ブログ移転


長く休止状態でしたが、今回新しくブログを作り、そちらで続きをやることにしました。
アドレスは下記↓
http://kuboakinori.typepad.jp/doctors_left_eye/

新しいブログはよりオフィシャルな色彩の強いものになる予定です。
本ブログは、アーカイブとして主に活用する他、
まだ明確でないアイディアや身辺雑記に近いものを書くことになるかと思います。

Alfred Gell『Art and Agecy』読解7(発展的論考)


これまでの『Art and Agecy』読解をもとにして総括的に文章を書き、研究会で発表を行いましたので、リンクを貼っておきます。1〜6まではほぼ読書ノートですが、この文章はGellの議論をどのように理解し発展させることができるかという点から、特にパース由来の概念についてのGell独自の展開に焦点をあてて書いたものです。
実際に発表したものではなく改訂版のため、ここからの引用はご遠慮下さい。

http://www007.upp.so-net.ne.jp/qvo/ronbun/2008KuboAboutArtAndAgency.pdf

世界に対して文句があるんなら子供なんて作るな


再び村上春樹。前とは違う側面から若干の考察。


羊をめぐる冒険(上)P253]
(友人と二人で経営していた小さな翻訳会社をやめ、
 冒険を開始しようとする「僕」と、
 彼を会社に留めたいアル中気味の友人との電話での会話)

・・・
「僕は君とは違うんだ」と彼は言った。「君は一人でやっていける。でも俺はそうじゃないんだよ。誰かにぐちを言ったり、相談したりしていないと前に進めないんだ」僕は受話器を押さえてため息をついた。堂々めぐりだ。黒山羊(クロヤギ)が白山羊(シロヤギ)の手紙を食べて、白山羊が黒山羊の手紙を食べて……
「もしもし」と彼は言った。
「聞いてるよ」と僕は言った。
 電話の向こうで二人の子供がテレビのチャンネルをめぐって言い争っている声が聞こえた。
「子供のことを考えろよ」と僕は言ってみた。フェアな展開ではないが、それ以外に手はなかった。「弱音を吐いてなんていられないだろう。君が駄目だと思ったら、それでもうみんなおしまいなんだぜ。世界に対して文句があるんなら子供なんて作るな。きちんと仕事して、酒なんか飲むな」
彼は長いあいだ黙っていた。
・・・


「世界に対して文句があるんなら子供なんて作るな」


村上の初期作全体から見ると、この一言(もちろんそう言う「僕」は「世界に対して文句がある」から「子供なんて」作らない。より正確には、論理的に作れない)の含意は重い。


子供を作るということは、一般に自然な行為とされる。それは生物としての人間にとって自然であるだけでなく、社会的存在としての人間にとっても自然な行為であるとみなされる。


子供として生まれ親に愛されて大人になり、
自ら親となって子供を生み愛し育てる。
それが人間にとって最も自然であり幸福なことである。
この前提が、我々が内面化する物語化された自分、
すなわち「人生」と呼ばれるストーリーの構成方法の多くを規定している。


しかし、「自然」なるものはそのように予定調和なものではない。
子供を生み育てることも確かに生物学的な「自然」の一つの相だが、
時に畸形児が産まれ、時に子供を産めず、時に死産が起こり、時に愛する人とは別の人間の子が産まれてしまうこともまた極めて「自然」な現象だ。


「子供を産み育てることを美化するな」とか
「産めない人のことも考えろ」とか言いたいわけではない。


なによりも、我々が自らの歴史に始点と終点を設定し、
資質と目標を設定し、そのあらゆる経路に意味づけをしたところで、
その全てを無化してしまう「我々は突然なんの意味もなく死ぬ」という
事実こそが最も「自然」なことである。


我々は自らと世界を常に豊満に意味づけながら生きている。
それらの意味は、試行錯誤を繰り返して人間が作り上げてきた技術や経済や社会や政治や文化のシステムの中で可能となり構築されている。


しかし同時に、我々の足元は常に、無意味で無遠慮で無軌道で非人道的で断固として創造的な「自然」なるものに支えられ侵食されている。


二つの事実は決定的に矛盾し続けるが、
それを隠蔽する最も有力な方法の一つが「子供を作る」ことを中心とする
生の連続性の神話である。それは「世界に対して文句を言わない」ために我々が編み出した物語に他ならない(社会が宗教を基盤とする地域や出生率が極めて低かった時代においては事情が異なるが今は省略する)。


*だから、「もし私達が本当はマトリックス(システムの作った仮想現実)の中で夢を見ているだけだとしたらどうする?」などと言うこと(実際に小賢しげに微笑しながらそう話しかけてきた人がいた)は馬鹿げている。常に/すでに私達はマトリックスの夢の中で生きているのだし、そうでなければ生きられないのだから。


