけでなく、「間違えた英語を言ったら恥ずかしい」という意識を受け付けてもいるのではないか。採点のし易い文法問題に流れがちなのは仕方ないし、得点差をつけるためにヘンテコなパズルを作らざるをえない出題者の苦悩もわからなくはない。が、文法はごく基礎的なものにとどめ、もっと読んで、書いて、話す機会を英語を学ぶ子どもたちにあたえてあげるとよいと思うし、「そういう英語教育受けたかったなぁ」と思う。さて、今日も下手な英語で頑張って仕事しよう。

理解と支援が醸す職場の和:ラマダン明けの休みを巡るチームワーク

期初にラマダンがやってきた

4月9日と10日に休みをもらいたいんだけど。ラマダン明けなんで。

私のチームのアフガニスタン人が3月半ばくらいに休みの申請をしてきた。12月決算の私の勤める会社で、4月の頭は第1四半期が終わった直後だ。私の勤めるファイナンスの部署では、期末期初は数字の締めとレポート作成で当然のようにかなり忙しい。
私のチームは、アメリカ本社の社員はリーダーの私も含めて3名(1名レイオフで解雇したので欠員状態)、そしてインドのオフショアセンターに5名体制でやっている。アメリカ本社に勤め、私の隣の席に座るそのアフガニスタン人は、言わば私にとっては水戸黄門の助さん格さん的なポジションだ。最も忙しい期末に2日でも不在になるのは、痛いと言えば痛いが、「ラマダン明け」と言われると仕方ない。彼だって本当はもっと休みをとりたいのに、事情を考慮して2日で我慢しているのだ。なので、

そうか、それは仕方ないね。休み前にできることをなるべくやっておいて、休み中に私がフォローしないといけないことがあれば、共有してね。

と答えた。私はイスラム教徒のチームメンバーを持つことは初めてだったので、ラマダンについて勉強をする良い機会にもなった。勿論通常より負荷はかなり高かったが、お陰でこちらも学びの機会をえたし、私は夏に日本に3週間ほど一時帰国したりするので、お互い様ってやつだ。

 

急に子どもの病気になった同僚Aのはなし

プリスクールから連絡が入って、子どもが熱出したみたい。妻が出張中なんでこれからこどもを迎えにいかないといけない。後でオンラインに戻ってから、この案件フォローをするから。
~子どもが病気になって迎えにいかないといけない同僚A~

オンライン会議で、小さい子供のいる同僚が、病気の子供をピックアップしないといけなくなり、会議を退出するという。「後からオンラインに戻って対応する」、「妻が主張中」という言葉に、みんなが何となくぴくっと反応する。

えっ、奥さんが出張中で、子供が病気なんでしょ。じゃぁ、この件は、私が対応できるからやっておくよ。
~他の同僚B~

殆どの人が言おうとしたことを、ある同僚が口火をきって言った。子どもの迎えは男女を問わずに、仕事を中座せざるをえない日常だ。そして、子どもが小さいほど、怪我をしたり、急に具合が悪くなる、というのは「あるある」だ。その、申し出を聞いた同僚Aは

いやぁ、多分これくらいはできるから、大丈夫だよ。

~子どもが病気になって迎えにいかないといけない同僚A~

といったん固辞する。私はこの彼の気持ちもよくわかる。こどもを寝かしつけて、落ち着けば、できないことはない。そうすると、その場にいた上司がすかさず突っ込む。

ほぅ、君は自分の部下が、同じ状況になっても、彼らに帰って仕事をするように求めるのかい?よくない例を作ってはいけないから、これは同僚Bにやってもらおう。さぁ、早くお子さんを迎えにいきなさい。

~私たちの上司~

こう言われては、同僚も「いや、自分でできるから」とは流石に言えない。

皆、家族の事情で急遽仕事を中断しないといけなくなった経験はあるからこそ、自分ができることはなるべくやりたい、という気持ちが強いし、そういう協力的な雰囲気を作ることにも上司は腐心している。



『男性中心企業の終焉』

先日、『男性中心企業の終焉』という本を読んだ。


女性の社会進出が思った以上に進まない日本の現状について、

  • 企業や政府がどのような「女性の社会進出」の施策をとっているのか

  • その施策の思想、前提条件が、いかに時代に逆行しているのか

  • 結果として、それらの施策がどのように現場に歪みをもたらしているのか

という流れに従って、見事に描ききっている。豊富な具体例、長年の取材メモ、そして著者自身の経験が集約された一冊となっており、「女性の社会進出」に関心のある方には必読の本だろう。

