表層における素材操作が生み出す価値

少し前に北関東を旅行したときの記録。
石の美術館(設計:隈研吾




繊細。積んでる石ひとつひとつのスケール感が丁度良い。薄い大理石から透ける光の表現は感動的。
◇ちょっ蔵広場(設計:隈研吾




組積造に孔をあけるというけれど、鉄板が大谷石と並列の表現になっていないので、この操作はちょっと痛々しく見えてしまう。
◇宝積寺駅(設計:隈研吾




やはり駅ってなかなか難しいのかな。この蛍光灯の収まりは嫌いじゃない。
那賀川町馬頭広重美術館(設計:隈研吾




ポリカと鉄骨が見えているのが良い。このルーバーはいわゆる表層の操作でしかないのだけれど、その内部構造を見せていることが、昨今の超高層ビルの低層部に見られる表層的な石貼りとは異なる価値を生み出している。
最後に、おまけでさざえ堂とその名句。

形態操作

久しぶりにアイディアコンペに取り組みました。実務をやっているとなかなか建築の根源的なところについて時間をかけて思考することが少ない(実は結構まずい状態だと思うのだけれど・・・)ので、定期的に頭の中をぐちゃぐちゃに掻き回すためにも貴重な機会となりました。また、追ってここでも提案について紹介したいと思います。
最近見つけた気になる建築。
http://www.designboom.com/weblog/cat/9/view/5059/big-inaba-mad-mass-studies-urban-plan-proposal-for-ansan-city-south-korea.html
動画もあります。
http://www.youtube.com/watch?v=kex8knCKZ2M&feature=player_embedded
MADの百合の花のような建築は、もはや内部の構成は理解不能ファイナルファンタジーにでも出てきそう。この手のボキャブラリーは残念ながら持ち合わせていません。それにしてもこの手の形態操作が、テーマパーク性以上の公的な意味合いを持ち得るのか、個人的には少々疑問に思うのですが、どうなんでしょうか。

見ないふり

『闇の子供達 -値札のついた命-』(阪本順治:監督 2008)のDVDを観ました。梁石日の同名の小説を映画化したもの。タイを舞台にした幼児売春と臓器売買がテーマの話です。あくまでフィクション(特に臓器売買の話は大味すぎる。ちなみに映画公開当時はノンフィクション映画と宣伝されていたけれど・・・)であるので、ストーリーはやや緩慢。けれど、幼児売春のシーンは相当生々しいし、なにより最後の江口洋介演じる新聞記者が自殺するシーンは、日本人の高みの見物を逆説的に痛烈に批判している。そこには、この映画を観て「かわいそう!」とか憤ってる人間に対する批判が込められている。これはかなり観ている者としては後味が悪い。最近サラッした映画しか観ていなかったけれど、久しぶりに心に引っかかるモノに出会ったので一言残しておきます。

空隙の可能性

気付けば1ヶ月以上文章を書いていませんでした。まとまって文章を書く時間がほとんどなかったのと、愛用のPowerbookが逝ってしまって写真の整理などがまったく出来なくなっていたのが理由、という言い訳。
とりあえず1ヶ月ほど前に、以前ここでも紹介したWM+associates(http://d.hatena.ne.jp/wm_associates/)のproject-bbオープンハウスに行ってきたので、その感想を少々。


厚切りのハンペンが浮いたような住宅。当日はあいにくの雨、と思っていたけれど、むしろ雨の日に見れてよかったかもしれない。雨にけぶる建築のシルエットがなんとも愛くるしい。


内部空間は以前にも紹介したように、ロの字型の空間が中に浮いている。この、中庭と呼ぶのかヴォイドと呼ぶのかよくわからない中心の空間のスケール感がとても良い。中庭と呼ぶには小さいしヴォイドと呼ぶには大きいこの空間を通して住宅の反対側の一辺の様子を見ることが出来るのと同時に、光や風、雨や音、住宅地の雰囲気などが漏れ伝わってくる。そういう意味では、「空隙」という言葉がこの空間には相応しいのかもしれない。和室に座っていると、空と地面しか見えないのに、この空隙を通して様々な要素が目の前を通り過ぎていく。綿密な断熱計画により寒い日にもほんのり中が暖かくなっていることも合わさって、そこには一種の詩的な空間がつくられる。しかも、それは住宅を外部から閉じることによって生まれる過度な詩性ではなく、中央の空隙を通して伝わってくる様々な情報から生まれる外部世界への期待感から生まれてくる詩性である。(そしてその期待感は3階の塔屋さらには屋上に出て、周囲の街並みや遠く盆地の山並みを眺めたときに一つの完結したストーリーが出来上がる。)この詩性が、クライアントである夫婦にとって適切なスケールにまとめられていることが、この住宅で最も好感を持てたところ。

この住宅は、2人の設計者、1人の構造設計者、1人の設備設計者がほぼ同時並行で設計を進めている。スタディの過程を何度か見てきたので、この設計プロセスが持つ可能性にはとても興味がある。たとえば、このマニアックな通気層の取り方などは、このプロセスの賜物の一つだろう。しかし、project-bbがはたしてこの設計プロセスが持つ可能性を十分に生かしきれていたか、正直のところよくわからない。これは批判をしているのではなく、僕もこのプロセスが持つ可能性を十分には理解しきれずにいるから、わからないというのは本音である。けれども、例えばdot architectsの設計プロセスが示しているような意外性を、今回のプロセスが獲得出来ていたかどうかはもう少し熟考する余地があるかもしれない。

