無題

最近、醜悪なものをよく目にする。


最近とある建物の立替が設計事務所数社でのコンペになった。もともととある事務所が匿名で仕事を
受けていた会社だったのだが、私が小さな仕事を突破口に2年近く営業し、コンペの参加者に入れて
もらえた仕事だった。当然、この建物の立替のために、自分なりに試行錯誤した仕事だった。


でも、自分は担当には指名されなかった。自分のところに話が来る前に、他の部署の上役が自分の
ところでするために持っていってしまったのだ。残念ではあるけれど、それは仕方のないところだ。
大組織に飼われている今の自分にはそんな権力はないのだから。
でも、醜悪なのはそこからだった。


担当は自分より若い若者だ。多少は気にかけて、かつてアドバイスらしきこともしてみた若者である。
まあ、自分は助言役をして、若者に頑張ってもらおうと思った。(かなり珍しい大人の心境である。)


でも、プロジェクトは一向に進まなかった。やむをえない部分はある。若手は忙しいのだ。今の仕事
だけでも手一杯なのに、新しくコンペが入ったのだ。でも、忙しいのはこちらも同じだ。
こちらは少し先行して始まったドバイの仕事のおかげで、ここ数年で一番のピンチでほとんど2日に
一回しか寝ていなかったのだ。
まあ、事情も人それぞれだ。体力も人それぞれだ。能力も人それぞれだ。それも責められまい。


ある日彼が疲れた顔をして言った。「このプロジェクトは会社として重要視してませんから。」と。
多少ひっかかるものを感じつつ、「まあ、事務所が重要視してないってことは、自分が自由にやれる
ってことだから」などと、元気付けてみる。こちらも無い時間を割いてアドバイスもいろいろと出してみた。


ドバイに旅立つ前日の夜、あまりにも進んでいない外観デザインのスタディを見て、危ないと思い、
簡単なCGを作って、デザインの取っ掛かりになりそうなポイントについて説明した。
3案くらい可能性を提示し、後は本人に任せて、家に戻り、荷物をまとめてドバイに旅立った。


戻ってくると、こちらも提出3日前だった。もう変更はきかない。そして、案は何も変わっていなかった。
「これでいくのかい。」と聞いてみると、「時間が無くて、つめきれなかったですね。」と彼は言った。
「つめるって、そもそも何もやってないだろう。」私は怒りを押し殺して言い、その場を立ち去った。


結局できたスキームはただの紙くずだった。当然、勝てるはずもなかった。


彼とて別にやる気がないわけではないのだ。そして、できないことも仕方が無いのだ。
建築のデザインは社会と関わっている。だから、やる気だけではできないし、
能力があっても、うまくいかないことだってある。


問題なのは、できないことではない。問題なのは、できないことを何かのせいにして、自分に嘘をつくことだ。
デザインにゴールは無い。それはつまるところ常に自分たちとの戦いなのだから。
ゴールまでの距離は自分が決めるのだ。
自分に言い訳をし、自分をごまかして生きている人間が、デザインを最後までやりとおせるはずがない。
もちろん、人間はいつも強くあれるわけではない。くよくよしては生きられないし、何かをやり過ごすためには、
時には自分をごまかすことだって必要なのかもしれない。理想だけでは生きられないのかもしれない。


でも、自分に嘘をつくことを繰り返し、それに慣れてしまえば、そこでデザイナーとしての自分は折れてしまうのだ。
慣れることは恐ろしい。それは自分が自分をごまかしていることをいつしか忘れさせてしまうからだ。
そうして、したり顔でもっともらしいことしか言わない大人が生産されていくのだ。


自分よりも若い人間が、早くもそんな道を歩み始めているのを見て、久々に陰鬱な気分になった。

中東の砂漠/

    

2007年の12月の中旬、中東のドバイの砂漠に立っていた。人生で初の砂漠体験である。中東の砂漠の砂は、よく写真で見るようなサハラの砂漠の砂とは違っていて、少し赤茶色をしていた。それは海岸の砂よりも随分と細かく、風が吹く度に眼前で音もなく崩れ落ち、その姿を変えていった。


そもそも砂というのはそもそも厳密には特定の物質の概念ではない。それは岩石の破片の集合体であり、直径は2mm〜1/16mmまでのものをさす。岩石と粘土の中間を砂と呼ぶのだ。そして、砂とは岩石の破砕物中、流体によってもっとも移動させられやすい岩石の粒子のことを指すのだ。