が、『男性中心企業の終焉』というタイトルに反して、そこに描かれているのは、男性中心企業が終焉していく様ではなく、現在の価値観から転換するにはもっと長ーい時間が必要というつらい現実だ。
本書の主要な主張の一つは「企業や政府の施策が、残業を厭わず忠実に働く社員が会社で中心的な役割を果たす現状の中に、如何に女性の居場所を作るかという点にフォーカスしており、その方向性が世界の趨勢から大きくハズレている」という点であり、それはかなり核心をついている。

社員の家族や私生活を大事にする企業文化

冒頭で紹介したようなシーンを日常的に見ている私からすると、企業や政府の施策、並びに本書の主題としてあるべきは、「男性中心企業」を終焉させることではないと思う。ジェンダー論によってしまうと問題解決はもっと遠ざかってしまう気がする。むしろ、「社員の家族や私生活を大事にしない企業」を終焉させるという視点が大事なのではないか。企業の上から下まで文化として「社員の家族や私生活を大事にする」ということが浸透していれば、「育休をいかに取りやすくするか」、「子育て中の人も働きやすいように時短勤務の仕組みを整えるか」などの議論は必要すらなくなると思う。「女性が子育ての中心的な役割を担いつつ、仕事もできるようにする」ではなく、全ての子育て中の社員が家族を大事にしながら、仕事でも活躍できる文化づくりが何よりも大事だ。

 

もちろん、上記の前提として、自分自身がどの企業にとっても輝ける人材である努力を続け、企業から求められる人材であり続けなければならない。アメリカの殆どの州では企業が理由なく従業員を一ヶ月前通知で解雇できるので、家族と私生活の土台が揺らぐ危険性は私にだっていつもある。ただ、企業側は優秀な社員が活躍できる文化や場を築き、社員側も活躍できるように努力を続ける、その関係性は健全であると思うし、私には肌にあっている

 

すこしずつ日本でも多様な価値観と人材を尊重する企業が増えてきている。変わらない企業もあるが、新しい芽や時代の変化に対応する企業がでてきているのは良い傾向だ。こういう企業が主流派となり、多くの人から選ばれる会社になるにはもう少し時間がかかるかもしれない。外の生々しい事例の紹介というのは、その流れを早める一助となるかもしれないので、今後も「あるある」を発信していきたい。

アメリカの地方都市の日本食レストラン事情

アメリカの日本食レストランというのは、大都市と地方都市で2極化している。ニューヨークやロサンゼルスのような大都市は、日本人も多いし、マーケットの規模が大きいので、居酒屋スタイルの日本食レストランで、なかなか美味しいものを食べることができる。アメリカ国内の大都市に旅行に行く楽しみの一つは、日本食を食べることにあったりもする。特にロサンゼルスは、在米日本人からは「東京24区」と呼ばれるほどの充実振りで、レストランの質も数も選択肢が豊富で、ぷち一時帰国気分を味わうことができる。

 

一方で、私が長く住むアメリカの地方都市は事情がかなり異なる。地方都市のアメリカ人の日本食の解像度というのは非常に低い。まず、寿司がなければ「えっ!?日本食レストランなのに、寿司がないってどういうこと?」というようなリアクションが客から返ってくる。ラーメン屋を開業したとて、形だけでも寿司(もちろんカリフォルニアロール的なものだが)がメニューにないと、一定層の顧客を失うことになる。また、ラーメン屋であっても、前菜として枝豆や唐揚げやたこ焼きは、ほぼ必修の科目だ。「寿司、枝豆、たこ焼き」は日本食レストラン三種の神器と言っても過言ではないほど、どこに言ってもおいてある。

 

まぁ、これは「イタリアンにはピザとパスタ」、「インド料理屋はカレー」、「中華料理屋は焼餃子」を日本人が求めるのと同じ感覚なのだろう。アメリカでレストランをやる以上、お客さんの8割はアメリカ人を呼び込まないと地方都市では絶対に成り立たない。なので、鉄板の三種の神器ですら、「スパイシーツナロール」、「ホットチリオイル枝豆」、「揚げたこ焼き」は定番中の定番であり、アメリカでは「日本食レストラン」と言っても日本人がイメージするものとは異なった形態を取っている場合が殆どだ。なので、私は殆ど「日本食レストラン」には行かない。正直、家で自分で作った方がずっと口に合うし、美味しいのだ。

 