「誰だっていつか死ぬ」ということが問題なのではない。
我々が行う多くの意味づけの基底に、
自分(あるいは自分の子供、あるいは人類全体)が生き続けるという
端的に間違った前提が挿入されざるをえないことが問題なのだ。


しかし、「人間」と「自然」のどちらかが本当か
と問うことに意味はない。
両者はどちらも本当で、そしてどこまでも矛盾している*1


我々は完全に矛盾しており、だから完全に救われることなどあり得ない。
このシンプルな事実から出発すること、
このシンプルな事実からしか出発しないこと。
このシンプルな事実から出発して、可能な限り誠実に世界に対して文句を言うこと。
この点において、
村上春樹は徹底して決定的な覚悟をもって書いている。


何でこんなことを書いているかというと、
このシンプルな事実を前提にしてしか考えないということが、
小学生から20代前半までは当たり前だったのに、
最近の自分は結構忘れていることに気づかされたからだ。


文学だろうが学問だろうが、
「可能な限り誠実に世界に対して文句を言う」ために必要なのは、このシンプルで決定的な覚悟だということ。それを忘れちゃだめじゃないか自分、と思ったので(かなり恥ずかしいけれども)忘れる前に書いておくことにしました。


[注]
あ、ちなみに「俺は子供を作る気はない」っていう革命家志願者みたいなことを言ってるわけではないです。それはそれで嘘っぱちだと思うので。また、丁寧に読んでいただければ分かると思いますが、「子供を作ってるようなやつには大した事が言える(できる)わけがない」などと言いたいのでもありません。ここで考えてみた問題は、実際に子供を作るかどうかとは無関係です。

*1:ちなみに、私にとっての「文化」という概念は、いつでも「自然と文化」というレヴィ=ストロース流の二項対立に位置づけられることで意味を持つものであり、特に個人的には、ここで言う人間と自然の完全なる矛盾というテーマの中で把握されうるものでもある。したがって、私が「文化」という概念を使用するときには、「日本文化」や「メラネシア」文化といった個別の(一つの地域=一つの人間集団=一つの世界観的な)文化という設定が妥当かどうかといった近年の人類学における「文化」概念の弱体化に関わる問題には少なくとも直接の関わりはない

最も私的なものは最も普遍的なものでもあるということについて


ここ1週間ばかり、
漠然とした必要に駆られて村上春樹を再読している。


毎日寝る前に2時間ほど、デビュー作から順番に。


村上の小説、特にその初期において顕著な特徴に、
登場する人物の多くが固有名をもたないことがある。


例えば「高校時代レコードを借りた女の子」(風の歌を聴け
例えば「双子の女の子」(1973年のピンボール
例えば「離婚した妻」「耳を持つ女の子」(羊をめぐる冒険


いずれの人物に対しても、主人公である「僕」にとってどのような関係にあるのかを説明する言葉がそのまま名前として使用されている。
この仕掛けによって、極端にプライヴェートな雰囲気が物語に与えられる。描かれる世界の全てが、「僕」との関係によって覆い尽くされているからだ。


しかし同時に、そのプライヴェートさはあまりに極端でもある。
例えば、誰もが「友達」という言葉で自分の友達を呼ぶことができるが、そう呼ばれている人間はそれぞれ異なる。
固有名ではこうはいかない。
誰もが「久保明教」という名前で私を呼ぶことができるが、
そう呼ばれている人間は一人しかいない(ことが前提になっている)。
「友達」や「離婚した妻」といった関係名称は、
それが表す対象は人それぞれであるという点で私的なものでしかないが、
誰もがそれらの言葉によって私的な人物を表すことができる点で普遍的でもある。


もっとも私的なものが最も普遍的なものへと変換されるということ(あるいはその逆)。それによって、物語が読者個人の経験にダイレクトに接続されるように感じられるということ。


この働きが、人物名だけでなく村上の小説全体に利いているように思われる。そして、だからこそ村上春樹がここ数十年で獲得した一般性は、80年代以降の若者的な感情や風俗を上手に描いたといったありていな言葉によっては説明できない。彼の生み出した言葉の仕組みは、私的なものをより私的でない方向にむけて表現する上での基盤となるシステムとして現在の我々を規定しているようにも思える。ただし、それほどの影響力を村上という作家個人が発揮したというわけではない。むしろ現在の表現を規定するシステムを最も明確に輪郭づけ活用した作家であるという方が正確だろうか。(こんなことを考えるのも、このシステムにはそろそろ限界がくるはずだし、なんとかして違うシステムを作らなければやっていけないように感じるからだ。正確ではないかもしれないが、直感的にそう思う。)


ただし、私的なものから普遍的なものへの変換作用を把握する上では、関係名称でも固有名詞でもない名をもつ登場人物が物語のキーとなる役割を果たしていることを併せて考える必要があるだろう。