これは阿部公房の「砂の女」からの抜粋したものだ。ドバイの砂漠を眺めながら、ふと、この小説のことを思い出していた。「砂の女」は砂漠に捕らえられ、そこからの逃亡を試み、失敗して再び捕らえられ、いつしかそれを受け入れる男の物語だった。つまるところ「砂の女」での砂漠は逃亡が可能なのもの、つまり縁(エッジ)を持つあくまで有限なものだった。だが、ここに広がる風景はそれとは異なっている。まさに世界の果てまでが砂なのだ。


砂漠を体で感じるため、気球による砂漠のツアーに参加してみた。ここにある写真は全て気球から撮ったものだ。地上300mから見下ろす砂漠は地平線のかなたまで果てしなく広がっている。その全てが、風が吹くたびに崩れ、波うち、その姿を少しずつ変えていくのだ。


全てが流れ、移ろい、崩れ去っていく。そしてその全てがやがて砂に飲み込まれていく。そこでは人間は必然的に自らの無力さと有限性を自覚せざるを得ない。そしてそこで築かれる人の営みは、まさしく砂上の楼閣のごとくはかないものでしかありえない。ユダヤ教キリスト教イスラム教、いわゆる父性宗教的な一神教が全てこの砂漠の地から生まれたことはなかなか興味深い。全てを風化させ、飲み込んでいくような砂漠にあって自然崇拝/アニミズムはありえない。そこでは神は自らのうちにしか宿りえないのである。


圧倒的なまでに広がる砂漠を前に、頭では分かっていたつもりのそうした現実を体全体で学んだ気がした。得がたい体験であった。

現代の祭

東京にはその地域の人しか知らないような小さな祭りがたくさん存在している。
圧倒的に都市化され、地方からの流入者(私もその一人)が増大したこの街では、もはや土地に根ざしたコミュニティなどどこにも存在しないように見える。にもかかわらず、この街には多くの祭りがある。それはとても不思議なことであると同時に、とても貴重なことだと思う。

祭りの瞬間、日常が破砕され、都市は祝祭の空間に変貌する。だが、その力は、都市の全てに及ぶわけではない。他の街か来た車が通る大通りでは、神輿は信号を守らざるを得ない。赤信号を前に、セイヤセイヤと叫びながら、足踏みをするのだ。そうして、交通規制をしつつも車が通り過ぎていく車道を、神輿を担いだ一団が時速5km(推定)で進んでいくのである。それはたまたま通りがかった祭りに関係のない通行人からすれば、とても不思議な光景だ。彼ら通行人の日常は続いており、それは脇で行われている祭りによって破られることはない。彼らはただ、呆然とそれを眺めているだけだ。

かつて、祭とは慣習に縛られた地域コミュニティが日常の中で溜まっていく鬱屈やしこりを定期的に吹き飛ばすための無礼講の場、祝祭(カーニバル)の場であった。その瞬間だけは、日常の法が無効化され、禁忌(タブー)が撤廃され、一時的なカオスがコミュニティを包み込むのである。そうしたカーニバルが日常生活に収まりきらない人間の過剰な部分を消尽するからこそ、日常世界が崩壊せずに維持されていたのである。(類似したテーマはマトリックス3部作にもあった。)

これに対し、現代の祭は街の一部を変貌させるけれど、そのシステムを無効化して、全てを包み込むことはできない。でも、そのことがむしろ、現代の都市ならではの祭のあり方であるようにも思う。祭のカオスはもはや都市を覆すことができない。そして、祭の参加者は、すぐ側で日常的な生活が行われていることを知っていながら、祭に没頭しようとする。何所かで覚めた意識を持ちつつも、それにあえてのめり込むのだ。社会学者の宮台真司なら、「アイロニカルな没入」と呼ぶであろう事態がそこにはある。おそらく資本主義とともに巨大化したこの社会は、もはや祭といった発散の場がなくても継続していくのだろう。でも、何もないよりはいい。消費されることを目的に日々メディアによって配布される様々なスペクタクルよりも、自分達の汗と怒号にまみれるのほうが多分いい。終わりなき日常を、情報を消費しながらまったりと生き続けるよりは、そうした日常の破れ目が見える場に立ち会える方がずっといいはずだ。


そんなどうでもいいことを考えながら、とりあえず、地元(?)の祭で神輿を担いでみた。とにかく、肩が痛い。

コンスタンティン・ブランクーシ 無機物と生命との出会い

パリのポンピドゥ・センターの分館であるアトリエ・ブランクーシを訪れたことがある。建築家レンゾ・ピアノ設計の抽象的な空間の中に、20世紀の彫刻家ブランクーシの抽象的な形態の彫刻と、彼の再現されたアトリエが展示されている。ブランクーシはシンプルで抽象的な形態を特徴とする彫刻家である。(イサム・ノグチも一時彼のアトリエに身を寄せていたことがある。)だが、彼の作品にはその抽象的でシンプルな形態にもかかわらず、不思議と生命の力を感じさせる作品が多い。鋸、槌、彫刻刀などの数多くのリアルな工具が数多く並べられた彼のアトリエを見ると、彼の重量を感じさせない抽象的な形態が、飽くなき物質との格闘の果てに取り出されたものであるという事実を再認識させられる。