先日『ロサンゼルス居酒屋開業日記』という本を読んだ。

アメリカに住んだことがなく、英語も大して話すことができない大阪のおばちゃんが、激戦区ロサンゼルスで日本の居酒屋を開業するまでのドキュメンタリーだ。タイトル通り、ノンフィクションというより、ほぼ日記であり、構成や文章に巧みさは全くない。ただ、その分、あまりに赤裸々で生々しく引き込まれてあっという間に読んでしまった。

 

店舗を探し、改装を施し、機材を購入し、人を採用する過程が描かれているのだが、それぞれのステップで数々の「アメリカあるある」の洗礼を受け、それを乗り越えていく様子が心温まる。湯水のように減っていく自己資金をにらみながら異国の地で奮闘するおばはんの姿に少なからず心を打たれるだけでなく、私は敬意すら覚えた。

 

「国際化」や「多様性」について、学者の書いた小難しい本なんて読んだって本当に理解することなんてできない。本書は、痛みの伴う「国際化」や「多様性」を肌で感じることのできる良書だ。実際に筆者のようにアメリカで飲食店を開業しようとしている勇者に参考になるだけでなく、アメリカにこれから駐在などで住むことになる方々にも強く薦めたい。そういう方が今後ぶつかり、へこむ事案が本書には山のように盛り込まれているので、事前学習としては格好の教材だ。

AI時代に悩ましくなるカスタマーサービス事情

アメリカ生活とカスタマーサービスは切っても切り離せない。とにかく、細かなオペミスの多いアメリカ。何かあるたびにカスタマーサービスに問い合わせをしないといけない。以前、『アメリカでカスタマーサービスとやりとりする際の十箇条』という記事を公開したが、最近AIの進歩に伴い、事態は益々複雑になっている。何が複雑になったのかというと、そう、なかなか人につながらないのだ。

 

空の封筒から始まる不毛な日曜の午後

今日、家にAmazonの封筒が届いた。ひょいっと封筒を持ち上げたところ、かなり軽い。かなり小さめのトングを頼んだので、「こんなもんかな?」と思い、封筒を開ける私。中を見て目が点になる。何も入っていないのだ。
思わず、「おいっ!」と突っ込むも、空の封筒も「私はただ届けられただけですので、私に言われましても、、、」とばかりに所在なげに佇むのみ。家族と改めて確認をしたが、送られてきたのは空の封筒のみ。

これが製品が壊れていたなどの「普通の返品」であれば全く問題はない。返品はよくあることなので、通常通りAmazonのページで返品処理をするのみ。何度も実施と検証を繰り返されたプロセスなので、鉄壁の安定感を誇る。が、こういう「袋だけ届いて製品が入っていなかった」という例外処理は経験的に手こずるのだ。早速、Amazonのページで再送処理を試みるも、やはりそれに類する手続きはない。返品の流れで再送をお願いしようとしても、「送られた品物を返送します。その返送処理が実施されなかった場合は、料金を引き落とすことに同意します」みたいなチェック欄をクリックしないと先に進めない仕様になっており、先に進めない。送り返す物もないのにこんな約束はアメリカ社会ではできない。

 

立ちはだかるAI:人にはつなげません

仕方ないので、嫌な予感を抱えつつ、まずChatでの対応を試みる。今のChatはAIで自動化されているものが多いので、基本的にAmazonのページの返品処理のワークフローに誘導するのみ。何度かチャレンジしたが、案の定、今回のような例外対応をしてくれない。
Chat担当者につながるようなパスを見つけようとするが、どうしてもうまくいかない。「もう、面倒くせーから大した値段じゃないからまた買うか」というアイデアが頭をよぎるが、こういうところで妥協をする人間が損をするのがアメリカ社会。「いかんいかん」と仕方なく、カスタマーサービスへの電話を試みる。

カスタマーサービスにつながるが、勿論立ちはだかるはAIの自動音声。企業側の何としてもコストのかかる人にはつなげないぞ、という鉄の意思を感じる。

Hello, how can I help you today. Please say your issue with few words such as return order, refund.
こんにちは、お問い合わせ頂きありがとうございます。お困りのことを注文の返品、返金のように短い言葉でご説明お願いします。

あぁ、これはWebページやChatのフローと一緒のやつだ、あかんと思いつつ、「Delivered package was empty」のような感じで一縷の望みをかけて説明を試みるも

Sorry, I don't understand your issue. Can you rephrase your issue such as return order, refund.
申し訳ありません、内容を理解できませんでした。お困りの内容を別の言葉でご説明頂けますか。