例えば「鼠」。例えば「羊男」。


また、これらの言葉を名として持つものが多くの場合は男性で、
関係名称で呼ばれるものの多くが女性であるという点は無視できない(ただし中期からはこの傾向は薄れる)


とはいえ、村上春樹論を書きたいわけではないのでこの辺でやめておく。
まだまだうまく説明できていないし、
何を問題にしているのかも明確ではないし、
どうにも理屈としては不備の多すぎることを言っている気もするが、
忘れる前に書いておくことにした。

認知言語学の勉強会をはじめます

タイトル通り、
認知言語学に関する文献を読む勉強会を始めることにしました。


関西圏在住で参加したいという方がもしいらっしゃいましたら、
下記のアドレスにメールを下さい([at]は@に変換して下さい)。


qvoak[at]kd6.so-net.ne.jp


現在決まっている参加者は、
言語学、生態心理学、フランス哲学、分析哲学、人類学を
それぞれ専攻している主に博士後期過程以降の研究者です。


僕の(人類学としての)狙いとしては、Latour、strathern、gellなど近年の人類学他で提唱されてきた人間と非人間を横断する分析手法に対して理論的な基礎づけないし応用的な発展の道を探ることですが、より広範にはソシュール流の形相主義とは異なる質料主義的な記号論=文化(および技術)研究の可能性を明確化することです。分かりやすく言ってしまうと、構造言語学と人類学その他の人文・社会科学の間にかつて生じた相互作用を、認知言語学を介して再び生み出せるかどうか、その可能性を探るのが狙いです。


概説的な本から始めて、代表的な論者の議論を個別に見ていく予定です。認知言語学の特徴としては以下の記述が大雑把ではありますが参考になるかと。

認知言語学構造主義言語学は、言語形式には他からの影響を受けることなく現実の事物の意味があるという考えを否定する点で意見が一致している。認知主義者と構造主義者の双方にとって、意味は文脈に依存する。しかし構造主義者にとっての文脈依存とは、言語体系内における記号間の統合的、系列的な関係のことである。つまり、意味を定義する文脈は言語内部の問題である。[…]一方、認知主義者にしてみれば、意味が定義づけられる文脈は言語体系の外部にある。意味とは知識や信念の型に埋めこまれた認知構造である(J.R. Taylor 1996『認知言語学のための14章』)


ちなみに、それなりに準備が整ったので、このブログは近いうちに封鎖して新しくもうちょっとパブリックな方向のサイトを作るつもりです。名の通り、備忘録としては残すつもりではあります。

メモ(構成的規則とタブー)


浜本の議論とサールの議論の違いは↓


サール:「YするにはXせねばならない」→「Xすることをもって、Yすることとする」
浜本:「Xしてはならない」→「XすることはYすることである」


以前のエントリーからの抜粋。

浜本はサールの構成的規則論を援用しつつ、分析を進める。通常の規則(規制的規則)はある行為を対象としてそれに規制を加えるものであり、行為は規制に先行して存在する。例えば、「道路の右側を走行してはならない」という規制があろうとなかろうと道路の右側を走行することはできる。規制とは独立に規制される対象を特定することは不可能である。例えば「結婚するに際しては婚姻届を提出せねばならない」という規則においては、この規則そのものが結婚するという行為を定義している。この時「YするにはXせねばならない」という規則の表現は、容易に「Xすることをもって、Yすることとする」という別の表現に置き換わる。夫は水甕を動かしてはならないという規則も、「妻を引き抜く」という行為を定義しているのが当の禁止規則であるという点で構成的規則である。婚姻届を出すこと(X)をもって結婚すること(Y)とされるように、水甕を動かす(X)ことをもって妻を引き抜くこと(Y)とされるのである[参照→浜本2001:117]。

以前書いたボツ論文からの抜粋 このポイントについてはいずれきちんと展開したい。

サールは通常の規則を統制的規則(regulative rule)と呼び、それとは異なる規則の有様を指すものとして構成的規則(constructive rule)という概念を提示した。統制的規則が、その規則とは独立に存在している行為を統制するのに対して、構成的規則は成立の如何そのものがその規則に論理的に依存している行為を構成し、または規制する(Searle, 1969=1986:58)。例えば、車は道路の右側を走行してはならないという規則は統制的規則である。何故なら、この規則において、それが規制する「道路の右側を車で走行する」という行為はこの規則が存在するか否かとは無関係に特定できるからである。一方、「チェックメイトがなされるのは、キングがどこに動いても攻撃を免れないような仕方で攻撃されたときである」というチェスをめぐる規則は構成的規則である。何故ならこの場合、「チェックメイト」という行為自体がこの規則によって定義されているからである。つまり、統制的規則が、「Xせよ」あるいは「YならばXをせよ」という形式をとるのに対して、構成的規則は、「XをYとみなす」という形式をとるのである(Searle, 前掲書:58)。