さて、ブランクーシの作品の遍歴を見ていると、具象的な作品が、抽象的な丸みを獲得していく過程を確認することができる。だが、そのことはむしろブランクーシの曲線を帯びた形態が、まさに生命の生み出す曲線であることを意味しているのだろう。一般的には有機物は具象的で、無機物は抽象的だと考えられがちではなかろうか。だが、抽象と幾何学は異なるものだ。幾何学的な直線が本質的に静的なものであるのに対し、抽象的な曲線は動的な純粋な力の波動を表現しうる。だが、そうした抽象性は有機体の中に力の流れとして潜在することはあってもそれが形態として顕在化(実体化)することはない。生命の持つ力の流れを無機物の中に見出すこと、それがブランクーシの形態の本質ではないだろうか。彫刻家の飽くなき「もの」との戦い、無機物との戦いによって達成された「無機物と生命との出会い」によって、ブランクーシの作品は他に類を見ない流体的な抽象形態を獲得したのである。

(最近あまりに忙しいので、昔の旅行でのメモをアップ...)

オープニングセレモニー

今日は内装を手がけた銀行のオープンの日。

不動産会社のオフィスビルを設計したところ、入居する銀行から内装の依頼を請け、設計の機会に恵まれた。
仕事の営業、受注から、設計、プレゼンテーション、コスト調整、現場監理までを自分で担当した仕事である。

所得格差の拡大や外資系銀行の進出など、銀行を巡る状況は変わりつつあり、新しいタイプの店舗が少しずつ現れつつある。今回手掛けた支店も、都心部にあることもから、法人や富裕層を顧客の中心に据えていて、案内のためのコンシェルジュを配置するなど、様々な点で新しいタイプの店となった。

様々な部署からの要求が銀行内でまとまらず、なかなか骨の折れる仕事で、残念ながら出来栄えとしては100%とはいえないものの、銀行の部長クラスと店舗のあり方について議論を交わす機会など、様々な経験に恵まれた仕事であったと思う。また、企業のブランドやCI(コーポラティブ・アイデンティティ)をいかに空間で表現していくかについても随分と思案をめぐらせた仕事であった。ただの普通の支店としてスタートした店舗が、コンセプトや使い方についての議論を経て、ガラス張りのショールームへと変わっていった経緯は、個人的にも非常によい経験となった。







アップした写真はオープニングセレモニーのテープカットのもの。銀行の頭取などに混じって、芸能人の由美かおるさんが招待されていた。失礼ながら、この方についてまったく知らず、周りにえらく馬鹿にされた。どうも建築の勉強の前に、社会勉強が必要なようである。

アルベルト・ジャコメッティ 「ある」ことを捉えること

アルベルト・ジャコメッティ(1901-1966)の回顧展を兵庫県立美術館で見る機会があった。
ジャコメッティは細長い人体のブロンズ像で有名な彫刻家・画家である。シュールレアリズムから出発したジャコメッティは、具象的な人体像へと転向して以降、ただひたすら「見る」ことと向き合い続け、圧倒的な作品を作り上げてきた。

具体的なものからはじめる芸術家にとって、「見る」ことと「作る」ことの間、「見えるもの」と「作るもの」との間には、深い隔たりがある。多くの芸術家は「作るもの」が「見えるもの」と似ているように技巧を凝らして作品を作り、その隔たりを埋めようとする。だが、見え方や視覚的な効果を考えながら作品を作るとき、「作る」ことは「見える」ことに奉仕しているのではないか。いわば、作品はそう見えるように作られているのだ。それは絵画という表現、彫刻という表現でしかない。
             
だが、ジャコメッティのアプローチはそれとは異なっている。彼は自らが見えるものを見える通りに作る。そこでは、見ることと作ることの隔たりは、意図的に埋められることはない。真摯に見えることが作ることへとつなげられていく。ジャコメッティ肖像画において、人物の顔の上にはたくさんの線が錯綜している。だが、そこには輪郭線にあたる線は存在しない。なぜなら、輪郭線とは実際にはない線、絵画の見え方を考えて人工的に引かれた線でしかないからだ。ジャコメッティは白いキャンバスに線を刻み込み、空白を充填し、人間の顔を浮かび上がらせる。あるいは、針金に石膏を肉付けし、人体のヴォリュームを創出する。それは、表現ではない。絵画という存在、彫刻という存在であるのだ。では、ジャコメッティは何を見て、何を作ったのだろうか。