とまたまたループに入ってしまった。しばらく虚しい押し問答をAI音声と繰り返し、「How can I help you today?」とまた聞かれたので「I want to talk with a customer service associate」みたいに問いかけるも、「O.K. let's specify which order you need my help with」みたいな感じで出だしに戻り、無限ループの沼に突入してゆく。

 

AIとの不毛な議論を断ち切る一手

短い休日の午後にAI音声と同じ不毛な議論を続ける私。相手が人間であればまだ手応えがあるのだが、無機質なAIと押し問答を続けるおっさん、虚しさを通り越して滑稽ですらある
そして、本日4回目くらいの「How can I help you today?」の際に、AI相手に「I need to talk with a customer service associate!!」とキレ気味に怒鳴りつける私。AIに怒鳴ってアホなんじゃないかと自嘲気味にため息をついたら、ついに

O.K. let me connect you with our customer service associates.
かしこまりました、弊社カスタマーサービス担当者におつなげします。

と進展をみせる。この瞬間だけは、サッカーの試合で延長後半0対0の試合で応援しているチームが先制ゴールを決めたような快感が走る。日曜日の午後に不毛なAI音声との戦いを制し、静かにガッツポーズととる私。本当にアホくさいことこの上ない。

AI音声のカスタマーサービスとやりとりした最近の経験から、とにかくことあるごとに「I need to talk with a customer service associate」というのは大事のように思う。「何度かAI音声対応を試みて駄目だったら人に誘導する」というロジックがあるように感じる。最近のAIの進歩を見ると言葉の怒気を判定している可能性もある。なので、ことあるごとに「担当者ださんかい!」とキレ気味に問答するのが良いかもしれない。

 

まとめ:続くであろうイタチごっこ

コスト競争力を高めるために、なるべく少ないカスタマーサービスの要員で対応する、というのは最近のアメリカ企業の至上命題となっているのだろう。コスト削減のために「なるべく人にはつながないぞ」と企業側の並々ならぬ意思をいつも感じる。鉄壁の守りをAIをフル活用して築き上げる企業と知恵をしぼって何とか人と話そうと試みる顧客のイタチごっこは、このAIを時代の世相をよく反映している。このイタチごっごが続いていくことは自明なので、私も対策の磨きをかけていこう。何か独自のテクニックやコツをお持ちの方は是非共有ください。

「もしトラ」:潜入記録で垣間見るアメリカ社会

「もしトラ」
最近、日本のメディアでよく耳にする言葉だ。これは「今年の11月の米国大統領選挙でトランプ前大統領が再当選する」シナリオのことだが、勿論女子高校生の野球部のマネージャーがドラッガーを読むより、はるかに実現する確率は高い。

日本のメディアでは、咆哮する変顔のトランプか、選挙の集会で何とも言えないリズムでダンスするトランプを繰り返し放送するので、
「なんでトランプ???アメリカは一体どうなっているんだ???」
と思っている方もきっと多いだろう。

『「トランプ信者」潜入一年』

「トランプに投票するのはどういう人なんだろう」というイメージが今ひとつわかない方には、横田増生氏の『「トランプ信者」潜入一年』を強く薦めたい。

横田氏はユニクロやアマゾンに潜入し労働現場の実態を描くという現代版鎌田慧(トヨタに潜入取材したルポの『自動車絶望工場』の筆者)を地で行くジャーナリストだ。現場の実態に5センチ位までの至近距離まで迫る臨場感がたまらなく、私は横田氏の本をよく読んでいる。
今回の作品がすごいのは、トランプ陣営のボランティアとして選挙活動をし、アメリカの家庭に戸別訪問して声を集めまくる点だ。横田氏はミシガン州を拠点にボランティア活動をする。アメリカの地方都市では、地域ごとに異なる発音の特徴があるため、地元の人の話す英語はなかなか理解しにくい。おまけに、こちらの話すほのかに日本風味が漂うアクセントは非常に伝わりにくい。「体当たり取材」という言葉があるが、今作は「玉砕必至の特攻取材」と言っても言い過ぎではない。
本書では、アメリカに住んでいる私が「あぁ、いるいる、こういう人」と感じるトランプ支持者の声が、これでもかとばかりに紹介されている。紹介されている人に若干の偏りはあるものの、トランプの勢いや、実際の雰囲気をつかむには本書は丁度良い。

 