構成的規則を主に行為の定義という側面から捉えるサールに対して、浜本は定義であると同時に規制でもあるというその両義に注目する。つまり、構成的規則においては、「『YするにはXせねばならない』あるいは『Yしないためには、Xしてはならない』という規則の表現は、容易に『XすることをもってYすることとする』という別の表現に言い換えられる」(浜本,2001,117頁)。浜本の論じる構成的規則は、規制と定義の両方を伴っている点で、後者を主とするサールの構成的規則論とは異なる。しかし、サールの提示している例においても、浜本の主張は有効である。つまり、「チェックメイトがなされるのは、キングがどこに動いても攻撃を免れないような仕方で攻撃されたときである」という規則の表現は、「チェックメイトするためには、キングがどこに動いても攻撃を免れないような仕方で攻撃しなければならない」という規則の表現に置き換えられる。
 浜本はこの置き換えによって、サールの構成的規則論にはない主張をそこから引き出してくる。つまり、構成的規則が規制と定義の両方を伴って成立している場合、何故その規制に従うべきなのかの根拠が問えなくなるのである。「どうしてYするためにXしなければならないのか」あるいは「どうしてYしないためにXしてはならないのか」という問いには、「なぜならXすることがYすることだからだ」という答えが返ってくる。例えば、「どうして結婚するためには婚姻届を出さなければならないのか」という問いには、「なぜなら婚姻届を出すことが結婚することだからだ」という答えが返ってくるのである。つまり、構成的規則として把握できる様々な実践においては、「当の実践が自分自身を自らの存在の根拠として持ち出してくる」という構図が見て取れるのである(浜本,2001,117頁)*浜本2001=『秩序の方法』。

以前から関連があるような気がしていた文章をようやく先日確認できたのでメモしておく。しかし関連あるのかなぁ?
↓ジョルジュ・アガンベン『残りの時 パウロ講義』p164〜166から抜粋

トゥルベツコイにおける欠如的対置という概念は、二つの項のうちの一方はある一つのマークの存在によって特徴づけられ、他方はその欠如によって特徴づけられるといったような対置関係を定義したものである。ここで前提となっているのは、マークされていない項はマークされた項にたいして、現在しないもの(無)が現在するものにたいするように単純に対置されるのではなくて、現在しないものはなんらかの仕方において現在するものの零度に相当するということ(すなわち、現在するものはその不在において「欠如している」ということ)である。このことはトゥルベツコイによれば、対置関係が中立化されるときには――ここでトゥルベツコイは止揚(Aufhebung)という語を用いているが、これは偶然のことではないのであって、その語はヘーゲルの『論理学』においては、まさに対立物の統一を意味しているのである――、マークされた項は価値を失い、マークされていない項がもっぱら価値あるものとして残って、元音素、すなわち二つの項に共通する識別特徴の総体を代表したものとしての役割を引き受ける、その事実において明らかにされるという。すなわち、止揚においては、マークされていない項は――記号の欠如の記号であるかぎりで――、元音素、シニフィアン・ゼロとして妥当し、対置関係は取り去られると同時に差異の零度として保存されるのである

1957年、レヴィ=ストロースは、これらの概念をシニフィエにたいするシニフィアンの構造的過剰の理論として展開した。この理論によれば、意味作用とは本来それを詰め込むことのできるシニフィエ群に対して過剰なものであり、ここから、それ自体においては意味をもたず、その唯一の機能はシニフィアンシニフィエの格差を表現することであるような、自由なシニフィアンあるいは浮遊するシニフィアンの存在が要請されることとなる。それは非記号、あるいは無為(désoeuvrement)の状態にある記号なのであって、「零象徴価として、たんに代補的な象徴内容の必要性を表現しているにすぎない」(Levy-Strauss, L)のであり、なんらかの個別的なシニフィエを随伴することのないまま、意味作用の不在に抗するのである。

微々たる思いつき

きょう、電車に乗って→梅田→心斎橋まで出た。
考えてみれば随分とひさしぶりだ。
駅で横断歩道で、色んな人が通り過ぎた*1
皆どこかしら張り詰めているように見える。
緊張か、期待か、それとも、期待が裏切られることへの不安か。


そんなことを考えていると、
「都市が人を惹きつけるのはそこに何かがあるからではない、そこに何かがあるはずだからだ」
と、どこかで誰かが言っていたようなことを思いつく。
多分どこかで誰かが言っていると思う。
よくある話だし、おそらくそれほど面白くはない。


とはいえ、自分で歩いて、見て、ボーっとしつつ何か思いつくってのは大事だとも思う。
ま、だから頭でっかち厳禁。

*1:今日一日だけでおそらく数百の顔を見ている。あらためて考えると、けっこう気持ち悪い。