ジャコメッティの人体の絵画は常に正面から描かれている。絵画の焦点は人物の顔におかれ、手や服といった部分に注意が払われることはない。モデルはほとんどの場合、画家に正対して、ただ座っているだけだ。そこには一切の動きの兆候は存在していない。彫刻においてもそれは同様だ。細長い人体像にしろ、晩年の胸像にしろ、それらはただ「ある」だけであり、そこには一切の動きは存在しない。そのため見る側からしても、その絵画や彫刻はもはや特定のコンテクストやシーンに重ねられて理解されることはない。たとえば、「怒り」というタイトルで体をくねらせる彫刻があれば、我々はそれを怒りの表現だとして、作品に自分の認識を重ね、納得するだろう。だが、ジャコメッティの作品には、そのように認識を固定できる動きや表情といった、手がかりが存在しない。ジャコメッティは人間の一瞬の動きや様態を捉えるのではなく、ただ人間がそこに「ある」ことを捉えている。また、人間にはある輪郭があるように思えるが、瞬間瞬間の人間は常に異なっており、人間の像とはある時間の連続の中で、見出されているものに過ぎない。ジャコメッティは特定の瞬間の輪郭をなぞるのではなく、そこにあり続けるものを作り出す。

言い換えれば、ジャコメッティの作品には時間軸がない。作品はただそこに永遠としてある。瞬間ではなく、存在を捉えることで、ジャコメッティの作品は人間という持続する存在が持つであろう、潜在的なものを明らかにするのである。

中島哲也 『嫌われ松子の一生』  現代におけるリアルさとは

少し前に中島哲也監督の『嫌われ松子の一生』を見た。
映像、編集に全く隙のない、そして映画という形式を限界まで使い切った渾身の力作である。

この映画はラース・フォン・トリアーの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』同様、多くのミュージカルシーンが挿入されている。この作品に、小説という形式の原作があるため、ミュージカル仕立てという形式を採用することで、映画という形式ならではの表現が目指されている。

中谷美紀演じる松子は社会に流され、転落していく。救いようのない現実にもかかわらず、松子は夢を見ることを止めない。陰惨なストーリーがテンポのよい進行とミュージカルシーンによって、重さを感じさせない映画として仕上がっている。しかし、このミュージカルのシーンが『ダンサー・イン・ザ・ダーク』での扱いとずいぶんと異なっているようだ。

ダンサー・イン・ザ・ダーク』におけるミュージカルのシーンは主人公セルマの夢である。息子のために、結果的に罪に問われるセルマは、悲惨な現実の中で自らの夢に浸る。そこでは厳然たる夢と現実の二項対立が維持され、物語はセルマの夢とリアルな現実との間を往復しながら進行していく。そしてその対比が、物語の悲哀をより際立たせることになる。楽しいシーンがあるがゆえに悲しい、そんな映画なのである。

だが、『嫌われ松子の一生』では、リアルなドラマシーンがそのままサイケな色彩のミュージカルシーンへとなだれ込んでいく。そこにはリアルとヴァーチャルの境目が存在しない。なにが現実で何が空想なのか、そこにはそもそもそうした区別が存在していないのだ。

また、陰惨なストーリーと明るいミュージカルの映像が一つの作品に同居していることが、一つの作品としての一体性をもたらしていないことも付け加えておきべきだろう。それは悲しい映画であり、そして楽しい映画でもありえているのだ。

そこでは、ストーリーとイメージが乖離している。でも、それは意図的なものだ。一つのストーリーの中で単線的な表現しかできない小説と異なり、映画というものがイメージの連鎖によって多重の表現が可能であることに自覚的なのだ。そして同時に、映画は所詮映画でしかない。つまり映画は確実な現実ではなく、ただの表現でしかない。そしてだからこそ映画という表現には可能性がある。この映画は全編を通じそんな問題意識に貫かれている。

そして、いささか深読みすれば、中島監督が社会とすれ違い続ける松子をこのような形式で描いたことは、より深い意味を持っているようにも思われる。現代は価値観が多様化した時代である。そして価値観が異なれば、世界の見え方も異なってくる。世界が我々の認識の上に立つ以上、そのことはもはや万人にとって間違いのない確たる現実など存在しないことを意味しているのだ。つまり、我々はリアルな表現がもはや唯一のリアルではありえない時代を生きている。この映画はそんな現実のもとに作られているのである。

2001年、あのツインタワーに突っ込んでいく飛行機を見たとき、我々にはあれが映画の一シーンであるように感じられた。我々は、もはや確実なリアルなど存在しない時代、ヴァーチャルとリアルが混在する情報時代を生きているのかもしれない。