選挙はイメージの戦い

本書を読んで改めて思ったのは、現代の選挙は、政策ではなく、イメージの戦いだということだ。そして、票のとれるイメージは、「閉塞感のある政治の世界に風穴をあけてくれそう」という点に尽きる。この点においてトランプは国際化についていけない白人層とキリスト教福音派という彼の支持基盤に対しては鉄壁のイメージを確立している。おまけに、イメージだけでなく大統領在任期間中に下記の行動も見せつけているので無双状態にあると言っても過言ではない。

  • メキシコ国境での壁の建設

  • エルサレムをイスラエルの首都として認定

  • オバマケアの廃止

これらの政策がある層から大きな支持を集めることは、移民に仕事を奪われたことがなく、信仰する宗教は特になく、国民皆保険を支える社会保険料の金額にあまり意識のない日本人にはわかりにくいかもしれない。ただ、端から見たら疑問を感じるような政策でも、日々の生活と日常の平穏を保つ上で死活的に重要と考える人たちがアメリカにはいるのだ。そういう人たちにとってトランプは「閉塞感のある政治の世界に新しい風を吹き込んでくれる存在」とみなされている。個別の政策への私の意見は別として、これらの政策を支持する人たちが多く存在することに、私は違和感をまったく感じない。

 

トランプは小池百合子の凄い版

選挙での言葉は力強く、熱を帯び、人々を興奮させる。芝居がかった所作や過剰な表現。ひどく饒舌で耳障りの良い演説。「敵」を作り出して戦う姿勢を見せながら、他者から共感を引き出していく手法。

https://bunshun.jp/articles/-/66333?page=3

上記の引用はとある雑誌のウェブ記事からの抜粋である。とある政治家について評しているのだが、誰のことかお分かりだろうか。本書を読んだ人であれば、きっと「トランプのことだろう!」と思うに違いない。
  • 熱狂的な支持者の歓声を浴びながら、選挙演説で観衆を虜にし、

  • 嘘か誠かにはこだわらず、耳障りを重視して自らの成果を誇張し、

  • 対立候補を口汚く罵倒しつつ、聴衆の心から興奮を湧き起こす

本書で紹介されているトランプの姿そのもである。だが、答えは、タイトルからネタバレしていると思うが、トランプ前大統領ではなく、小池百合子東京都知事である。

この二人は「閉塞感のある政治の世界に新しい風を付近でくれそう」というイメージ構築に卓越している。もちろん、万人に対してそのイメージを構築しているわけではなく、アンチも非常に互いに多い。ただ、自分を支持する層が自分の発言の真偽よりも、イメージだけで投票することも、自覚している。ポルノ女優に口止め料を払ったかどうかとか、カイロ大学を落第したのに首席で卒業したと嘘をついたとか、そういうことを自分の支持層が微塵も気にしないことをよくわかっているのだ。

メキシコとの国境に壁を建設するも、2階建て列車の導入で満員電車をゼロにするも、私から言わせればどっこいどっこいの愚策だが、イメージ戦略としては十分に効果を発揮した。2階建て列車の方が品位はまだある気がするが、建設に踏み切ったという点ではトランプに軍配があがるか。そういう点で、国のトップにまで登りつめ、いくつかの目玉政策を公約通り実現した点で、トランプ前大統領は小池百合子東京都知事のすごい版とみることもできる。

 

まとめ

本書は、前回の大統領選挙後の米連邦議会襲撃事件をアメリカの民主主義の終わりとし、それは日本でも対岸の火事ではないと警鐘を鳴らしている。でも、私にはアメリカの民主主義が死んだと思えない。自分とは信じるものが全く違う人がいることも、一部の人間が極端な行動に走ったことも、襲撃事件を受けても裁判を通して大統領への再立候補がトランプに認められたことも、そしてそのチャンスを活かしてトランプが共和党の大統領候補となったことも、ひっくるめてみんなアメリカの民主主義なんだと思う。


前回大統領選挙は最後がグダってしまったが、今回は異なる信条を持つ人間同士が、民主的な対話を通じてどのような結論をだし、どういう結末に至るのか、砂かぶり席で興味深く見つめていたいと思う。アメリカ大統領選挙に興味の有る方は、貴重な資料として是非『「トランプ信者」潜入一年』を手にとって頂きたい。

補習校という選択 節目を迎えた子どもたちへ

週末に娘と息子がそれぞれノースカロライナのとある補習校の高等部と中学部を卒業した。アメリカに移り住んだ際のそれぞれの学年は、小2と年中なので、それぞれ10年以上補習校に通った計算となる。

 