ともあれ、最初にも述べたように雨の日にこの住宅を見ることが出来て良かったと思います。今はやや異様にも見えるこの白いハンペンが、年月をかけてウェザリングにより少しずつより深みを持った表情に変わっていく様子が想像できて、少し暖かい気持ちになりました。

字引的書物

旅行中に読んだ『1995年以後 次世代建築家の語る現代の都市と建築』(藤村龍至/TEAM ROUNDABOUT:編著 エクスナレッジ 2009)の感想を、少し時間があいてしまったけれど書いておきたいと思います。

■全体の印象
この本の最大の特徴は、すでに多くの人がいろいろなところで書いているけれど、32組もの若手建築家・研究者のインタビューが掲載されていることと言える。それらを出生年という物差しに則ってパラレルに並べられているので、読者はこの本のどこからスタートしてもいいし、いつ前のページに戻ってもいい。その自由な選択性が最大の利点である。しかし一方で、32組もの多くのインタビューが掲載されているため、ひとつひとつのインタビューの多くがなんとなく尻切れとんぼに終わってしまっているのが残念。議論が上辺だけを撫で続けて終わってしまっているものもいくつか散見された。さらに気になったのは、多くのインタビュイーが東浩紀らの言説をそのまま引用していること。たしかに彼らの言葉は的確でありキャッチーであると思うし、僕自身東浩紀大塚英志の読み物は好きだけれど、建築家という職業のクリエイターとしての立場から考えると、はたして彼らの言説をこうも鵜呑みに引用していいものなのかという疑問が残る。
ここでは掲載された32組のインタビューの中から、印象に残ったもの3組に絞って、簡単に感想を述べておきます。

■田中浩也/TANAKA Hiroya
個人的に最も深い議論がされていたもののひとつであるとともに、最も共感するポイントが多かった。特に「創作の主題と社会の問題解決の違い」の項では、建築家の唱える都市論とその建築家の実践、つまり建築作品との間に以前から感じていた乖離を端的に指摘している。そもそもアトリエ系(特に中小規模のアトリエ)建築家の中で都市論と自らの創作との間に生じるスケールの乖離について明確に説明できている人はいないのはないだろうか。話はずれるが、田中さんの「アルゴルズム的に世界を観察して感受するということと、それをかたちに展開するというフェーズは全然別のことで、短絡的にかたちにするいう感性が結構に台無しにしていると思うんです」という主張には激しく同意。

■勝矢武之/KATSUYA Takeyuki
組織設計事務所の立場から述べられた資本主義との関わり方についての議論は興味深い。特に資本主義に対する建築家の「乗るか/降りるか」というスタンスの選択についての話は非常に的を得ているように思える。けれども果たして「降りる」というスタンスを選択することがマスターベーション以上の建築家としての立場を見いだすことができるのかは僕としては疑問に思う。前にもこのブログで書いたが「建築家が目指している建築」と「資本主義が目指している建築」は全く乖離してしまっているものではなく、それぞれの敷地への投影の位相が異なっているだけだと僕は思うし、その投影段階での建築家と資本主義のせめぎ合いにその建築家としてのスタンスを問われているのではないだろうか。ちなみに勝矢さんの話は非常に明解なのだが、東浩紀語録があまりに多様されているところはどうしても気になってしまう。

中村拓志/NAKAMURA Hiroshi
資本主義・商業主義との関わり方が最もうまいと思われる建築家の一人が中村さんである。「商業主義の流れのなかで建築をつくっていく時に、それに負けちゃうのでもなく、否定するのでもなく、柔道や合気道みたいに、相手の力を上手く利用して面白いものを作りたいと思います」と本人が言っているように、彼のつくる建築は強引な論理を導入することなく、クライアントの要求つまりは資本主義・商業主義に回答している。一方で、資本主義・商業主義をコンセプトレベルにまで昇華させていることで、出来上がった建築は建築家としてつくりたい形態が実現されている。つまり建築家とクライアント双方にとって幸せな関係がそこには出来上がっているのである。中村拓志という建築家のスタイルは、建築の完成形に現れるのではなく、その設計プロセスに現れるのだ。これはこの情報化社会の中での設計スタイルとして注目すべきじゃないかと思う。

結界

今回はシザ三部作。

ポルト大学建築学部棟(設計:アルヴァロ・シザ)

白い、と思って見てみたら、予想以上に壁が汚い。そして、思ったよりもこじんまりとした印象。



コルビュジェモダニズム建築の継承者らしくスロープを多用した内部空間。しかし、どうもせせこましい印象が拭えない。あまりディテールにこだわりが見られないので、余計にそんな印象を受けるのだろうか。

中庭の芝生はきれい。空の「青」と芝生の「緑」と建物の「白」、と言いたいところだけれど、やっぱり壁が汚い。残念すぎる。

ポルト現代美術館(設計:アルヴァロ・シザ)

こちらは「青」「緑」「白」の構成が出来ている。


空がきれいだ。ポルト大学のときもそうだったが、直前まで雨が降っていたのにシザの建築に近づくときれいに晴れる。これぞ「シザの結界」。

やっぱりシザは白くなくっちゃ・・・。

◇ボア・ノヴァ・レストラン(設計:アルヴァロ・シザ)

シザの処女作。



海沿いに建てられた小さなレストラン。中から大荒れの大西洋を眺める。スケール感が良い。コルビュジェのカプ・マルタンで感じたものと同種の心地よさに包まれる。

(おまけ)

ポルトの町並み。右端に写っているのは、エッフェルの弟子であるテオフィロ・セイリング設計のドン・ルイス一世橋。かっこいい。