補習校は、渡米当初は子どもたちにとって「自分の居場所のある心の拠り所」であったに違いない。言葉が全くわからないアメリカの現地校に、週5日通うというのはとても過酷なことだ。授業の内容は全くわからず、友達もいない現地校と比較し、「日本語で話すことができるクラスメートと自分が参加できる授業」がある補習校は心のオアシスだったに違いない。

 

渡米して2-3年も経てば言葉の壁は徐々になくなってゆく。だが、わが家の子どもたちは、土曜日に補習校に通うという「選択」を続けた。親に連れてこられやむを得なくアメリカに住んでいるが、「いつかは日本に帰りたい」と思っていたことは知っている。補習校に通い続けることは、日本とのつながりを勉学や友達関係など様々な面で維持したいという彼らの気持ちの表れでもあったのだろう。

 

高等部と中学部への進学というのは補習校においては大きなハードルだ。現地校での授業内容や宿題は難しくなり、クラブなどの現地校での活動も増えてくる。長く補習校に通った友人が、一人、また一人と「補習校のない生活」を「選択」する中でも、わが家の子どもたちは補習校に通うことを「選択」し続けた。
もう生活の一部になっていからかもしれないし、同じ船にのって同じ航海を続けるクラスメートがいたからかもしれないし、節目を迎えるまでやり遂げたいという意地かもしれないし、もしかしたらただの惰性かもしれない。きっと理由は一つではないんだろうが、とにかくわが家の子どもたちは補習校に通い続けた。

 

彼らが高3と中3の6月を迎えた時に大きな変化が起こる。私の仕事の関係でノースカロライナからカリフォルニアに引っ越すことになったのだ。引っ越し先にある補習校は規模がそれほど大きくなく、なんと高等部が存在しなかった。娘は引っ越し先で補習校に通うことができず、息子は残り8ヶ月ほどの中学3年生を転校先の新しい補習校で過ごすこととなった。私の都合で引っ越しを余儀なくされた子どもにはとても申し訳なく思う。

 

10年通ったノースカロライナの補習校を転校という形で終わらせてよいのだろうか。これは私にとっては、考える必要もないくらい簡単な問いであった。幸いなことに子どもたちも、ノースカロライナの補習校を卒業したいという強い希望をもっていた。なので、何とか卒業式に参列、そして卒業できる道を探ることとなる。若干無理矢理ではあったが、休学制度を活用しながら卒業式まで、休学費や授業料を支払うことで在籍するという方法を見つけることができた(ご理解、ご協力頂いた校長先生や事務局の方には感謝してもしきれない)。そして、先週半ばから、私は仕事を、子どもは現地校を休み、西海岸から東海岸に移動し、子どもたちは慣れ親しんだノースカロライナの補習校の卒業式に参加し、晴れて卒業をすることができた。

 

補習校は在外教育施設として文部科学省が認可はしているものの、保護者が自主運営している塾に近い教育施設にすぎない。そこでの卒業資格というものが、学歴として残るわけでもなく、卒業証書は言ってしまえばただの紙切れだ。

 

だが、自分の「選択」として通い続けた補習校での日々や経験、そこで出会った仲間というのは彼らにとってかけがえのない財産になったに違いない。そして、最後までやり抜いたという事実が、彼らの人生の大きな糧となることを願ってやまない。

 

「日本に帰りたい!」

私自身の都合でアメリカに連れてきた私に、子どもたちは散々と文句を言ったものだ。だが、

「もう補習校をやめたい!」

と、彼らが私に言ったことは一度たりとてない。
君たちは自分の意思で補習校に通い、そして堂々と節目を迎えたんだ。どうか胸を張って欲しい。

 

週末に、お弁当を作り、そしていつも補習校まで送り迎えをして、支えてくれた親御さんに感謝をしよう

なんてことを言う人もいるが、感謝なんているものか。「君たちが補習校に通えるようにする」ということはお父さん自身の「選択」であり、お父さんがやりたいからやっていたことだ(君たちは十分わかっていると思うが)。

 

われわれは10年続けてきたこの取り組みの大きな節目を無事迎えることができた。自分たちの「選択」と「達成」に、それぞれが自分自身を大いに褒めようじゃないか。自分の心に問いかけ、それに従って最後までやり遂げた自分を祝福しよう。最後に一つ。君たちが誰かに褒められたくて、補習校に通い続けたわけではないことは知っている。それでも、父親として一言くらい言わせて欲しい。それにしてもよく頑張ったね、本当におめでとう。

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